その朝早く、魚屋のあささんは、鹿島神社近くの小さな一杯呑屋から十メートルばかり離れた道路の排水溝で、いい具合に嵌って長々と横たえていたからだを重々しく起こした。 あささんは、辺りの閉塞感を伴った暗さに戸惑い、自分の顔が自分の物でないような違和感と酷い痛みに不安になり、思わずくしゃみを一つした。それから重いからだを胡座にして朧な記憶を辿ると、事の成行きに憮然とした。昨夜一杯呑屋で居合わせた少年野球の監督だという若い男のことを思い出したのだ。あの野郎、酷いことをしやがる。たかが子供の野球のことで少しばかりからかったといってこんなまねをしやがるなんて。胸から腹、腿の辺りを、すでにどす黒く変色しかかっている大量の血で染めていた。少しは小ざっぱりしようと近所の洋服屋で買った夏服が一晩で台なしになったことに、あささんは忌々しくて腹が立った。顔全体に満遍なくこびりついた血の固まりが掌にざらつき、鼻筋を真中にして酷く膨れているのが分かった。閉塞感は腫れあがって視界が狭まった瞼のためだった。 昨夜の二時ごろ、あささんはかなり出来上がり、そろそろ寝ようとご機嫌で一杯呑屋を出たのだったが、そこにぬっと現れた帰ったはずの少年野球の監督だという男があささんの前を立ち塞いだのだ。あささんの酔った眼の端に一瞬飛び込んだのはあれはたしかにバットだった。ぶん、と風を切って唸る音を、あささんは耳にしたような気がしたが、そこでぷっつりと意識と記憶が途絶えてしまった。それから今朝まで誰一人にも気づかれず、暗闇の小さな溝に嵌って気絶していたのだった。誰かに気づかれたにしても、酔払いのことだからと放って置かれたのだろう。 だから餓鬼の野球は厭だっていうんだ。むきになりやがって小便臭い。あささんは自分の居る場所を確認するかのように通勤人がそろそろ通り始めた道路を腫れた顔で見回すとゆっくり立ち上がり、ひとまず一杯呑屋の裏手に在るアパートへ帰ることにしてゴムサンダルを引摺るように重く歩き出したのだが、心のほんの一センチ四方に蟠った空漠とした虚しさが徐々に拡大しつつあることに気がつき苛立った。昨夜はあれほど、否その前の晩もその前の夜もかつてずっと楽しい酒の時間を過ごし、その間には昨夜のようなつまらない揉事や喧嘩も幾度かあったが、けれどいまのような理解できない虚しい気持ちは一度として起きたことがなかった。あささんは干涸びたパンのように心の形がぽろぽろと崩れて繊維の透いたような大小の隙間に侘びしい風がすかすかと吹き抜けていくのを感じた。 あささんはこれではとても魚河岸に行く気になれず、まして団地回りの魚売りの車を運転する気になどなれなくて今日は仕事を休むことにした。アパートの万年床の薄い夏掛に包まって一日寝ていたいと思ったのだ。傷ついた顔がみっともないからではなく理解不能な虚無感に圧倒されてのことだった。それは普段、本など滅多に読むことのない、あささんが四十歳にして初めて覚えた、まるで思春期の少年のような不馴れな感覚であった。あささんはいきなり襲った羞恥心に似た感覚に朝の肌寒さもてつだってその細長い丈を震わせた。
結婚を予測して借りたアパートの一室。そこにほとんど荷物置場と化してしまった真新しい食卓が台所を兼ねた狭いリビングに在った。新品の電子レンジは使われた様子もなく冷蔵庫の中身はせいぜい缶ビールの二三本が入れられているだけであった。結婚の予測はあささんの願望にすぎず、この部屋を借りて半年が経つというのにあささんはいまだに一人者なのだった。あささんは汚れた顔を洗う気にもなれず部屋に入ってすぐに夏掛に包まり長い脚の膝小僧を胸に抱えて寝てしまった。乾いてしまった鼻血の固まりが息苦しかったがそれでもかまわず無遠慮で不可思議な虚無感をすっかり払拭するかのように大きな鼾をかいて眠った。 深い眠りの中であささんはやっぱりいつもの一杯呑屋で酒を呑んだ。夢の光景はあささんのいつもの呑屋の実際と違わなかった。夢の中でカウンタの奥に小遣い稼ぎに時々ぼる嫁さんママと、カウンタの隅でカラオケを立続けに歌っている三十路ほどの女が居るのを見た。三十路女は浅黒い顔をしていたが顔立ちはよかった。カラオケのマイクを独占するだけあって歌もうまかった。あささんはこの女を知っていたしカラオケでデュエットを幾度もやっている。所謂、女は呑み仲間で素性も多少は知っていた。近所の左官屋の女房なのだ。女は毎晩ここに一人で来ては歌っていたが客の誰もが気にしてはいない亭主は滅多に店に顔を出すことがなかった。そして、あささんの夢の中はいつもと同じように繰り返す日々の、あささんの生活なのだった。 戸外に子供たちの遊ぶ喚声と騒音が去り窓の薄いカーテンが茜色に滲み始めていた。 あささんは寝床の中で裸の背に粘った汗をべたつかせて唸されていた。からだが異常に重いのだ。瞼はますます腫れてしまったのか思うように開けられない。まだ夢の中に居て目覚めていないのだろうかと、あささんは朦朧とした覚束ない意識で状況判断に苦しんだ。 漬物の石でも乗っているような特に腰の辺りが重く、おまけにその漬物石は天地上下に激しく動いているのか繰り返し腰を打ちつけている。痛いのだか気持ちいいのだか戸惑ったが多分これは夢精でもしているのだろうとどうやら気持ちいいのが勝っていたので、あささんは重いのを我慢してなるがままでいた。が、気持ちがいいのはまさしく夢のごとくだったが重いのはあまりにもリアルで、あささんの心は混乱した。夢の中で暢気にしてはいられない不安にかられた。 ようやく微かに開いた眼に映ったのは豊かな乳房を揺すりながら自分の腰の上で激しく上下している女の裸身だった。あささんは否々これは夢だ夢なのだと眼を擦ったが腫れた眼は痛くて夢などではないことにはっきりと気づいた。女が自分を犯している。自分は女に犯されている。ああ、あささん好きよ、と腰の上で女は極まって呻いた。あささんも同じくして呻き上げた。はたして女は三十路女であった。何故に魚屋が左官屋の女房に抱かれねばならないのだと、あささんは気持ちいい虚脱感の中で自問した。自分の夢見る新婚生活はどうなるのだ、自分の純潔はどうしてくれるのだ、と懊悩した。泣いてるの? 三十路女が腰に乗ったまま、あささんに訊いたので、あささんは明日はきっと河岸に行こう、いつもは三ケ所しか回らない団地を明日は五ケ所回ろうと心に決めるのだった。
翌日の朝、あささんはライトバンを駆って築地の市場に向かった。ところが少し寝過ごしたのが祟り市場の中のいい場所はすでに他の魚屋の車で埋まっていて、競場から遠く離れた場所に車を停めなければならなくなった。競り落とした物を車まで運ぶしんどさを思うと昨日の快楽のうちに涌いたあささんの決断がぐらつき始めた。そうなると簡単で、あささんは市場の中の鮨屋にさっさと時化込んでしまうのだった。適当な相手でも見繕いちんちろりんでもして遊ぼうかと不届きな考えにまでなる。いつまでも店を構えられない理由なのだった。 昨日あれからも三十路女に幾度も遊ばれたあささんは女が去った後そのまま泣きながら昏睡に陥り食事も執っていなかった。穴子、煮鮑、ミル貝、白子、鰤、真鰕、雲丹、烏賊、鮪、海老と、立続けに頬張る鮨が堪らなく旨く、まったくの自棄喰い状態だったが、それは不意に訪れた不可思議な虚無感と三十路女の兇行、あささんの純潔を蹂躙した女の暴力を、少しでも忘れたいがための無意識の行為であったといえる。たとえそれがあささんの頓珍漢だとしても、あささんにはそれしか術が分からなかったのだ。あささんは自分が思う以上に老いた少年なのだった。 カウンターの足下に何かある。爪先で突いてみた。すぐに分かった。財布だ。あささんは不謹慎にもときめいた。さりげなく屈み込んで素早く拾い上げた鰐革の普通の物より一回りも大きな財布はずっしりと重くはちきれた札の一部が財布から覗いている。多分、市場に来た魚屋の誰かが落とした物なのだろう。少し躊躇ったが財布は結局あささんのズボンのポケットを無理矢理膨らませていた。あささんは素っ飛んで市場の入口近辺に停めてあった車に戻り、財布の中身を確認する掌が僅かに震えているのが可笑しくて思わず声を出して笑っていた。老いた少年は怠惰でもあったから思いがけない誘惑にひ弱であった。あささんの心の中に巣食う怠惰の虫はますます肥大してあささんの人間を腐って蕩けるチーズに忍び込むように蝕んだ。その日から、あささんは毎晩ただ酒を喰らい毎夜泣きながら三十路女に犯され続けた。自棄喰いの鮨のごとく女の行為を許し続けた。しかしそれでもいまだに突然襲った虚無感の意味を知ることはできないでいた。知ることさえ忘れてしまったのかも知れない。 今夜もまた散々呑んだ後、あささんは腹の上で揺れている女を見つめていた。いまでは泣くこともなく腑甲斐無いとも思わなくなっていた。寧ろ左官屋の女房を寝盗った男として自負するまでになっていた。女に僅かだが情愛も感じるようになった。情交が終えればまるで夫婦のように褥の中で世間話にもなった。二人は夜の酒場で酒を呑みアパートの一室で真夜中の時間を喰う夫婦になっていたのだ。荷物置場と化していた食卓は綺麗に片付けられて二人の夜食に役立っていたし冷蔵庫の中身の種類はだいぶ増えていた。二人が亡くしたものは一つ、それは昼の光だった。少なくとも、あささんは夜光虫のように夜にだけ蠢き昼はいつも昏睡の中にあった。それから三ヶ月して必然のごとく、あささんは壊れた。肝臓と中毒。晴れわたった空の午後、あささんはアル中患者として都内の病院に入ったのだった。
パジャマ姿に羽織った茶色のカーデガンが秋の柔らかい午後の光を吸い込んでいた。病院の中庭のベンチに腰掛けたあささんの細長いからだは一段と痩せ細り、黒ずんだ頬肉がこっそりと削げ落ちていた。先ほどから、あささんは肉の薄くなった背中に昼の陽を呑んだ木製ベンチの背凭れの微かな温もりを捉えようと神経を澄ましてしているのだった。亡くしてしまった自分の昼を取り戻したいと願ったのだろうか。それともいまだに現れる不可思議な虚無感を昼光の温もりで中和し忘れようとしているのだろうか。結局、市場で拾った大金は遣い果たす半ばで酔ったあげく何処かに財布ごとなくしてしまっていた。考えてみれば、あの金はふと涌いた虚しさに拍車をかけただけのことではなかったか。四十にして遅まきながら覚えた感覚をもっと真面目に捉えるべきだったとあささんは後悔したが、それも似合わない自分が切なかった。アル中のあささんでしかないのだった。 眼の前の芝生を柔らかく踏みつけて若い看護婦が通り過ぎていった。白衣の華奢な背が微かに茜色に染まり始めていたので、薄い肉に感じ取ったベンチの温もりが失せてしまわないうちに病室のベッドに戻らなければならなかった。いま自分にあるのはこの小さな温もり一つでしかないのだからと、あささんは感傷的になっていたのだった。 夕食が終えれば後はベッドの中で大人しくしている。本を読むこともない。脈略なく思考ともいえない物思いに耽るだけなのだ。 眼を瞑ったら不意に涙が頬をつたわった。四十の自分が見舞ってくれる者もなく病院のベッドで生きている孤独のせいだろうかと、つたわる涙をそのままに、あささんは考えた。ところがそのうち、あささんは胸苦しいほどに魚河岸が懐かしく思えてきたのだった。あの臭い、あの活気、あの喧噪。すべてが、あささんの胸を焦がして止まなくなった。あささんの胸に精一杯働きたい欲望が激しい津波となって押し寄せ更に激した。あささんは辺りを憚って癪り上げる嗚咽を押し殺そうとするのだが思うようにいかない。堪えようと眼を堅く瞑ってはみたが溢れる涙は止まらないのだった。 ベッドに重みを感じて、あささんは瞑っていた眼を開けた。すると三十路女がベッドの端に腰掛けていた。女は掌に見覚えのある鰐革の分厚い財布を握り、あささんの眼の前で紙切れをひらひらさせた。それから、あささんの耳元に唇を寄せて小さな声でいった。 「判子おしてくれるわよね」
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