
美しき庭師の帰還――
パーティの舞台は、人工の森へとうつされた。
啓子の趣向とは、たんに Swinging の場を変えることだったのか――スウィンガーたちは大顔面の洞窟にいた。啓子が双生児とからみあっていた、翔が写真を撮った場所だ。してみると、あれはこのためのシミュレーションだったのだろう。
薄暗い洞窟の中は、暖房や照明、音響など、しっかりとした設備で、洞窟の雰囲気は人工のつくりものにすぎなかった。ゆったりとしたソファーが洞窟の壁にそって広場を取り囲んでいる。足下には毛足の長い厚手の絨毯が敷きつめられていた。ワインや食べ物も用意されている。さらに奥があるのか、小さなトンネル状の穴が一つ、仄かな明りを灯していた。
洞窟はすでに乱痴気騒ぎになっていた。仮面を着けただけの裸体がからみあっていた。ワインの空き瓶が何本もころがっている。整えられた設備のおかげで洞窟内は暖かく快適だ。あたりには心地よい香りも漂っている。啓子はパーティの狂気を煽るように、なにごとかを発しながら、からみあうスウィンガーたちのあいだを歩きまわっている。どうしてか、曜子と亜紀子、それに双生児の二人はいなかった。
翔は、スウィンガーたちの様々な姿態を、カメラのファインダーにとらえてはシャッターを切った。幾重にも重なって交接している男女の群像は、人間の個体を失った肌色のオブジェのようだ。快楽の螺子を巻かれて蠕動するオブジェ。悦楽の歓喜をほとばしる裸体の平面構成。ハルシュタットの髑髏に花を描くように、翔はレンズの刻印を裸体の群像に焼きつけた。
洞窟の毒気にあてられたのか、ファインダーを覗く瞳が時々眉間に寄っては離れる。心地よかった香りも息苦しく感じはじめた。立ち眩みでもしたのか、ゆっくりと回転する洞窟の壁に奇怪な絵や模様が踊っている。不定形と不具と欠落と曖昧のグロテスクという名の毒薬が、蛇が這うように翔の体内に流れたのではなかったか。翔は構えていたカメラを首にぶら下げ、だらしなく立ちつくした。眉間を摘んで軽く揉みほぐすと、オプチカルアートのような模様が網膜に走った。
洞窟に歓声が起きた。眉間をおさえていた顔をあげると、洞窟の奥に曜子と亜紀子の朧げな姿が見えた。啓子と双生児がもつれあっていた場所だ。少しずつ形が見えだした。
二人は、洞窟の壁に全裸の背を凭れるようにして、鎖の輪で大の字に繋がれていた。啓子の趣向とは、このことだった。啓子は今回のパーティにSadismまたはMasochismを演出にとりいれたのだ。曜子と亜紀子は、このことを素直に承諾したのだろうか。それとも、これが本来の彼女たちなのか。そう思うと、曜子と亜紀子はレスボスだと、ノートパソコンを返したときの亜紀子のうつろな瞳とベッドの気怠げな曜子に、あれは愛しあっていたところだったのだと想像できた。
媚薬をかいでいるのか、二人の目は焦点を失って天を向いている。その姿はまるで、射られた矢を腹に、いまにも死なんとする殉教の聖セバスチャンの絵を見るようだ。二人は、啓子がそうされたように双生児に犯され、スウィンガーの男たちにことこどく凌辱された。女たちにかわるがわるヒステリックな鞭を打たれた。黒ミサのような儀式のまねごとでもてあそばれた。
「しっかり撮ってね」
いつ近づいたのか、啓子が翔の耳もとで囁いた。熱い息。蒸れた匂い。腕に触れる豊かな乳房。その啓子の目もまた焦点を消失していた。
スウィンガーたちは、酔い潰れ、あるいは疲労困憊で、絨毯やソファーで毛皮につつまれていた。まだ複数の女を相手にしている男もいた。それでも、宴の衰退はあきらかだった。虚しく萎んだ果実の腐臭のように、饐えた空気が洞窟に流れはじめ、森のオージーは終えようとしていた。
さすがの翔も疲れた。そして腹を減らした。オードブルの皿から残り物のローストビーフをとって食べた。ワインを瓶でがぶ呑みしたら、からだじゅうがカッと熱くなった。森の奥で鳥の啼く声がした。小さな噴水の青い噴き上げの一筋に嘴を洗ってでもいるのだろう。黒かった森は少しずつ白くなろうとしていた。
曜子と亜紀子は、裸で絨毯に横たわっていた。翔は、虐められた痛々しい二人のからだに、ふわふわとした白い毛皮をそっと羽織った。たとえこれが二人の意思によるものでも、翔は悲しかった。本当なら、そんなことやめなよと言ってあげたかった。いや、言うべきだったのだ。こんなこと。そうだ。こんなことなのだ。翔は、二人の横に座り、またワインを呑んだ。口から溢れた。近くにあった煙草をとって火をつけた。メンソールが喉にしみた。
「子供が煙草を吸ってはいけません……」
切れ長の目を薄く開けた曜子だった。
微かに笑んだ唇があまりに小さい。触れたくて、撫でたくなって、思わず指をあてた。それから女が指で紅をつけるようになぞってみた。儚くふくよかな色褪せた唇。胸騒ぎが潮騒のように寄せては退いた。
「夏になったら海に行きたい」
翔の指を握って曜子が言った。胸騒ぎ、潮騒、海。翔は見透かされたような気がした。
「翔くん、つきあってくれる?」
「ええ。おやすいごようです」
曜子の頬が淡い薔薇色に染まる。鳥が啼くのが聞こえた。
三島由紀夫の『午後の曳航』で、主人公の十三歳の少年が母親と愛人の情事を盗み見るくだりがある。翔は、この場面が好きだった。愛人の船乗りは古臭い演歌のマドロスさんのようで少年のような殺意など毛頭湧かないが、少年が母親の鏡台や化粧品を垣間見る場面の描写がたまらなく好きだった。
翔は自分の母親の匂いを思いだそうとしたことが何度かある。しかし、そのつど失敗に終わっている。美樹と同じように母には体臭がなかったか、あるいは香水をつけていなかったか。翔の母が家を出たのはそんなに昔のことではない。母の匂いについて意識も考えもしていなかったことが、香水の使用の有無すらわからなくしていた。翔は、いなくなった母親を懐かしむのではなく、存在自体が不確かな母の匂いそのものを考えたのだ。化粧品や香水がある鏡台の風景、三島の描く美学に憧れているのだ。
「曜子さんたちは、はじめから承知してたのかしら」
美樹が言った。
「別荘に行ってからいきなり強要されたってこともあるわよね。啓子さんて、翔の話を聞いてると強引そうな感じもするし」
「啓子さんは、そこまで悪人ではないよ」
「そうよね。同じような趣味の人たちなのかも……」
三十日。美樹は翔の家で午前中いっぱいを料理ですごした。美樹は新年を家族と迎えるので、それは翔が一人ですごすための年越し料理だった。正月料理はべつに母の手料理のお裾分けを持参して、元日早々に翔の家に来るつもりでいたから、今日の料理は簡単なものだった。スーパーマーケットの惣菜もあった。美樹が力を入れたのは、ロールキャベツだ。これなら翔でもつくりおきを温めるだけで食べることができる。キャベツはからだにもいいし、それほど手もかからない。年越し蕎麦は、食べたかったら翔が勝手につくればいい。乾麺と蕎麦汁だけは用意しておいた。めんどうみがいいのかわるいのか、はっきりしない美樹だった。
翔は、別荘の森のことや、森でのできごとを美樹に話していた。留守電になっていた美樹の携帯電話には、あれからかけなおすことはなかった。どうしてか美樹からもかかってこなかった。おたがいに待ちあって、それきりになったということだろう。
「見かたによってはファンタジーだわ、この森」
美樹は、プリントされた森の写真を見ながら言った。もちろん、写真は純粋に森と怪物たちだけのものだ。パーティや曜子たちの写真はのけてある。
「森は個人の敷地だし、怪物たちはそれいじょうの高さの樹々に覆い隠されているから、航空写真でも見つからないのだろうね」
「わたしも行ってみたいな。インスパイアーされそうだわ」
「美樹の小説の?」
「それもあるけれど、わたし自身にも。からだ全体にといったほうが正しいかも。それに、パーティもおもしろそうだし……」
「バアカ。あんなもの、おもしろいもんか」
美樹が妙におとなっぽく見えた。すると、
「本が読みたくなったわ」
と言って、美樹はきれいなピンク色の舌を出した。
大晦日になった。昼ごろ翔は電話で起こされた。母からだった。
「元気にしてた? ちゃんと食べてる?」
こんなとき、だれでも母親は同じ台詞で、同じ調子でしゃべる。母の電話は、いつも同じ台詞ではじまり、それからひとしきり、自分も元気でいること、食事のこと、ちょっとした愚痴を、一方的にしゃべり、またもとにもどる。
「ちゃんと食べるのよ。洗濯はだいじょうぶ?」
それはなんだか、母の言い訳を聞いているような気がした。そんな必要はないのにと思うが、母の気がすむのならそれでいい。翔はただ、うんうんと返事をした。母は、離れていても、自分の様子を知っていてほしいのだろう。名字は変わっても、いつまでも母は母であり、自分はその息子なのだからと翔は思った。おたがいに元気だったら、それだけでいい。母がまず元気かと訊く意味がわかるような気がした。それいじょうは蛇足なのだ。つらくて余計な時間なのだ。電話は短いほうがいい。
「母さんこそ風邪ひかないようにするんだよ」
このまま電話がつづけば、涙声になりはじめた母は本当に泣きだすだろう。なにかあったら電話するからと 翔は言った 。それはまだちゃんと繋がりがあるからねという意味の言葉でもあった。
「かならずくれるのよ。きっとよ」
まるで恋人に約束をすがっているようだ。最後まで、父の話は出なかった。
父も母もやさしい人だ。二人の争う姿を見たことがない。子供の前で平気でキスをした。お前より母さんのほうが好きだ、父さんのほうが好きだと、ぬけぬけと言ってのけた。その二人が別れた理由を翔は知らない。いつのまにか別れていた。でも、今なら少しわかるような気がする。父も母も、男と女の迷宮にはまったのだ。どちらがさきかは問題ではない。そうなったのはなにかと探す必要もない。なにかがどのようなことであっても、父と母は結局、たがいの迷路をたどって男と女の迷宮で生きることになる。子供としては、二人の迷宮が幸せなものであってほしいと願うほかに方法がない。それには多少の不便と寂しさがともなうが、そのぶんだけ自由の度合いが上昇するのだし、退屈な時間も加算される。必然的に〈退屈しのぎ〉が生じるというわけだ。もってこいの環境に不満はない――半睡半眠。翔はふたたびベッドの中だった――。
だれもいない砂浜のさきに蒼い海原が見えた。真夏だというのに人のいない浜はどことなく無気味だ。砂浜に踏みいると熱い砂で素足が焼けた。曜子が熱くてたまらないから海辺まで走ろうと言うので、曜子のやわらかい手を握って走った。走りながらひからびた人手をいくつも踏んだ。白砂に足をとられて走りにくかったが、湿った灰色の波打ち際に辿り着くと砂は足に硬くなった。
このまま海の中に飛びこんでしまうのかと怖かったと曜子が言った。握った手をいつまでも離そうとしないので汗ばんだ。曜子は怖かったと言うが本当は期待していたのではなかったか。寄せる波が足を濡らした。退く波が踵の砂を削った。
寄せた波の中からいきなり海藻のかたまりがあらわれた。かたまりは長い髯に覆われた海神ネプチューンの大きな顔になった。曜子はいつのまにか白い水着になっていた。曜子は翔の手をふりほどくと海に飛びこみ、海神の髯にからまれて紺碧の海中へと遠く消えていった。それからは、海はただ馬鹿げた水量として、太陽の熱に少しずつ奪われているのだった。曜子といっしょに走ったのはだれだろう。曜子にとりのこされて浜辺で立っていたのはだれだろう。
それはあなたでしょ、と美樹が突然あらわれた――そこで目が醒めた。
翔はベッドから抜けて出かける支度をした。オフィスで今年最後の顔あわせがあったのだ。それと、アルバイト代がもらえる。出発するにはまだ早かったので、翔は電話のあった母や夢のことをぼんやりと思いながらカフェラテを飲んだ。
どうして曜子の夢を見たのだろう。曜子を好きになったのかもしれない。たまたま曜子の話し方が母と似ていて、母の面影を追ったのか。しかし、母親の面影を慕って創作に高めた泉鏡花でもあるまいし、それではマザコンだ。
森のパーティで鞭を打たれていた曜子の妖しい姿が目に浮かんだ。曜子はうつろな目で天を見あげていた。翔は、その痛々しい曜子の顔を消そうと、束ねた皮手袋をパシっと掌に打ちつけた。
「いろいろと動きだした。来年もよろしくたのむ」
磯城の型通りの挨拶が終わると、スタッフ一同、缶ビールを手にした乾杯の声がリビングにあがった。リビングには立食の用意がされていた。大晦日の打上げは簡単にすませたいと、磯城が啓子に指示していたものだ。
翔は、コルナゴに乗るので、缶ビールを乾杯の形だけで置きコーラに変えていた。退屈だが一、二時間ばかりのことだ。翔は談笑している磯城たちから離れて、リビングに流れる音楽をぼんやりと聴いていた。もらったアルバイト代でなにをしようか考えた。コルナゴのバージョンアップに遣おうか。それとも美樹にご馳走でもしようか。母にもなにか買ってあげよう。父さんには……まあいいや。あの人は好きにやっているだろう。
翔の視線は何気なく曜子の姿を追っていた。清楚な姿が洞窟の曜子とは別人に見えた。あれはゲームという見せかけの芝居だったのだろうか。いまの曜子に痛々しい感じはまるでなかった。
オードブルを載せた小皿を手にして、曜子が翔のそばにきた。
「食べなきゃだめよ」曜子は小皿を翔にわたして言った。
「おかげで風邪をひかずにすんだわ。ありがとう」
曜子の細めた目がおどけていた。
あのとき見た曜子の色褪せた小さな唇はいま、緋色に染められてふくよかに潤んでいる。切れ長の目に、翔を見つめる黒々と輝く魅惑的な瞳があった。翔は思った。きっと、曜子は聖セバスチャンのように、聖イレーヌによって生還したのだ、と。
またあの夏の海に行きませんか。蒼い水の中で魚のように二人で遊びませんか。今度は夢の中ではなく、やけどするほどの本物の熱い砂の上であなたを抱きしめます……。
それこそ、夢中になって……お帰りなさい、聖なる森の美しき庭師さん。
美樹のつくってくれたロールキャベツが待っている。
コルナゴが、夜の街道を突っ走った。

写真:写真部@ISHIDA(PHOTO ST)
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