Qnovel_02
 


   
 

 昼飯を食う金がないのに、高価な絵の具を買う金なんて一円だってない。いつものように、大学の前に三軒ある画材屋の一軒でツケをするしかないと、ぼくはまたもや返済のあてがない買物をした。
 画材屋の三十歳を過ぎたばかりの雇われ店長兼店員の女が、妙なヘアスタイルでぼくの買い物に必要以上に世話をやくから、ぼくはついつい買い過ぎてしまう。出世払いでいいのよと言われても、講議や実技の時間に半分も出席していないぼくが、どれだけ出世できるのか、かなり疑問だ。画材屋の店内に飾られた大きな絵は、店長の亭主が描いた絵だという。貧乏画学生をかまっていないで、そっちをフォローしたほうがどれだけ効率がいいか、考えなくてもわかりそうなものだ。けれど、なにかと都合のいい店長の面倒見を無碍にするほど、ぼくはお人好しでも馬鹿でもないつもりでいた。いつだって、ぼくはすきっ腹でふらふらしていたし、店長は薬の臭いを微かにたなびかせて店の中をふらふらとうろついていた。だから面倒を見てもらっていたのはぼくだけではなく他にもいたのだろう。しかしそのことは、ぼくと無関係だ。ぼくはそのことをいっこうに気にすることなく、ぼくさえ都合がよければ世間を干渉する必要はどこにもない。たとえば、水彩絵の具のスカーレッレーキは他の絵の具と違って高価だから、ぼくは物欲しげに長い時間それを手に見つめている。すると女は、それをぼくの掌からひったくるように奪って、画材屋の洒落た手提袋に放りこんでしまう。腹が減ったと呟けば、自分の煙草とライターをぼくの手に握らせ、隣のスナックで待っているのよと言う。ぼくはおかげで、その日は煙草のおまけつきで腹を満たすことができる。それでも、小遣いをくれとまではさすがに言えないので、ぼくはいつも貧困で、女も金まではくれようとしない。ツケと奢りと、きっと出世するのよという言葉に限られた、女の面倒見なのだった。だからぼくのプライドは傷つくこともなくいられたのかもしれない。どれほどのプライドなのかは考えたこともない。勿論、ぼくは自分のできることで女にお返しをしていたし、奉仕的にもなっていた。文無しなのだから、肉体奉仕であるのは言うまでもない。
 大学の広大なキャンパスが、空から降る橙色の光線に、ソドムの街のように真赤に焼きつく時間、ぼくは大学のトイレからトイレットペーパー二巻きを布製のショルダーバッグにしまいこみ、アパートへと向かうために大学の構内を出た。トイレットペーパーをくすねにきただけで、講議を受けたわけではない。プレハブのデッサン室では半端で途上の助手が砦の守主になったつもりで学生に説教を垂れていたし、大講堂の美術史を説く教授は死臭を漂わせて脳の九十%を壊死させていたから、ぼくはそんな退屈につきあう気は毛頭なく、アパートで、水彩用紙を水張りしたB全版のパネルに、チューブからほんの少し捻り出し水で薄めて一刷毛した、美しいスカーレッレーキの色に酔いしれていた。たまたま切れたトイレットペーパーが欲しくなって、アパートから歩いて五分の大学のトイレにきただけなのだった。つまりぼくは、トイレットペーパーを高い授業料で賄っていたことになり、おまけにここのところ大学の紛争で講議や実技時間が潰れることが多かったから、大学にはぼられっぱなしなのだった。
 画材屋の前を通りかかると、店の奥に店長の居るのが見えた。頭の天辺を妙な形で極端に立てたセンスのない髪型に苛立ちを感じたぼくは、店長を無視して店を通り過ぎようとした。腹はすいていた。けれど、スカーレッレーキの魅力のほうが勝っていたので早くアパートに戻りたかった。ここで店長に捕まればきっといつもの奉仕を強要されるのだから、とぼけてしまったほうが面倒がない。それに今夜、ぼくのアパートで大学の仲間と鍋を予定していたから邪魔されるのが厭だったし、仲間に二人の関係をひょんなことでさとられて低俗な悪意と嫉妬でからまれるようなことがあっては、ぼくの生活に不都合が生じるのだから、ちょっと厭だなあといった気分だったのだ。店長のセックスは短時間で執拗なものではなかったから、万年栄養失調でスタミナ不足のぼくにとってはありがたかった。難点は、店長のセックスには妙な〈癖〉が一つあってぼくを悩ませることだった。それを思うとますます憂鬱になり、どうしてもここはうまく遠離ってしまおうと焦った。ところが、この道は店から丸見えで隠れながら歩けるような道ではなかったから、あっさりと発見されてしまったぼくは瞬く間に店長に呼び止められていた。今夜アパートで仲間と闘争の打合せがあるからと、店長が不機嫌にならないように慎重な留意でぼくは弁明した。店長はぼくの口から出た闘争という言葉に怪訝そうに唇を少し尖らせると、いったいなんの闘争かと訊く。ぼくは大学闘争だよと周囲を気にしながら小声で答えた。少し離れた校門の前に、紛争のはじまった時期から大学に雇われている大柄な警備員が退屈そうに立っているのが見えたのだ。彼は以前、活動学生の一人を警棒で襲いかかっていた警備員だった。ぼくは偶然その光景を目撃したのだったが、関わるのを懸念してさっさとその場を去っていた。ぼくはぼくが〈一般学生〉であることを自分自身に言い聞かせて去ったのだ。ぼくはまぎれもない〈一般学生〉なのである。そのぼくの口から出た闘争という言葉に、ぼく以上に店長が不思議がるのは正しいことだ。弁明の言葉に選択のミスを感じたぼくは、まあいろいろあるんだよととぼけた。しかたないわねと店長は渋々あきらめたように見えたが、打合せはいつごろ終えるのとさらに訊く。さあとぼくはまたとぼけた。曖昧さが店長を不機嫌にしたのか、尖った口をさらに尖らせた店長の眼が疑惑たっぷりにぼくを睨んでいた。夕焼けを映しこんだ店長の瞳の中に小さくなったぼくが居て、そいつは大学のトイレからくすねた二巻きのトイレットペーパーを忍びこませたみすぼらしい布袋を肩に掛けているのだった。



「女ね」
 店長はいったいなにを根拠にしたのか、確信したように言った。
「女って、なに?」
「女よ」
 まずいなりゆきだとぼくは感じた。女が〈女〉に触れはじめると収拾がつかなくなることくらい、ぼくにもわかっていたからだ。ぼくは自分にとりついているつまらない不運を悔やみ、なんとくだらないことに自分は出くわしているのかと腹の中で嘆いた。これにくらべたら、絵の具のスカーレッレーキの色はいかにも純粋で高貴で清々しいと、自分の失態が忌々しくなってきた。どこまでも透明なスカーレッレーキの色に現在の自分の立場を比較し意気消沈した。ぼくの日常は陳腐に濁って澱んでいる……それは意識の隅をほんのわずかに過った飾り立てた気持ちなのであって、ぼくは店長のつまらない猜疑心を疎ましく面倒に感じているだけなのだった。それにぼくには〈女〉はいなかった。いるとすれば、いま眼前で猜疑と嫉妬と面倒を見ているのだという恩着せを、臆面もなく剥き出しにして突っ立っている女が、その〈女〉なのだった。
 店長がいきなり肩に掛けていたぼくの布袋の紐を強く引っ張ったので、ぼくは反射的に背を後方に大きく反らしたが、そのまま店の中に引きこまれ、店長はクローズのカードを店のドアの外側のノブに掛けると中から錠をおろしてしまった。まるで首輪に繋いだ犬を引くように、店長はそのままぼくを店の二階に引きずった。二階は画材屋の事務所兼倉庫であり、ぼくたちのいつものセックスの場所でもあった。
 女はたった一つある大学に面した小さな窓のカーテンを閉めきって、画材の入っている積み上げられた段ボールの狭間に棒立ちになった。薄暗くなった室内に油絵具の臭気が微かに漂い、それはシンナーを悪戯することによってもたらされると同様の効果でぼくたちの脳細胞を少しばかり刺激した。店長はすみやかに薄手のブラウスを脱ぎ、ひらひらのスカートを落とすと、白い下履をけんけんしながら脚からはずして傍らの段ボールの上に投げ捨てた。それからぼくのみすぼらしい衣服を乱暴に剥ぎとりはじめた。そのあいだぼくは抵抗もせず、なされるままに、やはり棒立ちでいた。少し激しく動けば背に汗が滲む季節になっていたから寒くはなかったが、店長はぼくのズボンから先に剥ぎとりにかかったから下半身だけが剥き出したぼくの姿は滑稽で、ぼくは背筋に言い知れぬ寒々とした寂寞を感じないではいられなかった。おまけに女はそこの段階で剥ぎとりをやめてしまったから、女とのセックスは滑稽な姿で行なわなければならなくなった。欲情にはそれなりのセッティングを求めているぼくにはつらいものがあったが、それでもセックスはつつがなく終了して、ぼくは解放されることになった。今日の肉体奉仕、あるいはお返しは、これで済んだことになる。
 裸の店長は、スカーレッレーキのラベルが貼ってある段ボールの一つを力いっぱい開けると、中から鷲掴みでとりだした絵の具のチューブをぼくの布袋に投げこむように突っこみ、それからぼくをじっと見つめながら嗄れた声で言った。
「あなたに女ができてもいいけど、きっと出世するのよ」

 店長の妙な〈癖〉のてつだいをしないで済んだ今日のセックスに多少の安堵を覚えながら、ぼくは下着とズボンを穿いて滑稽から逃れたのだった。

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