
宴はシモニアのごとく――
特急電車で二時間ほど、N駅に着いたころには午後二時を少し過ぎていた。駅舎を出ると、硬く冴えた空気が、都会から離れたことを感じさせた。佐竹と翔は駅前のタクシーに乗り、目的のホテルに向かった。
起伏のある田舎道を十五分ばかり走ったタクシーは、二人を小さな温泉街にはこびいれた。タクシーを降りた二人は、建ち並ぶ小さな温泉宿を両脇に見ながら、急勾配の長い石段をのぼった。
目的のホテルは、まるで中世の古い城でもあるかのように、のぼりつめた石段のいただきに聳えていた。まさしく街全体を支配する領主の住まうがごとくに。
その光景に、翔はなんとなく、ダンテの『神曲』をイメージした。地中に下るのではなくのぼるというちがいではあったが、いよいよ地獄王ルキフェルのディーテの城に潜りこむかのような錯角を覚えたのだ。急勾配の石段が地獄に落ちていく断崖の岩のように思えたのかもしれない。上昇する奈落の底、浮上する堕天使。翔は軽い目眩を感じた。
そういえば、旧約聖書の創世記一九章には、神に滅ぼされた退廃と享楽の町SodomとGomorrahがある。Sodomは男色の町だが、Gomorrahはなんの町だったろう。それでは、この温泉街は、この城は……翔は、イギリスの画家ジョン・マーティンの、画面いっぱいに真っ赤に爆発している『ソドムとゴモラの滅亡』の絵を思いだしていた。塩柱になってしまうことを畏れて振りかえることもできず、火焔が燃え盛る業火から逃げさろうとしている、ロトとその家族たち。さらには、美しい火の町を見たいと振りかえってしまったロトの妻……翔の背筋に冷たいものが走った。ロトの妻と美樹が重なったのだ。美樹のしなやかな白いからだが、両足の爪先から徐々に塩柱に固まっていく。自分が塩に変身していくのを知ってか知らずか、恍惚とした眼差しで業火を見つめている美樹。翔は美樹の性格なら起きえることだと思った。そしてまた、変身していく美樹の姿が美しいとも思えたのだった。
「さあ、着いたぞ」
佐竹がそう言ったとき、すでに二人はホテルのロビーに立っていた。フロアやカウンタは大理石であったが、ホテルの内部は外観にくらべてシンプルなつくりだった。ホテルマンやいきかう客の姿は、どこのホテルとも変わる様子がない。翔は肩すかしを喰らったような気がした。 Sodom と Gomorrah はどこへやら。うがった想像に内心で笑った。
「なんか、楽しそうだね、翔くん」
宿泊の手続きをすませた佐竹が言った。
「ええ。楽しいです。こんな体験、なかなかできないですから」
「そんなものかな。俺はもう飽きたよ」
佐竹は疲れていた。毎号、取材から編集、そしてレイアウトまでをこなし、発行後には後悔しなければならない誤植や編集ミスも頻繁に起こしていた。今回、社長がアルバイトを募集したのは、佐竹にとってありがたいことだった。そのためか、翔に対する佐竹の当たりは柔らかく穏やかだ。翔にとっても佐竹はやりやすかった。
ホテルの一室におさまると、佐竹は取材の段取りをつけに翔を残して出ていった。四階の大きな窓に夏の空が青く広がっているのが見えた。遠くには、つらなる山並みが重なり、巨大な入道雲がいくつも浮いていた。
夕方ちかく、ロビーの片隅にある喫茶室で、遅い昼食をとりながら、佐竹は取材の段取りを翔に説明した。取材といっても、進行する状況の写真撮影がメインだった。特別なインタビューなどはない。撮影は佐竹が行ない、翔は雑用をまかされた。会社に帰ったら写真のキャプションも手伝う。そのため、状況をよく見ておかなければならなかった。
「リライトは俺がやるから、翔くんは状況さえ把握してくれればいいんだ。しっかり観察してくれってことさ」
佐竹の指示はなんとも漠然としている。
「どうしたって、たいしたことはない。彼らの顔さえ載せなければ問題は起きないから……」
佐竹の言葉には、なげやりなところがあった。一冊の本を一人でこなす能力は、それだけでも優れた仕事人と言えるが、佐竹はもっとちがう次元の、別の本をつくりたかったのかもしれない。優しい表情にふと浮かべる寂しさは、疲れているだけのものではなかったのだろう。
「がんばってやってみます」
「それじゃ、乾杯だ」佐竹が、グラスビールを手にして言った。
宴は、密やかに、そして豪華に、きらびやかな仮面で顔を隠し、深い葡萄色のマントで裸体を被った男と女たちにより、たっぷりと媚薬を詰めた罎の蓋が開けられた。
午後七時。ホテルでもっとも広い最上階の一室。天井と壁を真っ黒な天鵞絨の布で覆った、矩形の空間だった。それは、あのダ・ビンチの死のきわに行なわれた、葬儀の飾りつけにも似ていた。そこでは、あらゆる物が黒く塗りつぶされたのだった。
床一面に敷かれた毛足の長い絨毯を、壁に沿って置かれた上質のソファーがとりかこんでいる。絨毯もソファーも黒い。ところどころ置かれた燭台の炎が、仮面を飾りつけた金や銀色の細工をキラキラときらめかせている。灯りは柔らかな淡い空気のように漂い、まるで淫靡な媚薬の匂いをふりまいてでもいるかのようだ。
夫婦交換を英語で正式には Swinging という。それなので、ここでは彼らをスウィンガーと呼ぶことにする。彼らスウィンガーたちは、男も女も気ままな姿勢でソファーにくつろぎ、それぞれのテーブルに用意された食事やワインを楽しんでいる。ワインは、バローラ、バルバレスコ、ヴィーノ・ノビレ・ディ・モンテプルチャーノなど、どれも特別にとりよせたイタリアの高級なD・O・C・Gワインだ。食事は、これもまた豪勢なイタリア料理だ。パーティの参加費はかなりの額になるのだろう。翔は、遅い昼食に食べたミートソースのスパゲッティを思いだして苦笑した。彼らはだれもが裕福な人間たちといえた。それとも、この日のために日々コツコツとつましく生きて、貯金でもしているのだろうか。年に一度のカーニバルを楽しみに、必死で働くリオの人々のように。彼らはどのような仕事で稼いでいるのか、どのような職業なのか。会場の隅で佐竹の指示を待ちながら翔は思った。
佐竹は、もう撮影にかかっていた。カメラを向けられた女たちは、きどったり、おどけたり、なかにはマントをはだけてみせたりした。仮面を着け、マントを被った女たちの年齢はわからない。男たちにしても同じだ。男たちは高級な酒を呑みなれているのか、ゆったりとワインを楽しんでいる。ただ、だれもが無口で、話す声は小さい。
異様だったのは、長さが三メートルほどのソファーの中央に一人で腰深く座っている女の姿だった。羽織ったマントのあいだから、組んだ肉感的な脚がすんなりと伸びている。女のマントだけが純白だった。
ギリシア神話に怪物ミノタウロスの話がある。南地中海にあるクレタ島の王ミノスの妻バシフエは、ミノス王が海神ポセイドンにたまわった牡牛を慕った。バシフエは、イカロスの父である名工ダイダロスに木製の牝牛をつくらせると、その中にはいって事を成就した。バシフエがそれから産み落としたのが牛の頭をもったミノタウロスだった。
この神話には、まだつづきがある。ミノタウロスの誕生に怒ったミノス王は、設計者ダイダロス自身も息子イカロスとともに閉じこめられた迷宮にミノタウロスを幽閉した。そして年々、アテナイの七人の若い男女を食としてあてがえた。その無法にアテナイ側が怒らないわけがない。アテナイ王アイゲウスの子テセウスが、クレタ島に乗りこむことになる。テセウスはそこでまず、ミノス王とバシフエの娘であるアリアドネから迷路に迷わないための絲を手にいれる。いわゆる、アリアドネの絲だ。その絲をからだに結びつけて迷宮に這いいったテセウスは、ミノタウロスを殺した。これは、ダンテ『神曲』第十二曲に出てくる、地獄巡りの一場面でもある。
……異様なのは女の頭部だった。女は、まるでミノタウロスでもあるかのように、牛頭のマスクを頭からすっぽりとかぶっていたのだ。
「どうだい。おもしろいか」
佐竹が、カメラのシャッターを切りながら、小声で言った。
「さあ……、なにか手伝うことはないですか?」
「パーティは夜中までつづくんだ。気をつかわなくてもいいよ」
佐竹はカメラを絨毯の上に置くと、近くのテーブルからオードブルの大皿を一枚とって翔にわたした。二人はいっしょに座りこみ、皿のオードブルをつまんだ。それからさらに、佐竹はワインを一本、グラスを二つもってくると、
「せめて、このくらいは楽しませてもらうよ……」
と、独り言のように言った。
「うちの出している本は会員制なんだ。このパーティの主催者が会員登録をしている。もちろん登録時に職業を明かす必要はない。しかし、この会もこれで六回になるからね。打ちあわせなどがあるから親しくもなる。これまでに不始末もないので信用されたのかなあ……こりゃ、うまい」
そう言って、佐竹はワイングラスをしみじみと見つめた。
「あるとき、彼は正体を明かしてくれたんだよ。なんだと思う?」
佐竹は、ことさら囁くように言った。
「金持ちなのはたしかですよね。会社の経営者とか?……」
翔は見当もつかずに曖昧な表情で答えた。
「教師だよ。主催者は中学校の校長で、ここに参加している二十組のカップルのどちらかが小学校か中学校の教師だ。皆、何らかの形で財産を手にした金持ちばかりだ」
「どうしてパーティを取材させたりするんですか。勝手にやってればいいのに」
役人や聖職者の破廉恥事件が頻繁に起きていた。翔は教師たちによるパーティに、それほど意外な感じがしなかった。それよりも、なぜもっと秘密裏にしないのだろうと疑問に思ったのだ。
「かんたんさ。いつも同じメンバーでは刺戟がなくなる。取材記事で同好者を募ってるのさ。この取材はタイアップ広告だからね。高額な広告費を前金でいただいてるんだよ。うちの社長はしっかりしてるぜ。もっとも、主催者たちの職業はわかっても、住所や学校名などは一切わかっていない。連絡は彼のほうからで、こちらからは不可能になっている……それにしても、シモニアだ」
またもやダンテだ。佐竹から出た言葉に、翔は少し抵抗を感じた。 Swinging は性の同好者たちであるにすぎないはずだ。それだけでは〈シモニア〉の意味する聖職者の罪とは言えない。たとえ教師であっても、性の形は自由だ、と翔は思った。
「さて、そろそろかな」
佐竹はワインを一気に呑み干すとカメラをもって立ちあがった。
ミノタウロスの女が、ワイングラスを高々とかかげて、ソファーの前に立っていた。純白のマントは足下の絨毯に落ち、美しい裸体を堂々と晒している。意識してか、そのポーズはビアズレーの挿絵を思いださせる演劇的な仕草だった。あるいは舞踏のひねった爪先か。女は演劇関係かダンサーなのではないかと、翔は漠然と思った。
バロック調の音楽が静かに流れた。スウィガーたちが背からマントを落とした。パーティが、はじまった。

写真:HIROSHI AOKI(PHOTO ST)
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