
唆す林檎――
廃屋のモルタルの壁にひからびた守宮が張りついたままだった。痛めつけられたアスファルトの道はさんざんに波打ち、てんでの方向に傾く電柱が無秩序につらねていた。朽ちた板塀には薄汚れた雑草がまとわりつき、低い町並みを覆う重い雲が浮遊する守宮の障気を地上にとじこめていた。午後の薄い陽は、灰色に、鬱々と、辺りを陰気に染め、町は不確かな輪郭に深く埋もれていた。
K駅の改札口を出てすぐそこに、何軒もの店がひっそりとシャッターを降ろした、いわゆるシャッター商店街があった。トンネルでも潜るように暗いアーケードを抜け、五分ほど茶褐色にくすんだ低い家並の道を歩くと、まもなく、不必要に広いと思われる駐車場を備えた木造の古い映画館に着く。
映画『491』は、もう二ヶ月もかかったままでいた。おざなりの看板に「リバイバル月間」と書きこまれた朱色の筆文字が、いかにも場末の映画館らしく鄙びて見える。チケットの半券をうけとって一歩踏みこめば、そこはまさしく土間であり、うっかりすると、薄明りの歪んだ足下に平衡感覚をうばわれてしまう。それでも、館内の片隅には小さな売店があり、洞窟にひそむ蝙蝠のように小さな顔で、幾重にも皺を重ねた老婆が細々とした駄菓子などを売っているのだった。
「気持ちいい?」
美樹はその小さな頭を翔の下腹部からもたげると、翔の上向いた横顔の左顎を見るような具合で言った。
「まあね……」
「でも、元気ないよ、こいつ」
美樹が小馬鹿にしたようにクスクスと笑った。
二人は二階の最後部の席にいた。その席は張りだした映写室の真下にあった。たとえ映写技士が映写室の覗き窓から客席を見わたしても、死角になった二人の様子は見られることがなかった。また、背後にある扉が急に開いても、すぐに気づくことができた。どういうルートでなのか、翔は映画館の招待券を手に入れては時々ここで時間を潰していたから、そのことをよく知っていたのだ。
客は翔と美樹の二人だけだった。翔は決して人前ではしない横柄さで、前座席の背もたれの上に両足を投げだし、美樹が売店で買った酢漬けのスルメを口にくわえていた。スクリーンからはずした翔の虚ろな瞳は映画館の広い天井に向けられ、すでに二回目の上映になった『491』は、ただ一人の観賞者もなく映りつづけていた。
翔は、美樹の小さな頭をふたたび自分の下腹部に引き寄せると、独りごとのように言った。
「ここでポルノがかかった時に、暇つぶしをしたことがあったんだ。そのとき、前列のちょっと離れた座席に、あれは三十代くらいだろうか、なんだかもそもそやってる男がいたんだ。そいつ、ポルノを見ながら毛布の中でやってたんだよ。今時、馬鹿らしいったらない。ネットのアダルトサイトがあるじゃない。わざわざ映画館に毛布までもちこんでさ。俺、なんだか妙な気持ちになってきて、いつのまにか涙こぼしてた……」
美樹がなにか口ごもったが、言葉になっていなかった。
「そのときの気持ちは自分でもよくわからないんだ。暗くて顔も見えないその男について、きっと俺はいろいろ考えてしまったんだろうな。ポルノは退屈だったから。パソコンも使えないどんな事情があるんだろうかとか、この人はいつの時代の人間なんだろうとか。それってまるで、いま的じゃないでしょ……痛い。もっと優しくしてくれない?」
「だって翔、終わらないし。わたし飽きちゃった」
「俺も飽きた……もういいや」
翔は怒るふうでもなく、ズボンを整えて座りなおしていた。
二人は、K駅からふた駅先にある共学の私立高校を、午前中早々にぬけだしていた。いつもならもてあました時間をだらだらとカラオケやファーストフードでつぶすのだが、今日は翔が手に入れた映画館の招待券を利用していた。一時限目の出席をとり終えた授業中に携帯電話のメールでやりとりし、さすがに昼間に制服姿の二人連れは目立つからと、映画館のチケット売場の陰で隠れるように待ちあわせた。めったにはないが補導の人間がうろついていることがある。こんなことでつまらない目にあいたくはない。二人はいきがることもなく、清潔な制服姿の優等生そのものだった。そして、来年の四月には三学年になる。その三学年の一年間をいかに過ごすか。それが二人の課題なのだった。ともに進学への戸惑いはなかったし、それだけの頭脳は十分以上にあった。二人は学校と家庭において、申し分のない〈良い子〉であった。
にもかかわらず――、二人には、痛みや快感を共時に同感する相似の子を寄せあわせた表裏一体の子のように、共通した退屈感を抱いていた。翔も美樹も互いに、同じ輝きと濁りを併せもつ相手の眼が好きだった。それは思いの裡で近親の兄妹にも成り得るということだ。事実、たびたび二人は性交のテイストとしてそれを用いていた。美樹は翔をそのとき「お兄ちゃん」と呼んでいる。
映画が中盤にさしかかるころ、二人は行儀よく座席に座りなおしてスクリーンを見つめていた。ただし、二人ともストーリーを追ってはいなかった。リバイバル映画『491』は、二人の脳を漫然と通りすぎていた。
「さっきの話のつづきだけど、美樹もお金がほしいでしょ? やっぱり」
そう言って、翔は酢漬けで汚れた華奢な指先を舌で嘗めた。
「まあね。お金があればこんな退屈な映画みてないし……いまさら491って笑えるわよね。イエスの言葉で七の七〇倍許しなさいって、つまり491番目の罪は許さないってことかな? で、それがワンちゃんとするってこと? 三〇年も昔の映画じゃしかたないけれど」
すでに捨ててしまったパンフレットの解説を思いだしながら小さな唇をとがらせる美樹の視線の中に、端正な翔の横顔があった。瞳がスクリーンの明りを映してチラチラと青白く輝いている。
美樹はつづけた。
「それで? お金がどうしたの?」
「テレビでやってる国だか自治体の広報があるんだ。原子力発電のなんだけどね。廃棄物を地下に埋める候補地を探してるやつ」
「わたしも知ってる。希望する町は名乗り出ろってやつでしょ。それがさっきの男の話とどんな関係があるの?」
「直接には関係がない。時代錯誤してるような男に触発されただけなのかも……」
曖昧な思いを頭のなかで整理しているのか、翔は黙ったままスクリーンを見つめていたが、その表情は確信するなにかを隠しもっているようでもあった。
「未来ってなんだろう。廃棄物は捨てきれないよね。結局、埋めてごまかすだけじゃない。地下深くといっても地球規模で測れば、ほとんど地表ともいえる。それが永い時代にわたってつづくわけだから、いつか地球はその廃棄物にキャタピラみたいに包まれてしまうことになる。人類は一応、永遠をめざしているんだから、いつかそうなる。そうなれば、地球がおかしくならないわけがない。地球のすべてが廃棄物に包まれるよりも早く、なんらかの兆候があらわれてしまうかもしれない……」
さらに、
「ということは、地球に未来があるとして、その未来に生きる人間は確実にその弊害を被ることになるでしょ。石油製品の弊害がそれを示していると思う。それにくらべると、原子力ははるかに高度なはずだから、人の手に負えなくなるんじゃないかな。原子炉の事故はほとんど人心事故だしね。人間に扱いきれるものなんかじゃない。それは未来に対して無責任ともいえる。ごまかすことができれば、未来の人間がどうなろうと知ったことではない、どうせそのころに自分は生きていないのだからって考えになる。もっと言うなら、未来があるなんて本当は信じてない。だれもが地球の破滅を暗黙のうちに了解しているんだ。そうでないと言われても、俺はそう解釈するよ」
「形あるものはこわれる、だものね」
翔はいささか古風な美樹の言いまわしに小さく笑んだ。
「絶対なんてありえない。まして管理をしているのは不完全な人心と人事のエゴなんだから」
「天下りでしょ」
と、美樹は残り少ない酢漬けを取りだそうと、袋の中で指をまさぐりながら答えた。
「一方ではインターネットにも無縁らしい人間が、そんなことには無関係に存在している。この落差はなんだろう……」
映画は終盤にかかっていた。
「491番目の罪は人間の存在自体のことじゃないかな。獣姦そのものを忌わしい491番目の罪だというのではなく、それをする人間そのものがいまだに生きつづけていることがさ。神の側から見たならば」
「それって、性悪説じゃないの?」
美樹は酢漬けの尻尾を小さな唇の端にのぞかせて言った。
「それは人間側からの評価だよ。だってアダムとイブは原罪を犯した張本人なんだからね。人間は悪そのものとして造られたんだ。性善説も性悪説もそこにはない。あるのは、悪の象徴としての人間という形なんじゃないかな」
「人間は神様に捨てられた廃棄物で、地球はエデンの東そのもの。で、そこはその廃棄物でキャタピラのように被われていく。悪という廃棄物……人間……この映画、笑えないわね」
美樹は、口の中でもてあそんでいた酢漬けを、喉を小さく鳴らして飲みこみ、クスクスと笑った。
「大江健三郎の小説の中に癌患者を励ます場面があって、〈一瞬よりはいくらか長く続く間〉と言っているのだけど、人間の生きる時間について、自分が生きてはいない過去と未来の永遠の時間がある、ならば〈一瞬よりはいくらか長く続く間〉を精一杯生きようよという意味らしいのだけど、人間の命など宇宙的に考えれば一瞬ですらない。無いも同然だ。でも、あたりまえなことなんだけど、いま俺たちはここにいる。一瞬とも言えない時間を退屈につぶしているわけだ」
「それならわたしも読んだわ……で?」
「正直に言うとね、俺はこの退屈がそれほど嫌いじゃない。目的を考えたり、もつことに興味がないから、それで退屈になるのなら、俺はそれでもいいと思ってる。どうせ一瞬でしかないのだから。けれど、やりたいことはあるんだ。〈退屈しのぎ〉というのを。それは〈一瞬よりはいくらか長く続く間〉を精一杯生きることと同じにならないかな? これは目的なんかじゃない」
「翔お得意の屁理屈だわ」
「そうだね。たしかにこじつけだ。〈精一杯生きる〉ことと〈退屈しのぎ〉では正反対だものな。けれどなぜか俺はその退屈を精一杯しのぐことにすごく魅力を感じるんだ。美樹だって退屈でしょ?」
「林檎をかじるのね」
「そう。俺たちの林檎をね」
館内が明るくなった。客はやはり翔と美樹の二人だけだった。
外は晩秋の薄闇に染まり鋪道はしとどに濡れていた。
寒気を感じたのか美樹は鞄を抱きしめた胸をすぼめ、頭ひとつ上にある翔の横顔を、それで? といったふうに見上げた。そこには澄ました翔の横顔があったが、翔の唇から言葉はなにも出なかった。
大股で歩く翔は、水溜まりを避けたり、時にはわざと泥水を跳ねたりした。その後を追うように歩いていた美樹が、大声で翔の背中に言葉を投げた。
「それで? 林檎は? わたしたちの林檎はどこにあるの?」
「林檎はね、やっぱり、蛇に訊くしかないでしょ……」
ふと水溜まりの中に立ち止まった翔が、背を向けたままで言った。太くて低い声だった。
翔の口から不意に飛び出た蛇という言葉に、おぞましい瘴気めいたものを感じたのか、美樹は寒さとは別の身震いをすると、小走りに駆け寄って翔の腕にすがりついた。美樹の視線の先に、流れる雲に消えかけた月と重なる翔の端正な横顔があった。それはいままでに美樹が見たことのなかった翔の顔だった。大人びた見知らぬ人のように思えた。美樹は不可解な戸惑いにとらわれたのだった。
だらだらとつづくアスファルトの坂道は、二百メートル近くあるだろうか。坂の上から冬の近づいた冷えびえとした風が、薄暗い道を舐めるようにして落ちてくる。風は路面に散った枯葉をすくっては、あとにしたばかりの坂下へと逃げていく。ときおり、踏みしだく見すぼらしい枯枝が音もなく砕けた。
坂は雑木林を庭に抱えた民家でつきあたり、そこを左に折れて二十メートルほどの高台へと登る石段になる。その高台に出て数分したところに、翔の家はあった。
翔は、夏の早朝に、その石段を下りる半ばで一筋の蛇と出あっていた。石段から、切り崩しがはじまったばかりの造成地が見下ろせ、伐採で半分になった雑木林に工事時間を待つ数台の黄色いブルドーザーが見えた。蛇はその石段に沿った金網を抜けて出てきたのだろう。ほんのわずかな灰色をおびた一メートルほどの華奢な白蛇だった。翔は一瞬たじろいだものの、危うく踏みつけそうになった蛇を素早くかわし、石段の三段ばかり下に跳び降りていた。白蛇は不定形にくねらせた肢体を硬直したまま少しも動かなかった。もたげた小さな頭には、凝縮した暗闇のように、純黒の眼があった。金網の先に向けた視線は、なにを見ていたのだろう。数分後、白蛇は吸いこまれるように金網を抜け、雑草に蔽われた荒れ地の中へと消えていった。
翔は、夏の日の白蛇に、石段でふたたび出くわすのではないかと、無気味な思いで夜の坂道を歩いた。爬虫類は苦手だ、坂道に落ちている長いゴミが、どれも蛇に見えた。
「林檎はね、やっぱり、蛇に訊くしかないでしょ」
犯罪のきっかけは、イブが蛇に唆されたことにあった。蛇は罪そのもので、初めに罪を犯したのはアダムとイブだ。映画館での美樹とのやりとりは、アダムとイブの原罪にかけたものだった。
蛇とは、林檎とは、楽園とは、神とは、そして神にとっての罪とは……まるでPCゲームのストーリーみたいだと、翔は思った。アダムの肋骨からできたイブ。女は男のクローンなのか。そのクローンとアダムによってつぎのクローンが生まれる。人間はみな、縦系列のクローンというわけだ。同時多発でいいではないかと翔は思う。みながいっしょに生まれたなら、みなが対等で平等にいられるのにと……くだらない。自分にとっての林檎も蛇も、そのようなものではない。〈退屈しのぎ〉の一つか、あるいは手段にすぎないのだ。高校生活の最後の一年を、美樹とどうやってやりすごすかという、それこそゲームだ。リセットもリタイアも可能なのだから。
翔は、いつになく昂っている自分を感じた。石段の半ば辺りで振りかえると、まばらな街の灯りが眼下にまたたき、遠くに連なる山並みが暗闇の空に呑まれていた。背後でカサカサと枯葉の音がした。気配を殺したあの白蛇が石段を横切ったのだろうか。翔は吹きあげる冷たい風とともに、一気に石段を駆け登った。

引用:大江健三郎著『燃えあがる緑の木 第一部』(新潮社刊) 写真:Junmai(PHOTO ST)
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