つつがなく日が過ぎた或日、珍しく掌凸に講演の話が飛び込んできた。テレビ出演は無理な掌凸にも、時々物好きな地方の大学等から講演の依頼がある。掌凸はお話しするのは嫌いでなかったから、奇特な依頼者には喜々と快諾していた。今回の依頼は武蔵野に近在する某女子大からであったから、好き者爺は殊更に嬉しい。講演の前日には春菊鍋の大盛りを菊さんに所望しようなどと思う掌凸は、時々無意味なことを考える癖があるので、勘弁していただきたい。 講演は来週の月曜日午後二時からの二時間。依頼のテーマは男性社会に於ける女性の位置、ということらしい。が、フェミニストの掌凸にとっては、元々女のほうが偉いと思っているのだからそれほど興味が湧くテーマではなかった。しかし若い女子大生に交じれるのが嬉しいので、この際に於いて講演のテーマ等は何であろうとよろしかろう。 掌凸は家に電話はあるが電話には出ない。百円で買ったノートパソコンにインターネットを接続してEメールオンリーにしてしまったのだ。だから原稿依頼等は全てEメールで来る。今回の某女子大の依頼もメールで来た。確認したのは今日の午後のことだった。 菊さんは朝から何処かへ出掛けていて、家には掌凸が独り切りだった。独り切りは慣れているはずなのに、菊さんがこの家に来てからは、菊さんが居ない日は寂しい。それは、学問一途の人間がちょっとした生活環境の変化で知り得た、貴重な感情だった。寂しきこともまた楽し。 掌凸は寂しいながらも考えた。件の講演依頼のメールのことである。Eメールを使い始めたのは最近のことで、菊さんに頼んで街の小さな印刷屋で作ってもらった名刺を関係者に手渡した以外、メールアドレスは公表していない。ホームページもアップはしていないので、不特定多数にメールアドレスが知れわたることも、そうそうない。名刺を受け取った人間から訊いたといえばそれまでだが、今回の依頼メールには何故か疑問を感じる。メールの依頼者名が大学名ではなく女の個人名になっていたからだ。普通なら某大学の何がしとなるはずが、たった一行、女の名前だけなのである。依頼内容に某女子大の第二講義室でと記されていたので、てっきり大学からの依頼かと思い込んでしまったが、これはやはりおかしい。掌凸は首を傾げつつ、ディスプレイの女の名前を何度も見ては、また首を傾げるのだった。 「先生……」 いつの間にか菊さんが居た。割烹着を付けていない菊さんの和服姿が妙に色っぽい。手に何かを持っている。 「どうぞ」 それはパソコンの新しいマウスだった。先日からマウスの調子が悪く難儀していたところだった。気を利かせて買ってきてくれたのだろう。掌凸は菊さんの親切に感謝した。握手、握手、と思ったが、菊さんは夕飯の支度をせねばとキッチンにさっさと引き下がってしまった。宙に置き去られた萎びた掌がどん臭い。 「菊さんや」 掌凸は菊さんの用意した春菊鍋をつつきながら今回の講演依頼について報告をした。 「てなことなので、宜しく」 菊さんは大盛りの春菊鍋の準備をするだけで事足りるわけなのだから、それはまたいつもと変わりないわけで、殊更に宜しくと言われても、菊さんとしてはどうでもいいことなのだった。 「ところで」 掌凸は続けた。 「一緒に行きませんか」 「講演にですか」 「そうです。講演が終えたらデートしませんか。菊さんにはお世話になっていますから、たまには外で美味しい物でも食べましょう」 「春菊の外食ですか」 菊さんは静かに微笑んでいる。 「先生……。有難うございます。でも菊はご遠慮させてください。そのような晴れがましい場所は菊に似合いません」 断わられることは承知していた。しかし掌凸が菊さんを誘った意味は別にあった。メールの疑問に何故か菊さんが絡んでいるような気がしたからだ。菊さんはパソコンを使えるのだろうか。マウスについては調子が悪いとこぼしていただけで、機種や仕様について菊さんには何も説明していない。ところが、菊さんが買ってくれたマウスはぴったしかんかんだ。知識が無ければ出来ないことだ。そのことと今回の講演がどう関連するのか、そこまでは掌凸にも解らなかった。しかし引っかかる、の思いが募るのであった。
本当の断頭台は大根を切って見せるようなマジックというわけにはいかない。本当に胴体から頭が切り離れて落ちるのだ。何故に掌凸がこのようなことに興味を抱き学問するまでに至ったのか。前述したように、確かに正義感も大いなる要因であったろう。ところが、掌凸には幼い時分から《切るまたは斬る》というイメージが常につき纏っていて、そのことが自然、掌凸をそのような学問に導いていったのだと推察される。路傍に繁る丈の長い雑草の頭を棒先で薙るように、常に丈の有る物を切断するイマジネーションが、ほとんど妄想として掌凸に憑いていた。それは瞑目のたびに有った。すっ、すっ、と横殴りに、袈裟に斬っていく。斬る対象は人間の首であったり、曖昧模糊な物体の頭であったりする。そしてその都度、柔らかな心地良さが掌凸の全身を包み、安らかな睡眠へと掌凸を誘うのであった。眼を瞑れば《斬》が絶対としてあった。 だから掌凸は徒手空拳の空手を鍛練として選んだ。剣道は恐ろしくて避けた。己の妄想が怖かったのだ。ところが徒手空拳といっても古武道としての武器修練もあったから、掌凸は二節棍のヌンチャクを鍛練の道具とした。ヌンチャクは紐で連結した二本の棒であるから棒術の一種と掌凸は認識していた。鍛練途上の或時、板に紐を巻きつけた巻き藁を相手にヌンチャクを振り続けていると、いつしか恍惚としてヌンチャクを巻き藁に打っている自分に気がついた。すでに物が当たる感触は無く、すっ、すっ、と巻き藁を斬っている。打ちつけるものだとばかり思っていた棒は、その時、斬れる刃物となっていたのだ。勿論、巻き藁は斬れてなどいない。今になって思えば多分それは棒術としての技に開眼した瞬間であったのだろう。空手の拳は打つのではなく、貫くということと同じことなのだった。 掌凸は、いつの間にか女子大の講演など忘れたかの如く、今日も断頚学問に熱中し、いつしか夢の人となっていくのだった。 明けて翌日の午後、菊さんは何処へ外出したか今日も家に居ない。掌凸はハンモックの上でEメールを開いた。昨夜の内に発信してあったメールの返事を確認するためだ。メールは二通入っていた。一通は出版社からのもので、今進めている著作物のゲラ刷りの件だった。もう一通。これを掌凸は待っていた。
真弐掌凸 様 確認の御用件、確かにお願いの通りです。 宜しくお願い申しあげます。 ○○女子大学 霜見千代見
ネット検索で大学のホームページを探し、問い合わせ用のメールアドレスを確認したら依頼メールと同様のアドレスが載っていた。そこに宛たらこれが返って来た。だから講演依頼のメールが大学から来たメールであることは確認出来た。今度のメールには大学名が記されている。 「しかし、菊さん」掌凸は微笑む。 菊さん、霜見千代見はないでしょう、と簡単な仕掛けを解く。 霜見→霜見草。 千代見→千代見草。 共に《菊》の別称ではないですか。 霜見・千代見→菊・菊→キク・キク。草抜きでクを抜けば……。 「キキさん、余輩に何の御用かな」
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