或日、遅い昼食に蕎麦でも食おうと妻を近所の蕎麦屋に誘った。空は今にも降り出しそうだったが、蕎麦屋は歩いて五分とかからなかった。 店に入ると何やら薄暗い。客もほかには居ない様子。カウンターに席をとり品書きを眺めていると、店主がまるで幽霊のように音もなく店の奥から出てきた。二度ばかり来ていたので店主は私たちを知っているはずだ。しかし店主に覇気がない。小声で「いらっしゃい」と言ったきりうつむいたままである。 妻は天ぷら蕎麦を頼み、私が鴨南蕎麦を注文した。店主はこくりと頷いたが声がない。それでも目の前で蕎麦を湯にかけて支度を進める。心無しか湯はぬるそうに思えたが、まあ待つことにした。すると店の奥から、小学五、六年生だろうか、一人の男の子が出てきて蕎麦をつくる店主の傍らで丼をせっせと洗い始めた。 「父さん頑張ろうね」 男の子が店主の背に話しかけた。店主は黙って頷く。私たちも黙って顔を見合わせる。 「大丈夫だよ父さん、僕が居るから」 店主はまたも頷くだけだった。男の子は洗い物をしながら店主の様子を窺いつづけていたが、その瞳に宿した潤いは今にも大きな滴となって落ちてきそうだった。 「女房が居なくなったんです」 いきなり店主が私たちに向かって言った。店の中が暗かったせいか、大柄な店主が小さく感じ、頬も落ちているように見えた。私たちは呆気にとられ、ただ店主の顔を見つめるだけだった。 「客の一人なんです」 「突然なにも言わずに居なくなったんです」 「嫌だったんですね、この商売」 言葉がぶちぶちと切れた。釜の白い湯気が店主の顔を半分ばかり隠す。 「父さん僕が居るから」 店主の前掛けの端を小さな手で握り男の子が言う。そう言えば、小柄でふっくらとしたおとなしそうな女が店に出ていたことがあった。ああ、あれが店主の女房だったのかと、改めて思い出された。 ほどなくして蕎麦が出来上がってきた。私たちは、黙々と食べ、すすった。掛け忘れた七味唐辛子が心残りではあったが、とにかく一心不乱に食べた。 いつの間にか、小さな女の子がカウンターの中に居た。きゅっと噛んだ唇がコケシ人形のように愛くるしかった。居なくなった女の面影があった。
「寒いね」と妻がぽつりと言った。 外は煙るような霧雨だった。振り返ると、店の煙突から細い白煙が一筋、すうと伸びて濡れた空に消えていくのが見えた。 以来、私は二度とその店に妻を誘うことはなかった。
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