Qnovel_06
 


   
 

 古びたマンションは大通りのすぐ裏手にあった。六階にある八畳ほどの部屋は、天気のせいもあったが、陽の入りが悪く薄暗かった。見知らぬ男が二人に女が一人、そして梶と恋人が、すでに円座になって酒をやっていた。ぼくは持参した酒を梶に手渡し、促されるまま葡萄色の絨毯に片膝を立てて腰をおろした。凭れた背に壁の湿気がシャツを抜けてつたわってくる。隣の席は見知らぬ女と男だった。
「これでそろったわけね」
 梶の肩にしなだれるように座っていた恋人が、われわれにではなく、梶の耳元にじゃれるように囁いた。その梶は銜え煙草の眼を眩しそうに細めているだけだ。それから少し間を置いて、「お酒はみんなの差し入れよ。でもあまり飲み過ぎないほうがいいわね」と、独り言のように呟いた。なぜかくすくすと笑っている。
 六人の円座の中に安酒のボトルが一本、数本の高価な酒と並んでいたが、ぼくの記憶だとそれは最後までキャップを開けられることがなかったように思う。梶の恋人がつくったのか幾枚かの大皿にサンドイッチや乾きものなどが盛りつけられていた。酒が飲めればいいといった感じで、大したものはない。誰もつくってくれなかったから、ぼくは一番高そうなボトルを選んで濃い水割りをつくって飲んだ。臭くない酒がすきっ腹に落ちていく。
 雑談の内容はぼくに縁のない話ばかりで、毀れた蛇口から漏れる水のように、ぼくの意識のどこにも溜まることなく垂れ流れていた。医者の息子とか大きな電器屋の跡取り息子とか、みな金に不自由のない奴らだということがわかっただけだった。貧困なのは梶とぼくだけだ。梶とぼくは同じ匂いを漂わせて、臭くない酒を飲んでいる。
 隣の男が説教がましくぼくに話しかけてきた。ぼくはぽかんと口を開けて、ああ、ああ、と阿呆面して聞き流すだけだった。眼の端に、こちらの様子を窺ってにやけている梶が居た。
 しばらくすると、煙草が回ってきた。なぜ煙草が回ってきたのかわからなかったが、妙に細巻きな煙草だなと酔った意識で僅かに思った。隣の女が急かしたので、二口吸って手渡した。女は眼を細めて大切そうにそれを吸っている。煙草を指先で摘んだ恰好に陰気な臭気があって病的だ。
 梶と恋人がいちゃついていたので刺激されたのか、それとも酒に酔ったのか、女は右隣の男に鼻を鳴らしてしがみつきキスをせがんだ。いつの間にか部屋が薄暗くなっている。



 なにかが変だ。ぼくは體の調子に不思議な変化が起きていることに、さっきから、煙草を吸ってからだが、気づきはじめていた。體全体が床を抜けてどこまでも落ちていくようなのだ。いつもの酔い方とは違っている。まるで脳の塊が頭からすっぽり抜け出して空中を彷徨っているみたいだ。
 隣の女がいきなりぼくの首を両腕で抱えこんだ。ぼくはしがみつくように女の細くくびれた胴を抱き返していた。剥き出しになっている女の二の腕がぼくの頬に冷たく触れる。女は、ぼくの首を抱き締めたまま、はだけた背中を別の男に嘗め回されていた。ぼくは酔った舌を延ばし女の腕を嘗めた。犬のように女を嘗めた。女の素肌が唾液で濡れた。暗闇の中で盲いた犬のように、女の薄い匂いを嗅ぎながら、ぼくの舌は女の素肌の上を徘徊したのだ。
 いつだったか、その後偶然にぼくはその女を山手線の中で見ることになった。ぼくは座席に腰をおろした女の斜向かいに立っていた。女は左右を男に挟まれて窮屈そうにしている。それでもその姿はあの日の夜とはまるで違って端正だった。伏せた眼から長い睫が垂れている。ぼくには気づいていない。というよりも、女はぼくのことを知らない。あの時、明るみでいた時間は短かったし、暗闇の中でのぼくの馬鹿らしい愛撫が女の記憶にのこっているとは思えない。すべてあの煙草のせいだ。ぼくは女の白い肌を唾液に濡らして嘗め回したあの日の夜を思い出し、離れた位置で女の薄い匂いを鼻孔に、そして薄い肌の味を舌に蘇らせていた。けれど女はぼくの唾液を覚えてはいないのだ。ぼくらはなにも見ていない。あるのはべたつく舌が女を嘗め回したぼくの、べたつく舌に嘗め回されたという女の、行為だけだ。女が電車を降りるとすべてが消えてしまったように、脳はなにもしていないのだった。
 舌を伸ばしすぎたか、あるいは過酷に使いすぎたのか、ぼくの胃と胸に吐き気がやってきた。それで、吐いた。吐瀉物が女をかろうじて掠め、女の背を嘗めていた男の體に吹きかかった。男が大袈裟に喚くのを見て、女はゲラゲラ笑っている。
「だから飲み過ぎないようにって言ったのに」
 梶の横で不服そうに、露骨に歪めた顔で火炎瓶の恋人が言った。梶もまた大声で笑っている。初心者はこれだからやってらんない……誰かが小声で呟くのを聞いた。ぼくは、その言葉は梶のものでもあるように思えた。
「どこに行くの?」立ち上がったぼくに見知らぬ女が訊いた。
「帰るんでしょ」すかさず梶の恋人が言った。
 そうなのだ。ぼくは自分のアパートに帰ることにしたのだ。吐きたい物が喉の途中に停滞したままだったから、トコロテンみたいに、にょろって出てしまえばいいのにと思いながら、躓いたふりをして前屈みになると、再び男の頭に吐き出してやった。さすがに怒ったのか、男はぼくを力一杯突き飛ばした。ぼくは爽快に飛んで壁に頭を打ったが、すでに頭から脳が抜け出ていたので、痛みはなかった。梶が相変わらず笑っているから、ぼくも笑った。ぼくを突き飛ばした男だけ、なぜか怒っている。
 滑稽な奴だ。下半身が裸じゃないか。おまけに尻から尻尾が生えている。と思ったのは、だらりとぶら下がった萎えたペニスだった。ぼくはそれを指さして笑った。眼の前にそれを見つけた女が、それを握ると猛烈な勢いでしごきはじめた。ペニスはたちまち勃起して射精、ケタケタ笑っている女の顔に飛びかかり、長い睫を白く染めた。その女も青白い尻を出していた。部屋中に馬鹿げた笑いが充満した。
 ぼくは落ちていくエレベータの中で腰を抜かしていた。ぼくの顔はムンクの叫びのように、頭と顎が上と下に引っ張られて、まるで瓢箪みたいになっている。本当に脳が宇宙の闇へと飛び去っていくようだ。間違いなく、細巻きの煙草のせいだ。
 一階に着くと、とりのこされていた停滞物が気持よくエレベータの床に吐き出された。たいしたものを食べてはいないのに、その量にぼくは感心した。エレベータを降りてマンションの外に出ると、空は真赤な朝焼けに燃えていた。

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テキスト:マニエリストQ 、写真:ペリ館に属します