
隠れる人と探す人――
佐竹のむさ苦しい容貌は翔と再会したときのままだが、無精髭がさらに濃くなり、さらに痩せ細っていた。〈どこかで見たおぼえのある磔刑のJesus〉──佐竹の不規則な生活がうかがえた。
佐竹は連日、啓子の所有するマンションの一室にこもり、ただ一人でSwinging本の編集を行なっていた。その作業形態は印刷屋に勤めていたときと同じだが、ちがいは、オフィスに啓子たちスタッフがいて具体的な作業の手足になっていたことだ。スタッフへの指示は電話とメールで、ときにはファクスであたえ、一人ただ黙々とパソコンに向かっていた。たまにはスタッフの声を電話で聞くこともあった。啓子はパーティに忙しくしているから、もう一ヶ月も抱いていない。啓子とのハードなセックスを思うと、それもいいかと、佐竹は口の端で苦笑した。
その佐竹が、めずらしくオフィスに来ていた。疲れたからだをリビングのソファーに沈めている。磯城との待ちあわせ時間が三十分過ぎていた。この程度のいいかげんさはいつものことだ。佐竹は白い壁に掛かった時計を見て思った。
啓子が仕事場から出てきて佐竹の横に腰掛けた。
「新しいソフトが必要なんだ」佐竹は啓子の顔も見ずに言った。
「それって、今の仕事の?」
「そうでもあるが、自分のものとしてほしいんだ」
「いいわよ。明日あなたの口座に振りこんでおく。で、いくら?」
「三十万」
啓子は人指し指で佐竹の乱れた前髪をそっとかきあげた。その指先はゆっくりと顳かみをたどり、頬の無精髭に埋まる。そして佐竹の荒れた粉っぽい下唇をそっとなぞる。
「誰にも口出しされたくないし、そんな場ももちたくない。俺は自分だけでやる。他人を説得なんかしない。どうして自分のイメージを他人に妥協させなければならないのだ。それは他人にとっていい迷惑だ。俺が妥協する立場だったら、うんざりするだろう。他人のイメージを理解することは、どこまでも曖昧でしかないのだ」そう言って、佐竹は壁の時計を見た。
「遅いわね、磯城さん……」ソファーを立った啓子は、
「イメージの共有って、そういうものでしょ? だって――と、佐竹の口調をまねて――そもそもイメージとは、〈曖昧〉ということなのだからね」と佐竹をからかい、仕事場にもどっていった。
普段は七時ともなれば消されてしまう寄合所の明りが、窓に降ろされたブラインドのわずかなすきまから小さく漏れていた。
用心深くうずくまる闇にまぎれた黒猫が一匹、明りのとどかないその窓の下で、ペンライトのような双眸を怪しく輝かせている。恋人の出現をいまかいまかと、彼はもう何日も食餌をとらず、じっと待ち伏せをしている。飼い主が心配するほどに、彼は遠来からの猫で、閉じこめられた部屋から決死の旅に出たのだ。
「今回の件は内密に願います。どなたにも口外しないでください。でないと、おたがいに困ったことになります」
目の前の長老たちを諭すように、磯城は言った。
先日の夜這いもどきでのことで、五人の長老と磯城の会議が行なわれていた。その中には事件を起こした張本人もいた。恐縮したように、その薄い頭をしきりに掌で撫でまわしている。他の長老たちもみなあぐらをかき、同じように腕を組んで、憮然とした表情で磯城を睨んでいる。
「磯城さんや、それはわかったが、あんたのもう一つの計画はどんな具合なんだね。いっこうに形になっていないようだが」
長老の一人が不服そうに磯城にからんだ。ほかの長老たちも、そうだそうだと同調した。
「われわれは結構な資金をあんたに提供しているんだからね。そちらもちゃんとやってくれないことには……資金提供をやめてもいいんだよ」
年寄りの短絡さは磯城の想定内にある。老人たちは、すでに自分たちが置かれてしまっている立場を理解していない。なので、磯城に仕掛けられた罠を怖れることも知らない。想像力の欠如。あるいは、衰退したイマジネーション。その対応は簡単だ、と磯城は思っている。皮肉も、たとえも、おもねることもない。単刀直入、直截に言うだけでいい。
「いいでしょう。オフイスは立ち行かなくなりますが、一蓮托生、皆さんのこともマスコミに公表します」
では失礼と、磯城は腰をあげて部屋を出ようとする。
「磯城さん、ちょっ、ちょっと待って」
あわれな老人たちが、声をそろえて磯城を呼び止める。想像力を失っても〈一蓮托生〉の言葉には弱い老人たち。やっと、自分たちの立場を理解する。
それでも、磯城は立ち止まらない。玄関で靴を履く。いや、履こうと見せかける。
「磯城さん、それはないだろ。脅かさないでくれ。まあ、もう一度話そう。さっ、あがって」
老人たちは磯城の腕をとって部屋に引きもどす。
必要以上の追いこみは得策ではない。いみじくも、それはマキアヴェッリが『政略論』で言っていることだ。相手を絶望と怒りに駆りたてるまで痛めつけてはいけない、と。磯城には公表する気などはじめからない。そんなことをして困るのは、自分自身なのだ。破滅するにはまだ早すぎる。
「計画は順調に進んでいます。ただし、まだみなさんに報告できる段階ではありません。若者の心をつかむのは、そんなに簡単ではないのです。急いては事をし損じる。もう少し、ご辛抱願います」
磯城はここでも、年寄り好みの言葉をつかう。〈急いては事をし損じる〉。長老たちは、それだけで、中身のない磯城の言い訳を鵜呑みにしてしまう。磯城との諍いを大きくしたくないという心理もあるから、いかにも納得がいったとばかり、雁首をそろえて、うんうんと頷く。いずれも暇をもてあました資産家たちだ。抜け目のなさと狷介さは人一倍であるはずなのに、からだで馴染んだ言葉がいとも簡単に無抵抗にする。いかにも好好爺といった感じになる。彼らは実際にそうなのかもしれない。それぞれの家庭にもどれば、孫を可愛がるやさしいお爺ちゃんなのかもしれない。
これいじょうの長居は無用だ。胸ポケットから手帖を出して、
「来週の火曜日でしたね。お楽しみください」
と、長老の一人に向かって、磯城は言った。夜這いもどきはこれまでどおりつづけますよといった意味だ。手帖を見せたのは、あなたたちの名前が証拠として、こうやって記録されていますよと暗に示した、これもまた脅しだ。老人たちは、喜びと不安でめまいでもしたかのように、ふらふらと立ちあがり磯城を見送った。
カマンベールのように柔らかい時計、指先でひょいとつまむ青い海原、細長い足をしたキリンとゾウ、溶けるホメロス、核分子のマリア、 Sacrament of the Last Supper 、磔刑のキリスト……イメージの断片がゆっくりとスライドしている。休日にうたた寝でもしているかのように、佐竹は夢を見ていた。夢を見ている自分を別の意識で認識している夢を見ている夢……どうしてダリなんだろう? 柔らかい時計? つまり時間ということか? そうか、オレはもうずいぶんと長い時間、磯城を待っている。しかし、オレはなぜ磯城を待っているんだ?……おや、何か機械の音がする。錆びた鉄の塊がぶつかりあうような音だ。ぐるぐる堂々めぐりしているみたいな音だ。からだじゅうに冷や汗が流れていた。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ……佐竹さん」
はっとして目を醒すと、向側のソファーに磯城が座っていた。
「いや、どうも。大丈夫だ……眠ってしまった」
佐竹はソファーに身を起こし、口中に感じるニコチンとタールの苦味をごまかそうと煙草をくわえた。パソコンに向かうと一時もはなせずにくわえている煙草。まともな空気を吸うのは眠っている時間だけだ。それいがいは煙草の煙りで呼吸をしている。
磯城は、佐竹にライターの火を向け、自分の煙草にも火をつけた。二人は黙ったまま、佐竹は夢に聴いた機械音について、磯城は長老たちについて、それぞれの思いをめぐらしながら煙草を吸った。それからおもむろに、二人はSwinging本について話しはじめた。記事について、写真について、表紙について、デザインについて、そして進捗状況について。
佐竹はここのところ、つかみどころのない恐怖心に囚われていた。何者かに執拗に追われる夢を、からだじゅうに冷や汗を流して、いくども見ていた。そのつど機械音も聴いた。実際に不可解なことも起きた。
先週のことだ。深夜いつものように一人でマンションにこもり、写真選びでパソコンに向かっていた佐竹は、一枚の写真にふと目を止めた。それは、啓子が聖なる森で主催したSwingingパーティでの、翔が撮影した写真の一枚だった。
翔の写真データはやたらと多かった。おかげで、パーティに同行しなかった佐竹にも、パーティの様子がよくわかった。その中には、洞窟で撮られた啓子と双児の痴態写真もあったが、佐竹は翔が印刷会社のアルバイトにくる前にもそのような写真を撮っていたので、いっこうに気に病むことはなかった。佐竹が気にしたのは、ミノタウロスの宴の場面だった。翔のカメラは、背後から牡牛の男に責めたてられ喜悦に悶えるミノタウロスの母、バシフエの一人を写していた。四つん這いの姿で背後の牡牛に振り向いた若い女の顔。佐竹はパソコンに映しだされている写真を凝視した。それは、どこかで見たおぼえのある顔だった。このパーティには、印刷会社が主催していたときからの常連もいるはずだ。しかし、その見おぼえではない。むしろこの顔は、パーティでははじめて見る顔だ。女は常連ではない。その夜は結局、女の正体について思いだすことはなかった。
その翌日にも、不可解なことがあった。昼ごろに一本のファクスがはいった。見てみると、A4用紙の中央に小さな文字で「サタケサンデスネ」と印字されている。内容はそれだけだ。送信元を確認してみると、どこかコンビニのファクスで送られたようだった。わざわざコンビニでファクスするなんて、ずいぶんめんどうないたずらをするものだと漫然と思った。それにしても、「サタケサンデスネ」だけでは嫌がらせにもならず、こちらが困ることはなにもない……とは言うものの、サタケとあるからには宛先を間違えているわけではない。はっきりと自分を知っていてのことだ。しかし、ここは啓子のマンションだ。サタケの文字は、どこにも出していない。電話帳に載ることもない。
佐竹は不可解な思いとともに、いささか無気味になった。これは自分の動向を知っている人間の仕業だ。自分をサタケだとはっきりと知っている人間のやったことだ。これは脅しだ。
「サタケサンデスネ」
佐竹はその文字に、そう感じないではいられなかった。
それがもっとリアルになったのは、その日の夜だった。
「サタケサンデスネ?」
電話の声は二十歳前後だろうか、知らない女の声だった。
「……そうだが、どなたです?」
佐竹は、ファクスと同じ言葉に用心深く訊きかえした。
「サタケサンデスネ?」くりかえす女の声。
女の声のうしろで、車の走る音や、街の雑踏らしきものが聴こえる。きっと、公衆電話からなのだろう。沈黙が少しあって、やがて電話はぷつりと切れた。
私の知らない女。が、女のほうは、私を知っている。電話の女が送ってきたとおぼしきファクスをつまんだ指が震えた。なにかが自分に迫っている。佐竹は障気じみた予感に憑かれたが、それは疲労がもたらす気弱のせいだ、いかれた女のいかれた行動なのだと、煙草の煙りを深く飲みこんだ。
そうか! 佐竹は、はっとした。夢の中の機械音。あれは印刷機の稼動する音だ。しかし、どうして、そんなものが出てくるのだ。社長の報復を怖れているとでもいうのか? だが、社長は諦めたのではなかったか。いまでは細々と本業の印刷屋に甘んじているはずではなかったか。その社長が、私を執拗に探しているとでもいうのか。執念深く私を追っているとでもいうのだろうか。それではまるで、自分は〈隠れる人〉で、社長は〈探す人〉のようではないか。佐竹は、昔読んだスティーヴンスンの『ジーキル博士とハイド氏』を思いだし、その禍々しさに言い知れぬ胸苦しさをおぼえた。二人は、いや、彼は、薬品をあおって、ぴくぴくと痙攣をおこしながら、むごたらしく死んだのではなかったか。
「佐竹さん……」佐竹の様子を訝しく思った磯城は、そこでいったん言葉を切り、「おおむね了解です。入稿日は予定どおりなのでよろしくお願いします」と言った。
「わかった……」佐竹のその言葉は、夢中遊行のように上の空で、発した当人にも自覚できない言葉だった。
「佐竹さん。どうです。気分転換に一杯やりますか?」
ソファーから立ち上がって磯城が言った。目が笑っている。
「いや、今夜はやめておくよ。眠くてたまらん」
Swinging 本の販売促進は、啓子と他のスタッフたちが、会員名簿を利用して進めている。もちろんその会員名簿は佐竹が盗みだしたあの会社のもので、佐竹は啓子にそれを預けて、もう自分はそのことに無関係でいたいと望んでいる。またそれは、磯城と手を組むきっかけにもなった代物だ。自分の裏切り行為を忘れ去ることは無理でも、せめてその意識を日常から遠ざけていたいと、佐竹は磯城を眼前にして思った。
「そうですね。だいぶ無理してるみたいだし。今夜はゆっくり寝てください。一段落したら飲みましょう」
磯城はそう言って、おぼつかない足どりでオフィスを出ていく佐竹を見送った。それから、こうつぶやいた。
「いま倒れられてはこまる。倒れるなら、本ができてからにしてくれ」と。
長老たちが磯城に状況を質したのは、もう一つのプラン、つまり〈町としての習俗の復活を期して、子供たちに正しい教育を施す〉というものだった。磯城の状況報告がいっこうにないことに、長老たちは大人気なく反駁したというわけなのだが、大人気ないのが老人の老人たる由縁でもある。さらに、物事に固執するのもまた、老人である。しつこい。
磯城が寄合所を去ったあと、長老たちは、町会費で買った酒とつまみで、それから二時間も愚痴と悔みでつぶすすことになった。
「まんまと磯城の奴に嵌められたか……」
いまさらながらの後悔である。
「昔から、あいつは不良だった」
「あんたが助平心もったから、こんなことになったんだ」
「そう言うあんたが、夜這いの回数がいちばん多いじゃないか」
「回数の問題ではない。あんな事件を起こしたのがいけないんだ。いい歳して、あれはないだろ」
「いい歳ったって、ワシはあんたより一つ年下だよ……」
「一つも二つも変わりゃあせん。とにかく、あんたが悪い」
「そこまで言うなら、ワシは抜ける」
「まあ、まあ。おちついて。ここは一蓮托生なんだから……」
「急いては事をし損じる……」
長老たちは、そろって薄い頭を撫でた。
窓の外で猫が鳴くのが聞こえた。

写真:Motoko Alexander(PHOTO ST)
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