マニエリストQのストゥディオーロ其の二出会わないかもしれないマニエリストQ●感想などいただければ幸いです。


 きれいさっぱり。なんてことない。
 部屋いっぱいに積まれた段ボールを見つめながら友紀は思った。
 あいつはさっさと出ていって、後始末はみんなわたしがしなくちゃならない。損なわたし。
 段ボールの上に置いたマグカップに浮く白い湯気が心細い。強がってみても、大したわけもなく別れてしまったことが口惜しく、こうやって独りになってみると、二人住んだ匂いのようなものがたちまち薄れていくように思えて寂しかった。これが未練心なんだなと、友紀は自分の腑甲斐無さに少し腹立たしさまで感じた。このまま居てもいいのだけれど、それはやっぱり厭だった。ペアの鍵を一人占めしてるなんて不自然。こんなの惨め。悲惨だわ。まるで安っぽい演歌だわ。そう思って結局、口をついて出ているメロディは舟歌ばかりだった。裸になった天井の電球が、ぽつん、ぽつん、ぽつん。
 明日の朝、わたしはこの部屋を出ていく。

「今夜は帰れんぞ」
 ADの高尾が喚いている。喚けばいいってもんじゃないでしょ。そんなことはみんな知ってるわ。当り前のことを当り前に言われても、頭にくるだけなのよ。でも、友紀にとってはそれが楽しいことだった。余計な気遣いなしで喚いたり喚かれたり。遺恨なんてからきし残らない。テレビのそんなところがたまらなく好きなのだ。
「メイクはどうした。そろそろだぞ」
「もうかかってますよ」
「だったらちゃんと報告しろや。まったく」
「へいへい」
「ひっぱたくぞ」
 それから暫くして、キャスターがモニターに映った。メイクが執拗に顔をいじっている。今夜もきれいだなと友紀は思った。緊急ニュースのために急遽召集された三人のキャスターのうちの一人、佐伯葉子は相変わらず美しい。友紀の憧れだった。この人は失恋なんてしないのだろうな。演歌なんかけしてしないだろうな……。今の仕事に不満はない。大好きだ。けれど、何かが一つ晴れないでいる。あいつと別れてから、その気持ちが募るばかりだ。
 解放されたのは昼に近い時間だった。緊張が解けてがっくりする。それでも、スタッフの掛け合うお疲れさんの言葉に、疲れも忘れる。むしろ、涙がこぼれそうなほどの感動だ。これがあるからやってるんだわと、友紀は納得する。その納得に多少の無理はあったのだが。
「飯食うからついてこい」
 背後から声を掛けられた。振り返ると、高尾が喰わえ煙草で目をしょぼつかせている。汚い顔だ。せっかくの感動もこれでチャラ。
「食事してる時間なんかないですよ。少し寝なくちゃ」
「死にやしねえよ。食うほうが大事だ」
 それもそうだ。二、三日寝なくたって死にはしないのだ。高尾の妙な説得力に腹が納得したのか、急に空腹感が襲ってきた。
「食って食って食いまくりゃ、一時間ぐっすり熟睡できるさ」
 ぽんと叩かれた肩に、なぜか不思議な温度を感じた。掌の重みがいつまでも残った。変なの。可笑しい。友紀はくすくすと笑った。
「気持ち悪い奴だなあ」
 高尾が馬鹿にしたように言う。目やにのついた顔が怪訝そうに友紀を見つめている。汚い奴だ……。

 やっととれた休日なのに。やっと慣れた部屋なのに。気がつくと、小さな声で舟歌ばかり歌ってるわたしがいる。途切れ途切れに歌ってる。鼻水流して目を潤ませて、ご丁寧にアルバムなんて開いちゃって。仕事場で撮った仲間の写真に、汚い顔が混じってる。どう見たって、汚いものは汚い。けれど、けれども……わたしはいったいなんなのさ。
 こんな時はお決まりに、ちょっと粧して街に出る。友紀だってやることは同じだ。CDでも買って、お洒落な店でお茶をして、素敵な休日をぶってみる。「ティファニーで朝食を」なんて気分になってみる。煙草はうまくすえないけれど、これでもわたしはいい女だと、佐伯葉子には勝てないなりに、思ってみる。気取って檸檬ティーにしようかと迷い、とどのつまり、目の前に置かれたのはホットなココア。いいんだよ、いいんだよ。わたしだよ。
 携帯電話がバックのなかで鳴いている。また大きな事件でも起きて緊急の呼び出しか。仕事をやってたほうが気楽かもしれないと、友紀はバックから携帯を取り出す。
「指輪、捨てたろうな」
 あいつからだった。
「あたりまえじゃない。あんたのほうこそちゃんと捨ててよね」
 つまらない男だ。別れて正解だったと友紀は改めて認識する。
「それにな、携帯のメモリも消しとけよ」
 何を自惚れてるんだ。あんたの番号なんてとっくのとうにあの世行きよ。
 勝手に掛けてきて勝手に切れた。ちっともお洒落じゃない。からきしセンスのないわたしの生活……バックの隅に、華奢な指輪が一つ埋もれたままだった。
 店の外は、靄がかったように暗がりはじめ、街灯もぽつぽつと灯り出す。三月にもなるというのに、街の空気は冴え冴えとしてまだ冷たい。街行く人間はコートをどうしたものかと思案しているようにも思え、街のなかに季節の変わり目を見ることができた。それでも春に変わりない。わたしの春はいつ来る。はあるよこい、はある、よ……店内から見える道に信号待ちした高尾が立っていた。何だか粧してる。びしっとしたスーツ姿が恰好いい。まるで別人のように、食わえ煙草でしょぼついた目つきも決まってる。汚くないんだ……。
 そして、何よりも素敵な女性。魅力的な瞳を薄く隠したサングラス。コートから覗くすらりとした脚線。高尾の腕に腰を絡まれた佐伯葉子だった。人目を忍んでか、俯き加減だったが、友紀には彼女とはっきり見て取れた。横断歩道をゆっくり、ゆっくり、スローモーションのように、二人はこちらに向かって歩いてくる。まるでシネマみたいと友紀は思った。そして、二人はスクリーンの外へといつか消えていった。
「かなうわけないか」
 それはむしろ晴れ晴れとした気持ちだった。人って……友紀は思う。やり直す何かを探してるんじゃなく、やり直すためのきっかけを探してるんじゃないかしら。踏み出すための動機みたいなもの。それは諦めなんかじゃなく、度胸というか、勇気。つまり、腹を決めるってこと。
「食って食って食いまくるぞー」
 夜の街は、玩具箱のように、煌々と輝いていた。
 
 空港のロビーに、黒のキャリーバックを一つ引きずった友紀がいた。中身は下着とラフな上下、そしてニューヨークのテレビスクール入学申込書。身軽この上ない。
「まあ、それもいいか」
 しょぼい目で高尾がそれだけ言った。二週間前のことだ。ぽんと叩いた高尾の掌の重みが、一週間居続け、残りの一週間ですっかり去っていった。
「女を磨いてきます!」
 仲間から拍手が湧いた。喰わえ煙草の高尾の目が細く微笑んでいる。その微笑みは自分のものにはならなかったけれど、惜しくはない。わたしは踏み出したのだ。
 そして友紀は今、ここにたしかに立っていた。
 JL6 744便 12:00 発NRT→JFK
 友紀は搭乗口に向かって軽快に歩き出す。歩きながら、無造作に、サイドバッグから摘み出した何かをダッシュボードに捨てる。小さな金属音がした。十二時間とちょっと。その時には、わたしはもうニューヨークだ。期待なんか求めていない。わたしは自分の手で期待をつくるのだ。未練のすべてをダッシュボードに捨てたのだから。
 あと少し。友紀は搭乗口付近のソファーに腰掛けて電光掲示板を見つめる。
 ふと、漠然とした気配を感じた。それはどこか懐かしく温かい視線だった。