Memorandum

【ジョルジョ・ヴァザーリ】(Giorgio Vasari)
1511年7月30日‐1574年6月27日、イタリアのアレッツォに生まれる。イタリアマニエリスム期の画家、建築家。


1529年ローマでラファエロらの作品に学び、メディチ家トスカーナ大公コジモ1世(1519年-1574年)のお抱え芸術家となる。ウフィッツィ宮殿は美術館となっている。1563年に美術アカデミーのアカデミア・デル・ディゼーニョを創立。1572年からフィレンツェ大聖堂ドーム天井に「最後の審判」のフレスコ画を描くが、1574年逝去(天井画は1579年に完成)。美術史の基本資料にもなっている、ミケランジェロを中心にルネサンス期の芸術家133人の作品と生涯を評伝した「画家・彫刻家・建築家列伝」(1550年出版・1568年第2版で30人追加)を著す。この中でヴァザーリが用いた「再生」 (rinascita) という用語はルネサンスが中世とは異なる時代であることを強く示している。

【La Primavera(ラ・プリマベーラ)春】
Sandro BOTTICELLI(サンドロ・ボッティチェリ)/c. 1482/Tempera on panel, 203 x 314 cm/Galleria degli Uffizi, Florence


ヴァザーリが題名をつけたボッティチェリの代表作。中央は愛と美の女神ヴィーナス、左はヘルメスと三美神、右には春の女神プリマベーラ・花の女神フローラ・西風ゼフェロスを配した構図となっている。


マニエリストQの梯子部屋ストゥディオーロ其の十八*連載小説
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steps2【修復家】

 古代彫刻の修復でジョルジョ・ヴァザーリが彫像の手脚の再生技法を説いたのは16世紀も半ばを過ぎたイタリアのフィレンツェでのことである。
 1574年6月27日、日曜日の夕刻、ヴァザーリはサンタ・クローチェ界隈の自宅で64歳で死んだ。死体はサンタ・マリーア・ヌオーヴァ病院で解剖され、内臓は箱詰めにされてフィレンツェに留まり、遺体は黒いビロードの布に包まれた棺で生地アレッツォに送られた。

 R市にある絵画修復学校に真弐(まに)はいた。担当の授業を終えて、雪のなかをさてどうするか、駅前あたりで酒でも飲みながら夕飯をすませてしまおうか、そんなことをぼんやりと思いながら午後から再び降りはじめた粉雪を学校の三階の窓から見ていた。この学校に勤務してから三年近くがたつ。そろそろ講師の契約が切れる時期だ。妻と別れてからはすでに一年が過ぎていた。けれども、そんなことは今の俺にどうでもいいことではないか、なるようになっていくだけのことだ。気がかりは娘の麗美のことだが、これとて自分の思うようにはすでにない。今夜だって家にはもどっていないだろう。思考は外に降る無彩色の雪のようにフワフワと無気力に浮いていた。
 しかし修復学校の契約切れを真弐はさほど気にはしていなかった。修復家としての技術をべつのところにつかう気でいたからだ。つまりそれは贋作の請負いで、その伝手もできていたし、すでに品物の指定も請けていた。サンドロ・ボッティチェリのラ・プリマベーラ、春だ。はじめての贋作にしては事が大きく感じたが、真弐は依頼主が宗教家だと聞いて興味をもった。どのような宗教を糧としているのかは知れなかったが、その宗教家がプリマベーラに求めているものはなんなのか、宗教には疎いながら真弐の琴線にいくばくか触れたのだった。さらに一千万円という前金も贋作を請負う真弐の決断をうながした確かな事実だ。
 さしあたって真弐のすることはプリマベーラを描くためのアトリエを見つけなければならないことだった。完成すれば高さ2メートルと横の長さ3メートル以上のものになる。とても今の家では無理な話なのだ。
「まずはアトリエを探すことか」つぶやいた先の夕闇にほこりのような白い雪が舞っていた。

  
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