マニエリストQのストゥディオーロ其の十一斑の水 3マニエリストQ


 私達が〈私達の子供〉と称するとき、それは〈架空の子供〉であって、現実ではなかった。私と妻が一緒に住みはじめた、あの最初の日から〈私達の子供〉は求められはしなかった。理由は単純だった。破局が、妻のはじめからの目的であったからだ。破局のための結婚に、生まれてくる子供は不憫でしかない。それだけの理由で、私達には子供がいなかった。そんな妻にしても、私がやっと思い切れたと同様に、破局への実際行動は、今まで思い切れないでいた。それで結局は、妻ではなく、私がまず思い切ることになった。妻の根気に負けたというのが本当だろう。破局は、私自身の破滅によって成就するという、妻の最も願う形で結論に達したと言える。別の言い方をするならば、妻は復讐を遂げた、ということになる。
「俺がここを出ればそれで済む。役所には明日行ってくる」
 妻は小さく頷いたが、その仕草は肯定でも否定でもない曖昧なものだった。もはや私達の間には、たしかなものは何もなかったから、それは相応しい仕草に思えた。
 他人行儀でいてくれたほうがまだしも気楽だった。割り切ることができたからだ。けれど、私達はいつまでも他人とも、肉親ともつかない曖昧な関係だった。そして、妻は曖昧さの裡にひたすら私の破滅を願い、それはとうとう最後まで消えることなく、ますます肥大して、目的自体が生きるよすがになっていた。ここまで来てみれば、私が諦めるしかなかったのだ。私は、いまでも妻を愛しているのだから──。
 和久井は親戚を訪ねるといって午前中に鹿部へ向っていた。鹿部は函館からそう離れていないから、すでに着いていることだろう。鹿部には大沼国定公園と駒ヶ岳がある。今頃は調度、湖水祭の時期でもあった。 
 昼下がりの大森浜に来ていた。熱っした強い陽が海に射し、水平線が空に融けていた。航行する数隻の船体が蜃気楼のように遠く揺らいでいるのが見えた。海上には夏風に抗う二羽の鴎が浮いていた。閑散とした白い砂浜に啄木像がぽつねんとあったが、それは砂浜に無造作に捨て去った不用物のように、その周囲に何の標や飾りもなかった。
 誰もいない長大な浜辺の砂の上で共に座した啄木と私がいた。私は、いかにも惨めを装おう啄木を好きになれなかった。あざとさが苦手だった。女に乱暴なのも厭だった。どこまでが事実なのか知らない。詩そのものが私には馴染めなかったのかも知れない。
 大きな浪が繰り返し寄せた。その度に、臓腑の底を恫喝するかのように浪音が重く轟いた。砕けた浪がこまかい飛沫となって浜辺に散った。寄せる潮水は白い砂を黒く染めては泡を残して退いていた。握り締めていた熱い白砂がさらさらと零れた。
 明後日の夜に函館の桟橋で落ち合う約束で和久井と別れていた。旅費も心細くなっていたから、そのまま帰路に着くことになるだろう。残された三日間が私の本当の旅になるはずだ。観光気分はすでに失せていたから何も見たいとは思わなかった。ただ無意味に、見知らぬ街を歩いてみたいと望んだ。浜を上って通りに出れば堀川町になる。その小さな街を日暮れまで歩き廻り、夜には函館山に行ってみようと決めた。
 通りに出ても人影を見つけられず、白い道をまばらな車が走っているだけだった。通りの向こうの小さな雑貨屋は、閉店でもあるかのように灰褐色に沈んでいる。よくよく見ると硝子戸越しに人の姿が見えたから、閉じてはいなかったのだろう。路地は東京の下町に似ていたが、庭先を飾る植木などはあまり置かれていなかった。大きな木もなく、軒の浅い平屋が多かったので日陰が狭かった。それでも一時の涼を味わえたから小さな日陰を伝って歩いた。
 小さな畑に貧弱なトウモロコシがなっていた。ところどころに玄関を開け放した家があって、真暗に沈んだ広い畳みの部屋がいかにも涼し気だった。潮の匂で忘れていた空気の存在を思い出し、陽のうつろいを肌で味わった。殺風景で音のない風景に、私は旅をしていたのだと、思うことができた。そしてその間、カメラはリュックの中に収まったまま手にすることはなかった。手にしていたのは、寂れた店で買った大きめの牛乳瓶一本だけであった。日陰に潜り込んで飲み込む牛乳が堪らなくうまかった。
 ロープウェイの小さな灯りが夕空に浮いて、ゆっくりと移動しているのが見えた。ロープウェイ山麓駅に着いて間もなく、函館山は闇に覆われた。
 梺から三分間のロープウェイ遊覧は、瞬く間に私を山の頂きへと運んだ。観光客に混じって夜景を見下ろした。左右を漆黒の海に挟まれた函館は狭くほそい。街の無数の灯りが玩具箱の飾りつけのように輝き、まるでミニチュアみたいな、嘘の風景に思えた。美しい光景だった。
 下りのロープウェイは九時五十分が最終だった。それまでだいぶ間があった。ところが、私は今夜の宿をまだ確保していないかった。けれども街に下りれば安宿の一軒もあるだろうし、駄目であったら野宿でもいい。一人旅は思ったより大胆で気楽になれるものだと、私は和久井と伴にしていた時間を比較した。ベンチに腰掛けてぼんやり夜景に浸っていればすぐに時間は経ってしまう。どこといって見たいところはないのだから、時間までここにいいることにした。
 涼しい風が髪を撫でていく。どうしてだろう……ベンチの背に凭れて夜景を見ていたらふと思った。どうして和久井は私をだしにつかったのだろう。そんな必要があったのだろうか。単に一人旅だと言って女と落ち合えばそれで済んだのではないか。そういえば、旅行に出発する二日前の夜、和久井の父親から電話があった。二言三言のあっさりした会話だったからすっかり忘れていた。電話の向こうで愛想のいい気取りのない声で喋っていた。個性がないといったほうが正しいだろう。印象が薄かったから記憶から消えてしまっていた。電話は、和久井をよろしく頼むという、通り一遍の簡単なものだった。
 それにしても、高校三年生の子供に対して父親がすることだろうか。母親ならまだしもだ。私の親など、どこに行くのかさえ訊こうとしなかった。渋々幾ばくかの旅費をカンパしてくれたのがまだましだった。和久井の親は煩いのだろうかと、ちょっとばかり同情した。如才ない温和な喋りの中で、和久井の旅行相手に探りを入れたのだとしたら、和久井の父親は少し陰険だ。そもそも、何かを疑われるような状態に和久井はいたのだろうか。親に監視されなければならない何かがあったのだろうか。女とのことを大袈裟に思っている父親。女とのことを誤魔化そうとする和久井。そんなところだろうか。そして、和久井は本当に鹿部の親戚に行ったのだろうか。それよりも、親戚の話自体、果して事実なのか。
 喉の乾きを感じてベンチを立った。十分置きに往復を繰り返しているロープウェイからぞろぞろと観光客が降りてくる。誰もが賑やかな歓声をあげていた。売店はすぐ近くに見つかった。小銭をポケットに探りながら店に向おうとしたその時、私の足が止まった。十メートルばかり先に在った売店の明かりの中に、和久井と女の姿を見たのだ。
 鹿部の泊まりはやはり嘘だった。午前中に鹿部に行ってそこに泊まるならば、夜になってからここに来るようなことはない。こちらで時間を潰してから夕方に行けばいいのだ。もしも鹿部に行ったのが事実だとしても、泊まる気などなくて、和久井にとって、ここが女との最初からの予定だったのだ。ひょっとしたら鉢合わせの可能性があった私のことなど、もう二人の眼中にはなかったのだろう。が、自由行動は私と和久井の中で公然の決めごとになっていたのだから、作り話までする必要はなかったはずだ。あまりにも幼稚な嘘ではないか。けれど幼稚なのは和久井ではなかった。私自身が幼稚な話で幼稚に扱われたのだ。幼稚なのは私なのだった。今はじめて、和久井の蔑みが、私の全身に直撃した。
 妻はいつから毀れていたのだろう。思うに、私は苛々するばかりで、妻が毀れていることを考えようともしなかった。口煩く罵るだけの毎日だった。そしていつか諦め、抛げていた。すでに家庭は体を成していなかった。妻は物の透き間に生き、足の踏み場のない部屋になっていた。いつの時から、部屋に花が飾られなくなったのだろう。雑然とした部屋でぼんやりと座り込んでいる妻。小さく啼く猫に「待っててね」と掠れた声でひたすら言いつづけていた妻。思い出したように夜中に起き出しては台所で食事を拵える妻。その都度、子供がいなくてよかったのだと私は思った。自由業であったのが幸いだったとも思った。
 限界点は遠に達していたのだ。諦めでは誤魔化しきれない毀傷が生じ、いつか妻の心に無気力という病が纏いついていた。その修復は、私の破滅にのみ託された。それは私の企んだ陰湿な報復のせいだと、私はわかっている。全てがそこからはじまったのだった――。
 乾いた喉にも関わらず、生唾を飲み込んだ。私は今や女のことを知り過ぎていた。今さら素知らぬ振りなどできるものか。どうしても二人に声を掛けることができなかった。掛けたところで、腹の中で舌を出した二人に、屈辱と怒りの感情が噴出し、捨て去ろうとしたコンプレックスがふたたび頭を擡げるに違いないのだ。見過ごしたほうが得策だ。咄嗟に判断していた。
 私は観光客に紛れてその場から離れると、待機していた下りのロープウェイに飛び乗った。ロープウェイはすぐに動きはじめた。動悸の激しさに理不尽な後ろめたさを覚えた。見下ろす夜景が滲んで見えた。この旅は失敗だったと後悔した。 
「夜の海で泳ぐなんてはじめてだわ」はしゃいだ女の声がした。
「実はな、あそこ自殺の名所なんだ。岩に女の黒髪がこびりついてたりして」
 三人の若い女達に囲まれて三十代くらいの男が妙に自慢げに言った。
「嘘でしょ」
「嘘なもんか。地元の俺が言うんだ。本当だよ」
 女達はますます黄色い声をあげてはしゃいだ。
「それってどこですか?」私は思わず男に訊いていた。
「立待ち岬だよ。ほら、与謝野晶子と鉄幹の碑があるところさ」
「僕も連れてってくれませんか」
 男の気さくさに、私は勢いで言った。
「いいよ。一緒に泳ごうか。男が俺一人じゃ心細いからなあ。フルチンで泳ぎゃいいさ」
「もお、いやだあ」女達がきゃあきゃあと騒いだ。
 思わぬ成り行きだった。男達は年上のようだったから、いかにも学生の一人旅に見えた私に警戒心がなかったのだろう。ロープウェイが下降する短い時間の間にも、女達は姉さん気取りで何かと話し掛けてきた。楽しかった。どこかほっとした自分がいた。
 タクシーを捨ててから、左手の海に遠く点滅する街の灯りを見ながら私達は歩いた。海は黒い闇に覆われていた。男は慣れているのか、暗い足場を躊躇なく進んでいく。その間も女達ははしゃいでいた。穏やかな潮風が吹いていたが、波音はなかった。空には夥しい数の星が瞬いていた。
「岬の向こう側が自殺の名所なんだよ」
 海に入ろうとしたら、男が悪戯っぽく私に言った。
 手探りで海に入ると、素足にごつごつした岩を感じた。掌でゆっくり水を掻いだ。ふわりとからだが浮いて、見えない水が蕩けたゴムのように下着一枚の私を柔らかく包んだ。視覚が利かない海は不思議だった。水の中にいる気が全くしなかった。ぬるい水のせいだろうか。方向感覚さえ覚束なかい。
 仰向けに浮いて星空を見た。海は私の全身を心地よく揺らした。眼を瞑ると、このまま漆黒の海に果てしなく流れていくのではと思えた。まるで朽ちた土左衛門のように……。
 いきなり言いようのない無気味さに襲われて眼を開けた。見えない黒い海中に何者かが潜んでいて、からだごと引き込まれてしまう気がした。怖くなって慌てたら、海面に顔を沈めて塩辛い海水をひと飲みしてしまった
「大丈夫か?」
 隣で笑いながら男が浮いていた。
 女達は泳ごうとせずにほとんど固まって水に浸かっているだけだった。多分、足は岩から離れていなかったろう。それでも、少し気味悪くスリリングな夜の海水浴を楽しんでいた。それはいつか、自殺の名所で泳いだ一夏の自慢話として、彼女達の屈託ない思い出の一つになるのだろう。私にとっては、途中で見失っていた自分を辛うじて取り戻した、夏の黒い海なのだった。
 暫くして、夜の海で泳ぐという洒落っけだったのか、さあこれでいいなと言って、男は海から上がるように皆を促した。ふたたび岩を踏んで海から上がり、女の一人が貸してくれたバスタオルでからだを拭った。そのすぐ傍らで女達が着替えていた。一瞬、三つの裸身が星明かりに浮いて、それはすぐに大きなバスタオルに包まれた。
 それから私達は梺の小さな居酒屋で食事をした。奢るからといって男が誘ってくれたのだ。一度は遠慮してみたが、気取るような身分ではなかったので、じゃ遠慮しません、と言ったら皆に笑われた。この旅ではじめて出逢った人達は、人なつっこく、そしてどこまでも大らかだった。


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