そういえば昔ろうせきというもので遊んだなあと突然思い出しながら第四回ですこんばんは。週五なシフトで朝から夕方まで働き、週二なシフトで更に夜中まで働く毎日を繰り返していたら段々厭な気分になって挙句の果てに体重が増えました。寒天がいいとか食前にところてんがいいとか周囲から言われまくり、結論として要は透明なものを喰えばいいということらしいです。空気喰ってれば一番体重増えないんだろうなあと思いつつ自分の好物は色のあるものばかりでがくり。というかどうしてこんなにも息が切れそうな文章を書いているんでしょうか私。間違いなく私にリーディングハッピーは無理だなあと思いつつ、今回は息も切れない正しい日本語が満載の一般書籍を扱うことにしました。忙しすぎてQBOOKSの作品を読みきれなかったという言い訳は心の中にそっとしまって、今回扱わせていただく作品のご紹介を。
中沢けい『海を感じる時(講談社・1978年)』なのです。
この作品は第21回群像新人賞を受賞したことでも有名ですが、やはり私が注目してしまったのは、この作品を書き上げたとき、作者が私と同じ十八歳だったということです。あとがきにも「教室と街の中で書いた」とあり、文藝評論家がこの作品を取り上げるとき、ほとんどの方が作者の年齢に言及しています。もちろん、十八歳が小説家デビューするという事実自体目を引くものですが、何故こんなにも騒がれたかといいますのは、やはり年齢を思わせない完成度の高さや、独自の文体を所持していたことが原因だと思われます。では、何故この作品がクオリティの高いものに仕上がったか。一番大きい原因は、主人公の世界と作者の実感が、非常に近いところにあったせいだと思われます。今回のテーマはつまりこれなのです。『実体験を小説にする』。
主人公の恵美子は二級上の先輩、高野洋に思いを寄せる。そして冷やかしでされたキスのあと、恵美子は高野に向かってこう言った。 「抱いてください」「ここに退部届けがあります。来週から部はやめます。だから今日、抱いてください」……。
恵美子は執拗なまでに高野に執着し、手紙を書き、部屋を訪ね、街へ出かける高野に着いてゆく。一見ストーカーのような行為を繰り返す恵美子に対し、高野は早く自分を諦めろと言う。これは恋ではないと。勘違いしているだけだと。一方で、恵美子は元来母親との仲が悪く、高野との関係が知られてから険悪さは日に日に増してゆく。夜中まで続く怒鳴り合い。耐えられないほどの言葉の暴力。二人の間に挟まれる恵美子は高野に向かってこう言い放ちます。
「わたし、遊ばれてもいいんです」
恵美子は本当に遊ばれてもいいと思ったのでしょうか。十八の小娘が気取って言っただけではないでしょうか。その答えは、否であるように思います。恵美子は確かに高野に真剣な気持ちで接し、本気で遊ばれてもいいと思ったのではないでしょうか。けれど十八歳である私は思いました。本気で好きな相手に遊ばれてもいいなんて思えるはずがない。その思いはどこから来るのだろうと。その答えは母親の態度に隠されていると私は推測します。 つまり、恵美子は母親に大事にされすぎたのです。夜遅く帰宅するときはバス停まで迎えに来てくれる。夜は買い物があってもおつかいにはやらない。父親がいなくても大学まで受験出来る金銭を稼いでくれる。そんな母親の態度を分かっていたから、恵美子はどんなにひどいことを言われても母親と自分は仲が良いといいます。けれど反発がなかったわけではありません。母親に大事にされすぎた故に、恵美子は母親に対する正直な気持ちを申し訳なく思い、言えなくなってしまうのです。それでも反発は積もってゆきます。対応しきれない心が選んだのは、他に逃げ道をつくること。これしかなかったのでしょう。 恵美子にとって高野は愛する男性であるけれど、その気持ちは純粋な恋心だけではないように思われます。母親に大事にされすぎた故に、男に遊ばれて捨てられる馬鹿な女にもなりたかったのではないでしょうか。それは、思春期の少女が体験する自己陶酔とは違ったものであるようにうかがえます。人間、愛されすぎると逆にそれがストレスになるとも言います。母親の過度な愛情を受けて病んでしまった子供の話も良く聞くものです。恵美子は幼少時から良い子であったし、それはつとめてそう振舞った彼女自身の成果でもありますが、母親の無言のプレッシャーを受けてそうなってしまった、というのも嘘ではないように思います。母親は生真面目で、かわいそうで、苦労をしている。それを見て生きてきた恵美子は、それとは逆の、軽くて楽しそうで自由そうな高野に、憧れの混じった恋心をもったのではないでしょうか。もちろん、高野に恋をしたのは母親だけが原因であるわけではないでしょう。恵美子自身も語っているように、出会ったときの会話や高野自身の魅力も恋心の重要な要因です。しかしそれだけではない、母親という隠れた要因がこの恋の中には潜んでおり、そのせいもあり高野は「これは恋ではない」と断言し、恵美子も自分の気持ちに対して自信が持てなかったのではないでしょうか。
ここで最初の話を思い出しましょう。この作品が評価されたのは、十八歳の少女のみずみずしい、リアルな感性が多大に影響されています。そして主人公の恵美子は十八歳。つまり、作者と同じ年齢なのです。創作をするひとならひときわ、そうでない人でもこれを単なる偶然とは思わないでしょう。「実体験なのではないか」。この憶測が、必ず誰かの頭には浮かぶはずです。
この作品が実体験であったかどうか、私はもちろん知りません。実際、そんなものは重要でないのです。ただこの作品を書いたとき作者は十八歳で、主人公の恵美子も十八歳であった。その事実が、この作品の生々しいまでの現実感を生んでいるのではないかと思います。実際作者には父親がいるかもしれないし、いないかもしれない。二級上の先輩に恋をしていたかもしれないし、そうでないかもしれない。けれど確実に、思春期特有の第二反抗期はあっただろうし、母親に幾分かの反発を感じたこともあるでしょう。先輩に憧れた経験もあってもおかしくないし、大学受験に悩むのも、受験生なら当たり前です。つまりこの作品は、十八歳の少女なら誰しもが体験していておかしくない事実がたくさんつまっているのです。それ故に生々しいまでにリアルで、隅々まで作者の思いが行き渡っていて、生きた感性が感じられるのです。 最近は実体験のような小説が非常に良く売れています。綿矢りさのデビュー作である『インストール(河出書房新社・2001年)』の主人公もそういえばデビュー時と同じ十七歳です。芥川賞を受賞した金原ひとみの『蛇にピアス(集英社・2003年)』の主人公も、どこか金原自身を彷彿とさせられるような人格です。この傾向に対し、批判的な声も良く聞くものです。小説とは創作物なのだから、実体験をそのまま小説にしていてはエッセイと変わらないではないか、と。そもそも小説とエッセイとの違いは何かという疑問はここでは触れませんが、私は小説には様々な形があっても良いのではと思います。たとえ実体験だとしても、小説として発表すればそれは立派に小説であり、実体験を小説にしたことで生々しい現実感が描けるのなら、むしろそれは小説として大いに成功していると言えるのではないでしょうか。最近のアマチュア作家さんでも実体験を小説にする人が随分増えたようですが、それを単なる感情の吐露にしてしまわずに、実体験であるということを強みにして現実感をぐっと高められるのなら、実体験の小説もいいものだなあと私は思います。05/6/15/MEW
 写真左より▲『海を感じる時』(新風舎文庫) 『海を感じる時 水平線上にて』(講談社文芸文庫)
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