
蝙蝠はいかにして掟を破るか――
レオナルド・ダ・ヴィンチは、『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』の中で、「蝙蝠はそのとめどを知らぬ淫蕩のため自然のおきてたる男女の道にしたがわず、ゆきあたりばったり、雄は雄、雌は雌と交わる」(杉浦明平訳)と言っている。では、曜子と亜紀子はレスボスの蝙蝠、十六世紀ルネサンス社会に反逆する、淫蕩の蝙蝠なのか。それとも、異端審問のうちに虐殺されていった女たちの末裔なのか。
あるいはまた、シャルル・ピエル・ボードレールは、詩集『悪の華』の表題を『レスボスの女たち』にしようとはじめに考えていたらしいが、その『悪の華』から削除された禁断詩篇の「レスボス」と題したかなり長い詩の一節、
道学先生プラトンのしかめ面なぞ氣にするな、
樂士の女王、愛すべき高貴な國よ、
接吻の過剰の故に、汲んでも尽きない風雅の故に、
そなたの罪は赦される。
道学先生プラトンのしかめ面なぞ氣にするな。(堀口大学訳)
とばかりに、偉大なるプラトン先生に逆らったのか。
どちらにしても、蝙蝠も魔女もグロッタの暗闇に棲むが、高貴で風雅な曜子と亜紀子はマンションの明るい一室に住んでいる。そこは仕事場の二つ上にあるワンルーム、つまり磯城が用意した寮だ。
ボードレールに倣って高貴で風雅とわざわざことわったのは、倉橋由美子は『夢の浮橋』で人間を等級で分類し、一級の人間でこそ swinging (倉橋は〈交換〉といっているが) が成立すると書いているからで、一級とは高度に知的であり高貴で風雅であるということだ。レスボスもこれに共通するのではと、高貴で風雅な曜子と亜紀子としてみたのである。ただし、倉橋がクラス分けをする一級人間とは、大学生でありながら、あらゆる習い事や稽古事に長け、大学の卒業式では総代を務める秀才で、教養に溢れた金持ちのことである。さらには、親が大学教授であることが望ましい。ここまでくると少女漫画の世界のようでもあるが、劣等人間には、 swingingにもLesbosにも資格がない。どちらも知的であるということだ。ついでに言っておけば、『夢の浮橋』での〈交換〉は、パーティではなく、個人でのことである。『交換』『シュンポシオン』ではそのかぎりではない。それで曜子と亜紀子が総代であったかというと、それはだれも知らない。
その二人が磯城のところで働くようになったのは、曜子も亜紀子も図書館の司書であったことだった。
「天使は飛べない」――磯城は、雑誌記事のために、天使についての資料を漁っていた。翔と再会する以前の、あの大学図書館でのことだ。磯城には似合わない、まったく縁遠いと思われる《天使》をコラムに書こうとしたのは、インターネットで「天使は空を飛ぶことができない」という記事を見たからだった。掲載は三流雑誌のつまみ程度のコラムなので、磯城としてはそんなに力むような仕事ではなかった。それでも数日間、図書館に通ったのにはわけがあった。
「天使の資料を探しているのですが……」
大学図書館の閲覧室には、学生や一般来館者も対象にした、本のアドバイスコーナーがある。そのアドバイザーの一人が亜紀子だった。カウンターをあいだにはさんで亜紀子は、 Rudolf Steiner の天使学シリーズがあると言い、ミドルアースをさまよう妖精としての堕天使というのもあると磯城に教えた。さらには、魔女裁判で六〇〇人もの大量処刑を行なった宗教裁判官Pierre de Lancreの悪魔学『堕天使と悪魔共の変節の図』という十六世紀の奇書までも教えてくれた。
磯城は妙に熱のこもった亜紀子のアドバイスに圧倒された。磯城のコラムにそこまでは求められないだろうと、磯城自身が面喰らうほどの熱のいれようなのだった。
「ずいぶんこの方面に詳しいですね。司書さんというのは、みなさんそうなんですか?」
「司書それぞれですわ。たまたま、わたしはこちら方面が好きだったというだけです」
磯城は亜紀子が少しはにかんで頬を紅潮させるのを見た。一瞬、匂うような色香が亜紀子のからだから漂った。司書らしい地味な服装に、この驚くような色香。磯城は腹の内でほくそ笑んだ。
磯城はそれから幾日か図書館に通った。そのつど亜紀子には目礼ですませた。四日目の土曜日になって、磯城は図書館が閉館する一時間前に閲覧室にはいった。亜紀子はいつものように学生や一般来館者を相手にしていた。ころあいをみた磯城は、亜紀子のところに行くと、
「おかげで助かりました。なんとかまとめられそうです」
と言って、自分の名刺を亜紀子に手わたした。
興味深げに磯城の名刺を見ている亜紀子に、磯城はすかさず、
「よかったらお礼をしたいのですが、お仲間もご一緒に食事でもどうですか?」
と、畳みこむように言った。時々、別の司書の女が亜紀子の隣に座っているのを、磯城は見ていたのだ。
「仕事ですから……」
亜紀子はそう言いつつも磯城がライターであることに興味をもったのか、それとも亜紀子一人ではなく仲間も一緒にと誘われて気を許したのか、
「今日ですか?」と、訊きなおしていた。
「ええ。今晩です」
「それじゃ、ちょっと確認してきますわ」
磯城のごりおしともいえる強引さに、今度は亜紀子のほうが圧倒されたのか、頬をますます紅くして閲覧室の奥へとはいっていった。
二、三分ほどして、亜紀子は別の司書の女をつれてもどってきた。それが曜子だった。曜子が磯城をチェックすることになっていたのだろう、亜紀子にそれとなく頷くのがわかった。亜紀子は曜子を紹介すると、
「閉館まで二十分ありますが、お待ちいただけますか?」と言った。
「タクシー乗り場で待ってます。ではお先に」磯城はそう言い残して、さっさと閲覧室から出ていってしまった。亜紀子と曜子は呆気にとられて見つめあった。笑いをこらえた亜紀子がたまらなく吹きだした。
「ずいぶん強引な人ね」曜子が呆れ顔で言い、切れ長の目を細めた。
磯城のビジネス計画は、このときすでに進んでいた。スタッフになれる女を物色していたのである。目をつけたのが亜紀子と曜子の二人だった。さてどうやって説得しようか。磯城はタクシー乗り場で煙草を吹かしながら思いめぐらせた。亜紀子の色香は尋常ではない。何か癖のようなものがあるはずだ。それは風俗を長く取材してきた磯城の勘だった。あらゆるものが隠しきれない匂いを発し、それは嗅覚によって嗅ぎわけられる。亜紀子たちの匂いを見つけることだと磯城は思った。
「人間の肉体ではぜったいに飛べないと五世紀も前にレオナルド・ダ・ヴィンチが明言してるわ」
ロンドン大学ユニバーシティカレッジのロジャー・ウォットン教授は、これまで描かれてきた絵画の天使を分析、その結果「天使は空を飛べない」と学内誌「 Opticon magazine 」に発表した。磯城は、たまたまそのニュースを読んで、天使をコラムにしようとしたのだった。その磯城にダ・ヴィンチまでもちだして律儀に応えているのが亜紀子で、曜子は静かに炉端焼きの料理を楽しんでいる。
「そのニュースはわたしも読みました。天使のからだが人間の肉体と同じとした前提のようですが、天使って人間じゃないです。でも、わたしは教授の研究を愚かだと否定はしません。ダ・ヴィンチが空を飛ぶことに興味を抱いたのと同じだと思ってます。方法はちがってますが……」
亜紀子は真顔で話している。
「そうだね。ダ・ヴィンチだって当時の凡人どもにとっては怪しい人間に見れていたんだろうし。教授の成果は、図像学の観点から翼は〈良い精神の象徴〉としたことにあるんだろうね」
磯城は亜紀子のポジティブなものの見方に心地よさを感じていた。たしかに、物事の発見は馬鹿げた発想や行為からはじまる。そして凡人愚民どもの揶揄蔑視の餌食になるのも決まりごとだ。飛べない天使もその例外ではないのだろう。しかし、飛べない天使とは、何と詩的ではないか。錬金術がその枝葉に様々なものを見つけて生みだしたように、その言葉だけでも教授の功績は認めねばならない。
曜子と亜紀子が並んで座っている。軽くどうですかと呑んでいた銚子が五本ほど空くころ、磯城は曜子の姿勢が気になりはじめた。時々、曜子の上体がふと亜紀子に近寄って触れる。これを見逃す磯城ではなかった。
「明日は図書館お休みですよね。どうです。河岸を変えてもう少しやりませんか?」
亜紀子がどうするといった顔で曜子を見た。曜子は黙って頷くだけだったが、それで決まったのだろう、
「あまり遅くならないようでしたら……」
と、亜紀子は笑みを浮かべて言った。すでに酔っているのか。手をとりあって席を立つ二人の姿に、磯城は自分の勘が的中していることをいよいよ感じた。炉端焼き屋を出ると、知っている店があるのでどうですかと亜紀子が訊くので、そのほうが二人にとって気楽に呑めるのだろうと、磯城は亜紀子にまかせることにした。
亜紀子がつれてきた店は、タクシーで五分ほど走ったところの、雑居ビルの三階にある小さなカクテルバーだった。三人は店員にすすめられてボックス席の一つを占めた。店の人間の対応は、二人が馴染み客であることをしめしていた。亜紀子が、わたしたちはマルガリータと言い、磯城さんはどうしますかと訊くので、たまには甘いのもいいかと磯城はアレキサンダーを注文した。カクテルはいくら呑んでも切りがなく、普段はまったくやらない。女たちにはいいのだろうと、あわせたのだ。
「ルポライターのお仕事って、わたしでもできます?」
自分たちの河岸のせいか、二人はほどよく酔っていた。おとなしくしていた曜子が乗ってきた。
「お二人なら、できます。まあ、慣れもあるだろうけれど」
「磯城さんはどんなものを書かれてるの?」と、亜紀子。
「風俗です」磯城は、二人の反応をうかがった。
「磯城さんのイメージとちょっとちがうみたい」
亜紀子はそう言って、ねえと笑んだ目を曜子に向けた。
「でも、おもしろそう……」
曜子が赤らめた頬で少し身を乗りだすようにして言った。
「アルバイトからやってみたらどうです。編集の仕事もあるから、まんざらお二人のいまの仕事に縁がなくもない。体験してみるだけでも楽しいと思う。一度、仕事場にいらっしゃい。歓迎しますよ」
と、脈があるとみた磯城は、いつものごりおしで言った。
「わたし行きたい。ね、亜紀子、いっしょにおじゃましない?」
曜子は酔うと積極的になるのか、図書館で見た硬い雰囲気とはだいぶ変わっていた。亜紀子に負けない妖艶さを漂わせている。この二人ならいろいろに使えると磯城はあらためて思った。
亜紀子と曜子は、二人の関係を隠そうとはしなかった。酔いも手伝ってか、どちらともなく寄りかかり、いちゃつくような素振りをする。磯城が風俗ライターだと知り、そのような仕事ならば一般人特有の嫌悪感を覚えることもないだろうと思えたのだ。それに、レスビアンであることは二人にとって格別な隠し事などではなかった。わざわざ世間に公表するようなことでもない。二人が求めているのは〈美しさ〉であり、曜子も亜紀子も、きわだって美しかった。それだから、二人には同性しか愛させないといった事情が過去にもいまにもなく、古代ギリシア・ローマ時代に生きてこそふさわしい二人なのだといえた。
亜紀子と曜子がはじめて出逢ったのは『世界の奇書』と題した司書を対象にしたセミナーでのことだった。たまたま席を隣りあわせた二人が、即座に意識しあったのは言うまでもない。
「世の中の平和も女しだいというわけね……」
奇書の一つであるアリストパネルの喜劇『女の平和』の講義が終えるころ、壇上の講師に目を向けたままで亜紀子がつぶやいた。
「最近の男たちはそう単純でもないようだけど……」
同じように前を向いたままで曜子が小声で言った。
「古代のおおらかさをおさえつけたのが禁欲主義の宗教だった」
亜紀子が言った。
「カトリックとプロテスタントでは許容度が異なるけど……」
曜子が亜紀子に顔を向けて言った。
「神父様に告白すれば許されるのはどちら?」
亜紀子が曜子を見つめかえして訊いた。
それから二人同時に囁いた。
「カトリック!」
二人は声をおし殺してクスクスと笑った。
その日、はじめて逢った二人は、二頭の蝙蝠となって、「とめどを知らぬ淫蕩のため自然のおきてたる男女の道にしたがわず」まじわったのである。
「図書館が終えてからでもいいですよ。いらっしゃるときは電話を入れてください。亜紀子さんも来てくれますよね?」
磯城は亜紀子に念をおすように言った。
「ええ、楽しみにしてます」
亜紀子は紅く染めた頬で潤んだ視線を意味ありげに曜子に流した。
彼女たちもまた、翔と美樹のように、退屈をもてあましていたのだろうか。類は友を呼ぶ――磯城がその最たる張本人であることが、退屈のMagnetic fieldを発生していたのかもしれない。磯城の退屈した感情は、時おり見せる老成した表情にあらわれた。日常の思索は冒険しても、心はワクワクと胸踊ることがない。それは憂鬱とは別の感情だった。妙な言い方ではあるが、それは〈純粋な退屈感〉なのだった。
さすがに磯城は五杯目のアレキサンダーに飽きていた。それに、このまま呑みつづければ、この二人だ、どうなるかわからない。それも悪くはないかとも思うが、二人を仕事に巻きこむ前段階は達成したのだからと、今夜はこれまでにして殊勝にひきあげることにした。磯城は店の前で拾ったタクシーに亜紀子と曜子を乗せて見送った。そのあとの二人がどうなるのかは想像に難くない。が、それは磯城にとって仕事の範疇にあることだったから、それほど魅力的な想像でも妄想でもなかった。亜紀子と曜子は、スタッフであり、素材でもある。二人をいかに使うかが課題なのだった。
腕時計は、十二時を回っていた。磯城は自分もタクシーを拾ってオフィスのあるマンションへと帰っていった。
それから二ヶ月後、亜紀子と曜子は図書館を辞めて磯城のところで勤めはじめた。もちろん、仕事の内容をすべて知ったうえでのことである。

引用:『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』上(杉浦明平訳・岩波書店刊) 参考:シャルル・ピエル・ボードレール詩集『悪の華』(堀口大学訳・新潮文庫) 倉橋由美子『夢の浮橋』(中公文庫刊) 写真:らら(PHOTO ST)
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