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読書虫のための文芸事情
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【深詰さんの場合】坂口安吾著『青鬼の褌を洗う女』(講談社文芸文庫)
 坂口安吾著『白痴・青鬼の褌を洗う女』(講談社文芸文庫) | | 僕は二十歳過ぎまで、本を読む習慣がまったくなかった。それまでに触れた文学や小説の類と言えば、国語の教科書か読書感想文のために読んだ課題図書ぐらいのもので、中学三年の時、担任だった国語教師が本を読まない生徒に勧めていた、谷崎潤一郎の『痴人の愛』を本屋で買って読んだのが、十代で唯一の、自発的な読書経験だ。でも、ただ読んだだけだ。「目覚め」でも何でもない。 それから五年ほど経った大学二年の終わり頃、春になったら入るつもりでいたゼミが教授の都合で突然廃止になった。僕は行き場もやる気も失ったのだが、面白そうだよと友人に誘われて、なぜか近現代文学研究のゼミに入ることになった。それから本を読むように、いや、読まざるを得なくなったのだ。それからは半ばヤケクソだ、作家をひとり決めては、手に入る作品を片っ端から読み倒し、泥縄式に読書の範囲を広げていった。これが冒頭にいう「二十歳過ぎ」の出来事だ。 大きな影響を受けた本なら、「片っ端から読み倒し」たひとり、柄谷行人の『日本近代文学の起源』が最初に思い浮かんでくる。読んだことのない人に、どんな本かを説明するのは難しいのだが、少なくとも文学史の本ではない。当たり前だと思っていることが「当たり前」だと思われるようになったその「起源」を見なければ、その「当たり前」を拠り所にして構築したものには価値はない、というようなことが書かれた本だ(と思う)。様々な方法で柄谷が言い続けていた(と思っている)このことが、僕の呑気なモノの考え方を変えたのは疑いようがない。 だが、それで「目覚めた」かというと、何かが違う気がする。影響を受けたとか人生が変わったとか目からウロコがとか、それらはそれぞれ文字通りの意味でとらえればいい。そう考えながら、家の本棚に「目覚めた一冊」を探してみたが、どうも思いあたるものがない。他の言い方が出来ない、言い換えの出来ない読書経験としての「目覚めた一冊」とは、あるいは「目覚め」とは、どんな瞬間なのか? まあ、こういう問いが生まれてくること自体、柄谷の影響(悪影響?)だったりするのだが。 おそらく「目覚め」には、目覚まし時計で起こされるような、受け身の「目覚め」と、自分で覚醒する能動的な「目覚め」の二種類の意味があって、いま僕が書こうとしている「目覚め」は後者ということなのだろう。誰かに起こされたのでは意味が無い。自分で目を覚まさなければならない、そう思うのだ。 指示された字数をすでに越えてしまっているので、結論を急ぎたい。いま、ここに仮定した「目覚め」に相当する本は、やはり思い当たらないのだが、これだけ屁理屈を並べておいて結局、僕の目覚まし時計は柄谷行人でした、では、どうにも格好がつかない。だからと言って「該当なし」と筆を置くわけにもいかないので、読むたびに自分の筆力のなさを猛烈に痛感させられて、再三ふさぎ込む原因となっていた坂口安吾の、特に「青鬼の褌を洗う女」をあげておく。 ただしこれはちくまの短編集に納められたひとつの作品なので、「目覚めた“一冊”」とは言いがたい。それはさておき、最近これを再読したのだが、落ち込まずに済んだばかりか、なにか「乗り越えた!」と感じるものがあった。その感覚は、受け身の「目覚め」とは種類の違う衝撃だったことは間違いない。 これだけ字数を消費したのに「青鬼の褌を洗う女」にも触れず、「目覚めた一冊」も書けずじまいだが、ここまで書くためにめぐらせた考えは、無駄ではなかったと思う。 なんともしまりの無い文章ですが、こんな感じでいいですか、次のかた?
06/4/19/深詰 お次はぼんよりさんです→ |
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