マニエリストQのストゥディオーロ其の十五
汚洞の果実
第3幕−3 マニエリストQ 感想などいただければ幸いです。



 正しい教育プラン――

 長老たちの期待している事業が、自分にとってどれほどメリットがあるのか……。磯城は応接セットのソファに深く埋もれて集会所でのことを思いめぐらしていた。その思考は、磯城にはめずらしく漫然としていた。自分らしからぬ思考の錯綜をもどかしく感じた磯城は、酒が必要なのは佐竹ではなく自分のほうだと、自嘲気味に小さく鼻を鳴らした。佐竹がオフィスを去って一時間がすぎようとしていた。
 長老たちの〈秘密を内包した平穏な生活〉は、すでに人質にとってある。この事業に彼ら自体が、どれほどの強い期待感を抱いているのか。それは少々、疑問でもある。老人たちは夜這い事件の苦情に子供じみた反駁をみせただけのことではなかったか。いまはただ、彼らの不満が大きく膨れあがらないように注意していればいい……が、どうせやるなら自分にとってのメリットを明らかにしておきたい。それには〈教育〉についてもっと知る必要がある。磯城はライター特有の習性とも言えなくはない対象へのこだわりをもちはじめていた。たとえそれが長老たちの期待とくいちがっても磯城の意に介することではなかった。なぜなら、磯城もまた自身の〈退屈しのぎ〉を優先していたのだから。
 教育を口にする人間には三通りある。一つは人間を豊かにするため、一つは人間の欲求にこたえるため、一つは人間を従わせるため、教育にそれぞれの目的を描く三通りの人間だ。磯城の描く教育は、そのいずれにあるのか。どれが磯城の〈退屈しのぎ〉になるのか。それには、過去から現在にいたる教育のもたらした現実を見なければならない。磯城は、そう考えた。そしてまず頭に浮かんだのが、教科書としての〈聖書〉だった。しかし、なぜ聖書なのか、今の磯城には解らない。キリストを教育者の一人と見なしたからなのか、教育そのものが宗教的に思えたからなのか。
 磯城は、はじめに矢内原忠雄の『イエス伝・マルコ伝による』を読んだ。つぎに日本聖書協会の『新約聖書』中のマルコによる福音書を読み、ウォルター・ワンゲリンの『小説「聖書」旧約聖書』と『小説「聖書」新約篇』を読んだ。副読本は、自由国民社の『聖書の世界』をかたわらに置いた。それから、マーティン・ギルバード『エルサレムの20世紀』を読み終えると、上田和夫『ユダヤ人』を読んだ。そしていま、立山良司『エルサレム』を読んでいる。この流れでいくと、つぎに読まなければならないのは、長谷川公昭の『ナチ強制収容所』だと磯城は思った。この本はいぜんに読みかけていたが、読み進むうちにうんざりして投げ出していた。偶然か、エルサレムもナチも草思社の発行だ。どうしても読まなければならなくなる。磯城はエルサレムを読んでいて、そう思うのだった。
 話をさきにしてしまえば、磯城はひたすら、紀元前から現代にいたる大虐殺の歴史を、連綿と叩き込まれることになったのだ。数えることすら煩わしくなる大量の死、人間の消去、消却、廃棄をくりかえす物語を読むことになる。最悪なのは、物語には終わりがなく、はてしなくつづいていることだ。今日もまた、それはテロという呼び名で多くの人間が殺された。紀元前の時代から今日にいたる大殺戮。終りの見えない人殺し。けれども、今の磯城にとって、それはどこまでも文面上の殺人だった。詩人ランボーはなぜ最後はキリスト教徒として死んだのだろう。磯城は、まるで小さな火の粉が宙に飛散するかのように、あちこちと無方向に思考するのだった。

 深夜の一時をすぎたころ、啓子を先頭に陽子、亜紀子、そしてすでに体調を回復していた鷹子が、仕事場からぞろぞろと出てきた。最後には翔がいた。
「食事に行ってくるわ。磯城さんはどうする?」
 啓子はソファーの磯城を見おろすようにして言った。青みがかった瞳が黒縁の眼鏡の奥で微かに笑んでいる。
「翔もいっしょか?」磯城が翔を見て言った。
「翔くんは、今夜はこれで上がり」
 啓子が答えたので、翔は磯城に黙ってうなずいてみせた。
「そうか。俺はいいよ。みんなで行ってくれ」
 ソファーに腰かけたままの磯城に、翔は軽く頭を下げ、啓子たちのあとにしたがった。
 翔は、コルナゴを走らせながら、磯城は自分に話があったのではないかと気になった。鷹子の夜這い事件のとき、翔と磯城は救急車の要請の是非で意見がぶつかっていた。それを美樹に話したくらいだから、翔はいくらか気にしていたのだ。磯城もそのことで自分と話をしたかったのではないか。しかしあの磯城だから、そんな瑣末なことにこだわってはいないだろう。鷹子も元気になったことだし、アルバイトもつづけると決めたのだ。せっかく手に入れた〈退屈しのぎ〉でもある。気にするのはやめよう……。
 コルナゴが軽くなった。坂を登り切ったのだ。国道沿いにある医療刑務所の無機質な塀を覆い隠す桜樹。予感としての、桜花が咲き乱れる甘い匂い。三万を超す自殺が街ではじまる季節。翔は顔をよぎる風に新しい季節を感じた。もうすぐ、退屈な新学期がやってくる。

 機械人間‐驚異博物館‐高速度撮影像‐聖書‐失われた楽園‐時計詩‐音響詩‐綱渡り師‐自己性欲症‐貝殻‐憂鬱……美術書の事項索引の頁に並ぶ魅力的な単語。
 美樹は、索引のア行からワ行まで、いったりきたり、なんどもながめていた。単語の羅列がイマジネーションをかきたてた。美樹は気にいった単語を組みあわせる。すると、美樹の詩ができあがる。美樹は、それを〈索引詩〉と呼んでいる。小説を書くことに飽きたときの美樹の遊戯だ。好きな本をひっぱりだしてはこれをやる。美樹は、単語を食べて単語太りし、それを小説を書いて吐きだす。
 美樹の部屋は二階に二つある。一つはベッドと机のシンプルな八畳ほどの部屋だ。普段はここですごす。もう一つはドアを挟んだ隣にある六畳の小さな部屋。その部屋はというと、変だ。十代の少女がすごすような部屋ではない。女の子らしい彩りはひとかけらもなく、可愛い縫いぐるみはどこにも見あたらない。
 縦長の細長い西洋窓に葡萄色のカーテンがかかっている。窓はそれだけだ。床の絨毯も幾何学模様の葡萄色で、壁にはベージュの地にかろうじてピンクに近い肌色の花柄の壁紙がはりつめてある。古臭い縁取りのある鏡や年代物らしい本箱や片肘の一人掛けソファーが部屋を囲んでいる。床には雑誌が散乱し、いくつもの書籍の小さな山が歩みを妨げる。
 クラシックな置時計、顕微鏡、小さな硝子壜類、ティーカップ、角砂糖を盛ったマグカップ、登山用ピッケル、変色している地球儀、いかにも安っぽいヴァイオリン等々。それらは、壁にかけられたり、床にじかに置かれたりしている。
 部屋の中央に、赤い小花を散らした橙色のクロスを被った直径六〇センチほどの円テーブルと、背もたれのある木製の椅子が二脚、テーブルをはさんで置いてある。まるで占い師と客が向かいあってでもいるかのように、いかにもいかがわしい。テーブルの上に手相見用の柄のついたルーペがあった。それだけではない。羽根ペンを差したままのインク壺、煙草の葉を入れたブリキ缶、クレイパイプ、それにどうしてか黒光りした手錠までも置いてある。言わずもがな。そこはベーカー街221番Bの、あのシャーロック・ホームズの下宿部屋だ。
 そのテーブルで、チェック柄のインパネスを羽織った少女が小説を書いている。小さな頭にディアストーカーを載せ、ホームズを気どってパソコンを打っている。美樹は、グスタフ・ルネ・ホッケが言った「手に汗を握らせるような小説は探偵小説だけである」が好きだ。だからといって探偵小説を書いているわけではない。これもまたホッケが「マニエリストの書く小説は退屈」と言うように、美樹の小説は「退屈をまぎらすという目的」であるにすぎない。それだからか、美樹の小説は、倉橋由美子の『聖少女』未紀を見倣うどころではなくなり、わけのわからない小説になった。が、それは意識されたものだ。美樹は行為自体の曖昧さと晦渋の裡に遊んでいる。それが、美樹の退屈しのぎの一つなのだった。
 テオブローマ、神々の食べ物を、ひとかけら。
 美樹は、可愛いリボンをあしらったこげ茶色のチョコレートボックスのチョコレートを一つ摘みだし、ぽいと小さな口に放りこむ。映画『チャーリーとチョコレート工場』が脳裏をよぎる。美樹お得意のイメージ〈チョコレートの海〉が、このときばかりは甘く香ばしく波打つ。この夢のように蠱惑的な神々の食べ物は、どうやって生まれたのか。美樹は、モロゾフの本『チョコレート』を開く。するとそれは、まるで納豆の発見と同じようだと、チョコレートと納豆のギャップに、美樹はクスクス笑う。
 ケツァルコアトル、古代メキシコの羽毛のある蛇の形をした神。
 人類にはじめて玉蜀黍とチョコレートをあたえ、文化と教養を教えたケツァルコアトル。ライバル神のテスカトリポカに毒を飲まされた。神様って陰険だ、と美樹は思う。ギリシャ神話に出てくる神様たちだってそうだ。陰湿で、妬みぶかい。そういえば、と美樹はモーセの十戒を思いだす。
「あなたは私のほかに、なにものをも神としてはならない」
 そうすればおまえを優遇してやるぞと選民し、でないと繁栄させないぞって、それは飴と鞭だ、嫉妬の極みだ。
 ウリエル・ダ・コスタは、モーセの律法は人間がつくったものだと批判した。バルーフ・スピノザは、聖書は人間がつくったもので、ユダヤ人の連帯を強めるために企図されたと主張した。二人はともにユダヤ教を破門され、コスタは孤独と屈辱に耐え切れずピストル自殺、スピノザはレンズ磨き職人として四十四歳のときに肺結核で死んだ。二人は十七世紀オランダのユダヤ社会に生まれた異端者なのだった。
 美樹は二人が異端者だとは思わない。それよりも、ユダヤ教の復帰でダ・コスタにあたえた行為、それこそが人としての異端行為ではなかったか、と美樹は思う。三十九回の鞭打ちをうけてシナゴーグの敷居にひれ伏したダ・コスタの上を跨ぐ会衆……この、人間を凌辱する会衆というのは、どのような人間なのだろう。あらゆる宗教に、あらゆる時に、あらゆる歴史に、臆面もなく姿をあらわすこのような人々。
 美樹は『チョコレート』の本を閉じる。羽織っていたインパネスをドアのコートフックに吊るす。被っていたディアストーカーをソファーに投げ捨てる。それから十秒ばかし目を閉じ、そして開ける。すると、テーブルの向かい側に、だれかがあらわれた。
「間抜けな絵。欄間の彫りもの。舞台の書割。辻芸人の絵看板。店舗の招牌。俗な絵草紙。流行おくれの文学。お寺の半可なラテン語。嘘字だらけの春本。父祖の時代の読本。仙女譚。少年向き小型本。古ぼけオペラ。馬鹿げた畳句。気さくなリズム。十字軍。前代未聞の探検旅行。歴史のまだない共和国。鎮圧された宗教戦争。風俗革命。民族と大陸の大移動。あらゆる蠱惑。母音の色彩。詩的な古物。工場が在る回教寺院。天使たちがつくった鼓手養成の学校。天の八街駈けめぐる無蓋の四輪馬車。湖底に沈んだ応接室。悪鬼。不思議。喜歌劇の外題。砂漠。焦げた果樹園。しょんぼりした商店。生ぬるくなった飲物。厭な匂いの路地裏。安宿の小便所の匂い。瑠璃萵苣に焦がれる小蠅」
 だれかが、念仏を唱えるように言った。
「まるで墓場の裏道を散歩してるみたいな気分になるわ」
 と、美樹がつぶやく。
「 A.Rimbaud の『地獄の一季』から、美樹くんの好きそうな言葉を抜きだしてみました」
「よけいなお世話だわ。あなた、どなた?」
「ダイガクです」
「大学? そうか、翻訳家のダイガクさんね。ランボーだし……それにしても若いわね。もっとお爺ちゃんのはずだけど」
「はじめから年寄というわけではありませんよ」
「まあそうね。で、なぜここにダイガクさんなの?」
「私のことは、遠く離れて実際には会えない、同じ趣味の友達ぐらいに思ってください」 「ランボーつながりってことね」
「そうです、そうです。 Twitter のようなものです。ちなみに、私の adresse は Poesie Symbolist 、 id は livre です」
 Veuillez repondre avec me.
「……Mixiのほうが近いのじゃない?」
「似たり寄ったりということで……」
「どうでもいいけど、どうしてピエロなの?」
「先日、仮装パーティがありましてね。気にいったのでそのままでいるんですよ」
 ダイガクさんは、そう言って、少しおどけた身振りをしてみせた。そのとき、首に巻きついた幅広い円盤状の白い襟がひらひらと揺れ、顔に厚く塗った白粉が黴た微かな匂いをテーブルの上に漂わせた。その匂いは美樹にどことなく懐かしく思わせた。いつどこで覚えた匂いだろう。美樹はダイガクさんのピエロ独特の悲しげなメイクをじっと見つめた。が、どうしても、その匂いの記憶には辿りつけなかった。
「まさしく、Rimbaudの匂いでしょ」
 ダイガクさんが美樹の顔を覗きこむようにして言った。そして、ニコッと笑んだ。
「真の構想力のある詩人とはあらゆるものをあらゆるものに変身させることのできる人、とE.Tesauroが言ってます。美樹くんはどんなものを変身するのでしょうね」
 わたしはいま、それを探しているのでは、と美樹は思った。
「じゃ、またね」と言って、ダイガクさんは帰って行った。
 ダイガクさんは、どこへ帰るのだろう。きっと〈巴里の憂鬱〉の街に帰って行くんだろうな。美樹はノートパソコンの電源を落とし、そして静かに閉じた。

『クールベさん、今日は』。見開いた画集の上に、翔の寝いった横顔があった。ベッドに服のまま、翔は眠っていた。
 しかし、どうして写実主義のクールベ? 翔らしくない。らしくないが、翔はクールベのとがったあごひげが好きだ。「 Bonjour Monsieur Courbet. 」この何気ない挨拶が心地よく、一度思いだすと数日間、頭の中でくりかえした。「クールベさん、今日は。クールベさん、今日は。クールベさん、今日は」。選ばれていながらパリ万国博覧会に展示されず、それに対抗するかのように世界で初めての個展を開いたというクールベさん。歴史画の主題を、神から名もない人々に移し変えた『オルナンの埋葬』のクールベさん。翔が好きなのは、主義ではなく、常識に逆らうクールベの反逆精神だった。
 携帯電話にメールが入った。
 「ココア」……。
 翔は、眠りつづけている。解釈される夢の一つも見ることなく眠りつづけているのだった。

〈エルサレム〉は、絶望だ。手のつけようがないではないか。磯城は、そう思った。現に、いまこの時、ダビデの町は争っている。三千年の争いは、ますます、たがいの憎悪を深めるばかりで、いっこうに終わろうとしない。エルサレムはバベルの塔のごとく崩壊して粉々に砕け散るしかなく、ディアスポラはいつまでも離散したまま、難民たちは永遠にさまよいつづける。
「リアルだなあ……」磯城は溜息まじりにつぶやいた。
 すべての経典は殺戮の元凶である、と磯城は思う。そこに複雑な理由があるとしても、実際は〈死〉の際限ない連続だ。神は、隣人の死を求めるか? 神の目的は、隣人の死か? 神は、死をなくして、何事もなしえないのか? 神は何をめざすのか? 結局、それらの答えは人間が出すしかない、と磯城は考える。なぜなら磯城の考えは、聖書はユダヤ人の連帯強化のために人間が創ったものだとする、十七世紀アムステルダムのユダヤ人街に生まれたバルーフ・スピノザと同じだからだ。経典が人間の創りものであるなら、神も同じだ。経典の存在以前に神は存在しないことになる。ヤハヴェもアッラーも存在しないのだ。当然、神の子イエスもムハンマドも経典後なのである。
 共通することは、と磯城は考えを進める。経典は教科書であり、そこに紀元前一二五〇年頃、モーセが行なった教育の原点がある。教育とは、宗教にほかならないと。






参考資料:マーティン・ギルバード著『エルサレムの20世紀』白須英子訳(草思社刊)、立山良司著『エルサレム』(新潮新書)、上田和夫著『ユダヤ人』(講談社現代新書)、ノーマン・コルパス著『チョコレート ロマンのあるスイート』葛野友太郎訳(モロゾフ株式会社刊)
写真:クリスティアン・ミュラー(PHOTO ST