夥しい数の溺死体が、浜を万遍なく埋めた。寄せてはまた寄せて、死体は浜に流れ着いた。随分、昔の話である。 浜と直角に接する道の途中に、幼い日を過ごした家があった。横にトウモロコシ畑がある小さな家だった。今では人手に渡り、外観も多少変わっていた。無論、内部の様子など知る由もなかった。ただ、道に面した塀の脇に植えられていた一本の雑木だけが、不思議に今もそのままで、旅の途中の私を感傷気分に浸してくれた。
「洞爺丸が浜のすぐ先で沈んだらしいぞ」 夜も十時をとうに過ぎた時分、すぐ上の兄が、一人何をするでもなく寝転がっていた私の部屋に入ってきた。普段なら窓の遠くに、夜の闇にゆっくりと昇っていくロープウェイの赤い明りの点滅を見ることができたが、さすがに今夜の函館山はどす黒く眠っているだけだった。午後になってから窓に猛烈な風が吹き当たり、台風は時間の経つほど牙を露骨にむき出し始めていた。 日陰に入れば肌寒さを感じるほど、九月の終わりともなると、函館の空気はすでに冷たかった。夜の海水はさらに冷たい。どうあれ沈没となれば千人以上の乗客、乗員がその海に投げ出されるのは必至だ。 浜まで走って五分とかからない。兄が柱の懐中電灯を手に取る。私は慌てて雨合羽を羽織る。急いで兄の後を追う。 浜は暗闇の中で騒然とうごめいていた。あちらこちらで、それぞれが持参したであろう懐中電灯の明りが、せわしく交錯していた。怒号がいきかい、海は狂ったように激しく吠えていた。沖には巨大な闇が居座り、全てを見境なく鵜呑みにしている。人々は、次ぎから次ぎと潮水でどっぷりと重くなった死体を、打ち寄せる波から引き上げている。浜はみるみるうちに、溺死体で埋っていった。 朝になっても、溺死体は浜に寄せた。沖は、とうに過ぎたことよと嘯き、夏の終わりの陽差しの中で白い波を砕いていた。
昭和二十九年九月二十六日、死者、行方不明者千百五十五名(生存者百四十五名)、タイタニック号に次ぐ大海難事故。これが私にとって故郷の思い出の一つというならば、これ以上のはかなさは二つと求めはしない。 夏でも高い波を打つ浜には遊泳する人影もなく、啄木像が一人ぽつねんと、何年もの長い時の中で、光り輝く波頭を見つめていた。遠くに白い陽傘が浮かび、いたずらな晩夏の潮風が女の豊かな胸を撫でたようだった。
(この物語は洞爺丸をテーマにしたフィクションです。事実とは異なる部分があります)
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