マニエリストQのストゥディオーロ其の十五
汚洞の果実
第2幕−3 マニエリストQ 感想などいただければ幸いです。



 Swinging by the franchise system.――

 啓子とスタッフが二人、そして翔。この四人がクリスマスイブから大晦日にかけたパーティ取材のメンバーである。取材とはいえ、パーティは啓子の企画で主催者側でもあった。参加者は啓子の父親が主催する会の関連で集めた。三組のパーティを予定した参加者の総数は六十組百二十人になる。参加費はかなり高額だったが、その内訳には土産としての高級ワインも含まれていた。つまり、ワイン販売も手がけたわけだ。啓子のビジネスはどこまでもあざとく、磯城にみこまれた理由がそこにあった。とは言え、啓子は磯城と組むにあたっての佐竹の手土産である。啓子の唆しは行動に移すきっかけにはなったが、佐竹にしてみれば磯城と組むことはすでに立っていた計画であって、佐竹が啓子を活用したというのが実情だ。佐竹と磯城は大学の先輩後輩の関係だった。当然、磯城は佐竹の仕事内容を知っていた。本当の意味で先輩の佐竹を唆したのは磯城だった。
 クリスマスイブの早朝、ひっそりと佇むオフィスのマンション前から、高級ワインと取材メンバーを乗せた黒塗りの一台のボックスカーが静かに走りだした。啓子が運転する横にスタッフの一人が座り、翔ともう一人は後部座席にいた。啓子は仕事場でかけている黒縁眼鏡をデザインの凝ったサングラスに変えている。スタッフの女たちはいつものように地味なほど清楚だ。翔は濃紺のシャツに黒のVネックセーターとジーンズで、これもまた普段と変わらない。目的地は、佐竹が失踪して啓子と潜んでいた、啓子の父親の別荘である。もちろん、別荘の使用料を父親に支払う条件になっていた。ここでも抜け目のない啓子だった。
「翔くん。ワインだいじょうぶよね?」
 貴重な商材が気になるのか、運転席の啓子が後ろの翔に訊いた。
「だいじょうぶです。しっかり固定してありますから」
 翔は背後に置かれた段ボールの一つを確認しながら言った。ワインは、パーティの際に使用するものと土産で、そうとうの量になっている。まるで酒屋の配達のようだと、翔はおかしかった。仕入れ値だけでも莫大な金額になるはずだ。啓子が心配するのもあたりまえで、車の運転も慎重だった。
 翔は以前、的屋の手伝いでハマグリを積んだ車の助手席に乗ったことがある。ハマグリを入れた桶の水がこぼれないようにしなくてはいけないと、若い的屋が運転のうまさを自慢げに話したのを憶えている。啓子の運転もそれに似ていた。静かで揺れの少ない走行が心地よく、一時間も走ると、いつになく早起きをした翔に睡魔が押し寄せていた。仕事なのに子供みたいだ。だらしない……と、朦朧とした頭にそっと触れる手があった。隣に座っていた女の手だ。翔は導かれるままに女の柔らかな膝に頭を乗せ、からだを横たえた。女は膝の上に置かれた翔の髪を撫でつづけた。それはまるで無言の子守唄のようだった。子守唄を聴いた記憶など、とっくに忘れているはずなのに……自分はなにを期待しているのだろう……いつしか車の走る音も髪に触れる女の感触も遠方に消えていた。翔はまどろみから熟睡へとすべりこんでいった。

「元気そうでよかった」
 炬燵で向かいあっていた母がぼつりと言った。
 母がめずらしく翔の部屋にいた。普段めったに干渉することがない母。その母がわざわざ自分の部屋にきている。こうして母と二人で話すのも久しぶりのことだ。何か特別な話があるのだろうと翔は思った。
 珈琲カップをつつんでいるしなやかで白い指。母はこんなに色白だったろうか。翔は知らない他人をはじめて見るような錯角を感じた。もはや母親の顔すら忘れかけていたのではないかと、翔はあらためて母の顔を見た。指と同じように色白で小さな顔が、姿勢よく座ったからだの上にあった。白いVネックのセーターがよけいにその白さをきわだてている。微かに笑んだ唇と切れ長の目。母は美しくて若い中年女だった。
「翔はだいじょうぶよね」
「なにが?」
「お父さんのこと好きでしょ?」
 その父親ともめったに逢うことがない。そういう家族だった。
「母さんのことだって好きだよ」
「どんなところが?」
「父さんも母さんもうるさくないから……」
「そうね。ほったらかしだものね、翔のこと」
 母は自嘲ぎみに小さく笑った。白い顔に白い歯が少しこぼれた。
「どうしたの、母さん。なにかあったの? ぼくはだいじょうぶだよ。心配することなんてない」
「久しぶりに翔の顔が見たかっただけ。元気かなあって……お小遣いは足りてるの?」
「まあね。そんなにつかうこともないし」
「足りなかったらカードをつかっていいのよ。置き場所は知ってるわね」
 それは父が全生活費を毎月入金している銀行カードのことだった。母は、そこから必要になった分を引き出し、家計を賄っていた。おのずと父との接触は希薄なものとなった。翔も好きにしていたので家族の時間はばらぱらになり、三人そろって食卓を囲む機会はほとんどなかった。
 一番の問題は、父に愛人がいたということだ。それとも、父よりさきに母に愛人ができていたのか。翔の知らないところで父と母の話は進んでいたのだろう。母は寂しかったのかもしれない。翔の干渉を求めていたのかもしれない。しかし、翔は干渉しなかった。二人の自由を黙ってうけいれようと思った。それが翔の性格だったからだ。けれど、母はほんとうのことをなにも言わない。自然なのかポーズなのか、静かで寂しげな素振りを見せているだけだ。そんな母を妖しく美しいと、自分の母ながら翔は感じた。秘密を抱えた母は、まるでルネサンスの肖像画のように、暗い風景を背にひっそりと佇んでいるかのようだった。
「風邪ひかないようにするのよ。炬燵で寝てはだめよ」
 母は、そう言い残し、飲み干したコーヒーカップをもって部屋を出ていった。すらりとした長身の白い背が、いつまでも翔の網膜から消えなかった――一昨年のクリスマスイブの前日、深夜のことだった。そして、新年を迎えようとする数日前、母は家から消えた。
 ボックスカーは鬱蒼とした深い森の中を走っていた。小型のマイクロバスが一台ようやく通れるような細い道だ。木々の梢が道にまで伸びて、車にあたってはもろく折れた。冬の弱い陽は深い森を貫けず、冷えびえとした空気が薄暗い地に這っていた。
 啓子の運転はあいかわらず慎重にかつ順調だ。疲れた様子もなく、かえってテンションがあがっているようでもある。運転をしながらパーティの段取りを思いつくままにしゃべっている。スタッフの女たちは啓子のいささか露骨な言葉に顔を赤らめることもあったが、そこには待ち受ける未知の体験に踏みこもうとする期待感もあったのか、あっけらかんと楽しげだ。
 夕方六時には第一陣のパーティ参加者が別荘に到着する。それまでに会場や宿泊室、食事などの準備をしなければならないはずだ。一度の参加者は二十組なのだから、別荘もかなり広大なのだろう。別荘に着いてからが忙しくなると翔は思った。それなのに、啓子の段取りのなかで、なぜか準備の話は一つも出ていない。それとも、管理人のようなものがいて、準備はすでに整っているのだろうか。
 そうこうするうちに、ようやく車は別荘の門に着いた。啓子はリモートコントロールで鉄扉を開けると、車を敷地内へとすべりいれた。敷地内にも高い木が立ち並び、森と一体化している。前方に大きな二階建ての別荘が見えた。まるで昔の旅館のようだと翔は思った。いったい啓子の父とはどのような人間なのだろう。
 別荘は予想したとおり、すでに準備が整っていた。佐竹と取材したときのように、会場はレオナルド・ダ・ビンチの葬儀場と同じく、ことごとく真っ黒な布で覆いつくされていた。
「オーケー。完璧だわ」会場をうろつきながら啓子は言った。その仕草はすでにミノタウロスの女だった。
 啓子の演出は、きっとまたあれなのだと、翔は牝牛に化けた女たちの姿を思いだしていた。あの場面に三回も立ちあわなければならないのかと思うと、さすがに憂鬱だった。
「翔くん。ワインよろしく。気をつけて運んでね」
「わかりました」翔は、啓子の掛け声に、これは仕事なのだと気をとりなおした。
 暖房のきいた会場を出ると、気持ちのよい冷気が翔をつつんだ。翔はいま、森にいた。性と性が複雑にまぐわう隠秘の森。いずれ、翔には想像もつかない狂った宴となって、それは〈聖なる森〉へとシフトしていく。
「わたしも手伝うわ」
 気がつくと、そばに女がいた。膝枕の女だった。
「重いからいいですよ。とりあえず会場分を運べばいいんだし」
「そうね。割ってしまったら困ることになるものね」
 どこかで聞き覚えのあるしゃべりかた、切れ長の目……翔はこれまで女をまともに見ていなかったと、いまさらながらに思った。
「どうかした?」
「いえ、なんでもないです。さっきはすみませんでした。よく眠れました」
「おやすいごようよ。いつでもどうぞ」
 女は、切れ長の目を細めると、じゃあねと言い、長身のうしろ姿をみせて別荘にもどっていった。それは母に似た背中だった。

 なるほど。そういうことか。第一陣が到着して翔は納得した。マイクロバスを運転していたのが、ミノタウロスの女に跪いていた進行係りの一人だったからだ。仮面をはずし、蝶ネクタイを着けた黒服姿だったが、からだつきと動きでわかった。男の端正な顔はマネキンのように不自然で人工的な感じがした。終始無表情なのがそれを増長していた。しかし、姿勢を正したからだの動きは機敏で、もしも獲物を襲うなら、凶暴なドーベルマンのように素早いだろう。自分から進んで立ちあいたい相手ではないなと、翔は肩をすくめずにはいられなかった。
 もう一人の片割れは会場に面した厨房にいて料理の最中だった。五十人近い料理をたった一人で、これもまた素早い手際だ。料理、大道具、小道具、そしてボディガードまで。彼らは啓子にとって、これとない忠実な部下といえた。まさしく彼らは〈犬〉だ。彼らの太い首には見えない首輪がはめられ、リールのさきには艶然として啓子が立っている。凶暴さは反面に masochism を秘匿し、またその反対もある。彼らはまちがいなく真正masochistだ。そして二人は双生児でもあった。
 第一陣のパーティは初めてのグループということで、ミノタウロスの演出だった。スタッフの二人がメイドに扮し、スウィンガーたちの食事や飲み物の要求にかいがいしく対応した。翔は、磯城が翔にと与えてくれたカメラで、一晩中シャッターを切りつづけた。
 翌日になって、ダンスやゲーム、豪華な飲食で夕方まですごしたスウィンガーたちは、高級ワインの土産を手に、来たときと同様、マイクロバスで駅まで送られて帰っていった。
 二十六日の第二陣のパーティも同じようにすぎた。
 二十七日、第二陣が帰ったあと、ミーティングを兼ねた夕食の席で、明日の第三陣のグループが到着する前に敷地内を見ておくようにと、啓子が翔とスタッフ二人に指示した。第三陣のグループが別荘に到着するのが夕方の六時。時間は十分にある。啓子がわざわざ見ておけと言うのだから、敷地はパーティの趣向になにかしら関係しているのだろう。森と一体化した敷地に、なにかありそうで楽しみだ。それに、磯城がせっかく高価なカメラを与えてくれたのだ。パーティの写真を撮るだけではもったいない、森でなにかを撮ってみよう。翔は明日、昼食をすませてから、カメラ持参で敷地内をまわってみることにした。

 磯城が進めるビジネスは、インターネット検索で見ればわかるように、それほど目新しいものではない。数多くのswingingグループがインターネットという手段で内密という日陰から飛び出し、それぞれの主張と活動を展開している。磯城もそのうちの一人にすぎないのだ。
 性は古代より、あるがままに進歩も進化もない。発見は、騎兵連隊の大佐、リベラル思想家、キリスト教を超えた無神論者、究極の哲学者、快楽の求道者であり獄中作家である、ドナスィヤン・アルフォーンス・フランスワ・ド・サドの〈サディズム〉に代表される。そのサドを殺した実質はナポレオン・ボナパルトである。ナポレオンは、サドを狂人として、シャラントン精神病院に死ぬまで閉じこめたのだった。
 精神医学者リヒャルト・フォン・クラフト=エビングの四つ分類は〈サディズム〉〈マゾヒズム〉〈フェティシズム〉〈同性愛〉であり、〈サディズム〉と名づけたのもエビングである。では、その四つのどこに〈swinging 〉は分類されるのだろう――分類は不要だ。すべてが精神性において交錯する同じものを所有し、4+1の項目は一時的な行為としての部分の現象にすぎない。なぜなら、正常と称される行為において、四項目のいずれか、または複数の感覚が、常にともなうからだ。正常も異常もない。あるのは、そのときの行為の度合だけだ。
 そこで磯城が選んだのが、スウィンガー・グループの組織化であり、ビジネスとしてのチェーン展開だった。 Swinging は、磯城にしてみれば、ビジネスとしてくくった商売の一つにすぎない。それを具体的に進めているのがまさに啓子だった。そして、ほかとの差別化をはかるうえで最適としたのが、この別荘なのである。仕掛けがないわけがない。

 森は冬の寒気を張りつめ、しんと静まりかえっていた。午後の陽が、わずかな樹々のすきまにこぼれている。翔はコットンのイスラムワッチ、駱駝毛のマフラーにモッズコート、羊皮の手袋で、首にカメラを下げて敷地に出ていた。左手の小指が少し痺れているのが気になる。
 別荘の建物をまわるようにして裏手に出ると、薮の中に小経の入口らしきものがあらわれた。あたかも薄暗いトンネルのようになっている。翔はくぐるように少し頭を下げてトンネルに潜りこんだ。
 道は整地されていて蜘蛛の巣も張っていない。多分、双生児が手をいれたのだろう。庭師もできるのかと、翔は彼らの能力に呆れた。けれど、マックス・エルンストの美しき庭師とはえらい違いだ……いや、あながちそうとも言えない。仮面で韜晦したあの妖しさは共通するのではないか。それとも、この妖しさは暗鬱な森のせいなのか。エルンストの森には正体不明の鳥が棲む。ここにはどんな鳥が隠れているのだろう。
 前方に小さな明りがあらわた。翔は首筋にわずかな汗を感じ、マフラーをはずしてポケットに丸めた。小指はまだ痺れていたが気にならなくなった。そして、藪のトンネルを抜けた。






写真:HIROSHI AOKI(PHOTO ST