マニエリストQのストゥディオーロ其の六 | 僕の散歩 | マニエリストQ | ●400字詰約37枚程の物語です。感想などいただければ幸いです。 |
小さな坂を、そうと気づかねば、あれは坂だったのだろうかと疑問に感じるほど短い坂を、夏の太陽がたったいま頭の真上に昇ったばかりのとき、僕は歩いていた。 ![]() ……机の上に山積みになった書類を一つずつこなしていた。こんなにも忙しいのは、僕自信の優れた能力と才能のお陰だと、僕は自負していた。僕が作成するすべての書類はどれも完璧で、芥子粒程のしくじりがなかった。必然的に仕事の依頼は増加し、物理的な限界となって、机の上は未整理の書類で堆い山となったのである。それはそのまま僕の経済を潤し、恋人をも十分に満足し得る資金を保証してくれるのだった。書類は手際よく処理され、最後に僕の捺印が終えると、一部ずつ水色の上質紙によってファイルされた。 「ビバルディを見事にこなしていますね」 天窓から黄金色した大きな顔が覗いて言った。 「ええ、お陰で」 僕は自分の頭上に浮いている輝く顔にさり気なく応じた。 「バッハもいいもんです」 天窓に満ちた顔は上機嫌で話しかけてくる。僕は無意味な名前を羅列されることを懸念して、足元にいた黒猫を爪先で突ついた。すると、いままでごろごろと喉を鳴らしていた子猫は天窓に向かってうーっと唸った。 「失礼しました。お仕事を中断させてしまったようです。猫さんごめんなさい」 「こんど顔を見せるときには、上等の魚を一匹手土産にしてください。できれば煮魚がよろしいようで」 僕は唸っている子猫を肩にひょいと担いで言った。それきり、天窓の顔は僕に話しかけようとはせず、じっと輝いているだけだった。近いうちに僕はこの天窓に見事に美しい絵を描こうと思った。構図は山椒魚が地平線から大きな鼻を出している場面になるだろう。何故って、この僕だって以前は絵を描いていたのだから。想像しただけで嬉しくなって僕はくすくすと笑った。 書類の山がどうやら半分くらいになったとき、パソコンのメールマークがちかちかと点滅したので、それを見て苛々したのか、子猫はメールマークを肉球で叩くと、薄暗い庭の奥へと消えて行った。 「僕です」 「ああ、僕ですか」 「お仕事中に申し訳ありませんが、ご連絡をと思いまして」 「いえいえ、僕のほうからも連絡をしなければと、昨夜寝床で感じ ていました」 「では、すでにおわかりですね。お待ちしています」 僕は再び仕事に戻った。書類はどんどん仕上がり、机の上は瞬く間にすっきりと整理されていった。どれもが立派な出来上がりで、猛スピードで処理されたにもかかわらず、どんな失敗もなかった。僕はそのことを当然と理解し、水色の上質紙にファイルされた書類の数々に大きな満足感を充足した。 天窓を見上げると、山椒魚の鼻が天窓いっぱいに描かれていて、何時の間にか戻っていたのか、足の爪を丁寧に嘗めている子猫が足元にいた。そこで僕は今度は子猫を足の裏で軽く踏みつけた。すると子猫は裏返しになって僕の足の小指を強く噛むのだった。 「よし。これでいい」 天窓の山椒魚は真夏の陽光に薔薇色に輝き、部屋いっぱいに美しい影を落としていた。 僕は山椒魚の影の上で洗い晒の白い開襟シャツに着替えると、蒸した夏の懐に潜り込んだ。例の小さな坂道にさしかかったとき、踏切を急ぎ足で渡ろうとする一人の老人を見つけた。Yシャツの尻尾がズボンからはみ出している。身体中から汗を噴き出し、通りすがりの人間に無遠慮に撒き散らしている。老眼鏡がいまにも鼻からずれて銀色のレールの上に落ちそうだった。老人は僕の処理した水色のファイルの束を大事そうに抱えていた。老人を見たのは一瞬のことだったように思えたが、気の利かない太陽は、僕の眼球を日光写真に仕立ててしまったらしく、老人の走る姿をいつまでも踏切の途上で留めてしまったのだった。僕は見てはいけないものを見たようで少し機嫌を損ねた。老人も僕に気づいていれば、僕と同様に気分を害したことだろう。 踏切が閉じて、眼の前を激しい鉄の音を軋ませて電車が通り過ぎて行く。僕はその電車のドアに、汗で染みた眼をしょぼつかせながら僕に向かって頭を深く下げる老人を認めた。それで僕はますます不機嫌になったが、老人は目的地に辿り着くまで、きっと僕の姿を脳裏に残すことだろう。この優れた能力の持ち主であり、老人の雇い主でもある童顔のこの僕の姿を。 暫く歩くと大通りに出た。信号機の赤が僕の歩行を強引に阻止したので、僕はしかたなく炎天の下に立ち尽くした。宙に浮いている高速道路の影が数珠繋ぎになった自動車の屋根を覆い、大通りの随分先でアスファルトの上で蜃気楼のように揺れる自動車の列が並んでいた。僕は夏の陽光に悶えて崩壊してしまったバベルの塔を見る思いがした。それは道路が幾重にも重なって、まるで内部が錯綜する洞窟の中で横倒しになって崩れ落ちる鉛色の塔だった。しかし、眼前の塔はすでに倒れてしまっていて、崩壊の途中ではなかった。だから、それは僕と無関係である。僕が拘泥するのは崩壊の瞬間とその途中だ。僕が希望することは、自らの手で崩壊を創り出すことであり、その瞬間を目撃することであった。 信号が青になったので、僕は自動車の透き間を縫って向こう側に渡った。そして小さな路地を抜け、焼けた石を践み、更にゆっくりと歩き続けた。そして、いつしか深い森の懐に忍び込んでいたのだった。 森の中は一つとして光がなかった。僕の足元の小さな径も、その先に続く湿った土も、夏の陽を徹底的に遮断して大きな影となっていた。森の径はひっそりとうねっていた。深い森の奥へと誘導するかのように、冷たい風が僕の長い黒髪を撫でた。うるさかった鳥のさえずりが疎らになるころ、沢山の蝙蝠が僕の頭上を掠めて飛び交い始めていた。どれくらいの時が過ぎたのか、陽は完全に地平線に沈みその匂さえ消していた。 青白い灯が森の梢の透き間から漏れていた。背の高い瓦斯灯だった。灯の周りを無数の夏虫が群れている。その光景はエルンストのコラージュのように腐食し、間もなくやってくるだろう虫達の確実な死を予言していた。灯を包んだ硝子の表面は虫達の渇いた体液で緑色に輝いている。灯はその奥の闇に一塊の巨大な影を朧に照らし出していたのだった。 僕はその影の塊に向かって歩いた。足元はおぼつかなかったが、つまずくこともなく歩けた。塊に近づいたのでそっと右手を伸ばしてみると、ざらついた石のような、或いは煉瓦のような冷たい感触が掌に伝わってきた。僕は塊に沿って手を当てたままゆっくりと歩いた。ざらついた感触が暫く続いた後、塊の角を感じて右に曲がった。すると五メール程の先にほのかな矩形の明りが見えた。その明りの所為で、この黒い影の塊が大きな建物であることを理解した。矩形の明りは窓からこぼれた内部の灯であったのだ。 僕はあらためて建物の壁に両の掌を当ててみた。建物の中から不可思議な鼓動が微かに伝わってくる。耳の内側に神殿を所有した人間がいたように、僕もいま、脳に僕自身の宮殿を感じることができた。そして、この建物は僕のために用意された宮殿なのだと悟ることができた。 窓の少し先に背の高い頑丈な一枚扉があった。扉はかなり重かったが静かに音もなく開けることができた。僕は宮殿の内部へと踏み入ったのである。 ![]() 「聖なる森はいかがでしたか」 遥か頭上でビロードのように滑らかな、しかし低く重い声が響いた。それは吹き抜けの天井まで届きそうな巨人の囁きだった。ほの暗い明りのために、巨人の形相を見定めることはできなかったが、双の眼球が異常に輝いているのがわかった。 「風が僕の自慢の髪を撫でてくれました」 「風もいまではここですっかり寛いでいます」 僕は巨人の足元で梯子が用意されるのを待ちながら、先程から森の遠くから聞こえてくる異様な音に気をとられていた。錯綜する森の隅々を隈なく這うように、呻くような、または歯を噛みしめるような、戦慄かずにはいられない響きだった。 「海神が叫んでいるのです」 僕の不安を察してか、巨人が言った。 「どうかしたの?」 「石から解放を! と言っているのです」 続けて、 「いまに起こったことではないのです。この私でさえ、つい3日前に解放されたのですから」 と言って、巨人は私の足元に長い梯子を降ろしてくれた。 「ネプチューンによろしく」 僕は巨人にそう伝えると梯子を一段一段昇り始めた。 「気をつけて」 僕の眼の前で屈んだヘラクレスの大顔面が優しく囁くのだった。 一段ごとに空気の色が変化した。七階調の幅広い虹色を一つずつ渡っていくような思いだった。眼下を見下ろすと、ヘラクレスが米粒程の大きさで僕を見上げていた。 部屋はまさに月色だった。柔らかな月光が悠々と輝き、手に届くのではないかと思えるくらい大きく、月は部屋の窓いっぱいに浮いていた。再びいまきた眼下を覗いてみると、ただ朧な暗闇があるだけで、巨人の姿も、そして梯子も消えてなくなっていた。僕はゆっくりと部屋を見廻した。二十畳くらいだろうか。壁も床もそして柱もすべてアーモンド色の大理石でできていた。所々に人工的な幾何形態が配置されている。僕は挨拶代わりに丁寧に頭を下げた。何故なら、その幾何形態の上や様々な仕掛けのある場所に、思い思いに寛ぐそれぞれの姿を見ることができたからだ。倒れかかったまま途中で停止している柱に身体を預けている者。巨大な顔面がぽっかり空けた口の丁度唇と歯にあたる部分に腰掛けている者。万年筆の黄金色のペン先を仔細に観察している者。或いは、小さな柄鏡に天窓の星を映している者。誰もが僕を見て優しく微笑んだ。 僕達は円やかな月の光の内で集う。ここは魅惑的な心の密林だった。ところが僕達は、密林の謎や、不規則性や、歪曲性を解くことはしない。素直に、それらの迷宮を享受し、震え、そして美しい動揺を望み、味わうのであった。宴はすでに始まっていた。それぞれが変容して止まない存在として、僕達は僕達となって入れ替わり、互いが僕になった。部屋の内部は、例えばキルヒャーのように全ての原理が埋もれていて、その原理は密林に巣くう夥しい朽縄のごとく稚拙な表情で姿を現わし、熟した果実のように老朽な技術によって、陰微に、歯車そのものとなって、記号そのものとして、組み込まれているのだった。 風が静かな渦を巻いて部屋の中を移動した。僕は渦を眼で追い、微かに笑んで、森の案内人にお礼の挨拶を送った。 「或夜に、無数の枕が闇の中を飛び交うのを目撃しました。枕は僕の頭の下にたった一つきりなのに、どうしたことでしょう。どれ一つとしてその飛行を中断することができません。僕は辛くて悲鳴をあげたのです。その瞬間、僕はやっと安らかな眠りにつくことができたのです」 「僕は世界中を逆立ちして歩き廻ったものです。身体中の血という血が頭の天辺に下りて、思考不能になって苦しみました。それでも両の腕は疲れを知らず、見たくもない世界の風景を見せられてしまったのです」 錯綜し、未決定で、常に沈殿した部分で変化する思考のように、僕達は話した。 「僕はいま幼児の恋をしようとしています。肉体と心の進行に逆い、肉体と心の逆行する統一を計画しています。心の時間飛行機を作り、あらゆる心の針とあらゆる心の時に合わせ、飛び廻るのです。まるで歴史の鏡のように」 黄金色の万年筆がきらっと光ると瞬く間に再びほの暗い月明りの中に紛れた。 「僕の意識はいまここに在ります。けれども僕の意識の場を意識するこの場は、或時、突然に別の場に在るのではないかと思えるのです。その場はテーブルの縁であったり、海底の砂の中であったり、或いは飲み込まれたコーヒーのように、人間の内臓の中であるかも知れません」 「僕は現の夢の中にいる。僕はこの事実をいつの日か知ることができるだろう。夢の眼覚めと伴に」 誰もがそれぞれの方向に話した。僕達はことごとく意識の場に在った。けれども、この場はいったい何処の場なのか? 解らない。しかし、解る必要はなかった。どうしてって、僕達は精神の密林で遊ぶ探検家なのだから。そして、僕達は甲板の上で醜い羽を晒す信天翁ではない。羽毛布団のための鳥でもない。僕達は天空を見事に舞う信天翁であり、それを望む者達なのだ。 小さな柄鏡が動いて月光を部屋の中心に寄せ集めると、一人の男の姿が晦冥の宙に現われた。両腕を腰に当て、胸を威猛高に張り、 青白い顔面は唇をへの字に歪めていた。 「ようこそ、僕の部屋に」 僕達は声を揃えて静かに言った。 「迷惑だ。実に不愉快だ。俺はいまやっと出来上がる絵の仕上げをしている最中なのだ。これだってようやく完成する筈なのに」 男はそう言って掌程の光る星を胸のポケットから取り出した。光る星は僕達の顔を照らし、いつまでも輝いていた。 「それは済まないことでした」 巨人の顔に腰掛けた僕は、僕達の思考によって投射した幻の男に、まるで独り言のように言った。すると男は不機嫌窮まりないといった面持ちで僕を指差して言った。 「君達は俺をどうするつもりなのだ」 「僕達の分離する精神の卵で、あなたの肉体を可食な肉塊に調理するのです」 「俺をハムかソーセージにするつもりなのか」 男は蔑むように眼球を光らせて言った。 「その通りです。現実と、唯一秘匿可能である神で、あなたの尊敬するところの干渉ハムエッグを作るのです」 「それは惨い。まるで裁判ではないか」 「僕達は精神に巣くう者達であり、法衣を嫌う異端者なのです。ですから、これは裁判ではありません。まごうことなき私刑なのです」 森の奥で岩肌にとり憑かれた巨人達の呻き声が轟き渡った。地の底を這うような暗く重い響であった。 男は間もなく裁かれる。巨人達よ、その時を待つがいい。僕は呻く巨人達を諭すように独りごちた。信天翁になることを中止した肉体よりも、巨人のざらついた岩肌のほうがより魅惑的なのだ。男は血の色を失し、柔らかい筈の唇は見捨てられた洞穴のように凝固していた。その苔臭い口から吐き出される言葉を僕達は気長に待った。 風が男の身体を旋回して部屋の温度を急速に変えていく。男は冷気に震えたが、手にした光る星はいかほどもの温もりを男には与えてくれなかった。しかたなく男は言った。 「青臭い。君達はいつまでも幼くて結構なことだ。もっと世間を知るべきだ。もっと世間に馴染むべきだ」 男は怒りでわなないていた。己の理不尽な運命と恐怖で戦慄いていたのかも知れない。僕達にしてみれば、それはどちらでもいいことであった。僕達にとって男の心の動揺など、何の意味もなく、また必要のないものであった。 すでに男から取り上げていた光る星に、黄金色の万年筆は文字を記していた。その文字を叫ぶために、巨顔は部屋中の空気を吸い込んでいた。柱は振動し、柄鏡は忙しなく光った。僕達は部屋の空気が強く逆巻く中で、長い髪を乱し、互いに見つめあった。森の巨人が再び呻いた。 黄金色の万年筆が光る星を高く掲げた。刻まれた文字が、眩しく輝いた。そして、巨顔が叫んだ。 「聖なる森の生贄に!」 大理石の柱が激しい音で崩れる。柄鏡は粉々に割れて四方に散る。男は呆気にとられ、僕達を見廻す。光る星を失った掌は白々しく月光に晒されていた。 「これはどうしよう」 僕は光る星を指して言った。 「空に戻しましょう。もともと他人の星なのですから」 僕は答えた。そして、光る星をひょいとモスグリーンの夜空に投げやった。 ![]() 僕達は月明りの森にいた。大きな石の塊がそこいら中に散在している。摺り鉢状のもの、円筒状に穴を空けたもの、円推形に刻まれたもの、矩形のもの、殆どが何がしかの細工が施されていた。ざらざらした石の表面は月光を受けて陰影の深い凹凸を見せている。石を覆った苔の匂が森に万遍なく漂っていた。 男は不安を剥き出しにして、僕達の先頭を歩いていた。生い繁る雑草と茨に足を絡めとられ、ぎこちない足取りで歩いていた。男にとっては苦痛の伴う長い道のりだったに違いない。僕達は微かに浮いて地面を滑るように規則正しく移動していた。 小さな谷に出た。すると、僕達の前に巨大な影が立ち塞がった。凝灰石の巨女だった。頭上に載せた水盤に竜舌欄が繁り、濁った水が溢れて太い髪の毛の表面を伝わっている。豊かな乳房が僕達の上に大きな影を落としていた。 「世間の匂がする」 巨女は唸るように言った。岩肌の顔に霞が過ぎり、双の眼が鈍く輝いた。視線は男を捉えて逃さない。男の全ての肌は蒼白と化していた。恐怖のあまり数歩退き茨に足をとられて崩れた。僕達は男を優しく抱え起こさねばならなかった。怯えきった男の眼は焦点を喪失し、虚ろな眼が僕達を見廻すが、その瞳は彷徨っていた。巨女は何かを要求するかのように再び唸った。僕達はその呻きに答えるように、全員で女の巨大な乳房を指差した。男は激しく頚を振り、懇願するかのように、両手を左右に大きく開いた。それでも僕達は女の乳房を指差したままだったので、男は、とうとう力尽き断念したのか、巨女の両脚の間にのろのろと潜り込んでいった。そして少しためらった後、女の身体にもつれた太い蔦に伝わって、起伏の激しい岩肌を危なっかしく登り始めたのだった。 僕達は男と女を置き去りにして谷から抜けた。そして怪人である悪魔の頚の中で憩った。怪人の身体は、全て地に埋まり、洞窟の入り口のごとくぱっくりと口を開けた大きな顔が、下唇の部分から闇の中に突き出ていた。獰猛な下唇がステップの役目を果たし、僕達を恭しく招き入れてくれたのだった。 ここまで読まれた読者諸兄は、この森を作者の妄想の産物であると誤解されてはいないだろうか。話の途中ではあるが、誤解は作者にとって甚だ遺憾であり、以後に続く物語に多少の支障を来す恐れを覚えるので、この森について若干付記しておくものである。これを信ずるか否かは、あなた自身のことであり、作者はその是非を問うものではない。更に、森の由来や歴史に関しここで詳細を述べることは余り得策とは思えぬから差し控え、まず簡単なデータを記す。重要なことは、それ以降の羅列にある。この羅列に読者諸兄が各自の評価と想像を巡らせていただきたい。その具合程度により、後から再開する物語がどのような価値を喚起するか、つまりあなた次第となるのである。 聖なる森に関するデータ。 この森の名称をボマルツォの聖なる森という。イタリアのローマ郊外ヴィテルボ近隣の小邑ボマルツォに接して所在する。1560年直後、領主ヴィキノ・オルシーニによってできた庭園である。 以下、聖なる森に関わる或いはまつわる羅列。 ミケランジェロとレオナルド・ダ・ヴィンチの知的幻想の怪物。 アタナシウス・キルヒャーの生理学。 オディロン・ルドンの無限。 ゴヤの妄。 サルバドール・ダリの偏執狂的巨人。 マックス・エルンストのヴィジョン。 プラトンのプラタナスの樹の下。 ダンテの地獄篇。 シェイクスピアのリア王。 マラルメの賽の一擲。 カフカの変身。 マリオ・プラーツの肉と死と悪魔と……。 ああ、これ以上の羅列は止めとしよう。これらの羅列をどうイマージュするかは、まったきあなた自身なのだから。一つ言えることは、この森が数百年、村人により、悪魔的で性的な狂った宴と見られていたことである。 僕達はそれぞれに憩い、洞窟に予てより用意されていた甘美な葡萄酒を楽しんだ。葡萄酒の瓶と華麗なヴェネチアグラスが接触する乾いた音色が、こだまのように洞窟の内部に響き渡った。僕達はその澄んだ明確な音色に言葉にできない満足感を味わった。グラスの酒を飲み干すたびに、その音色は繰り返された。月光が洞窟の口から斜めに射し込み、石の卓を青白く照らしている。足元の冷えた地中には悪魔の頚の巨大な身体が埋もれていた。それはまるで北京家鴨のように飼育される怪人だ。僕達は怪人の口に飲み込まれた栄養物質だった。けれども、この怪人は北京家鴨のように柔かくはない。また、決して地中から抜け出ようとはしないのであった。 僕達はそれぞれに想像した。その後の男と女のことを。 ──竜舌蘭の葉が激しく揺れて水盤の水が大きく波打った。巨女の密集した髪がうねると男の身体を宙高く捕えた。乳房が男を圧し、分厚い苔に口を塞がれた男は激しく喘ぐ。苦しさの余りか、はたまた喜びの極まりか、男は女の乳房を荒々しく揉みほぐし、あらん限りの力で乳頭を吸った。色を失った唇で嘗めた。沢山の苔が男の身体に万遍なく付着した。そして、女と少しずつ同化していった。男は、自分の身体が巨女のように巨大に変貌していくのを、驚愕の内に感じた。が、女が縮小しているのだろうか。判断ができない。どちらにしても、その意味に於いて同質であった。 女は男を抱きしめて天空高く立ち上がり、そして均衡を失った。地が轟いた。大量の苔が抱きあう二人の身体に舞い落ちた。男は女の長い髪を鷲掴みにして抱き寄せ、厚い唇を吸った。巨大な同質物として二人はもつれた。数多の輝く星が忙しなく移動を繰り返し、月光が二人の肉体に降り注いだ。大量の木々を薙ぎ倒した。石の塊がぶつかりあい、闇のなかに激しい閃光を散らした。多数の地虫が圧し潰されて緑色の液体を撒き散らした。 男と女は、歓喜の息を唇の奥から吐いた。男はいつまでも女の密林に沈み、放心の愉悦の中に漂った。 異様な呻きが洞窟に這入ってきた。呻き声は森の全てに響いた。それは、男と女の発した最後の呻きであった。 僕は怪人の口から月明りの森に出た。点在する石の塊が揺れているのが見える。どれもが大きさと形を失った、混沌とした風景だった。過去と未来が混合していた。僕自身も大きさの均衡を喪失して巨大化しているように思えた。霧が僕を覆い、入道虫やスクモムシが足元で這い廻って、星の光が瞳の中で輝いた。地の微粒子が足の甲を覆い、全てが僕の足元に集中した。けれども、イカルス失墜の風景のように、僕はやはり小さいのだった。 引きずるような足音が夜の森を彷徨していた。石のように重い足取り。苔に塗られた男が、燦ざめく星の下を夢遊していた。巨女は凝灰石から解放されて女になり、男は重い石となった。空には、断じて、彗星など飛んではいなかった。 のたうち錯綜する太い蔦の中に、積み上げられた石の壁がそびえていた。一部は崩れかかり、或一部は苔と蔦に覆われて崩壊を中断していた。それぞれの石達が、荒い皮膚の内部に、森の朽ちた匂を呼吸していた。僕は、霧が青白く立ち籠めた石壁の頂きで、海神の前で自失している男を、遥か下方に見下ろしていた。石壁にもたれた海神ネプチューンは、苔の塊となって太い蔦の内に埋もれていた。深い髭の奥に固く口を閉ざし、失われた碧海の残滓を心の暗闇に留めていた。時の流れは幾世に亘り、彼の天空を見つめる濃い翳りを秘めた瞳孔だけが月光を吸収して、海つ神を夢に描いて静かに存在していた。雄々しい胸板が老いていた。けれども、僕は老いたネプチューンの呻きに応じ、渇いた巨体を海原の中に浸さなければならなかった。聖なる森をフラスコに、夥しい湖を満たさなければならなかった。天から墜ちる天使のごとく、陽に羽を溶かして落下するイカルスのごとく、僕は陸のネプチューンを再び正規の場へと返還するのである。 男は、もうどんな合図も必要としなかった。何も待ってはいなかった。茨に足をとられることもなくネプチューンに近づいた。自らの内部を排泄するかのように、二人は二人の内部を月光に晒した。その意味と方法を、僕は理解できなかったが、事実を見ることはできた。但し、それのみであった。僕はそろそろ僕の散歩を終えようと思う。もう少しで月は失せる。星は消える。再び森は夏の陽光の深い翳りの内側で息を殺すだろう。強い明暗の対比が森を湖に沈めるだろう。もうすぐ朝なのだ。男はネプチューンの体内に没したのか、或いはその巨体と同化したのか。どちらにしても、二人の行為は密林の唐草のように錯綜し、僕には解読不能であった。そして、ネプチューンと男の行為は誰も知らない謎となる。 大量の蒸気が地上に立ち昇り二人を包んでいた。夜と朝の狭間に様々な光彩が放ち、見る者を遮断して夢と幻のごとく、輝く宮殿を建造している。巨人達の優しい呻きが森にこだましている。 背後に水の音を聞いた。瞬く間に森は水に埋っていく。激しい水流が巨大な石を軽々と弾き飛ばし、石は宙で衝突すると無数の火花を散らした。砕けた石は地中から噴き出す大量の水の上に飛沫を撒いて落下した。森は地の深淵から揺れた。フラスコの中で全てが煮えたぎるように、水面は波打ちながら、大きな泡を生みだした後から爆発した。谷間に流れ落ちる分厚い水の層が、一瞬のうちに谷を黒く深い湖に変えていった。高い木々を一撃のもとに二つに裂いて深淵の底に追いやった。高い波が逆巻き、互いにぶつかりあい、激しい怒声を発して砕け散った。と同時に巨大な波を幾つも立てた。 海神の巨大な尾が荒れ狂う水面を力強く叩きつけ、濁流によって押し寄せられた物体をことごとく遥か彼方に蹴散らした。凝固した太い髪の束が濡れて海草のように泳いだ。尾は繰り返し水面を打ち、水中で大きくうねった。数多の鳥が波の上で飛び廻った。折れた木が波の中で浮沈を繰り返した。濁流の生む激しい音がいつまでも轟き果てることを止めなかった。 小鳥のさえずりが賑やかだった。空気は全ての汚れを拭ったかのように清々しい。雨で濡れた天窓に陽の光が射して、細い蒸気が燻いでいる。その下で猫が日向ぼっこで気持ちよさそう。僕は熱くて苦いコーヒーをゆっくりと楽しむ。机の上には未整理の書類が増えていて、僕の仕事は満タンだ。 「昨夜は随分な雨が降りましたね」 部屋の一隅で山積みの伝票を整理しながら老人が言った。老眼鏡が鼻から擦れ落ちそうだ。相変わらずYシャツの尻尾がズボンからはみ出している。 「森もかなり荒れたようです。沢山の木が落雷で折れたそうですよ」 老人は手を休めずに語る。 「今朝の新聞を読まれましたか。何でも、そこの森で男の死体が見つかったそうですよ。手足がばらばらになっていたそうです」 僕は部屋の大きな硝子窓に眼をやった。遠くに森が見下ろせた。それから、僕は老人にこう答えた。 「そこの森って? 大きな湖はあるけどね……」 老人はそれきり黙々と自分の役目に埋没した。口を大きく開けて欠伸をする黒猫を見ると、僕は何故か可笑しくなった。くすくすと笑った。老人も真似てくすくすと笑った。老人の机の上に今朝の新聞が畳まれていた。輝く星の絵と、懐かしい男の顔が載っていた。 |
