マニエリストQのストゥディオーロ其の十五
汚洞の果実
第2幕−4 マニエリストQ 感想などいただければ幸いです。



 オージーの森に蠢く魁偉の石――

 突然、視界がふさがった。巨大な虫を背負った甲冑の大男が眼前に聳え立っていた。頭部に覆いかぶさる枝のすきまから見おろす、暗闇のように黒くて深い眼孔が、翔を恫喝している。びっしりと全身が苔蒸した、凝灰岩に彫られた怪人だった。
 そこは、鬱蒼とした森にぽっかりと空いた小さな庭だった。立ちふさがった巨人に翔は立ちすくんだ。背中の虫はいったいなにを意味するのだろう。ブルっと寒気がきた。翔はマフラーを巻きなおして、思い出したようにカメラのシャッターを切った。
 これは言葉遊びだ、と翔は思った。背に虫。つまり、せむし。昔は、背中に虫がいるためになる病と考えられていた。よく見ると少し斜に構えた巨人は背を屈めている。まさにその姿は〈傴僂〉だ。あまりの駄洒落に、おかしかった。しかし、なぜこのようなものがここにあり、それが傴僂なのか、それが不思議だった。
 巨人の裏にまわってみた。背後から見上げてみると、思ったよりも背が屈んでいる。ほとんど大きな腰しか見えない。苔が蒸した感じも撮っておこうと、巨人のふくらはぎにカメラを向けた。すると、苔の中に文字のようなものを見つけた。苔を除いてみると、そこに次のような文字があらわれた。

 Io do questa foresta ad Vicino Orsini di Bomarzo.

 イタリア語のようだが、意味がわからない。 Vicino Orsini は、人の名前だろうか。とにかく写真だけは撮っておくことにした。
 雲行きが少し怪しくなってきた。敷地内がどれだけの広さなのか見当がつかない。翔は巨人に見切りをつけ、さらに森の奥へと歩きはじめた。

 森は驚異のワンダーランドだった。
 鬱蒼とした樹々の茂みのあちこちに、魁偉の凝灰岩が呻いていた。
 翔の見た怪物たちを、以下に記録しておこう。
 ・龍舌蘭の植木鉢を頭に載せた巨大なニンフ。
 ・背中に石の城を載せた長い鼻が兵士を巻きつける巨象。
 ・髯を生やしたネプチューンのような巨大な老人。
 ・獅子と闘う翼の生えたドラゴン。
 ・スフィンクス。
 ・甲羅の上に台座、台座の上に球、球の上にニンフを載せた巨亀。
 ・人口の山に立つペガサス。
 ・逆さまにした人間の股を裂こうとしている巨人。
 ・股間の孔から水を吹くニンフ。
 ・二枚舌の蛇。
 ・巨大な怪人面。
 ・肉感的な巨女。
 ・傾いた家。
 ・ニンフが喰い散らした女体の残骸。
 ・逸楽のニンフ――。
 カッと睨んだ黒点のような丸い眼と、大きく開いた二本歯の口腔。岩石に直接彫ったのだろうか、岩壁に張りついた巨大な顔があった。その大顔面の下には数段の石段がついていて、どうやら、奥は洞窟になっているようだ。翔は階段をあがって口腔の中を覗いてみた。暗くてなにも見えない。ゆっくりと足を踏みいれる。遠くで雷が鳴いた。五、六歩くと目が慣れてきたか、ぼんやりとテーブルと椅子のようなものが見えだした。香だろうか、微かに匂う。これは迦羅の匂いだと翔は感じた。中学生のころまでよくつれていかれた父の実家で、香道に凝っていたいまはもう亡くなった祖母が焚いていたのが、たしかこの匂いだった。迦羅は高価なのよねと、うれしそうに匂いを楽しんでいた祖母の顔を憶えている。
 小振りの居香炉が、テーブルの上で、細い煙りを薄闇にゆらゆらと立ち昇らせていた。もう少し奥があるのだろうかと香炉から目を離した、そのとき、翔はドキリとして身構えた。人の気配を感じたのだ。どうやら一人ではない。と、稲光りが一閃、フラッシュのような光が洞窟の岩肌を照らし、つづいて激しい落雷の音が鼓膜いっぱいに襲った。
「翔くん、写真、撮るのよ!」
 啓子の声だった。全裸の啓子が前後を二人の男にはさまれていた。
 これは啓子の演出だ。香を焚き、洞窟内を春のように暖め、それからじっと息を潜ませ、カメラマンをいまかと待っている。撮られること。それが啓子の〈行為〉であり演出だった。
 翔はシャッターを切った。岩肌を背景に舞台の舞踏のようにからみあう三人の美しい裸体を、バタフライナイフが宙を切り裂くように、鋭く危なく切りつづけた。そのたびに、フラッシュの閃光が三人のシルエットを古代の洞窟画のように岩肌に焼きつけた。迦羅の煙りがますます白くなって……。

 ずいぶんと降ったのか、森の荒地は雨に濡れ、いたるところに水溜まりができていた。別荘にもどることにした翔は、途中、寒そうにからだをすぼめて歩くスタッフの二人に出あった。二人はたがいの腕を組みあい寄り添って歩いていた。寒そうにしているのは、雨に濡れたからだと森の寒さのせいだけではないのだろう。一連の怪物たちは不可解な不安と驚きの感情を若い女たちに抱かせた。あらゆるものが謎めいて、通常の物指しでは測れない無気味な世界が敷地にある。とつじょ放りこまれた異常世界と、安穏とした日常とは、そう簡単に一致するわけがない。二人も別荘にもどると言うので、いっしょに帰ることにした。
 翔は女たちに啓子の話をしなかった。 Swinging を目のあたりに体験しているのだから、彼女らにとって啓子の行為などそれほど驚くものではないだろう。けれど、あれは啓子たちと自分の秘密にしておこうと翔は思った。でなければ、経験したなにかが薄れてしまうような気がしたのだ。いったいなにが希薄になってしまうのか。多分それは、秘密そのもののことであり、隠秘されることで醸成される茫然自失という驚愕の濃度が薄れていく、ということなのだ。退屈しのぎに〈ショック〉ほど有効なものはないのである。それにしても、双生児は香道までやるのかと、翔はまたまた感心し、懐かしい祖母の記憶を甦らせた迦羅の香りを思いだしていた。それとも、あの焚香は啓子の手前だったのだろうか。
「別荘にもどったらパソコン貸してください。ネットはつかえますよね」
 二人は、ええ、と同時に答え、顔を見あって笑った。
「わたしのをつかって」
 膝枕のほうが言った。名は曜子といった。もう一人は亜紀子だ。
「ここってなんだったんだろうね」
 亜紀子が素朴な質問を投げかけた。
「啓子さんのお父さまが古い知りあいから手に入れたそうよ。啓子さんの話だと、その人に後継者がなくて手放したそうで、先祖代々から引き継がれてきたものらしいわ。昔はなにかの団体や美術学校としてもつかってらしいけれど、くわしいことは啓子さんにもよくわからないって……」
 曜子の唇が青ざめている。
「急ぎましょうか。二人ともこのままでは風邪をひいてしまう」
 別荘には温泉風呂があった。まずはからだを温めて、話はそれからでいい。パーティまでにはまだいくらかの時間がある。翔は二人をうながした。

  Io do questa foresta ad Vicino Orsini di Bomarzo. ――この森をボマルツォのヴィキノ・オルシーニに捧げる。――それはやはりイタリア語だった。翔は別荘にもどると、あてがわれていた六畳の個室に籠り、怪虫を背負った傴僂のふくらはぎに書かれていた文字を、曜子に借りたノートパソコンで調べていた。曜子と亜紀子は温泉に飛びこび、雨に濡れて冷えきったからだを温めているはずだ。
 検索をかけてみると、ボマルツォとはイタリアのローマ郊外ヴィテルボの近隣にある小邑で、その背後にボマルツォの〈聖なる森〉があるとあった。ヴィキノ・オルシーニはイタリア名家の一つオルシーニ家の何代目かの当主で、十六世紀の初め以来所有したボマルツォの土地にヴィラ、つまり別荘をつくったとある。この別荘が、世界の八番目の不思議とも目されている、ボマルツォの聖なる森の庭園だった。サルバドル・ダリがはじめてここを訪れたときには荒れ果てた廃園になっていたが、現在では整理されて観光地にもなっていると、写真とともに見ることができた。
 きっと、ここの森の主は、ボマルツォの聖なる森を模倣するにあたり、あのような文字を刻んで敬意を表したのだろう。それにしても、ヴィキノ・オルシーニも、ここの森の主も、なにを目的にこのような不思議な庭園を造ったのだろう。ここでいったいなにをしたかったのだろう。
 イタリア・マニエリスム美術では有名なボマルツォの聖なる森。これには諸説あったが、澁澤龍彦も『幻想の画廊から』(美術出版社)でこの森と庭園を紹介している。翔は家に帰ったらマニエリスムの美術書や画集を漁ってみようと思ったのだった。

 窓から見える深い森の樹々が、暗いシルエットになろうとしていた。翔は曜子に借りたノートパソコンを返そうと廊下に出て、曜子たちの部屋のドアをノックした。
「ちょっと待って、着替えるから……裸なの……」
 あわてた様子の亜紀子の声がした。それは少し気になる奇妙な返答に思えた。二人はベッドで寝ていたのだろうか。連夜のパーティで疲れていたのかもしれないな。翔はノートパソコンを脇に抱えながらボンヤリとドアの前に立っていた。
 ドアが開いて亜紀子がにこやかにまねきいれた。部屋の奥にベッドに腰掛けた曜子が見えた。
「パソコンを返すだけですから。曜子さん、ありがとう」
 翔はパソコンを亜紀子に手わたしながら曜子に言った。
「お役にたてたようでよかったわ……」
 どことなくけだるそうな曜子の返事だった。ベッドに座ったままで立とうとする様子がない。亜紀子はパソコンを受けとると、いいのねといったふうに曜子に振りかえり、すぐにその笑顔を翔にもどした。その瞳が変だ。翔は焦点の合わない亜紀子の視線に軽い目眩を感じた。結局、翔は二人の部屋にはいらずに自分の部屋にもどった。それからしばらくして、窓の外は黒々とした晦冥の夜へと変貌していった。

 昼間に雷をともなった大雨があった空は、かえって澄みきった夜空となって、たくさんの星を輝かせていた。その煌めく星のあいだに赤い燈を点滅して飛ぶ夜間飛行のプロペラ機が見えた。
 パーティをひかえた会場はその容貌を照明の消えた暗闇にひっそりと隠し、その裏で、れいによって準備に余念のない双生児が啓子の指示のもとに忙しなく動きまわっていた。そのいっぽう、第三陣、パーティ最後の会員たちは、もうすぐはじまる swinging に多大な期待感を抱きながら、それぞれの部屋でくつろいでいた。なかには待ちきれずにはじめてしまうカップルもあり、オージーの森はいちだんと妖しい熱気を帯びていくのだった。
 美樹はどうしているだろう。翔はふと思った。この森に来てから、どういうわけか翔の頭の中で美樹が消えていた。翔は思いついたように電話をいれてみたが、美樹の携帯電話は留守電になっていた。
「また電話するよ」そう言い残して、翔は電話を切った。
 美樹だったら興味を示すだろうと、森の話を聞かせてあげたかった。美樹のことだから森にとんでもない物語をつくり、凝灰岩の怪物たちが生きた怪人となって動きだすのではないか。翔は自分のたわいなさに苦笑を漏らさずにはいられなかった。まるで、たった二、三日のことでホームシックにかかったかのようだ、と。
 翔は、遠い昔からこの森にいたような、不思議な時間の感覚に囚われた。森の冷気が時間を捩じ曲げているのか、それとも、自分自身の時間感覚が森の妖気で歪んでしまったのか。森は一抹の不安とともに深遠の淵でいよいよ眠ろうとしているのだった。
 ドアをノックする小さな音。女の拳だ。
「翔くん、時間よ。啓子さんが会場に集まるようにって」
 曜子がドアの外で言った。しばしの休憩で疲れがとれたのか、さきほどとは異なる、めりはりのある声だった。ドアを開けると、曜子はすでにうしろ姿をみせて会場に向かっていた。翔は急いでお礼の声をかけた。振りかえってうなずいた曜子の顔が少し派手目な化粧に見えた。翔はカメラをチェックして会場に向かった。
 啓子が今夜は趣向を変えると言った。
「曜子と亜紀子は支度にかかって。翔くんは写真よろしくね。もうすぐ、みんな到着するわ」
 曜子と亜紀子は会場の奥にある小部屋にはいっていった。いつものメイド姿になるのだろうと翔は思った。それは、ロング丈の黒のメイド服に、白のカチューシャ、大きめなカフス、ニットグローブ、サテンのレイチェルエプロン、そして黒のニーソックスに黒の皮革ブーツといったいでたちだ。

 まず、女たちが、黒ずくめの会場にはいってきた。仮面を着け、豪華なドレスで着飾っている。女たちは、スタッフが用意した仮面とドレスを、女たちだけの部屋で着替えていた。パートナーがわからなくなる仕組みだ。つぎに、同じように仮面を着け、マンとを羽織った男たちが入場し、思い思いに女たちのあいだに席をとった。
 女たちのドレスは、十六世紀イタリアの貴婦人が着た衣裳だが、当時、貴婦人のあいだではやった、高級娼婦が大きく胸を開けたものを模していた。男たちのマントは、十五世紀末ヴェネツアの貴族たちが冬用に着た、白いラシャでできた外套だった。
 啓子の乾杯の合図。ドレスアップしたスウィンガーたちの豪華な晩餐会がはじまった。
 啓子は黒のロングドレスで優雅にふるまっている。進行係りの双生児はタキシードで、二人のメイドと同様にスウィンガーたちの注文にこたえて卓をまわっている。翔は写真を撮った。正直に言えば、おざなりな撮影だった。どうせ同じようなシーンなのだ。翔は腹の中で毒づいてみせた。スウィンガーたちを撮るふりをして、曜子を撮った。長身の曜子が背を正して歩くメイド姿は、おちついたおとなの気品を漂わせている。会場の中でだれよりも美しい。細めた切れ長の目に、翔はどこか懐かしい思いにかられていた。けして、家を出てしまった母の顔に似ているわけではないのに。
 高級ワインに酔ったスウィンガーたちが、衣装を崩しはじめた。あちこちで卑猥な言葉がかわされ、女たちの意味をなさない嬌声が方々であがっている。もう《他人の目》はない。あるがままだ。十九世紀のフランス人画家エドゥアール=アンリ・アヴリルが描いた、ジョン・クレランドの『ファニー・ヒル』の挿絵の乱交画のように、古代酒神バッカスの祭りorgyへとなだれこんでいく。
 クレランドは『ファニー・ヒル』をロンドンの債務者監獄で書いた。サドも、それを翻訳した渋沢龍彦も、法廷という場に立ち、サドは獄中で死んでいったのだった。裁きとは、いったいなんだったのだろう。






写真:yo_see(PHOTO ST