マニエリストQのストゥディオーロ其の五●其の五断頚の嶺第一章 殺人事件マニエリストQ1999.12.4(2002.12.8推敲)


 サチューセッツのナサニエル・ホーソン作の小説『緋文字』は、その実質の物語が、一六四二年の初夏、主人公の女性ヘスター・プリンが不倫の罪で晒し台の刑に処される場面からスタートする。この小説は岩波文庫で手に入るので詳しいことは述べぬが、当時の人権に対する意識が顕著で、刑罰が見世物であることを容易に理解出来る。《晒し台》そのものが見せしめ以外の何物でもない。勿論、この物語の持つテーマはもっと別のところにあるのだろうが、いかに民衆というものが、権力、つまりは公を鵜呑みにし、盲信しているかが窺い知れる。今日、人の噂話も活字になれば信ずるに足るものになる、ということは、その裏に権力であるマスコミに対する盲信が存在しているからだ。同様の点に於いて、テレビもしかりである。昨今のテレビ番組の多くは、まさしく魔女裁判の体を成しているではないか。
 以前、掌凸は寂しい思いをしたことがある。酔った若い女性が掲示板の選挙ポスターを破いてしまったのだが、それを実名入りで報道した大新聞の記事があったことだ。若い女性の行為は褒められたものではないが、戦時中は軍部の言いなりになって虚偽報道を行なったマスコミが、記事で大層に説教をかますような、そんな記者と、それを許可する最終責任者の編集局長の神経が、侘しかったのである。相手はもっと他のところにいるだろうと言いたい。インテリ新聞が聞いて呆れるのだ。
 宴は佳境に入っていた。十人衆は彩りも艶やかに会話も若い娘らしくなっていた。しかし、そろそろ腰を上げる時分だと、掌凸は感じた。相手が学生である以上、多少の遠慮がある。そうそう呑んだくれるわけにはいかない。千代見は、麗子が掌凸にもたれて居眠りを始めてから間もなく、席に戻った。そして、掌凸の気持ちを察したか、そろそろお開きにと、千代見が簡潔な挨拶で今夜の宴を終了させた時、戸外はしっかりとした夜の帳を下ろしていた。
 トイレを済ませて居酒屋の玄関前に出ると、掌凸は目を見張った。十人衆が整然と居並んでいたのだ。皆が皆、酔いのせいか桃色に頬を染めて、妙に艶かしい。通りすがりの酔客たちが感嘆の声を発して見入っている始末だった。勿論、その中で千代見が抜きん出て目立ったのは言うまでもない。悪い気がしない。しまりなく鼻の下が伸びた。そこへ麗子がひょいと眼前に立つと、手にした大きな花束を突き出して言った。
「掌凸先生。今日は有意義な講義ありがとうございました。私たち、先生の大切な教えをしっかり頭に入れて、男性社会に立ち向かっていきます。ガンバリマ〜ス」
 掌凸は花束の強い香にむせた。相変わらず真っ赤な頬して、麗子がにやにや気をつけをしている。小娘が馬鹿にしおって。つい昨日までオムツをつけていたのだろうが。小便臭いガキンチョめ。と、腹の中で思ったが、それにしても、掌凸に花束は似合わない。
 十人衆の拍手を背に、待機していたハイヤーの後部座席に乗り込んだ掌凸は、おやっと思った。運転手に軽く会釈して千代見も助手席に乗り込んできたからだ。送り届けるつもりなのだろうか。酒に滅法強い掌凸はそれほど酔った体ではない。行き先だけを運転手に告げれば千代見の義務は果たされることだ。何かあるなと掌凸は座席に埋って思った。が、千代見には何も問わないでおいた。
 華やかな娘達の姿が後方に消えて、黒塗りの車は間もなく夜の街を抜け、滑るような静かな走行で夜道を突き進んで行く。十分ほど走って、千代見が口を開いた。
「麗子、先生に失礼しませんでしたか」
 前方を向いたまま話す千代見のその表情は読めない。
「何かな?」
 掌凸はとぼけた。
「酔うといつもああなんです、麗子ったら」
「余輩は楽しませてもらいましたよ」
 千代見の鎌掛けの意味は察せた。千代見は魔女よと言った麗子の言葉である。どうやら、千代見は麗子の言動に些か気を張っているようだった。麗子が少々危ない感じなのは確かだ。しっかりしてはいるが、弾みでどう切れるか、憶測がつかないのも麗子の印象である。但し、千代見がいったい何に神経を張り巡らせているのか、流石の掌凸にも解らなかった。単なる若い女達の悪口の探りあいとも思えない。今夜の十人衆の印象では、そんなレベルの低さはないだろう。あったとしても、そう軽々と口にはしないはずだ。まして、千代見に至っては、そんな浅はかな女とはとても思えない。
「先生のご専門は中世の刑罰史ですよね」
「まあそんなところです」
「刑罰とありますから、それは役人の行なう拷問のことですね」
「役人とは限りませんよ。戦争における軍人の場合もあります。つまり公務に携わる人間による拷問全般です」
「先生のお宅へ一度お邪魔したいのですが……」
「是非遊びにいらっしゃい。美味しい春菊鍋などやりながら一杯やりましょう」
「有難うございます……あっ、運転手さん、そこの角を曲がったところで降ろしていただけますか。先生、今日はお疲れ様でした。またご連絡入れさせていただきます。今日はここで失礼いたします」
 角のビルに沿って車はゆっくりと停車した。助手席から降りた千代見は後部座席の掌凸に丁寧に頭を下げる。車は再び音もなく走り始めた。
 千代見は何故あのような場所で車を降りたのだろう。辺りはビル街で民家やマンションなど一つもない様子だった。自分でタクシーを拾うつもりなのか。それにしては都合の悪い場所だ。もっとも、個人タクシーを携帯電話で呼びつけることも出来る。それほど不自然なことではないのかもしれない。流石に疲れと酔いが回ったのか、掌凸は何時の間にかうとうとと目蕩んでいた。闇の中を車はなおも走り続けた。
「先生……」
 車に半身を乗り込ませた菊さんが掌凸に呼び掛けていた。
「おお、着いたか。すまん、すまん。運転手さん、有難う」
 菊さんが優しく手を取ってくれた。寝ぼけてはいたが手を取られるほど老いてはいない。菊さんの握る手が嬉しかったからされるままにしたまでだった。
「いかがでしたか?」
 ひと風呂浴びた掌凸は書籍の山の一つに腰掛けて寛いでいた。その掌凸に熱い茶が入った湯呑みを手渡しながら菊さんが訊いた。柱時計はすでに零時を過ぎている。
「今日の講演かね?」
 茶を一口啜って掌凸は訊き返した。渋さ加減がちょうどよい。
「可愛い子たちに囲まれて酒を呑むのは悪くないですねえ。酒が倍うまくなります」
「まあまあ、それはよかったこと。講演の依頼がしょっちゅうあるといいですね」
 菊さんは自分のことのように嬉しそうだ。それで、掌凸は千代見が直接手渡してくれた謝礼を思い出し、「菊さん、すまんが上着の内ポケットに封筒が入っているからとってくれんかね」と頼んだ。上着はこれもまた書籍の山に脱ぎ捨ててあった。封筒を手にした菊さんに、
「それは菊さんのボーナスにしてください。いつも有難う」
 湯呑みを包んだ掌のぬくもりが嬉しい。
「それはいけません。これは先生のたいせつなお仕事の報酬です」
 菊さんはそう言って封筒を掌凸の足下にそっと置いた。
「たいした額でもないでしょ。とっておいてください」
「まあ呆れた。先生は金額の確認もされてないのですか?」
 呆れ顔で菊さんが掌凸を見つめている。
「そうでした。領収書を送らねばならなかった。菊さん、一応確認してみてくださいな」
 封筒の厚味からしてたいした額ではないと掌凸は踏んでいたのだ。いっても精々十万というところだろう。
 封筒の中から手紙のようなものと一緒に小切手が出てきた。どうしたか、みるみる菊さんの顔から血の気が退いて、見開いたままの眼球が微動だにしない。無言で手渡された小切手に、さすがの掌凸もあんぐりと口を開け、菊さんを見つめ返してしまった。掌凸は唸った。
「これはまずいです」小切手を指先でとんと叩いて掌凸。
「それはまずいです」菊さんの鸚鵡返し。
 小切手の額面は百万円だった。当節、ちょっとした人物であればこの程度の講演料は驚くにあたらない。が、余輩には高額過ぎるとどこまでも貧乏人。菊さんまでがそれはないと、これもまた情けない掌凸。
「桁を間違えたのでしょうか」
「そんなことはありません。額の表記は漢数字で手書きですからね。今夜はもう遅いので明日、電話を入れてみることにしましょう。いくらなんでも受け取れる額ではない。菊さん、済まないね。ボーナスの件はまたということにしてください」
「とーぜんですわ」
 菊さんは悪びれることもなく茶を啜る。掌凸は小切手に同封していた手紙を何気なくハンモックの上に投げ入れた。一人になってから読むことにしたのだ。小切手の額からして何か曰くつきである。菊さんには知られたくない何かを感じた。幸い、菊さんは手紙にまで言及しようとはしなかったので、掌凸はひとまず惚けておくことが出来た。菊さんは胡麻煎餅を齧り、掌凸は豆大福の餡を堪能しつつ、茶を啜った。堪らなく幸福なひとときだ。掌凸は冒険好きではあったが、小市民根性でもある。小市民が全て甘い物が好きとは言わないが、大酒呑みにしては甘い物に眼が無い。両刀使いで、和菓子にはちと煩いのだ。しかし、今夜の大福は、近所のスーパーでパックに二つ入り百円で売っていたものを、菊さんが買物ついでに買ってきてくれたものだった。その程度の物が掌凸には身分相応というものなのであった。