マニエリストQのストゥディオーロ其の十五
汚洞の果実
第1幕−2 マニエリストQ 感想などいただければ幸いです。



 蛇は大学図書館で影を潜める――

 日曜日の昼下がり、翔は目をさましたばかりの二階のベットの中で、痺れた小指の先を揉みほぐしていた。遠くに弱々しい小太鼓や笛の音が聞こえた。翔の小指の痺れは、いつも寒い季節に、左手だけに起きた。翔は、そのたびに〈月足らずの子〉という言葉を思いだし、九ヵ月っ子に肉体的な遜色がないにもかかわらず、それを気にした。月足らずに障害はない。「足りていない」という言われかたがいやだったのだ。
 間もなくすると、二十人ほどの子供たちと、八、九人の若い親たちが曳く小さな山車が家の前を通りかかった。山車のまわりには、五、六人の町の老人たちがつきそっていた。かつては地区全体で賑やかに行なわれていた秋祭りだが、いまでは貧弱な山車に積もった埃を払えばすんでしまう、町内会の小さな一行事に成り下がっていた。老人たちは、幼かったころの自分たちの祭りとくらべるたびに、神輿の担ぎ手もいなくなったいじけた祭りを、懐かしさよりも、口惜しい思いで見つめているのだった。
 翔は、窓から見下ろした山車の列に、おや、と思った。山車を曳く親の中に磯城がいたからだ。子供たちの中に親戚の子でもいるのだろうか。翔は磯城らしくない場面を目にして妙な気持だった。ボランティア活動などまるで無縁のはずの男が、子供にまじり、おっとりと山車を曳いている日曜日の午後……それだけで立派な犯罪ではないか。翔は苦笑した。
 翔より六歳年上の磯城は、近所の悪餓鬼を束ねてはなにかと悪戯をたくらむ、手におえない餓鬼大将として町内中でうとまれていた時期があった。幼い翔は悪戯にくわわるでもなく、ただついてまわるだけのことだったが、一人っ子の翔にしてみれば磯城は優しい兄のように思えていた。事実、磯城はなにかと翔を可愛がった。しかし、それも磯城が中学校を卒業するまでのことだった。高校に入学してからは、ばったりとその鳴りを潜めてしまった。それからというもの、翔にとっての磯城は、いつか幼いころに遊んでくれた近所に住むお兄さん、といった憶えにすぎなくなっていた。
 その磯城と翔が偶然に出くわしたのは、先週の木曜日の遅い午後、窓硝子に茜色の夕陽が映りはじめた大学図書館でのことだった。翔が通う高校の近くに私立の美術大学があり、その大学構内の図書館が一般にも開放されていた。翔は授業の終えたあとや、退屈になると学校をぬけだしたりして、その日も寄り道をしていた。とくに読みたい本はなかったが、翔は本のある風景が好きだった。豪華な美術本の表紙や背表紙を見ているだけで幸せな気分になれた。たいていのことに白けているはずなのに。
「でかくなったな……翔」声をかけたのは磯城のほうだった。
 適当にみつくろった数冊の本を手に閲覧席に着こうとしたとき、隣の席から低く重い声がかかった。翔は自分の名前をなれなれしく呼びつける男を、すぐに思いだせなかった。男の口元は小さく弛んでいたが、鈍く沈んだその眼光に、人の奥にまでずかずかと踏みこんでくる無遠慮さを感じた。
「磯城さん、ですか?」
 翔は、磯城の子供のころの面影を、やっと見つけることができた。
 それほど磯城の容貌が変わっていたのだ。長身でしなやかだった子供のころにくらべ、驚くほど骨格のがっちりした体形になっているのが、黒いジャケットの上からでもわかった。鋭くてきつかったはずの磯城の顔だち。その危険さを大人の方法で隠している……と、翔は久しぶりの磯城に感じた。
「おまえもずいぶんいい男になったじゃないか」
 翔の戸惑いをみぬいてか、磯城は静かな声で翔をからかった。
「磯城さんこそ」
「茶でも飲むか」
 磯城の強引さは昔のままだ。すでに席を立っている。
 昔話を懐かしむつもりではないな、磯城は自分になにか目的がある……翔は磯城のぶっきらぼうなテンポの早さにそう直感した。それに、磯城の誘いを拒む理由がなかった。
「本をもどしてきます」
「ああ。先に出てるよ」
 図書館の玄関前に翔を待つ磯城の後ろ姿があった。どこかに電話をかけていたのだろうか、磯城は携帯電話を上着の内ポケットにしまいながら振りかえって言った。
「酒はやれるか」
「すこしなら。でも近場ではちょっと……」
「まずいよな」
 薄いとばりが落ちた広々とした構内を通りぬけると、磯城は大学前に停まっていたタクシーに乗りこんだ。翔はいまさら怖気づいたのか、面倒だなと少々ためらいを覚えた。しかし、ここで断るのもおかしなものだ。それに、どこか謎めいた危険な匂いをぷんぷんと漂わせている磯城に、少なからず興味があった。磯城は相変わらず不良なのだろうか、ひょっとしたら暴力団の人間になっているかもしれない……。
 磯城はタクシーの中で翔に話しかけることはなかった。そんな磯城の態度に翔は微妙な不自然さを感じた。磯城は自分の近況を知っているのではと思えたのだ。
 夕方の街を十分ほど走ると、やがて鄙びたビルがひっそりと立ち並ぶ道並みに出た。そこで二人はタクシーを降り、ビルの合間の狭い路地を少し歩いた。翔が導かれたのは地下の小さなバーだった。
 店の中は、おちついたブラウン色に染まっていた。適度な照明が柔らかい。幅広な止まり木が一列だけの小さなバーだった。止まり木の向こう側には黒い蝶ネクタイの年配のバーテンダーが二人いて、その背後の棚には様々なウイスキーやブランデーのボトルが幾重にも並んでいた。
 翔は自分の学生服姿に気がひけたが、磯城はなじみでもあるのか、気にかける様子もない。それでも翔は上着を脱いで椅子の背に掛けた。磯城は、自分にはバーボンのI・W・ハーパーのストレートをダブルで、翔には飲みやすいだろうとボルス・ジュネバのジンライムを頼んで煙草に火を点けた。
「再会に乾杯だ」磯城はグラスを手にして言った。
 翔には酒の値段がわからなかったが、磯城の羽振りのよさだけはわかった。磯城はなにをしているのだろう。どう見てもサラリーマンには見えない。
「しがないフリーライターだよ。もっぱら風俗のな」
 腹の中を読まれているようだと翔は思った。
「雑誌とかのルポですか」
「近ごろではネットのほうが多い」
 磯城の羽振りのよさはライターの仕事によるものだけではない、と翔は漠然と思った。素早く、あるものが翔の脳裡をよぎった。狡猾で洞窟のように深い黒い眼。場末の映画館で美樹と話した、あの《蛇》だった。
「おまえ、金がほしくないか」
 口の中でライムの強い香りが広がった。液体は劇的な甘美さで喉の奥に流れこむ。翔は内心でほくそ笑んだ。
「いいバイトでもあるんですか」
「その気があるなら、都合のいい時に電話をくれ」
 翔は小さくうなずくと、カウンターの上に置かれた磯城の名刺をワイシャツの胸ポケットにしまった。その後はたわいのない雑談ですぎ、一時間ほどでバーを出た。通りでひろったタクシーは、翔を家の前で降ろし、ふたたび夜の街へと走り去っていった――。

 山車はやがて翔の視界から消えた。
 寝起きの翔にとって、小さな祭りの光景は夢の中に涌いたつかみどころのない泡のようだった。山車に不似合いの磯城の姿だけがいつまでもリアル残った。
 磯城の金の話とはどのようなことだろう。働くのはいやではない。少ない小遣を親にもらうよりはましだ。それに、金は美樹とのデートに遣えるだけあればいいのだ。その額は高が知れているから、必要な時に必要なだけアルバイトで稼げばよい。翔が求めたのは、金ではない。より多額の金が稼げるところに、より大きな〈退屈しのぎ〉があると思えたのだ。高校生活の残り一年間を、進学のためにだけですごす気になれなかった。磯城の話はどこまでのことか、いまは見当がつかないが、磯城の放つ匂いは翔を確実に刺激した。それは、生臭い《蛇》の匂いだった。
 磯城に電話を入れるのは夜にして、美樹に待ちあわせのメールを送った。すぐに返事がかえってきた。
 ――りょーかい。で、蛇は?
 それはなかば冗談での蛇という言葉だった。蛇は、美樹にとって、翔の戯れの一つにすぎなかった。
 ――話はあとでね
 もったいつけてみたが、翔自身、磯城にくわしいことを聞かないかぎり、漠然としていた。それはまだ、淡い予感としての思い、薄い期待感としてあっただけだった……。

 普段着姿で文庫本を読む美樹がいた。午後二時のファーストフード。テーブルには、カプチーノ、ツナと野菜の食べかけのカンパーニュサンド、それと携帯電話が於いてある。
「なにを読んでるの」
 翔はテーブルにエスプレッソコーヒーを置くと、美樹の隣に座りながら訊いた。
「倉橋由美子のパルタイ」
「ずいぶん古そうな本だね。紙が焼けてる」
「本棚の隅っこにあったの。お父さんの本よ」
「倉橋由美子は、死刑執行人と隊商宿が好きだな。冷たくて薄情で皮肉屋なのがいいんだよ」
 コーヒーを一口啜った翔は、それから、「全集の復刻版が出るらしい」と、つけくわえた。
「くわしいのね。倉橋由美子が好きなんだ」
「はじめて読んだのがスミヤキストQの冒険だった。母子でやっていた近所の小さな古本屋で見つけたんだけど、そのお母さんが死んじゃってね、もうおばあさんだったけど、息子さんがお葬式もあげずに失踪しちゃったんだよ。なぜだろうと不思議だったけど、とりのこされて怖くなったのかもしれない……」
「いわくつきだね」美樹は、本を閉じながら、楽しそうに言った。
「ところで、待たせた?」翔は小さく笑んで言った。
「それほどでも。それより、あれは?」
「面白くなるかも」
 翔は、磯城とのことを、かいつまんで説明した。
「その磯城っていう人が、私たちの蛇ってことなのね」
「磯城さんは、俺たちのこと、よく知ってるんじゃないかな」
「どうしてそう思うの」
「ひさしぶりに会ったのに、俺のことをなにも訊かないんだ。ということは多分、美樹のことも知ってるんだと思う」
「ちょっと気味が悪いね」
「仕事はくわしい話を聞いてみないとなんとも言えないけど、俺、意外とワクワクしてるんだ。多少ヤバくても、やるつもりだ」
「そう……翔がその気なら……」
 美樹は、小さな口でかじりとったカンパーニュサンドを、すっかり冷めてしまったカプチーノで、喉を鳴らして呑みこんだ。
「へえ、心配してくれてるんだ、美樹」
「そんなこともないけど。翔がワクワクするなんて、めずらしいから。でも、磯城って人、かなり危なそう……」
 美樹が漠然とした心配をするのは、これから先に起きるだろうことが、どのようなことであるか見えないからなのか。さらには、その見えないことに、自分もひきこまれてしまうという不安からなのか。いや、それはどちらも違うと美樹は思った。美樹が感じていたのは、心配や不安などではなかった。翔と同様に、自分もワクワクしていたのだ。
 その夜、家にもどった翔は磯城の名刺に記された携帯電話の番号を押した。
「これからこっちに来れるか」
「どこですか?」
「俺のオフィスだ。地図はメールで送る。確認したら電話をくれ」
 いったん電話を切ると、メールはすぐに届いた。自転車で飛ばせば十分程度で行けそうだ。翔は磯城に電話を入れて外に出た。
 翔はパーカーで出て正解だったと、自転車を走らせながら思った。冷たい風が頬を鋭く切っていた。パーカーは美樹にもらった誕生日プレゼントだった。ニューヨーカーのコントラストパーカだ。バイトで稼いだ金で買ったというが、美樹がどのようなバイトで稼いだのか翔は知らない。自転車はコルナゴのロードバイク。これは翔がやはりバイトの貯金で自分で買ったものだ。いずれも親の金ではない。しかし、どれもねだることができたし、どちらの親もそれを拒みはしなかったろう。二人がそうしないのは、複雑な理由があるからではない。二人ともに、親から一定の距離を置いておきたい、といだけのことだ。二人の遊びは二人だけのものであり、たとえて言うなら、子供の喧嘩に親がはまる、そのようなはめになることが、翔も美樹もいやだったのだ。よけいな付着物は極力ぬぐいさっておく。それが二人の性格だし、遊び方だった。そのためか、二人には、友人というものがなかった。傍からすれば、つきあいの悪い、つまらない二人と言えたのだ。
 コルナゴは夜の国道を快適に疾走した。銀輪の音が心地よい。目的に向かってひたすら走るシンプルな行為。翔の意識から、ペダルをこぐ原始的な動作すら消えていた。自転車に乗っていることさえ忘れて、夜空の中を滑空していた。ワクワクと……。






写真:らら(PHOTO ST