Qnovel_09
 


   
 

 翌日の午後、遅く目醒めたぼくは、まだ講議の一つや二つは受けられる時間だったので、たまには受けてみようと大学に行くことにした。空はどす黒く曇って、厚く重い雲が低く層をなして頭上を圧迫していた。遠方ではすでに雨が降っているのか、鈍い雷鳴が轟いている。
 大学前の道は昨日にも増して大量の機動隊で埋まっていた。怯えた学生たちが機動隊を縫うように急ぎ足で歩いている。またデモなのかと、今日も講議はないなと思いながら、それでもぼくは大学へ行くことをやめなかった。機動隊を臆することに柄にもなく意地を張ったのだ。昨日の梶の行動が影響していたもいえた。けれど、ぼくの裡で、「ぼくは一般学生なのだ」と呟く声が執拗に繰り返されていた。またもや、尻のあいだに惨めな尻尾が巻きこまれているのを、感じないではいられなかった。
 校門では例の警備員がいつになく緊張した面持ちで学生たちのチェックをしていた。その脇には長い警棒を體の前に立てた五人の機動隊が立っている。ぼくは、学生証を手渡したとき、その警備員の手が微かに震えているのを見た。警棒は懐に忍ばせているのか手にはしていない。機動隊の長い警棒にいじけでもしたのだろうと僕は思った。警備員の卑屈に血走った眼を、お前も怖いのかと、ぼくは腹の中で嘲笑した。
 いつの間にやったのか、殴りつけるような原色の文字を列ねた巨大な立看が、昨日の倍になって構内を埋めていた。ここは美大なのだから、立看の材料はありあまっているだろうし、そこらじゅうが製作場所なのである。大学に篭った学生が総掛かりすれば、この程度のものは簡単にできてしまうのだろう。妙なことに感心しながら、とにかくこの障害物を越えないかぎり先には進めないのだと、ぼくは思った。思った通り、講議を知らせる案内板は、すべてが休講となっており、実技の時間も中止を知らせていた。
 眼前の交錯して聳え立つ立看は迷路の壁のように視界を塞ぎ、構内の奥がまったく見えない。立看の裏ごとにヘルメットと覆面をした活動学生が角材を持って立っていたが、それは〈一般学生〉をも威さずにはおかなかった。彼らは構内への〈侵入者〉をいちいちどこかに報告しているのか、トランシーバーの機械的な雑音とともに、「ラジャーラジャー」と繰り返す不鮮明な声が聴き取れた。一様に蒼ざめた射竦めるような眼つきは、はたして彼らはここの学生たちなのかと、ふと疑問にさえ感じた。実際、他の学生が紛れこんでいるのかもしれない。ぼくにはその区別さえくつかないのだった。
 ようやく立看を抜けたとき、ぼくの背には爬虫類が吐き出す粘液に似た汗が滲み、Tシャツがべったりと張りついていた。そして、呆然とした。広大なキャンパスが活動学生たちでびっしりと埋め尽されていたからだ。それは無気味なほど静まり返った光景だった。全員が座りこんだキャンパスに、夥しい数の角材だけが低い曇天に突き刺さっていた。静寂がキャンパスを包み、やがてやってくる雨に備える野鳥の囀りさえ聴こえてくる。まるで、すべての学生たちが瞑想でもしているかのようだった。
 学食に向かおうとしたとき、ふたたび遠方で稲光りが一筋落ち、少し間を置いて小さな雷鳴が響いた。学食の人間が入口で、一時間後に閉じると大声で喚いている。それでも学食の中には百人ほどの学生たちがいつもと変わらず居た。コーヒーを買いキャンパス寄りの窓際に席をとったぼくは、梶は居ないかと学食を見回してみたが見つけることができなかった。講議もないのだしコーヒーを飲み終えたらアパートに帰ろうかと、いまだに動きのないキャンパスの活動学生たちをぼんやりと見つめていた。画材屋は今日も閉まっていた。先ほど機動隊の透き間をくぐり抜けながら見上げた画材屋の二階の小さな窓に、カーテンから漏れる薄明かりがあったから、きっと店長は居たのだろう。そろそろ顔を見せないと、まずいことになる。店長はまたよけいな詮索をするにちがいない。都合よく金だけもらっていたのでは、さすがの店長だって面白いはずがないのだ。
 それよりも、ぼくは卒業課題の絵を描きはじめなければならなかった。でなければ、確実に卒業は駄目になる。昨日の様子では、梶は恋人のマンションで描いているように思えた。恋人と二人で着実に描き進めているのか。鬱陶しい思いと面倒な気持ちが錯雑とし、おまけに妬ましさまで涌いてくる。いまのぼくは、梶にくらべ、いまだに貪詰まりなのだった。
 窓硝子を大粒の雨が激しい音を発して打ちはじめた。外は異様に黒い。層雲の透き間に真青な空が僅かにあって、その黒さをますます際立たせている。まるでその主の體を消失してしまったかのように、活動学生たちの夥しいヘルメットだけが暗闇に浮遊していた。稲光りと激しい落雷が繰り返されるその度に、活動学生たちの姿が一瞬あらわれては消えた。雨はさらに激しさを増して降った。落雷の度に、学食に居た女子学生たちが甲高い声で叫び声をあげた。豪雨は白煙をたちこめ、雷は神出鬼没に大学の周囲を旋回し、絶望の渕に叩きこむような馬鹿げた大きな音で、無数に落ちた。
 突然、低く浮遊していたヘルメットが一斉に高く浮いた。騒然とした雄叫びが、豪雨の降りしきるキャンパスに地鳴りのごとく響き、地を這って学食の中につたわってきた。学食に居合わせた学生たちの誰もが窓に駆け寄った。
「ついに、はじまっちまったぜ……」
 隣で学生の一人が呟いた。



 立看のバリケードを破壊したのだろう、数台の装甲車と、活動学生たちの倍はいるだろうか、無数の機動隊がキャンパスの活動学生たちに対峙していた。拡声器が解散を執拗に命じているのが聞こえた。睨み合いは十五分ほどあった。正確にはわからない。一つだけ想像がついた。機動隊は当初から活動学生たちを襲撃することになっていたということ。
 それは、前線の機動隊が一歩、キャンパスに踏みこんだときにはじまった。キャンパスの中心部分から一斉に投石が起きたのだ。石は機動隊の盾や装甲車に鈍い音をたててつぎつぎと当たった。投石は暫くつづき、機動隊は後退したかに見えた。束の間、投石の切れ目が合図となって、機動隊はキャンパスの中に雪崩れこんでいた。
 角材が折れた。ヘルメットが割れて、頭から白いものが噴き出した。長袖のシャツを引裂かれた素肌に血が流れた。絶叫、悲鳴、恫喝、威嚇、怒声、散走、転倒。噴いた血は宙に舞い、地表に落ちた血は雨が流した。キャンパスの全面に、苦痛の呻き声がこだました。火炎瓶がキャンパスで玉虫状に青い炎をあげた。あちこちで、活動学生も、機動隊も、袋叩きにあっていた。その光景は、豪雨とともに閃光が嘶き、闇瞑の天に獰猛な震鱗が踊っているかのようだった。
 ぼくは窓のこちら側で見物人となって震えていた。なんのための流血かも理解することなく、ぼくは平穏の中で子供のように震えていたのだ。ぼくはただ、絵を描きたいだけなのだ……そのとき、ぼくがキャンパスの凄惨な乱闘の中に見たのは、あの老いた犬だった。曖昧な足取りで彷徨い歩く黒い老犬だった。蹴倒されてもなお立ち上がる盲いた者だった。ぼくは窓硝子に両掌を当て泣いていたと思う。けれどそれは定かでない。なぜなら、ぼくはすでにそのとき、学食のステップを飛び下りて、キャンパスに向かって疾走していたからだ。
 警棒と角材が唸っていた。機動隊の屈強な腕と脚と警棒がぼくの體を幾度も打ち、脇腹や背に鈍痛と激しい目眩を感じながら、ぼくは混乱の中を縫うように走った。上半身はすでに裸にされ、素肌に雨が打っていた。蒼ざめた活動学生たちが救いを求めるような眼でぼくの腕にすがったが、ぼくはあらゆるものを振り切ってなお突き進んだ。老犬を見失っていたから、ぼくは乱闘の真只中にはいりこむしかなかった。そこはまさしくキャンパスの中心なのだった。
 老犬は、いまにも踏み殺されそうになって、血の流れる芝生の上によこたわっていた。ぼくは覆い被さるように犬に飛びついた。洪水のような大量の雨水が二人の下を流れた。突然、荒々しい力で、ぼくは肩を持ち上げられた。打ちつける雨で霞む視界に入ったのは、ヘルメットを被った長袖の、睨みつけるような梶の顔だった。隣には揃いの色のヘルメットを被った梶の恋人が立っていた。
「おまえはここでなにをしてるんだ! 馬鹿野郎!」
 梶はそう叫ぶと、恋人を庇うようにその場を離れていった。
 ぼくはずぶ濡れて重くなった老犬を素肌の胸に抱え上げると、ふたたび怒声と悲鳴と雷鳴が狂ったように交響するキャンパスを歩きはじめた。場違いなぼくたちを、活動学生も機動隊も無視したのか、ぼくは障害がなくなったキャンパスを重い足取りで、それでも易々と歩くことができた。朦朧とした意識に、誇張した遠近法のような不自然さで、キャンパスの空間が激しく伸縮した。まるであつらえた舞台装置の中にいるようだった。そうしてみると、機動隊も活動学生たちも、決めつけられた芝居をしている役者のように思えた。距離が空き、舞台はますます遠退いていく。

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