Pontormo 文学のすべてがターゲット!書く=・232221201918171615141312111098754321


筆者紹介
ながしろばんり
小説・編集・評論・弾語・Webデザイン・イラストレーション

筆者近況◎
1980年、東京都三鷹市生まれ。日本大学藝術学部文藝学科を卒業後、文藝出版社勤務を経て現在はフリー。師匠は文芸評論家の多岐祐介。
中沢けい公式サイト「豆畑の友」管理人他のウェブサイト管理をはじめとして、2005年1月にはイラストと本文を手がけた『貴方の常識力を10倍にする本』(実業之日本社)を刊行。その他、文芸雑誌「文藝矮星」、ヘタレエンタテイメント雑誌「五蘊冗句」(現在は休刊)編集長。
また、評論ではポントルモ文学書斎にて『書評のデュナミス』連載中、筆をギターに持ち替えて弾語アルバム二本、小説では「火喰鳥」で徳間書店「新世紀小説バトル」最終選考。亜空間創作ギルド万里園主宰、文藝越人六〇〇主宰、と偉大なる器用貧乏振りを遺憾なく発揮。文藝不一会幹事。オンライン文学賞「矮星賞」選考委員。
なお、今年はエンターティメント批評のフリーペーパー『ルクツゥン』デスク。寄稿リスト|
第1回
第2回コモンセンス
第3回グロテスク
第4回剥製〜短編小説論 I
第5回空間〜空間小説論〜
第6回破綻〜ライトノベル論
第7回萌え〜判官贔屓のリアリティ〜
第8回リアル〜『となり町戦争』を読む〜
第9回お役所〜文字・活字文化振興法案(前編)
第10回施策〜文字・活字文化振興法案(後編)
第11回興味〜よいこのブックガイド
第12回センス〜ダビデ王とマシンガン
第13回春は化け物
             
森羅万象
書く人のための文芸事情

「書評のデュナミス」 第11回 興味〜よいこのブックガイド

 当コラムは「文学書斎ポントルモ」、なんちう場所に連載されておりますけえ、自然と読者が限られてくる按配。まさか「わたしはホリエモンにならって南海電鉄を買い占めます」なんてかたが来ようはづもなく、どちらかというと小説読み、小説書きの人々がくるようでござい。
 そもそもだね、文学も他のジャンルと同じで、先人がやってきたことの上に我々の世代がさらに積まねばならぬ、というところがあるわけで。だいたいそうだわなぁ、思い立ってネットから小説をはじめる諸氏というのは特に先達の作品って読まれないんぢゃないかと。自分の山を最初から積む、というのは、結局今の文学が追っている水準までも、一生かかってもたどり着かないということなんでござい。ある意味、その辺が素人モノカキと玄人のおおきな違いと思うのであるよ。いわゆる教養が無いゆえに、センスで書くしかない。センスなんざ繁殖する土台があれば伸びるけど、繁殖できる土台が無かったらネタ切れ、やる気の喪失、絶望感、筆折っちゃう、だなんてもったいない。何を書けばいいかわからない、のではなくて、もう書くものが無いのではないだろうかね、今現在の自分には。

 教養ってなんだよ。今軽々しく教養といいましたが筆者は。イヤイヤサニアラズ、この場合の教養は、正しい。
 知の栄養が教養だとする。至極わかりやすい説明であります。ぢゃあ知の栄養ってなんだい、といえばそりゃあインデックス、索引だという。大変話が飛んだ気がするのでもうすこし階段を踏みますが、いろいろの知識をずんべらと知ってござるのはそれはそれで凄い。ポケモン全部いえる。鉄道の発着をみんな記憶している。文学史が頭にはいっていはる。石川啄木が仙台ではじめて女を買ったのは千九百云十云年。エライ。それはそれで凄い才能、ではあるが教養ぢゃ無い。だったら一万年後の十月十日が何曜日か覚えている人は教養があるのか。不慮の事故から脳を打って下半身不随になっても電話帳一冊覚えている人に教養があるのか。無いとは云わないけど、それを教養とは呼ぶまいて。
 つまりは、インデックスが知である。「ラファエル前派」ったらペイトン卿の「真夏の夜の夢」で、これを見たルイスキャロルが傾倒してジョン=テニエルにアリスの挿画を依頼した、と。アリスといえば誕生日がオードリー=ヘップバーンと同じで、オードリーといえば「サウンド・オブ・ミュージック」の主演を断って、代役で出たジュリー・アンドリュースが一躍有名人になる、と。ジュリー・アンドリュースといえば「メリー・ポピンズ」で……と、いわゆるどれだけの関連性が頭の中にあるのか、というのが実際の意味での「教養」なのでありますですよ。芸能人が薀蓄バトルをするけれども、ただ「情報を知っている」というのであれば、つまるところものの本を読んじゃえばいいわけである。ディテールは、必要があってから自分で確認すればいいだけの、話。

 せっかくこういう文藝コラムをやっているんだから書くけれども、特に作家やろうという人々は、むしろメジャー作品を読むといいと思う。自分の好きなものを書くのもいいけれども、メジャーがなんでメジャーなのか? という点で自分なりに得るものはあるんではないかな、と。
 で、きっかけさえあればいい。日常生活から日本人の文学に入り込める入り口さえあれば、あとは興味のむかうまま、であります。
 旧仮名遣いが面倒とか、どうも古臭いとか云われるものはいくら世間的な価値が高くてもつまらないんだわな。それはよくわかるので、できるだけ読むのに苦労しないで、エッセンスが汲み取れるものを出していこうかと。例えばメジャーどころだと、大体この辺なんてどうだろう。

◆ 夏目漱石『文鳥・夢十夜』(新潮文庫)
 この一冊には表題作の「文鳥」「夢十夜」他の短編が収録されてござい。
 漱石の日本語は核をとらえているよなぁ。平成十七年の今現在で使っても廃れることのない日本語が揃っております。人間が子供っぽかったり風景がシュールだったり、とりたててあまり小説を読まないネット小説書きでもこのくらいは読んでいてもいいんじゃないかしらん。
 漱石というのは造語マニアで、ポストのことを郵便筒と書いてみたり、あたりに「四隣」なんて漢字を充ててみたり、日本語を習得した上で自分の息として使っているのが格好いい。ただ、この軽さの裏に、とてつもない探究心が、ある。
 『坊ちゃん』『我輩は猫である』がダメェー、という読者も多分大丈夫、であろう。あたしも上記二作品は、ダメェー。



◆谷崎潤一郎『刺青・秘密』(新潮文庫)
 第七回「萌え」で谷崎は色々取り上げたけれども、おおむね大体昔の作品をウンウン唸って読むというのは非常に体力を奪われるもので。
 まぁなにしろ、面白くて短いに越したことはない。谷崎はそれぞれの年齢でのエロを書いているけれども、基本的なマゾヒズムやグロテスクというのは変わっていない。だとしたらこれでいい。あと、「瘋癲老人日記」は筆が重くなるけれども、「刺青」は軽い。とにかく軽い。書く側の立場からすれば、サディストとマゾヒスト、この二人の立場の入れ替わり方、という辺り。サドマゾは紙一重というけれども、じゃあ、なにが、役割付けを産み出しているのか。ということだ。


◆川端康成『雪国』(新潮文庫)
 なんだか新潮文庫の回し者みたいになってるけれども。
 川端や横光なんかの「新感覚派」の文章が楽しめる。何も冒頭のトンネルを抜けるだけが「雪国」ぢゃないんだぁなぁ。美しい日本のわたし、ったって、川端の文学の根っこは所詮フランスの自然主義。ノーベル賞の候補者が「ジャポネズム!」なんちゅても、結局は日本人の文学の中でも親しみやすかった、ちゅのが大きいのであります。だいたい、ノーベル文学賞を獲った海外の作家なんて、読者諸氏、ほとんど御存知あるまいよ。日本でも細々と出版されているのはしているけれども(アタシの居た出版社でも取り扱ってたなぁ)、なにしろ流通に乗らないんだコレが。ノーベル賞という名前だけで持ち上げられている懸念がござい。
 基本的には妻子ある島村と雪国の芸者児誠の不倫小説であります。新感覚派、というのは視点の転換だとか、主体と客体の展開なんかで表現の模索をしていていった人々であるけれども、その背景にはエロを書こうにも第二次世界大戦中の検閲を通り抜けるための技巧、だったともいえるのでありんす。
 例えば、駒子と島村が何の変哲も無い会話をしている、が、島村は駒子の鼻の穴を見ながら会話をしている、という按配。
 ということは――ワッカルカナァ、ワッカンネェダロウナァ。


◆島崎藤村『夜明け前』(新潮文庫)
 よくよく考えると、近代の作家ってだいたい新潮社が版権を持っているのよね。講談社も文芸文庫なんて出しているけれども、一冊800円の文庫なんぞ出せねばならぬ時代ですよバアチャン! 悲しくてヨヨと泣けてくる。
 『夜明け前』筆者は挫折しております。なにしろ、飛騨高山の宿場の顔役である青山家を大体の核として、黒船来航から戊辰戦争、明治維新あたりまでを分厚い文庫本三冊でとうとうと書かれている大長編。訥々としすぎていてなんというか。ただ、NHKの大河ドラマだと思うとなんとなく許せない気がしなくもない、が、確か和田勉さん演出で映画にもなっているはずなんだけれども。残念なことに義経も九郎判官もタッキーも(みんな同じや!)でてこない。つまり、主人公不在で、時間の流れそのものが主体なのであるよ。幕末維新の時代の風を空間ごと切り取る、という意味ではなんともスケールがでかいのではありますが。
 毎日毎日寝る前に一時間幕末維新に浸る小説である。これは、そういうスケールを覚悟せにゃ、ならんわけですな。

 そろそろ枚数が尽きてきたのでこんなもんかいな。
 結構上記みたいなことを書いて平然としていると、いわゆる学際の人間からは「ここまで無責任に筆を運べるというのが恐ろしい」なんていわれるけれども、その学の波打ち際のことなんざ内陸の人間にゃわからないんだぁな。本があって、読んでみて作家という人間にまで言及することは可能だけれども、それをいわゆる学級的な符丁を前提として話したところで、何が面白いのかがワカンナイ、ということなのであります。野球も格闘技も素人が見ていて面白がれるけれども、同様に文藝だって素人が見ていて面白くなかったり意味がわからなかったらしょうがないんだぁね。学問は見世物ではない、ということの前に、人の仕事は他の人の心を動かす、というのがある。それをもなし得ねば、人間の成す仕事としては、結果として不十分なのである。
 だがね、もし職業作家志望で本稿をお読みのヤングアンドジェントルがいたらの話だけれども、結局やるんだったら、最前線で人の心をつかんでいる作家をどうやって超えるか、ということを意識していくしかない。ネットでやってるから、同人でやってるから、とマァー、自分が本当に超えるべき人種から自分自身を遠ざけてしまってはデビューも何もないんでないかい、などと筆者は思うわけだ。
 やー、勝たにゃあ、ならん。
05/10/16/NAGASHIRO
                                           

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