マニエリストQのストゥディオーロ其の十五
汚洞の果実
第1幕−6 マニエリストQ 感想などいただければ幸いです。



 聖者の命は生者の生き血で賄われる――

 人も、ものも、街燈に灯された街のシルエットが、肌寒い夜気に細く縮小していた。街の中心を少し離れれば、おびただしい枯葉が暗い路上に吹きつもり、その明るさでは黄や深紅といった枯葉の色を、もはや見分けることもできなかった。
 リビングで待機していた翔を、磯城がコンピュータ室のドアの中から手まねきした。今夜からアルバイトがはじまる。
 磯城は、これがスタッフだといって翔に紹介した。パソコンを前にしたスタッフの四人が、それぞれ軽い会釈をした。それから一人ずつ名前を告げた。スタッフは二十代の若い女たちだった。磯城は翔をパソコンの一台に座らせると、隣席の女の肩に手をやり、「今日から翔の面倒をみてくれる啓子だ。わからないことは彼女に聞くといい。啓子もよろしくな」、と言った。啓子は小さく笑んだが、すぐ真顔にもどした。青味がかった瞳が不思議な雰囲気だ。黒縁の眼鏡をわざとらしい。
「お世話させていただきます……どのようなことでも」と啓子。
 どのようなことでも? それはいったいどのようなお世話なのか。翔は妙な気持ちだった。それでも、なるようになるさと思い、翔は啓子の言葉を謎のままに残して挨拶を返した。
 その夜、啓子は少しまったりとしたしゃべりで、それでもていねいに、簡潔な言葉で翔の仕事を説明した。流暢なしゃべりは、そういったことが慣れているのか、あるいは翔を年下とみて嘗めていたからなのか。どちらにしても、それほど難しい仕事ではない。翔のおもな仕事は画像処理がメインだった。ビデオの編集と配信作業は、三人の女たちの仕事らしい。
 ほんのわずか、香水が匂った。甘い匂いは、啓子が動いたときにほのかに流れて、すぐに消えた。
「ざっと、こんなところね」啓子はいきなりくだけてみせた。それからほかの女たちに「食事に行くわよ」と号令でもかけるように元気な声で言った。
「きみの歓迎会だからね。わかった?」今度は命令口調だ。
 この女には、ほどほどにしていればいいな、と翔は決めた。

 そこは、仕事場を出て、夜気が冷たくなった道を三分ばかり歩いた、ひっそりと静まった裏道に隠れた割烹料理屋だった。店に入るとすぐ、朽ちかけた渡り廊下を歩いて、二十畳ほどの離れに通された。ひねりをほどこした焦茶色の太い柱の造りや、色あせた襖が、どことなく陰気くさい、座敷の片隅に、袖を通して大きく広げた水色の和服、それと小太鼓と細棹の三味線が飾ってある。もとは芸妓の置屋だったのだろうか。かなり古い店だった。
 女たちについて座敷にはいった途端、翔は唖然とした。失踪したあの佐竹が、磯城の隣に座っていたのだ。二人はすでに酒が入っているのか、卓の上に二、三本の銚子が並んでいた。
「よっ」、と佐竹は少しおどけたように翔に向かって手をあげた。
 それはまるで、翔がここに来ることを、あらかじめ知っていたかのようだ。そげた頬を不精髯が覆っている。座っているのでよくわからないが、からだも細くなっているような気がする……翔は佐竹の風貌に重なるイメージを探してみたが、思い出せない。どうしてこんなところで佐竹と出くわすのか。翔は、とまどった。自分の隣に座るようにと手まねきした磯城の顔が笑っている。これは磯城がしくんだのだと翔は思った。磯城は自分と佐竹の関係を知っている。
 女たちは卓をはさんで磯城たちの向かい側に座った。このような座敷では膳で座敷を囲むのだろうが、今夜は卓の上にいくつかの鍋が用意され、白い湯気を立てはじめていた。ワインクーラーにボトルが冷されてもいる。翔の歓迎会としては、卓の上がかなり豪勢だ。翔の気まぐれなアルバイト初出勤にもかかわらず、これは手際がよすぎる。きっと、自分の歓迎会は事のついでなのだろう。翔は腹のなかで苦笑した。
 啓子が女たちをあれこれと仕切っている――とはいっても、啓子は口だけで、鍋の具を入れるのも酒の準備をするのも他の女たちがやっていた。
「れいの企画が決まったよ」
 ひととおり落ち着くと、磯城が言った。
 女たちから拍手が起きた。
「今夜はその前祝いだ。それと、翔の歓迎会もな。ついでだけど」
 磯城の冗談に、みなが笑った。翔はだれにともなく小さく頭を下げ、それから、まあそんなとこでしょ、と磯城に軽い流し目をしてみせた。磯城の大きな手が翔の肩をポンと叩いた。佐竹が紹介されなかったのは、すでに仲間だったか、なんらかの形で彼らとからんでいたからだろう。磯城は佐竹と翔をあらためてひきあわせることもしなかった。
 啓子の促しで、翔と女たちはワイングラス、磯城と佐竹は猪口をそれぞれ手にした。立ち上がった啓子が、気どったポーズでワイングラスを高々とかかげた。そして、まるで舞台の台詞でもあるように、大げさな抑揚をつけて言った。
「企画の決定と、新人の仲間入りに、乾杯! ようこそ、翔くん」
 おや? これもどこかで見たような光景だ。翔は啓子の気どった立ち姿をじっと見つめた……まさか! そんなことはありえないだろう。いや、事実、佐竹がここにいる。
 グツグツと音を立てる鍋。いっせいにあがる賑やかな乾杯の声。喉を通る渋い赤ワイン……そうだ、あれはワインだった。夏の日、高級なワインを、スウィンガーたちが眼前で戯れる中、それからホテルの部屋でも、佐竹と自分は呑んだのだった。あのとき、一糸まとわぬ女がワイングラスを高々とかかげていたではないか。いまここに立っている女とまったく同じポーズで……ミノタウロスの女が。
 翔は、あのときの Swinging の打ちあわせに、佐竹と出ていればと後悔した。主催者が不参加で、その娘、つまりミノタウロスの女が代わって打ちあわせに出ていたはずだ。まさかその席で怪牛の頭など被りもしないだろう。素顔を拝めたはずだ。では、佐竹とのいまの関連は? またどうして磯城のところで働いているのか? 翔の疑問はワクワクした期待感と好奇心になっていた。
 そうだ、わかった。どこかで見た憶えのある今夜の佐竹の風貌。それは、磔刑のJesusだ。ダ・ビンチが描いた最後の晩餐の、どこかすねていて、いじけたイエスの顔だ。イエスとスウィンガー。翔は、その謎めいた関連を思って、ますますワクワクした。このことを美樹に話したら、美樹はなんと言うだろう。きっと、「人それぞれ、好きずきよね」と、年寄りくさく言うだろう。それから、イエスの関連本を見つけてかたっぱしから読むにちがいない。美樹は、そういう子だ。
「どうした?」
 磯城が訝しげな顔で翔に訊いた。
「啓子さん元気だなあと思って」
「元気すぎるけどな。まあ、よくやってくれてる」
 磯城が一口で呑み干した猪口に、スタッフの一人が酌をした。
「どうだ。できそうか?」
「なんとか、やれそうです。啓子さんがいますし」
「そうよ。翔くんは私がちゃんとお世話します」
 啓子が鍋用の椀を翔に手わたしながら横槍を入れた。椀には熱い湯気が立ち、汁の中から太った海老の尻尾がのぞいていた。
 磯城は、それにはとりあわず、翔に「佐竹さんとは仲良くやってくれ」と言って、佐竹のほうを一瞥した。翔と佐竹は磯城をあいだにして互いの顔を見あった。佐竹は、よろしくなといったふうに髯面をほころばした。夏の日の疲れた顔はいまも変わっていない。ああ、やっぱりイエスの顔だ、と翔は思った。

 よくよく見ると、ダ・ヴィンチのイエスの顔は、それほど髯に覆われてはいなかった。ほかの画家が描いたイエスの顔が翔のイメージの中で混在していたのだ。人間の記憶は、いいかげんだ。
 歓迎会から一週間がすぎた月曜日の午後。翔と美樹は、いつものように落ちあって、大学図書館にいた。広い図書室に閲覧者はまばらだ。おかげで、二人のお喋りをとがめる者はだれもいなかった。
「しかたないでしょっ、て感じね」
 掌を上に腕を軽くのばしたイエスの左手を指さして、美樹が言った。レオナルド・ダ・ビンチの『最後の晩餐』が大判の画集に観音開きでおさまっていた。
「自分のことでなにか言いわけしてるみたいだわ」とも言った。
「ダ・ヴィンチ・コード?」
 ベストセラーになったダン・ブラウンのミステリー小説のことだ。翔は、からかい半分で訊いた。
「どちらかというと、マグダラとヨハネのミステリーのほうね」
 こちらは、リン・ピクネットとクライブ・プリンスの『マグダラとヨハネのミステリー―二つの顔を持ったイエス―』。小説ではなくジャーナリストによる研究書だった。
「最後の晩餐って、イスカリオテのユダの裏切りを予告する新約聖書の場面だよね」
「みんなはこの絵に、隠された謎を解くことにとらわれているけど、ダ・ビンチのやることだから、これって最後の晩餐の名を借りてるだけで、イエスがヨハネとの結婚を打ちあけてる場面じゃないのかなあ。それでほかの使徒たちになじられ、しょうがないじゃんってイエスが弁解している。ダ・ビンチは絵の題そのもので騙してるんだわ。ダ・ビンチはイエスを嫌ってたみたいだし。きっと、イエスをからかってるのよ」
「ヨハネって女なの?」
「研究書によればヨハネはマグダラのマリアかもしれない。それに、どう見たって、これは女でしょ」
「でも、ヨハネは好意を抱いたサロメの逆恨みで首を斬られたんでしょ。それだけイケメンだったろうから、こういう顔になるかも。それにダ・ビンチは男色家でもあったから、若い男の顔は女みたいにきれいに描いてるのがあるし」
「それはバプテスマのヨハネよ。イエスを洗礼した洗礼者のヨハネ。使徒ヨハネとは別人なの。それに、その話はオスカー・ワイルドによるもので、実際はサロメの母ヘロディアのさとしでヨハネの斬首を申し出ただけなの。でも、たしかに、ダ・ビンチは若い男を女みたいな顔で描くわね。黒チョークで描いた使徒ピリポの習作は、はじめて見たとき女の顔だとばかり思ったもの」
「それと……」
 と言って、翔は画集の頁をめくった。そこにダ・ビンチの描いた『洗礼者ヨハネ』が出てきた。
「この洗礼者ヨハネだけど、最後の晩餐のほうのヨハネと似てないかな? 髪型といい、かたむけた首や、からだのふっくらとした感じも。洗礼者ヨハネを伏し目にして、笑みをやめれば……」
「そうね。そう言われれば、似てるかなあ」
 美樹はしばらく洗礼者ヨハネと最後の晩餐のヨハネをくりかえし見くらべた。
「ダ・ビンチ親爺、手を抜いたかしら。それとも翔と同じで、使徒ヨハネと洗礼者ヨハネをいっしよにしてたかもね。だとしたら笑っちゃうね。そんなことはないだろうけど、そうなると、研究書の使徒ヨハネがマグダラのマリアっていう説も怪しくなるわ」
 美樹は、そう言って、アハハと笑うふりをした。
「そろそろバイトに行く時間だ。美樹はどうする?」
 翔は制服の内ポケットからとりだした携帯電話の時間を見て言った。五時をすぎていた。
「わたし、もう少し調べものしてく」
「小説、書いてるんだね」
「まあね。あまり進んでないけど」
「がんばれよ」
 美樹はうしろ手を振って図書室を出ていく翔の背に、「おまえもだよ」と投げかけた。翔には聞こえない小声で。

 翔は啓子の隣で画像のトリミングやファイルの整理をしていた。もうどれだけの画像を見たことだろう。啓子からわたされたUSBメモリーには、おびただしい数のセックス場面が記録されていた。今夜もまた、奥まったスタジオの中で、アダルトビデオや写真の撮影が行なわれている。いまのところ、それは翔にとって無関係なことだった。あたえられた仕事を淡々とこなしていればよい。翔と美樹の《林檎》はいまだ、そのかけらさえあらわれてはいなかった。
 夜中の一時をすぎたころ、休憩しようと啓子がコーヒーをいれてくれた。啓子はうるさくない程度に、なにかと翔の面倒をみた。作業中も翔が尋ねないかぎり口を開かなかった。一面的な印象では人を測れない。啓子は上司としても優れているのかもしれない。が、ただ一つ、翔にとってあまりにも肉感すぎるという難点が、啓子にはあった。それを啓子自身もわかていてか、わざとらしい黒縁の眼鏡で抑えていたのだろう。できれば香水はつけないでほしいと翔は思った。ときおり漂う啓子の香水が翔の若さを刺戟するのは、いかんともしがたいことなのだった。
 仕事場の壁に掛けられた時計の短針が二時を指すころ、磯城と佐竹が顔を見せた。磯城はスタッフの全員から作業の進捗状況を聞いてまわったあと、リビングに来るようにと啓子と翔に伝えた。
 リビングの中央に置かれた応接セットに、佐竹をまじえた四人はそれぞれの席に着いた。磯城にうながされた佐竹は、バッグからとりだしたものを、おもむろに硝子テーブルの上に置いた。それは翔にとって忘れられないもの、いまでは懐かしい、佐竹が見捨てた、あの社長のSwinging本の見本だった。
 髯面の中でうかがうように、佐竹の狡猾な視線が翔に向いていた。






参考資料:リン・ピクネット&クライブ・プリンス著『マグダラとヨハネのミステリー―二つの顔を持ったイエス―』(三交社刊)
写真:らら(PHOTO ST