マニエリストQのストゥディオーロ其の十五
汚洞の果実
第3幕−5 マニエリストQ 感想などいただければ幸いです。



 メッセージは断頭台から――

「しばらくここから離れていたい。別荘に連れてってくれ」
「また隠遁生活でもする気?」啓子は、からかうような目で少し笑んでみせた。
「仕事は向こうでやる。データで送るよ……」
「来週にパーティを予定してるの。そっちの別荘だったら行けるわ。それでいいなら、いっしょに行きましょ」
 そっちの別荘とは〈聖なる森〉の別荘のことだ。
「しかし、それには写真の女も参加するんじゃないか?」
「別荘には部屋がたくさんあるんだから、内緒にしていれば誰にもわからない。むしろ、女の動きがわかって、かえって安心なんじゃないかしら。それにまだ、写真の女が脅している本人だとはかぎらないのだし」
「くそ。メンソールか……。こんな煙草やめろよ」
 佐竹は啓子からもらった煙草にけちをつけたが、それでも消そうとはしなかった。
「やつあたりしないの」
 佐竹をソファーに引き寄せた啓子は、幼い子供にするように佐竹の頭を撫でまわした。
 啓子ののんきさは、啓子は佐竹ほどに事態が逼迫しているとは感じられず、疲労による気弱ぐらいにしか思えなかったからだ。
「わたしは行きっぱなしってわけにいかないけど、あっちにはあの子たちがいるから、二人に面倒をみさせるわ」
「あの双子か。俺はどうもあいつらを好きになれない」
「いざというときは用心棒もしてくれる。料理もうまいし。あなた、ちゃんと食べなくちゃ。二人にはよく言いつけておくわ」
 しかたないな、と佐竹は思った。居場所の知られたこのマンションにいるよりも、あの別荘ならば、我慢するのはパーティの数日だけですむ。その間、離れの部屋でじっと身を潜めていよう。たかだか二、三日のこと、なにも食わなくてかまうもんか。食事の用意はパーティが終わったら自分でやればいい。そうやってしばらく身を隠していれば、いくらなんでも女はそのうち諦めるだろう。佐竹は双子との接触も避けたかったのだ。
 その夜、啓子はマンションに泊まった。オフィスではスタッフの連中が仕事をつづけていることだろう。気にはなったが、しかたがない、と啓子もまたそう思うのだった。

 翌日、午前中のオフィスは啓子だけだった。夜中まで勤めたほかのスタッフは午後からの出になる。夜になれば翔も出てくるだろう。
 啓子はオフィスのパソコンでパーティの参加者を調べていた。だが、過去のデータを見ても、女は参加人数の一人にすぎず、はっきりした素性を知ることができない。会員の代表登録者に問いただせばすむことだが、それはパーティのルール上、できることではなかった。それに、来週にはそのパーティの開催がひかえていたし、今ではオフィスにとって重要な収益源となっている。磯城のパーティにたいする期待も大きかった。佐竹の小心にいつまでもつきあってはいられないのだ。啓子は調べを午前中いっぱいで断念した。
 午後になって、スタッフが来はじめた。はじめに顔を見せたのは鷹子で、すぐに亜紀子と曜子がそのあとにつづいた。
 オフィスはいつも、ゆったりとした、お茶の時間からはじまる。どうせ夜中仕事に変わりなく、あくせくしてもしかたない、せめて一日のスタートは優雅な気分で幕を上げたい、というのが元舞台女優啓子の希望であり、気どりだった。それにはだれも反対しないから、一時間ばかりのティータイムには、別腹とでもいうのか、昼食のあとだというのに高級なケーキや菓子がテーブルに並ぶ。もちろん、ダイエットを気にするなら、無理をする必要はない。お茶だけで一時間をのんびりとすごせばよい。そのお茶も、啓子と亜紀子はコーヒー、鷹子は紅茶、曜子は日本茶、とその時々でいろいろだ。何種類かのハーブティや、昆布茶も用意してある。それに合わせた菓子類もある。経費は当然、オフィス持ちだ。
 つまり、たとえ好んで参加しているとはいえ、運営の具合によっては荒んでしまうような仕事場を、少しでもお洒落な雰囲気にしようというのが、啓子の思惑だった。スタッフの一人でも不満を抱かれては困るのだ。それは磯城に指示された啓子の役割の一つでもあった。その点で、啓子は磯城に忠実だった。時にはお局的ではあったが、持前のおおらかさと面倒見のよさで、スタッフにうとまれることはなかったのだ。
 ケーキの甘い匂い。香水の微かな香り。それらがないまぜになって妖しく漂う白いオフィス。性の遊戯者たちが醸しだす空気は、肌理の細かい泡のようにやわらかく、なめらかに、昼下がりの時間の中をまったりと浮遊し流れる。もしも彼女たちの肌に嗜色の指を圧しあてたなら、きっとそのからだに難なく没してしまうだろう。指だけではない。すべてが呑みこまれてしまうにちがいない。そして、すべてが蕩ける。
「少し、甘すぎ……」啓子の長い舌が、紅い唇にクルリと回った。

 夕方になると二人の金髪の男がオフィスにやって来てスタジオに入った。ともに三十代の、街の英会話学校で講師を勤めるアメリカ人だ。二人は、キリスト教会の布教と勧誘のため、黒い鞄に聖書を詰めて街中を歩いてもいる。今夜はアダルトビデオの男優アルバイトというわけだ。磯城はいずれ、自分も英会話学校を開校しよともくろんでいる。この二人はそのための布石であり、さらに数人の女講師もひきこむ気でいるが、磯城のことだから、ただの英会話学校ではない。町内会の老人たちの期待に応える企画につなげたい腹があったのだ。
 今夜のスタジオは〈BDSM-被虐的性行為〉の舞台にしつらえられていた。曜子と亜紀子の演出だ。
 それは、白いスタジオの中で、漆黒のちょっとした塔となって見あげる者を恫喝した。仰々しい、ひょっとしたら神々しくさえも感じられるだろう異様な畏怖が、その周囲を威圧する。まさか本物であるはずもない。大きさからして、何者かが密かにレプリカのパーツを運びいれて組み立てたのだ。その名はフランス革命の申し子、おびただしい血を甞めた処刑機械、一瞬にして人間を二つに分断する〈Guillotine〉と呼ばれている、18世紀末のヨーロッパで強烈な人気を博した庶民のアイドルだった。そして、あのヒトラーがこよなく推奨し実行したギロチンによる大量処刑は、〈ガス室〉の陰となって知る者が少ない。ナチ自身の記録によれば、一九三三年から四五年に、ドイツ国内で一六五〇〇件のギロチン刑を行なった。あるナチの刑執行人は一九四四年の一年で、一日あたり四人のわりあい、一三九九人の首を刎ねた。
 曜子と亜紀子の演出は、ギロチン台で二組がさまざまにもつれあうものだ。それだけならベッドをギロチンに変えるだけのことである。それだけでも異様ではあるが、亜紀子は、より〈そそる〉ものとして、被虐的あるいは加虐的な効果を高める演出を求めた。思いついたのは、スタジオの白い壁をすべてスクリーンに使うことだった。行為の背景にギロチンの物語を映しだす。それは静止画だったり古い映像だったりする。ルネサンスやバロックの絵、ミケランジェロやボッテチェルリの肖像が大写しになったりする。まさに不安と官能のイメージを織りまぜたサドマゾの〈香油〉である。曜子と亜紀子は嬉々として画像と映像を探し、このフィルムを編集した。元図書館司書にして、ましてや悪魔学や天使に精通している二人にとって、こんなに楽しい作業はまたとないのだった。
「私も出たいなあ……」様子を見にきた啓子がギロチンの柱をそっと撫でて言った。
「啓子さんが出てくれれば完璧よ」亜紀子はうれしそうに言った。
「パーティの打ちあわせがあるの。残念だわ」
 啓子は口惜しい素振りを残してスタジオから出ていった。
 亜紀子は、啓子こそ、この演出にふさわしいと感じた。自分たちの演出はこのようなイメージが好きだということによるが、啓子は本物なのだ。啓子が演じれば、レプリカも本物のギロチンに変貌し、誰かの首を斬る。
「怖いな……」亜紀子はスタジオを出ていく啓子の姿を見送りながらつぶやいた。
「どうしたの?」曜子が怪訝そうに亜紀子の顔をのぞきこんだ。
 そのとき二人の背に笑い声がかかった。
「I cant's wait!」
「ごめんごめん。翔くんが来たらはじめるわ」
 亜紀子と曜子は男たちに抱きついていった。

 ビデオカメラは翔が回した。背景の映像は自動にスタジオの壁と天井を動き回った。ギロチンはそこに聳えて在るだけだ。女たちのやわらかい重みを悠然と受けとめ、寡黙な鈍色の刃にときおり密かな光りが走る。物語は、白い壁を這い回る映像が語った。波打つ映像、歪む画像、凹む写真、凸と化す肖像。儀式が進む。翔はギロチンの周囲を回りながらビデオカメラを回した。儀式の背景に首斬りの物語が映りこむ。どうして亜紀子と曜子はこんな演出をしたのだろう? 翔は撮影しながら思った。壁を這い回る映像はなんなのだろう。ギロチン自体、こんなに手間と金をかけても必要なのだろうか。亜紀子と曜子の挑発的で魅力的な色情振りで十分ではないか。目の前ではどこまでもいやらしく曜子が淫れている。感じないではいられない。それを察してか「翔も来いよ」と金髪たちがそそのかす。曜子も僕のふくらみを見ているのだろうか。どんなふうに思うだろう。曜子の目がなにか言いたそうに見えたのは、僕のつごうのよい見間違いか。翔は掴みどころのない漠然とした気持ちでいたが、撮影が進むうちに、このパフォーマンスがある意味を帯びていることに気づきはじめた。それは亜紀子や曜子の意図的な演出なのか、それとも偶然なのか、翔には確信できなかった。どちらにしても、観方によっては強いメッセージがあるのではと翔は感じた。
 スタジオの壁に歴史的映像と画像が流れている。
 ギロチンの玩具を売るセーヌ河畔のギロチン職人
 一七一〇年までに百二十の首を刈った〈スコットランドの乙女〉
 一五世紀後期に繊細な線で描かれた〈マンナイア〉の図
 一八世紀後期、キャシュトが描いた『フランス王妃マリー・アントワネットの死』
 ムヌーシュキン監督『フランス革命』のギロチンのある革命広場
 一九〇九年にドラリューが撮影した二つ並んだポレ兄弟の首
 山高帽を被り正装した刑執行人が写っているフランスのギロチン刑
 一九三九年のヴェルサイユのギロチン処刑
 トマス監督と、コンウェイ監督の『二都物語』
 ウォーホールの電気椅子……
 映画、舞台、奇術ショー、文学、絵画、哲学、あらゆるところで首斬りショーは大人気。どの処刑にも、多くの大衆がむらがり、一瞬の血の匂いに驚愕をもとめて沸き立つ。お祭り広場は盛りあがり、蝋人形館は大繁盛。栄華に飾られたルイ十六世もアントワネットも永遠に残される。その首だけが。
 黒い頭巾ですっぽりと顔を覆った二人の男と、二人の女が断頭台の上であらゆる体位で交接している。頭上には三角形の重々しい鉄の刃が待機している。「I cant's wait!」と咆哮し、いつその残忍な牙を獲物の頸に打ち落とすともしれない。男たちが、羽がいじめにした曜子の首を、円い穴の〈小さな月〉にはめこむ。四つ這いになった曜子が、男たちに交互に犯される。亜紀子が断頭台の柱にもたれて全裸のポーズをつくる。そしておもむろに、ギロチンの刃に結ばれた紐を解きはじめる。
 そのとき、閃光のような猛スピードで画像がつぎつぎと映った。顔、顔、顔……。
 パリの代議士であり解剖学者でもあるギロチンの発明者ジョゼフ=イニャス・ギヨタン博士と、〈ルイ報告書〉の外科学士院長官アントワーヌ・ルイ博士、父親殺しベアトリーチェを題材にあつかったアントナン・アルトー、処刑の模様を微細に描写したスタンダール、想像力の欠如がギロチン刑を長らえたとする画家エリザベート・ヴィジェ=ルブラン、小説『九三年』で司祭たちの欺瞞を暴いたヴィクトル・ユゴー、ギロチン合唱団十六人のカルメル会修道女たち、息子にギロチンの玩具を買いあたえるように依頼したヨハン・ヴォルフガング・ゲーテと、それを頑固に拒否したゲーテの母親エリザベート……。
 前後の脈略なく、ギロチンまたは死刑の反対派も肯定派も区別なく、顔の画像がめまぐるしくつづく。もはや断頭台の刃は落ちようとする寸前だ。
 ギロチンに怯えたサド侯爵、詩人テオフィル・ゴーチェ、スタンダールやユゴーやフローベルやドストエフスキーたちが愛した人殺し詩人ピエール=フランソワ・ラスネール、十九世紀のロマン主義者たち、『ドイツ人学生の冒険』でユゴーよりもはやくギロチンの物語を書いたアメリカ人作家ワシントン・アーヴィング、殺人犯の処刑を『村の司祭』で描いたバルザック、『パリの秘密』のユジェーヌ・シュー、処刑機械の様式美を賞賛した詩人バイロン、一八四五年のローマでギロチン刑を目撃したチャールズ・ディケンズ、強盗殺人犯のギロチン刑を見物にパリに行った二九歳のレフ・トルストイ、死刑執行人とまちがえられたイワン・ツルゲーネフ、大デュマと小デュマ、処刑のまねごとをされた『白痴』のフョードル・ドストエフスキー、SF小説『未来のイヴ』のヴィリエ・ド・リラダン、『ナポレオン』の監督アベル・ガンス、エレミール・ブールジュ、ジョージ・バーナード・ショー、ジークムント・フロイト、チャーリー・チャプリン、ゾラ、ジャリ、フローベル、ユイスマンス、ラフォルダ、ワイルド、モロー、あのクリムト、ビアズレー、ムンク、ダダイスト、シュルレアリスト……ギロチン関連者の際限のない資料漁りは、もうこのへんでやめにしよう。いまや、ギロチンの刃は、ものすごい速度ですべり落ちている最中なのだから。

 曜子の首が落ちた。

 その瞬間に映しだされたのは、アドルフ・ヒトラーの顔写真だった。
 ヒトラーは白い壁に居つづけた。そこに世界のあらゆる国旗が延々とオーバーラップした。そのときのヒトラーの顔を、翔は長いあいだ忘れることができなかった。それとともに、耳の奥にいつまでも残った言葉があった。ヒトラーを背景に、落ちた曜子の首と亜紀子が、ピースマークで叫んだ言葉。

「Let it be. We are serious!」

 オフィスのデスクに戻った翔は、二人が叫んだ反語とも受けとれる言葉を、どう理解すればよいのかと考えた。「どうでもいいじゃない」と「わたしたちは本気よ」。なにがどうでもいいのか? なにに、あるいは、なにが本気なのか? きっと、途中の写真や映像は、どうでもよいのだろう。問題は、ヒトラーにかぶさった国旗だ。と、翔は思いついた。国旗だけが、ほかの映像とは異なる〈物〉だからだ。国旗は象徴で実体ではない。翔は想像する。それは翔の深読みかもしれない。しかし、そうなのだ。あれは、テレビで見たレノンとヨーコの〈ベッド・イン〉だ。亜紀子と曜子は彼女たちのベッド・インを演出したのではなかったか。ギロチンは、今では博物館の収蔵品となり、国家と宗教の権力による暴力の象徴となっている。国家と宗教とヒトラーの暴力。巧みに操る言葉と暴力の上につくりあげた無実体と権力なんか「どうでもいいことだわ。わたしたちは真剣に愛しあってる。だれにもじゃまはさせない!」。亜紀子と曜子がはじめて出あったときにキリストをからかったのは、神の子であるはずのキリストが血みどろの殺戮を避けえなかったからだ。どんな理屈も二人は受けいれない。だれひとりと殺させない。それが二人の〈神〉なのだ。もちろん、そのことは翔の理解外にあった。それでも二人の宗教観については推察できた。翔はふたたび、それが深読みであると感じた。けれども、隠されたメッセージをどう読み解くかは、受け手の特権なのだと思いなおしていた。
 編集をまかされた今夜のビデオがパソコンに映っている。亜紀子も曜子も美しい。アダルトビデオに似つかわしくない違和感が、ますますその妖しさを際立てている。しかし、曜子の淫らな姿態に、翔はいたたまれなかった。最後まで撮影できたのが、まるで他人事のように思えてならなかった。






参考資料:ダニエル・ジェルールド著・金澤智訳『ギロチン』死と革命のフォークロア(青弓社刊)
写真:SACHI(PHOTO ST