
ダンス、ダンス、ダンス――
「おお、ロミオ、ロミオ! どうしてあなたはロミオなの?
お父様とは無関係、自分の名は自分の名ではない、とおっしゃってください。
それがいやなら、お前だけを愛していると、誓ってください。
そしたら、私もキャピュレットの名を捨ててしまいましょう」
「へたくそめ。いいかげんにやめとけ」
森の中で蝉が啼いている。夏の風が高い梢の葉を揺らし、木漏れ陽が地表に落ちている。
「そうよね。あなたのその辛辣な言葉で、芝居をやめる決心がついたのよね、わたし……」
二階の矩形の窓から、雲ひとつない水色の空が、木々の隙き間に見える。窓ぎわにもたれてシーツを巻きつけた女のうしろ姿が、陽を受けて柔らかな黒い影のかたまりとなっている。
「いまの俺は、偉そうなことを言えた立場じゃない。それに、芝居はよく知らないからな。芝居をやめたのはお前の勝手だ」
「そんなあなたとこうなったのも、わたしの勝手だわ」
女のからだから、ゆっくりとシーツがすべり落ちる。
「ああ、どうして、あなたはあなたなの?」
そう言って、女は大げさな身振りで振りかえり、美しい裸身を佐竹の前に晒した。それは、堂々と立ちはだかる全裸の啓子だった。
佐竹は失踪のあと、啓子とともに、啓子の父親の別荘に棲み隠れていた。
啓子には隠れる必要がなかったが、たまに森深く奥まった別荘から車で街に出て、買出した食糧で佐竹のために食事をつくったりしていた。佐竹にはそれなりの緊張感があったが、啓子にしてみれば遊び半分で、幼いころの隠れんぼのようなものだった。それは、佐竹がかろうじて会社の金をもちださずにすませたからだろう。もちろん、仕事のデータ類のもちだしと破損は立派な犯罪になる。それでも気楽でいるのは、そもそも佐竹の失踪を唆したのが啓子自身であったからだ。
佐竹が取材する Swinging パーティはいくつかあった。その一つが、ミノタウロスの女、それはつまり啓子だが、彼女の父親が主催するパーティだった。啓子がミノタウロスの女だとする翔の勘は正しかったわけだ。
パーティが何回か主催されるうち、つねに打ちあわせの席に父親と同席した啓子が、佐竹と親しい関係になるのは、きわめて自然なことだった。まして、性にはフランクな啓子なのだから、その関係は急速なものだった。
「自分でやっちゃえばいいのに」
佐竹の乱れた髪を指先でもてあそびながら啓子は言った。二人はベットの中にいて、激しく抱きあったばかりだった。パーティがひととおりすみ、スゥィンガーたちの自由行動の時間になっていた。
「会社に不満はないよ。いまの本がいやになってるだけだ」
佐竹は啓子の手をはらって言った。啓子はベッドに起きあがってあぐらををかく。
「でも、自分がやりたいことのためには、それなりのことが必要よ。それからでいいんじゃない。本当にやりたいことって」
「それなりのこと、か……」
「いまの本だって、あなたの力でできてるのよ。あなたがその気なら、パパに支援を頼んであげてもいいわ」
啓子は佐竹の耳もとでささやいた。汗と香水をないまぜた甘い匂いが微かに漂う。シャネルの五番とはこのことかと、佐竹はフンと鼻を鳴らして自虐的に唇の片端を上げた。そしてふたたび、啓子のからだを抱いた――翔がまだアルバイトに来る前のパーティでのことだった。
別荘にこもって一年近くがすぎていた。二人は日に幾度となく抱きあった。高級なワインを何本も空けた。そして、かわりばえのしない食事。佐竹は飽きていた。外も内も、あらゆる風景にうんざりしていた。当初は、いよいよやってしまったという高揚感で、啓子と抱きあうのも刺激的だった。ワインも旨かった。しかし、それも半年が限度だった。それをすぎると、オードブルのような毎日の食事に不満を感じるようになった。ワインの香りが鼻についた。が、それ以上に強く佐竹を襲ったのは、仕事への思いだった。無性に仕事が恋しくなっていた。過激だった仕事の時間と贅沢で放縦な時間の落差。それを素直に受け入れるだけの器量を、佐竹はもちあわせていなかった。
俺はどうしようもない貧乏性だ。そろそろ潮時か。
佐竹は、別荘を出る時期がきたと思った。ほとぼりも冷めたにちがいない。そうでなくても、約束のときがくる。それは、啓子も知らない約束だった。
窓から離れた啓子が、ふたたびベッドにあがり、佐竹のからだを覆うようにのしかかる。佐竹は啓子のからだを抱きしめて言った。
「ここを出る」
「いつ? どこに行くの?」
「一週間後にする。そのあいだに荷物の整理だ」
佐竹は重いと言って啓子を横に降ろした。啓子は不満げに、ベッドから降りる佐竹の裸の背を平手で叩いた。
佐竹は、別荘生活で重ねた怠惰な生活に決別すべく、バスルームで冷たい水を浴びた。飽きたとはいえ、別荘生活にはまだまだ捨て難い魅力が未練としてあったからだ。このような自由な生活は、啓子という多少のわずらわしさがあったにしても、二度と味わうことができないだろう。佐竹は頭から流れ落ちる冷たすぎる水に身震いしながら、一年近くのこれまでを思ってみた。ところが、脳裡に浮かぶのは、啓子との情慾の場面ばかりである。自分はなにごともしなかった、無為で怠惰な時間を喰いつぶしたのだと、あらためて思い知らされた。けれども、これは約束のための、ほとぼりが冷めるまでのことだったと、自分に言い聞かせた。いまようやく、その時が来たのだ。啓子がさとした、それなりのこと、が――。
「そういうことだったんですね」
翔は、佐竹の盗み見るような自分に向けられた視線に、そう言って返した。自分が憤慨することでもない。本をどうしようと、それは佐竹のやっていることだ。佐竹は自分の手で本をやるために失踪したのだと理解した。ただし、あのときの憔悴しきった社長の顔が脳裡によぎって消えたのは事実だ。そして、佐竹がひどいしうちをしたのも、たしかな事実だった。
「すまんな。まあ、そういうことだから」
佐竹はソファーに深々ともたれて大きく一呼吸した。その隣で磯城がにやけている。そうか。これは磯城のたくらみだ。 Swinging にまで手を広げようとしている。翔は、磯城の精力的な意欲に、感心さえした。それにしても、わからないことがいくつもある。磯城と佐竹の関係、さらに佐竹と啓子の疑わしき関係、そして啓子の正体。おもしろいことだられけだと、翔はワクワクした。
「やっと長老たちの出資が決まった」磯城は本を手にして言った。
「佐竹さんのいた会社もこれといった動きに出なかった。本業の印刷でなんとかやってるようだ。もっとも、気落ちしたのか社長はつかいものにならなくなって、息子がやっているようだが」
翔は、自信にみなぎっていた社長と、佐竹の失踪でげっそりと頬を落とした社長の、二つの顔を思いだしていた。社長の失意には、はかりしれないものがあったのだろう。佐竹は無言でうつむいている。
「いよいよ発行に向けて始動しようと思う。佐竹さんは編集長、編集実務はスタッフ全員でやってもらう」
磯城はそう言い終えると、 Swinging 本の見本を硝子テーブルの上に放った。その表紙には艶やかなポーズをとったミノタウロスの女がいた。
翔は隣に座る啓子の横顔をじっと見つめた。すると、翔に向きなおった啓子が、目を細めてにやりと笑んだ。そして深紅にぬめった唇から長い舌を出した。スウィンガーはどうやら舌を出すのが好きらしい、と翔は思った。啓子の舌に金色の小さなピアスがあった。
「俺はなにをやるんですか?」翔は、磯城に訊いた。
磯城は、パーティの際のボデーガードだ、スタッフの女たちのめんどうをみてくれと言う。
「女たちだけでは心もとない。なにがあるかわからんからな」
まるでヒモのようだ。女たちの下着も洗ってやるのか。翔はおかしくて吹きだしそうになった。
「翔くん、変なこと想像してない?」
「いや、べつに……」
翔は、変な啓子に変だと言われ、変なのはあなたでしょと、もっとおかしくなった。そもそも仕事とはいえ、 Swinging 本を真面目な顔で囲み、その中に自分もいることが笑えるのだった。
「まあいいさ。頼むぜ、翔くんよ」磯城が助け舟をだした。
それから一時間ほどの打ちあわせがあり、磯城と佐竹がオフィスを出ていった。翔が家にもどったのは朝の四時だった。学校に行くまで三、四時間は寝れると、翔はベッドに潜りこみ、瞬く間に眠りについたのだった。
「それ、かわいいね」
ちょうど美樹が小さな布袋に文庫本をしまうところを、あとから来た翔が見て、腰かけながら言った。
日曜日の午後のはやめに、いつものファーストフード。外はポカポカと陽気がよく、翔の小指はかじかんではいない。
「そお? ありがとう。文庫本サイズでつくってあるの。文庫本にカバーつけるの嫌いだから」
美樹はそう言って、巾着になった袋の紐をキュッとしぼった。袋はキラキラ輝くビーズで飾られている。
「美樹って、意外とこまめなんだね」
翔はエスプレッソコーヒーをかき混ぜながらからかった。
「好きな本から離れていたくないの。ときどき、家にある本が恋しくて、寂しくなるときがあるわ」
「俺と逢っているときにも?」
「あるわ。あのときにもね……翔の腕の中で、好きな小説のストーリーや、詩の一節が思い浮かんだりするの」
「美樹は文学少女だ」
翔はステレオタイプな表現に自分でもあきれた。携帯小説がはやりのいま、こんな呼び方はだれもしないだろう。
「文字は紙の上でこそ本物の字と言えるわ。文字は生きてるから。だから、あまり上質の紙の本は嫌い。柔らかくて黄ばみのはやい紙が好き。古いドラマがますます古くなって、すいとり紙みたいにわたしを吸いこむんだわ……わたしって完璧、本フェチなの」
一息入れて「ご清聴ありがとうございました」あははと美樹は屈託なく笑った。それから、「バイト、どう? おもしろい?」と訊いた。「これからだな」翔はかいつまんで、おおよそのいきさつを美樹に聞かせた。「まるでロンドね」と美樹が言った。「翔もふくめて、みんなが輪になって踊ってるみたい。なんだか、わたしもその輪にはいってみたくなった。それで、あのアリアドネのDance of labyrinthを踊りたい。知ってるわよね? テセウスがミノタウロスを殺すために、ダイダロスがアリアドネに考案したダンスよ」
ダンス、ダンス、ダンス。目を閉じて、歌うように、少し首を揺らして、美樹はそっと囁いた。
モローのサロメがあらわれた――黄金色の豪華な装飾品と呪術師のような衣装をまとった、ほとんど裸の美樹が、宙に浮く洗礼者ヨハネの輝く首と対峙して踊っている――十九世紀サンボリスムの妖艶で官能的な幻影が翔をとらえた。まさしく、それは『まぼろし』だった。
「クノッソスの迷宮のダンスがどんなダンスなのか、ネットで調べたことがあったわ。ミノタウロスが殺されてしまうほどに見とれてしまったのだから、きっとすごく魅力的なダンスだったと思う。結局、わからずじまいになってしまったけど」
少女のサロメが翔の眼前にいた。翔は思わず首筋に手をあてた。冷たいものが首筋に流れたように感じた。美樹が、どうしたの? といった顔をした。
「クノッソスの迷宮は、設計図が貨幣のデザインにもなったんだけど、実は分岐のない単純な迷路なんだ。だから、ミノタウロスも、ダイダロスも、迷宮から脱出しようと思えば可能だったはずだ。イカロスも空から落ちて死ぬことはなかった。テセウスだってアリアドネから絲をもらう必要はないし、クノッソスに来ることもなかった。そうなれば、アリアドネがテセウスにひどいしうちをされることも起きなかったはずだ……」
「なんだか変よ、翔」
諸説あるが、ホメーロスの『オデュッセイア』でアリアドネは、狩猟と純潔の女神、のちに月の女神となったアルテミスに射られて死んでいた。
「やっぱり、美樹は踊らなくていい」
翔の中でギリシア神話のアリアドネと新約聖書のサロメが踊っていた。二人は時に一人の少女、美樹になった。豊満な二つの肉体と、未成熟な二つの果実を盛った薄い胸を晒す少女が、交互にあらわれては消えて踊っている。手足の長さが目立つ少女。まだ肉体と呼ぶには気がひける十七歳の脆弱なからだ。そして、古代の物語の女たち。それはまるで、異なる物体の出逢いだった。
すると、三人の姿が同時にあらわれた。その光景は、翔の中で、『春』になった。翔の一抹の不安と予感を秘めて――。
「美術史を勉強しようかな……」翔がポツリと言った。
「美樹だって退屈ぶってるわりには、ちゃんと小説を書いてるものね。退屈を愚痴ってばかりいてもなにも起こらないし」
「バイト、飽きちゃったの?」
「そんなこともないけど。美樹といるとなにかをしたくなるから不思議だ。どうしてだろう」
「わたしにもわからないけど、逆もあるわ。わたしも翔といると本が読みたくなる。わたしたち似たもの同士なのよ。おかしいわね、おにいちゃん?」
美樹は爪先で翔のむこう脛を軽くつついた。翔は鼻で笑った。
とばりが落ちはじめたころ、美樹が本を読みたくなったと言うので、二人はファーストフードで別れた。
坂は、もう枯葉も枯枝もなく、寒々としていた。居残りの教師がテストの採点でもしているのだろうか、左手にした中学校のグランドのさきにある校舎の窓に灯りが見えた。翔は夜の校舎が、寂しげではあったが、美しいと思った。左手の小指が少し痺れた。

引用:シェイクスピア作『ロミオとジューリエット』平井正穂訳(岩波文庫・岩波書店刊) 写真(カラーをモノクロ使用):yama(PHOTO ST)
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