Qnovel_08
 


   
 

 大学は朝から騒然としていた。大学前の道路の両側を大学のはずれまで透き間なく重装備の機動隊が立ち並び、ジュラルミンの盾を打降ろしては大学に向かう学生たちを威嚇していた。なかには道の途中で泣き出す女子学生がいて、それを若い機動隊が笑っている。校門には警棒を鞭のようにしならせながら振り降ろしているあの警備員がいて、入構する学生のすべてに学生証を提示させていた。構内に入ると、大きな立看が何枚も立て掛けられていて、拡声器のボリュームを最大にしたアジテーションがそこらじゅうでがなられていた。ヘルメット姿の活動学生があちこちで忙しなく走り回っている。それを避けるようにして、一般学生たちが講義室や実習室へと駆けこんでいく。キャンパスの方向からデモの声が聞こえていた。
 講義室に入った。とうに講議時間は過ぎていたのに、教壇に教授が立っていない。駐車場の車はまばらだったから、ほとんどの教授がきてはいないのだ。彼らは今日の事体を前もって察知していたに違いない。講議は行なわれないだろう。それでも学生たちは席を埋めていた。
 梶がいないかと広大な講義室の内部を隈なく見渡してみたが見つからなかったので、ぼくは講義室を出てキャンパスに向かった。梶が学食にいるのではないかと僅かに期待したからだ。
 キャンパスでは百人ほどのデモ集会が行なわれていた。こんなときに学食を開くだろうかという思いがあったが、学食のステップを昇る人影が遠目に見えたし、窓硝子には人が映っていた。梶はいなくとも誰かしら見知った奴がいるだろうと、ぼくは殺気立った活動学生たちを横目にキャンパスを抜け学食のステップを昇った。
 ここにも梶はいなかった。知り合いもいなかったが、店長のカードでおろした金を持っていたので、ぼくはセルフサービスでコーヒーとカレーライスを買い窓際の席に着いた。陽が強くなりはじめていたにもかかわらず、窓の下のキャンパスで動き回っている活動学生たちは、誰もがヘルメットの下のタオルで顔を覆い、機動隊の理不尽な攻撃に備えて長袖だった。ぼくは少し恐かった。こいつらを、そして女子学生をからかう下卑た若い機動隊たちを。どちらも顔を覆い、顔を消している彼らを、ぼくは顔を曝け出している〈一般学生〉なのだからと恐れた。
 梶はマンションに篭っているのだろうか。あいつだって、とうに卒業を諦めているのだから、気まぐれでしか大学には顔を出さない気なのだろう。卒業なんかする必要はないと嘯いていたこともあったから、恋人のところで絵さえ描ければいいにちがいない。いざとなれば田舎に帰るさ、とまで言っていた。絵の具とカンバスさえあれば、絵はどこでも描ける。描く気と、描ける能力さえあればの話だ。梶にそれがあるだろうか。そして、ぼくには。


 カレーライスを半分のこした。コーヒーも冷めてのこっていた。窓の下では大勢の活動学生たちが雑然と蠢いていたが、それでも広大なキャンパスを埋め尽すまでにはいたらない。〈一般学生〉にくらべれば活動学生は一握りの存在でしかないのだ。ときどき意味不明の奇声やシュプレヒコールが拡声器のアジテーションに重なるようにして聞こえてくる。動き回る夥しい数のヘルメットがなにかの昆虫のように見えた。ぼくはひとつずつ、その昆虫をまるで蚤でも潰すかのように、窓の内側から指先で圧さえていった。五十まで潰して面倒になってやめた。潰れた筈の昆虫は、相変わらず生きたままキャンパスの上を動き回っているのだった。
 それから一時間ばかり過ぎたころ、活動学生たちは、笑顔がいきなり真顔になるような不自然さで、突然キャンパスから散りはじめた。残業などまっぴらごめんだといわんばかりに、てきぱきとそれぞれの方向に向かってキャンパスを降りていく。講義室へと消えていく。実習室のカンバスの前へと座る。
 何人かが学食に入ってきた。長袖はTシャツに変わり、ヘルメットはすでにどこにもない。結合した分子がなにかであるなら、拡散した活動学生は、すでになにものでもなかった。それは、ダリが海の表面を捲ってみせたような、剥離した瘡蓋のかけらのひとつにすぎない、顔を曝け出した〈一般学生〉なのだった。
 機動隊は構内に入らなかった。結局、デモは気勢をあげただけで終わっていた。大学は雑然とした空気をまだのこしてはいたが、その表面において、すでにいつもと変わることがなかった。助手たちによるデッサンの実習ははじめられていたし、構内を歩く学生たちには日常の姿勢が回復していた。存在しないのは、教授たちの姿だけなのだった。
 学食を出てステップを降りたところで梶とその恋人に出くわした。
「きてたのか」
 ぼくはさも偶然を装うようにして言った。梶がひとりであったなら、探してたんだよと言っただろう。
「帰るのか?」
 梶が訊いた。
「講議は中止だしな」
「それじゃ俺たちも帰るか。デッサンの実技があるが、面倒になった」
「べつに。わたしはかまわないけど」
 梶の恋人の眼中に、ぼくはなかった。
 ぼくたちは大学を出て、機動隊がまだ脇を固めている大学前の道を、梶を中に挟んで歩いた。道には数人の警察官がうろついていた。
「おまえはどうしてる?」
「なにが?」
 梶の訊いている意味が一瞬理解できなかった。が、それはすぐにわかった。
「ああ、ぼくも描いてるよ。ぼちぼちだけど……」
 そんな筈はなかった。ぼくは今、一枚の絵も描いてはいなかった。パネルに水張りした水彩紙にスカーレッレーキを一刷毛しては、それ以上進めず、ただぼんやりと透明な赤い色を見つめているだけなのだった。僕には描くものはなにもなかった。



 そのとき突然、背後で小競り合いがおき、学生の一人がぼくらの横を素早く走り抜け、空地の奥に駆けこんだ。それを警察官の一人が追って空地にはいったが、「ここは私有地だぞ」と鋭い声が空地に接した民家から聞こえた。すると、もう一人の警察官が「私有地だってよ」と叫んだ。学生を追いかけようとした警察官が苦々しく「ちっ」と吐き捨てて空地から出てきた。
 その二人の警察官は今度は、ぼくたちの背後にぴたりとつくと、「歩道は歩くところです。歩きなさい」と、どこかふざけた調子で、しかし威しを含む低い声で言った。ぼくたちは、ただ普通に歩いていたのだが、そこで思わぬことがおきた。
「歩いてるだろうが!」
 梶が背後に向き直り、鋭い形相で一喝したのだ。ぼくは梶の意外な行動に唖然とした。恋人は素知らぬ顔で平然と歩いている。ぼくには言い返す度胸がなかったので、やはり素知らぬ顔で歩いていた。
「歩いてるってよ」
 警察官はつまらなそうに言うと、ぼくたちから離れていった。
「ばあーか」
 梶の恋人がケタケタと笑った。
 梶は煙草に火をつけると、「あいつらもこんな大学紛争なんて退屈してるんだ。成績にもなんにもならんだろうし。スピード違反を捕まえてたほうがよっぽどいいのさ」と言った。それが本当なのかぼくにはわからなかったが、警察官の成績などどうでもいいことなので、それよりも、梶の様子の変わりようにぼくは戸惑っていた。夢想家ともいえる梶に、こんなにも猛々しい部分があったことを、ぼくは思いつきもしないでいた。梶はいつからか、違っていたのだと思う。その日、梶はぼくのアパートに寄ることもなく、恋人と帰っていった。通りすがりに見た画材屋は、大学の騒動に巻きこまれるのが厭だったのか、閉じていた。店の中に店長は居たのかもしれない。だとしても、顔を出す気にはなれなかった。店長のキャッシュカードには、まだかなりの金がのこっていたからだ。というよりも、遣った分だけ入金されるので増減がなかったのだ。ぼくにしても、それほど大金を遣う必要がなかった。煙草は二日に一箱で十分だったし、それにここのところ食欲がなかったので食事は学食で安く済ませていた。画材は店長がくれるもので間に合っていた。絵の具や紙やカンバスは消耗することがなかったのだから。

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