Qnovel_07
 


   
 

 夏休みのほとんどをぼくは誰にも会わずにすごした。蒸し暑い部屋に一人で篭り、一枚の絵も描こうとせずにすごした。パトロンの画材屋も大学と同じ期間、夏休みだった。パトロンは、つまり女店長は亭主の田舎だから、ぼくは煩わしい奉仕から免れていた。おとなしくしているのよと捨台詞を吐いて亭主の田舎に出かけていった店長の髪は、やっぱりとんがっていた。
 腹がすいた。暑い。鬱陶しい。喉が渇く。苛つく。風がない。金がない。煙草がない。お茶がない。怠い。退屈。憂鬱……ふらついた蝉の啼き声……熱した土の上で腐る落ちた蝉。それを運ぶ無数の蟻蟻蟻蟻……。ぼくはほとんど眠っている。額に痒くなるくらいの汗をかいて眠っている。パンツ一枚の裸で眠っている。汗は万年床にごろ寝した背と腰の辺りにもたっぷり溜まっている。腹筋で腹を上下するとトポトポと音がしたから、まだ干涸びないではいる……眠くてたまらない。これは絶対に栄養失調だと、ぼくは自信に満ちて確信できた。いつか必ず出世するのよ……蘇った店長の言葉が眠い脳裡にセロハン状に薄く張りついてひらひらしている。出世したならば、ぼくにも栄養失調の時代があったのだと、得意げに自慢するだろうきっと。その程度だ。いまはただ眠いだけなのだ……。
「よし! いまだ! 絞めろ!」
 四つん這いになった女の白い尻に突き出た腹を押しつけて男が叫ぶ。その女の首を、別の赤毛の女が細い指で絞めあげる。四つん這いの女は苦悶のすえに息絶える。瞬間、男が呻く。女の白い尻が男の腹から離れてその體が床の分厚い絨毯の上にゆっくりと落ちていく。栗色の巻き毛が蒼白い顔面を覆い、その透き間から女の見開いた瞳孔が宙を物言わず見つめている。四脚に華美な装飾を凝らした重厚な卓の上で、香炉から立ち昇る媚薬の白い煙筋が激しく歪む。
 ……ぼくは夢精した。
「おとなしくしてたみたいね」
 気がつくと、店長がぼくのペニスを弄んでいた。
「いつから……」
「ずっとよ。よほど眠かったのね」
 台所でタオルを濯ぎながら店長が言った。
「ティッシュぐらい買いなさいよ」
「そんな金ないよ」
 大学にトイレットペーパーをもらいに行かなくちゃ。店長が勃起したままのペニスを丁寧に拭っているのを、ぼくはぼんやりと見つめていた。
「新しい絵、描いてないのね?」
「ぼくはね、多分、栄養失調なんだ」
 万年床に座り直したぼくは言った。
「それでそんなに眠いの? それって私のせい?」
「いや、そんなわけではないけど」
「そうよね。あなたはなにからなにまで、なにもないのだわ」
「それ、どういう意味?」
「じゃあ、なにがあるの? あるものを言ってみて」
 無防備な裸の胸にいきなり鋭いナイフを突き刺された。肋骨の奥に、痛みではなく羞恥が満ちて、息が詰まる。それは女の前で裸でいるみすぼらしい體の恥ずかしさでもあった。黙するしかない。
「絵の才能がある……って言いたいわよね」
 畳みこむような店長の言葉だった。ぼくは自分の胸に突き刺さっている凝った装飾をほどこしたナイフの柄を指先でなぞりながら、店長に代わって呟く――でもあなたはなにも描いてはいない。学びもしない。怠惰な生活だけ――その呟きはけして店長の内部には届かずぼくの内奥で果てて消える。
「なにか食べさせてくれる?」
「そうね。食べれば眠気から解放されるかも。けど保証はできない。お腹が満ちればかえって眠気が増す可能性もあるわ」
「……それでもいい」
 店長がくれた煙草に火を着けながら口にしたぼくの言葉は籠っていた。できれば永遠に眠っていたいとぼくは本気で思っている。店長がいなくなればぼくは再び眠ってしまうだろう。食べることさえも面倒に。西陽が部屋を満たした。カナカナカナと蝉が啼いている。
「どうしようもないわね」
 そのときぼくは、店長を誤解しているのかもしれないと感じた。ぼくは店長にとって単なる浮気相手に過ぎなかったはずではないのか。店長は貧乏美大生をかまってパトロン気取りを楽しんでいるだけではなかったのか。だとしたら。それならばなぜ眼の前に座っている店長の眼は濡れているのだろうか。
「田舎はいいの?」
「いつまでいてもしかたないもの」
「そお……」
「帰ってきてほしくなかった?」
「そんなことないよ……暑いね」
「夏だもの」
「髪、変えたんだね」
「夏だから」
 小さく笑んだ店長の顔に薄い茜色がさしている。とんがっていた髪は横に柔らかく寝ていた。



 ぼくたちはそれから街に出て食事をした。衝立てで間仕切りされた畳で食事をしながら、ぼくの頭の隅を梶たちはどうしているのだろうとほんの少し過ったが、それはすぐに消えた。鰻の肝吸いでも食べれば少しは栄養を摂れるのだからと、店長が奮発してくれた店でぼくは黙々と鰻重を食い、肝吸いの椀を吸った。そのぼくを見つめて中ジョッキのビールを飲んでいる店長も、やはり黙っているのだった。店長と亭主との間になにかあったのかもしれない。この夏休みを境に店長の雰囲気が変わった。田舎でなにがあったのだろうかと思いつつ、深入りするような詮索には気をつけねばと用心した。
「田舎はいやね。日射しが強くて焼けちゃう。二度と行かないことにしたの」
 酔いが回ってきたのか眼の淵が赤い。顔全体が小さくなって別人のように見える。きっと髪のせいなのだろう。女はお化けなのだから。ぼくは、店の窓に掛かった古びた簾を背にどこか疲れた表情でビールを飲んでいる店長を、ぼんやりと見つめながら煙草を喫み、店長が注文してくれたビールを飲んだ。
 ――金ないんだ――気にしなくていいのよ、なんとでもなるものよ――ああ――お金なんてね、あるとこからもらえばいい、あたしがあげる、でもね、あたしにもあげられないものがあるの――ああ。
 夏休みは間もなく終わろうとしている。なのにぼくは尻尾を巻いたままだ。理由? 理由なんて簡単じゃないか。怠惰な性格と小狡いだけなんだよ……そう思いたかった。どうしてもそうであるとぼくは思いこみたかった。ぼくの肋骨にはいつまでも抜くあてのないナイフが突き刺さったままでいたし、冷え冷えとした金属の切っ先が肋骨の奥で膨張していくのは、ぼくの誤魔化しがすでに取り返しのつかないところへきていたからではないか。肋骨の内側に引っ掛かるナイフを抜き取ることはできないのだ。
「じゃあ、なにがあるの? あるものを言ってみて」
 店長の言葉が肋骨の奥の空轄とした闇にこだまのように繰り返している。大学の卒業さえも、いまのぼくにはあやふやなことだった。
 店長はバッグをまさぐると一枚のキャッシュカードを卓の上に置いた。たいして入っていないけど、うまく遣って。カードの暗唱番号はあたしの誕生日。ぼくはひねくれた笑みを口元に漂わせるしかなかった。知らないわよね、あたしの誕生日なんて。今日なの、三十一歳。ぼくはうつむく。ねえ、言ってよ。なにを? ぼくはうつむいたままで訊く。誕生日おめでとうって。ぼくはいつまでもうつむいたままだった。電車の音が聞こえた。大声ではしゃぐ若い女たちの声がした。花火の打ち上がる音がした。みんな店の外遠くの出来事だ。ぼくたちには出来事と言えるものがなにもない。店長が三十一歳になったことと、ぼくが店長のキャッシュカードを手にしただけのことだ。それは出来事などと言えるものではなく、ただおきているというだけのことだった。ぼくたちはなにもしてはいない。とくにぼくは、動いてはいない。
 その日の夜、ぼくは一人、相変わらず蒸し暑いアパートで寝つけずにいた。昼間に見た夢のこともあった。どうしてあんな夢を見るのかも知っている。それはぼくの日常だからだ。ぼくの趣味ではない。ぼくはいたって普通で、陳腐なくらいあたりまえだ。たしかに、絵のテーマとして考えたことはあった。けれど、ぼくには描ききれなかった。だから、緋色の下地を塗っただけのカンバスに埃が覆い、そのままになっている。中途半端な観念が日常に凌駕されていたのだ。それに、埃でくすんだ緋色の奥に、なぜかぼくは石壁に閉ざされた暗い牢獄を感じてしまうから、緋色のカンバスはいずれ捨ててしまおうと思っている。はやいうちがいい。理由もなく、なににであるか、手遅れになることを怖れていたからだ。

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