とにかく、僕は記憶をあてに、まず海岸線に沿って歩くことに決めた。海水パンツやバスタオルを突っ込んだバッグは、砂浜の熱い砂の上に、たった今、叩きつけてきたから、手ぶらの身体はすこぶる軽快だ。ところが、熱い太陽と大きな入道雲が、函館の八月の空にやけに憎々しげに浮いていて、歩け歩けと僕をけしかける。ゴムサンダルの素足が砂に焼けつくようだ。それでも僕は歩く。潮風が干したイカの臭いを運んでくる。 せめてもう少し小遣いを多めにくれればいいのに。そうすれば従兄弟の孝志兄ちゃんにあんなに威張られないですんだのに。父さんはひどいよ。僕を置いて東京に帰っちゃうんだもの。仕事だからしかたないし、その辺の事情は子供の僕だって理解できる。だけど、もうちょっと小遣いがあれば、こんな肩身の狭い思いをしないで済んだのに。 孝志兄ちゃんたら、恩着せがましくアイスキャンデー押しつけちゃって。 「しょうがねえなあ。シュンにも一本あげるよ」 屈辱だ。僕にだってプライドってものがあるんだ。つきあいってもんもあるんだ。そこんとこを父さんは今一つ理解していない。 三十分も歩くと、海辺には遊ぶ人影もまばらになり、足元はごつごつとした岩場に変わりつつあった。視界の先には、浜の終りを告げるように、白い波が打ち砕ける藍い海原が無限に広がっている。僕は、海岸通りに上がり、立ち並ぶ民家の間を抜けて、街中とおぼしき方向へと進む。どんどん歩く。 「おまえなんか東京に帰っちゃえよ。面度くさくてしょうがない」 「ああそうかよ。じゃ帰るよ」 僕は思いっきりバッグを孝志兄ちゃんの足元に叩きつけた。本気だぞお、と睨みかえす。 「いちいちうるさいよ。兄ちゃんぶるな」 「へん、シュン。帰りの電車賃もってんのかよ。歩いて帰れるもんか」 五つ上の孝志兄ちゃんは、そんなことできまいとにやにやしている。僕には電車賃なんか必要ない。どこにだって歩いて行けるんだ。 「お、おい、シュン待てよ」 背後から孝志兄ちゃんの上ずった声が聞こえた。そんなのは無視。僕の足は歩き始めてしまったのさ。誰にも止められるもんか。 市電がせっせこ歩く僕のすぐ脇を通りすぎていく。だいたい、行き先の町名だってうろ覚えな僕は、どの電車に乗ればいいっていうんだ。多分記憶ではあっちだろうくらいにしか覚えていない。電車賃があったって同じことだ。来るときに電車から見た風景の記憶を辿って行けば、いつか辿り着く。 きっと僕が一人で帰ってきたら、孝志兄ちゃん、おばちゃんに叱られるぞ。ざまあみろだ。お店にはきれいなお姉ちゃんがいるけれど、おばちゃんのほうがもっと美人だ。 僕は意味もないことを思う。けれど、辿り着く先に目標を定めることは、歩くのに都合がいい。夏休み表の目標欄のことで、僕は先生の言った言葉を思い出した。 「何事も目標を定めれば、一番近いところに辿り着けるんだぞ」 でもね、近いとこじゃ駄目なんだよ先生。完全に到着しなきゃいけないんだ。完璧なタッチなんだよ先生。 電車通りに出た。石畳が歩きにくい。それでも僕は大股で歩く。 あの酒屋は見覚えがあるぞ。父さんのことを思い出したところだ。あっ、あの犬まだいるよ。ぼさーっと寝そべっちゃってさあ。僕なんかこんなに一所懸命に歩いているのに。 小一時間も歩いただろうか。 すると、 「坊や、この辺で交番しらんかね?」 小っちゃな婆ちゃんが突然声をかけてきた。 そんなの僕のほうが聞きたいくらいだ。 「知らん」 大手を振って遠ざかる。 暫くして振り替えると、点みたいに小さくなった婆ちゃんが、僕のほうに手を振っている。気になって何度も振り返りながら僕は歩いた。ぺこぺこ頭を下げる婆ちゃんがいつまでもいた。 「なんだ、クソ婆あ。僕なんにもしてあげてないのに」 大通りの街並の細い透間から微かに浜が見え隠れしていた。時折、海猫の白い群れが浜を旋回し、白い波頭が細かく砕けた無数のガラスの破片のように輝いている。 「あっ、コバタって書いてある看板だ。電車の中で来る時に見た」 真っ黒に陽焼けしたお爺さんが地面に野菜を一杯広げていたのを思い出す。この方向に間違いない。僕は自信を深めて歩き続ける。 いつの間にか街の透間から浜は見えなくなっていた。潮の匂も消えていた。それでも僕は海の街を歩いていた。 いいんだ。今日は海に入れなかったけれど、昨日おばちゃんに大森浜に連れてってもらったのだから。大森浜は波が荒いから浜辺で遊んだだけだった。でも、僕はそれで満足なんだ。啄木像の前でおばちゃんと一緒に写真も撮った。自動タイマーがわからなくておばちゃんは焦ってた。僕が教えてあげたんだ。おばちやんは、淡い色のワンピースに白い陽傘で、浜辺で遊ぶ僕を見ていてくれた。おばちゃんの小さな顔は陽陰になってよく見れなかったけれど、僕は母さんがいるみたいに思った。 おばちゃんは僕の母さんの姉さんだ。姉さんなんだから母さんに似ているはずだと僕は想像する。 「孝志兄ちゃんのお父さんどうしたの?」 ある日、僕は父さんに尋ねた。 「病気で死んじゃったんだよ」 「母さんと同じだね」 父さんはそれには答えず僕の頭を静かに撫でるだけだった。そして、母さんとおばちゃんが一緒に写った茶色になった写真を、僕に見せてくれた。あっ、パフィだって言ったら、父さん嬉しそうに笑ってた。父さんもパフィのファンなんだな。僕はなんだか父さんが友達のように思えて、晩酌している父さんの前でパフィの「アジアの純真」を歌ってあげた。父さんは懐かしそうに、いつまでも小さな写真を眺めていたっけ。 電車が僕の脇をガタガタ音をたてて通過していく。何台目の電車だろう。さすがに恨めしかったけれど、僕は歩く。素足の裏は、まるで直接石畳の上を歩いているようで、ゴムサンダルの感覚は消えていた。とにかく線路伝いに歩いていけば元のところに行き着くはずだ。当り前のことが偉大な閃きのように思えて、僕は一人ほくそえんだ。 「孝志兄ちゃんが心配して先に戻るか、僕が先に着くか競争だ」 少し愉快な気分になった。きっと迷子にならず帰れたら、おばちゃんは僕を褒めてくれる。孝志兄ちゃんはきっと叱られる。だってそれはしかたがない。僕だってこんなに一所懸命歩いているのだから。 街並にぽつりぽつりと街灯が灯り、薄暗くなった通りに気づく。はぐれた鴎が一羽、夕暮れの真夏の空に大きく弧を描き、海の方へと消えていった。 ふと、手ぶらなことに、僕は忘れ物をした時と同じような気分に襲われた。忘れ物をした場所が気になってしょうがないように、僕は浜に残した孝志兄ちゃんのことが気になり始めていた。今ごろどうしているのだろう。僕のことなんか忘れて他の仲間と楽しんでいるのだろうか。それとも僕を心配して今ごろ街のあちこちを探し回っているのだろうか。 僕は歩く速度を上げる。足はもう棒のように固く重たかったけれど、一秒でも早くおばちゃんのところに戻りたかった。孝志兄ちゃんから電話が入っていて心配しているかもしれない。警察に捜索願いを届けているかもしれない。 電車の駅を幾つも通りすぎた。見覚えのない風景ばかりが夕暮れに続く。父さんと一緒に東京に帰ればよかった。そうしていれば、こんな嫌なことはなかったのに。でも僕はもう少し夏休みをここで過ごしたかったんだ。近所の子とは仲良くなれなかったし、孝志兄ちゃんも威張っていたけど、何故だか僕は東京には戻りたくなかったんだ。父さんが悪いんじゃない。残ったのは僕の意思なんだ。 足が痛かったけれど、休みに休めないこの僕の気持ち、誰もわかっちゃくれない。けど、歩け、歩け。 街はすっかり夜支度にかかっていた。幾つもの自動車のヘッドライトが僕を照らして走り抜けていく。 何だい、このトボトボ感は。何だかとっても腹立たしい。何だかやけに空っぽな感じ。こういうのを虚しいっていうんだな。 と、僕は急いで通りを走り抜けて反対側に渡る。そっと横目で見る。お巡りさんが二人通りすぎて行く。心臓の鼓動が頭の天辺まで届いた。トボトボしている暇はない。僕は自分に言い聞かせ、速度を上げる。煌々と明り輝く市電が、またもや僕を追い越して、急なカーブを右折して消えていく。 「ヘトヘトじゃん」 僕は力なくつぶやく。 シャッ、シャッ、シャッ。ついさっきから響いてくる不思議な音。 シャッシャッシャッ。頭の中で鳴っている。 何故かしゃっくりが出た。目ん玉が熱くなった。汗がしみて痛かった。夏なのに鼻水が出て、しゃっくりが止まらない。シャッシャッ、シャッ。 低い街並に一際大きな建物が現われた。 「やったあ」 僕は思わず叫んでしまった。何故って、函館に着いてすぐに、おばちゃんに連れてきてもらったデパートだったからだ。ゲームソフトを二つも買ってもらった。日記にもちゃんと書いておいた。ここまで来ればもう大丈夫だ。おばちゃんと一緒に歩いた道を思い出しながら進めばいい。そして、おばちゃんがいるお店を見つければいい。完璧なタッチが僕を待っている。 街並が賑やかになった。行き来する人も増えた。店の数も連なって、夜の街に様々な原色のネオンを輝かせている。 シャッ…シャッ…シャッ…。 僕は店の前に立ち尽くす。 シャッ…シャッ…シャッ…。 きれいなお姉さんがハンドルを勢いよく回している。片手に持った透明の器がみるみるかいた氷で山になる。底には真っ赤な苺色。 シャッ…シャッ…シャッ…。 「あれえ、シュンちゃんだあ」 すっとんきょなお姉さんの声が店の中から響いた。その声で、店の奥からおばちゃんが顔を出した。おばちゃんの顔を見るなり、僕は途方にくれた。真っ青になったおばちゃんの顔があったからだ。僕は店の前で身動きがとれない。 目の前で、僕を見つめるだけのおばちゃん。 「お手数かけました。今かえってきましたから」 お姉さんが電話をしている。 うつむいている僕の目の前に、おばちゃんの白い腕があった。僕はそっと手を伸ばす。微かに震えている腕に触れる。 「小豆をひとつ作ってあげて」 おばちゃんはお姉さんにそう言うと、僕を客席の椅子に座らせた。自分も向い側に腰掛けて、うつむいたままの僕をただ見つめている。シャア、シャア、シャアと氷をかく音が店に響いて、 「食べな、シュンちゃん」 と言って、お姉さんが僕の前に山盛りの氷小豆を置いてくれた。僕は氷の山を両手で潰すと、サクサクとスプーンを差し込んだ。 そっと顔を上げておばちゃんに目を合わせる。 ひと雫、おばちゃんの瞳から涙が流れ、白いテーブルに落ちた。 「シュン、帰ってたかあ」 勢いよく店に入りこんできた孝志兄ちゃんが、真っ赤な顔で叫ぶと、ああほっとしたと言ってテーブルの椅子にどかっと座りこんだ。 かき氷が頭にしみた。静かに微笑むおばちゃんがいた。お姉さんは相変わらずシャっシャっシャっと氷をかいていた。 それから一週間が過ぎたころ、父さんは僕を引きとりにやってきた。そして、夏の終わりに、従兄弟の孝志兄ちゃんは、僕の本当の兄ちゃんになった。
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