マニエリストQのストゥディオーロ其の五●其の四断頚の嶺第一章 殺人事件マニエリストQ1999.12.4(2002.12.8推敲)


 れにしても、刑罰と拷問を加える権力とはいったい何者であろうか。
 国連拷問等禁止条約はこう述べる。
《――拷問とは、個人に対して、その者若しくは第三者から情報若しくは自白を得、その者若しくは第三者の行った行為若しくは行ったと疑われている行為についてその者を処罰し、又は、その者若しくは第三者を脅迫し若しくは強制するために、あるいは、あらゆる種類の差別に基づくいずれかの理由により、肉体的であるか精神的であるかを問わず、激しい苦痛若しくは苦悩を故意に加える行為であって、かつ、その苦痛若しくは苦悩が、公務員その他の公的資格で行動する者によって若しくはそれらの者の扇動によって又はそれらの者の同意若しくは黙認の下に加えられる場合をいう――
 戦争状態若しくは戦争脅威、国内の政治的不安又はその他のいかなる公の緊急事態であるかを問わず、いかなる例外的な事情も、拷問を正当化するために援用することはできない。》(有斐閣「国際条約集一九九四」から)
 煎じ詰めれば、拷問とは、公の人間である公務員の専売特許を意味する。古今東西、連綿たる歴史の中、拷問と虐待は公務員のお楽しみとして様々な創意工夫が凝らされてきた。その執拗さと情熱は、尊敬に値し、その阿呆らしさはまさに公という看板を背にした恐れ知らずである。集団としての所在無き責任である。古の昔から、人間は皆でやれば何も無し、なのである。たとえ八百万人を殺しても、そこに殺人犯は存在しない。何故なら、それを指示し、支持したのは、公という裁判なのだから。
 更に、それは、過去現在を通しての諸々の戦争と共通する、人権皆無の愚行と言えるのだ。時代が違うとは口が裂けても言ってはならない人類の大過失なのである。悲しいかな、その愚かで恥辱的な行為は、今この瞬間にも世界の何処かで確実に執行されているのである。
 魔女の判定には右手の親指と左足の親指を結わいて水中に沈めるという一つの方法がある。浮けば有罪で魔女となり、沈めば無罪で魔女ではないと見なされる。これは十七世紀のイングランドで行われた公の裁判である。しかし、沈めば溺れて死ぬのが人間だ。何れにしても、一旦魔女裁判にかかれば、その者は必ず死ぬ。そんな道理が十七世紀の人間に理解出来なかったはずはない。つまり、魔女裁判は娯楽なのだ。公認の公開殺人遊戯なのである。
「つまり……」
 そこまで言って、掌凸は演壇の上に置かれた水指の水をとくとくとコップに注ぎ、一気に飲み干した。
「君達、一服したまえ。なあに、余輩の話など気をつけをして聴くようなものではない」
 などと言いつつ、掌凸は一張羅の燕尾服の懐から両切りのゴールデンバットを取り出して火を点けた。演壇の脇には、不自由な足でもないのに、黄金色の握りが鈍く輝くステッキが立て掛けてある。と、袖にいた女子大生の一人が、遮る物など何も無いのに、背を屈めて小走りに駆け寄ると硝子製の灰皿を演壇の上に置いた。とはいえ、講演を聴き入る百人ばかりの女子大生の中に、そうですかでは私もと言って煙草を取り出す者は当然だが一人もいなく、最前列に鎮座する女子大生の白くて美しい足並みが、好き者掌凸の眼を楽しませていた。
 第二講義室の中は、何時の間にか、周囲の高い窓から差し込んでいた夕陽が失せ、冷たい蛍光灯が白く灯っていた。月曜日、午後の二時から始まった掌凸の講演は終了予定の時間に迫っていた。
「……余輩の言いたいこととは、何事にも臆するなと言うことだ。思い込むなと言うことだ。たとえ公の裁判でさえ、事程左様に馬鹿をやってきたのだから。男社会などと意識しちまうと、自らそこにはまってしまうことになる」
 続けて、
「男より女のほうが出来がいいんだから」
 と、抜け眼なく最後に点数稼ぎをして掌凸の講演は終った。万来の拍手、は無かったが、ちらほら聞こえた嘆息が、まっこんなところかと掌凸を思わせた。
「掌凸先生、今日はありがとうございました」
 可愛い女子大生の一人が掌凸のグラスに恭しくビールを注いだ。真っ赤に染まった頬がすでに酔っていて、横座りで流した足がタイトスカートからはちきれている。掌凸は嬉しい。
 大学から十五分ばかり離れた駅前の居酒屋で、反省会と称して催された打ち上げだった。掌凸は講演委員会だという十人ばかりの女子大生に囲まれて呑んでいる。これがあるから堪らない、と鼻の下をでれっと伸ばして機嫌がいい。十人それぞれが個性のある利発そうな美女揃いだったのがなお喜ばしい。その中でも委員長だという一人に眼を見張った。身長は百七十センチに届きそうで、すらりとした体型は適度なふくらみを備えて艶やかだ。とても二十歳そこそこの大学生とは思えない立派な風貌だ。霜見千代見である。
 千代見は委員長然として掌凸の隣に座していた。胡座をかいていた小柄な掌凸は、きちっと正座している千代見を、横から見上げるようになった。顔が向かい合うと、千代見は掌凸を見下ろすような形になった。その眼はまさに年寄りを優しく見守る感があり、掌凸はいささか不満であった。生意気な小娘め。男と女は背の高さではない。酔うとコンプレックスな気持ちになるのが掌凸の欠点である。で、多少意地悪になるのも、掌凸の癖である。
「委員長さんや。余輩はビールが飽きたので日本酒を所望したい」
「先生、お疲れ様でした。今回の講演は掌凸先生をお招きして大成功でした。委員会としても晴れがましい気持ちでいっぱです。どうぞ今夜はお気の済むまでお呑みになってください」
 千代見はそう言うと、先程の真っ赤な頬の女子大生に日本酒を頼むように合図した。頬真っ赤女子大生はそのタイトスカートのぷりっと丸い尻を振り振り、酒を注文すべく店の奥に立って行った。この年寄りを酔わせてどうするつもりじゃ。自惚れているのも掌凸の可愛い根性なのだった。
 何れにしても、掌凸の妄想に反し、霜見千代見は確かな存在としてその美しい姿を眼前に現わした。今のところ、掌凸の妄想であるキキと千代見の符号する点は、共に絶世の美女であるということだった。その美しさは男も女も狂わす異常な凄さを秘めていると、掌凸は感じた。千代見の周囲にどれだけの数のシンパがいるのか、想像を遥かに超えるものがある。その者達の中には、自ら認めて千代見にアピールやモーションをかけ、そしてここが世の中の機微なのだが、じっと押し黙り、陰から思い慕う人間も多数いることだろう。改めてそうした千代見の表情を窺って見ると、美しさの陰に底知れぬ深い謎を秘めて、双つの瞳が艶かしく輝いているのだった。
「先生、おひとつどうぞ」
 何時の間にか頬真っ赤女子大生が掌凸の隣に座って御銚子を大人びた仕草で傾けている。入れ替わりに千代見は軽く会釈をして席を立った。掌凸はその見事な後ろ姿を眼で追いながら堪能した。
「君の名は?」
 掌凸が酒を受けながら頬真っ赤女子大生に訊いた。
「浅野麗子と申します。二十歳です」
 麗子は御丁寧に自分の歳まで付け加え、辺盃の酒をきっぷよく呑み干す。
「おっ、いい呑みっぷりだ。ところで麗子ちゃんは美人ですねえ」
 掌凸は鎌を掛ける。
「先生おじょうず」
 麗子は陽気に笑った。眼の縁が真っ赤である。
「でも、委員長にはかないません」
「そんなことはないですよ。いい勝負です」
「でもね、先生……」
 そう言ってにじり寄ると、麗子は蠱惑的な唇を掌凸の耳に寄せた。甘く気怠い香りが漂い、流石の掌凸も戸惑う。
「委員長は魔女なの」
 思わぬ麗子の囁きが掌凸の胸を衝いた。呑み込んだ酒を吹き出しそうになってようやく堪えた。返す言葉を失って麗子の顔をまじまじと見つめた。旨そうに酒を呑んでいる姿は屈託なく悪びれた様子がない。
「魔女のごとく魅力的ということですか?」
 眼の前に並べられた御銚子を眺めながら、掌凸は迂回作戦で麗子を探る。口が軽そうなのが麗子の欠点と侮ったが、これが意外と堅い。ニコニコするだけで、ひたすら掌凸に酒をすすめる。ただの御調子者ではないな。麗子もそうだが、こうやって眺めて見ると、大卓を囲んで呑んでいる他の八人も、会話の端々に利発さが感じられ、それぞれの輝きを発光している。この委員会は並ではないなと独りごつ。 掌凸が講演の演者に選ばれること自体が考えてみれば少々不自然に思える。これから社会に出てそれぞれ男社会で活躍しようとする人間にとって、掌凸よりももっと適切な然るべき演者がいたはずだ。拷問史研究家などという変わり種を選出する企ては、その裏に何か知れない思惑がありそうで、掌凸をわくわくとした気分にする。となれば、この会の委員長である霜見千代見が、やはり何かいわくを秘めているに違いない。それも掌凸が絡んだいわくである。久し振りに退屈男の心が踊った。
「掌凸先生。質問を一つよろしいでしょうか」
 美女の一人が卓の端から声を掛けてきた。宴も真っ盛り、皆が揃って頬を美しい桃色に染めている。
「余輩に答えられることであれば何でも」
「魔女は存在するのでしょうか?」
 いきなり来た。こういうストレートな質問には廻りくどい回答は避けねばならない。単刀直入には端的な答である。説明はその後、必要に応じて行なえばよい。
「存在しません」
 そのつもりで掌凸は断言した。
「では、魔女とは妄想の産物ですか?」
「違います。現実です」
「妄想の産物ではなく、且つ存在しない。ところが現実である。矛盾するように思えますが」
「魔女は権力が明確な意思をもって産み出したキャラクターです。為政に用いるスケープゴートです。確かに一部の神学者による妄想は数々の著書で明らかですが、元はといえばごまかしのための眼晦ましなのです。これが現実です」
 千代見は今も席に戻っていない。麗子は掌凸の手を握ったまま身体を預けて軽い寝息を立てている。卓上の春菊鍋が美味な湯気を立て、何とも嬉しい掌凸の宴は過ぎていく。