
ここにキミの絶望はあるか――
John Lennon の『 Imagine 』の詩にならって〈想像〉するならば、天国も地獄も宗教も、国さえも存在しなくなる。天国も地獄も宗教も、国も、想像ゆえに産まれた無実体であり、実は、なにも、ない。キミを救うものは、絶望的に、なにもなく、キミが救われるためには〈想像〉という手があるのみだが、それはまさに絶望的で、どうしてって、キミには想像力がないからだ。もしもキミが本当に想像力をもっているとすれば、John Lennonの言うように、いまごろ世界はとっくに一つになっているはずなのだ。ところが、いまだに多くのことがぶつかりあったままでいる。キミにも、ほかのキミたちにも、想像力は、絶望的に、ない。
高山宏之は『ビートルズの詩の世界』で、「let it be 」を「なりゆきにまかせなさい」と訳した。野島秀勝は Shakespeare の『ハムレット』で、Hamletが死に瀕して呟く「let it be」を「もうどうでもいいことだ」と訳した。前者は「ゆだねる」ことであり、後者は「なげやり」または「突き放す」ことだ。
John Lennonは『神』という詩で、イエスも聖書もビートルズも信じない、信じるのは洋子と自分だけだとうたっている、と高山は『Imagine』の解説で書いている。とすれば、聖母マリアの言葉に身をゆだねることなど、John Lennonはするだろうか。あるいは、そんなことを他人に奨励するだろうか。
聖母マリアは『Let it be』で、困っている〈わたし〉に、きっとこう言ったのだ。
「そんなこと、どうでもいいじゃない」と。
そして、 John Lennon は「ありもしないことなんて、どうでもいいわ」と『Imagine』に繋げたのだ。ありもしない国のために死ぬことはないし、ありもしないさきのことで生きる必要もない。あるのはいまこの一瞬だけなのだとばかり、「To be, or not to be」と、自身の不安のうちに銃弾という毒薬によって死んでいったのだ。
くりかえし流れるBeatles。
「なにを考えてるの?」
「ビートルズのジョンレノンのこと」
「流れてる曲ね。古いわねえ」
「知りあいの編集者もそう言ってたよ。いまの若い人は知らないって。そうかなあ……」
「ビートルズはクラシックなのよ」
スタジオの大きなベッドは、まるで白いシーツの大海だ。磯城と啓子が全裸で泳いでいる。どんなに激しく絡みあっても、ベッドから落ちることはない。
めずらしく、今夜のオフィスは休日になっていた。磯城と啓子は仕事明けのまま居残り、いま、ライトで煌々と輝く真っ白なスタジオの中で抱きあっている。抱きあいながら、磯城の意識は啓子のからだにはなかった。ここのところつねにある意識は、れいの〈宗教=教育〉の思いつきだった。新興宗教でも興したいのかと馬鹿馬鹿しくもなるが、それでもこの思考は磯城の中でいまもつづき、その思考のさきはあちこちと無秩序に気ままだった。ダビデの町がいまやビートルズにいたっているほどだ。おまけに、シェイクスピアにハムレットまで出てくる。磯城はわれながら呆れていた。
「こんどは、なにをたくらんでるの?」
紅潮した頬で啓子が訊いた。青い瞳が深い。
磯城は啓子のからだから離れてベッドから降りた。それからビートルズを消した。ベッドの四隅に立てた黒い照明器具が、スタジオの白い床にますますコントラストを強めている。静寂の中に、煙草と二人の匂いだけがあった。
「佐竹さんは順調に進んでるのか?」
「ええ、だいじょうぶみたい」
「会ってないのか?」
磯城は下着をつけるとベッドの端に腰かけて言った。
「ここのところ、ご無沙汰してるわ」
「佐竹さんは俺たちのことを知ってるのか?」
「さあ。でも、あの人は自分のことしかないから。どうでもいいんじゃない」
「どうでもいいか……」
「なによ。おかしい?」
「ああ、おかしい。まったく、おかしい。おお、マリア様だよ」
磯城はおおげさな身振りでそう言うと、啓子に向かってペッと唾を吐くまねをした。
「変な人」
そう言えば、契約してないなあ。俺の仕事は口約束ばっかりだ。まあ、いいけど。灰皿が山だ。危ねえなあ。燃えたら火事だ。ぜんぶパーだ。まあ、いいけど……そうもいかないか。やるしかない。
電話が鳴った。
「はい?」だれからだ。オフィスは休みのはずだ。
――サ・タ・ケ・さんですね……れいの女だ。
「あんた、だれだ。いったいなんだっていうんだ」
佐竹は、額に流れ落ちる大粒の汗を実感していた。長い沈黙が心臓の鼓動をはやめた。
「悪ふざけはいいかげんにしてくれ」懇願が泣き声になっている。
――いがいと気が弱いですね、サ・タ・ケ・さん
「だからなんだっていうんだ」
――もうすぐですよ
「だからさあ」
ツー。電話が切れた。
焦げ臭い。灰皿が燃えている。佐竹はあわててカップのコーヒーをぶちまける。くそっ。佐竹はうめいた。冷や汗が寒気を誘った。気をとりなおしてパソコンに向かったが、それどころではない。佐竹は絶望的に萎えていた。薄々と感じていたことが、もはや確信となった。印刷機の音。俺は復讐される。まったくいまさらだ!
佐竹は受話器をとった。深夜がどうだというのだ。ダイアルを回す指が小刻みに震えた。
「この電話番号は使われておりません……」
なぜだ。印刷会社はつづいているはずではなかったか。
「電源が切れているか……」啓子の携帯電話も繋がらない。
これいじょうに佐竹の繋がりがなかった。佐竹は、絶望的に〈独り〉を感じた。机の縁からどす黒い液体が滴り落ちている。それはまるで自分の血でもあるかのように思えた。恐怖は疲労のすきまに忍びこむ。強気でいたいのなら健康でいなければならない。佐竹は不規則な生活に疲れきっていた。蝕んだ肉体は些細な音にも過敏な反応を示す。佐竹の鼓膜は硝子と化し、いつ割れてもおかしくない状態になっていた。
煙草にむせた。そして大量に吐いた。床に広がる吐瀉物は、無限に溢れる絶望だ。「Let it be」どうにでもしてくれ。佐竹の呟きは地獄の淵にゆっくりとすべり落ちていった。
翌日の午後。朦朧とした鼓膜に遠く、電話の音がする。それが自分の携帯電話の着信音であることに気づいたのは二分近くもたってからのことだった。佐竹は、まるで他人のものでもあるかのように、重いからだをおこしてソファーから離れた。
――どうしたの?
啓子だ。昨夜かけたマンションの電話の記録が残っていたのだろうと佐竹は思った。啓子はいつも携帯電話のほうにしてくる。
「なぜ電話に出なかった」
――たいした理由はないわ。たまたまよ
「こっちに来てくれないか」
――いますぐには無理だわ。仕事中ですもの
「休暇をとってくれ。それと車を用意しろ」
――いったいどうしたのよ……とにかくわかったわ。夜の九時には行けると思う
「待ってる……」
いやな臭いが漂っている。机も床も汚れたままだった。
女は、だれなのか。佐竹は気だるいからだをソファーにもどして考えた。あの社長に、はたして娘はいただろうか。勤めていながらそんなことさえ知らなかった。あえて知ろうとしなかったとか、意識的に無関心でいようとしたのではなかった。それいぜんのことだ。社長の家族のことなど、まったく頭になかったのだ。自分のまわりに人がいないわけだ……佐竹は苦笑した。そして、怯えた。追加された知らないことが、佐竹の恐怖心をつのらせたのだ。喉に猛烈な渇きを覚え、しかたなく重いからだをキッチンにはこんだ。両足のふくらはぎが石のように硬くて重い。
冷蔵庫のポケットから缶ビールをつまむ。と、佐竹の視線が冷蔵庫の中断の棚で止まった。途端、佐竹の全身がちぢみあがった。缶ビールが鈍い音で佐竹の足の甲に落ちた。その痛さを感じないほど、佐竹はなかば失神状態に陥った。見開いた目の中で血走った眼球が小刻みに震えた。顔色がない。立っているのがやっとだ。ようやくのこと足の甲に痛みを感じた佐竹は、額にふきだした大粒の汗をぬぐい、大きく息を吸って、吐いた。
そこにあったのは、活版印刷の組版の植字に用いる、十五ポイントほどの小さな八本の活字だった。鉛色の文字面を見せて、正確に等間隔で横たえてある。佐竹は恐る恐る活字に顔を寄せた。裏がえしの文字を呟くようにゆっくりと口にした。
サ タ ケ サ ン デ ス ネ
「くそおっ」
佐竹の荒々しい掌が活字を払った。活字は、カチカチっと鋭い音をたててはじけた。そのいくつかが床に飛んだ。
なんてことだ。だれかがここに忍びこんでいる。いつだ。そうか、煙草を買いに下のコンビニに降りたちょっとした隙だ。食事も出前だし、それいがいにここを空けてはいない。俺の動きを察している奴にちがいない。それにしても、素早すぎる。一〇分もかかってはいないはずだ。はたして女にできる仕業だろうか。
佐竹はソファーに腰かけ、頭をかかえた。まだからだが震えている。毛布をとって頭からくるまった。
自分はなにをやりたかったのだろう。結局、場所を変えただけではなかったか。俺のやりたかったことは、こんなことではなかったはずだ。啓子がまちどおしい。無性に啓子のからだに触れたい。啓子のからだを感じたい。
佐竹は、啓子だけが自分のものだと思った。都合がいいのは百も承知だ。おまけに啓子を信じているわけではない。けれども、実際、自分の最も近くにいるのは啓子しかないのだと佐竹は思った。このような状況でいるのも、すべて啓子に関連し、彼女の思惑が大きく作用していたのだ。自分だけがこんな思いをすることはない。佐竹は、矛先を啓子に向けることで、怯えから少しでも逃れようとした。やられるのなら一緒にだ、と。
啓子が佐竹のところにやって来たのは、九時を少しまわったころだった。
「仕事は、どお?」
「それどころじゃない……」
「この部屋、臭いわ。なにかが腐ってるみたい。空気いれかえようよ」
啓子は窓に近づきカーテンを勢いよく開ける。
「やめろ!」
佐竹はくるまっていた毛布を払いのけ、あわてて窓を開けようとする啓子の腕を強く掴んだ。
「痛いわ。なにをあせってるのよ」啓子が眉間を寄せて言った。
佐竹はカーテンを閉めなおすと、啓子を強引にソファーに座らせた。
「とにかく、窓は開けないでくれ」
「それじゃ、キッチンの換気扇を回してくるわ」
それには小さく頷くだけの佐竹だった。
「冷蔵庫、どうしたの? 開けっ放しよ」
キッチンで啓子の声がした。
「缶ビールも外に落ちてたわ。はい、冷えたのどうぞ」
佐竹は、ビールを水でも飲むように一気に飲みほすと、空になった缶を乱暴につぶした。すると、啓子が握りしめたこぶしを佐竹の前に出して言った。
「これ、なに?」
開いた掌の上に、活字があった。
「なんでもない。ただの鉛でできた怨念のかたまりだ。そんなもの捨ててくれ」
「怨念て?」啓子は訝しげに首を傾げて訊いた。
「女ハムレットさ」そう言って、佐竹はつぶした缶を部屋の遠くに投げ捨てた。
あの女が印刷会社の社長の娘なのか、また、社長がすでに亡霊になっているのか、佐竹には定かでなかった。しかし、それがどうあろうと、恨まれていることにまちがいない。しかし、よくよく考えてみると、殺すとまでは脅されていなかったのではなかったか。復讐=殺されるは、先走った妄想にすぎないのではないか。あれはただの性質の悪いいやがらせだ。
佐竹は、啓子が来てくれたことで、いくばくかの望みと救いをもてた。啓子には、そういうところがあった。人を楽天的にするなにかだ。それは、啓子の豊かなからだにあるのかもしれない。啓子は、人を油断させた。
「あなた疲れてるのよ。してあげるわ。終わったら少し寝たほうがいい。目が充血してる」啓子は、ソファーに腰かけた佐竹の足もとに跪くと、佐竹を見上げて言った。
「強く抱きしめてくれ。そのほうがいい」
「いいけど。でも、いったいなにがあったの? なにか怖がってるみたいに見えるわ……」
啓子は佐竹の横に座りなおし、佐竹のからだを両腕ごと抱きしめた。まるで鶏ガラのよう。啓子は佐竹のからだに驚いた。あのとき別荘で抱きあった佐竹のからだは、こんなではなかった。いつからこんなに痩せてしまったのだろう。まがりなりにも、佐竹のあとおしをしたのは自分だったのだ。金の工面だけですませていたのは失敗だった。もう少し生活の世話もみるべきだった。さすがの啓子も、いつになく悔やんだ。
「見てもらいたい写真がある」
佐竹はパソコンに向かうとファイルの一つを開いた。写真のリストが開き、そのうちの一つをクリック、デスクトップに写真が大きく現われた。
「この女、たれだかわかるか」
それは〈聖なる森〉で催されたパーティで翔が撮影した写真の一枚だった。四つん這いで犯されている若い女が背後を振り向いている。歓喜で唇は緩んでいるが、大きく見開いた目で顔の認識ははっきりできた。
「たしか、会員の一人の紹介だと思うけど」啓子はパソコンに顔を近づけて言った。
「つれの男もいるよな。一人では参加できないはずだ。調べてくれないか」
「わかったわ。でも、彼女がどうしたの?」啓子はソファーにもどりながら言った。
「俺を脅してる……多分、印刷会社に関係している」佐竹はせわしなくうろつきながら言った。
「脅すって? なにか要求でもしてるの?」
「ただのいやがらせかもしれんが、そうも思えなくなった。キッチンに落ちていたのは活版印刷の活字だ。冷蔵庫にはいってた」
「仕返しというわけね」
佐竹は、啓子が復讐ではなく仕返しといった言葉を使ったことに、不満を感じた。自分の不安にその程度しか思ってくれていない、と。それは、佐竹の身勝手さと甘えにほかならないが、いよいよ佐竹の精神状態が危ういところに来ていることを示しているのだった。

参考資料:高山宏之著『ビートルズの詩の世界』(実業之日本社)、野島秀勝訳シェイクスピア『ハムレット』(岩波文庫)
写真:kyin(PHOTO ST)
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