Qnovel_10
 


   
 

 ――おまえはここでなにをしてるんだ……ぼく自身が問いたいことだった。ぼくは渾沌とした脳で答を探した。胸に抱えた老犬の黒く粗い毛に大粒の雨が打ち、見開いたままの眼に流れている。こいつはあのキャンパスでなにを見たのだろうと、ぼくはそれを〈言葉〉で探るが、言葉などあるわけもない。ぼくは、盲た者なのだ。
 後方でまたもや稲妻が閃いたそのとき、ぼくは一枚の絵に気づかされた。多分、この嵐に通じるなにかを、ぼくは思い出していたのだ。
「これはティントレットの模写だよね」
「そうよ。主人が描いたの。ヴェネツィアに三年間留学して描いたものよ。〈聖マルコの遺体を焼却から救うアレクサンドリアの信者たち〉よ」
 画材屋に飾られた大きな絵を見ながら、店長は自慢そうに言った。
「実際は縦が四メートル近く、横が三メートル以上あるものなんだけど、さすがにこれはその半分。主人はこれを描いたあと、二度と絵を描かなくなったわ」
「なぜ?」
「さあ……。あなたのほうがわかるんじゃない?」
 店長はニヤニヤしながらこうも言った。
「あなただったら頑張れるわよね」、と。
 ぼくはそれには曖昧に頷くだけで、ティントレットのもう一枚の絵を思い出していた。同じく聖マルコを題材にした〈プロヴァンスの奴隷を救う聖マルコ〉は、いたぶられ仰臥する奴隷を救わんと、まさにその頭上に、赤い着衣の聖マルコが宙に浮いている。一方、〈聖マルコの遺体を焼却から救うアレクサンドリアの信者たち〉では、顔面を土色に没した屍の聖マルコが信者によって嵐の中、その遺体を救われようとしている。救うことと、救われることと……。



 ティントレットはこの連作でなにを言おうとしたのだろう。ぼくはこの二枚の絵になにを見ようとしたのだろう。ぼくは聖マルコには成り得ない。まして奴隷でもないのだ。それは、抱きかかえている老犬だって同じ筈なのだった。
 雨が老犬の顔を洗っていた。脂で汚れた眼を清めていた。水が膜を覆ったためか、白濁していた瞳が黒々と輝く。老犬に視線があるとするならば、それはぼくに向けられていたにちがいない。言葉ではない。そう感じたのだ。同類としてのそれは〈感じる〉ことなのだった。ぼくらは、ただ生きている者なのだと、濡れそぼつ老犬の美しい眼に感じることができたのだ。
 無惨に圧し潰された立看が道を覆っていた。折れた枠木が魚の小骨のように幾本も突き出し、裂けた内臓に涌く血のごとく、雨に濡れて赤い文字が流れていた。ずぶずぶと穴をあけながら、ぼくは立看を渡っていった。
 校門は、機動隊と装甲車で塞がれていた。警備員が近づいて、なにか言おうとする素振りをみせたが、思い留まったのか、ちっ、と鋭い舌を鳴らすと、顔を激しく歪めて離れていった。校門の扉はほとんど閉められていて、通り口は極端に狭められている。盾を構えた機動隊が左右に居並び、人一人がようやく歩けるところを、僕は老犬を胸に抱えて進んだ。盾に體が触れたのではない。からかうように、機動隊の一人ひとりが押しつけていたのだ。隠した顔がクスクスと笑っている。突き出された重装備の重い脚に、ぼくは躓き、前のめりに倒れた。放り出されてしまった老犬に這い寄り、そして、老犬を抱えあげる瞬間、機動隊の武骨な脚に唾を吐くことを、ぼくは怠らなかった。唾はスカーレッレーキのように赤かった。けれどもそれは、すぐさま雨に洗われた。

「あけてくれ!」
 ぼくは画材屋の、弱い明かりが漏れている二階の窓に向かって、何度も叫んだ。眼に雨粒が射った。口中に入る雨水で咽せた。老犬は次第にその重みを増している。
「なにやってんのよっ!」
 青冷めた店長が、開いた店の扉の向こうで怒鳴った。
「犬だよ、ほら」
 ぼくは、へらへら笑いながら、店長に向かって老犬を突き出していた。
「とにかく、はやく中に入って!」
 店長は老犬を抱えていたぼくの肘をとり、強引に店の中に引きこむと、慎重に扉の鍵を掛けた。それから、どこかから持ち出してきた大きなタオルで、泣きながらぼくの頭と體を拭った。
「頭から血が出てるじゃない! ひどい傷」
 ぼくは店長からタオルを奪うと、画材の入った段ボールの上に寝かせた老犬の濡れた體を執拗に拭いた。
「ねえ、お願いだ」
「なに?」
「電話してくれ」
「どこに?」
「動物病院にきまってるだろ!」
「無理よ!」
「どうしてだ」
「だって、こんなときに、来るわけないわ」
「お願いだよ。たのむから電話してくれ……」
 店の奥に駆けこんだ店長は、大小のタオルを何枚も持って引き返すと、電話帳を捲りはじめた。ぼくはそのタオルのありったけで老犬の體を拭き、暖めようと擦った。よこたわった老犬の胸が膨らんでは萎む。ぼくは、ぼく自身が喘いでいるのがわかった。右の肋骨が激しく痛むのを感じた。口から鮮血がこぼれ、舌の感覚で奥歯を失っているのを知った。店長の電話は、切っては繋がれている。
「このやろー!」
 自分自身の痛みを殺すように、次第に喘ぎをはやめる老犬の意識に呼び掛けるように、ぼくは何度も怒鳴った。雨は強い風と轟音をともなって発狂したように降りつづけているのだった。

「だめだわ。どこも体よく断られてしまう……ごめんね」
「もういいんだ……きみのせいじゃない」
 老犬を見つめながら、ぼくは店長の嗚咽を聞いた。ぼくは老犬を床にそっと降ろし、段ボールの中身を出すと、いったん老犬をその中に寝かせたが、また取り出して店長に言った。
「ブラウスをぼくにくれないか?」
 店長は頷くとその白いブラウスを脱ぎ、乳房をあらわにした。ぼくはブラウスを受け取り、段ボールの中に丁寧に敷いた。そして老犬をくるむようにしてふたたび段ボールの中に寝かせた。それから二人は、どちらともなく二階にあがり、裸になって段ボールの上で抱き合った。激しい雨声を聞きながら交じり合った。ぼくは雨に濡れた體を何度も店長の體に押しこんだ――ぼくのすることは、このくらいのことだ。闘うこともせず、老犬のように彷徨うこともしない。そのたった一匹の犬にも、ぼくはなにもしない。「あなただったら頑張れるわよね」。そんな筈はないのだ。ぼくは店長の夫よりも、もっともっとはやく、自分を知ったのだ。ぼくにはなにもないということを。ぼくは退屈から逃げただけだった。機械油の匂いを絵の具の匂いに変更しただけのことだった。ぼくは描かないのではなく、描けないのだ。悲しむことではない。ただそれだけのことなのだから――店長を背後から抱えた。突きあがる尻にぼくのすべてを押しこむように突いた。低く長い呻き声がつづく。そして、ぼくは、聞いてはならない店長の囁きを、聞いてしまった。それが、店長の〈癖〉だった。それが、〈いま〉に至る、後悔のはじまりなのだと、ぼくはここで告白しておかねばならない。
「ねえ、お願いよ」
 それは絞り出すような狂おしい囁きだった。
「ああ……」
 生温い血が顳かみをつたわり頬に流れていた。ぼくの意識はいまにも遠離りそうだった。朦朧とした脳でぼくは店長の腰を打ちつづけていた。あのいつかの夢のように、ぼくは店長の首を、背後から愛しながらこの手で絞めていた。店長の耳朶が桜色に紅潮していくのが見えた。それは感悦の色だった。店長の呻きはもはや昇り詰めようとしていたのだ。そのとき、激しい雷雨がつづく店の外で、夥しい水を跳ねる足音と怒号が巻き起こった。間髪なく、荒々しい音がして、叫ぶような罵り声が階下に聞こえた。
 ぼくは店長の體から離れて床に屈んだ。鮮血が床に滴り落ちた。意識は、すでになくなっていたのかもしれない。階下の怒声と激しく揉み合う床を打つ音が、はるか遠くに聞こえていた。
 何人もの階段を駆け登る音が女の悲鳴とともにした。朦朧とした頭を擡げると、そこに血まみれになった梶とその恋人が角材を構えて立っていた。その向こうに何人もの機動隊が、やはり無言で立っていた。絶叫が狭い部屋に爆発した瞬間、二人は機動隊に襲いかかた。その光景は凄まじい速度で、否、それは逆で、気が狂うような遅々とした速度であったかもしれない。無数の警棒が嬲るように二人を叩きつけた。容赦なく――骨の砕ける厭な音がした。内臓が踏み潰される不快で不可解な音がした。ヘルメットが割れて、白い脳が頭髪の中から流れた――その後はなにも知らない。店長は息を止め、ぼくは、機械油が匂うぼくの血溜まりの中に、埋もれていたからだ。
 命題/機械油
 結論/機械油
 どこでもないユートピア、いつでもないユークロニア。無場所と無時間と。ここがぼくの〈庭〉だ。ただし、ここは楽園ではない。救世主も見当たらない。はじまりでも、終わりでもない。朝になっても、なにも起きず、出来事もない。まして復活の儀式などあろう筈がない。
 だからぼくは、架空の絵具をとり、記憶を辿りながら、想像の絵を描いている。ティントレットの〈最後の晩餐〉を。とくに念入りに描くのは、十二使徒とともにいる黒犬だ。何事も起きていないのだとばかり、ぼんやりと、だるそうに、悪戯猫を見つめている卓の下の黒犬を。
 ぼくは飽きもせず、消してはまた描く。

(完)

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テキスト:マニエリストQ 、写真:ペリ館に属します