マニエリストQのストゥディオーロ其の二猫が出た日マニエリストQ●感想などいただければ幸いです。


 社内での話しが終えるとKは私をS町に誘った。
「みんなには内緒だぞ。傷つけることになるからな」冷房の効いたタクシーの中でKは念を押すように言った。みんなとはいったい誰でどんな傷がつくのか私にはわからなかった。多分ある種の人間全体をさしてのことだろうと私は曖昧に頷いておいた。久し振りに会ったKは変貌していた。どこか膿んだ倦怠感を漂わせていた。かつて学生運動の闘士だった面影は大学を卒業して三年近く過ぎただけだというのに微塵も窺えない。横殴りの警棒で気絶するほどの傷を負わされた顎に過去のわずかな証を残しているだけだった。その傷跡もいまでは消えかけている。
「仕事は回すから心配するな……」けれどリベートはちゃんとよこせと抜け目ないのはKらしかった。リベートを渡せるほど大きな仕事をくれるのか疑わしかったが、独立してからの一年、あぶれつづけている私にはどんな仕事もありがたい。この不景気にフリーに回ってくるようなディスプレイデザインの仕事などほとんど無かったからだ。大手のインテリア会社に就職していたデザイナー兼営業のKをあてにした美術大学卒業以来の再会なのだった。そのKがS町で呑もうと私を誘った。あの界隈のことは私でも少しは知っている。Kが「内緒だぞ」というからには、それらしい店に私を連れていく気なのだろう。しかしKにそのような趣味があったのは意外だ。Kにはおよそ縁の無さそうな世界に思えたからだ。
 蒸した夜気に混じり正体不明の不確かな匂いが街に漂っていた。どこかバランスを崩した、宙に浮いているような、曖昧な不安を感じさせる匂い。私の気持ちがそうさせていたのかも知れない。それは、私自身が不安定であったから――私は疲れていた。家には、Kとの話しを期待して妻が待っている。その妻も疲れていた。一年の歳月は妻の疲弊にじゅうぶん有効な期間だった。
 まるで闇の中に浮かぶようにその店はあった。ドアを開けた途端、ねっとりと粘つく視線が私たちを捕らえた。抱きあって踊る男二人の物色する眼だった。黒っぽいスーツ姿が絡みあっている。きちっと絞めたネクタイに少しばかりの威圧感を覚えたが、その時すでに私は異境の架空庭園に入りこんでいたに違いない。なぜなら、瞬時に私は異邦人であることを放棄し、庭の垣根を掻き分けていたように思えたからだ。三分の一の明度と熟れた倦怠の放つ腐臭が百パーセントに充ちた歪なフロアー。店内に流れる気怠いマドリカが空間を歪曲する速度をあざとく煽っている。不確かな匂いはここにあった。憂鬱の薫りが甘く匂って浮遊していた。
 私はいきなりこみあげてきた嘔吐感でトイレに駆けこんだ。吐きながら、訝し気に私を見つめていたKの顔が脳裡にちらついた。唇の端をわずかに吊りあげて笑んでいたように思う。私のなにかを見抜いているのか。なにかとはなんなのだろうと吐きながら考えてみたが、口の中の苦い思いしか見つけることができなかった。
「だいじょうぶか?」
「少し暑気に当たったようだ。もういい」
 私たちはバーのカウンタで並んで呑んだ。黙々と呑んだ。私たちにはすでに話すことがなにもなかったからだ。暫く呑んでから唐突に気づいた。社内では上着を着ていたのでわからなかったが、隣で呑んでいるKの真白なワイシャツが皮膚のように胸の肉に張りついていたのだ。その時、むしろ男臭いといえるKがその臭気をいつの間にか消去していることに私は気づいたのだ。変化はからだだけではなかった。横顔が少年のような紅顔になっていた。
 バーボンの苦味が口中の滑りをすっかり浄化して甘美な酔いが全身を包んでいた。痺れさえ感じた。照明はさらに落とされたのか、闇の中にいくつもの眼が彷徨い、いたるところで紫煙が揺らいでいる。その時、あの匂い、あの薫りが再び鼻孔を突いてなにかが私の視界をふさいだ。ゆっくりと視線をあげると、黒い影となった憂鬱の薫りが一つ、ねぶるような眼で私を見おろしていた。
「マスター、サンキュー」……遠退いた意識にKの声を聞いたような気がする。うろ覚えで確定できない。意識を失っていたのだろうか。気がつくと一人で見知らぬ部屋のソファーに寝そべっていた。不思議な部屋だ。私はひどい頭痛を宥めながら部屋を見回した。天井に格子が組まれていて、どこかイベント会場のような雰囲気がする。倉庫のようにも見えたが、広い床はきれいに拭われていてリビングのようでもあった。呑み過ぎて無様なことになったのか……。二メートルほど離れた床の上に白いものが落ちていたので立ちあがって近づいてみると、それはKのワイシャツだった。胸ポケットにKと小さなイニシャルがついているからきっとそうなのだろう。Kはこんなところに皮膚を脱ぎ捨ててなにをしているのだろう。喉に痰がからんで不快だ。水を探そうと廊下に出てみた。コンクリートの打ち放した廊下の左右に額縁に飾られた小品の絵がいくつも掛かっていた。趣味のよくない絵だ。私は宗教画は嫌いだった。
 一枚のドアで突き当たった。左にもドアがあって、そっとノブを回して覗きこむと、思惑通りにそこは風呂場だった。脱衣場にあった洗面台の蛇口を捻り、落ちる水を手で掬って飲んだ。意識が完全に回復していなかったのか、一段落してやっと足下に散乱している衣服に気づいた。黒いスーツが二着とズボンが一本、無造作に散らかっていた。
 風呂場を出たら猫の啼き声が聞こえた。突き当たりのドアの奥に猫がいるのか。どうやら一匹ではなさそうだ。ところでKはどこに居るのだろう。ここはどこなのだろう。不安と同時に妻を思い出した。妻はなにをしているだろう。私の連絡を待っているのか。それとも、つけっぱなしのテレビの前でぼんやりしているのだろうか。猫の惰眠のように。
 ドアは紙のような薄い音とともに開いた。コンクリートの廊下も紙でできていたのではなかったか。まだ酔っているのか、膝が時々落ちた。それでも私はかまわず部屋の中へと入った。
 たしかにそこに猫が居たのだ。絡みあって、じゃれあう猫が三匹、いや、一匹は猫でなかったかも知れない。少なくとも私の視界を覆った黒い影は、バーでのだが、あれは猫ではなかった。
「やあ、眼が覚めたかい。猫くん」
「ようこそ隠れ家に」
 猫たちが言った。
「私は猫じゃない……」
「そうかな? 隠しても無駄だよ」唇の端を少し持ちあげて微かに笑みながら猫の一匹が言った。それから別の猫が近づいて私の腕を強く掴んだ。部屋はあの匂いで充満していた。憂鬱の薫りが爆発寸前までに溢れていた。頭痛がひどくなって吐気がぶりかえしてきた。それで……。
 私は丁寧に打ち据えた。部屋の壁に立て掛けてあった手頃な鉄パイプを見つけ、それを吐きながら正確に振った。あの匂いが嘔吐の臭気で消えるまで私は打ちつづけた。吐瀉物が鉄パイプをひどく汚したが、この汚れは妻だって許してくれるだろう。なぜって、憂鬱の薫りはクリーニングに出しても落ちはしないのだから。こうやって汚してしまったほうがいいのだから。鉄パイプはいつまでも風を切って唸り音を発していた。

 ぶーん。ぶーん。ぶーん。ぶーん。ぶーん。ぶーん。

 ミャー。ミャー。ミャー。ミャー。ミャー。ミャー。

「おはよう。ミーちゃん。今日こそ仕事見つけるよ」
「お願いよ」
 我が家の猫がすげなく言った。私は鉄パイプがないかと辺りを見回した。