「拷問は三十個の爆発物を発見し、同じく五十人のテロリストを生む」――これは一九六〇年一月に不慮の交通事故で死んだフランスのノーベル賞作家アルベール・カミュの言葉だ。拷問の一方の目的は《情報》を得ることにあり、多くの人命の危機を救うための手段であるとする、権力の拷問正当化に対抗した言葉である。拷問は新たな反撥として更なるテロリストを生み、根本的な解決にはならない。また、拷問は無辜の人間にむけられる可能性も大きい。何故なら、曖昧だからこそ、拷問という方法を用いるのだから――さすがの掌凸も、今日一日の出来事に疲れたのか、勉強もそこそこに、ハンモックに横たわってあの曰くあり気な手紙を薄暗がりに読むことにした。菊さんはすでに寝床に就いている。柱時計は古びた長針を黄金色の2の字に重ねていた。 手紙は講演会主催責任者としての霜見千代見からのものだった。簡潔な礼文とともに書き添えられた、念入れの謝礼金額は、たしかに小切手の金額と齟齬がなかった。それはそれでいい。菊さんにボーナスをあげられるというものだ。が、しかし……掌凸にとって、その後が興味津々だった。内密にお願いの儀があるという。ついては二人きりで逢いたいとも所望している。あれだけの美人と二人きりで逢えるのは、このうえない幸運だ。都合を連絡せよと、携帯電話の番号まで認めてある。掌凸は、己の鼻の下が伸びていることに、ちょっとも気づかない。「内密」という秘密めいた言葉に、いつまでもニヤニヤと、薄闇の中で無気味にほくそ笑んでいる。こんな内容ならば、何も菊さんに憚ることはなかったものをと、少々後悔している。自慢したいのも、掌凸の子供っぽい根性なのだった。
拷問の最も醜悪なことは、拷問執行人個人の諧謔嗜好にある。それは卑劣さに於いて権力者の比ではないのだが、その残酷さに於いて同等である。そこには最早、人間としての尊厳は一欠片も窺えない。彼等を指して動物的本能の露れだなどと評するのは、そもそもその時点で人間の尊厳を見失っている。本能を制御するからこそ人間なのであり、制御しようとするからこそ、人なのだ。人も動物であると、もっともらしく言うが、それは言葉の綾に過ぎない。人は、人間と呼ばれる、人なのである――。 「先生……お食事のときくらい、本はお放しになってくださいな」 味噌汁が白い湯気を立てて、納豆御飯がこのうえなく旨い。掌凸は早起きだ。年寄りだからたいした睡眠時間を必要としない。だから、菊さんとともにする朝御飯は、朝の七時と決まっている。 「あいやすまん。昨夜はさすがに疲れて寝てしまって、勉強をサボってしまったのですよ」 「しかたないでわ。久し振りの講演会でしたもの。たまにはいいのではないですか……」 「菊さんにそう言ってもらえると、余輩も気が安まります……ところで、おかわり」 「はいはい」 戸外は冷え冷えとした雨模様だ。雨音がしとしとと安普請の屋根に侘びしい。窓外の景色は、時々吹く強い風に揺れて、林の梢が騒いでいる。納豆御飯は焼き海苔も付いてすこぶる旨いのであったが、何故か今朝の雨は掌凸を憂鬱にする。普段は不謹慎に台風にまではしゃぐくせに、今朝は違っていた。落ち着きの無い胸騒ぎがあった。それでも、食事の後の渋い茶が少しは掌凸を和ませた。菊さんは相変わらずの白い割烹着姿で色っぽく、長い髪を上に束ねていたから、普段は隠れている項が眩しい素肌を見せている。これまた掌凸をそそる。想像力だけは朝からいたって元気な爺であった。 掌凸家は、前にも述べたが、電話はあるがテレビは無い。新聞もとっていなくてラジオも無い。まったくの音無し家なのである。ではニュースはどうするのかというと、歩いて十分の近所の小さな公民館で、おかわりが出来る百円珈琲などを啜りながら、備え付けの新聞を閲覧するのである。テレビも観ることが出来る。公民館といっても、木造建ての町会の鄙びた寄合所である。立派な正式の公民館は別にある。最近になって、この寄合所を鉄筋コンクリートの新建築にしようと、町の議員から議案が提出された。もちろん、掌凸はこのままでよしとアンケートには答えておいた。年寄りには、灰色にくすんだ木肌の壁や、少々重い摺硝子の嵌った玄関の引き戸や、何故か抹香くさい〈憩いの部屋〉が、心の安らぎを感じるのだ。人も家も肌というものがあって、肌はやっぱり合ったほうがいいのである。石の中は死んでから行けばいい。 意味不明の胸騒ぎを誤魔化したいこともあって、掌凸は、午後になって、小降りになった雨の中をとろとろと歩いて、寄合所に来ていた。心無い嫁に邪険にされたか、爺や婆が近くの席を陣取り、やかんからそそいだ茶を呑みながら、嫁の悪口を叩きあっている。持ち寄った茶菓子などを食しながら楽し気でもある。百円珈琲をアルミの盆に運んできた婆が仲間に入れとしきりに誘ったが、生憎、悪口を叩く嫁が掌凸には居ないので、丁寧に断った。この中ではまだまだ洟垂れ小僧の部類にある掌凸であったから、それなりの距離を置いているつもりなのだ。傍から見れば大差ない。残念そうに口惜しがる婆の笑顔が皺くちゃだった。 この町は古く織物の町であった。今は、残念ながら、その華やかしころの栄華は衰え、ネクタイやストールなどに生存を託す地味な産業地となっている。街道に、その面影を残す朽ちかけた工場や、看板をそのままに掲げた染色屋を、ちらほらとバスの車窓に見つけることが出来る。
浅川を渡りて見れば富士の根の 桑の都に青嵐(あらし)ふく
西行法師の詠である。その〈桑の都〉も昭和四十五年をピークに、二百七十億円の生産量を最近では四十億円にまで落としていると聞く。しかし、町そのものは元気だ。近隣に大学が多くあるせいか、駅前は賑やかな学生で溢れている。バスを降りてから駅までの短い道では、駅の構内に入るころにはひと月使っても余るだろうポケットティッシュが手に入る。断るのも不憫と、掌凸は突き出されるティッシュをすべて頂戴するので、鞄の中はティッシュで溢れるほどになる。家に戻ってそれをばらばらと畳の上にあけると、菊さんが嬉しそうな顔をするので、懲りずに持ち帰る。便利な町でもある。 詠にある浅川には、掌凸の家からバスで三つ目の、橋上のバス停があり、麗らかな日には予定を変更して、駅に着く前に降りてしまうこともある。土手に降りて水の流れを日がな一日眺めて終えてしまうこともたびたびだ。住み馴染んで十年が過ぎていた。 読み飽きた新聞を元に戻してテレビを観ることにした。気を利かせた皺くちゃ婆が、二杯目の珈琲のついでにテレビのリモコンも持ってきて、好きな番組を観ろと言う。なかなかの婆だ。 「春になったらいっしょに花見でもしましょうかね」 お愛想を振ってあげたけれど、だいぶ先のことだからして、そのころにはこの口約束もすっかり忘れてしまうに違いない。そう思いながら珈琲カップを口にしたら、「爺が婆を口説いてどうすんだい」と言われてしまった。皺くちゃが増々くちゃくちゃになって笑っている婆の目が掌凸を馬鹿にしていた。情け無いぞ掌凸。 ニュース番組のテレビリポーターが殺人事件を報じていた。殺人は連日連夜、日常にあったから、さほど驚きもしないのだが、おやっと掌凸は思った。画面に見覚えのある大学の構内が映っている。そうか、あれは千代見の大学だ。と、掌凸はけたたましく立ち上がった。椅子が後方に素っ飛んだ。老眼鏡をかなぐり捨て、テレビに向かって亀のごとく首を伸ばした。そして、愕然とした。 「何としたことだ!」 掌凸は虫歯が欠けてしまうほどに歯ぎしりした。唸った。 映し出された被害者の写真は、まさしく浅野麗子、あの頬真っ赤女子大生二十歳ではないか。掌凸は小刻みに震え始めたからだを御しきれない。テレビは詳らかな説明を避けているが、まさにそれは猟奇殺人事件であった。麗子はからだに無数の刺し傷を負って殺されていたらしい。何故にあのような気立てのいい娘が、そんなにも酷い死に方をせねばならぬのか。掌凸は呻きながら泣いた。どうしたかと、さっきまでひよこみたいにぴーちく喋くっていた爺婆達が、掌凸を呆然と見つめている。それでも掌凸の嗚咽は止まらない。皺くちゃ婆が心配そうに寄ってきてティッシュの箱をそっとよこす。「ぼけちゃったのかねえ……」と余計なことまで言う。打上げの夜に「千代見は魔女よ」と耳元で囁いた麗子の小悪魔のような妖しい匂いが、鼻孔をふと過った気がして、掌凸は思わず背後に振り向いた。しかし、そこには、細々と降り止まぬ秋冷の雫が、硝子窓を幾筋も伝っているだけなのだった。
掌凸は寄合所を飛び出すと急ぎ足で我が家に向かった。再び強くなっていた雨が、傘を差していたにもかかわらず、掌凸の肩やサンダルの足を濡らした。水溜りを踏んで靴下がびしょびしょになった。短い道のりの間、たった一度の出逢いではあったが、屈託なく妙にセクシーだった麗子の面影が、何度も掌凸の脳裡に現われては消えた。奔放な麗子だったから、恋の恨みでも買っていたのだろうか。それにしても、残酷な殺され方が口惜しい……掌凸の脳裡に或一つの想像が浮かんでいた。それを確認するためにも、千代見に連絡をとらねばならない。泥濘で転びそうになりながら、掌凸は家へと急いだ。 家はひっそりと静まり返っていた。寄合所に出掛けるときには居たはずの菊さんが、外出したのか居ない。掌凸は、キッチンに備えてあるバスケットからタオルを抜き出し、濡れた頭を拭いた。置いてけぼりにあった子供のような少し寂しい思いながらも、頭を拭き拭き書斎に戻り、ハンモックに置いてあった例の曰くありげだった手紙を取り出すと、普段は使っていない電話のダイヤルを久し振りに回す。使っていなくとも、埃一つついていない黒電話だった。菊さんの綺麗好きがありがたい。 「真弐掌凸です。テレビのニュースで……」 「先生、お逢いできますか?」 掌凸の言葉を制するかのように、千代見の言葉が返ってきた。太々しいくらいの低く落ち着いた声だ。 「よろしい。何処でお逢いしようかね」 「よろしければ、先生のお宅で。今から向かわせていただきます」 「了解いたした」 ……菊さんは何処に行ってしまったのだろう。
またまた記憶が跡絶えた。 今夜はここで止めとする。 再び記憶を呼び戻し日に認めん。
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