Pontormo 文学のすべてがターゲット!書く=・232221201918171615141312111098754321



書評屋姉妹店店長・未卯

           
森羅万象
書く人のための文芸事情

書評屋姉妹店 第5回 「学生の小説―世界をきれいに見たい―」

 今回遅れに遅れてしまったことに気付く人はいるのかなあと若干様子を窺う感じでこんばんは。ハーゲンダッツの美味しさに感動しつつ、台風に怯えながらの第五回です。真夏だからと夏風邪をひと夏に二回もひいたり実家に帰ってのんびりしたり仕事に追われていたらもうこんなに時間が経ってしまいました。人間って怖い。今年の夏は東京のお祭りやら花火大会やらに色々参加しました。特に隅田川の花火大会で実感したことなのですが、東京には「いかやき」、ないのですね。他の地方だったらあるのでしょうか。いかの姿焼きではなく、お好み焼きのいかバージョン。大阪の屋台では普通にどこでもあったのに、東京に来ていきなりどこに行ってもないものですから、大阪にいたときはいかやきなんて屋台で滅多に食べなかったのに、思わず探し回ってしまいましたよるららん。きっと今週の高円寺の阿波踊りでもいかやきはないのだなあと悔しがりつつ、学生の時分には知らないことが多かったんだなあと再確認。ということで、今回は学生さんを扱うことに決めました。我ながらこのくだりけっこう上手い。もちろん、今までも学生さんは数多く扱わせていただいたのですが、今回私が注目したいのは中高生、そう、大学生のように私服通学もなく(私服校があることは存じていますが一般的な中高生は制服、の概念で話を進めます)飲み会もなく、生徒手帳があり校則があり宿題があり受験があり……。学生という守られた空間、でも学生にとっては限られた空間。自分たちを常に見張るものがあり追い立てるものがあり、そういった一種独特の空間の中には、やはり創作に影響を与えるものがあるのではないかと、私には思えて仕方ないのです。というわけで今回のテーマはこれ。「学生の小説―世界をきれいに見たい―」。
 今回のテーマの発端と言えば大げさに聞こえるかもしれませんが、彼女の作品を見た瞬間、この作品を扱いたいと思ってしまいました。しっかりとまとまった文体、平仮名と漢字のバランス、一文読んだだけでその人の世界に変わる。今回の一作品目は香坂理衣さんの『永世慕情』です。第55回中高生1000字小説バトルのチャンピオン作品にも選ばれましたが、この結果には思わず首を縦に振りたくなってしまいます。彼女をチャンピオンたらしめた最も大きい要因は、やはり彼女独特の文体ではないかと思うのです。
 この作品、簡単に言ってしまえば主人公がバス停で番傘を持った関西出身の中年女性(幽霊かもしれない)と出会い、会話を交わすというものです。主人公が関西弁を「日常的に最もよく聞く方言」と言っていることから、主人公の身内に関西出身の人間がいるのでしょうか(最も、関西弁というものは総ての方言の中でトップを争うくらいよく耳にするものでしょうが)。話を最後まで読むと、この女性は母親に関連があるのでは、といった推測も出来ます。若い主人公と中年女性の間で無理のない会話内容、量が作中で展開されているので、会話にぎこちなさがなく安心して読めます。また、間に挟まれた文章も中年女性をより鮮明にさせる効果を充分に持ち、彼女の輪郭が読み進めるごとに固まっていくように思われます。更に主人公の訝しげな視線が少しずつ緩和されている様子が見事に描かれており、最後に彼女=母親なのではと思わせ、読者にとって少しの疑問が残ったまま物語は幕を閉じる。非常にきれいにまとまった彼女の文章ですが、やはり私だけでなくほとんどの方が、流れるような彼女の文体に注目したのではないでしょうか。私個人としては、出だしの部分を今回に当たりまして何回か音読させていただきましたが、非常にスムーズに読みやすく、音がきれいな印象を持ちます。彼女の持つ、この長所はどこからくるのでしょう。才能、と言ってしまえばそれで終わりなのかもしれません。しかし、私には彼女の文体が、彼女の生活の何らかの関わりがあるのではないかと思われて仕方が無いのです。
 プロフィールを拝見させていただきましたが、現在高校一年生ということで、あらあら綺麗な文章を目指されていましたか。どうりで! まあ彼女のプロフィールからも分かるように、今回テーマにさせていただいている「学生」です。しかも高校一年生なんて、学生の中の学生のような年齢だなあなんて個人的に思ってしまったのですが、私には学生というプロフィールが彼女の創作形態に大きく関わっているのではないかと思われてしまうのです。
 私も去年まで学生でしたが、社会人になってみて初めて、学生の時には知りようもなかった社会の現実や自分自身の短所など、色々なことに気付くという経験をしました。もちろん、学生から社会人へのステップだけでなく中学生から高校生になったとき、価値観がぐっと広がったり考え方が変わったりする経験をお持ちの方もいると思います。しかし、やはり学生という立場は周囲の人間に「世間」という厳しさから守られているなあと私は思います。大学生なら税金や選挙権獲得など、目を背けてばかりいられない現実が多々あるかもしれませんが、小中高の間というのは、世界の汚い部分を見る機会が比較的少ないと実体験からも思います。けれども、だからと言って汚い部分をひとつも見なくて成人できるわけではありません。個人差もありますが、学校という組織の中で世間の厭な面を見ることもあるでしょうし、人間関係というものは学生でもハードなものでしょう。そういった厭なものを見ても、まだ逃げられるのが学生です。いじめなど、ものによっては逃げられないものもあると思います。しかし、大人の社会を学生の時分で垣間見たところで、今すぐ突入するものでもない、まだ大学がある、まだ親元に居れる、まだ未成年だから、と逃げることが出来る場合も多いはずです。そういった環境の中で日々直面する厭なことを胸に、私もこう思いました。「世界のきれいな面を見たい」――。
 私自身まだ若いですが、若ければ厭な部分を見ても「こんな面だけじゃない、もっといいところだってある」と期待することが出来ます。信じようとすることも出来ます。そういった願望が世界のきれいな部分を想像させ、憧れとなり、創作にも影響したのではないか、と私は推測します。また、彼女が女性ということもあり、男性より美しいものに対する憧れもあるでしょう。そのような、作者のきれいなものに対する憧れや好印象がきれいなものを描こう、見よう、という心理へ繋がり文体や作風にも現れたのではないでしょうか。きれいな日本語、きれいな情景、きれいな女性……彼女の小説に登場するあらゆるきれいなものも、また他の学生に憧れを抱かせ、きれいなものを見たいという欲求が生じる原因になってゆくのかもしれません。
 香坂さんは文体や情景など小説全体できれいなものを表現しましたが、シーンだけできれいなものを表現した作品があります。相川拓也君の『古傷』です。現在第六回学生テーマ付き1000字小説バトルで参戦中の作品ですが、兵士だった主人公と従軍慰安婦として亡くなったと推測される朝鮮人女性との対話を描いたものです。話の内容から、どうも二人は戦時中に肉体関係を持ったことがあるようです。もちろん、従軍慰安婦と日本人兵士として。八月というのは終戦記念日もあり、戦争経験者としては忘れられない記憶が蘇る月なのでしょう。主人公も例外なく戦時中のことを思い出し、また終戦間際に起こった彼女との出来事をも思い出したのかもしれません。いるはずのない彼女が、振り向いた先に立っている。謝罪の言葉は次第に過去への後悔へと変わっていきます。俯いた顔を上げると女はもういなくなっており、妻の仏壇の写真を見つめるところでシーンは切り取られています。彼の作品は幾つか読ませてもらっているのですが、共通してきれいな部分は会話です。どの作品を見ても、主人公とその相手の会話には沈黙や落ち着いた空気が流れ、静かな会話が多いです。総ての作品を読んだわけではないので決め付けることも出来ないのですが、私はそういう印象を持ちました。私なら、自分を無理やり強姦した男を目の前にしたら、いくら幽霊といえども絶対に殴りかかって大声で泣き叫び急所に蹴りを入れるかもしれません。なので私はきっと同じ状況の作品を書いたら彼のように女を黙らせたりはしないと思います。殴りかかり、泣き叫び、怒鳴りつける女を描くでしょう。しかし、今回はそうではありませんでした。六十年の歳月というものは確かに人の怒りを和らげるかもしれません。それでも、このゆるやかな雰囲気。確実に彼の人間性を反映しているとしか私には思えないのです。
 彼の描く会話がきれいなのは、彼自身が大変穏やかな性格で怒ったり騒いだりしないせいなのかもしれません。もちろん、そういった部分が多少なりともあるであろうことは私も思います。しかしそれだけでなく、やはりここにも学生共通の「理想」というものが影響されているのではないでしょうか。当然のことながら、彼は実際にこういう状況になったことはないでしょう。戦争という題材を取り除いても、強姦した女性と数十年ぶりに再会する、なんて状況は彼の年齢だけを考慮に入れてもまずありえません。なので、今回の作品を書くにあたり、多かれ少なかれ想像と理想が作品構成の一部分を占めているでしょう。また、失礼な話かもしれませんが、彼の年齢から考えて多くの女性とドラマチックな経験を積んでいるとも考え難いです。(失礼のないように補足しておきますが、年齢から考えて、ですよ。)よって、作中の女性にも作者の想像と理想が影響されているはずです。想像と理想を汚い方面に向かわせる人もいるのかもしれませんが、彼はきれいなものの方面に向かったようです。会話だけでなく、終盤で主人公がゆっくりと仏壇へ視線を向けて頭を垂れるという仕草は美しいものです。会話、仕草、情景など、作中のシーンが終始きれいなまま保たれている。彼自身がきれいなものを好む傾向にあるという可能性もありますが、やはりそれだけでなく事物に対する理想または想像――それを美しく在らせたいという願望が、彼の小説に美しさを彩らせたのではないかと私は推測します。
 長くなってしまいましたが、人間というものは幾つになっても美しいものを求めるという性質を多かれ少なかれ持っているものなのかもしれません。それが学生の時に顕著に現れているのなら、とても幸福なことだと思います。若いうちにきれいなものへの憧れを持っているからこそ、大人になって汚いものを見ても、希望を捨てずに生きていられるのでしょうから。

05/8/28/MEW



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