びゅーん 投稿者:魚。・。・ 7月19日(水) 17:58 削除
未来を生きている 何も考えずに両足を早々と動かし 旅の途中に流れ星を何度も見た それは誰かの悲しみが流れていっただと自分に言い聞かせた 明日を何度も運ぶ朝と夜はあまりにも儚くあまりにも純粋で私はそれに魅せられてこの大地の上に立っている 髭面の男が言った なにも怖いものがないという事は何も感じないってことでそれはすごくかないし事なんだよ 昼休みに飲んだミルクコーヒーの味と大人になって飲むミルクコーヒーの味はどこかが違っていて 嘘がうまくなり悲しいと素直に言えない自分がいて 夢を見ない眠りが続いて 嵐は風を呼び 雨は光を殺した 情熱の毎日が燃え尽きて バイオリンやチェロが鳴り響くことも 島歌さえも聞こえない どこにいるのか今ではわからない友達が幾人もいて 笑っているのか泣いているのかさえも私は知らずただ走り続けていると信じている さくらんぼが実る頃鳥達は羽をたたんで誰かの帰りを待つという 雨の日も山が燃えても 世界が暗闇に包み込まれたとしても いつの日か誰かを許して いつの日か誰かにサヨナラとつぶやいて そして消えいく呼吸の先で待っている飽和への入り口を手探りでさがしている少女を思い出して 泣いて泣いて ただ愛を探していた そうただ愛を探していた 此処からは泳ぐこともできず 飛ぶこともできずにいる魚 それが私の名前だと知ったのは雨の日に君が笑う顔を見たから かれた言葉は花を咲かさないまま どこか真っ白な世界へ放り投げられてしまう 窓をあけて夕焼けが綺麗だったから そっと手の平をのばして招きいれた 愛の歌 手の平の赤い道をなぞっていた 空の青さに感動していた いつまでも見ていた いつまでも見ていた 心の痛みが揺れて 雲の隙間を睨んだ 愛の歌は聞こえないまま 夜の扉は閉じたまま 体の奥から欲望が噴出して 偽って誰かに抱かれて泣いても どこへいっても世界はただ回っているだけ 空は形を変えるけれど青をやめずにどこかで誰かを見ていて 神様にお願いする少女の言葉は誰に聞こえているのだろうか? 捨てられた猫の行く先を誰が知っているんだろうか? 首筋を掻き毟ってもクラシックを嫌いになれないのと誰かのそばから翼を借りて飛べない事とは似ていて 好きなものばかり食べていても 一年たてばそれさえ忘れる人もいたりして 支配者達は笑っていて 猫達は体を寄せ合って悲しみを慰めあってる いつの日か猫達が一体化して巨大化したらきっとマイケルジャクソンがそれを買い取って あきたらどこかの博物館で展示されるんだ 勝手に名前なんか付けられて イメージだけで説明文を書かれて ただの猫なのに ただの猫なのに 幸福論と幸福論がせめぎあって 誰かが誰かを愛して誰かはそれを知って傷ついてそれを誰かが慰めて恋をして暖かい毛布に一晩中包まれて愛を語り合って煙草の煙に巻かれて朝が来て時間が止まればいいのにと抱きしめるんだ 切なさが積もって好きな歌を聴いてる 誰もが愛をただ愛を探してる そして真実を愛してる 無限の世界へ 速さに乗って 手を伸ばして 足で空中へ びゅーん
『白線』―2006年7月19日 投稿者:やまなか たつや 7月19日(水) 01:15 削除
乱反射する街の灯り 数々のライトが日没後の路上にあふれる 横断歩道の手前で僕は立ち止まり 気色悪いイルミネーションから目を反らす 昨日君が教えてくれた 白線を踏まず 道を渡る不自然な歩き方 ジンクスなど当てにしないが 真似してみた 乱気流みたく浮き沈み いくつもの身内の問題やら人間関係 勝ち組になる直前 君は立ちすくみ 素通りしてきた自身の過去に目を留める その日君は堪え切れずに 薄情な親や 君を捨てたかつての友思い出し 何もかも信用出来ずに 自分責めた 鏡に映る部屋の明かり 薄暗く狭いアパートの一室で 昨夜僕は 到底探れそうもない君の胸のうち 思って やりきれなくなってる男を見た あの日君が見せてくれた 二本の白線 右手首の傷や過去の苦しみより 今の君の笑顔が重い そして怖い チョコレートパフェ頬張りながら どうでもいいこと言って笑い転げる いつもの君 知り尽くせなくてもいい 分かり合えるのなら それでもなお君を知り 共に悩みたい 一度限り見せてくれた 手首の白線 ナイフより怖い 張りのある笑い声 素顔を見たい あの日君が見せてくれた 苦悩の痕跡 目に焼きつけたまま 忘れることはない そして僕は あの日君が見せてくれた 部分も含めて 君のすべてを受け止めて 愛したい そのすべてを ありのまま
庭―魔術師 投稿者:村方祐治 5月18日(木) 22:42 削除
成層圏、そして大気圏を抜け。 季節の束縛から放たれ。 漆黒の中に球体がひとつ、浮かぶのが見える。 (その他、幾億の点描が施された空間の中に) 夢幻の氷柱が走る―彗星の尻尾。 未知に向けられる、望遠鏡のレンズの影が・・・ 既知に向けられる、人工衛星の電波の波が・・・ 包み込む。我、知覚の深淵に。 舞う炎 堕ちる炎 その一瞬も暗黒の糧となりて。 謎を強調する文字の象徴 のリレー。 ゲノムを乗せた探査機や毀れた隕石らの、 孤独な滑走。 ヒユオオオオォン シシン 外界はどこまでも 私達の内側に 私達の内側に 飽和水溶液となりて 微光を発す。
アリス 投稿者:shino 4月26日(水) 19:58 削除
「君の命くれない」 赤い目をした兎が目をくるくると小刻みに動かした。 「君の命くれない」 無表情に白い毛皮で鼻先だけを動かし、存在感でいえば、二足歩行のよくできた人形というのが第一印象だった。 「なぜ、私の命が欲しいの」 生真面目に答えていけない鏡の世界で、私の頭は妙にさめざめとしていた。まるで、脳にまで酸素がいくのが乏しく貧血状態で思考力が低下していた。 「君の小さな呼吸や心臓がぼくを生かすからだよ」 変てこな違和感だらけの兎だと思いながら、私はあいまいに目線をそらせた。風が冷たいせいかもしれない。 「私の呼吸や心臓がないと貴方は生きられないの?」 「いいや。上手くいえないけれど、君の呼吸や心臓がないと生きた心地がしないんだ……生きた心地がしないのは死んでいることと、同じじゃない?」 私は小首をかしげた。兎が本当に死んでしまうなら、私の命をささげても、何かの代替だから仕方がないとあきらめみたいなものが、もしかしたらつくかも知れないけれど、私が死んで生きた心地がするために殺されるならとても普遍的で納得がいかない。 「私の存在は、死ぬことによって、貴方に生きた心地をあたえても、私の肉体はもう戻らない。呼吸も心臓も消えてしまうのよ」 「それでもいいよ。君が好き? だから、もしかしたらこれも運命だったとあきらめがつくかもしれないよ」 「それはおかしいわ。まるで理屈が氾濫して貴方の中の意見だもの。好き? な気持ちは、私を介してのものだと思うのに、私の存在が消えてしまって、それで好き? かも知れない、というのは貴方の自己満足だと思うの」 「好きだったらそうかもしれない。けれど、好き? だったらありえるかも知れないよ」 「だけど、心臓は腐るし、呼吸も一瞬で消えるわ」 兎は、私の首筋に手をもっていく。 「けれど、ぼくは楽しいかも知れない。殺すことは誰よりも尊く、誰よりも強く、人はそれを狂気と呼ぶかも知れないけれど、人の頂点に立てた気がしない?」 兎の目が光の加減で七色に輝いた。 「いいえ。違うわ。貴方は寂しいだけよ。誰からも愛されていない、という認識が……誰からも避けられ、世間から自分だけが取り残されることよりも、両親が貴方に見向きもしないから、愛という認識の欠如が支配してるだけ。誰も強い人なんていないわ。思いこむことで満足という理念を充足させたいだけよ。それと、貴方自身が殺されたがっているんだわ。だって私達には寿命が授けられ、途方もなく長い年月を生きなくてはならない。貴方はその孤独に耐えるには弱すぎたのよ」 一瞬兎の手が緩んだ。 「どうして僕はうまれたんだろう?」 「それは……」 「君は殺したい、と思ったことある?」 「だいぶ昔に、でも一瞬のことだった。それと今、たった今貴方を殺したいとさえ思うの。とても変だわ」 兎の手がきつくしぼられていく。 「だったらぼくを殺せばいい!」 「い、いやよ。私には兎は殺せない。だって次があるもの」 「次?」 「私じゃない、私の人生よ。生まれ変わりともいうわ」 「馬鹿げている」 「そうよ。私は貴方と違って、孤独になれているから」 兎は少女にキスをした。とても柔らかな口付けだった。 「さようなら」 風が一瞬に通りぬけ過ぎ去った。これが私流のアリスだった。
たわごと 投稿者:shino 4月11日(火) 18:28 削除
聖人を望むは いにしえ人の記憶 不器用に顔を背けるのは 手を差し伸べる やさしさに 堪えるため 「許し」は誰のものか かの人のために殺されるのは 自己矛盾からか…… 違う! 絶対に違う……死しても「万歳」と叫ぶのは 死は 新しい大地の始まりだから 偉大なる血脈は隆々に受け継がれる 焦がれてやまぬのは 小さきことじゃない 大きいことだ 絶大的な「愛」 私の器は誰のためぞ 私が生きるのは誰のためぞ 一方向に羽ばたく鳥のように 十字に傾けた かの人のためなり すべての指針をその背中に背負った方のためなり では 生きるということは? 安息日さえ 苦しみもがきながら生きるということは 意味をもたせるため 個々の役割は 単一のものじゃなし 無作為的に散りばめられた思いなり 天に集中するものの考えなり
桜 投稿者:shino 4月10日(月) 23:57 削除
桜が艶やかに咲き誇り、一面を覆いつくしていた。 私は桜の道を歩いている。 ふと足を止めた。 一人の少女が着物姿をまとい、しだれた花咲を手に添えていた。 薄い訪問着が寂しげでそこはかとなく佇んでいた。 「何をされているんです?」 私は全身を黒い服を着ていて、頭にかぶっている同じく黒い帽子を脱いで手に持った。 「…………」 びっくりしたかの表情で目をまばたきさせ、少女は口を少し開けていた。 まるで、見られてしまった恥じらいが少女の表情を通して私に感ぜられたので、私は気休めに少女が触れていた桜を見上げた。 「美しいでしょう」 ふと、か細い声で少女はそう洩らした。けなげな、どこかほってはおけない印象が散りゆく桜の花びらとかぶり、消え入りそうな声だった。 「ええ。とても。浅学な私にも何か哲学めいた意味合いを感ぜられそうで」 私は少女を見下ろした。薄い微笑に目線が定まっていない。一瞬何対して美しいといったのか理解しがたかった。しかし、私はあきらかに気をよくしていた。少女や桜の美しさに魅了されていたのである。 私に一抹の興味が浮かんだ。もっと、何かを話したい。普段なら見過ごすやりとりでも、きっかけや少女の雰囲気などで、この一瞬をもっと長くしようという、個人的な内情に揺れていた。 「桜は、……桜は哀しい。まるで、別れを知っているようで、また春もくるのでしょうが、私には今生の姿はこれっきりしかないという気がしてならないのです」 一音、一音言葉を区切って話す少女は、桜に触れて、私とは違った目線で桜を見つめていた。私はどこか少女の見えない寂しさ? みたいな憧憬を桜ごしに見たような気持ちがして、先に話す言葉が底に沈んでいくのを感じた。 「そうしたら、なぜか桜にとても触りたくなってしまって、ありがとうという感謝の気持ちと、友達のような親しみがこみ上げてきて……話すことさえ恥ずかしいのですが」 いい子に出会ったという感慨が私の胸の内にあり、顔がほころんでいくのがわかる。 「恥ずかしがることはない、と私は思いますよ。それに、立派だと思いました。私には貴方のようにみずみずしい感性も持ち合わせていないようだから……少しうらやましいとさえ感じます」 少女は、桜から私に目線を移した。なぜですか? と言いたげな目であった。 ※※※ 「小早川大尉。小早川大尉。命令がでました。特攻部隊に配属になったそうです。早くご家族にご連絡を、お国のために立派なご成功をご検討願いたいと思います」 私は、噂に流れていたことがやっと事実になったのだと思い、後に浮かぶ気持ちは何もありはしなかった。 「宮下少尉、報告ご苦労であった。君も大変ななか大役わざわざありがとう。はやく、君もご家族に連絡を、敵を全滅させる心づもりで」 目の前の、私より少し若い青年は少し涙ぐむと、私の右手を力強くにぎった。 「小早川大尉。今までありがとうございました」 ※※ 「その気持ちを大切にしてください。気持ちがなければ何も伝わらない。 しかし、気持ちがあるものは永遠に消えはしない。私には、桜の声が聞える。貴方のような人の、やさしい気持ちを受け止める桜の声が……」 私は、少女の顔を見つめ、人生に見せたことのない顔で微笑んだ。ポケットに差し込まれた手には郷里にいる父母に宛てた手紙を握っている。 特攻部隊に配属になったこと、三週間後にはお国のために飛行機で海をわたり敵船に突っ込むこと、帰りの燃料はないこと……そして、私が帰らなくても心配しないで家のことに専念してほしいことなどを率直に書いた。 私には、もう返れる原風景を見ることはないと思っていた。 しかし、自分の最後の火花を散らす前に、この少女に出会えたことは、何か意味があったのかもしれない。 昭和初期の出来事であった。
愛するという名の後悔 投稿者:shino 4月7日(金) 20:53 削除
愛するってどういうことですか? 愛するって何ですか? 求めるということと どこかが狂っていくことと 境界線で両断してしまいたい 束縛も 痛みでさえ 瞳の奥にしまった涙で 洗い流すことも可能だろう ぎこちない軋んだガラスの心は 割れてしまって 破片さえ 氾濫した 屈折になり 貴方の胸に差し込めたら 私は何かを終えることができるのだろうか 貴方の哀しい旋律が 私を一人にした 貴方の哀しい指先が 私を引き止める 貴方の哀しい面立ちが 私をつなげる
桜と酒 投稿者:shino 3月29日(水) 21:18 削除
夜桜や 夜桜 旅人の行く末を見守ってくれ やがて 散り行くと知っていても お前の艶姿を目に焼きつかせると 私の短き命 樹齢の長いお前の命 共に居ることさえわずかな時 なんと美しきかな葉脈の なんと儚きかな花のふくらみ 愛する 愛すべき 愛しいもの お前に対して喜んでいるように 私を 私さえ受け入れてくれる 幽玄の中の優美さえ お前を超えるものはないだろう 濁り酒の入った甕を勢いよくあける 残された舞い散る一枚が 揺れる乳白色に名残のように落ちる
聖踏 投稿者:shino 3月24日(金) 19:47 削除
『聖踏』 私は、神学を志して半年になる。無事、大学院に行くことができて神学を学ぶことができた。主に学ぶこと、人から発生する波のような感情。すべての答えが聖書に書かれていると信じて疑うことを知らなかった。 「篠田 道隆さん」 天井がアーチ状になっている廊下で声をかけられた。校舎続きの場所で、春先の心地良い風が軽やかに吹きぬけていた。 私は、紐で束ねられた資料を落とさないように気にしながら振り返った。 「何か御用でしょうか」 「私は、貴方の論文を読んだものです」 「論文を……」 そう言えば、キリストの奇跡の数々と、奇跡が行われた場所を照らしあわして事実はどうであったのか調べて、私なりの意見でまとめたものである。奇跡というものは実際にはないが、何か代替になるような出来事(事実)があったのではないかと思い、地域性とからめ考察したものである。答えは一概に一つではないが、キリストの持っている倫理上の価値観が何か共感率を生んで思想が広がったのは間違いないのだから、少し人間的価値でキリスト自身を書いたものである。 「貴方は神を信じておられるのですか?」 「は?」 私は、突然の質問に的の得ない顔になった。 「貴方の書くキリスト像は人間的過ぎる。神の領域を考慮に入れていないのではないかと思いましてね」 一言で神論者だと思った。実に、意見が二分する。神が神としての存在として、旧約聖書から引き継がれた律法に重きを置いていて、奇跡性に光を当てているので、神が人間に密着していない。 私の意見は対極にある。神もまた人間に過ぎないと思っている。悪い意味ではなく、ただ病みいる人、近隣者をほってはおけない人間なのだと。 「私は、神を信じています。しかし、神の御国のように見使いや天使を信じているのではないのです」 「貴方はそれで神学を?」 相手の人間は怪訝そうに眉間にしわを寄せた。 「貴方の意見は、聖書を無視する傾向にある」 まるで、異端者あつかいをされ、論文に文句を言われれば気持ちのよいものではないが、相手の意見を尊重できないほど子供でもない。 「しかし、なかなかおもしろかったですよ。そういう神の考えかたもあったのだと、共感はしないですがね」 勝手にしゃべり満足している相手を見て、少しあきれていた。私の意見は論文に書いた通りだし、それに意見しようが人間の価値観が簡単に崩れるわけではないので、そんな感情をよそに私は無口になっていた。 ※ ※※ 「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証を守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは予言の霊なのだ」 私が教会の重たいドアを開けると、思った通り水野 優はいた。聖書を読んでいるようだ。 ドアの開く音とともに振り返り、私を見つめる。 「見たよ。廊下での出来事。ずいぶん有名人になったね」 少しはにかんだ表情をして、柔らかい髪質が遠くからでも伝わった。 「どこの章を読んでいるんだ?」 私が気を抜けるのは多くにおいてこの男と話している時かも知れない。 「ヨハネの黙示録」 ヨハネの黙示録は、聖書の中で世界の終末が書かれてある。 相手の返答は、どちらでも取れるように用意してある。 私は歩いた。歩幅が近づくごとに精巧にできた相手の顔を望む。 キリストのステンドグラスから屈折した色の光がこぼれていた。 「日曜日ではないのに礼拝とは敬虔だね」 相手が上目遣いで私を見上げる。 「いいや。神を冒涜しに」 私は、優に顔をむけさせるとその柔らかい唇に自分の唇を重ねていた。卑猥な音が静かな場所に反響して響いていた。 ※ ※※ 神を信じないわけではない。灼熱の貧しい地に、偏見にまみれた土地に何かの規則性を持たせてキリストは殉教していく。自分が正しい道しるべとして、しかし、聖書には、同性愛はきつく戒められている。 難しい顔をして、私は積み上げられた資料に目を通していた。 「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで、他方を軽るんじるか、どちらかである」 肌けた衣服から覗く、華奢な折れそうな素肌が浮かんだ。 「今度は?」 「ルカの福音書」 目の前に居る優は、聖書を愛読しているのか、いつも文面を引用する傾向にある。 「本当にお前はクリスチャンを目指しているのではないか?」 優のすでに暗記さえしている聖書の言葉を聞くことと、わざわざ人が入りそうにない、神学の道と合わせて考えても神父を志そうとしているとしか思えない。 「何故?」 「だったら……」 こんな関係は…… 「ぼくが嫌い?」 優の抑揚のない声がせめぎ立てる。未練のようにすでに私の中で神格化されはじめている優の表情が、まるで、キリストと最後を迎えた十二使途のようにある別れという憂いをはらませないでもない。ただ別れという選択肢は考えられない。私は弱い人間だ。 嫌いなわけがないと首を静かに二度ほど横にふる。 ただ神と共に居ることこそ幸いというような優の側に居て、私が妨げのように居るなら、何か府に落ちないものを感じないでもなかった。 「神を冒涜してもこの場所でお前を愛せないなら私がこの世に生まれ落ちたことに意味はなかったと言える」 「だったら許す。ぼくが君に仕えることと君がぼくに仕えることで、キリストが万人や罪人を許すように君のことを許すよ。ぼくのことも許してくれる?」 私は静かに一つ頷いていた。優の言動。優しさの一つ一つが私をもてあまし、愛していてくれるのだと痛感していた。
役者 投稿者:shino 3月5日(日) 21:49 削除
ある所に旅の一座がおりました。日本演劇、歌舞伎を縮小したような大衆芝居で、巡業を繰り広げ、いたるところで興業を修め、成功していました。 大衆演劇は、江戸の華、国の名物と言われる見せ場がないと、商売的に繁盛しないのでありますが、下町生まれの創業者 稗田 三太夫(ひえだ さんだゆう)は、持ち前の色男で、いたるところに嫡子を儲けたのでございます。この、稗田 三太夫は顔がすべてで、女をいたるところで手篭めにしたのですが、何分商い下手でありますため、酒は呑むわ、他所に女は作るわで、一座は困窮してまいり、従業員達の明日米を買うお金がなくなるほどでした。 しかし、世の中には神という存在がおりまして、この神って奴は、普段は顔を見せないくせに、人間様が危機に直面した時、一縷の光りをつかませようとするのでございます。 そんなわけで、一座に、ある子供がやって参りました。 この子供、齢にして18。まだ、世慣れをしていない顔立ちで、男に不相応な貧弱な身体つきでございました。名は清太郎と申します。 清太郎は山国である島根の出身で、母一人、子一人で生計を立てておりました。 稗田 三太夫が、地方巡業のため、島根県出雲市に稗田一座が参ったとき、一夜ばかりの付き合いと、当時温泉旅館で芸者をしておりました清太郎の母、梅子に手を出した時の子でございます。一夜ばかりとあなどるなかれ、一夜じゅう精も根も尽きるほど、遊戯にふけった三太夫は、翌日にはもうケロリとして我冠せずで、どこか別の地に旅立ってしまいました。 困ったのは梅子の方であります。翌日には、金目のものもなく立てないほどにもてあそばれ、しばらくは自分を失っておりました。しかし、もともと気丈夫な方で、元来辛い仕打ちには唾をつけて直す女であります。数日のうちにあの忌まわしい出来事は夢だったんだと記憶の隅にも止めなくなっていたのであります。ところが、一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎ、三ヶ月目に入ったときでございます。梅子は、身体に変化があったことに気が付くのです。だんだん、食欲は落ち、食べ物を見ると胃がムカムカし、便所で食べたものを吐きます。これは、とうとう自分がふけてしまって酒に耐性がなくなったと思った梅子でありますが、問題はお腹の方でございました。 三太夫と情事があって、五ヶ月目でございます。梅子の着物に捲く帯が、二つ周り大きくなったのでございます。梅子自身は食べすぎか飲みすぎぐらいにしか感じていなかったのですが、さわぎになるのは当たり前で、腹の出ている女を買うほど世の中甘くできていません。瞬く間に梅子に子供ができていることが、宿屋全体に伝わったのであります。当然のことながら、梅子には誰一人芸者として呼ぶものはおらず、裏にまわれば、不詳の子と噂が流れ、梅子の居場所はなくなっていくのですが、もともと梅子は妊娠にも気がつかないぼけた所がありますので、自分の下宿先から追い出されても、暮らしていける自信がありました。梅子は、農業を営んでいる自分の実家に荷物一つで帰りますと、難産で清太郎を産みます。 もちろん、実家の方も困るのですが、たまたま通りかかったお坊様が、「こちらには、子供が授かったはずじゃ。その子は将来人々に愛される立派な子になるに違いない」と申しまして、清太郎という名前までつけるではありませんか。梅子の両親は、ありがたいお告げを聞くと、清太郎を大事に育てていくのであります。貧しいながらも、畑で生計を立てていたのですが、清太郎が18歳になりますと、梅子がはやり病に倒れるのでございます。もともと気丈夫な方でしたが、芸者から農作業への転身で、肉体的にはできていないのか体調を壊し、すぐに回復されると思われていたのに、日に日に病魔は意志に関係なく増してくるのであります。「母さん」清太郎は病床にいる母の手を握ります。「清太郎やよくお聞き、お前の父は、稗田 三太夫という人で、芝居をやっているからお前、そこで面倒を見てもらうのよ」梅子は三太夫が居る場所のチラシを何処で入手したのか、手に持って息子の前途を思うのであります。清太郎は泣きながら、その安い印刷用紙のチラシビラを取ると、母の場所を後にしました。 清太郎は、僅かの給金から身銭を切り、夜行列車の鈍行で丸一日かけると、東京まで行き、そこから歩いて稗田一座に顔を出したのであります。 さて、ここからがお話であります。 困窮をつめている一座にも花形がおりまして、男優をやらせれば天にまで名声が届くといわれ、稗田 三太夫の二代目をつぐのにふさわしいと言われる男がおり、身長180cmで20歳、今でいうイケメン、いやいや、イケメン以上に心根の広い誠実実直そうな青年がおります。名を林 誠司というものです。誠司は、それこそ芝居は上手い、学業優秀で申し分はないのでございますが、いかんせん、女形をするのには無理があり、男をやらせれば天下一なのですが、女をやらせれば、三流役者の下の下をいき、目もあてられません。これと言って客を惹くめぼしい女形(おやま)の居ない芝居を誰が見ましょう。そんなわけで、稗田一座は困窮し、客がつかなかったのでございます。 誠司はもともと細かいことにも気がつき、裏方から表方までやる男です。自分の一座が寝泊り(ほとんどが大型バスか、芝居をやる宿屋。しかし、今回は劇場である。)する芝居座の裏口をガチガチとして開ける音が聞こえるので、誠司の方では、また悪がきが、芝居見たさに裏から入ろうとしているのだろうと踏んで、一つ悪がきのためにも、しかってやるかと席を立ち、裏口を開けると、見たこともない青年が立っているではありませんか。 「あ、あの……」 誠司の目と、清太郎の少し身長の低い目が合います。 昔の名言で、一目あったその日から恋の花咲くこともある。草津の湯でも惚れた病は治せないと申しまして、一目惚れというのが、現在にも現存しております。まさに、今、清太郎と誠司はお互いにその状態でありました。 (なんてかっこいい男がいるんだろう) こちらは、清太郎の心の中でございます。 (なんて愛らしい男がいるんだろう) こちらは、誠司の心の中でございます。 しかし、やはりそこは男同士、口が裂けても、性的に相手を見ているとは申せません。 お互いに黙ったまま、寒い風が裏口から入っていることも気がつかずに見入るのでございます。 「誠司なにやってんだ」 遠くで同じ劇団員で兄弟子の島さんからの激で、やっと我に帰った誠司は、「はい」と低い声で返事をすると、清太郎の細く白い手首をひらりと持ち、中に招き入れます。 「君は門下生だね。先輩達に紹介してあげるよ」 「ああっ」 急に腕をつかまれ、中に招き入れられるので、清太郎は少し喘いで、つまずくように誠司の逞しい胸に顔を添わせて重心がかかってしまいました。清太郎は誠司の心臓の音が近くで聞こえたので顔が赤くなったのです。もともと、芸者の息子であります。 誠司の方でも、しっかりと自分の身体に収まる、青年に心を動かされました。なんとも形容しがたい良い匂いが清太郎からするではありませんか。もともと、漢が付くほどの男形であります。 誠司は兄弟子のことを通称兄さんと呼ぶので、兄さん達一人一人に挨拶しながら、清太郎の手を引き、楽屋に居る団長三太夫のところに向っておりました。 裏で大道具や照明を設定していた者や、立ち稽古していた者も、誠司と清太郎が通ると、一斉に手が止まってしまいます。つまり、二人のあり様に見惚れていたのです。 「なんだい、お前さん達。まるで、恋人のようじゃないかい」 舞台用で蝶の刺繍が入った着物を着て、妙に赤々とした紅を引き、現在の女形役である、13代目三太夫夫人、祥子がキセルを吹きかけながら呟きました。 普通ならここで誠司と祥子の仲を疑うと思われるかも知れませんが、三太夫に浮気がバレて困るのは、追い出される祥子の方なので、祥子に意思があっても弟弟子の誠司とは妖しい関係にはなっていません。 もちろん、今までに誠司は自分以外に美しい顔を見たことがないので、俗物と関係を持とうと思ったことがないのです。それが、今手を引いている清太郎は、どこのどんな相手よりも美しい整った顔をしています。 「団長、門下生です」 誠司は門前でお辞儀すると、楽屋に入り、三太夫に清太郎を紹介します。 「名は?」 誠司は清太郎の顔を見ました。また、二人で照れています。 「清太郎」 清太郎は、三太夫ではなく、誠司を見て一生懸命名前を伝えました。 そして、清太郎は、もうおじいになっている三太夫を見ました。さすがは、野獣でかつては一度に女房から妾五人に手を出してきた三太夫は、衰えて白髪があるものの、今でも鈍い目を光らせていました。 「お父さん」 清太郎の第一声に驚いたのは誠司の方であります。 事のあらましを清太郎が話している間、誠司の目はいけないと思いつつも清太郎の唇に向いておりました。さすがは、三太夫の子供だけに役者としての華はある。それ以上に、引き込まれる愛らしさはなんでしょう。まだ、手を引いたまろい感触が誠司の中に残ります。心臓が早く鳴り響きました。誠司は真面目なので楽屋の畳に正座をすると、握り拳を作って膝につけます。そして、清太郎を意識して見ないように努めました。 「ぼくは役者になりたい。母にも見送られて参りました。どうかここに置いてください」 三太夫も清太郎の価を一瞬にして測り、酒で濁った目をあけて、将来金になりそうな顔を目視するのであります。 「いいだろう。その代わり、お前にはすぐに稽古に出てもらう」 下済みが役をもらえるのは、まれであります。役者経験は脇を固めて、芝居のイロハを飲み込んだ後で、主役クラスの認可が測られるのでありますが、なにせ商いベタの三太夫のこと、金になればなんでもありの運営方法で悪徳商売が板につきます。 しかし、怪我の功名、これが大成功を収めそうなのは、いうなれば、天性の才でしょうか。現実に、誠司は清太郎が芝居に立つのがうれしくてなりません。一緒に恋物語を演じたいとまで思っておりました。 ここで、一番困ったのは清太郎自身であります。自分で言い出したものの芝居については何も知りません。それどころか、習い事一つやったこともない男です。簡単にOKが出て、しかも住み込みで寝炊きするとばかりに思っていたのに、いきなり芝居をしろとは天と地が逆さになったようであります。 「清太郎君。おいで……」 誠司は三太夫の毒が移らぬちに子声で呼びかけました。清太郎の方でも、もともと顔もみたことのない父親に情をほだされるほど込み上げるものもありません。どちらかといえば、誠司の方に興味が行くのは当たり前でして、名前を呼ばれると伸ばされた手につかまりました。 「団長、彼と私を相部屋にしてください。化粧から何から何までお世話させていただきます」 誠司の言葉に照れたのは清太郎でした。めくるめく日々に少し身震いしたのです。 誠司の方でも、一瞬照れたものの、ポーカーフェイスで涼しい顔をして、すみやかに清太郎の手を引き込んで、三太夫の楽屋部屋を出ました。 「一人部屋で広かったんだよ。一緒でいいかい」 清太郎は物も言わずに頷きました。 「和室で化粧部屋もかねているからきっとすぐに慣れるよ」 二人が手を引いて薄暗い廊下を歩いていると女のくすくす笑う声が聞こえて、新参者の清太郎は声がした方をむくと、双子の小さな少女が違う楽屋部屋の畳にペタンと座って、着物の間から足を覗かせ、円を描くように右足と右足を絡ませ、鏡を覗くように線対称で、お互いに手を絡ませ相手に紅を引き合っております。乱れた朱色の着物から覗く、胸先や足先を見て、清太郎が生唾を飲んで、恋敵出現かと不安になり、誠司を見つめます。 しかし、誠司の方では、さほど温度を感じない微笑で、着物の少女を呼びかけました。 「瑠璃、玻璃、新しい兄さんが入ったよ」 一斉に、先端の細い紅筆の手を止めて、くるくるとしたつぶらな瞳を見せ、少女二人がこちらを向きました。清太郎と同い年ぐらいの少女はくすくすと笑いました。日本人形みたい長い真直ぐな髪に、柔らかい顔の輪郭、立体感があって、頬に肉付きがあり、綺麗な顔でした。 「兄さんだって」 「兄さんだよ」 「あの人が来るよ」 「あの人が来るね」 「誠司ちゃんは知らない」 「誠司ちゃんは知らない」 鸚鵡返しのように同じ言葉を繰り返す、同じ服、同じ背格好、同じ化粧の二人はくすくす笑うと、また、お互いに紅を引きはじまました。 「気にすることはないよ。いつもあんな調子なんだ」 清太郎の華奢な肩に手を置くと、「さ、私の部屋に行こう」と、誠司は言いました。 「あ、でも」 「私の部屋ではダメかい?」 誠司は、清太郎の耳に唇を当てるようにささやきます。清太郎は、頭が真っ白になり身体が硬くなり、首を横に振ると、誠司の顔ばかりを見つめました。 「よし、いい子だ」 誠司は、清太郎の頭を数度撫でます。隣の衾を開けると、広い畳部屋があり、窓には障子がはられ、簡素で物のない室内に案内されました。衾と真向かいには大きな鏡が壁に備え付けられています。 「ここが、君と私の部屋だ。同居人ってことになるが……多分、台本が与えられたら、この部屋で練習するといい。私も練習するので互いに時間をズラせばなんとかなるだろう。舞台で練習すると他の兄さん達の邪魔になるからね」 端にある文机に清太郎が目をやると誠司所有の『千本桜』の台本が置いてありました。 ※※※ 一夜が開け、誠司が眠たい目を開けると、誰かの小さな声が聞こえました。 「この身が果てても貴方を待ち続けましょう」 声の方に顔を静かに合わせると、清太郎が朝日に浴びながら、静寂を壊さない音色で『千本桜』の台本を音読しておりました。誠司は起き上がると自分のセリフを口に出します。 「僅かだ。僅かな時間そなたと会えぬだけ、すべてが終われば、この身でそなたをお留めしよう」 誠司は少しばかり微笑しました。清太郎は先のことが不安になり、芝居について自分なりの解釈で場の雰囲気に慣れようとしています。 「幾千の月日が流れようとも忘れはいたしません」 清太郎は、台本を片手に持ち、もう片方の手で誠司の手に触りました。 確かに、台本には女形が男型の手を持つ顛末が書かれています。 驚いたのは誠司であります。眼が潤み、初心者の私服の男に芝居で呑まれている。ここは、第一の官能的なシーンで、男形が、女形を引き寄せ、着物の間から手を這わせる場面であります。もちろん、芝居上の演出で、舞台に立って、現女形で三太夫の妻祥子を引き寄せるのですが、誠司は、清太郎を引き寄せたい衝動にかられてしまいそうでした。だからこそ、誠司は現実に言葉を戻して、芝居を区切りました。 「もう、朝です。昨夜は眠れましたか?」 清太郎の無反応を見ると、そんなに眠っていないことが伺えました。目もどこか赤くなっています。 「ぼくは何もできません」 清太郎は、そっぽをむくように障子に目を落としました。その格好がいじらしく、けなげで誠司は何かしなければという思いにかられるばかりです。 「そんなに芝居が勉強したいなら、私と稽古しましょう。本読みだけでも力になる」 誠司は、一般に声をかけているのではありません。清太郎だからこそ光る資質を見たのでございます。それとも、一時(いっとき)でも側に居たいと思う恋情がそうさせたのかはわかりませんが、線の細い清太郎に情熱が傾いていくのは必然でした。 清太郎の方でも、誠司の側に居たいと思い尽くせぬ思いにまどろむのでございます。 (誠司さん……) 清太郎の胸には誠司が占めだしています。 (清太郎君……) 誠司の胸にも清太郎が占めていました。 (ぼくは、この人に抱かれたい) なんとも、熱い二人でございます。さて、二人の心情を置いておき、稗田一座の朝は早いのです。朝の煮炊きからはじまり、新人は兄さん方を起こし、稽古がしやすいように動かなければなりません。社長出勤でいいのは団長の三太夫ぐらいで、後は、発声や本読み、音合わせや、舞台装置のチェック、照明合わせなど、お金のない劇団は全部を自分達でやらなければならず、休む間もなく絶えず大勢の人員が動いております。 「清太郎君は、食事を作れるね」 「はい」 「良かった。今日は私が当番なんだ。一緒に作れるね。早く慣れるには煮炊きからってね」 誠司は、清太郎の頭を撫でると、布団をたたみ、調理場に案内します。 誠司の方では、いうなれば、女形の資質がある清太郎には所帯じみたことに手を染めて、手を汚してしまうのを嫌ったのですが、このまま何もさせないのであれば、劇団員から取り残されることは必至になってしまうので、早く兄さん達に馴染めるように配慮したのでございます。 ところが、清太郎。もとは、農家の出身でございます。煮炊きが得意じゃないわけありません。それどころか、どちらかというと芝居より得意なぐらいです。喜んで炊事場に向うのでございます。 気がついたのは、一番兄の島さんでございます。 「おや、秋刀魚の照り焼きが美味しいね」 「あら、本当に」 大葉を三枚に卸した秋刀魚で包み、みりん、酒、醤油で焼いたものです。刷毛で二度塗りしてあるので、コクがあり、美味しいのであります。 この一座は、皆が一つの座敷台を囲むので、おチビやらも鼻をたらしながら、焼き物に手をつけておりました。人員にして30人が大きな卓を囲んでおりました。 「兄さん達に挨拶したいものがおりまして、今日からお世話になる清太郎君です」 誠司は席の端で立ちながら、清太郎を紹介するのであります。 「彼が皆さんの焼き物のお世話をしました」 「へえ」 皆の関心をよそに、誠司は子声で清太郎に催促します。 「清太郎君、挨拶して……」 すこし戸惑いながら、炊事場で練習した内容を口にします。もちろん、口上は誠司が教えたものも含まれております。 「ぼくは、昨日からお世話になっております。清太郎と申すものです。右も左も分からないですが、先輩方にお教えをこうつもりでがんばって参りたいと思います。皆様、よろしくお願いします」 それから、30人、一人一人に漏れなくご挨拶していくのであります。 (食事のとき以外はそれぞれの場所に移るから、皆がいる食事時に挨拶すればいいからね) 誠司の言葉であります。どうして、そんなにやさしくしてくれるのか、誠司をますます好きになる、清太郎なのでありました。 劇団初心者は皆より一番遅くに食べ始め、皆より一番早く食べ終わり、皆様のお世話をせねばなりません。洗い場、お茶出しや衣装の早替えの手伝い、立ち位置のチェック、大道具の補佐など、絶えず動かねばなりません。 しばらくは、誠司について、色々教えてもらっていた清太郎でありますが、誠司が立ち稽古のときは離れなければならず、大道具の手伝いをしながら、誠司を遠くで見るのでございました。 舞台の上で誠司と三太夫の妻祥子が立ち稽古をしております。二人は、舞台衣装に身を包んでいました。 「この身が果てても貴方を待ち続けましょう」 これは、昨日清太郎が練習したセリフを祥子がしゃべっております。 「僅かだ。僅かな時間そなたと会えぬだけ、すべてが終われば、この身でそなたをお留めしよう」 清太郎は胸が苦しく、不安になり、顔をあげて舞台上の誠司を見つめました。 「幾千の月日が流れようとも忘れはいたしません」 舞台の対岸で、祥子の赤い着物が揺れて、誠司の腕に祥子が納まり、襟から胸に手が差し込まれ、二人が見つめあっております。二人の潤んだ目が情感を呼び、手に汗が滲む芝居でございます。 清太郎の胸は高鳴り、眉根は寂しそうで、一人だけ取り残されたような心持がしました。 あれほどまで、かわいがってくれた誠司が、今は別の女に触れている。その目は、芝居とはいえ、切なげで、愛している人と離れなければならない痛みに溢れています。 清太郎は見慣れぬ地で自分だけ離れ小島にいるような孤独を感じたのでございます。二人が側に寄れば寄るほど自分の目から涙が零れそうで、締め付けられた苦しさに、どうして良いかわからず、作業の手が止まっておりました。 「さっさと動け!」 先輩の激にやっと我に帰ると、清太郎はまた作業に取り掛かりました。しかし、一度わだかまってしまった想いを解消できるほど、人間ができていないのでございます。清太郎は軍手をしている手で、零れそうな涙を拭うと、ただで置いてもらっているので何かをせねば生きていけず、トンカチで釘を打つのでございました。 ※※※ 夜になり、誠司に稽古をつけてもらうため、先に楽屋に戻り、風呂に入っている誠司を待ちました。清太郎は大道具を一緒になった先輩と一足先に風呂へ入ってきた後です。畳の部屋というのは、より人を孤独にさせる古さがあります。その中で台本を手に持ち、清太郎は待っていました。 「お待たせ清太郎君」 誠司は、よれたところ一つなく髪もちゃんとかわかして、寝巻きに着替えておりました。 清太郎は誠司の顔が見れないというように俯きました。昼のことが消えずに残り、芝居上とはいえ、誠司と祥子の仲が良い姿に、誠司と自分の距離の遠さを感じたのであります。 「さ、千本桜を読もう」 誠司は、清太郎の微細な気持ちには気づかず、台本を取ると最初のセリフを口にしました。 「桜が見えます。お慕い続けて今日まで生きて参りました」 「なりません。この事が見つかってしまえば、貴方様の身が危うくなります」 「しかし……」 誠司の動きが止まりました。清太郎が顔を見せようとはせずに、泣いているのでございます。 「どうしたんだい?」 芝居の台詞を中断し、とまどいながら顔を覗き込む誠司です。 「いいえ。何でもないんです」 胸が苦しくて泣いていると申せない清太郎であります。この愛しさや戸惑い、祥子と誠司の仲むつまじい微笑や語らい。端々に思いを巡らせ及びもしない思いが、浮かんでは涙にくれるのです。 誠司の方は、もはや不安で、この綺麗な人が泣いていると思うだけで、自分の半身が千切れたような苦渋にさいなまれます。 誠司は清太郎の両腕を付加がかからないように持ちました。 清太郎の方では見られたくないというように顔を背けますが、誠司の腕力に、相手の懐に沈むような格好になりました。 「清太郎君……」 清太郎は涙に暮れ、目が少し赤く腫れた様子が、尚いっそうこの世のものとは思われず、誠司はあらぬ気持ちが沸き起こります。 清太郎のあごを持ち上げ、その柔らかい唇に自分の唇を重ねました。 あどけない表情、放心している清太郎の顔を見ると、その先を焦がしてはならないが、固く抱き寄せ、春風のようにやさしく包むしかすべがないのであります。 「そんなに、苦しまないで何があったのか話してごらん」 「ごめんなさい。ぼくそんなつもりじゃあ」 (誠司さんに心配や迷惑をかけるつもりじゃないんです) 清太郎は、誠司の透明な澄んだ目を見つめます。 「ただ、貴方が(好きなんです)」 「私が?」 「いいえ」 一方誠司は、急に自分でしたキスを後悔し始めました。この多感な若者には、何でもしてあげることが迷惑だったのはないか? もともと男同士で仲良くしようなんて虫が好すぎたのではなかろうか? それほどまでに、清太郎のことに惹かれていく誠司であります。 繋いだ手が自然に離れ、誠司は障子窓に目を向けました。 「すまない、清太郎君。私が期待し過ぎたのかも知れないね。同じ部屋はやめてもらおう。私は、島さんの部屋へ行くよ」 (待って、違うんです。そんなつもりじゃない) 言葉がどこか立ち消えになり、自分の中に空白が立ち込め、誠司の腕にしがみつくことさえする力も残っていない清太郎でありました。 (今、この人を止めてしまったら。この人はやすらえない。ぼくなんて重荷でしかなくなってしまう。そんなのは、い、嫌だ) なんとも上手くはいかない世でございます。共に想っていながら、運命の交差点を右往左往している。この二人は、相思相愛でありながら、お互いの気持ちに気がついてさえいないのです。 ※※※ 芝居は芸者風情が良く似合うと作者自身は思っております。 お目当ての役者がいれば、自分の心の恋人に投影でき、もし自分 の手元にその人が現れたなら狂気の沙汰に落ちてしまう。 芝居とは一種の脳内麻薬かも知れませんね。 さて、そんな作者の気持ちを鏡に写した男がありまして、名を迫田と申します。このおぼっちゃん。何分華族出身でございまして、世の中が血眼になって、低賃金で骨身をすり減らして居る間、莫大な財産で遊ぶは遊ぶ。とんだ放蕩息子で、よく1代目で商売を始め、二代目が後をつぎ、三代目で潰すと申しますが、その三代目でして、苦労をしらない馬鹿息子でございます。 芝居でも何でも芸事には必ずパトロンがつきます。 役者は言わば、手乗りの文鳥。買主がいなければ、衰退の一途をたどるのでございます。金になるのも客を引き寄せる魅力がないとかないませんし、裏で手を引くお金持ちがいないと身持ちできないのでございます。つまり、遊ぶ相手がいないと金にならないのでございます。 この眼鏡でひょろりとした男は、何を思ったか稗田劇団を足しげく通っております。最初は、祥子の着物から覗いた胸を見に、つまらない劇団なのですが、猥雑さにかけては天下一のところがあります。今でいうなら、さしずめ性風俗のショーモデルの走りですかね。どこか埃じみたところを好むのでありますが、祥子にしても金になる男が自分を見に来る悦楽があるわけですから、二人に関係がないはずがありません。 祥子の朱色の着物に足をひっかけて、息を荒げている迫田でございます。 「ああ、気持ちがいいねえ。やっぱり女は吸い付くぐらいじゃないと」 「あら、嫌だ。それ誉められてやいないわね」 揺するように腰を動かし、別の生き物のように絡みつく二人です。獣の臭気と巻きタバコの燻された臭い。退廃した精神と倦怠した脱力にまみれた二人ですが、思考が互いに単純なため、品が崩れるほどだれたことを好んでする不誠実な人間も居るということです。 もくもくとタバコの煙に包まれながら、迫田は別のことを考えていました。 「お前さんの所に、新しい役者が来ただろう?」 「迫田さん、目が早いこと。でも、駄目よ。男だもの。顔が良くても、女程の滋味は味わえなくってよ」 祥子が鼻先であしらうと、目を空間に見据え、ニヒリスト風情で何かいけないことを考える迫田です。 「そうだね。女に勝る名器はない……」 祥子は口の端を三角に曲げて高い微笑を下しますが、迫田は気にもとめないで続けます。 「しかし、希少なものに惹かれるのは人間の摂理ではないですかね」 祥子の顔が曇りました。あのおチビには、人を魅了する華がある。迫田という金蔓を逃がすには、夢を見すぎた女でした。祥子の心のうちに災いが芽吹いていくのは当然といえば当然で、今なら潰せるであろう美しい清い花に毒の目が行くのはまもなくであります。 ※※※ (なぜ、ぼくは誠司さんを引き離すように仕向けてしまったのだろう) 夜の帳が色濃くなればなるほど、胸のはしに誠司の屈託のないさわやかな笑顔がよぎる清太郎です。 まことに、恋とは儚いものだと痛感します。 清太郎は名残のように、台本に目を落とします。 うら若い男女の恋。身分違いに苦しみながらも桜吹雪の中で逢引を重ねる。時に身を重ね、想いを馳せ、恋という茨にがんじがらめになりながら、運命に身を任す二人。やがて、帝の妃に入代が決まる女。帝の家臣で側近の幼馴染に桜の中で想いをたくす。 男の方も、帝と女の狭間で苦しみもがきながら、自分の恋を見つけにいく。それがあってはならない恋心でも、自分を滅ぼすことになろうとも……。 女は自分の運命を呪います。 そして、入台前夜、男と身体も心も一つになるのですが、愛への証の性。つまり、貞節を守れなかった女性は、苦しみ深い刑罰を受けることが目に見えている。 二人は心中を図ります。 しかし、男は死にきれず生きることになり…… 清太郎は、台本を閉じました。今、頭の中を占めているのは誠司以外の何者でもありません。 (ぼくに、何ができる?) のか、検討もつかないのですが、運命というものはひょんなところから繋がっていくものです。 三太夫でございました。 「清太郎、女形やってみろ」 の一声であります。 劇団員達が目を見張る中、度肝を抜かれる清太郎でございます。 「ちょっと、アンタ、私はどうするの」 「祥子には、当分の間、裏の仕事をしてもらう」 辺りはざわめきました。 「待ってよ。何ヶ月稽古に付き合ったと思ってるんだい」 祥子は、青筋を立て、ヒステリックになっていきます。 「お前、最近帰ってくるのが遅いじゃないか」 三太夫の一括で押し黙った祥子でした。後ろで手を引いている迫田について何か勘ぐりがあるのかも知れません。 「ぼ、ぼくは……」 清太郎が不安そうな気色で俯くと、肩をそっと触れるものがありました。 「清太郎君。やってごらんなさい」 誠司です。真摯で真面目な顔で清太郎を覗き込みました。 「大丈夫、私がついているから」 「誠司さん……」 「団長、お願いします」 誠司のまぎれもない一言で、劇団員達から拍手があがりました。 ここへきて、清太郎版『千本桜』が幕を開けようとしています。 ※※※ 恋情に浮かされた男が舞台袖から姿を表しました。整えられた髷の鬘。悲哀を隠し、本心を見せない立ち姿。桜と対照的に凛としている表情。 清太郎の目は潤み、愛しい人を目前にして、じっと見据えている。 (本当の女になれたなら……) 誠司はぞくっと身震いいたしました。祥子と演じる以上に動かされる何かが清太郎には纏わりついている。劇団員達も、プロの目で見抜くものがあったのか、いつもざわついている声が一斉にやんでしまいました。 「誠司さん……?」 「あ、ああ」 誠司は台本に目を落としました。本当のことを言えば、頭が空白になり、幾度も度重なる練習をしてきて、トチるはずがない個所のセリフを一瞬ばかり忘れていたのです。やっと自分の状況を飲み込むと、セリフを口にしました。 「貴方を想って幾ばく経たかわかりません。貴方の御身をこの手に焦がれ生きてまいりました。貴方が私に渡してくれた内衣をたよりに……この桜で会えることが、天の思し召すままなら、時間が止まって欲しいと願わずにはいられない」 微笑を返す清太郎(千姫)である。 「わたくしもです。桜の花びらが透けて一瞬の美をかもし出している。時間のなんと儚きことかと」 「貴方を連れ去れたら、鬼神にさえ魂を売ることができましょう」 「なりません……」 千姫の華奢な腕を握る、誠司(斎条)は力をこめて、千姫を自分の懐に顔を沈ませる。 「貴方は手に入らぬ高値の花。今が永遠であれば……」 誠司の言葉に、懐に沈んだ千姫は一滴の涙を零した。 「入代前夜、またここで葵様と過ごしたい……」 誠司(葵)は、名残のように千姫を抱きしめた。 時は春である。桜が舞い落ち、石畳を染めている。 ※ 「誠司さん、ぼくを置いていかないで」 鳥の鳴き声が響き渡りました。夢から目が覚めた清太郎は、まだ昨日の余韻に声を涙で嗄らしたのであります。 誠司は、芝居稽古の後に、清太郎を無視するかのように、わき目を見ずに楽屋に入っていきました。 清太郎は、避けられる理由にとまどうばかりです。自分の唇に誠司が唇を重ねてから、二人の間には目に見えて距離ができ、狂おしいほどに清太郎は求めたい衝動が、誠司のよそよそしい態度で、不安な温色が増すばかりであります。 (ぼくのことを嫌いになったの) 清太郎の目から涙が伝い落ちました。 (ぼくが男だからいけないんだ) 清太郎の心は掻き乱れ自分では止められないほどに憔悴しきっていました。 (誰か助けて……) 心にも、自然ななりゆきがあります。ただ一人でも認めてくれない、求められなければ、当事者は死んでいるのと同じこと。まさに、生きていくためには心の支えがいるのに、その肝心要の支えをうしなって、清太郎自身が自己崩壊していくような錯覚にとらわれていくのありました。 ※※※ やがて劇団員がまた活発に忙しく立てまわっているときでございます。清太郎が普段着で役者の傍らで裏方の仕事を手伝おうとしているときでございました。 「清太郎君」 「あ、貴方は」 なんと、はいからなスーツを着込み、いつもは着物で過ごしている迫田が、両手いっぱいの花束を抱えていました。 「私とデートしないかい?」 「ぼくは男です……」 「かまいやしないよ」 清太郎は、伏せていた目を上げました。 「綺麗に男も女も関係ない。必要なのは、希少種かどうかだということだけさ」 清太郎は、わからない、という顔を迫田に向けた。 迫田は何気なく、それでいて大胆に清太郎の肩を抱きこむように包みました。 「そうだ。気分を変えるためにもデートをしましょう」 「えっ、でもお芝居が……」 困惑するようにぎこちなく清太郎が断ろうとすると、迫田は近くの劇団員に声をかけた。 「しばらく、清太郎君はでかけるから、君、後のことは頼むよ」 「オイラですか」 近くで大道具の片付けをしていた男に、迫田は札束で現金を渡した。 「くれぐれも、清太郎君がサボったなどと告げ口するんじゃないよ。せいぜいそのお金で旨いものでも食いたまえ」 「やりぃ、こんな大金見たことねぇや」 男はうれしそうに笑い顔を作っていた。 迫田は強引に、とまどう清太郎を連れ出した。 外に出るとまぶしい太陽の光を感じました。清太郎は一瞬目を潜めます。芝居で劇場にこもりきりで、何年かぶり感じたような日差しでした。 迫田は、そんな清太郎を見ると一瞬笑い、顔を元に戻すと、清太郎の熟れた唇と華奢な身体に目を落としました。 「君はまるで自分の価値をわかっていないねぇ」 「……えっ?」 清太郎には、迫田の言葉が上手く認知できなかったのか、振り仰ぐように相手を見つめ返しました。 「精巧にできた蝋細工や浄瑠璃の人形でさえ敵わないよ」 「何をおしゃっているのかぼくにはわかりません」 「まだ、わからなくていい。今日は、私の家においで、祥子なんかと会うときは安宿を使うが、君にはまったくふさわしくない。私の家でゆっくりするといい。豪華な食事も用意しているから」 迫田は、清太郎に指を絡めると、外国の挨拶のように清太郎の手の甲に唇をつけた。 ※※※ 迫田の家に着いたときには、晴れていた空が嘘のように曇りだしていた。清太郎は食事を勧められ当時では珍しいフランス料理の数々が運ばれてきた。迫田は、鼻をあしらうように前から仕込んでいたシェフの自慢話で慣らしていた。清太郎は、この料理達が美味いのか不味いのかもわからずに迫田が運んでくる料理に口をつけていた。 すべて食べ終えたときには、清太郎の意識は朦朧としてきていた。 「だいぶ酔いがまわったようだね」 迫田は、清太郎の肩に圧し掛かるように手をかけた。 「私のソファーは気に入ってくれたかい」 清太郎は、食事が終わり休んでいるのが、布張りでできた西洋ソファーの上だった。眠れるぐらいのスペースがある。 迫田は、人差し指を立てると、清太郎の身体を糸を引くようになぞりつけた。 「……な、…にを……」 清太郎は、かろうじて声になるかならないかの声で必死に問い返していた。足から力が抜けていく。 「少しお楽しみを増やそうじゃないか」 迫田は清太郎に顔を向けさせようと、あごにもう片方の手を持っていった。 「君が飲んだワインの中にごく微量の阿片と身体にはあまり作用しない睡眠薬を仕込ませてもらったよ。なぜだか、わかるかい。完全に意識を失ったら人形を相手にしているのと一緒だ。しかし、こうやって意識を残しておいたら、君の反応が手を満たしてくれるに違いない。だから、これからもっと楽しませてもらうよ」 清太郎が悲しそうな目を向ける。 「悩ましいねぇ。君の目や身体が、私の五感を支配する」 迫田は清太郎の唇に自分の唇を重ねた。ぴちゃぴちゃと絡めた先から卑猥な音が響いた。清太郎は、それを辛がり、苦しがりながら、薬の影響で力が出なかった。 「誠司さん……」 「誠司……あいつか……」 迫田は、皮肉や嘲笑を込めるように笑った。 「君にも男色の傾向があるということか」 迫田は、どんどんエスカレートし、這わした唇を、清太郎がまだ誰にも触れられていない場所にも向ける。 「誠司さん……」 迫田が、清太郎の身体をもてあそんでいる間、清太郎は誠司の名前を呼び続けていた。
虚偽の礎(4) 投稿者:shino 3月2日(木) 21:30 削除
直哉が長い汽車の旅を終え、座りっぱなしで痛めた肩を気にしながら、それでも、桜さえ咲いていない閑散とした林道の自然の息吹を感じつつ歩るき、橋の側まで行くと一人の恰幅の良い若者が橋を走りぬけてくる。 直哉がそれに目を止めていると、大声が響いた。 「たたりがくるぞぉ。鬼のたたりだ」 (たたり?) 状況の認識をしているといつの間にか横にいた老婆が頭を抱えつぶやいた。 「たたりじゃ。また鬼がくる。鬼が」 愕然と振るえ立ちすくんでいる老女を見て、直哉は言葉さえなくしていた。 「女御の結婚式に鬼じゃ、鬼がこの村を不幸にする」 直哉は、張り詰めた糸をむき出しながら目的の家にかけていく。 鈴原の表札がかかっている家屋は、建築年数がたっているのか、瓦葺の屋根が何十年も雨風にさらされねずみ色に変色していた。村にしては、大きな家でここら辺の土地を治めている地主ということを証明していた。 「節子お嬢様大丈夫ですか」 濃い藍染の羽織を着た五名の輩衆のうち一人が声をかけた。田舎の家らしく雨戸を全開にした庭先からかけてくる。 直哉も事のなりゆきを見守るため、ゆっくりと縁側から中の様子を覗いた。 覗くと、真っ白な厚手の男着の着物が、壁に垂れ下がるようにかけてある。酷く滑稽なことがあるとすれば、その男着に三尺(一尺 30.3cm)の矢がえぐるように貫いていることである。着物の布地を通して壁にもめり込んでいて、何か不安を助長させる物体に見えた。 直哉が庭先から下請けの輩衆と同じように中に入って着物を見ると白い地であるが銀糸を織り交ぜて鶴が浮き彫りのように折られている。この独特の着物は、婚礼用のものと疑う余地がなかった。 直哉は、軽く顔をしかめると、ささっている弓を凝視する。鉄でできており、太さは親指の頭ぐらいである。深くささっており壁からはずすのは不可能であった。 「お兄様」 声がした方を振り向くと白い肌の女が、襖を開けて入ってきた男を見つめてふらつく足取りでかけよっていく。 「大丈夫かい、節子」 男は、節子と呼ばれた白く細い女を抱きしめると、片方の手で女のあごを持ち上げる。 「大丈夫です。お兄様。節子は何ともありません。しかし、公彦さんの婚礼用のお洋服が台無しになってしまいました」 節子は、蒼白で意思の見えない表情で少し顔を男からそらせた。 「何を言っているんだい。お前に傷がないことが一番じゃないか。婚礼用の衣装ぐらいいつでも手配できる」 「お兄様、あたくし怖くって、あの忌まわしい伝説が成就されようとしているのじゃないかと、いてもたってもいられないのですわ」 心配そうに抱きしめる男に、女は顔を埋めるように添わせた。 「何事ですかいな」 村の駐在所から、憮然とした態度で巡査が騒ぎを聞きつけ入ってくる。 「なんでもありません」 男は、淡々と答えた。しかし、巡査は室内の光景を眺めて 顔をしかめる。 「これは、誰かのいたずらですかいな?」 「わかりませんわ」 女が顔を伏せた。巡査は、室内を見回し、着物に手をかけている直哉に声をかける。 「あんた誰ですか? どうも、ここの家の人間じゃあないように見えるんですが」 直哉の軽装を見ての質問だったようだ。 「ええ。ぼくは手紙をもらって東京から参ったものですが」 「わざわざ、東京から」 「そうですが、最近この手の嫌がらせが多いようですね」 直哉は、まっすぐと兄弟を見据えた。 「そうですわ。それが何か?」 女は、直哉を見つめ返した。 「あんたは一体?」 駐在は、直哉を凝視している。 「私が呼んだのだよ。節子」 「お兄様」 「何か、があってからでは遅いと思ったんだ。お前がとつぐ日を第三者に見てもらうのもいいことだろう?」 男は、節子の顔色をうかがった。 「では、貴方が依頼者の省吾さんでしたか。ぼくは東京から参りました、探偵の原田 直哉です」 「東京の探偵さんが何でこの土地に?」 ますますの不信感で巡査は言葉をかけた。 「一ヶ月前から、この手の悪質ないたずらが続いているようですね」 「何者かに部屋を荒らされていたり、高価な花瓶が割られていたり、立て続けに、この鬼塚家を狙って誰かが何かをしてることは事実です。しかし、警察に届けるには、盗まれた物品もなく何の効力も感じませんでしたので、今回は原田さんにこの件を依頼したのです」 「しかし、東京の探偵なんぞにまかせて大丈夫なんですか? なんなら、駐在である私が時間を見つけ巡回に参りますが」 巡査は、力のない警察を印象づけない憮然とした態度で背筋を伸ばして自分の意義を伝える。 「ぼくはかまいませんので、ぜひとも巡回もお願いしていただいて、且つ、ぼくもこのいたずらの真相を究明したいと思います」 直哉は、真面目に答えた。 「ところで、節子さんが伝説がどうの、とかおしゃっていらっしゃったので……」 「その話か、くだらない寓話さ」 省吾は、奥歯をかみ締めるように話し、どこか遠い目をしていた。 「この土地は、古くから鬼伝説が各所であるんだ。その中でもっとも恐れられる挿話がある。鬼が人間をくらい、心臓をえぐり、目玉をとり、指をぬすみ、足を踏む、水で溺れさせ、飢餓をおこし、人々をまやかす。この、人間の患部や心をとる鬼を七つの塚でおまつりし、土地の各所に鬼を封印する祠や地蔵を立てた。しかし、何十年かの周期に祠や地蔵を壊す人間が現れるらしいのです。そうすると、必ず死者がでるという言い伝えが伝わっています」 「では、どこかに祠や地蔵があって、それらに何かあったとおっしゃいたいんですね?」 直哉の質問に、うつむき加減の暗い表情で節子が口を開いた。 「ええ、祠に絵がかざってあるのですが、今みたいに太い槍で何者かが絵を突き刺したのです。その後から、わたくしどもの屋敷に不振なことが多くなったのですわ」 「何故、その出来事が自分たちと関係があったと思われるのですか?」 直哉は、わからないところを質問する癖があった。 「……鬼塚の姓です」 「節子、その話は……」 恨みを込めた目で節子が見上げたとき、それを制するように省吾が口を開いた。 「ですがお兄様」 「すみません。この話は、後ほど。我々の気のせいかも知れないことですから」 直哉は、一抹の興味を覚えながら、省吾の主張をいったん聞き入れた。
虚構の礎(3) 投稿者:shino 2月28日(火) 02:48 削除
直哉が深い眠りから目覚めると目的の駅から三駅前になっていた。おそらく現場へ到着している頃には正午になる。 東京の兄の家から抜け出せる環境に置かれると、どこかほっとした心持がする。なんのわずらいもてらいもないようで、息苦しさから開放される。 直哉は、自分は逃げているのかも知れないと思いながらも、僅かな透明で澄んだ空気に身を洗った。 まず、鬼里師村についたら、山間にある邸宅に足を運ばなくてはならない。あらかじめ、手紙に略図が書いてあったが、肉筆の場合距離感が不明になりやすいので、公社にお願いして縮尺した地図をを借りていた。 直哉は、家にいた二週間のうちに、一通りの土地勘を得るために頭にある程度の場所を描けるぐらいは把握をしていた。一つは、乗務員の言っていた桜の遊歩道があり、そこをぬけ橋を渡ると依頼人の邸宅がある。 面白いのは、同じく公社で借りた郷土史の本で、さすがに駅名に『鬼』の文字が入っているだけ、いたるところに鬼伝説が今でも残っている土地である。なんでも、鬼の心臓が祭ってある神社もあるらしいことが本に載っていた。
虚偽の礎(2) 投稿者:shino 2月28日(火) 02:09 削除
深海に包まれ、辺りは真っ暗で目を凝らそうにも、点在する行灯の光が横に流れていくだけだった。汽車のゴトゴトという揺れが倒錯的にさせる。 木とスウェードの生地でできた座席に座ると、前の初老の婦人がうつらうつらと肩を揺らして袋に入ったみかんを両手に抱え眠っている。 直哉は、茶封筒に入った手紙を無目的に握りしめた。 直哉にとっては、依頼者の手紙などえてして、必要なことではない。それだけ、自分の心を失っているのだと気がつく。 (兄は、兄に会ってしまえば) 何が起こるというのだ。直哉の目は空虚に彷徨っていた。 自分の充足は、いつも兄の手で壊される。進学でも就職でも、兄に勝つということができなかった。何かのコンプレックスがあるとすれば、前を見つめている先に、兄の大きな背中がさえぎりとなり追い越せないことだった。 外務省に勤める兄と同じ道を通るのを避けるため、直哉は県警には勤めず探偵になった。 「切符を拝見してよろしいですか?」 紺の制帽をかぶった乗務員の声が聞こえ、直哉は頭のわずらいを押しやる。 「どこへ行こうとしてらっしゃるんです?」 乗務員が声をかけてくる。本当は切符を見れば目的地はすぐにわかるのだが、深夜ということもあり、一人で荷物も少なく軽装で汽車に乗っている男が珍しくて興味をもったか、それとも、切符を出してもらいやすいための配慮かのどちらかでそう尋ねたのだろう。 直哉は、いつもの顔を取り戻し、顔を上げて駅員を見つめる。 「鬼里師(きさとし)村に……」 茶封筒には、鬼里師郵便局の消印が押してある。 「あすこは、いい村です。春になると満開の桜が咲いて、春祭りの時期になると、桜の通りぬけができる。花びらの道ができるんです。私はあすこで産まれましたが、本当にいい村です」 細くやせた駅員は目をうっすらと閉じる。郷里を描いている様子が伺えた。 直哉が、地元住民の自慢話にどう返してよいかわからずあいまいに駅員を見つめると、駅員は職務を思い出したのか、目の前の老女に同じく切符の催促をした。 ※※
虚偽の礎(1) 投稿者:shino 2月28日(火) 02:08 削除
白樺の梢で一人きり 二葉はらはら舞い落ちる 三つ 雪夜の除夜の鐘 明日 つけます使(四)者の船 一人の少女が毬つきをしながら歌を歌っている。昔から日本の雪国で歌われる数え歌。粉雪が降りはじめているが、少女はおかまいなしに、器用に毬をついていく。 少女は、赤い絹地で織り込まれた着物を着ており、白い透けるような肌である。平常体温が高いのか、頬は寒さに紅潮し、白い肌とは対照的に頬と唇だけが赤さを増していた。 静寂な中で足音が静かに響く。黒光りした革靴を履いて茶色いコートを羽織った男が、道路に立ちふさがる少女に目を留めた。 男の目はやさしく善良そうな顔で、穏やかな、一種人をなごませるぬくもりに満ちた目をしている。 「翔子ちゃん、風邪引くよ」 男と少女は顔見知りだった。 「直哉さん、今からどこに行くの?」 「翔子ちゃんのお家だよ」 「お土産は?」 少女にとってそれは当然といわんばかりの答えだった。男は、そんな子供のあどけなく都合のよい返答に、少しだけ微笑すると一つ頭をなでた。 「また、後でね」 「いつもそればっかり」 二人はかまわず短く笑った。 日本が敗戦し、復興の兆しが見え始め、町が変わろうとした冬である。 「直哉さん、いらしてらしたの」 玄関を開けると、土間で日本手ぬぐいをかぶった若い婦人がはたらいていた手を休め、直哉の側に駆け寄った。当時の日本女性の多くが木綿でできた着物で、毎日家事や畑仕事をして活発に労働している。 「義姉さん。兄さん帰ってる?」 「だんな様はまだよ。外務省のお仕事がお忙しいみたいなの」 「義姉さんもよく働くねえ。時代は空前の西洋びいきだよ。マッカーサ以来、自由だの平等だのと、どんどん伝統の日本文化に新しい風を入れ込んでいる。よくあんなお国と戦ってましたといいたいところだ。義姉さんもそんな服ばっかり着てないで、兄さんにハイカラな服でも買ってもらったらどうだい?」 時代は、敗戦で米軍達の救援物資などで多くの国民がまかなわれていた。しかし、日本人の多くがあまりの暗澹たる時代の移り変わりに、安堵と多くの不安を抱えていた。一つは、空前の食糧難。もともと肥沃ではなく自給率の低い国のことである。食料も不足がちで未だに闇市が横行していた。二つは、敗戦により労働力の不足が訴えられている。ほとんどの成人男性が戦争で召集令状により軍部にとられた。戦災孤児が人身売買のため奉公に行ったりしていた。 「もう、冗談でもそんなこと言わないで頂戴。だんな様は、国民が大変な時期だから、自分たちだけ得な目にあっているわけにはいかないとおっしゃって自分の働いたお金を戦災孤児のために使っているのよ。だから、私たちは朝も昼も働いているんですからね。直哉さんはまだあんな家業してらっしゃるの?」 「まあね」 直哉は、ふふっと笑うと土間に腰掛けて足を組んだ。 「もう、やめて頂戴。探偵だの何だのと言っている間にでもちゃんとした職について、博人さんを安心させてほしいものよ」 「ぼくは……」 直哉は、義姉の剣幕に、自分の言葉を飲み込んだ。 何もかも疲れた人々、先の見えない不安。押し寄せてくる海外の文化。当たり前だと投げやりになる先行き。 「わかったよ。わかった。もう義姉さんや兄さんに迷惑はかけないようにするから」 直哉は少しの間だけ目を瞑った。そして、手紙をコートの内ポケットから取り出した。 「明日から出かけるから、その前に兄さんと義姉さんに会っておきたかったんだ」 義姉は、はっとしたように顔を上げた。 「事件があったんだ。しばらくは帰れません。どうかお元気で」 「直哉さん……」 義姉は、落胆したように頭にかぶっていた日本てぬぐいをとると、目の前に居る青年の前途を心配した。 「もう少ししたら、だんな様も戻ってくるわ。一度、顔を会わせてあげて?」 本当の家族のように接してくれる義姉を前にして、直哉は少しだけ微笑んだ。 「夜汽車のきっぷは買ってあるんです。長居もできない」 何かが転がる音が響いた。直哉の足元に見慣れた毬が見えた。直哉が振り返ると、翔子が目をぱちくりとさせ驚いた顔をしている。 「直哉さん、また行っちゃうの?」 細い切れそうな声だけが響いた。 直哉は少しだけ寂しげに微笑むと、振り返らないように出ていく。 こぼれえぬ義姉の横顔だけがよぎる。直哉は忘れようと首を横にふると、夜風と雪にさらされながら駅舎を目指した。 ※※
ゲーム 投稿者:shino 2月25日(土) 13:19 削除
不完全な人間が、不完全な他人を思いやれるかという、難しい問題を考えていた。あの日から自己をなくし、心をなくして生きてきた。社会というカテゴリーの中にうけいれてもらえないのは、とうの昔に見知っていた。完全無垢なんてありはしない、そう感じてしまったときから心は壊れた。ガラスが粉々に粉砕して大きな破片が意味もなく散らばり、泥のついた靴で踏まれたように、輝きも光もない、そこにあるのはただ汚れてごみと化した自分の心だけだっただろう。社会に報復することにする。こんな自分を産んでしまった社会に。頭の奥がわずかに痛むのがわかった。それを押しやることにする。決して武装もしない。顔も見せない。これはゲームにすぎない。さあ、始めよう。 ☆ 則雅 忠志(のりまさ ただし)は新聞を広げた。腐るような事件が連日連夜日ごと内容を変え、大きく載っている。そのほとんどが、殺人、汚職、収賄、窃盗、強盗など種種様々なものだ。記事がないなんて日は一日だってありはしない。社会は一日一日様相を変え日々の事件を飲み込んでいる。そんなことをぼんやり考えながら、朝おきたばかりの貧血にちかい血の気の失せた顔で今日の新聞に目をとおす。一つの見出しに自然と目がいく。バラバラ死体発見と大きな見出しだった。内容はこうだ昨日身元不明の他殺体が見つかる。服装の断片から女性のものと断定。S区M川で、片腕、手、胴下半身が見つかる。早急に捜査本部がしかれ、臨戦態勢で犯人逮捕を目指す。ざっとそのように書かれてあった。忠志はからっぽの胃にすっぱいものがこみ上げるのがわかる。 怨恨、物取りの犯行、暴力団の臓器売買、精神病院から脱走した頭のいかれたヤツの犯行など瞬時にいろいろ浮かんだが、どれもあいまいで決定的なものは何もない。しかし細かいことまで考えずにはいられなかった。これは、一種の職業病だ。今現在売り出し中の週刊誌の記者なんかやるものではないと忠志は思った。記者にとって大きな仕事が入ってくる日は、嫌でも休みと睡眠時間がとれなかった。今日会社に行くと電話がひっきりなしになっているのが解る。特ダネを新聞社にモノにされて、半分キレたデスクの顔がちらつく。今日忠志の仕事は電話の応対から始まる。ひっきりなしに犯人の顔を見ただの、近所の不振人物があやしいなど、勝手なことをぬかす奴らの電話と、パニックとサーカスのピエロでも拝むような高揚に満ちた声にいらだちながら、嘘だと解っていてもいちいち電話の対応をしなければならない。青筋の浮かんだデスクの顔がちらついた。確か今年四十三歳になったばかりだ。上に高校受験を控えた娘がいる。下にもまだ男の子がいる。こんな多忙な職業に就き、部下に血圧の高そうな声を毎日上げ、あれでは家庭や地位など築き上げたものをすべて捨てていつか死ぬなと思う。色々なことがよぎった。 「起きてたの。まだ5時じゃない。あなたにしてはめずらしい」 甘い声が耳をくすぐり、忠志の座った身体に、細い腕が首から胸にかけて絡まってきた。忠志は振り返りざまに、弘子の絡めた腕にキスしてやる。にわかに弘子の身体が震える。彼女はまだパジャマのままだ。ささやかな日常が戻ってきた。忠志は微笑し、弘子に囁く。 「昨日の続きがしたい?」 「バカ。仕事でしょう。おいしい朝食作ってあげるからそれを食べて仕事にいきなさい」 もし自分に開放されることがあるなら、今のこの時間。弘子と過ごす時だと感じた。今日会社に行ってしまえば、しばらくは帰ってこれないと思うと、なおさらでもこの甘い温もりにひたりたい。 なごり惜しいような気持ちで身支度をすます。再びテーブルに戻ったときには弘子が云ったようにおいしそうなメニューが並んでいた。ご飯、かぶとわかめの味噌汁、たらこの卵焼き、ほうれん草の胡麻和え、和食派の忠志の嗜好に合わせた料理だった。忠志は談笑しながら、すいた腹にそれらを入れた。 忠志が机につくと、デスクが青沼 信人を怒鳴り散らしていた。 「なにやってんだ、青沼。お前それでも雑誌記者か。いい大学出たかしんねいが、お前一人のために社会は回ってるんじゃねえ」 青沼は青い顔をして、自分が何をやっていいのか解らず、ひどく同様した状態でから謝りをしていた。世の中には不幸な奴は必ずいると、忠志は思った。新人はもとい、上手く生きられない奴をたまに見かける。すべての悪意を吸収するような奴を、見た瞬間から不器用で救いようが無く、それ以上に他人の不快感を煽る奴がいる。忠志は青沼を無視して、物で溢れかえっている自分の机にある、呼び出し音の鳴っている電話の受話器をとった。 「ねえ」 やけにくぐもって聞こえにくい声が聞こえた。忠志は違和感を覚えた。瞬時に判断しにくい声で、男とも女ともつかない声だった。忠志は受話器に耳を押し当てる。 「ばらばら殺人の犯人知ってるよ。T公園にいってごらんよ。そこで女の首を絞めていたんだから」 そこで電話がふっつりと切れた。忠志はしばらく唖然とした。次の電話が鳴っていることをほったらかしにして、先の声について考えている。いつもの電話と感じが違っていた。編集の仕事をしているせいか職業的直感か、犯人に違いないと瞬時に思った。もしかしたら、悪戯かもしれない。しかし、快楽殺人者というのは自己を誇示したがる。電話の主が犯人の顔を同定していること、現場を見ている虚言に対して、なぜ日にちのたった今日、T公園に来いと云ったのか、すべてが謎だった。だいたい新聞に載っていた第一発見現場は川原ではなかったか。いつもなら、ワイドショーに洗脳されている、主婦の電話で済むはずだったが、いいしれぬ電話に怨嗟し興味を覚えた。そういえば、今日は事件の外回りがある。カメラマンと現場の川原に行き、警察から情報収集をする。忠志の仕事はルポルタージュだ。警察にどんなに聞いても、無知なのか義務なのかわずかな情報しか入らない。とにかく、川原に行った後でカメラマンに上手いことでも云って、T公園に一人で行こうと決めた。 T公園はさすがに静かだ。先までいた川原ではサイレンの音と鑑識、刑事などが現場を張り込んでいたのと、同業者同士の情報収集が盛んに行われていた。テレビ、マスコミが注目しているだけに川原の賑わいはすごかった。大事なことは、メモとテープに吹き込んである。帰ってから原稿にまとめれば、なんとか間に合う。忠志は辺りを見回した。特に変わった様子もなく針葉樹や生臭く苔むした池が延々とある。お昼時とあって人通りは公園にしては多い。忠志はだだっ広い公園を歩く。そして、うるさい声を聴く。かもやアヒルなど、水鳥の鳴き声。一匹でもうるさいのに集団合唱団のような声は、耳をふさぎたくなるほどだ。矢がもでも見つけたのかと疑いたくなった。忠志は池を覗いた。他にも観衆はいて、カップルや通りすがりの会社員なども池を見ている。かもたちはコンビニで使うビニール袋を中心につっついている。 「誰だよ。弁当なんか捨てた奴は」 カップルの男が罵声をあびせた。群集もそうだといわんばかりの顔つきだ。次第にビニールの紐がほどけた。ごろりと大きなものがでる。女の甲高い声が辺り一面にこだます。それはまぎれもなく、人間の生首だった。一斉に水鳥が顔をつっつきだす。あまりの気持ち悪さに忠志はしゃがんで吐いた。 「よう。元気か則雅、見舞いに来てやったぞ」 「お前、岸か、なつかしいな」 忠志は目を細めた。公園で生首を見た後、病院に運びこまれた。数時間前、内緒で公園に行ったことをデスクに咎められるかと思っていたが、幸いにも第一発見者ということもあり、今回はうちがトップ記事として書けるので、笑顔で見舞いにきて帰っていった。弘子にも迷惑はかけられないので、忠志はたいしたことはないと云って電話で済ませた。その後、岸が花束を持って見舞いに来た。岸 肇とは大学時代の同級生で就職してからも、ちょくちょく飲みに行った仲だ。しかし、週刊誌の配属になってから、時間が不規則になり、なかなか岸にも会えなくなっていた。雑然とした病室の作り付けの棚に花束が置かれる。忠志はベットから身を起こした。 「なんでここの病院がわかった。誰か連絡したか」 「弘子ちゃんから連絡があったんだよ。自分が行ったらお前の仕事に迷惑がかかるからって、だけどお前が心配だからって、けなげじゃあねえか」 「岸、悪かったな」 「俺はいいんだよ。少なからず職業的には同じ穴のムジナだからな。ところで何があった」 忠志は公園であったことを思い出していた。生首にカモがむしゃぶりつく姿を、生首の目玉をかもが抉り出していた。人間を肉だと忠志は思ったことはなかった。しかし、コラーゲンのゲル化した目玉を、網膜を突き破ってかもが口にしている姿、唇をつっつく姿、穴という穴にキスする姿はあまりにもグロテスクで凄惨なものがあった。そこにはもはや人間の原型はない。忠志は口元を手で押さえ、吐き気を押さえながら、電話のこと、T公園の生首のことなど、一部始終を岸に話した。さすがに最後の話の方では岸も青ざめていた。 「則雅、これからどうするんだ」 「どうするって? これから原稿を書くのに決まっているだろう」 「違う。俺の云っているのは、犯人のことだ」 犯人。忠志は今の今まで犯人のことは忘れていた。いいや。あまりの凄惨さに、考えないことにしていた。あんなことを人間がするはずなどない、と心の中でもみ消していた。忠志は記者だ。しかし、それは仕事の上に成立しているだけであって、記者として使命感に燃える方でもなかった。だけど、忠志は知りたかった。犯人がどんな奴なのかを。 「岸、お前、俺に何を云わせたい」 「いいや。則雅の事だ。これで終わらせるわけがないだろう」 岸は、にやにやと嫌な微笑みを忠志に返している。 「俺はミステリー作家だぞ」 忠志は気が遠のくのを感じた。岸はからかいに来た、と忠志はとっさに思った。 (こいつ、初めから解ってたんじゃないだろうな) 忠志は猜疑心の目で、岸を見つめる。 「大丈夫。俺が付いているって」 岸は作家なのに、全然忠志の気持ちには気づかず、先を続けた。 「則雅さん。則雅 忠志さん検温の時間です」 看護婦が入ってこなかったら、あのまま喧嘩ごしになっていたに違いない。看護婦は岸と顔を合わすとにわかに華やいだ。 「岸 恭一先生ですか。私先生のファンなんです」 忠志はなにが恭一先生だと思った。岸は「恭一」というペンネームで本を書いている。その方が女性のうけがいいと忠志に抜かしていた。自然に巻きやすい髪と水太りしやすい体形は肇のほうが合っていると思うのだが、岸は外ゆきの笑顔で看護婦と接している。白衣の天使にご機嫌のようだ。忠志は黙って体温計を計りながら二人の会話を聞いた。 「岸先生の「青の十字架」を拝読させていただきました。あの、なんていいますの。主人公の晶が犯人を実験室まで追い詰めていく姿、見ていてはらはらしましたの。そしたら、硫酸が」 看護婦は息を呑んだ。 「ありがとう。こんなに美しい女性に読んでいただけるなんて、僕は最高に幸せものですね。できたらサインをしてあげたいのですが」 忠志はなにが僕はだと思った。先まで俺といっていた男がこうも変われるものかと、忠志は思う。 (カマトト) 忠志は心の中でぼやいた。しかし、よくその歳で独身をつらぬいたよお前は、岸に失礼なことを忠志は心の中でぶつぶつ云っていた。それを知ってか知らずか、岸は看護婦と話しこむ。しまいには笑い声が響く。若い白衣の看護婦は岸に赤い顔を向けた、面白くない。 「失礼ですが先生と則雅さんのご関係って何ですか」 「……友達」 「……恋人」 忠志と岸は同時にしゃべった。岸はまた、不適な笑みを浮かべる。岸のホモ疑惑が週刊誌の芸能面に載っていた。美少年との道ならぬ恋だ。それは、岸が書いた新しい本から発生したでっちあげの記事だった。岸はこういう状況を楽しむ傾向がある。うかつだった、と忠志は思う。 「友達」「恋人」 また、言葉が重なった。 看護婦が微妙な笑顔で忠志と岸を交互に見る。違うんだ看護婦さん、と云おうとして忠志は口をパクパクさせた。 「僕は彼が好きなんです。華奢な体つき。それと相反してするどい目つき、だけど、僕の独りよがりな愛だったかな」 「そんなことないですわ。先生はとっても素敵です。だってあんなに素晴らしい本が書けるんですもの。私先生と則雅さんとの恋を応援させていただきます。決して誰にも話したりしません」 どっから、そんな発想が出るんだ。看護婦は岸の手を強く握って、病室を出て行った。忠志は心の中で弘子に謝りながら泣いた。 「気持ち悪かった。だから、作家って楽じゃないぜ」 「お前、頼むから俺を巻き込まないでくれ」 忠志は情けない顔で懇願した。岸がどう思われようとかまわないが、俺にはやさしい妻がいる。 「忠志、ホモ疑惑のある俺が内緒で病室に来るほうが、不自然だろ。お前の名前を一般大衆は知らない。それに、ただ吐いて運ばれて病院に来ただけだろ。今のところ。仮にも、お前は社会誌の記者だ。紙面に載せてから警察の聴取を受けるつもりだったんだろ。幸いにもあの看護婦は俺の読者だ。賭けるのが当たり前だ」 無茶なことを岸は云う。 「それに、俺と忠志が恋人であるほうがこれからやりやすい」 「……?」 「これから忠志と俺で、マスコミ各位や新聞で犯人にモーションをかける。そうしたら、何かしらの形で犯人は接触してくると思う。お前の会社に電話がかかってきたように。犯人は忠志の存在を知らない。もし、本当のことがばれてみろ、危険なのは俺とお前だけじゃない。弘子ちゃんも周りの人間も危険にさらされることになるんだ。ありがたいことに、あいにく俺にはかわいい嫁さんはいないがな」 このとき初めて、岸がミステリー作家に見えたことを忠志は実感した。 「忠志はこれから偽名と本名を使い分けるんだ」 忠志は会社の机で、例の電話について考えていた。唯一の手がかりだと思ったからだ。くぐもって聞こえにくい声は、犯人を知っている、と云っていた。なんで、自分が犯人ではなく、犯人の顔を見ているふうにしゃべったんだ? あの時の電話を間違いなく犯人のものだと思った。それは、時間差の関係で不振に思ったからだ。T公園で首を絞めていたら、大なり小なり有名な公園だから、無数の目撃証言が上がるはずだった。昼はOLや子供などの姿を首が転がった日に見ているし、夜の公園はアベックが多い。それで、その電話の声を瞬時に犯人だと思った。それは、電話の声が非常に分かりにくかったのと、電話から雑音が聴こえたからだった。雑音? 雑音のことを、忠志は今の今まで忘れていた。 「忠志さん。電話」 青沼は自分の席から忠志に声を掛ける。内線をつないでもらって、受話器を取る。 「おう。則雅か。岸だけど」 一番聴きたくない声が聴こえた。忠志はこのまま電話を切ろうかと決める。 「まさか、切るんじゃないだろうな」 鋭いことを岸が云う。しぶしぶ口を開く。周りでは同僚が構成の仕事をやっている。 「何のようだ、岸。俺は忙しいんだ」 「則雅の記事見たよ。春日 響ってPN使ってくれたんだな」 春日 響というPNは、岸が病院から帰るとき、忠志につけたものだ。忠志はそんな女の腐った名前は嫌だったが、弘子に危害が及ぶのも避けたかったので、女性記者ということで、デスクにPNをお願いした。 「お前のせいで、さんざんデスクにからかわれたんだぞ、わかっているのか?」 デスクは今日、珍しく外回りの仕事が入り、朝から出かけていた。大物政治家との会食らしい。おかげで忠志はデスクのことも話せる。PNを雑誌記者がつけるのは異例のことなので、デスクは最初に忠志のPNに反対をしていた。しかし、その交換条件に岸 恭一が自分の雑誌に本を載せてくれることが分かると、手を返したように、OKしてくれた。 「わかっているよ。今、則雅の会社の本も打ち出しているから、安心しろ。ところで、何か反応があったか?」 「ない。まだ一週間も経ってないだろ、犯人も気づいてないんじゃないか」 「そうか。俺も今日、新聞にコラムを出したところだ。ところで、お前の記事良かったぞ。秘密の目撃者、謎の電話が週刊誌編集部にかかる。目撃証言どおり公園に行くと人間の首が! 電話の主は犯人かそれとも目撃者か、どちらにしても事件との関係性は強そうだ」 岸が忠志の書いた記事の見出しを読み出した。 「もういい。お前、何しに電話をかけたんだ?」 忠志は岸を邪険に扱う。残した仕事がまだあった。 「おう。徹夜続きの則雅に酒のお誘いだ。今晩、出て来いよ。俺の担当編集者だろ」 週刊誌に載せる岸の本を忠志が見ることになっている。忠志はため息をついた。 ☆ 岸 肇は執筆がひと段落ついたので、近くのコンビニで弁当を買って自宅、といっても高級マンションの入り口まで向かっていた。長い間机に向かっていたせいで肩が痛んだ。雨が降り出していたので、ずっと傘を差している。 「……?」 岸は驚いた。道路に誰かが倒れていたからだ。岸は倒れている人間に向かって駆け寄った。十五、六歳の少年が倒れていた。 「大丈夫か」 岸は少年の頬をたたく。雨に服がぬれていた。冷え切った身体は体温を感じずに、人形が倒れているのかと思う。あんな事件があったので、岸は最初死体かと思った。少年を抱えて、とりあえず自宅に運ぶ。こんな日に限って人はまったく通らなかった。 少年をとりあえずベットに運び、濡れた服を脱がす。自分のパジャマを無理に着せる。暖房を高く設定して少年の体力の回復をはかった。大丈夫、脈があるので死体ではなさそうだ。しばらくすると、少年は目をうっすら開けた。 「ここ……どこ……」 少年は状況を認識していないのか、身体を起こして岸の部屋を見回す。 「気がついたか。お前、下で倒れていたんだぞ」 「……岸 恭一?」 少年は岸の顔を知っていた。少年は何を思ったのか岸の唇に人差し指を這わす。岸はあわてて飛びのいた。少年はつややかな上気した目で岸を見つめている。 「お前、犯人か?」 「犯人?」 少年は分からないというふうに問い返した。岸は怨嗟する。あまりに都合が良すぎる。人が倒れていること自体不振ではなかったか? 岸は自分に問い返していた。少年が立って岸に近づく、そして岸の首に腕を回す。 ジーンズにしまわれていた岸の携帯が突如鳴る。岸はすごい速さで携帯にでた。 「岸、大変だ。死体がまた上がった」 忠志の声だった。と、同時に岸は少年に唇を奪われていた。もちろん、舌もからまっている。 「聴いているのか? 岸、死体が上がったんだよ。俺は今から現場に向かう、取材が入ったからな」 岸は少年を片手で払いのけた。少年と岸との間に唾液が糸を引いている。男にキスされる覚えはない。それに電話を聞かねば忠志の性格だと直ぐに切られる可能性があるので、唇を袖で拭い少年から横を向いて、忠志と会話をする。 「聴こえている。お前、何時に取材を終わらせる予定だ」 「向こう(警察)にも守秘義務があるから、だらだら長居するつもりはない。次号に間に合う情報が手に入れば切り上げる。そうだな。時間で云えば、長くて五時間か」 腕時計を見た。今が、四時十分を差しかかろうとしていて、五時間を加えれば、九時頃には終わる。岸は少年を見た。まだ、熱を帯びた目で見上げている。 「響、今夜九時半にいつものバーで待っているからな」 「な、なんなんだ。ひ、響って」 忠志のどもった声が聴こえた。予想できた反応だ、分かりやすい奴だなと思う。しかし、少年がまだ何者か分からないうちは、忠志はPNで呼んだほうが得策だ。 「とにかく例のバーで待ち合わせたんだ、その時に俺の原稿を渡す。絶対に来いよ」 岸は少し語気を強めた。状況が早く展開しすぎていた。相手は人の死なんて何とも思っていないと無意識に感じていた。 ――死体がまた上がった 岸は背中に冷たいものを意識する。人間の心理やミステリーを書いているせいで、嫌な予感が満たした。 「担当編集者として原稿の締め切りが迫っている。行くに決まっているだろ」 電話が切れた。少年が電話を切れたことを確認すると擦り寄ってくる。岸は少年の両肩を持つ。少年の目を真っ直ぐに見つめる。 「お前は何者だ? 住所は? 何でここに来た?」 岸は冷静に疑問をストレートにぶつけていた。少年の目は粘膜が弱いのか湿って潤んでいる。悪いかなと思ったが、状況が状況だけにしかたない。 「僕、岸の本を見たんだ」 少年は細い声でつぶやくと、下に置いてあった濡れたデニムパンツのポケットに仕舞い込まれていた文庫本を取り出した。雨に濡れて湿った本には、紛れもなく岸 恭一と打たれている。題は「厳罰」だ。岸がホモ疑惑を賑わす本を出す前に、試験的に出したものだ。女性読者や若年層を惹きつけるために、同性愛色の濃いものを初めて書いた作品だ。内容は、主人公が美しい同級生に思いを寄せ、同性愛という罪深さから悩み葛藤していく物語だ。要所にキリスト教的思想を盛り込んである。今、熱筆しているものに比べると当初の売れ行きは良くないが、今も「厳罰」を読む読者がいるという意味では、長い伸び率がある本だった。岸は苦笑いを浮かべた。熱狂的読者というのはいたが、そのほとんどが女性だった。まさか、少年がくるとは思わない。犯人? という驚愕から少しおちつく。 「名前は?」「前田 義彦」 「住所は?」「A区B町、C孤児院」 C孤児院には、岸の方が言葉を無くしてしまう。なんと声を掛けたらいいのか迷った。 「いいよ、気にしなくて。慣れてるから」 「じゃあ質問を変えるが、なんで俺の家がわかった?」 「昨日、たまたま岸が○○○社から出てくるのを見かけた。ついてきたらこのマンションが見つかった。だけど、何階なのかどこの部屋なのかはわからなかった。だから、今日は下で岸を待ってたんだ」 オートロックのある高層マンションだが、この不景気で住人は少ない。探せないのも無理はなかった。それに、昨日は新聞社にコラムを出すついでに、新しい本を出した出版社にあいさつに行った。普通は原稿もパソコンのメールで添付して送信で済ますのだが、あいさつまわりだけは、物書きとして食べているぶん欠かせない日課となっていた。○○○社からは徒歩で行ける距離にマンションはある。岸はため息をつく。普通のストーカーならここで警察にでも通報して、明日の週刊誌の芸能コーナーに岸が映るぐらいだろう。しかし、相手は子供だ。良識を知るにはまだ時間がかかる年齢だった。岸は考える事をあきらめた。 「義彦、お腹がすかないか?」 「すいた」 岸はベットの横に放られた弁当を見つめた。騒動のせいで、中身はぐちゃぐちゃだった。 「仕方がない、作るか」 岸は少年に休むように云って、広い台所に向かった。シンプルなフレンチカントリーをモチーフにした白色を貴重としている台所だ。冷凍庫には食材のストックがある。岸は将来料理人になろうか、作家になろうかと迷ったぐらい料理作りは好きな分野だ。しかし、小説を書くと料理はおろそかになる。どうしてもコンビニ弁当に移行するが、冷凍庫に食材のストックを忘れたことはなかった。女性編集者が来たとき、なにかにつけて大変重宝するからだ。それで、対談の仕事が入ったこともあった。女性編集者は、今までの経験上、大半が料理を作れない。少し手のこったものを披露すると、目を丸くして喜んだ。 岸は冷凍庫を開ける。めんたい(白身魚)を取り出し、キッチンペーパーでつつんでレンジ解凍し、目の細かいパン粉に粉チーズとパセリのみじん切りを合わせた衣を魚に付け、溶かしバターをたっぷりまわしかけてガスオーブンで焼く。焼き時間の間に冷凍野菜を取り出し、ミネストローネを作る。あいにく、トマトがないのでトマトピューレで代用した。ミネストローネにはパスタを入れた。腹もちが良くなるからだ。デザートにはプリンを作る。牛乳と卵黄で作るシンプルなものだ。マグカップにプリン液を入れる。オーブントースターで蒸し焼きにし、最後に砂糖をふって、もう一度焼き、薄く焦げ目をつけた。 「すごい。これ全部岸が作ったの」 「どうだ、時間かけて作ったんだ残すんじゃないぞ」 義彦とむかい合わせでダイニングテーブルについて食事をする。無邪気に箸が進んでいるのを見つめながら観察する。中学生か高校生ぐらいだろうか、整った顔立ち、小説の主人公としては何も問題ないタイプだ。まさに、本当の意味で女性読者に受ける顔だろう。か弱い少年、守ってあげたい、とかそんな反応が、読者のファンレターで書かれてきそうな容姿だ。しかし、舌足らずなしゃべり口が実年齢よりだいぶ幼く見える。まるで、小学生と話している気にさせられる。 「おいしい。こんなの施設では食べた事ないよ」 「小説が書けるだけじゃないだろ」 義彦の頬に赤みが差す。岸は少し笑う。生きる事は食べる事だと、岸には勝手な自論がある。食べる事は人間が持つ最高の喜びではないかと思う。 (お兄ちゃん、お腹すいた) ふいに、その当時、まだ子供だったころに見た、妹の早苗の顔が脳裏によぎる。岸の母親は琴の先生をしていた。子供のしつけには厳しい人で、男の子は女の子を守っていきなさい、と云われて育ってきた。だから、嫌々ながら妹の面倒は良く見た。妹が泣くときは頭をなでたし、母が琴の授業で晩御飯が作れないときには、率先して家族全員の料理を作ってきた。病院の医者をしている父は、寡黙な人ではあったが、母よりは厳しくなく、勉強にも口を出さず期待もしない岸にとって理想の父親だった。無干渉なだけなのだが。 (お兄ちゃん。私、結婚するの) そんなわけで妹が悩みを相談するのは、いつも岸になっていた。五年前、先に結婚することになった早苗が、申し訳なさそうに話した。相手は銀行員だ。誠実そうな相手の顔が写真に写っていた。好かったじゃないか、心から岸はそう思った。しかし、結婚の大変さは、料理をする岸にはわかっている。とくに、お家柄同士の結婚は相手方のご家族に合わせなければならない。早苗が結婚してから、料理のレシピを定期的に送ることにしている。料理を岸がしていたので、早苗は料理が苦手でよく食材を焦がした。最初に送ったレシピは、さばの味噌煮と白和え、魚のお吸い物(ダシの取り方まで書く)だ。これさえ知っていれば相手のご家族に好感がもてるレシピを送った。 一生懸命に食べている義彦に妹がだぶったのかも知れない。 「どうしたの、岸」 義彦が不思議そうに見る。岸は首を横に振る。 「ちょっと思い出しただけだ。気にするな」 「ふーん」 ☆ 忠志はSkyscraper(摩天楼)の扉を開けた。いつもながら岸の旨いものにかける情熱は凄い、と忠志は思う。このバーでは夜の雰囲気は薄いが、カクテルもバーボンもテキーラもマズイものがない。間接照明が重厚そうな家具を照らして出している。ジャズミュージックが心地よかった。腕時計を見る。少し遅れたが三十分ぐらいは許容の範囲だろう。忠志は岸の姿を探した。カウンターの方に岸の姿を認めたので、早歩きで岸に近づく。手には抱えきれないほどの資料を持ってきた。 「岸、来たぞ」 「よお、ちょっとは時間通りにこれんのか。だいぶ待ったぞ」 忠志は面食らった。岸は遅刻を攻める奴じゃないからだ。というよりも、岸も作家という職業柄、時間にルーズなところがある。 「この人、誰」 岸の身体の横から声がした。忠志はびっくりして、声に焦点をあてる。少年じゃないか、アルコールはいいのか、いや、そもそもなんでここに中学生がいるんだ。忠志は疑問に思った。 (まさか、本当に「その気」があるんじゃないだろうな) 忠志は少年を見た。確かに女性週刊誌に載るような、アイドルや俳優の端正な顔立ちを少年はしている。 「――岸!!!」 「違う、誤解だ」 忠志の口に手を当てるようにして、岸が立ち上がる。忠志は頭痛がしてくる。 「ちょっと、こっちにこい」 岸を引きずるように、忠志は岸をバーの隅に呼び寄せる。少年から十分な距離を取る。 「あいつは、何なんだ。どう見ても未成年だぞ」 少年に声が聞こえないように声を潜めて忠志は尋ねた。岸はわけのわからない事を云った。忠志は不振気に岸の話を聞く。何でも、岸のマンションの下で少年が倒れていたとか、少年の介抱を岸がしたとか、忠志には意味がわからない。岸は少年に死体の話はしてあると云った。作り話だと思い、岸の顔を険しく見る。再び、岸と二人で少年のもとに戻ったとき、少年は岸の服の袖をもった。不振感はますます強まる。少年が忠志を見る。一瞬、少年の動きが氷のように止まった。 (睨まれなかったか?) いぶかしげに少年と岸を見る。恨まれる覚えはない。忠志にその趣味はなかった。 「何か情報が上がらなかったのか?」 岸が忠志に話しかける。忠志は少年の事を考えないようにして、椅子に腰掛けながら思い出したように手もとの資料をカウンターにほうり出す。 「第一発見現場の遺体の身元がわかったぞ」 「身元がわかったのか、すごいじゃないか」 「困ったことに、業界関係者だ」 「業界関係者って、出版業界か?」 「いいや違う。波多野 翔子って聞いたことがあるだろ」 波多野 翔子は今、駆け出し中の女優だった。つい、先日にメディアに謎の失踪を遂げたと、報道されていた。世間は女優の気まぐれだとはやしたてていた。忠志は芸能面をほとんど読まないため、波多野 翔子の存在すら知らなかった。編集の仕事に追われてテレビもほとんど見ない。今日、週刊誌編集部で芸能記事を見て、初めて誰かわかった程度だ。 「あの女優か。謎の失踪をしてたな。小説に使えそうだから、俺の記憶にもある」 「科学捜査でわかったそうだ。有名人だけに身元がすぐにわれたらしい」 「だったら何でばらばらにしたり、カモに身元を判断させないようにした?」 「俺もそこが気になった」 忠志は資料から茶封筒を取り出した。 「岸、そいつに見せるなよ。死体の写真が入っている」 忠志は少年に目を送り、岸に注意を促す。岸は茶封筒を持ち上げ、少年の目線より高い位置で写真を見た。少年はおとなしくしている。忠志は写真を一度見ている。岸の眉間にしわがよるのを忠志は黙認した。 「忠志、この写真どうした?」 「警察から特別入手だ。もちろん週刊誌にはのせられない写真だ」 首の第一発見者の忠志には、昼に死体が上がったとき真っ先に警察が尋ねてきた。名刺を見て、白髪まじりで五十代ぐらいの年配に見えた刑事が長谷川 澄夫だと知る。澄夫達警察サイドの人間もばらばら殺人の犯人逮捕に相当焦っているのが判る。これ以上物騒な騒ぎが起こるのを避けるため、向こう(長谷川)もマスコミの情報が欲しかったらしい。そこに、たまたま忠志のような第一発見者もいた。忠志には今までずっと会社の編集部に残り続けていたので、次の殺人のアリバイは立証されていた。忠志はついでに長谷川に第二殺人現場に連れて行ってもらった。 「こっちにもう一つ写真の束がある。こっちにも目を通してくれ」 忠志はもう一つの茶封筒を岸に渡す。中身が出される。 「なんだこれは、ごみ入れじゃないか」 「△○デパートの屋上のゴミ箱だ」 「次は腕だったのか」 「遺伝子鑑定でM川の遺体とは別の遺体だと判明した。つまり、遺体が一致しなかった以上、同一の死体では無い。二人、死んだということだ」 忠志がバーに遅れたのも遺伝子鑑定の結果報告待ちが理由だった。 岸が突然少年を見つめだした。何なんだ、と忠志は思う。話に途切れる。 「大丈夫か、義彦。顔色がすぐれないようだが」 「……岸、助けて。気持ち悪い」 岸は少年の頬をさわろうとしていた。忠志に別の寒気が走る。少年は岸にすがっている様子をさした。忠志には理解ができない。 「マスター、身体が温まるノンアルコール飲料を作ってくれ。そうそう香り付けにアルコールをニ、三滴だけ入れて」 「かしこまりました」 マスターは何かを作りだしていた。忠志は情景をただただ認知するばかりだ。 「すまなかった。家で待っててもらった方がよかったな。死体とか聞きなれない言葉で混乱しただろ」 少年が首を横に振った。 「ううん。僕が勝手についてきただけだから」 忠志は状況をやっと認識した。岸のやたら細かい性格が出ただけか、と忠志は思う。 「どうする。岸、話を続けるか?」 中学生に死体の話もないだろう、と忠志も気を遣い声を掛けた。岸が少年を見つめる格好になる。忠志の目に二人が入る。 「僕のことは気にしないで、続けて」 少年はつぶやく。忠志も今日じゃないと次の仕事が入っているため、困ることになる。岸がうなずいたのを、忠志は認めた。 「忠志、先を続けてくれ」 「M川の第一発見者は、川の清掃員をしている男性。T公園は俺やカップルなど複数の人間。△○デパートは妊婦」 「妊婦か、可哀想に」 「産まれてくる子供の備品を買った後、屋上で休んでいたそうだ。ゴミを捨てようとしたら、指がでたビニール袋が見つかったそうだ」 忠志も第一発見者だったので、妊婦に同情した。 忠志は今日の夕方に長谷川から現場へ連れて行ってもらうと、妊婦はまだ錯乱しているのか、暗い顔をしてベンチにすわっていた。すぐに、警察が妊婦をどこかに連れて行く。忠志はカメラマン重田 和夫を引き連れていた。すでに腕のないゴミ箱の写真を重田は撮りだしている。忠志は重田を外目で眺めながら、長谷川と色々話し込んだ。捜査上のこと、疑問、はては日常会話まで、忠志は、長谷川のもつ一種独特の空気に共感した。長谷川は捜査に前向きな姿勢で取り組んでいる。刑事という職業にいながら、どこか美学がある、と忠志は胸の底で思う。人に対する姿勢にも、それが現れているような気がした。週刊誌に載せる情報を手に入れると、長谷川と長谷川の部下の飛田 憲三を軽い食事に誘う。飛田は身長の低い新米刑事だ。本当は飲み屋で話を持ちかけると百パーセント上手くいくのだが、平日の昼だ、お互い会社にばれると悪いと思ったから居酒屋はやめておいた。カメラマンの重田も忠志のおごりということで、連れていく。忠志はルポルタージュを仕事としているせいか、人から情報を手に入れるすべというか、社交術、ノウハウを持っている。そこで、死体の写真を手に入れた。もちろん、写真を出したのは長谷川ではなく飛田の方だった。長谷川は苦笑いを浮かべていた。忠志は絶対週刊誌に載せないことを条件にした。死体の写真を出すような、マイナーなオカルト雑誌じゃない。週刊誌はあくまで情報誌だ。死体の写真なんか出したら、会社での忠志の首と重田の首は間違いなく飛ぶ、ということを長谷川と飛田に忠志は説明した。今度は重田の方が驚いていた。忠志さん俺を首にさせる気ですか、と云っていた。 「岸、写真を見てどう思う?」 「異常だな。意味のない殺し方といい、連続性といい、快楽殺人者の典型だ」 「お前もそう思うか。俺もだ」 忠志は週刊誌の記事を書き出すようになってから、色々な分野の本を読むようになっていた。その中にプロファイラー、特別犯罪捜査間の手記による本も含まれていた。人を殺す事を趣味とする犯罪者の心理を書いたものだ。動物虐待から人間の殺意へ移ることもあるらしい。忠志はそんなことを思い出していた。岸もミステリーを書いているので、一応の知識があるような気がした。 「そうだ、岸、三月二十六日、暇か?」 「明後日だな。原稿の執筆があるが、締め切りが当分先だ。それがどうかしたのか」 「死んだ、波多野 翔子の所属事務所が開く、歓迎披露会がある、一緒に出ないか」 事務所側の人間が、事務所のイメージダウンを回避させようと模様されるパーティーだ。忠志は、今日、編集部に戻ったとき、取材の話がでていた。もちろん、芸能記事ではない。社会誌の記者としてだ。岸も著名人ということで連れて行きたい。目的は犯人の、より詳しい情報を手に入れるためだ。少しでも犯人の情報を手に入れたい。 「わかった。俺も気になることがあるから行く。まあ、小説のネタにもなるしな」 「岸、この飲み物、おいしい」 少年が話しに割り込む。岸が少年のカップを見る。 「ホット・バタード・ラム・カウか。どうだ。ここのマスターは飲み物作りが上手いだろ」 「うん」 またか、と思う。何なんだこの親子のような会話は、岸を見て、カマトトという言葉しか忠志は思い浮かばない。疲れた、と思う。 「目撃者の電話からは雑音が聴こえていたな」 忠志は、思いだしたことを、小声でつぶやいた。 「どの、目撃者だ」 岸が突っ込む。忠志はぼんやりして岸を見る。気になることが頭をかすめていた。 「編集部にかかってきた例の電話だ」 「――なぜ、早く云わない!」 「たいしたことじゃないだろ雑音ぐらい」 「たいしたこと大有りだ。則雅、サブリミナル効果って知らないのか?」 「サブ……薬かそれ」 忠志は頭の中で、薬効でバファリンやらパブロンが浮かんでいた。風邪薬か何かかと思う。 「違う。サブリミナル効果だ」 「何だ。それは」 不服そうに、忠志は答えた。 「則雅、俺の小説読んだ事ないだろ」 当たっていた。岸とは大学時代の同級で、作家という気負いがないため、岸の本にまったく手をつけたこともなければ、書店でぱらぱらと立ち読みさえしたことがない。 「「服部 誠司シリーズ」だね」 少年が身を乗り出して口を開く。岸がうなずく。忠志には話が見えてこない。 「「代償」の回で、犯人が爆弾予告に使った手だよね」 「そうだ。よく知ってたな」 「うん。僕、岸の本大好きだから」 岸は数回少年の頭をなでた。お前はなんなんだ、もう疲れたから思わないようにする。 「サブリミナル効果は、顕在意識には知覚されないが、潜在意識には届く、特殊な刺激により潜在意識を活性化させる手法だ。則雅、取材用のテープ持ってるな」 「ああ。テープがどうかしたのか」 忠志は取材用の何の変哲もない小型テープレコーダーを出した。 「借りるぞ」 岸は何を思ったのか、テープを早送りにした。テープから擦るような嫌な音がする。数分テープを回すと岸はテープを止めた。 「これが、初歩的なサブリミナル効果だ。顕在意識では気づかない音、雑音だが、潜在意識や無意識では、このテープに取られている会話は克明に脳の深いところで認識している。つまり、テープのメッセージを受け取ったことになるんだ。これによって、例えばだな、T公園に行きたい、と吹き込んだものを早送りにしてだな何度も雑音として送ると、無意識はT公園に行きたい、と知覚して、今度は顕在意識に働きかける。この方法で目的の場所T公園まで相手をおびき寄せることもできるんだ」 「冗談だろ。偶然じゃないっていうのか」 「もし、犯人が実際にこの方法を使ったとして考えると、怖いことがある。犯人は頭のイカれた奴じゃない。知能犯、確信犯に近いということだ」 忠志は背中に冷たいものを今度は本当に感じた。 ☆ 岸は則雅と別れた後、義彦とタクシーを待っている。夜の夜気が頬に心地が良い。あいかわらず義彦は岸の袖を持つ。 (やれやれ) 家に着いたときに木製の壁時計は午前一時を回っていた。 「義彦、施設に連絡するぞ」 義彦からは返事が返ってこない。岸はリビングを見る。義彦はリビングのソファーでうずくまっている。 「寝たのか?」 義彦は目をうっすら開けた。整った顔立ちがさらに際立つように存在していた。 「岸、僕をあそこに帰さないで。あそこは怖いんだ。僕は人間じゃなくなる」 そういうと義彦は岸の手首を掴む。義彦の手が小刻みに震えているのが、岸の腕にも伝わる。手負いの獣、が安住の地を求めているように岸には見えた。 (岸、お願い。私をあの人達から逃がして) 前にも岸は同じ状況を体験したことがある。同じソファーで、同じようにうずくまりながら、皮製の赤いソファーに身をあずけ岸に何かを訴えかける。岸はその時も何も答えなかった。上手い表現も、気のきくようなセリフも、言葉自体を飲み込んでいる。こういう状況が苦手だ、どこか小説とは違う現実の悩みに慣れないといってもいい。岸は必ず黙って側に居るしかできない性分だ。そして、相手も黙り込む。 (私達終わりよ) 最終的に終わりがやってくる。岸は学生時代からもてない、ということはなかった。告白も人生において幾度もされている。特に作家になってからは、女性編集者や読者など、色々な立場から結婚の話があった。しかし、乗る気がしない、高揚に満ちた目に慣れない。小さい頃から、料理も、洗濯も、片付け(整理整頓)も、現在では仕事もできているため、結婚については考えられなかった。また、家政婦もやとわない。自分の生活を乱されるのがもともと体質に合わない。岸は人付き合いが苦手だ。 「どうした。義彦が帰らずここの部屋に居たら、俺は警察につかまらなくちゃあいけない」 なるべく落ち着かせるようにやわらかく云った。義彦の考えるそぶりを目視した。 「ごめんなさい。でも、また遊びに来てもいいでしょ」 「ああ、いつでもおいで。今日は遅いから、泊まってもかまわないが、明日はちゃんと帰るんだぞ」 「うん。岸、僕のお願い聞いてくれる?」 義彦の顔は沈んでいた。 「なんだ」 「今日だけは、このまま岸と手をつないで眠りたい」 義彦の沈んだ空気を払拭させるように岸は黙ってうなずいた。掛け布団を義彦にかける。岸は地べたのフローリングに座って手だけを握らせた。義彦は落ち着いたのか、すぐに眠りに落ちていき、静かな寝息をたてた。岸は手をにぎらせたまま義彦を一瞥する。まるで西洋絵画のような綺麗な寝顔だ。座ったまま自宅の天井を眺めた。岸の胸をさしたのは、犯人についてと、このソファーに身をあずけたもう一人を思い出していた。 岸は少年が深い眠りにつくと、手をそっと離し、施設に電話した。内容を胆略的に話す。 「まあ、そうですの、義彦ちゃんが見つかってよかった」 学園長のほっとした声が聞こえた。 ☆ 「どんな理由があって、そいつを仕事場まで連れてくるんだ」 忠志は切れそうになるのを何とかこらえて、岸に問いただした。今日は歓迎披露パーティーの日だ。それなのに岸は例の少年をまた連れてきている。 「その、だ。今日は学校が休みだし、歓迎披露パーティーたって、一般客もアイドル見たさにくるだろう、いいじゃないか」 それとこれとはワケが違うだろう、と忠志は思ったが、公衆の面前と記者としての仕事もあり、あまり深く考えられない。忠志の腕には自分の会社の腕章がついている。週刊誌、芸能レポーター、女優、アイドル、客を合わせて、ざっと五百人は超えて会場にいただろう。熱気や細かい雑話が響く。バラバラ殺人と注目のニュースだけに人が集まっているのか、アイドル見たさなのか、忠志にはわからない混雑だった。この中から犯人に関する情報を取得するのは不可能に思われた。 人の集落の一団から歓声がもれる。そこかしこから熱い視線が注がれる。 「三島 春美だぜ。綺麗な大物女優は違うよな。先週のドラマ見たか?」 「見たよ。「リミット」だろ。そういえば、「リミット」の監督と熱愛中じゃなかったっけ」 「うそだろ。俺、けっこうファンだったのに」 そんな、ファンの世間話の間を掻き分けて、三島 春美が姿を表した。ショートボブに切られた髪が顔の小ささを強調していた。耳と首に飾るダイヤのアクセサリーを凌駕する美しさで春美は女優の愛想を振りまいている。忠志も大物女優に目を見張る。女優が一歩一歩、こちらに近づいてくる。ボルドーのカクテルドレスをゆり動かして迫ってくる姿は、空気までも巻き込んでいる。軽い足取りに誰もが心を奪われていた。そして、忠志の側で足が止まる。せん越な香水の匂いが、かすかに忠志の鼻につきむせ返る。特別な高揚感がついて回る。 「岸、来ていたの」 忠志が驚いた。春美が話しかけたのが岸だからだ。 春美が声をもらすと、岸に抱きついた。忠志はますます一驚する。芸能レポーターが岸と春美に注目をする。 「春美さん。冗談はやめてくださいよ。皆さんが心配しますよ」 岸が春美の耳元で話す。かろうじて、横にいる忠志に聴こえる程度の声音だ。 「嫌よ。岸と私の仲なのよ。TVが怖くて女優がやってられる?」 「困りましたね。貴方には監督が、僕にも、その、好きな人が」 岸は忠志にウインクして見せた。忠志は一変し気持ちの悪さに鳥肌がたった。別の嫌悪感が走る。絶対岸とだけは神がなんと云おうとしても嫌だ。俺には弘子がいる。岸は小声にしていたからよいものを、誰かに聞かれたら、俺はおしまいだ、と忠志は何度も心の中で繰り返した。 「あら、監督とは別居状態よ。それに岸の噂の相手って美少年じゃなかった? あの子みたいな」 女優の浮世話はすごい。到底一般市民の忠志には理解できない。春美が岸の連れてきた少年を指す。 「違いますよ。彼は関係ありません」 さらりとかわす岸に忠志は足がすべった。少年は守られて、俺は守られないわけか、忠志は心の中で怒りがわく。昨日自宅に帰宅して弘子の天使の微笑みを数日ぶりに見た。岸、お前は悪魔だ、と忠志は思いつめた。 ☆ 岸は春美がここに居るとは思わなかった。義彦が泊まった日に思い返していた、赤いソファーで眠ったもう一人が春美だ。もう二度と会わないつもりだった。出会いは岸が書いた本の原作でドラマ化が決まり、ドラマの主演を勤めたのが春美だった。岸はキャスト、スタッフを招いて、ホームパティーを開いたことがある。そのときから、春美はよく岸の家に出入りをしていた。オートロックの番号もいつのまにか記憶している。女優の記憶力はあなどれない。誰だかわからないように春美は変装をしていて、マンションのドアをノックする。岸は最初とまどった。なぜ、大女優が自分の部屋におしかけてくるのか理解できず、苦労した。 春美が岸宅へ出入りをするようになって数ヶ月、春美は岸の赤い皮製のソファーでいつものように横たわっていた。女優という多忙な職業から疲れがたまっているらしい。顔色がすぐれない。 「春美さん。そろそろ帰らないと事務所の皆さんが心配しますよ」 岸には、その気がないので、春美を寝取ったことはない。突き上げる感情がなかったでもないのだが、いつもの冷静さが行為を許さないといったところだろう。ソファーの側ガラスでできたテーブルでノートパソコンを用いて原稿を書きながら、春美に声を掛けた。 「嫌よ、岸。私は絶対帰らない」 「困りましたね。僕は週刊誌は苦手なんですよ」 岸は女性に対してだけは、僕という主語と敬語を使う。口調も丁寧にするように心がけている。やはり、母親の「男の子は、女の子を守っていきなさい」という言葉の影響力と対談などの人付き合いの効果は絶大だ。 「私が嫌いなの? 何度となく通っているのよ」 春美の声が叫び声に近かった。 「もう疲れたの。女優という仕事も、面前にさらされるのも」 「春美さんを待っていらっしゃる方がいっぱい、おられますよ」 岸は実にさわやかそうに作ってしゃべった。これ以上、春美の声を聴くと抑えていた理性がどうにかなりそうだ。春美のことを愛しいと思う自分がいるのを振り切ってきた。彼女の女優としての名誉が傷つくことだけは、避けねばならない。春美は目に涙を浮かべ、一筋こぼした。 「岸、お願い。私をあの人達から逃がして」 その時、春美がかわいそうな普通の女に見えた。どんな思いで仕事をしてきたのか、女優というペルソナも口やかましい声援もストレスでしかない。作家という職業がら岸も春美をそういう意味で理解できた。 「春美さん。どこかで休みましょうか。僕も春美さんにお願いしたいことがあります」 「岸が私になんの用があるの」 春美の目はきょとんとしている。春美は鼻を高くして、気高く見せようとする癖があるが、 岸の家にくるようになり、違った表情を見せる。女優ではない普通の表情といってもいい、岸は人の顔に敏感だ。小さい頃からミステリーや心理学の本など数万冊を読みこんでいるため、相手のちょっとした情報だけで、職業、嘘、趣味、などが見抜ける。 「おい、何処へいく」 忠志が声をかけた。 「響さん大丈夫ですよ。すぐ戻ってきます」 忠志の動きが止まった。岸は忠志に悪いと思いながら春美をロビーにうながした。忠志はバカじゃないが一本木だから人の細かい情動がわからないので、岸にとって非常につきあいやすい人種だ。求めることもしなければ、作家としてみることもない、何を考えているか一目でわかる単純な思考だ。 会場内に人が密集しているので、外まで気を配るやからがいない。春美は裏からの出かたを良く把握しているから、会場のどこに人がいないのかわかっている風だ。控え室まで案内しましょうか? と春美は岸に聞いていたが、岸は密室ではなく風通しがよいところをお願いした。会場の二階にテラスがある。そこでお話しましょう、と春美は華やいだ。理由は二階が控え室になっているため、二階全体が立ち入り禁止になっていて、テラスにも人がこない、ということらしい。 テラスにはテラコッタ製の茶色いタイルが敷き詰めてある。緑がかったアイアン製のテーブルと椅子がありオープンカフェ風だ。柵は黒のアイアン製でアールデコー調にできていた。一階の庭が見え、桜の樹が満開の花をつけている。今日は天気もいい。二人は立ったまま一階の光景を眺める。春風が心地よいが、春美の腕の出たドレスはまだ時期的に寒そうだ。岸は自分のジャケットを脱ぎ春美の肩にかけた。 「あいかわらず、やることがニクイわね」 「そうですか? 僕はいつもこうですけど」 春美が目を潤まし、岸の首に腕をまわす。岸は卑屈でもなく始終なごやかに笑った。 「また冗談ですか、僕は春美さんに振られた人間ですよ」 (私達終わりよ) 突然の宣告にうろたえたのは岸のほうだった。結局、春美が涙をこぼしたことで、岸は春美と付き合いだしたが、数ヶ月後、春美の方から岸に別れ話を持ちかけた。岸はやはり何も云えずに別れた。その数週間後、春美が知らない俳優と付き合っているワイドショー画面を見たが、岸は悩むというより、そんなもんなんだろう、と思う自分に気づいた。 「本当は私、あの日、岸に引き止めてもらいたかったのよ」 「…………」 食指が動かないとは、こういうことだろうか。沈黙の間が苦しい。春美の整った顔が、風で舞い上がる桜の花弁と非常な関係でなりたっている。春の似合う女性、そんな言葉が浮かんだ。 「ふふふ、冗談よ。岸の面食らった顔初めて見たわ。そうね、あんなにかわいい坊や達が相手なんですもの。いくら女優でも女の私には勝ち目がないわね」 春美は大きな誤解をしているが、今はほおっておいたほうがいい気がした。さびしそうな春美の笑顔は痛かったが、もう後戻りもできない。 「とくに、あのおチビちゃんのほうは、貴方にとって特別になりそうね」 春美は忠志にではなく、義彦の方を指しているようだ。岸は未成年に手をだすようなマネは絶対にしない。 「春美さん。できれば僕の話も聴いてくれたらうれしいです」 岸は気まずさを払拭させるためと、本題に入るために話題を変えた。 「なあに話って、あらたまっちゃって」 「殺された波多野 翔子さんの詳しい情報と人間関係を、春美さんの顔の広さで調べていただけますか、僕と一緒に。もちろん、危険なことはどんなことがあっても避けてもらうために、突っ込んだ追求はやめてください」 「あら、今度もまた推理小説でも書くの?」 波多野 翔子の死は大きなニュースではあったものの、死体の写真を直接見ていないものにとっては現実としてとらえにくい。生首を鴨が口にしていたことは、ニュース報道でも伏せられている。春美には最小の協力で、少しでも犯人の情報が欲しいところだ。ゼロからの出発ではいくら望んでも犯人の情報は手に入らない。 「ええ。しかも、今日中になんとか情報が欲しいです」 春美の覇気がある性格のことだ、今日じゃなく日にちを延ばせば興味が沸きおこり、波多野 翔子の二の舞にならないともかぎらない、必要最低限の情報が手に入ればこちらで調べられる。 「いいわよ、岸と二人で探偵役ね」 ☆ 忠志は岸にほっぽり出されて、ぐだぐだと仕事をする。何よりも仕事である以上、この場を離れることができない。後からきた重田がカメラを向けていた。 「忠志さん、すごい混雑ですね」 「そうだな。芸能パーティーだからな」 いつもの混雑は、横領容疑の官僚の張り込みや、火事現場の情報収集、死体発見現場の情報収集で活気があっても華はない。今回は芸能ときているから、顔ぶれが大分違うし華がある。 「俺も仕事をするか」 定刻時刻になり隣の客室に移り、芸能レポーターや記者が社長にマイクやカメラを向けだした。豪華そうな取材人用の並べてある椅子に座る。前の長いテーブルクロスのかけられた机とセットの椅子には社長と若手アイドル達が座っている。一斉にこぞって取材人が手を上げる。まるで、結婚記者会見だ。 「あの、波多野 翔子さんの死について、何かご存知ですか?」 他の若い報道記者から声が上がる。芸能レポーターではない、まじめそうな顔がうかがえる。しかし、最初に質問をする内容ではない。 「今回は新人披露のために開かれたパーティーですから、そういった新聞記事に関する質問はなしでお願いします」 ほら見ろ、司会進行を勤める女がさえぎった。今回はろくな情報が入らないに決まっている。人の動きが見えないようなら、記者はやらないほうが良い。もともと、週刊誌なんてわずかな情報をふくらまして書いているに過ぎない。高倍率を目標とし現実のニュース報道に自分の意見を折り混ぜればそれでよい。それに、自分の足で調べたら終わりである。よほどのフリージャーナリストでなければ事実の影をあばくことはない。忠志はフリーの記者でもないので、自分の与えられた仕事を確実に速くこなせれば満足がいくタイプだ。 次々と上がる質問を忠志はテープに入れた。もちろん、芸能ニュースだがメモに絶えず情報を書き込む。帰ってから社長の批評でも混ぜればよい。 忠志の予想通りたいしたネタは上がらなかった。社長は愛想笑いを浮かべ、必要以上にアイドルを売り込んだ。 忠志は早く切り上げるようにして、人が混雑している部屋に戻る。黄色の腕章があるのは便利だ。少なからず規制はなくなる。犯人が気になる。客、有名人、会場整備の人、軽食、カメラ、ごったがえす人を掻き分けて、歩きだす。むやみやたらに歩いても手がかりがないことはわかっているのだが、今はとりあえずうろうろする。人に肩がぶつかりそうになるが、何とかこらえる。人垣の間に――不振なものを見つけた。 (あれは、何だ!) 黒いコートを着ている一人の人間が見える。うずくまって首を丸めているから顔も黒い布地のフードに隠れて見えない。そう、小説でよくある死神の格好、黒装束、すごい人だかりだから、誰もそいつには気づかない、いや、実際はいぶかしそうな目つきの客もいるが、パーティーという異空間から、仮装だ、と思っているのかもしれない。 忠志は早歩きで黒尽くめに近づこうとしたら、黒ずくめも逃げるように遠のく。おかしい、首が転がった日の嫌な気持ちで充満している。なぜ、逃げるんだ。 忠志は急いで後を追う。同じ距離、黒ずくめは走って会場を抜け出す。まるで芝居だ。騒ぎの声が一瞬止まった。一方に集中しているため、他の声が耳に入らない。 廊下の中央に客室の重厚そうな厚い扉がある。扉を開ける。忠志も会場から出る。黒ずくめはもう数秒前に出て行った。廊下が左右に分かれる。左右を見回すと、右の廊下の端に黒い姿があり消えた。走って忠志も右側に向かい、角を曲がる。受付の人間や数人が忠志と黒ずくめを振り返ったが気にしている場合ではない。 黒づくめは廊下の端にある男性用トイレに駆け込んだのが判る。忠志もトイレに急ぐ。清掃中のプラカードがかかっている。男性用トイレの扉を開けたが、誰もいない。青いタイルの床に白い男性用のトイレがあるのみだ。糞便用のドアが閉まっている。隠れているのか? 忠志は息が上がるのを知覚した。そして、勢いよくドアを開ける。 (――――?) 洋式トイレの蓋の上に、黒い衣装が残されているだけだった。 忠志は黒い衣装を手に取り、辺りを探るが手がかりらしい手がかりも、死体もない。また、黒装束の中身の人間も見つからなかった。忠志は糞便用トイレをいったんでて、トイレの出入り口と反対側にある窓を見る。鍵は開いていてトイレは一階だから逃げられる。となればここから、黒装束は外へ出て行ったことになる。なんで、こんなことをしたんだ、忠志は顔をしかめた。いたずらなのかなんなのか、わからない。 窓を一応開けてみるが、もう人らしい姿は見あたらなかった。 ☆ 岸は春美と一緒に会場に入る。豪華な絨毯、大きな照明がある。岸の腕に春美は腕を絡ませてきた。 「岸、今日は腕ぐらい、いいでしょう?」 春美が小声で囁いた。 「いいですよ。春美さんと僕との仲ですから」 岸は鼻の頭が赤くなるような気がしたが、いつもの手前、整然としておき、少し微笑む。 「じゃあ、岸探偵、私は何をすればいいのかしら」 「波多野 翔子さんと関係のあった方々を紹介して欲しいです」 「わかったわ、行きましょう」 春美は自分の専属マネージャーを呼び寄せると、波多野 翔子の人間関係を調べてもらっていたが、やはり事務所が同じということもあってか、五分ぐらいでメモを春美に渡して、どこかに消えた。 「へえ、彼女(波多野 翔子)って、ここ一、二年のデビューなんだ」 芸能の上下関係は厳しい。波多野は駆け出しの女優なのだろう。 「誰が波多野さんの知り合いかわかりますかね?」 「ちょっとまってね。あの人、彼女をデビューさせた人だわ」 春美がメモを見ながら指さした先には、やせ型で黒ぶちめがねをかけたスーツ姿の男がいた。とりまきが何人か居て、シャンパンを持ちながら談笑している。 「笠井 健一、確かグラビア雑誌の担当さん。彼のおかげで世の中に彼女をだした人物」 春美は笠井に手を振った。笠井は大物女優気づくと早足で近づいてきた。 「やあ、春美さん。この間はどうも」 この間が何年も前そうなのは岸も経験している。それにしても、春美に馴れ馴れしい。春美の腰に手をまわしかけようとしている。岸はあんまりにも春美に不快な思いもさせたくはないので、前に出た。それに、犯人の可能性も拭えない。 「あれ、岸 恭一先生も、どうされたんですか?」 ノー天気な声が返ってくる。 「いえ、僕の次回作のミステリーに波多野さんの事件を参考にして本でも書こうかなあと」 岸は白々しい嘘をついたが、ミステリー作家の醍醐味か、感情があまり表に出ない性格なので、相手も気にしていない様子だ。 「ああ、彼女ね。可哀想だよ。バラバラ殺人だったって聴かされたときは。でも噂によると、彼女ストーカーに狙われてるってもらしてたな」 「ストーカー?」 岸は聴き返していた。熱狂的なファン、変質的愛情、色々な情報が頭に流れるが、話をもっと聴かねば答えは導きだせない。 「そうだよ。うん。覚えている。彼女、グラビアの写真撮影のとき、ひどく震えて、撮影が二時間遅れたから、記憶に残っているな。スタッフの方があわててた。仕事が駄目になるんじゃないかってね。その頃、彼女のコマーシャルが評判良かったから、ようやく起動に乗れてうれしがっていたのに、その矢先にストーカーにねらわれるようになったって、あっちこっちに吹聴してたかな。俺も小耳に挟んだだけだからよくはわからんけど」 岸は初めての情報に少し混乱している。前にどこかの女優宛に爆弾レターが来たのを覚えているが、そのストーカーがどの程度の危険率なのかがつかめない。 「ところで、笠井さん。あなたと波多野さんのご関係って?」 岸は苦笑した。春美が女優の貫禄で鼻を高くして、質問している。今の状況をテレビで放映すると火曜サスペンス劇場ばりだ。 「嫌だなあ。春美さん、俺をうたがってるんですか。彼女とは何でもありませんって、そうですね、数回スタッフと一緒に食事に誘ったぐらいですかね」 女優の投げかけた質問になかば冗談めかして、笠井は云った。 「次は岸、あの人よ。松本 澄子、彼女のマネージャー」 もう、春美は探偵か刑事である。岸は後についていくだけだ。改めて、今日かぎりで良かった、と安心した。危険性が春美には薄い、その分犯人には好都合になりかねない。松本に二人で歩みよる。松本は華奢で目の細い知的な女性だった。岸は自分の小説のことを松本に念を押しながら波多野のことを尋ねる。 「私ショックで、最初は波多野さん宛に熱烈なファンレターが届いて、でもそれは誰でも良く送られてくるから気にしなかったのに、バラの花束が贈られてきて、中から波多野さんのヌード写真がでてきて、お前のことを見てる、って手紙と一緒に、私怖くてその花束を波多野さんに渡せなくって、それで捨ててしまって」 やはり、ストーカーのことを指しているようだ。岸はうなった、ストーカーじゃあ犯人を限定しにくい、一般人の可能性もある。 「ストーカーに狙われだした日にちとか判れば、教えていただけますか」 岸は無意識に尋ねていた。殺しまでの時間と逆算できそうだし、突発的ファンなのか、長期型ファンなのか検討をつける手段にもなりそうだ。少し視野を狭めれば何か見えてくるかもしれない。 「ええ気味が悪いから覚えています。あれは三ヶ月前のコマーシャルの後で、やっと彼女が起動に乗り始めた時期でした」 ――コマーシャル? 岸は首をひねった。笠井も松本もコマーシャルを境にして、波多野がストーカーに狙われていた、と証言している。 「どんな、コマーシャルなんですか?」 「普通にお菓子製造メーカーの×○会社の広告ですよ」 岸は思い返していた。確か中にチョコが入ったリング状の小さなお菓子のコマーシャル。 (どんな人も、翔子が天国へ連れていってあげる) 宣伝文句が頭をよぎり、ジャンクフードを食べる波多野が浮かぶ。今は事件のせいで自粛され、違う人物が似たようなコマーシャルをしている。 「松本さん、あと一つ。波多野さんの恋人にあった男性などを教えていただけますか?」 岸はやはり人間関係でもつれやすい男女間はどうしても調べておきたかった。ミステリーの常套手段だ。今回はストーカーのほうが引っかかるが、一応調べておくのにこしたことはない。 「うるせー、俺は犯人じゃない」 耳をつんざく音が響いた。客が何人も振り返る。はずかしいヤツ、と岸は思った。まだ、何も質問していない上に、岸と春美は警察でもなければなんでもない。よほど警察にこっぴどくしょっぴぬかれたのか、憔悴しきって疲れた顔をしていた。黒のレーザージャケットに細身の体系をしている。しかし、こうわめかれたら迷惑意外何者でもない。 「誰も貴方が犯人だなんて云っていないわよ。岸が、小説の材料に今回の事件を参考にしているだけ」 春美がぴしゃりと云いのけた。やはり女優の貫禄が違うのか、すごみがある。ようやく、渡部 実は静かになる。 「くそっ、翔子と付き合うんじゃなかったぜ。たいして美人でもなかったしよ」 これは、いくらなんでも酷い云い方だ。岸としては、もっとも付き合いづらいタイプだ。独断と偏見に満ちている。いわゆる自尊心が強いタイプだろう。 「あの、失礼ですが、いつからあなた方お二人は付き合いだしたんですか」 岸はなるべく普通に質問した。また、騒がれたら、たまったものではない。ヒステリックな人物に自分の感情をぶつけても効果が全然ないからだ。 「俺らは、一年前に深夜番組で付き合いだした」 芸人と新人女優の恋、ありきたりだな、と岸は思う。殺意にいたる動機が見えてこない。ヒステリックだから逆上して殺した、と警察は思ったのかもしれない。この憔悴と反発はどう見ても警察に向けられている。それに、一年前……コマーシャルと関係のない日数が気になる。 「それにあいつ、週刊誌編集長と付き合っていたみたいだしな。二股かけられるし、最悪だ」 「おい。どういうことだ、週刊誌編集長って」 ついため口がでてしまった。男にはどうもため口になる。 「ああ。三ヶ月前かなグラビアの写真が起動に乗ったから、俺とは付き合えないとほざきやがった。もとから、俺も別れるつもりだったけどよ」 ――三ヶ月前か、合致するな。三ヶ月前が引っかかる。線、見えない糸、殺人、一直線につながればいいが、まだだ何かが足りない。 「編集長の名前はわかるか?」 「いいや、そこまでは俺もわかんねえ」 岸はまたうなった。どうも、まだ見えてこないし、肝心の編集長が誰かわからなければ、数ある週刊誌から探すのに手間取る。 後ろから誰かが岸の背中を軽く叩いた。 「岸、疲れた、帰りたい」 義彦だった。岸より少し低い身長で見上げている。今まで何処に? と云いたいところだが、ほったらかした岸に責任がある。十六の少年にはまだこういう大きな場は慣れないかったろうに、岸は少し張り詰めていたものが抜けた。 「他は社長とかだけど、情報は入りそうにないわね。若手アイドルと一緒の記者会見にしか顔をださないみたいだから」 春美が見かねて岸に声をかけた。 「探偵役はお開きにしましょう」 ☆ 「忠志さん、どこ行ってたんですか」 重田があきれたように声をかける。 「トイレだ。トイレ」 一応本当のことをしゃべっておく、用をたしたわけではないが、どちらの意味でも取れる。黒い服は手に握られている。 「もう、撮影は終わりましたよ。早く帰りましょうよ」 「わかった」 これから原稿を書きに編集部に戻る。岸には携帯のメールで帰ることを打ち込んでおく。もちろん、黒装束のことも、忠志は送信した。 ☆ 忠志からのメールを受けて岸は自宅の部屋に戻ると、波多野の人間関係をパソコンで整理するために、パソコンの電源を入れた。作業机がある部屋のドアをノックする音が聞こえる。義彦が岸の手料理を食べたいと云ったので家に入れた。しかし、波多野の人間関係の整理は早ければ早いほうが忘れないので待っていてもらっている状態だったが、何かあったようだ。ドアの開く音がする。 「岸、入ってもいい」 伺うような声が聞こえてきた。声質が幾分低く小さい。 「入ってもいいに決まってるだろ」 岸はプラスチック製の椅子に座ったまま振り返った。 「――岸はあの女の人が好きなの」 何を突然、でる単語の羅列が思い浮かばない。義彦はドアから岸に一歩一歩近づいてくる。 「僕では駄目なの、岸を満たすことはできないの?」 子供がしゃべるセリフではない。義彦は岸の両腕を握り、涙をこぼした。さらさら、と実によく落ちる涙だ。岸の両腕に水滴が落ちる。 「いやだよう。僕を一人にしないで。僕は一人ぼっちでは生きてはいけない」 春美と岸の様子を密かに義彦は伺っていたに違いない。多感な感性で何かをぶつけようとしている。なんと声をかけたらいいかわからない。岸は義彦の頭を撫で、涙を手で拭った。 「それは、義彦の誤解だぞ。俺と春美さんは何でもない。それに義彦が泣くことはないじゃないか」 岸は春美との関係にウソをついた、春美とのことは他人に云うことでもない。岸の涙を拭っている袖を義彦は片手でそっと握る。感覚が伝わる。 「本当に大好きだよ。岸に僕はどう見えているの?」 「……弟みたいなものだ」 歳が親と子ぐらい離れているが、岸には子供も居ない身分なので、今もっている最良の答えを義彦に伝えた。それ以上はあってはならない。人間として超えてはならない一線もある。どんなに思われても、これだけは変わりない。義彦は辛そうに、岸に迷惑をかけないように見る。 「困らせてごめんなさい」 「いいや」 岸は一人で波多野の人間関係の整理を始めた。義彦は帰ると云って手料理も食べずに帰った。岸は頭を横に振り、集中する。悩んでも物事が解決しない日はとりあえず仕事に魂を込める。今日あった波多野に関係のある人物相関図を作る。あと一人、週刊誌編集長を入れる。これは、忠志に調べてもらえば早いかもしれない。あっちが本業だからな、国会図書館で調べるのもいいが、そろそろ小説の締め切りが迫っていた。カレンダーを見つめる、何社とも掛け持ちした痕が赤字で残っている。そういえば、義彦がこなければ料理はおろそかになっていた。最近時間が短いということに気づきだした。歳だろうか、小説を書く楽しみもあるが、時間に追われる。 ☆ 時計は午後四時を指しかかろうとしている。 忠志はパソコンにむかって原稿を書き上げる。週刊誌は時間との勝負だ。時間的に来週に持ち越すと、他社との生存競争に紙面争いで負ける。このご時世だ、仕事があるだけでもありがたいが、最近みんながぴりぴりしているのに気づく、バブルがはじけてここまで不況のあおりを受けるとは誰も思わなかった。出版業界も例外ではない。何社とつぶれていくなかでの生き残り合戦だ。残業が多くなった。弘子とも会えない。今日も専属事務所の社長の批判や皮肉を込めながら記事を書く。悪気があるわけでもない。そういうもんだから週刊誌記事は、批判めいたものの方が文章としてしまる。 ある程度メモにまとめていたからすらすら文字が書ける、いつもはテープを起こし、校正をして、提出、確認、印刷会社に提出。電話の応対、岸の本の校正、これの繰り返し。 「忠志さん、コーヒー入れましょうか?」 青沼が声をかける。 「いい、自分でやる」 忠志は少しの時間、休憩を入れた。少し岸からのメールでひっかかるところもあるし、インスタントの安いコーヒーを入れ、待合室のような簡素なソファーに身を預けながら、自分の雑誌社の週刊誌全部を広げた。まずは自分の社としての週刊誌から調べるのが妥当だろう。しかし、この数は半端な量じゃない。三ヶ月前に発行された週間雑誌はてはティーン雑誌まである。ははは、岸、お前は俺を殺す気か、と頭の中を掠ったが、一度乗り出した船だから、文句も云わず一誌をめくる。当然、波多野のグラビア写真なんかない。 五誌目に移ったあたりで、集中力は途切れだす。本業の仕事じゃないからやる気がでない。仕方がないから、自分の部署の週刊誌をめくる。忠志の手が止まる。 (――どういうことだ!) 裏側からめくっていくと白黒写真で波多野のページが何ページにも渡って掲載されている。 (――デスク?) 確信が持てないし、自分の属している週刊誌だとすると事を荒立てることができない。 ☆ 青いシーツの自宅のベットで岸は目が覚めた。今日からは徹夜に入る。ベットを出て、歯を磨き着替える。そして早速書きかけの原稿作成に取り掛かる。ミステリーの最終トリック解決の所だ。今回は暗号を重点のトリックにし、ダイイングメッセージ(死んで行く者の伝言)にした。ダイイングメッセージとは殺されたと考えられる人が、その現場に何らかの形で犯人を推測させる手がかりを残すことである。 暗号はある基準を決めてしまえば、いくらでも変化させることができるので、時間が逼迫しているときによく用いる手法だ。本当はもっと練ったトリックを考えたいのだが、バラバラ死体の話と同時進行だったので、暗号に決めた。締め切りだけは守ることにしている。ぎりぎりだと息がつまりそうになるからだ。岸は自分のパソコンを見つめる。何十年もこの作業を繰り返している。もう、身体がなじんだ。それでも賞を取ったときはネタがつきるのではないかと危惧したが、なんとかなる。資料はつきることがない。それで、もっただけのことだ。 インターフォンが鳴る。オートロックだからいちいち電話型のドアフォンにでなくてはならないのが面倒だが、義彦かもしれないので出る。もしかしたら、昨日のことが尾を引いてこないかもしれない。 「岸、あ、あの遊びにきたけど入ってもいい」 緊張し、どもった義彦の声が聴こえた。岸の顔が少し緩んだ。最近どうも調子がおかしい。長い間一人で仕事をこなしているせいかも知れない。義彦には甘い、本当の弟のようだ。 「俺は締め切りが迫ってるから、おとなしくできるんだったらいいぞ」 「うん。おとなしくする」 明るい声色が返ってきた。数分後に義彦は岸の家に上がり、仕事部屋に入る。 「岸の新しい小説だね。見てもいい」 校正用に途中まで印刷し、赤ペンと共に床に並べてある原稿を見て、義彦が聴く。 「枚数の順番を変えないように気をつけるんだったら見てもいいぞ」 岸は原稿を作成しながら答えた。結末の導入部に取りかかる。ダイイングメッセージの答えと犯人を服部 誠司が暴くところだ。最初が決まればだいたいミステリーの短編の場合、最後が決まる。 ☆ (そういえば、今日デスクを見ていないな) 忠志は波多野の記事を見つけると、再び同僚達がいる自分の修羅場に戻った。 「今電話があった。則政、大変だ。デスクが自殺した」 同僚の和田 康弘が迫った調子で声をかける。六つの作業机が報道部の部署にあって、いつもはそれぞれが何かしら作業をしている。今日はみんな大慌てで立っていた。忠志は呆然とした。先、波多野とデスクの関係がやっと結びついたんだ。 「何があったんだ」 かろうじてそれだけを口にしている。いつもどおり、ここは仕事をして終わりではないのか? 疑問が沸き起こる。身近な人間が何かに飲まれることほど恐怖なことはない。自分にも何かわけのわからないものが降ってかかりそうだ。 「デスクがホテルで頸をつった」 和田も声を荒げている。六人が六人とも現状を認識していない。デスクの穴は誰が埋めるんだ。明後日には原稿を提出しなければならないんだぞ、無駄に能動的な自分に気づく。人の死よりもみんな仕事のことが気になるのだ。 「局長