どんなに豪華でも、またはありきたりのものでも、それらは「小さな魔法の箱」と呼ばれていた。いえいえ、それはびっくり箱などという乱暴なものではない。愛らしい子猫の柔らかな背をそっと撫でるように、優しく愛でるがごとく、上蓋を開けなければならない懐中時計のことである。 ジャンヌは、いつもと同じように朝もやの立ちこめる広い牧場に一人立ち、掌に載せた懐中時計をまだ覚めやらぬ目で、しかし大事そうに見つめていた。少し離れたところでは数頭の牛がまるで置物のように白くぼやけた輪郭で霞んでいる。 ジャンヌは懐中時計の上蓋をそっと開けた。生地彫七宝の華麗な装飾を施した蓋だった。ホウロウ仕上げの純白の文字板の上に、金色の短針が五を長針は十二の数字を指していた。それは朝もやに濡れた牧草の匂の中でようやく目覚めるジャンヌの朝の時間だった。
「ジャンヌ。これは僕がジュネーブの美術学校にいた時に作ったものだよ。素敵だろう」 そう言ってダンは厚さ十二ミリ、直径五十四ミリ程の丸型の懐中時計をジャンヌの掌に載せた。そしてジャンヌの小さな身体を優しく抱きしめたものだった。あの忘れられない優しい抱擁からすでに一年の月日が過ぎていた。ダンは今どうしているのだろう。時計師として立派に働いているのだろうか。それとも、新しい恋人ができて私のことなど思い出すこともなくなってしまったのだろうか。閉じた七宝の上蓋には恋人同士が見つめあい語り合う図柄があった。それはジャンヌに一年前の自分たちの姿を思い出させずにはおかなかった。
遠くで鶏が鳴いた。牛の乳を搾るジャンヌの傍らを田畑に向かう白い影が一人二人と通りすぎてもやの中に消えていく。暫くすると鉄を打つ音が微かに響き始めた。その音はいずれ牧場をくまなく取り囲むように四方から鳴り亘った。ジュラ山間の時計工の村の一日が始まったのだった。 この村では家族のすべてが時計工であった。母も妻も家事や農事の他に時計の組み立て工場で働いた。子供は徒弟奉公に入った。少ない賃金ではあったが、日曜日の休息日をとる以外、みな勤勉であった。大量生産のために時計工はうすら寒いアトリエで一日十時間以上の仕事をした。ジャンヌもまた例外ではない。牧場を手伝う傍ら組み立て工として工場で夜遅くまで働いた。ジャンヌにとってただ一つの幸せは、誕生日に恋人のダンがくれた愛らしい七宝の懐中時計をうっとりと眺めて過ごす時間であった。それは、止めどなく流れ落ちる涙を伴った時間でもあった。
夏のさんざめく陽が葉にあたり、牧場をよぎる小川にコントラストの強い陰りを落としていた。そよと吹く風が葉を揺らし、川面が微かにざわめくと眩しい光が目を射った。葉陰に係留した朽ちかけた小船の上で、ダンはジャンヌに言った。 「僕は近々ジュネーブに行く。キャビノチエになるんだ」 ダンは瞳を輝かせて熱心にキャビノチエについて語り始めた。ジャンヌはただはにかむだけだった。ダンの目はすでにジャンヌを通り抜けていた。彼女の知らない遠い世界に向いていた。そのことをジャンヌはダンの瞳の奥に感じていたからだった。 かつてキャビネと呼ばれる時計工芸のアトリエがジュネーブにあった。キャビノチエとはそのアトリエに由来する時計師たちの総称である。キャビノチエには独特の秩序と気質があった。決して選民意識などは持たなかったが、いかなる場合も他の組織に従属することがなかった。大量生産を排し、確かな職人芸で趣味豊かで優雅な小物工芸の創作に徹した。雇用関係における主従関係の差別もなく同じように働いた。しかし、日々はそれなりのパンにありつける程度のものではあった。またその気質は、単に技術にのみに囚われることなく、本に親しみ、種々の会話を楽しみ、知識と見識の習得に良識をもって臨む好奇心旺盛なジュネーブ市民でもあった。 ダンは、ジュネーブの美術学校で時計工芸を学ぶ傍らキャビノチエのアトリエに出入りし、優れた職人芸とその独特の反骨精神ともいえる人間性に心を打ち震わせた。美術学校を卒業すると、キャビノチエの理想を抱いて故郷のジュラに戻ったのだった。
「ここは駄目だ。息が詰まる。国の権力が僕たちを締め殺す。大量生産の時計など僕は作りたくない」 ダンの熱心な言葉が続く。相変わらずジャンヌは深い瞳の奥で黙しているだけだった。 「もっと自由がほしい。古い習慣などいらない。だってごらんジャンヌ。教会だって僕らの生活など潤してはくれない。死んだ後の救済なんて何の意味があるっていうんだ。国民を圧迫する労働条件は絶対に改善しなけりゃいけないんだ」 そう言ってダンは小川の水を激しく掬った。その弾みで小船が揺れた。ジャンヌは思わず小船の縁を強く掴んだ。うつむいた瞳の下には投げ出されたダンの逞しい足があった。その靴先が小さな涙の雫で濡れたことをダンは気づいていたのだろうか。 それから間もなくダンは家族に別れを告げてジュネーブへと旅立った。ジャンヌにはたった一つの懐中時計が残されただけだった。それでも、旅立ってから三カ月目まで五通の便りがジャンヌに届いた。どれもキャビノチエの技術を磨いているという近況を知らせるものだった。ただの一言もジャンヌに思いをはせたくだりはなかったが、それでもジャンヌにとっては嬉しかった。時々思い出したようにくれる便りに、いまだダンの愛情が自分にあるとを思えて幸せだった。しかし、その便りも四カ月目からはぷっつりと跡絶えた。ジャンヌの手紙も宛先不明となって戻ってくるばかりだった。そしてダンが村から去って1年の月日が砂流のごとく過ぎていった。
ダンの夢みたものは何だったのだろう。精緻な金細工を施した懐中時計の丸い縁を細い指でなぞりながら、ジャンヌは過ぎた日々を思い出す。 ダン、あなたが去ってからこの村にも色々なことが起きたわ。まるであなたがあの小船の上で言っていたことが現実になったの。村の沢山の職人たちが一日籠りっきりだったアトリエを出て、役人たちと戦ったわ。選挙の投票を棄権したり、会議があると旅費も乏しいのでどこまでも歩いて出かけていったわ。泊まる当てさえなかったのに。戻ってみれば仕事を失ってしまった人も沢山いた。それでも自由が欲しかったのね。自由こそ絶対だったのだわ。だってあの人たちは、こんなにも美しい時計を作る人たちなのだもの。 一番の自由は時間を取り戻すことだったのね。ダン、あなたの望んだことが私もようやくわかった気がする。自由って、時間に目覚めることだったのだわ。温かいお茶を楽しみながら仲間と議論する時間。仕事の前にまず季節の花を愛でる時間。宙を翻る鳥に新しい時計の形を瞑想する時間。すべてが自由な自分の時間だわ。でも…。 少しづつもやが晴れていく。初夏の空気は朝の光にゆっくりと溶け込み牧草の匂を緩慢に吸収していく。 …でも、今は元通りだわ。やり過ぎたのかもしれない。休日は日曜日だけで我慢すべきだったのね。あと一日と望んで月曜日も休むようになったの。そう。ブルーな月曜日と呼ばれたの。清々しい真っ青な空の下で過ごす自由な時間のはずだった。けれどそれではアトリエが成り立たなかったのだわ。随分な人たちが給料を減らされたり、辞めさせられたり、酷いことに暴力で脅された職人も沢山いたみたい。 結局は元のまま。ほら、ご覧なさい。無数の鉄を打つ音が忙しなく牧場に響き亘っているわ。きっとこの音は夜中まで続くのよ。 ダン。あなたの夢は実現しましたか。私にくれた時計のように、また幾つもの美しい魔法の小箱を作っていますか。その幾つかは私の知らない女の人にあげるのですか。もしも小箱が本当に魔法をかけられるなら、もう一度あなたを連れ戻してみたい。そしてあなたと私の休日をあの懐かしい小船で過ごしたい。二人だけのブルーな月曜日。自由な、とっても自由な時間。 ジャンヌはたっぷりと乳を浸したバケツを両手に立ち上がる。それを運び終えれば工場の仕事が待っている。いつもの時間が過ぎていく。時を刻む無数の音の中で年老いていく自分が見える。けれど、村の女たちは皆そうなのだからと自分に言い聞かせた。
ジャンヌは立ち尽くす。 溢れ落ちる涙を両手のバケツのせいで拭えない。だって、ご覧なさい。わずかに残ったもやの陰に現われては消える見覚えのあるシルエットを。広い歩幅で堂々と近づいてくる若者の姿を。それに何と滑稽なあの姿。首から肩から、さらに腰までも、朝日に照らされて美しい懐中時計が無数に輝いている。キラキラチクタク、自慢気に底抜けに明るいダンがいる。両手を広げたダンがいる。
牧草にこぼれ落ちたバケツの乳を二頭の牛がゆっくりと舐めた。
参考資料/『16世紀から20世紀のスイス時計』(「人と時」研究所ラ・ショー・フォン、スイス刊) |