マニエリストQのストゥディオーロ其の十一斑の水 4マニエリストQ


 全てを圧縮するかのように厚い灰色の雲が街を覆っていた。冷気は鋭利なナイフのように、柔な素肌を小刻みに切り裂いて、からだの芯まで凍てつける。コートのポケットに捩じ込んだ茶封筒に、妻の願望を成就する道具、離婚届が入っていた。それは妻の殺意として、日々、私の胸元に突き刺さっていた刃だった。にも拘らず、私はその痛みを執念深くいつまでも無視してきた。真赤な血で染まった妻の手を、私は拭ってあげようともせず、ただ眺めているだけだったのだ――。
「きみ、函館にはいつまでいるの?」男はビールを一口呑み込むと言った。
「旅費がそろそろ尽きてきたんで、あと二、三日というところです」
 私もビールを呑んでいた。学生だからと拒んだが、女達に煽られてしまった。
「函館から奥に行く気はないの?」女の一人が訊いた。
 先ほどの自己紹介によれば、女達はある企業の小樽支社勤務で、男とは支社同士の同僚のようだった。夏期休暇を利用して、函館支社にいる男のところに遊びにきていたのだ。
「東北旅行が目的でしたから。まさか北海道まで来るとは思いませんでした」
 私は一人旅を装っていた。和久井のことは一つも話さなかった。それは和久井の秘密に拮抗しようとする、ささやかでいじましい対抗意識だった。まるで中身の異なった秘密ではあったが、どうあれ、私にも内緒の一つくらいつくらなければ癪に触る、この出逢いは和久井に秘密にしようと、ほろ苦いビールを呑みながら思っていた。今ごろ、和久井と女は、また秘密めいた路地裏の旅館を探し出し、二人っきりの時間を過ごしているのだろうか。
「泊まるところは決まってるの?」
 ふたたび訊いたのは女達の中で一番年下だという幸子だった。高校を卒業し、勤めて間もないと言っていたから、私より一学年上ということになる。女達の話の中で早生まれだと言っていたから、歳は私より何ヶ月か上なだけだろう。やや小太りだったが、小麦色に焼けた肌が健康的に見えた。
「まだです。どこでも寝ちゃうから平気です」
 ちょっと思案するように眉間に小さな皺を寄せた幸子は、
「ねえ、吉岡さん。彼、私達と一緒に泊めてあげられないかしら」と、男に言った。
「おいおい、随分ご執心じゃないか。気をつけろよ幸子。男は見かけによらんぞ。真面目そうな顔してるが、正体はどんなだかな」
 吉岡はそう言って大笑いした。幸子は女達に肩をこずかれながら上気していた。皆、酒が廻ってきたのだろう。吉岡以外は誰もが赤い顔になっていた。私にしても同じだった。
「どうだい。たいしたところではないが、幸子がどうしてもきみと離れたくないらしくてな」
「吉岡さん、そんな、違うわよ」幸子が大声で言ったので、また皆、大笑いになった。
「はい。お願いします。やっぱり知らない街の路上で寝るのはさすがに心細いです」
 私は正直に言った。吉岡は了解したのか、うんうんと何度か頷くと、からかうような眼で幸子を意地悪く見つめた。幸子は照れて俯いてしまった。それを見ていた女達がますますきゃあきゃあと騒いだ。それでまた、私達五人はおおいに食べて呑んだ。
「函館は、けっこう大きな事件が多いんだよな……」
 吉岡が思い出したように、遠くを見つめて言った。吉岡も酔ったのだろう、瞳が少し充血している。はしゃいでいた女達は、少し声のトーンが落ちた吉岡の話に、真顔になって聴き入りはじめた。支社が違うとはいえ、吉岡は上司だった。そんな吉岡の話に、女達は礼儀正しかった。それに気づいてか、まじめになるなよと言って吉岡は小さく笑った。
「水上勉の飢餓海峡はみんなも知っているだろう。過去には海難事故や火災など大きな事件があったんだ。かなり悲惨なものだったらしい。もちろん、俺は知らない。年寄りから聞いた話さ……」
 吉岡はそれきり黙って、何かを懐かしんでいるような様子だった。そのためか、座がいささか白けた。女達の賑やかさも半減したようだった。
「ごめん、ごめん。いやなにね、昔のことを思い出していたのさ。白けさせちまったな」
 吉岡が照れたように言って、皆に今度は日本酒をすすめた。
「よかったら聞かせてもらえますか」私は吉岡の酌を受けながら言ってみた。
 函館の話もそうだが、吉岡という人間にも興味が持てた。大らかで男臭い魅力がある。三十歳そこそこで、少し老成した感もしないではなかったが、がっちりした体格がいかにも道産子といった雰囲気に好感が持てた。
「よそさまに聞かせるような話じゃないのだけどね……立待ち岬には因縁があってね……もう何年になるかなあ」
 煙草に火をつけながら吉岡は淡々とした口調で話しはじめた。
 高校時代、吉岡は空手部に所属していた。当時の空手は今と違ってスポーツ的とはいえず、防具も着けなかったし、相手のからだの寸前で止めることもしなかった。まさに武道そのものだった。
 吉岡には親友が居た。同じ空手部に所属する同学年の高木だった。二人はライバル同士でもあった。学年最後の秋の大会に向けて稽古に勤しんでいた夏の或る日、部員達は立待ち岬の上で稽古をつけることになった。岬の上は手頃な平台になっていたので、十人程度の稽古に十分なスペースだったのだ。
 岬に着くと、道着に着替えた部員達は上半身裸で真夏の陽が照り返す海に飛び込んだ。それから一時間ばかり泳いで岬の上に上がった。稽古は基本からはじまり、型を一通り済ませて組手となった。まず対手の攻め技を取り決めた約束組手、つづいて攻め数のみを決めた任意組手を行い、そして、通常の試合とまったく同様の自由組手へと移った。
 ここで事件が起きた。夏休みの自主稽古ということで、顧問の教師が監督についていなかったことも一因したのだろうが、それよりも、最大の原因は〈若さ〉そのものだった。血気盛んが祟ったのだ。
 吉岡の上段廻し蹴りが高木のこめかみを掠めた。まともに当っていればそれで済んだはずだった。武道はプライドの上に成り立っている。なまじ中途半端な蹴りが、高木の血を狂わせてしまった。多分、高木にはもう何も見えていなかっただろう。黒帯が有する凶器の攻めが殺意となって吉岡を幾度も襲った。これが双方、自己を失っていれば、その場の取っ組み合いになったはずだが、生憎、吉岡は高木にくらべて冷静だった。高木の攻めを止めるには確実な破壊しかないと察した吉岡は、当然、躊躇して逃げを打つ。
 平台のスペースを大きく廻転して崖っ縁に廻った瞬間、鋭く突いてきた高木の抜けるような拳を、吉岡が流して捌いたのがいけなかった。通常はそこまでに至る前に審判の止めが入るのだが、先輩格同士の組手に後輩の仕切りは甘かった。一瞬バランスを崩した高木は後ろ手に吉岡の道着の脇を掴んだかに見え、二人は縺れるように崖っ縁に倒れこんだ。そして、部員達が息を呑む間もなく、高木は崖下に姿を消した。差し伸べた吉岡の腕が虚しく宙を彷徨っていた。
「もう、ひと昔も前のことになってしまった……実は、夏になると必ず立待ち岬で泳ぐことにしているんだよ」
 吉岡は小さく笑んで、渇いた喉にゆっくりと酒を流し込んだ。
「高木さんは助からなかったんですか?」少し間を置いて私は訊いた。
「それだけで終わらなかったんだ。数年後に、高木とつきあっていた女性が崖から飛び降りてしまった……いま思うと、一途な時代だったのだと思う」 
 女達にとって立待ち岬の思い出は一生忘れ得ぬものになるのだろう。そして、私は自分自身の友情について想起せざるを得なかった。吉岡の無念にくらべれば、私の思いはただの邪念でしかない。どこかに下衆な興味を抱いた野次馬なのではないか。そう思ってみると、和久井の行動には、他人に言えない、なにか掴みどころのない辛苦を感じるのだった。和久井の秘密とはいったい何なのだろう、と。
 妻は、ゆっくりと、自分の名前を書いた。それから茶箪笥の抽き出しから三文判を取り出して捺した。それをテーブルの上で私に向ってすっと突き出した。眼の前の離婚届に二人の名前が列んでいた。たしか、私達は二人揃って撮った写真が一枚もなかった。二人が列んだ記録は、婚姻届とこの離婚届の名前だけだった。最後まで、二人並んで歩くことは叶わなかった――。
 吉岡のアパートに着いたのは深夜の三時ごろだった。几帳面な性格なのか、吉岡の部屋は殺風景なくらいかたづけられていた。女達は吉岡に促されて、ありたけの蒲団を八畳の部屋に敷き占めた。私達はその上で渋い茶を啜りながら時を過ごした。誰もが少し昂っていたのかも知れない。女達はまるでクラブの合宿か修学旅行の宿のように、いつまでもはしゃいでいた。持参していたパジャマに着替えていたことが、一層女達の気分をくだいていたのだろう。どこで手に入れたのか、いつの間にか、大量のスナック菓子までが蒲団の上で店開きしていた。そんな皆を私は一枚だけ写真に撮った。
 吉岡は女達を眺めながら一人でウィスキーをちびちびやっていた。そんな吉岡を見ていたら、女達のなかに好いた人がいるのだろうかと、お節介な思いが掠めたりもした。さすがに、酒にはもう手が出せず、私は女達とともに幸子がくれた煎餅で茶を啜っていた。函館山で和久井達を見てしまった動揺は可笑しいくらいにいまは消えていて、ここで長閑に茶を飲んでいるのが不思議な気持ちになる。函館山に上がらなかったら一生出逢うことがなかった人達と、昔からの知り合いのように、狭い空間で夜を過ごしている。これが旅の醍醐味だと言えばそれまでのことなのだが、いくらか荒んでいた私の気分を癒すには十分な出来事だった。和久井の事情をあれこれ探ってみても、仕方がないことなのだと思えたのだから。
 朝、ほとんど昼になろうとしていたころ、私達は別れを迎えようとしていた。
 短い眠りから起こされた吉岡が、蒲団の上に胡座をかいて、寝乱れた頭を掻きながら煙草をふかしている。女達は相変わらず元気で賑やかだ。
 私は開け放した窓から外を眺めていた。どこまでも蒼く広がる北海道の空は、透明な水のように澄んでいた。日陰を縫って入り込む空気は硬く、微かな冷たささえ感じる。
「相田くん、コーヒーでも飲んでから行ったら」吉岡が後ろから声をかけた。
「ありがとうございます」
「近所でパンとか適当に買ってきてくれるかい」吉岡は幾らかの金を幸子に渡して言った。
「相田くん、いっしょに行って」幸子が弾んだ声で言った。
 何だか妙にくすぐったかった。皆のからかうような笑いが照れくさかった。
 広い通りに一つの影もなかった。二人の足元に濃い影がただ二つ小さく連れ立っていた。道は土が剥き出していたので陽の照り返しがない。Tシャツはさらりとして肌から離れていた。清清しい暑さだった。
「あのね……」パンと牛乳の入った紙袋を小脇に抱えた幸子が隣で言った。
「なに?」語尾が聴き取れず、私は訊き返した。
「……わたしたち、また逢えるかなあ」
 陽にあたったコントラストの強い顔が俯いていた。長い睫がさらに長い影を頬に落としている。私達はいつの間にか歩きを止めて向かい合っていた。俯いたままの幸子の背に、ぽっかりと黒い闇があった。玄関を開け放した民家の前に立っていたのだ。涼しい風が吹いて、幸子の長い髪がさらさらと揺れた。揺れる髪を見つめていたら辺りは白い風景になった。道はどこまでも広々と平坦につづいている。すっと赤蜻蛉が二人の頭上を掠めた。ああ、夏はもうすぐ終わるのだなとぼんやり思った。
「逢えるよね……きっと」幸子は俯いたままで言った。
 闇の中に、モンペ姿の老婆が笑んで小さく立っていた。手にしたトマトの赤い色だけが黒い闇に鮮やかに浮いている。白い街は音一つなく、空は柔らかな水色に染まって、道に佇む融けた影だけがあった。老婆が腰の辺りで小さく手を振っていた。
「吉岡さん、ありがとうございました」
「おお、元気でな。写真できたら送ってくれ」
 心無しか、女達の眼が潤んでいるように見えた。たった一晩のつきあいではあったが、女達にとって別れはいつでも切ないものなのだろう。
「またいつか逢えるさ」と苦笑しながら吉岡が言ったら、それで、女達は本当に涙を零してしまった。
「じゃ、行きます」
 女達が外で見送ってくれた。遠くになった道に、いつまでもいつまでも手を振っていた。


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