マニエリストQのストゥディオーロ其の十五
汚洞の果実
第3幕−1 マニエリストQ 感想などいただければ幸いです。



 絞め殺す者と絞め殺される者――

 磯城のビジネスは順調だった。啓子が管理しているスウィンガーのパーティも、オフィスが発信している有料のアダルトサイトも、会員を好調に増やし、磯城の思惑どおりに進んでいた。佐竹の雑誌づくりは、間近に迫った発行日までに、あとわずかな作業を残すだけになっていた。すべてが順調に進んでいる。スタッフのトラブルもなく、オフィス内はすこぶる快適な職場となっている。問題はなにもない。なにも起きはしない。そう磯城は思っていた。
 深夜のオフィスで、スタッフはそれぞれの作業を行なっている。翔もいる。テレビ画面には町の長老の〈夜這いもどき〉が映しだされている。その前で、椅子に腰掛けた磯城が、煙草の白い煙を吐きながら画面の様子を窺っている。
 夜這いもどきはいつもと変わらない。布団の上で無表情な人形のように仰向けに横たわるスタッフの一人、鷹子の裸体を、長老が粘液質に時間をかけてもてあそんでいる。はじまってから、すでに一時間がすぎていた。問題はない。いつもと同じように、気がすんだ老人は鷹子の脇に横たわり朝まで眠りにつくだろう。眠りについた老人を確認した鷹子はオフィスにもどり、パソコンに向かって何事もなかったかのように、啓子や曜子や亜紀子たちと同じように、自分の仕事をするだろう。
 夜這いもどきは、優良スポンサーである町の長老たちをおさえておく有効な方法だ。いつものとおりだ。なにも問題はない。磯城はリビングにもどり、ソファーに腰をうずめて背をもたれた。にわかに襲う潜在疲労と、心地よい眠気。磯城の全身は深々とソファーに沈んでいった。
 視聴者のいないテレビ画面の中で、老人の夜這いもどきがつづく。鷹子のすべてが老人の舌で嘗めまわされる。枕元に酒が用意されているから、老人は少し酔っているようでもある。それとも、潤んだ赤い目は、行為に昂揚しているせいなのか。頑丈そうなからだつきが老人の歳を感じさせない。老人は力まかせに、鷹子の裸体をうつぶせにひっくりかえすと、鷹子をうながして上半身を起こさせた。鷹子は腕立て伏せのように上体をそり起こし、顔を正面に向けた。腰から下は伸ばしたままだ。美しい臀部が薄明かりの部屋に白く浮いている。その姿はスフィンクスに似ていた。豊かな乳房を胸に抱いた、肉体の快楽と娼婦を象徴するキマイラ。知性と体力、精神と物質の、二重性を統一する、謎掛けと悪疫の象徴でもあるスフィンクス。老人はまるでオイディプスでもあるかのように、いよいよスフィンクスの謎掛けに答えようとする。
 鷹子の臀に跨がった老人の勃起が、鷹子の臀部の陰に呑みこまれる。馬の手綱を曳くでもするかのように、老人の両手が鷹子の細い首を絞め、キマイラの騎乗の人となる。キマイラとともに躍動する。キマイラが飛翔する。
 老人はたしかに酒に酔っていた。それが普段は隠れている痴呆症に拍車をかけた。行為の認知を停止。締めあげる手。キマイラは上体を弓なりにのけぞり、声なき声で呻いた。だれも見ていないテレビ画面の中で、スフィンクスはいまやオイディプスに退治されようとしていた。キマイラはいつでも、悲しい退治の対象だ。スフィンクスは〈絞め殺す者〉といった意味をもつ。殺す者は殺される者としての運命も抱えている。
「ちくしょう!」
 テレビの前にもどった磯城が、画面の光景を目にしたとたん、鋭く叫んだ。磯城は三十分ほどソファーで眠ってしまっていた。
「しまったー、しまったー!」
 磯城は後悔と困惑のいりまじった脳で、マンションの階段を三階上まで一気に駆けあがった。廊下を猛スピードで走った。もどかしく合鍵でドアを開けると、土足のままで飛びこんだ。様子を察したスタッフが磯城のあとを追った。
「静かにしろ。ドアの鍵を掛けるんだ」
 磯城は、ねめつけたスタッフたちに、押し殺した声で言った。
 翔は急いでドアにもどり鍵を掛ける。女たちは茫然と立ちすくんでいる。磯城の蘇生マッサージが数分つづいた。翔が引き継ぎ、また磯城が受け継ぐ。そのかたわらで、高鼾をかいた老人が、大の字に眠っている。
「救急車を呼んだほうがいいです!」翔は磯城に言った。
「駄目だ! それはまずい!」磯城が鋭く言い放った。
「無理です。このままでは危ないです!」
 どうして磯城は救急車を呼ぼうとしないのか? たしかに呼ばれてはまずい状況だが、人の命にはかえられない。翔は磯城の対処に疑問を抱かずにはいられなかった。ちょっとしたワルではすまなくなる。これはタチの悪い犯罪だ。翔はあらためて自分の置かれている立場を認識した。
 もはやと携帯電話のダイヤルボタンに指をかけたそのとき、大きな吐息とともに鷹子が蘇生した。磯城は額の汗を手の甲で拭った。女たちが安堵の声を遠慮がちにあげた。隣の部屋に布団を一組敷いて、鷹子をそこに寝かせた。酔って眠っているだけだと確認した老人は、整えた寝床に寝かしなおした。
「だいじょうぶか?」と、磯城が鷹子に訊いた。
「もう少し休んだら仕事にもどります」かすれた声で鷹子が言った。
「無理しなくていい。曜子と亜紀子は鷹子についてあげてくれ」
「わかりました」亜紀子が磯城に答えた。曜子も小さく頷く。
「あとで暖かいものをもってくるわね」啓子が二人に言った。
 仕事場にもどると、今夜はこれで切りあげることにしようと、磯城は啓子と翔に言った。それで翔は素直に帰宅することにした。磯城に問いただしたい気持ちがあったが、なんとか無事にすんだのだから、今夜はおとなしくしようと思った。それに、自分は磯城にからむ立場ではない。いやならアルバイトを辞めればいいだけなのだ。 国道を走るコルナゴがいつもより重い。春のきざしがあらわれるのは、まださきのことだった。

 わたしは、つくり話だけを書く――美樹は、新学期がはじまる前の二ヶ月間ちかくで、四百字詰め原稿用紙百枚の小説を書きあげようと考えている。すでに半分を少し超えた枚数を書いた。ところが、そこからまったく進まない。おまけに、パソコンに向かうのさえ嫌気がさし、ひどいときには胸苦しくなって吐き気までしてしまう。自分は小説書きに向いてないのかなあ、と美樹はここのところマイナーな気分だ。翔とは元旦にいっしょにすごしてから逢っていない。メールのやりとりもない。メールぐらいくれればいいのにと、翔のことを忘れていたのは美樹のほうだ。美樹は自分を棚に上げるのが得意だ。午後の部屋に熱いココアのふくよかな匂いが漂う。
 美樹には、ココアを飲むときに、かならず開く本がある。モロゾフが販促用に発行したココアの本だ。美樹の祖父が若いときにモロゾフに応募して手に入れ、それを父がたいせつにもっていたものだ。いまでは美樹のものになっている変型判のその本は、ベージュ色のハードカバー製で、本文は濃茶の一色で印刷されている。ココアやチョコレートの歴史とエピソードなどが、写真や図画を挿入して編集してある。美樹にとっては楽しくて愛しい宝物である。
 しかし、それは楽しいばかりのココアではなかった。二千五年、国際労働機関は、コートジボワールのココア農場で働く二十万人の子供の六パーセントが人身売買や奴隷の子供であると推定し、いくつかの「最悪な農場」で児童労働虐待が行なわれていると報告している。こんなにおいしいココアなのに……美樹はカップの底に残ったココアに少し悲しくなる。携帯電話で翔にメールを送る。
「ココア」
「?」すぐに返事がはいった。
「察しろ。バカ翔」
「はい、はい。小説にゆきづまったんだね」
「べつに」
「お茶する? いつものところで待ってる」
 美樹はココアの本をそっと閉じる。なにを着ていこうかと考える。どうでもいいやと適当に着る。それでも、下着は新しいものにした。意味などない。とにかく、自分を新しいものでつつみたかった。言葉にするとすれば、「ココアの残り滓が悲しいから」、ただそれだけだった。机のひきだしからラッキーストライクをとりだして口にくわえる。両膝を立てて壁にもたれる。口から出た煙りが目の前で拡散する。
「やっぱり、行かない。ごめんね」メールを送る。
「いいよ。俺も家にもどる」翔は喫茶店に着いていた。
 美樹は、パソコンを起動して、書きかけた小説のファイルを開く。そして、こう綴った。
 灼熱の太陽が溶かすチョコレートの海にピンクの浮き輪でわたしが浮いているアフリカ……ココア、コーヒー、ラジオ、マチェーテ、ジェノサイド、ディアスポラ。人間の首は鶏の頭のようにいとも簡単に鉈で切り落とされる。地上にぽとりと落ちた頭は無数の首のない死体の上をころころ転がる。いくつもいくつも。世間は愛や恋や戦争反対と語る。それって嘘だよね。だってナチの genocide なんてくらべようのないほどに大量の推定百三十万人という大人と子供が隣人たちに殺されたのに、あなた、それ知ってた? ついこの間、一九九四年のこと……いつだってわたしはピンクの浮き輪でチョコレートの海に浮いている幸せな人。そして世界。――と。

 翔は大学図書館に来ていた。せっかく出たのだからと家にはもどらず、そのまま足をのばしていた。まだ開館する時期ではないのではと少し心配したが、図書館は一般人のために開いていた。平日の午後の閲覧室は閑散としている。
 翔は閲覧席で画集を開いていた。画集の中に、謎めいた表情で翔をじっと見つめる美しい若者がいた。少年のような面だちの裏に、隠しもった不敵さとしたたかさを感じる。それはのちに、魅せられた錬金術に果てしなく溺れていった、十六世紀イタリアのマニエリスム画家、二十歳のイル・パルミジァニーノだった。半球体に描かれた実際の絵は、それほど大きくはないのだが、画集には頁いっぱいに印刷されていた。
 翔は何かを深く考えねばならないとき、いつもではないが、このパルミジァニーノの『凸面鏡の自画像』と見つめあう。その謎めいた若者と会話をしようとする。そして、この若者をもう一人の自分であるとも内心で想定している。パルミジァニーノはナルシストだ。翔もまた、その同類であることは言うまでもない。
 翔は一昨夜の事件を思いだし、このままアルバイトをつづけようか、それとも辞めようかと考えあぐねていた。
「マキアヴェッリはおもしろいかい?」
 パルミジァニーノが訊いた。翔は、その美しい瞳の奥に、微かな揶揄を感じた。
「たぶん、僕が六十歳を過ぎたときに、これを読んでいなかったことを、きっと後悔するだろうと思う。だからいま、読むんだ」
 それは塩野七生の新潮文庫『マキアヴェッリ語録』だった。ズボンのうしろポケットに忍ばせているのを、パルミジァニーノはお見通しだ。
「役に立つかい?」
「わからない。僕は指導者でもないし軍人でもない。退屈しているだけの、ただの高校生だ。国のことなどなにも考えてはいない。というより、考えられない。僕は君主なんかじゃないし」
「現実をよくみぬいているね。それこそがマキアヴェリズムさ。己を知り敵を知る。古今東西、どこでもだれでも考えることは同じさ。うまくいったことが優先して後世に残され、多くの人間がそれに学ぼうとする。もちろん人間は、失敗と挫折にも学ぼうとはする。が、それもまた成功への私利私欲のためで、国のためなんかじゃない。いまの政治家を見ればわかることだ。国のためにやっている政治家なんて一人もいないだろう?」
 パルミジァニーノの話はどこか歯車がずれている、と翔は思った。それはパルミジァニーノが意識的に行なっているずれかもしれない。だって、パルミジァニーノはマニエリストだ。正直なはずがない。しかし、それが僕の一面でもあることを僕は知っている、と翔は自分を思う。十六世紀の同時期に、精神の内奥を求めた人間と、どこまでも実利を追及した人間。マニエリストは、どうしたってマキアヴェッリとは相反する。それはまた、いつの時代でも同じだ。
「結局、錬金術はうまくいったの?」
 翔は、からかうように、鉾先を変えた。
「さあてね」パルミジァニーノは相手にしない。
「ヴァザーリは好きかい?」翔はさらに訊く。
「おやおや。仕返しのつもりかい?」皮肉な笑みだ。
「さあてね……」翔も微笑む。
「ヴァザーリは勝手なことを言ってるけれど、僕のことなんてなにも知らないよ。彼はマキアヴェッリの功利主義を実践しただけの宮廷人だ。金儲けが得意な保身のかたまりさ」
 ヴァザーリは、その著書『芸術家列伝』の中で、優れた画術の才能を捨ててまで錬金術に走ったパルミジァニーノを嘆いている。
「それって焼きもち? マキアヴェッリの言っていることはあたっているね――人は、嫉妬心によって、褒めるよりも、貶すことを好む――」
 パルミジァニーノは鼻先でフンと笑ってみせ、
「話したいことは、そんなことではないよね」
 と言った。
「アルバイトをどうしようかと考えているんだ」
「やめるか、このままつづけるか、だね?」
「このままだと、かなり危なそうなんだ」
「その危ないところに、みずから飛びこんだのでは? はじめから、危ないのは承知のはずじゃない。なにせ相手は〈蛇〉なんだから」
「そうさ。退屈しのぎのためにね。でも、その蛇ってなんだろう。はじめは漠然とでもイメージがあったはずなのに、いまではそれがわからないんだ」
「そのわからないものが、つまり蛇なんじゃないか。翔の探している蛇とはつまり、わからないイメージ、イメージできないイメージそのものなのではないだろうか。ひょっとしたら、それは翔の退屈の正体かもしれない……」
 そう言って、パルミジァニーノはウインクをした。それがいつもの合図だ。パルミジァニーノが翔の前から消え去り、黙した『凸面鏡の自画像』がテーブルの上にあるだけだった。
 翔は、息を深く吸い、そして大きく吐いた。それから図書館の高い天井を見つめた。照明の明りに柔らかくつつまれている自分を感じた。これってやっぱり、退屈な時間だ。退屈はしのがなければならない。でなければ、退屈という菌に全身を冒され、ひたすら腐臭を放つ腐肉と化していくだろう。それに堪えられるだろうか――俺はナルシストなんだ――翔は蛇探しをつづけることにした。






参考資料:塩野七生『マキアヴェッリ』(新潮文庫・新潮社刊)
写真:らら(PHOTO ST