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田舎の高校時代、競輪場前でバスに乗りながら、車券を買いに来る人たちを恐ろしいものを見る目で見ていた。ギャンブルは危険なものと刷り込まれて育ったからだ。世間知らずの田舎者のまま東京に出てきて二十歳も過ぎた頃、人に薦められて読んだ「麻雀放浪記」はまさに「私の知らない世界」だった。 麻雀のいろはも知らない私が、それでもまったく嫌気がさす事もなく読み進められたのは、一つには、牌の絵柄がそのまま文中に表記されていたこと。壱萬二萬と絵を見て手牌を確認しながら読んでいくのがことのほか面白かった。 もう一つには、戦後の風景。まだその辺に死骸がゴロゴロしており、手や足のない引き上げ兵がうろつき、何が入っているか分からない食べ物が売られていた頃の東京の街。戦後生まれの人間には知りようのないその時代を生きてきた作者の文章から「匂い」が漂ってくる。 そして何より、人間描写。博打なしでは生きていられない無頼ばかり出てくるのに、心底悪人というのがいない。妙に憎めないのである。しかも博打であるからには金を持っていなければハナも引っ掛けられないから、女を売り飛ばそうが、鴉カァ(危ない高利)だろうが、とにかく金を作って参加する、そんな鉄火な小説なのに阿佐田哲也の文章だと不思議と殺伐としないのである。 今では当たり前にパチンコ屋に出入りし、中央より南関のほうが面白いなどと毒づき、女王日高の準優敗退に大騒ぎし、一年の締めはKEIRINグランプリ、田舎の親が聞いたら何とヤクザなと言うこと請け合いの私だが、なんの、公営ギャンブルは所詮安全なレジャーなんである。大方の庶民にとって阿佐田哲也の小説世界は「私の知らない世界」のままでいいのだ。間違って足など踏み入れたら人生が破綻するに決まっている。麻雀だけは未だにパソコンゲーム止まりの私は、小説を読むことでひと時いっぱしの雀士を疑似体験しているに過ぎない。 阿佐田作品未読の方には短編「東一局五十二本場」がお薦め。作者のギャンブル小説のエッセンスが詰まっており、えも言われぬゾクゾク感を味わえる。麻雀放浪記は読んだ方、是非「ドサ健ばくち地獄」をどうぞ。決して自分はこの世界には入らないと分かっていればこそ楽しめる、凄まじい世界を堪能できる。 ギャンブル小説はちょっとという向きには、阿佐田哲也のもう一つの顔、色川武大の作品を読んで頂きたい。泉鏡花賞「怪しい来客簿」、直木賞「離婚」、川端康成文学賞「百」、読売文学賞「狂人日記」など、色川武大=阿佐田哲也とはどんな男かということがこれらの小説でよく分かるし、紛れもなく阿佐田作品と同じ、凄まじくて不思議で暖かいものが流れている。 私としては「麻雀放浪記」こそ直木賞だろうと今でも思っている。これぞ大衆文学である。まぁしかし、連載当初から今に至るまであらゆる世代の「大衆」に読まれてきたという事実が全てで、賞など無意味なのかも知れない。 06/3/24/お気楽堂 お次は葱さんです→
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