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あくせく深刻ぶりたくはないのだが、如何せん思うようにいかない。けれど、俺はまあまあいいほうだ。とにかく今を逃げ切ればいいと、目の前だけを見てぶざまにもがいているのは、みな同じなのだから。道ばたの草木を愛でながら夫婦仲良く散歩するなんて、夢のまた夢なのかもしれないけれど――。
「あなたあ、犬の御飯、はやくあげてねえ」 享子は豊かな腰にパンストをもどかしく手繰り上げながら、階下のトイレで漫画を読んでいた康祐に、二階の寝室から甲高い声で叫んだ。 「猫にも缶詰あげてよお」 今度は洗面所の鏡で顔を直しながら、更に大声で康祐を煽った。 「俺、ズボンはきかえるだけだぜ。おまえこそはやく支度しろよ」 トイレから無理やり引っぱり出された恰好の康祐は、鏡に向かって丹念に顔をいじくりまわしている享子に、ちょっと苛ついた。鏡の中に、浮腫んだ瞼と目の袋が大きく垂れた康祐の顔が、享子の顔の奥に映っていた。康祐の酷い顔は徹夜続きの仕事のせいだった。 半月ほど続いた出版社の仕事で康祐の神経は随分とまいっていた。有限会社とは名ばかりで、二人いた社員はとっくのとうに辞めさせていたし、もともとがグラフィックデザイナーであった康祐が雑誌の編集にまで手を伸ばしたのは、それなりの理由があったからだ。 「なにやってんだよ。はやくしろよ」 猫と犬たちの食餌をさっさと済ませた康祐が階下で怒鳴った。 毎度のことだった。初めは享子が康祐を煽り、いざ出かける段になると、今度は康祐が享子を何度も怒鳴るはめになっていた。 「まったく、いらいらするなあ」 階段の下で康祐はぶつぶつ言う。これも毎度のお決まり。それでも、康祐の気持ちはなんとも言えず弾んでいた。目の前に海が現われると一刻も早く海に入りたくて、砂浜を転ぶように走った幼いころの逸る気持ちに、それは少し似ているなと康祐は思う。熱い砂に足の裏が焼けるようだった懐かしい子供のころの夏……。 「ちょっと寒いね」 享子は康祐の腕にしがみつきながら小さな背を丸めて言った。三月の半ばではあったが、夜気は肌にまだ冷たかった。それでも、街灯に照らされた夜道を見つめて歩く享子の瞳はしキラキラと輝き昂揚しているのだつたいているのだった。 明治通りに出て、二人はタクシーを拾った。 「いやあ、今日はこてんこてんでしたよ」 初老の運転手が唐突に言った。それぞれの思惑で固まっていた二人には、運転手は何がこてんこてんなのか理解できず、どちらも黙っているだけだった。 「いやね、全然こないんですよ。駄目だね、競馬は」 競馬のことか。康祐は合点したが、康祐自身は競馬をやらず、その知識も皆無であったから、適当に言葉を合わせた。 「勝負は時の運です。真面目に働くのが一番ですよ、運転手さん」 われながら白々しい。何が働くのが一番だ。現に、まだやり残した仕事があるにも拘わらず、俺はこうやってタクシーに乗っているではないか。康祐は腹のなかでそう思った。 運転手は相変わらず訳のわからない競馬の話を続けていたが、二人の心境はすでに別世界にあったので運転手の言葉には無頓着だった。大塚駅はすぐに着く。六百五十円を払って二人はさっさと車を降りた。 駅前の中途半端な明るさと漫然とした広がりに、康祐は少々眩暈を覚えた。地面が傾斜しているような錯覚に囚われた。雑誌の編集中はほとんどパソコンに顔面接着で、康祐の場合、少しでも利益をあげようとレイアウトまでやっていた。乱視と近視と老眼は、超加速度で康祐の視神経を痛めつけていた。 「わたし、買ってから行く」 享子は縁起を担ぐ。いつものように、大塚駅に隣接するリトルマーメイドで食パンを一斤と幾つかの菓子パンを買う。買い物をした後は必ず勝つのだと主張する。それは本人の自由なので、康祐は構わなかった。何せ、戦場はすでに目の前にあるのだから。 康祐がフリーのグラフィックデザイナーだったのは三十五歳までのことである。雑誌の進行管理を任されるにあたって、法人のほうが都合がいいと、出版社のある部長に要求されて有限会社にした。それ以来、幾つかの変遷を経て、社員の有無も何回か繰り返した。もともと、会社の経営など発想する土台もなかった康祐にとって、会社経営は不向きで、一介のデザイナーとしての立場が心地よかった。しかし、社員がいるうちはそうも言っておられず、弱小プロダクションのお決まりで、毎日が運転資金の捻出に追われる日々だった。正社員が一人もいなくなった今でも、それは続いている。積み重なった借金が康祐の気を重くしていたのだ。 グラフィックデザインだけでは来る仕事も限られている。自分のほうから積極的に仕事を拡充しなければならない。それには、デザインに絡む編集作業もできれば、自ずとデザインの仕事がついてくるはずだ。それ以来、康祐自身が編集も手懸け、ムックや単行本の企画も立てるようになった。それがやっとほんの少し仕事に成りつつあった。康祐はすでに四十三歳になっていたし、享子はその一つ下の歳になっていた。 「一銭もないわ」 ある日、享子は畳の上に十円玉を数枚並べて、康祐に言った。 「どうするつもり?」 怒っている。無理もないと康祐は思う。 「電車賃もないけど。どうするの?」 そんなことはわかっている。 「しょうがないだろう」 康祐は、吐き出すように悪態をついて、階下の仕事場に下りた。それから忙しなく本棚の物色を始めた。何せ一時間後にクライアントとの打ち合わせがある。銀座まで出なくてはならなかったのだ。慌ただしく見つくろった二十冊ばかりの本を手提げ袋に突っ込むと、健康保健証を忘れずに、隣町の板橋に向かった。 急ぎ足のせいか本はやけに重かった。愛着のある本を手放さなければならなかったが、今の康祐には何の感慨もなかった。重なる窮乏状態はいつものことで、せっかくの報酬も口座に入った途端、右から左へとローンや借金に引き落とされていった。手元に残る金は生活費にやっとのことで、毎月、亨子の胸を痛めつけていた。それだけデザインの仕事は世の中で枯渇していたのだ。度重なる返済の遅延で、銀行も区の商工会も、融資の追加を認めてはくれなかった。 本売りなど康祐にとっては取りあえずのことで、この場を凌ぐ一つの手段でしかなかった。余裕ができた時にまた買い求めればいい。それでいい。康祐には、今この手提げ袋の本が幾らになるか、それだけが重大だった。それだけを思って歩いた。 手にしたのは二千円だった。まずは大好きな煙草を買う。残りが往復の交通費になる。何事もなければ、それで充分に足りるはずだと康祐は思った。 その足で板橋駅に出た。駅の売店で漫画週刊誌モーニングを買う。蒼天航路のダイナミックなシーンが表紙を飾っている。ポケットの中に残された金は、ぎりちょんのとこで大丈夫か。なあに、足りなくなれば池袋駅から歩けばいい。康祐はそう高を括った。 池袋から有楽町までの地下鉄有楽町線の車中二十分は、康祐にとって至福の時間だった。大した稼ぎもない割に時間にばかり追われる身にとって、缶詰状態でなす術もない車中は、いっそ何もできないのだからと、心から惚けることのできる時間だった。昼間の有楽町線は透いている。まばらな客のなかで、四十歳をとうに過ぎた男が漫画に没頭している姿は、やはりどこか変ではあったが、銀座に着くまでの漫画週刊誌は康祐にとって欠かせない必需品の一つであった。 「康ちゃん、下の喫茶店に行っててくれる」 栗田は、康祐との打ち合わせが終わると、そう言い残して打ち合わせの席を離れた。栗田は、康祐と組んですでに六年のつきあいになる、康祐と同い歳のムック部の主任だった。 こりゃ、やばい。咄嗟に康祐はポケットの小銭を握り締めた。どう計算しても二人分のお茶代にならないではないか。自分にくれる仕事の話を場所を変えて説明してくれるというのだから、お茶代くらいこちらが持たなければならない。明日の飯より今のお茶代。康祐は苦笑いするしかなかった。おまけに、十円玉を数枚握り締めて家で待っている亨子の怒った顔が、頭のなかで行ったり来りしている。頬が歪んだ。 ほとんど居直り状態に達した康祐は、それでも逞しく策を捻り出す。無いものを有るようにするからしんどいのだ。明日のことは明日考えればいい。 「栗さん、金貸して。出掛けに財布を忘れた。明日、納品に来るときに返すよ」 ということで、康祐は五千円を手に入れた。財布など鼻から持ってはいない。お茶代は打ち合わせという名目で栗田が支払った。まあ、成り行きというものだろう。 こんなふうに、康祐と亨子の生活は今も似たり寄ったりの状態に変わりがなかった。たまたま仕事が順調に動き始め、毎月の借金の返済額は大きかったが、それなりに食えているのが実情だった。そして二人には子供がいなかった。それは不幸中の幸いだったのかもしれない。金のことで子供に苦労を掛けるのは康祐にとっても耐えられないことだったろうし、勿論、子供がいたとしたら二人の生活も、康祐自身の生き方も違っていたのかもしれない。
2
ステージに昇るように、晴れやかなスポットライトに照らされるように、階段を一段一歩と踏みしめる。昇り詰めて歩を止める。目の前にある大きなガラス戸が左右に分かれる。途端、騒然とした音の混合と原色をちりばめたような色彩のカオスが、グルグルと渦巻いて、康祐と亨子の全身に絡みつく。ここが、大塚バリジャン。二人が慌ただしく目指した大塚駅前のパチンコ店だった。店の前を都電が長閑に通過していく。下町の春のうららを乗せては降ろし、三ノ輪の町へと消えていく。 康祐は、気もそぞろになっていく自分に、不思議な羞恥と戸惑いを感じた。いつもそうだった。どんな時でも、どんな場合でも、ここに一歩足を踏み入れた瞬間、康祐はこの感覚に襲われた。他に賭け事を知らない康祐は、世にあるどんな賭け事も、それをやる人間は自分と同じような感覚をその都度味わっているのだろうかと考える。多分、違うのだろうと漠然と思う。 二十歳代のころだったか、康祐は飲み仲間に戸田市の競艇に連れていかれたことがあった。言われるままに賭けてはみたが、これといった感慨はなかったように思う。戸外の広い空間と、一方は狭い閉じた屋内で行われる行為の、単に環境の違いなのだろうか。それでは、パチンコは麻雀と共通するのだろうか。どう考えても、今の康祐にはわかりようのないことだった。 大塚バリジャンは、仕事帰りのサラリーマンや、作業着姿の職人や、おばちゃん、おじちゃん、若い恋人風でびっしりと埋っていた。黄門様のメロディーがあちこちのパチンコ台から流れている。大当たりのアナウンスがひっきりなしに聞こえる。何人もの客が足元にドル箱を幾つも積んでいる。 「こりゃ、すごい」 康祐は溜め息を吐きながら、いささか興奮気味の自分を可愛いと思った。自販機からなかなか出てこないパッキーカードがもどかしく、カードの吐き出し口に手をあてて待ち構えた。 以前は五千円カードを買っていたが、享子が一万円カードを買うようになって、康祐もいつの間にか一万円カードを買うようになっていた。つまり、それだけ二人は切れ始めていたと言える。もっとも、カードには二千円、三千円とあって、どのみちそのくらいで当たりは来ない。ひっきりなしに席を立ち、カードを何度も買うより面倒がない。それに、負けてるなと他人に悟られるのも癪だった。たとえ早々に当たりが来てカードの度数が残ったとしても、またの機会に使えるのだから合理的だ。しかしそれは、一万円で当たりが来た場合のことではあったが。 台の具合など読めない康祐は、その日の気分で台に着く。たいてい、並びのどちらかの端台に着くのだが、それは単に、端は大当たりが出やすいという、聞き噛りの知識に過ぎなかった。大した意味はない。ところが、今夜の大塚バリジャンは大入りだ。康祐は辛うじて黄門ちゃまの台を並びの中程に確保すると、おもむろにキャスターマイルドに火を着けた。目を閉じて、深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出す。 一万円カードがすっと台に吸い込まれ、玉貸し表示の数字が赤く出た。ボタンを人差指で押す。ジャラジャラと音をたて、玉受けにパチンコ玉が溜まった。十セント硬貨を握りに嵌め込み、打ち玉の位置を固定する。池袋辺りの店ではこれをやるとうるさい。 以前に享子と一緒に入ったサンシャイン付近にある店では、女性店員がこまめに店内を徘徊し、嵌め込んだ硬貨を発見すると鬼の頸を取ったかのごとく眉間に皺を寄せて握りを指差した。まるで犯罪者を咎めるように鋭く、まさに刺す。何か言葉を発すればまだ救いがあったが、無言で刺す。ただ黙って何度も指を差す。だから、このうるさい店は潰れた。女性店員は、ただひたすら職務に忠実だったのだろうけれど。大塚バリジャンはお咎めなしだった。だから康祐は、大らかな大塚バリジャンが好きだった。 十セント硬貨は康祐の縁起担ぎなのだ。この硬貨は仕事場の机の引き出しの隅にあったものだ。これをたまたま握りに嵌め込んで打ったら大当たりになった。以来、この硬貨は康祐の守り神として崇め奉られている次第なのである。 いきなり右隣の台にリーチが掛かった。当たりモードの矢七の風車が今にも放たれようとしている。膝をついて構える矢七に対し、確率変動の大当たりの図柄、印蘢がくるくる回転しながら控えている。ただの当たりと確率変動の大当たりとは、その利益に天と地の 差があった。 康祐は、自分の台に真直ぐ顔を向けたまま、身体を後方に引いて、目玉を右横にずらす。矢七の風車が飛んだ。すかさず、黄門様のメロディーが流れ出す。見事、矢が印蘢に的中し、大当たりになる。 大当たりを出した隣の親爺は、一瞬、鼻の穴を膨らませてフンと煙草の煙を吐く。左右を見回す。自慢気だ。実に、偉そうだ。康祐は嫌な予感がした。隣に当たりが出ると、今までの体験上、たいてい好ましい結果が出ない。 「うるせえなあ」 康祐は腹のなかで吠えた。隣でバリバリとけたたましい音がつづく。糞親爺のドル箱がみるみる増えていく。案の定、康祐の台は、唸るような念力をもってしても、うんともすんとも言ってはくれない。パッキーカードの残りは五千円になっていた。 その時、またしても康祐の並びの五つ隣で黄門様のメロディーが流れ出し、スタートを知らせるアナウンスが店内に響いた。周囲の客の視線が集中する。確率変動が気になるのだ。他人の当たりなのにとても気になってしまう。人情だからしかたない。 康祐も誰にも負けない立派な人情家である。今度はあからさまに身体ごと視線を向ける。と、そこに享子がいて、頬を紅潮させてこちらにVサインを送っている。 おお、やったのか。いつの間にか、享子は、菓子パンの袋を膝に載せて、康祐と同じ並びで打っていた。あの表情は確実に確率変動を出した顔だ。康祐のカードがすでに五千円を割っていたから、やや遅れて打ち始めた享子は、五千円以内で確率変動を出したことに なる。先を越されたか、と康祐は悔しくもあり、嬉々としている享子を見ると、何故かほろ苦い切なさがこみあげてくるのだった。 ああ、享子が嬉しそうだ。 あんなに、子供のようにはしゃいでる。
隣の親爺は相変わらず連チャンでドル箱を重ねている。大きく足を組んで、余裕な感じで打っている。始まったばかりに思える白髪頭と陽に焼けた浅黒い顔が精悍だ。康祐とさほど変わる歳ではなさそであったが、子供のいない康祐は歳の感覚が鈍いようで、自分も 大層な親爺であるにも拘わらず、親爺はやっぱり親爺に見えて、この糞親爺めとまた腹のなかで怒鳴った。 確率変動を出すと、男は一様に態度が大きくなる。それは男に限る。女の場合はたいていそのままの姿勢で動作に変化がない。表情の変化も微妙で、男のように鼻の穴を膨らますこともない。台に向けた顔はそのままで、ほんの瞬間、ほんのわずか、ニャッと不気味 な微笑みを見せるこがある。完全完璧、極楽浄土の世界にあるようで、怖いと康祐は思う。女は博打に男よりクールなものなのだ。しかしそれは、ほとんどが独りで打っている女だ。喜びを共有する相手もなく、ただひたすら打っている。そう思ってみると、若い女が独り打ちしている後ろ姿は、何だかとても寂しげで、孤独に思えた。 男は周りを気にする。他人の当たりも気にする。よそに当たりが出ると必ず周囲を窺うし、わざわざ振り返ってまでもスタートの音の出どころを探す。男にとって、パチンコは孤独な遊びではないのかもしれない。この不思議な連帯感は何だろう。康祐はパチンコを 打つ度に、ふと思うこの感情が気に掛かるようになっていた。康祐はいつも享子と一緒に打つ。決して独りではやらない。大当たりを出したとき、大はずれになったとき、いずれにしても、感情を伝える相手がいたほうが、康祐も、享子もやっぱり楽しいと思えたから だ。 「うっひょー」 隣のおじさんが奇声をあげて康祐を見る。確率変動がどんどん繋がっているのだ。満面笑みとはこのことだ。つられて康祐もにやける。何で俺がお愛想しなきゃいけないんだ、と思ってはみたが、こういう場合は何か応えてあげなければいけない。おじさんは見ず知 らずの赤の他人に素直に喜びを表現しているのだ。それは自慢かもしれない。けれども、とにかく喜ばしいことなのだ。 康祐は気の利いた言葉を探したが、たいしたもんだと、小首を傾げて見せるのが精々で、その時はすでにジャンバリジャンバリ騒音出して夢中で打っている糞親爺がいた。 「それどこじゃないんだよ」 腹のなかで呟く康祐に、寂しさが急襲。手元の残り玉表示は一万円が千五百円になっていた。康祐の脳裏に暗雲が怒涛のように漂う。
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無性に喉が乾いた。自動販売機で自分用の一杯百円のカフェ・オレと、多分熱くなっているだろう享子のために、冷たいオレンジジュースを買う。康祐は自分の台にカフェ・オレを置くと、客の背中合わせになった狭い通路を縫って、享子の台までジュースを運ぶ。あちこちの椅子にぶつかって、ジュースがこぼれはしまいかと気になった。 六箱。享子の左脇にドル箱が積まれている。確率変動が繋がっているのだ。ジュースを享子の手元に置くと、享子は康祐を見上げた。ふっくらとした頬を紅潮させた享子の目が嬉しそうだ。 「つながっちゃった」 享子は手を休めて言った。 享子は康祐のように握りにコインを嵌め込まない。コインを嵌め込んだほうが楽だからと、康祐が何度も享子に勧めたが、その度に享子はいつも頑なに拒んだ。玉が飛ぶ感触を自分の手で確認していたいのだと、わざわざ康祐が嵌め込んであげたコインを怒ったよう に取り外して康祐に突き返していた。だから享子はいつも、ああ疲れたと言っては、手首をくにゃくにゃ振り回していた。 「強いねえ」 康祐も嬉しかった。享子の嬉しそうな顔が嬉しかった。 「あなたは?」 享子はちょっと心配気に、形のいい眉毛を眉間に寄せて訊いた。 「やばいよ」 「来ないんだ……」 「まだまだこれからさ。しつこいのはマムシ並み」 康祐は軽い冗談を飛ばして自分の台に戻った。残り千五百円。康祐はカフェ・オレをずずっとすする。再びキャスターマイルドに火を着ける。口のなかが苦い。換気が利いているのだろうか、吐き出した煙草の煙が天井に昇って消えていく。先程から少し寒気を感じ ていた。換気のせいか、または徹夜続きの身体が消耗していて、風邪を引いたのだろうか。けれども、それは当たりが来ない胸の寂しさなのではないかとも思えた。打ち始める。 「きゃっ」 その時、享子の奇声があがった。 「またやったな」 康祐は瞬間に察した。案の定、あたふたとハンカチで台を拭う享子の慌てた姿が見えた。何度注意したことだろう。いくら嗜めても繰り返す。性懲りがない。ジュースをこぼしたのだ。これで五度目だ。康祐は店員に雑巾を借りると享子のところに行った。 「どうしよう。あなた、どうしよう」 「慌てたってしょうがないよ」 「だって、だってえ」 享子が喚く。 「すいませんねえ」 康祐は享子の両隣にぺこぺこ謝りながら台を拭く。 「だってえ、……お姫様が出ちゃったのお!」 確率変動の一つが出ていたのだ。それも滅多に当たらないといわれているお姫様キャラクターの大当たりだった。 「ばか。早く打て。……すいませんねえ、お騒がせしまして」 康祐は照れ臭くなった。が、確率変動を出し続ける享子は偉い。お姫様を引っぱった享子は頼もしい。ジュースの一つや二つ、いくらでもこぼせ。大当たりを続ける享子はその権利を持っている。 落ち着きを取り戻した享子が改めて両隣に謝るのを見届けて、康祐は自分の台に戻った。返した雑巾を手にして、店員が笑っていた。 妙な胸騒ぎ。激しい動悸。康祐の心臓の鼓動が台と呼応しているかのようだ。 「何か変だぞ」 すでに五百円を切っている。が、打ち放たれた銀色の玉が、きらきらと輝きながら、スタートの穴に次から次へと雪崩込んでいく。残っている玉はどう数えても二十発。消えていく玉を目算する。 来た。ついにやって来た。風車の矢七。康祐の小鼻が開いて、煙草の煙がフンと飛ぶ。くるくるっと印蘢が回っている。康祐は身動きしない。何事も起きていない振りをして忍者のごとく気配を殺す。息を呑む。 「じ〜んせい楽ありゃ苦もあるさ〜、後から来たのに追い越され〜」 やった。風車が印蘢に当たり、黄門様のメロディーが流れた。続いて、 「おめでとうございます。八十番スタートです」 アナウンスが恭しく流れる。すかさず店員が近づいて、 「おめでとうございます。大当たりです」 と言って、スタート札を康祐の台に突き刺した。それは輝かしい無制限の勲章だった。 フン、フン、フン。鼻から三回、煙草の煙を吹き出した康祐は、心地よい黄門様のメロディーを聞きながら、足を大きく組むと、小さな椅子の背凭れにふんぞり返った。バリバリ、バリバリ。ああ何と心地よいこの響。プラスチック製のドル箱に落ちる玉の騒音に快 感を味わう康祐。隣の親爺の横顔をニヤッと自慢気に見やる。糞親爺に頭に来ていた同じ人間とは到底思えない。身勝手な、これが人間の生理というものか。二人はすでに仲良しだ。
「旨い」 康祐はジョッキーの生ビールに大袈裟な身振りで言った。 二人は大塚駅から二分ほど離れた西洋風居酒屋にいた。ここは、姿勢のいい、いかにも清潔な感じのマスターを気に入って、二人がパチンコの帰りにいつも立ち寄る店だった。普段、康祐はあまりビールをやらない。たいていはウィスキーのロックか日本酒の冷やだった。が、勝利にはまずビールで一息やる。それが正しい酒のやりかたと康祐は思っている。それは理屈に過ぎない。勝利には、何でもいいから旨かったのである。 「やったね」 お通しのポテトチップをパキパキ音をたてながら、嬉しそうに享子が言った。頬がますます紅潮している。余程嬉しいのだろう、財布のなかを何度も覗き込んで、今夜の勝利を確認している。 「あんまり人前で財布を広げるなよ」 康祐は嗜めた。 「いいじゃない。だって嬉しいんだもの、わたし。十二箱で八万四千円。元手が五千円だから七万九千円の勝利。えへへ」 「俺は幾ら?」 康祐は有頂天になっている享子に訊いた。自分の勝った箱数はわかっていたから計算はつくのだが、換金所で景品と交換する際、窓ガラスの奥から突き出される現金の入った箱に、必ず享子が脇から手を出して、鷲掴みにした金をさっさと財布にしまってしまう。だ から、康祐は勝利した現金の感触をいつも味わえない。 「えーと、えー」 これは享子の口癖で、これが出ると怪しい。 「とぼけるなよ」 康祐はムッとなって言った。 「いいじゃない。とにかく勝ったんだから」 「調子いい奴だ。俺が勝ったのみんな取り上げちゃうんだから」 康祐は、あれから快進撃を続け、ドル箱を十八個までにこぎ着けたのだった。一万円の元手からざっと十一万六千円の稼ぎである。享子が喜ぶのも無理はない。二人合わせて十九万五千円もの収穫だったわけだ。 「パートに行ったってこんなに働けないよね」 享子が真顔で言った。康祐はうつむいたままだった。黙って目の前のつまみに箸を運んだ。康祐には享子の気持ちが痛過ぎるくらいわかっていた。時折、私も働かなきゃいけないのに、と訴える享子を制してきたのは康祐だった。享子が外に出ることには何の抵抗も なかったが、生活が大変なときに働きに出られるのは、却って嫌だった。随分苦労をかけてきた享子へのせめてもの康祐の意地だった。 もう少し。もう少しだから待ってくれ。康祐は胸の内で呟いた。 「いいよね、パチンコやったって」 「初めて二人で楽しめる遊びを見つけたんだ。そんなに真剣に考えることないよ」 享子は両手で包んだ大きめのグラスを黙って見つめている。グラスには三分程残されたウーロン茶が入っていた。 「やれなくなれば、やらなきゃいい。やれるなら楽しくやればいい」 康祐は、享子のふっくらと円みを帯びた頬のふくらみに、歳月の遠い移ろいを感じた。その享子もすでに四十二歳になっていた。若くはなかった。
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「今夜も徹夜なの?」 クッキーを抱いた享子が康祐の仕事場を覗いて言った。クッキーは享子が近所で拾ってきた野良黒模様の雌の子猫である。異常に太い尻尾が気に入って康祐も可愛がっていた。 康祐が快進撃をした夜から二週間が過ぎていた。 「ああ。編集部のほうも頑張ってるようだし、俺だけ休むわけにはいかないだろう」 あれからまた雑誌の仕事が始まっていた。原稿の遅れもあって、康祐のレイアウト作業は切羽詰まったものになっていた。外注に出したレイアウトも思うような予定で出来上がってはこない。結局、康祐が大半のページをこなさなければならなかった。 享子は、仕事場の床に正座すると、ファンヒーターの前でジャガイモの皮を剥き始めた。四月に入っても床板の仕事場は冷えた。クッキーが享子の横に座って小首を傾げている。 「あと何ページ残ってるの?」 「三分の一といったところかな」 煙草でいがらっぽくなった声で康祐は答えた。パソコンのマウスが忙しなく動き、キーボードを叩く険しい音が仕事場に響く。目がしょぼついている。 「明日のカレーを作るけど、できたら食べる?」 「まあね」 康祐は曖昧な答えを返す。 「無理に食べなくてもいいのよ」 「別に無理なんかしないよ。いちいちうるさいよ」 ここ二、三日、満足な睡眠をとっていなかった。疲労が極限に達していた。 「疲れてるからって八つ当たりしないで」 「せっぱ詰まってるんだからさあ」 「そんなの私に関係ない」 「じゃ、何が関係あるんだよお」 康祐のざらついた怒声が享子にぶつかる。 「なんなのよ。怒鳴ることないでしょ」 享子の今にも泣き出しそうな声が大きく震えた。 「うるさい」 パソコンのマウスが机に叩きつけられ、クッキーがびっくりして跳び上がった。背がとんがっている。 「やめちゃいなさいよ、そんな仕事。どうせたいした生活もできないのだから。真面目に会社勤めしてくれたほうが助かるわ。会社屋さんごっこしてるだけじゃない」 享子の早口が康祐を罵る。 「勘弁してよ」 「何が勘弁よ。あなたが言い始めたんじゃない」 「俺が何を言ったんだ」 「いいわよね、あなたは。好きなことして、借金作って」 「しかたないだろう。いい時はいい思いしただろうが」 「いい思いなんかいつしたの? しわ寄せ全部私にきてるじゃない」 享子の大粒の涙が幾つも床に落ちた。 ああ、またか。康祐は後悔した。いつもこうだった。ほんの些細な言葉の行き違いから、最後はとことん大喧嘩になった。慢性的な金銭事情が二人をそうさせたのかもしれない。享子のかんしゃくは辛かったが、それ以上に、四十を過ぎても十代の時のように、出会った頃と同じように、青白い瞳に涙を浮かべて必死に口答えする享子の姿が切なかった。 「もういいよ。仕事やらなきゃ」 「うるさいわよ」 捨て台詞を吐いて享子は二階に上がって行った。床には、剥きかけのジャガイモと、心なしか困惑した表情で康祐を見上げるクッキーが、ぽつんと取り残されていた。
翌日、ふて腐れて寝てしまった享子は、昼を過ぎても布団のなかだった。康祐は縁側で放心していた。午後の陽が溜まった小さな庭の隅でクッキーが淡紫の菫にじゃれている。仕上がったレイアウトは午前中にバイク便で編集部に届けを済ませていた。そして今まで 待ったが、次の原稿の連絡が入ってこないでいた。 康祐は、原稿の進行具合を確認するために、栗田に電話を入れた。栗田が直接出た。 「どんな具合?」 「やってますよお」 栗田の掠れた低い声が返ってきた。栗田も連日の原稿整理と編集作業に康祐同様に疲れていた。 「今日、もらえるの?」 康祐はだれた声で言った。 「夜中だったらね」 栗田も投げやりに言う。 「いらない」 「何でよお」 栗田は少し向きになって言う。 「今日の昼間だって無駄になったじゃない。夜中にもらったって、ばてばてで、できやしないよ。明日の午前中にもらいに行く」 「それで康ちゃんは寝ちゃうわけね」 「それしかないでしょお」 栗田は、渋々康祐の言い分を呑み込み、どこか寂しげに電話を切った。 一睡もしていない康祐に眠気が襲う。パソコンの電源を切ると、プシューと間の抜けた音とともに、画面の明りがプツンと消えた。康祐は、仕事場の床に置いてあるビニールカバーが少し破けた座椅子に、重い身体を横たえた。二階に上がって享子の布団に潜り込み たかったが、やめた。執念深い享子のことだ。昨夜のことを根に持って、同じ布団には入れてくれないだろう。座椅子に寝そべったまま、康祐はキャスターマイルドの煙を深く呑み込んだ。栗田たちは今日も徹夜だろうか。康祐の脳裏に、寝ぼけた目を擦りながらワープロのキーボードを打つ栗田の疲れた姿が、小さく浮いていた。
「さあ、行くわよ」 どのくらいの時間が過ぎたのだろうか。突然、康祐の身体にズシンと重い衝撃が走った。眠い目を向けると、康祐の頭上に仁王立ちの享子がいた。座椅子をしたたかに蹴り上げたのだ。 「何だよ。眠いんだよお」 壁の時計を見ると針は調度六時を差していた。 「作っておいたからね。犬にごはんあげてちょうだい。猫にもね。私シャワー浴びちゃうから」 康祐は、鼻の頭をペロペロ嘗めてくれるクッキーを両手で掲げると、不思議そうに康祐を見つめるクッキーに向かって言った。 「あんたのおかあちゃん、好きだねえ。ぱ、ち、ちゃ、ん」
5
都電が二人の前を横切ろうとしていた。ゴツゴツと路面に車両を打ちつけて、まるで歩いているかのように、ゆっくりと広場を抜けていく。どこかの街で拾ったのか、萎びた桜の花びらが数枚、電車の屋根から舞い踊り、ついさっき通り過ぎたばかりの銀色の線路に 散って、見えなくなった。 康祐は駅前の広場を都電が大きく迂回していく大塚駅前の風景が好きだった。車両がもう少しばかり古っぽければ、なおいいと思った。都電がゆっくりと駅前を通過する時、康祐は風景が平たく見えた。地面が意識できたのだ。いつ見ても、街のなかを露骨に何の括 りもなく走る都電が不思議で可笑しかった。車内の灯りに向かって手を振りたくなるような衝動に駆られることもあったが、その都度思い止まった。享子にひどく諌められるのではないかと恐れたからだ。ゆっくりと、ゆっくりと、都電は三ノ輪に向かって消えていく。
いつ頃からだったろう。大塚バリジャンに二人で通うようになってから、いつしか顔見知りが何人かできた。必ず一緒になった。当然、名前も素性もわからなかった。屋台の呑み屋では隣りの客の素性を詮索しないのが礼儀らしい。パチンコも似ているなと康祐は可 笑しく思ったものだ。 今夜の大塚バリジャンは空いていた。 「給料日前だからじゃない」 享子が知ったかぶりをする。 「でも、ダンディさんは相変わらず来てるよ」 康祐は、パッキーカードが自販機から出てくるのを待ちながら、享子の耳元に囁いた。 「今晩は。どうですか」 男の隣に台を取ると康祐は言った。 「駄目ですね」 男は康祐ににこやかに答えると、他の台の情報を少し流してくれた。康祐よりも二つか三つ年長だろうか。頭髪に白いものが目立った。いつも真っ黒なコートをきちっと着込んで打っているので、いつの間にか享子にダンディさんと渾名をつけられた男である。もう 桜も散った四月だというのに、相変わらずコート姿であった。仕事帰りに立ち寄るのだろうか、平日には必ず会えた。 享子は康祐の左隣で打ち始めた。すでに頬が紅くなっている。昨夜の泣きべそを思い出すと呆れる。何を考えているのやら、そう康祐は思った。 「オネエサンは来てないね」 亨子が打ちながら言った。 「そうだね」 いつも決まった並びの左端から三番目の台で打っている三十歳位の女のことだった。亨子よりもだいぶ年下ではあったが、パチンコ姿が太々しく、妙に貫祿があって、これまた亨子のつけた渾名で、オネエサンと呼んでいた。 オネエサンは明けても暮れても同じ台で打っていた。同じ台でしか打たなかった。すでに誰か別の客が打っていると、どこかで時間を潰してでも他の台では打たなかった。そして、空いたのを見計らっていつの間にか打っている。頑として他の台では打たなかった。だから、康祐も亨子も彼女の台では決して打たない。頑なに固執する彼女の台で、万が一にも大当たりが出てしまったら、彼女の執念はいったいどう始末をつけたらいいのか。とっても怖くて、遠慮ご免蒙りたいと、二人は思うのだ。
康祐はまだ眠っている。パチンコ台の前で眠っている。康祐は三時間ばかり寝込んだところで亨子に叩き起こされていた。くるくる回っては飛び回るパチンコ玉を見つめていたら、催眠術に掛かって眠っていた。朧な意識のなかで、忙しく遊び回る煩わしい子供たち みたいに、パチンコ玉が盤の表面を跳ねている。実際、例によって、台の握りには10セント硬貨があったから、玉は自動で飛んでいた。 店内の騒音が一瞬かき消えると、暗闇のなかで無数の玉が猛スピードで飛び交う。玉の軌跡が無数の線となって金色に輝いている。まるでオプチカルアートだな……仕事しなくちゃ……あと何ページかな……猫にごはんあげなくちゃ……ああそうだ犬にもだ……。 ガツン。したたかに頭を打った。目が覚めた。目の前にパチンコ台のガラスがあった。 「なにやってんのよ」 亨子がまた怒った。真っ赤になった康祐の顔があった。ダンディさんが隣で笑っていた。 「はいよ」 とんと音がして、康祐の手元に缶コーヒーがあった。後ろにジーパン姿のオネエサンが立っていた。腕にはいつもの金のブレスレット。眼鏡の奥には微かに笑む切れ長の目があった。 「あっ、ありがとう」 寝ぼけている康祐に代わって亨子が嬉しそうに言った。オネエサンはさっさと自分の定台に戻って行った。そして、自分も缶コーヒーの栓を引き抜くと一口飲んで、黙々と打ち始めた。その姿が、寝ぼけまなこの康祐には、昔どこかで見た、覚えのある光景のように思えたが、何も思い出しはしなかった。まだ夢のなかだった。
「出ないなあ。今夜は駄目かな」 康祐は誰に言うでもなくぽつりと言った。ダンディさんに目を向けると、駄目だねといった渋い顔が返ってきた。確率変動どころか、スタートの一つも来なかった。亨子も押し黙ったままだ。心なしか、紅潮していたはずの頬から血の気が退いている。無理もない。一万円カードの残りはすでに千円を切っている。勿論、康祐も同様の状況だった。 勝っているときはいい。しかし、二人して負けると大きい。玉を打つ速度はほぼ変わらないので、負けるときは同時である。二人でまた一万円ずつ買う。つまり四万円になる。二人で負ける度に二万円ずつ亨子の財布から現金が減っていくことになる。 辺りは妙に静かだ。店内に流れる音楽がやけに寂しい。誰もが飽きたような顔をして打っている。誰も当たっていないのだ。煙草の煙が排気しきれずにねっとりと周囲に溜まっている。こんなときのパチンコは、つまらない、の一言に尽きる。ストレスが溜まるだけだった。 と、今まで流れていたバックグランドミュージックが、ぷつんと止んだ。店内に静寂が走る。ストップモーションのように全ての動きが停止する。再び、と、大音響で鳴り響くドアーズのナンバー。だと思う。今どき、軍艦マーチなどかかる店はない。セックスピス トルズでも、タイガースでも、ミック・ジャガーでも、ロッド・スチュワートでも、しょうけんでも、三波春夫でも、いずれにしても停滞した店内の気分を一掃する音楽に違いなかった。 「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ。さあいらっしゃいませ。数あるお店から当店を選んでいただき、まーことに、あんりがとうございまあす〜」 音楽に乗って口上が始まった。八時だった。 「当〜店では、お食事時間、休憩時間は一切ございません。煙草やライターなどお席においてえ、長時間お離れになりますとおー、いーかなるご事情があーりましてもお、当店員により回収させていただきまあす。まーた、お一人様一台。お一人様でなーん台も打たれますとー他のお客様のたいへんご迷〜惑となりまあす。お客様のお時間のゆるすまでえ、お店の時間のゆるすまでえ、ジャンジャンバリバリ、ジャンバリリー。いらっしやいませ、いらっしゃいませ〜」 音楽のテンポが速くなる。店内の照明が一段と明るくなる。康祐はこの瞬間が好きだった。勝った帰りにはいつもこの口上を真似て亨子を笑わせた。勝ったときは、亨子も康祐のくだらない悪ふざけを咎めない。康祐の腕にぶら下がって一緒にはしゃいで歩いた。楽 しかった。負けた帰りは悲惨だった。何気なく吐いた愚痴にも目くじら立てて怒られた。踏んだり蹴ったりの大損だった。 だから康祐は何が何でも勝たなければならなかった。負けて不機嫌になった亨子は寂しかった。
それにしても、当たりが来ない。黄門様のメロディーが流れない。だんだん機嫌が悪くなってくる。周り中が不機嫌だ。誰もが苦虫を潰したような顔をしている。 「こんなに勝っちゃって、パチンコ屋さん大丈夫かしら」 なんて呑気なことを言っていた享子が懐かしい。 が、今や誰もがそれどころではない。過去を懐かしんでいる余裕など、どこのどなたも持ち合わせてはいなかった。誰も無口で、白く濁った煙草の煙だけが、のんびりゆっくり、天井に燻んでいた。
6
アパートのほんのわずかな空き地に、誰が植えたのか、ほんの少し溜まった陽のなかで、冬薔薇の中途な花が咲いていた。手入れもされず、てんでばらばらに枝が伸び、絡みあって、忘れ去られた薔薇だった。それでも咲いた小さな花びらは、薄い陽に当たり、ぼんやりとほのかに淡い紅色で、ブロック塀を背にしてほがらかだ。 康祐が大晦日から元旦にかけた一晩を申し訳程度に実家で過ごしてから、すでに一ヵ月が過ぎていた。康祐はいつものようにアルバイトとデッサン教室に通う毎日を繰り返していた。康祐が享子と出会う十九の歳の頃である。 当時、康祐は美大を目指す浪人であった。実家から離れ、日々の飯にも満足にありつけない酷い貧乏暮らしではあったが、それでも時々のアルバイト代で食いつなぎ、週に一度のデッサン教室にも通っていた。デッサン教室は渋谷の駅から五分程歩いた坂の上にあった。何とか往復の電車賃を確保しては、小さな坂を喜々として通ったものだった。高校を卒業したばかりの康祐にとってアルバイトは辛いものがあったが、それでも好きな絵の勉強ができると思えば、多少の重労働も却って楽しいものに思えた。デッサン教室に通うこと自体が、飛んでるようで、お洒落な気分にもなれた。その頃は、宇野亜樹良や和田誠、横尾忠則といったイラストレーターたちが華々しく活躍していた時期でもあった。デザイナーは最も晴れがましい肩書きを持った職業だった。憧れと期待が世の経済に溢れていた頃でもある。遠い日の出来事だ。
康祐はいつものように、アルバイトを終えた午後、消えかける茜色の太陽を坂の頂に見ながらデッサン教室に向かっていた。デッサン道具が雑然と入ったずた袋と小さなポリバケツを手にして、石膏の陰影と鉛筆の濃度関係なんぞを一人前に思い巡らし、一方に空き っ腹を抱えて坂道を歩いていた。軽い身体と重い足。慢性栄養失調も今の康祐にとっては、苦労どころか、勲章の一つに思えていた程の、全てがよしと決められた、とっても若い季節の頃だった。 そんな康祐を追い抜いて女の子が坂を駆け上がって行く。はあはあ喘いでいる。ちらっと見えた横顔は、うっすらと汗まで浮かべたおでこだった。何を泡食ってんだ、この女。思いながらゆっくり歩いていたら、追い抜かれたはずの女に追いついてしまった。女は坂 の途中で背を屈めてぜいぜい言っている。馬鹿かこの女。そう思いながら追い越した。背後からぜいぜいと気忙しい息が聞こえたと思ったら、再び女が康祐を追い抜いて行く。坂の頂で、結局二人は一緒になった。やっぱりこいつ阿呆だわ。 康祐が坂の頂にあるデッサン教室の玄関に入ると、女も薄いピンクのペズリー模様のハンカチで汗を拭いながら連いてくる。この子もデッサン教室の生徒なのだろうかと、康祐に少し興味が湧いた。玄関のなかでまだ喘いでいる女の子をよく見ると、好みである。 「飲む?」 なけなしの金で買った自動販売機の林檎ジュースを女に差し出す康祐は、やっぱりあざとい。女は康祐の顔も見ず缶ジュースをひったくると、一気に飲み干した。飲み干した空き缶をまた黙って康祐に突き返す。そして大きく息を吸って吐いた。 「遅れてすみません〜」 女は受け付けの窓口に顔を突っ込み大きな声で怒鳴ると、事務室へと入って行った。後には、林檎ジュースの空き缶を持った康祐が、間抜けな顔で立っていた。 「あの女、やっぱりおかしいわ……」
浮き浮きしていた。デッサン教室に通うことがますます楽しくなっていた。阿呆な女の顔が拝めることがとっても嬉しかった。あれ以来、女と言葉を交すことなど一度もなかったが、教室にあの子がいると思うだけで、康祐は毎日を元気に過ごせた。恋なんて、愛なんて、こんな程度の始まりなのかもしれない。大袈裟なこともなく、トレンディドラマのようなお洒落な展開もない。貧乏臭くて空きっ腹で膝小僧に継ぎ当てて、四畳半のアパートで即席ラーメンすすって、風呂にも満足に行けず、それでも自分は何かやっているんだと思えて、今を生きている実感に満たされている。十九の恋とはそんなものなのか。見返りなんか思いつきもしないのだ。 それから、何かと言っては受け付けの窓に顔を突っ込む康祐がいた。しまいには、用もないのに覗いていた。受け付けのおばさんがうんざりした顔をしていたが、ついには康祐の粘り勝ち。夜桜が満に開き、あちこちで花見の宴が盛んな時季に、康祐と阿呆な女は一 つ屋根の下で生きていた。それが亨子との始まりだった。幼くて危なっかしい恋だった。
むっつりとした顔で打っている康祐に、亨子がキャんディを一つ差し出してくれた。康祐は、それを台を見つめたまま受け取り、空いた手で包みを剥くと口のなかに入れた。檸檬の香りが口のなかに広がる。少し気が緩んだ。横目で亨子を窺うと、真剣だが楽しそう な亨子がいた。 その夜、大きな当たりはどの客にも来なかったようだ。勿論、康祐と亨子にも、ダンディさんにも大当たりは来なかった。それでも、康祐には当たりが二回、亨子には一回と出て、大負けせずに済んだ。さすがに康祐は呑む気になれず、二人はタクシーも我慢して大塚からとぼとぼと歩いて帰った。 「オネエサンも出してなかったね」 一様に不調だったせいか、今夜は亨子も余り機嫌が悪くなかった。 「ダンディさんは確率を一回出したけどつづかなかったな」 それでも康祐は用心して口数を多くしなかった。昨夜のこともあったから慎重だった。 夜風が冷えた。勝って酒を呑んで帰る時は楽しかった。大塚から家まで子供のようにはしゃいで帰れる道だった。今夜のように、二人とも負けた夜は、夜風が冷たい侘しい家路だった。 「あの台、適当なところでやめとけばよかったなあ」 しまった。ついつい愚痴が出た。 「なに言ってんのよ。だからやめなって、わたし言ってあげたじゃない。まったく見切りが悪いんだから。出ない台はいつまでやっても出ないって、マスクおじさんが言ってたじゃない」 やっぱり、まくしたてられた。 「そう言えば、マスクおじさん最近こないね」 康祐は慌てて話をそらした。 「この間、足を洗うって言ってたわ。すごく遣っちゃったんだって」 何とか誤魔化せて康祐はほっとした。これ以上絡まれたら、また大喧嘩になってしまう。その夜は無事に帰宅し、康祐も亨子も早々に布団に潜って寝てしまった。康祐にとって、全てが夢のなかのような出来事だった。
翌朝、康祐は銀座にある出版社の編集部にいた。十一時を過ぎていたが、編集部には誰も出社していなかった。多分、栗田たちは朝までやっていたのだろう。しかたがない。誰かが来るまでどこかで時間を潰そう。まだ回転しようとしない頭には、それもいいなと思 った。身体が重い。 近くの喫茶店で少し苦めのコーヒーをすすりながら、ぼんやりと考えた。俺は本当にパチンコが好きなんだろうか。たいていは学生時代に覚える麻雀も覚えようとはしなかったし、興味もなかった。賭け事が好きにはなれなかった。それなのに、今では連日連夜パチ ンコだ。何故なのか。 康祐は、ついこの間、亨子と見たテレビ番組を思い出していた。パチンコ依存症患者の男を追った特別番組だった。二人は初め、ここのところ人気になっているパチンコのことだから、気楽な娯楽番組だろうと思い、亨子は煎餅などパリパリ噛って、康祐はどれどれ とコップの冷や酒をくいくい呑みながら見始めたのだった。それは二人の意に反して真面目なドキュメンタリー番組であった。 康祐と同年配か、あるいは一つ二つ年下だったかもしれない。農家だろうか。夕方の食事の席で母親と女房に詰られる男が映っていた。男はたった一口の反論もない。寝乱れた頭髪もそのままで、うつむく男の姿は小さかった。いけないのだ。いけないのだ。男は始 終自分に言い聞かせ、思い詰め、そう言いながら節くれだった手でパチンコのハンドルを握っている。台に向かって打つ男の後ろ姿に、馬鹿馬鹿しいほどの騒音と、電光が激しく点滅する色の洪水の賑やかさ、あのパチンコの陽気なイメージを、ただ一つとして見つけることができなかった。自ら病院の神経科に通う男を、宥め透かして小さな子供を諭すように、若い医者が診ている。男はすがっていた。 「楽しくないんだ」 亨子がぽつりと言った。 「楽しくないのにどうしてやるんだろう」 私にはわからないと首を傾げた。 直感的に、康祐は思った。この男には何かが欠けている。男の性格にもよるだろうが、それとは別のもの、もっと遠いところにある何かが欠けている。
ぬるいコーヒーを飲み干して外に出た。 昼の陽が康祐の目を射った。
7
腕時計を見ると十二時五分前になっていた。一時間ばかりがあっと言う間に過ぎていたことになる。そう言えば、このちゃちな腕時計は享子が買ってくれたものだ。板橋でパチンコをやった時、享子の勝った分で板橋駅前の小さな時計屋で買ってくれた。いつかいい やつ買ってあげるからね、わたし、あなたに最高な時計をつけさせてあげたいんだ。そう言って享子が康祐の腕にしがみついた夜のことを、康祐はぼんやりと思い出した。 「おっ、康ちゃん来てたの」 栗田がとぼけている。 「午前中と言っといたでしょ」 編集部に戻って待機していた康祐は、栗田に少し拗ねた調子で言い返した。 「できてるよ。後は康ちゃんに任せるわ」 「任されても困るよ」 ずっしりと重い原稿があった。手提げ袋に大量の原稿と写真類が入っている。憂鬱になった。編集の一端を担っていたからスケジュールは康祐の頭にしっかり入っていた。残された時間は尋常でない。今さら外注に回せる時間はなかった。となれば、全て康祐がこなさなければならない。憂鬱が倍になる。 「寝ちゃ駄目だぜ」 追い討ちをかけるように栗田が憎たらしく言う。 「寝れるものなら寝ちまいたいよ。できたものからバイク便で送る。バイク便代はそっちもちね」 出版社のビルを出た。手提げ袋が重い。一刻も早く帰りたかった。有楽町線に乗ると座席の背にだらしなく凭れた。短い夢を見た。 横たわったまま天井を見つめる動かない目。明るい陽差しのなかで泣いている二人の女。一人は老婆で、もう一人は、若い母だった。聳え立つ木々に囲まれた小さな売店。柔らかい洋梨を掌に持ち、森の真中で立っているのは、幼い康祐だった。指で圧すと洋梨は小さく窪んだ。売店の軒に氷という字がはたはたと舞っていた。
目が覚めたのは夜の十一時頃だった。康祐は出版社から帰宅するとすぐに布団に潜って寝てしまった。どうせ徹夜になるし、享子が何か細かいことを言っているので煩わしかった。それに軽い頭痛もした。いい加減な返事もそこそこに、服を着たまま寝てしまったの だった。 康祐は頭痛に堪えて無理やり布団から抜け出した。それから事務所に降りるとしかたなく仕事にかかった。十二畳程の縦に伸びた事務所の壁紙が煙草の脂で全体が黄ばんでいる。仕事場にしては暗かったが、ほとんどパソコンでの作業であったから、明りはそれ程には気にならなかった。が、横長の部屋の中央辺りにデスクを置いて作業をしていた康祐は、時にして、左右の暗がりが気になって、作業中にふと背後を振り返ることがある。すると、真っ黒な人影が壁に張りついている。康祐の丸い背だった。 享子は二階の寝室で布団に潜ってテレビを見ている。時々、一階のサンルームで二匹の犬が小競りあっているのか、低い唸り声が聞こえてくる。 目がかすむ。視野が細る。パソコンの画面が二重に見える。そろそろ駄目なのだろうかと康祐は思った。不規則な時間帯の作業には慣れていたが、最近とみに衰え始めた視力に、デザイナーとしての限界を感じるようになっていた。一時期のタフさは年相応に失せて、根気は悔しいくらいに萎んだ風船玉のようになっていた。 「遅くなるの?」 突然掛けられた背後の声に、康祐は一瞬息を呑んだ。クッキーを抱いたパジャマ姿の享子がいた。いつの間にか壁の時計は二時を過ぎていた。 「顔色よくないよ。まだやらなきゃいけないの?」 「寝てなかったのか」 「おなか空いちゃったの……」 そう言う享子の顔色も心なしか青白かった。 「即席ラーメン食べる?」 「ああ、ちょうだい」 康祐は素直だった。 でき上がったラーメンを半分ずつ食べた。クッキーも二人の横で缶詰の食事をした。匂を嗅ぎつけたのか、サンルームの犬がキューンと遠慮がちに啼いた。 「お寺さんから葉書が来てたね……」 享子がぽつりと言った。 「管理費のことか」 「うん。催促……」 「大丈夫だよ。そのうち振り込めばいい」 それじゃ先に寝るねと言って享子はクッキーを連れて二階に上がって行った。マウスの忙しなく動く掠れた音が朝までつづいた。
朝便で第一弾を送りつける。午後便で第二弾を送る。 朝から、康祐は忙しなかった。亨子には仕事を手伝わせていなかったから、レイアウトをしたり、バイク便の手配をしたり、控えのコピーをとったり、作業は全て自分の手で行った。最終便で第三弾を送った時には、すでに七時を回っていた。 一日が瞬時に過ぎる。飛ぶように時間が消えていく。こうやって人間は、あっと言う間に歳をとり、ふっと息をついて自分の肉体の衰えに気づき、ほっと思う束の間に死んでいくのだろうか。寝しなのお寺さんの話のせいなのか、疲労困憊な四十三歳の康祐は爺臭く そう考える。それにしても、亨子の入れてくれた渋い日本茶が旨かった。死んでたまるかと思った。どうせ死ぬのなら、ドル箱百個出してから死んでやる。 「そうだよな、亨子」 康祐はキャスターマイルドを深く吸い込んで、床に正座してお茶をすすっている亨子に向かって言った。うん? と言って康祐の顔を見上げた亨子の顔は、狐につままれたみたいに不思議そうだった。 電話が鳴った。多分、編集部からだろう。 「次わあ?」 栗田が少し刺のある声で言った。栗田も疲れ切っている。栗田は仕事の終えた後、終えることなどないのだが、必ず呑んだ。仕事が朝に及んでも呑んだ。最後は呂律が回らなくなった。そんな栗田をもう六年も康祐は見つづけてきた。さすがの康祐もつきあい切れず、適当にしておけよと諭すこもあったが、結局は二人で呑んでいた。 「そりゃあないだろう。今日だけで30ページは送ったぞ」 康祐は少しきつく返した。 「間に合わないよ」 「そんなこと知るか。そっちの原稿が遅いんだろう」 「よそに回せないの?」 「今さらどうやってよそに頼むんだ」 「ちょっと考えなくちゃなあ」 栗田のその言葉に、康祐の尾が切れた。原稿がもう少し早く康祐の手に渡っていれば、外注の手配は可能だったし、当初の予定でスタッフも押さえていた。予定がずれ込んだことにより、康祐は約束していた外注スタッフに頭を下げている。予定がずれれば全ての押 さえがところてん突きに狂っていくのだ。外注のスタッフだって、横柄に仕事を蹴っているのではない。重なってしまった場合にはどうしようもないのだ。寧ろ、失った仕事に、地団太を踏んで悔しがっているのだ。 「そうですか。じゃ考えてみてください」 康祐は静かに言った。そしてゆっくりと受話器を置いた。 亨子が心配そうに康祐の顔を見つめている。亨子は不安だった。いつまでたっても殿様商売な康祐が心配だった。それは経済的なことも確かにあったが、それよりも、表面は軽い調子でやってはいたが、その実0.1ミリまでにもこだわる康祐の仕事に対する姿勢への 不安だった。 以前、珍しく康祐が愚痴をこぼしたことがあった。 「今度の担当なんだけどさあ」 酒が入っていたせいもあったのだろう。亨子が剥いてくれた林檎を酸っぱそうに噛りながら、ベッドに横になった康祐が大儀そうに言った。 「色の掛け合わせ指定でさ、5パーセントなんてデザイナーの自己満足だって言いやがった。勿論、俺だってそこまではやらない。10パーセントだ。だけどデザイナーにそのこだわりがなくなったらどうするんだ。昔は製版だって職人技でやってたんだ。今は全部コンピューターだ」 こういうことを言い出すと、もう康祐もデザイナーとして、年寄りに分類される身分となる。亨子だって5パーセントの差なんてどうでもいいと思う。色の種類だってどこかの人種と違って二十も数えられない。でもこの人たちは違うんだ。私たちには見えない色ま で見えるんだ。春や夏や秋の色だって、この人たちには何種類もあって、冬の色だってモノトーンじゃない。そこのところが心配だった。強いようで弱い康祐。噛りかけの林檎を口の端にだらしなく引っかけて、鼾をかいた康祐がいた。
康祐はずずずと茶をすする。 亨子もずずずと茶をすする。
8
「康ちゃん、どおもご苦労さん」 最後のレイアウトは予定ぎりぎり、康祐の手で直接、栗田に手渡された。早速、各ページの担当がチェックを済ませ、二、三の手直しを康祐に頼み、それが終えると印刷所行きの便に乗せる。やっと一通りの入稿作業が終えたことになる。にやにやしながら、栗田が康祐に言ったのだった。 「お互い様」 結局は栗田が一枚上だった。ああは答えたものの、やはり受注している以上は康祐の責任だ。スケジュールの狂いは誰のせいでもなかったし、それはどんな雑誌にもつきものだった。こんな時の康祐頼みで、こんな時だからこそ、康祐は全力で締め切りに間に合わせなければならない期待と責任を担っていた。それがまた康祐のデザ イナーとしての売りでもあったのだ。 広告業界が冷え切って以来、モデルだメイクだと、それなりにデザイナーの創作意欲を湧かしてくれるような仕事は、フリーのデザイナーや小粒のデザイン事務所にとって、ほとんど皆無と言えた。そういった大きな仕事は、大手の代理店は従来通りであったが、今やデザイナーではなく直接印刷会社に発注されるようになっていた。デザイナーは直のクライアントではなく、代理店や印刷会社から仕事をもらう状態になっていた。デザイナーの立場はまったくと言っていいほどに逆転していた。当然、デザイン費も叩かれる。足元も見られる。それこそ、屑のような仕事でも受けていくしかなかったのだ。 それでも康祐はまだよかった。タイミングよく広告業界から出版へと移行できたからだ。作って売らないことには、出版社の業務は成り立たないので、一定線の仕事が巡って来た。間があいて亨子に苦労をかけることもあったが、それでも仕事はあった。が、経済の貧困は、康祐とて例外として見逃してはくれない。徐々に、しかし、目に見えて、その歪は康祐と亨子にも迫っていた。
午後六半時。栗田が食事に行こうと康祐を誘う。すでに数人の編集部員が席を立って二人を待っていた。ありがたかったが、今日のところは断わった。まだへそを曲げていたのかもしれない。それよりも何よりも、康祐は疲れ切っていた。さすがにへとへとだった。栗田たちは多分食事だけでは済まないだろう。必ず酒になる。栗田 のことだから、入稿も一段落したことで、どこまでいくかわかったものではない。今夜は勘弁してくれ。 銀座は宵闇に色づいていた。店々の明りが夜気に溶けあい、練り絹のように柔らかく、鬱金の色に染まっている。不景気ではあったが、退社時間も重なってか、連れだった若い女の子たちで賑やかだ。 亨子の携帯に電話を掛けた。亨子には、仕事の電話には出ないでいいように、携帯電話を持たせていた。何回か掛けてはみたが電話は繋がらない。時計を見ると七時になろうとしている。台所にでも立っているのだろうか。それにしては電話が繋がらないのはおかしい。呼び出しをしてもいいはずだ。 享子の奴……康祐は直感した。栗田が康祐を酒に誘わないはずはない。帰宅は多分遅くなると踏んだのだ。一人で行ったな……。 康祐は池袋で山の手線に乗り換え、大塚へと向かった。 妙な不安感が康祐を襲う。享子は一人ではパチンコに行かない。確かにいくらかの稼ぎが出ることは嬉しかっただろう。しかし、それ以上に、康祐とのデートまがいのようなことが、ちょっとした時間にできる楽しみだったはずだ。あてにならない稼ぎは二の次である。そうでなくてはいけない。パチンコは、二人にとって、手軽な 娯楽として位置していなければならないのだ。 大塚バリジャンは夜空に浮いていた。周囲に街の明りがあったにも関わらず、そこだけが異質に華やぎ、砂漠の真中にぽっかりと現われた砦のような堅牢さで、宙に浮いていた。康祐の不安がそう見せたのだ。 享子はいなかった。店のなかを一通り回ってみたが、享子はどこにもいなかった。もう一度享子の携帯に電話を掛けてみる。不通だ。電源を切っているのかもしれない。一旦、家に戻ろう。康祐はタクシーに乗った。
リビングはひっそりと静まり返っていた。明りを点けると、ソファーで寝ていたクッキーが起き上がり背を丸めて大きく欠伸した。おまえのおかあちゃんどこいったのさ、と訊いても、クッキーは、太くて可愛いあんよで、耳から顔にかけて何度も拭うだけだった。享子はいない。 クッキーの横に座る。リビングに一人でいるのは久し振りだった。康祐は煙草の煙を吐きながら何気なく見回してみる。荒んでいるなと感じた。几帳面な享子だったはずだ。空のスーパーのビニール袋や、脱ぎ捨てたブラウスが、無造作にリビングの床に落ちている。クッキーの汚れた餌皿も洗われずにそのままだ。 この家は、康祐が三十五歳を過ぎた時分に購入した、事務所を兼ねた小さな家だった。デザインが景気の波に乗り、フリーデザイナーとして順風満帆、すでに康祐も五つや六つのスポンサーを確保していた頃だった。享子の毎日は輝いていた。美しい季節の花が欠かさず部屋に飾られ、二匹の犬は必ず毎日散歩に連れていかれた。いつも部屋部屋の掃除や片付けに勤しんでいた。二階の寝室や、康祐の仕事場や、風呂場や台所を。そしてこのリビングを、いつも軽い鼻歌を流しながら。 享子の鼻歌が聞けなくなって久しい。享子の鼻歌の聞こえないリビングは何かが欠けている。クッキーも相方のいない漫才師みたいで半端に見える。傍から見れば、享子のいない康祐も、やっぱり半端に映るだろうか。テーブルの上の萎んだヒヤシンスが物悲しく、花びらを薄茶に濁している。急に大人気なく、康祐は寂しくなった。クッキーも寂しげだ。 テレビのリモコンを入れる。懐かしのメロディー番組だろうか。昔流行った曲が流れてきた。
ダンスはうまく踊れない あまり夢中になれなくて 猫が足もとに踊っている 〜 夏の夜は すでに暗くて 藍い 窓にみえる 星の光近く だれも来ないし だれも知らない 〜 ひとりきりでは ダンスはうまく踊れない 〜
高樹澪が色っぽく歌っている。随分と遠くへ離れてしまった時間を感じる。時にはシュプレヒコールのように舞い落ち、時にははかなく枯れて、季節の花の咲き散りが幾度も何度も繰り返し、康祐と亨子の上で過ぎていった。まだ四十三は鼻垂れ小僧だ。四十二は匂い立つ女盛りだ。酸いも甘いも嗅ぎ分けて、十分油の乗る頃だ。こ れからだ。康祐は思う。仕事さえ順調ならば、会社さえうまくいっていればと。一時は五台も入れたパソコンは使い手を失って埃をかぶっている。空いた机は物置になり、座る人間のいない椅子は人待ち顔でどこか寂しい。時々引いては横柄に両足など投げ掛けてみるが、少しずつ去って行った若いデザイナーたちの面影が、一人、二 人と浮いては消えていく。人間は独りになるとどうして過去を思い出すのだろう。 「みなし子と老いて子なき者と」大平記。 孤独とは、ひとりぽっち、と言うらしい。 感傷に浸ると酒が呑みたくなる。康祐の構造は単純だ。時々、気楽なもんねと亨子に呆れられる。が、この単純さは身につけた単純さであって、生来のものではない。簡単に言えば楽天家ということなのだが、それは、それなりの修羅場をくぐって習得した、康祐の精神衛生法だった。その楽天家の康祐も今は亨子のことが気なっ た。電話は繋がらないし、探し回るあてもない。時計はとうに九時を過ぎている。クッキーを相手に呑むしかない。 康祐は、ウィスキーが切れていたので、台所の棚から料理用に常備している紙パックの日本酒を引っ張り出し、ちびちび始めた。半分気が抜けていて旨くない。少し空腹を覚えた。冷蔵庫を覗くとスライスハムが二枚、何故か中途半端に残っていたので、クッキーと仲良く分けあった。あっという間につまみが消えた。面倒なので酒だけやった。冷や酒はくいくいと康祐の胃に落ちていく。今頃、栗田たちも盛り上がっているに違いない。栗田よ、ほどほどにな。また通風をぶり返さないように気をつけろ。康祐は呂律が回らなくなった栗田の顔を思い出した。そして、すぐに忘れた。 テレビは、馬鹿女が嘘っぽいことをしゃべくっているので、つまらない。だから消した。リビングは静まり返り、クッキーが顔を洗っている。嘗めた足が耳に掛っている。と思ったら、出窓のガラスに小粒な雨が当たり始めた。 「おまえ、なかなかだねえ」 とクッキーの頭を撫でてあげるが、亨子は相変わらず音なしの構えだった。不安と酔いがごっちゃになって、いつしか康祐は眠っていた。クッキーが康祐の腹の上でニャーゴと啼いた。
9
激しい雨音で目が覚めた。腰が半分ソファーからずり落ちている。何時だろうと壁に掛った時計に顔を向けたら、そこに亨子が立っていた。ずぶ濡れになった亨子が蒼ざめた顔で立っていた。滴り落ちる雫を拭おうもせず、呆然自失の亨子がいた。クッキーが亨子の足元で不思議そうに見上げている。 「どうしたんだ……」 康祐は思わず漏らしたが、掠れて言葉になっていない。慌てて起き上がると急いで二階に駈け上がり、大きなバスタオルをクロゼットから引っこ抜いて再び駈け下りた。 「なんで……」 突っ立ったままの亨子にバスタオルをすっぽり覆い、頭を忙しく拭いてやる。全身から力が抜けている。首がふにゃふにゃと揺れた。服を脱がそうとして出窓のカーテンが開いているのに気づいた。康祐は慌ててカーテンを引く。振り返ると、亨子が黙々と自分で服を脱ぎ始めていた。濡れた服が脱ぎにくそうで、引き千切るように脱いでは床に叩きつけている。 「どうしたんだよ」 康祐はソファーにどかっと座り込み、まずは一服と煙草に火を点けて言った。今度は言葉になっていた。亨子はそれには答えず、黙って二階に上がり、バスローブを羽織って黙って下りてきた。そして康祐の隣にどかっと座る。その勢いで康祐と膝に上がっていたクッキーが1センチばかり宙に浮く。亨子め、やや太ったな。 「負けた……」 「一人でやったんだな」 「そ。で、負けた」 「どこで」 「巣鴨……負けた」 亨子は負けた負けたと繰り返す。康祐には、亨子が負けたを繰り返す意味を、とうにわかっていた。亨子は大負けしたのだ。それを咎められることを先回りしての牽制なのだ。康祐は本題に入る。 「で、いくら負けたんだ」 「負けた」 康祐はその額がどんなに大きくても驚かないだろうと思った。絶対に大きな金額であるのは確認しなくても明白だ。なかなか明かさない亨子の態度でそれがわかる。 「いいよいいよ、気にするな。それより風邪ひくぞ。熱いお茶でも飲もうよ」 「……」 「金なんかまた稼げばいい。それより何事もなくてほっとした。これでも心配してたんだ。携帯も通じなかったし」 と言って、康祐はクッキーを亨子の鼻面に押しつけてあげた。クッキーが亨子の顔をぺろぺろ嘗める。 「お店のなかでは電波届かなかったの」 「そうか。じゃしかたないね……で、いくら遣ったの」 「8万円……」 ゴツン。いきなり、亨子の頭に拳骨が飛んだ。そこでやっと亨子は大声で泣いた。 「阿呆め」
「飯でも食いに行こう」 康祐はやっと落ち着いた亨子に言った。くよくよしても始まらない。足りなくなればまた本でも売ればいい。もっとも8万円の損失には到底及ぶものではないのだが。しかし、失ったものは戻らない。寧ろ、落ち込んだ亨子の機嫌が回復しないで、うじうじとした時間に囚われるのは余計に面倒だ。ここは一つ、からっといくしかない。 「いいの?」 「いいさ。だけど困ってもくよくよするなよ」 「やっぱり止めよお」 「いいから早く支度しろ」 康祐もここまでくればやけのやんぱちだ。少しは眠れたせいか、酒も呑みたい元気が出てきた。気の抜けた台所の酒で終わっては、今夜の康祐は余りにも惨めに思えてならなかったのだ。 「どうして大塚にいなかったの?」 明治通りからタクシーで池袋駅に出て、二人はサンシャインシティ付近の居酒屋にいた。若い客で賑やかだ。最近の不景気で店も価格破壊になっていて、若い客には呑みやすいのだろう。なかには明らかに高校生と思われる客もいた。甲高い歓声が店内に飛び交っている。 「えっ、バリジャンに行ったの?」 亨子は目を丸くした。 「ああ、電話も通じないから、多分と思って」 亨子はうつむいてしまった。自分の軽薄な行動が恥ずかしかった。……でも、引くに引けなくなってしまったの……胸のなかで亨子は呟いた。 「バリジャンではやったのか」 「店の前でマスクおじさんに遭っちゃったの。そしたら、今日はバリジャン全然出ないよって言われた」 マスクおじさんとは、やはり亨子がつけた渾名で、大塚バリジャンの常連の一人だった。四十前後だろう、風邪を引いているわけでもないのに、いつも白マスクを着け、自転車で駈けずり回っている。負けた負けたと言っては自転車を飛ばして大塚の街中に消えていく。 「場所を変えてやってみようと思った……」 「それで 巣鴨か」 亨子は再び黙ってしまった。 まあいいさ。これで懲りたろう。明日の生活費を思えば、享子は二度と一人ではやらないだろうと康祐は思うのだった。 「入稿が終えたので暫く暇だ」 「お疲れさま」 ほっとしたように亨子は言った。やっと放免してもらえたと思ったのだろう。少し目尻が潤んでいる。そんなに気にするなよと康祐は腹のなかで言った。しかし、この付け必ず回って来る。痛い事実だった。何とかしなければならないだろう。それを思うと、強がりばかりも言っていられないのだ。康祐は欝な気分になった。 隣で亨子がポリポリと、好物の糠漬けを旨そうに食べている。康祐もつられてパキパキ食べた。気の入った冷や酒がすっと腹に落ちた。どんな時でも酒は旨いな、と思った。
書籍部で単行本の装丁について打ち合わせをしていたら、栗田が寄ってきて後で顔を出してくれと康祐に耳打ちした。雑誌の初校も終えて後は校了日を待つだけになっていた時だ。享子が雨にずぶ濡れになってから一週間後のことである。 一時間後、康祐と栗田は出版社の近所にある喫茶店にいた。昼下がりの店内では、愚痴でも言いあっているのだろうか。定年間際のサラリーマンが顔を近づけてぼそぼそやっていたり、疲れ果てた営業マンが小さな椅子でずり落ちそうになって居眠りしている。どんよりとした照明が余計に客の気分をだるくしていた。 「康ちゃん最近スピード落ちたね」 栗田が切り出した。顔色を窺うような横目使いだ。 「そんなことはないと思うけど」 康祐は栗田との先日の電話でのやり取りを思い出していた。栗田はまだ気にしていたのだろうか。危機を乗り越えれば済むこではないかと思えたが、それは受注側の発想で、発注側としては別のことなのかもしれない。 彼等には立場が優先する。部下の手前もある。何よりも、外注への権威示威がそのまま部下への権力誇示へと繋がるのだ。気のいい栗田とて組織のなかのサラリーマンである。切った張ったの編集マンも、今や銀行員並みのサラリーマンである。所謂、編集マン気質というものは、とおの昔に消えていた。組織のなかに少しでも不満 の種が芽生えれば、早々に苅り落としてしまう必要に迫られた。 「でね、次回から一人プラスするから。康ちゃんもそのほうが楽でしょ。メインは康ちゃんでいいんだけどね。担当ページ数については今度の打ち合わせの時に知らせる」 栗田は相変わらず康祐を横目で見ながら話し、 「お互い無理できる歳じゃないしね」 と付け加えた。 しっペ返しがこういう形で返ってくる。それでなくても少ない仕事が、ここでまた減る。康祐に暗澹たる気持ちが過ぎった。
10
大塚バリジャンはここのところ出が悪い。回収時期に入っているのだ。バリバリジャンジャン出したら、一定期間ジャンジャンバリバリ吸い取るのが回収時期だ。客は出血サービス時に稼いで回収時期に凹まなければ、つまり勝ちになるわけだが、出血サービス時に負けて回収時期に負ければ、お手上げ万歳でもう止めるしかない。 享子はこの回収時期に凹んだわけだ。しかし世の中うまくいったもので、勝ったり負けたりをバランスよく繰り返す。だから、店も成り立つし常連もつく。 今夜も大塚バリジャンでは、回収時期とわかっていながら、常連客が打っている。全てが駄目な台ではないと、当たる台を求めて彷徨っている。あっちを打ってはこっちの台と落ち着きがない。そのなかで、オネエサンだけはいつもの通り決まった台で打ちつづけていた。しかし残念ながらオネエサンにも当たりは来ていないらしく、ひっきりなしにカードを買いに台を立っている。その回数はもう余程になっている。ここ一週間ばかりになる回収時期を通してのことだから、オネエサンの負けは可成りになるずだ。吸い殻入れが一口吸ったくらいの煙草で溢れ、バリジャンの店員が奇麗に片づけた後から一杯になる。眼鏡の奥の表情はわからなかったが、何だか苦痛に歪んでいるようにも見える。それでもオネエサンは自分の決めた定台から去ろうとはしなかった。 大塚バリジャンの前をマスクおじさんの自転車が風のようにすっと通り過ぎて行った。
いつだったか、亨子がバリジャンの店内では売っていないミネラルウォーターがほしいと言うので、康祐は外の自動販売機に買いに出たことがあった。販売機は店の裏手にあって、そこは人通りの少ない細い路地になっていた。販売機の明りがその辺りだけを灯し薄暗い。金木犀が小さな花を盛りつけて、強い芳香が風に運ばれてい た時季だから、九月か十月ころのことだったろう。 何気なく裏手に回ったら、路地の中程にある販売機の横で一組の男女がもつれている。抱擁というのではない。女が男を身体全体で店の壁に押しつけて、何やら問い詰めているように見える。男は若いサラリーマン風であり、女はオネエサンだった。 康祐は少し躊躇したが、引き返すのもおかしいと思い、販売機でミネラルウォーターを買った。二人は康祐を無視するかのようにもつれあったままだった。屈みこんで品物を販売機から引き出す際、一瞬ではあるが、康祐は二人を見た。男は顔をそむけていたのでその表情を掴めなかったが、眼鏡を外したオネエサンの横顔を見ることができた。切れ長の目が泣いている。康祐はぞっとした。販売機の明りを映したオネエサンの顔が驚くほど美しかったからだ。そこにはいつもの姉御肌のオネエサンはいなかった。どんな理由か計り知れないが、同じ執念でも、男に向けた執念はこんなにも女を変えるのかと、康祐は息を呑む思いだった。木犀の金が一つ暗闇に浮き、甘い匂が彷徨う夜だった。 どこでもそうだが、大塚バリジャンも十一時に閉店する。時間になると、勝ち組は景品交換の列に並び、負け組は未練を残して夜の街へと散っていく。悲喜交々。回収時期のバリジャンは景品交換の列も寂しく、店内を彷徨っていた常連客も閉店時間を待たずに消えていた。駅前の風景は早くも灯りが落ちてよそよそしい。 駅前をふらふらと幽霊のように歩く女の後ろ姿があった。眼鏡を掛けてその表情を隠したオネエサンだった。結局、オネエサンは今夜も負けた。一度の当たりもなく閉店の時間を迎えた。街灯の薄明りを受けた短い影を曳きずって、オネエサンはどこへともなく歩いていく。あの燃えるような執念は店にそっくり置き忘れたのか。それとも、あの時に康祐が見た若い男にオネエサンの全てが奪われてしまったのだろうか。精気の薄らいだ女の後ろ姿が、掴みどころのない陽炎のごとく揺れていた。
仕事場のラジオからユーミンの歌が流れている午後、康祐はパソコンに向かってぼんやりと時間を潰していた。さしあたっての仕事に単行本の装丁があったが、最終的なデザイン内容が決まらないと具体的な作業には掛かれない。所在なく時間が過ぎていく。享子はこの間の雨で風邪を引き、今だに鼻をぐずらせ二階の寝室でしょぼくれている。クッキーもその享子につきあっているのだろう。昼から姿を見せてはいなかった。 康祐は次回の台割り表を見つめて溜息をついた。今までの担当ページ数を大幅に割っていて、先行きの不安を募らせる。融資の目処は一向に立たなかったし、新規のクライアントがつきそうな気配もない。まして書籍や雑誌の新企画が通るような手応えは微塵もなかった。幾つか提出している企画も栗田の机の上で埃を被っているのだろう。いつまでたっても栗田からは梨のつぶてだった。このままではまた享子が数枚の十円玉を握りしめて途方に暮れる。 また、諸々の滞りが、康祐の気を煩わせていた。税金、健康保健料、外注費、材料代、借入金の返済。そして器材類と家のローン。諸々が康祐を圧迫していた。銀行の担当には手のひらを返したように侮辱され、外注先からは支払いの遅れに泣きつかれていた。泣きたいのは康祐だった。経営手腕の駄目さ加減に情けなくなるばかりだった。しかし、くよくよしても始まらないと、その都度思い直しては開き直ってきた康祐だった。その康祐もここのところ疲れが目立つ。気力が目に見えて衰えた。体力だけが頼りだったが、それも落ちる一方だ。 今日は随分にマイナーだなと康祐は思う。昼間から酒を呑みたい気分に駆られる。そうやって人はアル中になっていくのだなと思う。康祐はひたすら仕事中毒になりたかった。中毒になるほど、仕事が欲しかった。ただそれだけのことだった。
電話が鳴った。仕事の発注であればいいなと思って出る。栗田からだった。 「栗田ですが」 改まった調子だ。 「表紙のイラストを描いてもらっているイラストレーターが亡くなりまして、今夜が通夜なんですが、一緒に線香でも……」 「どうしたんです?」 「心筋梗塞だったらしい」 康祐と死んだイラストレーターは、表紙デザインの打ち合わせで顔を合わせる程度の関係だった。確か康祐や栗田と同い歳であったはずだから、随分な若死にである。康祐は自分の身体の不調を思って落ち込んだ。こんな不規則な生活では自分だってわからない。四十三歳とはそんな歳なのだ。四十二歳が厄年とはよく言ったものだ。単なる語呂合わせではない。古く人間が経験から得て培ったデーターなのだ。無理がきくから無理をして、瞬間、侮った隙間に突然潜り込む死。それが男の厄年なのである。 「わかりました」 待ち合わせを決めて康祐は電話を切った。 「どうしたの? 顔色よくない」 二階の寝室に上がった康祐を見て享子が怪訝そうに言った。相変わらず鼻をぐずらせていたのか、鼻の頭が真っ赤だ。享子の懐のなかでクッキーが康祐をじっと見つめている。康祐は享子に事情を説明するとクローゼットからダブルの黒服を取り出して言った。 「これもだいぶ痛んできたなあ……」 「場所はどこなの?」 享子がアイロンのコードを電源に差し込みながら言った。 「さあ、よくわからん。出版社のほうで会ってただけだから……栗田と待ち合わせしたから……」 「途中で香典袋を買っていかなきゃいけないわね……」 享子は自分に言い聞かせるように、クッキーの頭を撫でながら静かに言った。それきりなにも言わない。康祐は突っ立ったまま窓の外を見ていた。窓から見える隣の空き地に、鯛釣草が淡紅色の房花をぶらさげている。 「けまん群れ墓石の如く壁炉冷ゆ」殿村菟絲子
アイロンの熱した蒸気がシューと鳴った。
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空と海が茜色に溶けていた。夥しい光の糸が雲の隙間から赤くこぼれていた。それは、日常の閉塞をいかにも厳粛めいた空間に変えて、刹那、康祐を夢幻へと誘う。あれは江の島だろうか。海岸線の向こうに蜃気楼のように霞んだ小さな島が浮いている。思わずサザンの詩が唇を掠めるが、尻切れトンボに細って消えた。バスの車窓から忍びこむ柔らかく温い潮風が、夏の近さを唆してくれる。きっとこの街は、瞬く間に紫陽花の季節を終わらせ、沙羅の白い花が五弁に開くと、侠竹桃が庭を包む熱き太陽の季節になっていくのだろう。寄せる波が砂に消えるように、車窓を街並の赤い風景が去来する。康祐と栗田を乗せて、穏やかな黄昏を赤く染まったバスが行く。 自宅での葬儀は質素だった。これといった受け付けもなく、玄関に生前の作品が飾られているだけだった。そのなかに康祐のデザインした雑誌もあった。二人はその雑誌の仕事で初めて知り合い、何度か打ち合わせをした。もの静かで穏やかな人だったと、康祐は思い出す。酒を酌み交わすこともなく、ただ仕事の席だけの関係だった。彼はイラストレーションの制作、康祐はそれを料理するデザイナー。作品のなかだけで二人はつながっていた。 花飾りに囲まれた棺が見えた。ミサ曲だろうか。狭い室内に微かに流れる音があった。弔問客が順次、棺に別れを告げている。栗田と康祐も後につづく。 「アバヨ……」 栗田が棺に向かって言った。 康祐も胸のなかで同じ言葉を呟いた。 ただそれだけだった。栗田も康祐もただそれだけの別れを告げた。 「……アバヨ」 棺のなかから声が返ってきた。その声は、泣いているのか微笑んでいるのか、静かで穏やかな声だった。何の不思議もない。同い歳の男たち三人が交した、ひそやかな別れの夜だった。 帰路、駅前で呑んだ。康祐と栗田の他に三人ばかり一緒になった。一人は栗田とは別の出版社の編集長だった。康祐より五つほど上の恰幅のいい男だった。康祐は、栗田に紹介されて、名刺交換のついでに簡単な自己紹介をしておいた。縁があれば仕事の一つになるかも知れないと、こんな時でも康祐は思う。 早く家に帰りたかった。享子の顔が見たかった。まだ風邪が直らず鼻をぐずらせているのだろうか。康祐は酒尻の長い栗田の顔をぼんやりと眺めた。
「久しぶりの遠出だったんで疲れたなあ」 康祐はリビングのソファーにほろ酔い加減で寝転んでいた。享子はテレビの深夜番組を観ながら煎餅をポリポリやっている。その膝の上でクッキーが丸くなって寝ていた。康祐が帰宅したのは結局十二時を過ぎていた。電車では立ちっぱなしで、池袋から二十分かけて歩いて帰った。タクシーなど乗れる身分ではなかった。経済はますます逼迫していた。 「仕事のほう、どう?」 享子は少し詰まった鼻声で言った。 「厳しいよ……」 康祐は霞んだ目で天井を見つめていた。煤の糸が一本ぶら下がっているのが見える。 「部屋も汚れてるなあ」 「集金なんか来るから、昼間が嫌なの……」 余計なことを言ってしまったと康祐は思った。外に出る自分はいいが、家にいなければならない享子にとって、諸々の対応は辛い。支払の引き延ばしにも限度がある。玄関のチャイムが鳴る度に不安を募らせ、居留守を使うこともしばしばになる。昼間はほとんど二階の寝室に籠り、夜になるともぞもぞと動きだす。そんなことの繰り返しが精神的に健全なわけがない。 「いいさ。部屋が汚れてたって死ぬわけじゃないし」 もうストーリーもわからなくなってしまった深夜のテレビドラマが続いている。享子のお茶を横取りしてすすったが、ほとんど白湯だ。これでは煎餅もまずかろう。康祐はソファーに沈む自分の身体の重みを気怠く感じた。 そろそろ限界なのだろうか。気負いばかりで先が見えない。すべてに解放されて、のんびりやりたい。康祐は重くなった瞼に耐えながら思った。弱気になっていく自分に不安を感じた。自分がそうなのだから、享子はもっと不安だろう。それも継続する不安だ。享子は酒を呑めなかったから、一時的にその継続を中断する方法もないのだ。そろそろ決断しなければならない所まで来てしまったのかも知れない。定期の仕事さえ入ればと康祐は思った。 「久しぶりに行ってみたいな」 康祐は享子の横顔を見て言った。亨子の目はテレビの画面を通過している。煎餅を噛る音も止んでいた。 「……どこに?」 気がついたように享子が康祐に向き直って言った。 「バリジャンに決まってるじゃないか」 「無理よ」 「大してやらなきゃいい。気分転換にいいじゃないか」 「行けばムキになるでしょ」 「金をそんなに持って行かなければいいんだ。なくなれば諦めるしかない。もっともそんなにないか、お金」 「私、大負けしちゃったしね」 そう言って享子はぺろりと舌を出した。康祐は何となくほっとした。なるようになるさ。享子の頭をくしゃくしゃと掻き回した。
そうこうしているうちに、雑誌の仕事がまた始まった。康祐の担当ページ数は減らされていたが、忙しなさに変わりなかった。かえって締め切りぎりぎりのページが自分のほうに回ってくるように思えて、康祐は内心不満だった。かと言って、ここでそれを出せば栗田とこじれるのは必至だ。康祐は黙すしかない。 「仕事があるだけましよ」 享子のもっともな言葉が康祐の気持ちを宥める。日々リストラで職を失っていく多くの人間を思うと、そうだよなと納得せざるを得ない。不満で済むうちはまだ幸せなのかもしれないと康祐は思った。しかし、わだかまりは康祐の口を重くし、栗田とのやりとりもめっきり減って、若い編集者ともぎこちなさが出始めた。一人浮いていくようなやりきれない心持ちが増していくばかりだった。 独立したての頃は、受注した仕事が山積みになっていることが楽しかった。徹夜の連続も仕事がうまくいっている証として把握できた。徹夜明けの朦朧とした顔を見て、忙しいと楽しそうねと亨子にからかわれた。前だけ見て、夢だけ描いて、鼻息荒く、確信した自信を生きていた。そんな康祐を亨子だって疑ってはいなかった。二人は、決して豊かではなかったが、どこまでも楽天的に、そして我が儘にその日その日を生きていた。猫好きな亨子のお陰で、今日まで猫のいない二人の生活はなかったし、季節の花が、特に白く咲く花が部屋に飾られていないこともなかった。旬のものを康祐に食べさせたいと言っては、一通りの含蓄を述べながら、亨子は季節料理を楽しそうにつくったものだった。 今、亨子は二階の寝室に籠りきっている。最近では康祐の仕事場にも滅多に降りてこない。時々、クッキーがドアの透き間に片方の目を覗かせて小さく一声啼く。気がついて振り返ると、さも何か言いたそうに尾をドアに擦りつけて、また一声啼く。クッキーは、康祐と亨子が激しい口喧嘩になると、傍でおろおろする。目の球が忙しなく動き、二人の周囲をぐるぐる回る。用事があって外出から帰ったときなど、怒った顔して二人を睨む。布団には二人の間に割りこんで寝た。ちゃっかり人の手枕で寝ていた。最近、遊び相手に不足したクッキーは、廊下を、リビングを、階段を、ただ一人寂しげに徘徊している。 亨子はもう寝てしまっただろうか。疲れた目をパソコンから離して壁の時計を見ると一時を過ぎていた。亨子とは遅い夕飯を食べた九時頃から顔を会わせていない。康祐は怠い身体を椅子から立ち上げ二階に上がった。寝室のドアが少し開いていて明りが見えた。起きているのかと思ったが、亨子は畳んだ布団にもたれかかって丸くなり着のままで眠っていた。傍に座りこんで亨子の寝顔を覗きこんだ。すうすうと軽い寝息をたてている。出会ったときと変わらない亨子の寝顔が救いだった。このままの表情がいつだって欲しかった。自分を信じているのは、たった一人、この女なのだと康祐は感じた。 熱く霞む目は、パソコンに疲れたせいだからと、康祐は自分に言い聞かせた。
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辛うじて二人は生きた。ちょっとしたいさかいもあったが、康祐と享子は何とか生活していた。クッキーも二匹の犬も幸いに病気一つせず、元気に暮らしていた。以前のように豪勢な餌を与えられないことが悲しかったが、それでも家族五人はそれなりに生きていた。季節ごとの不自由をやり過ごした。けれども、花の咲き散りには気を回せず、部屋の観葉植物もいつしか枯れ果らし、ふと気がつけば、色づいた街の木々の葉は落ちていた。百日紅は年老いたようにその木肌を剥きだしていた。 享子はしつこい集金の対応に、康祐は時には嫌気がさしてとぼけることもあったが、銀行や公庫の呼び出しに応じて支払いの交渉にあたった。あるものは限界に達して裁判になった。差し押さえもあった。が、その都度、康祐は何とかクリアーをしてきた。しかし、綱渡りのような生活は相変わらずつづいている。何の目処も立たないまま、時間と月日だけが否応無しに過ぎていた。年内に仕事の目処が立たない限り、一つの決断として、家を手放さなければならな いだろう。康祐は悶々として焦燥し、享子は暗い不安におののいた。大塚バリジャンで遊ぶことなど夢のまた夢だった。
「社長。あなた、これじゃ経営者の資格ありませんよ」 コンピュータから取り出した返済状況の明細をボールペンの先で突つきながら、若い行員が康祐の顔も見ずに言った。正面入り口もすでに閉じてしまった夕方の銀行で、康祐はカウンターの椅子に腰掛け、神妙な顔つきで腕を組んでいた。 「月々いくらでもいいんです。一円だっていいんです。現に毎日そうやって小額でも返済にみえる人がいるんです。誠意を見せてくださいよ。社長」 康祐はただ唸るばかりだった。ひたすらもう少し待ってくれと頭を下げるだけだった。他に何が言えただろうか。何をこの若い行員に頼めたろうか。すでに借り入れの額も、返済済みの数字も、康祐の頭のなかで消えていた。帳簿など無きに等しく、まともな経営など成立していなかった。とにかく、仕事を軌道に乗せて金を稼ぎ、それで微々ながらも返済していくしかないのだ。今は、頭を下げ、詫びて、勘弁してもらうしか、康祐にはどんな道もないのであった。 「そろそろご自宅の処分を考えられたらどうですか」 行員は事もなく言った。 「もう少し頑張ってみるつもりです」 康祐は自分の言葉に虚しさを禁じ得なかった。しかし、他に言葉が見つからなかった。同じ言葉を繰り返すばかりだった。 「とにかく、連絡だけは取れるようにしてください。今日のところ はこれで。ご苦労様でした」 ようやく解放され、裏手の出入り口から銀行を出ると、戸外は夜だった。明治通りにはヘッドライトを灯した車が行き交い、無闇にけたたましい音をたてたバイクが走り抜けていく。無灯火の自転車が危うく康祐にぶつかりそうになったが、康祐は怒る気にもなれず やり過ごした。 どうしてなんだ。自営の者だったらきっと同じく、ただこの一言を吐くだろう。なんでなんだ。この不景気に、そう思い、一向に先が見えない、現われない、途方に暮れた自分の姿ばかりが皮肉によく見えて、誰もがこれまでの苦労を虚しく思う。報われない自分を呪う。判で押したように同じく、どんづまりに追い込まれた、そっくり同じの人間たちが、今、袋小路に閉じ込められて、もう誰をも何ものをも恨む気持ちさえ失せている。 今や、楽天的であったはずの康祐さえ、享子の沈みきった表情を思うと、言い知れぬ悔恨が後悔となって胸を締めつけてくる。己の非力を責めてみても、現状には何ら影響も無く、虚脱感だけが膨張する。呑みたくても、その端た金も持ち合わせない康祐は、享子が待つ我が家へと真直ぐに帰るしかなかった。例え呑めたしても、喉にごつごつ当たる酒は、康祐をただ脆くするだけで、貧弱な自分が見えてくるだけだった。それならば、素面で悔しさを噛みしめ、ま だまだしぶとく執拗に何らかの可能性を探ったほうが、それは針の糸を通すような作業であるかも知れないが、落ち込んだ自分を慰めるために呑む酒よりも、まだましなことだと康祐は思えた。
家に戻ると留守電に栗田の伝言が入っていた。野太い声で康祐の留守を愚痴っている。俺だって用事ぐらいあるんだと康祐は不貞腐れた。明日連絡を入れて来社願たいと言っている。こっちだって予定があるかも知れないのに勝手に決めるな、と思ったが、康祐には生憎、用事も予定もなかったのだった。こういう時の強がりは自分でも白々しいと感じる。 そろそろ暖房を入れなければならない季節だろうか。仕事場の床が冷たかった。康祐は、椅子の背にもたれ、ぼんやりとスイッチの落ちた目の前のパソコンを見つめていた。雑誌の仕事は跡絶え、装丁の仕事も今は切れていた。当分の間、パソコンのスイッチを入れる必要は見当たらなかった。 「銀行、どうだった?」 享子が珍しく仕事場に下りてきて言った。足元にクッキーもいた。 康祐は腰掛けた椅子を回転して振り返り、 「君たち仲いいねえ」 と微かに笑んで言った。 「ちょっと待ってろ」 そう言って、康祐は仕事場の収納庫からファンヒーターを引っ張り出すと、元栓を繋いで火を灯した。仕事場はすぐに暖かくなった。クッキーがファンヒーターの前でごろごろと寝転がっている。享子もその横に膝を抱えて座っていた。 「一円でもいいから払えってさ。そりゃそうだよな」 「いやな思いしたの?」 「そんなことはないさ。これも仕事のうちだしな。何とかなるさ」 すでに深刻な状況ではあったが、今の享子には伝えられなかった。 「栗田から連絡入ってたので、明日行ってくる」 「仕事?」 「いや、わからん。留守電では何も言っていなかった」 「いい話だといいわね……」 享子の言葉には、もう何度も繰り返された期待はずれの痛恨を含んでいた。今まで、話だけでなかなか実現しない企画がどれだけあったろう。その都度、康祐も享子も苦い思いをしてきた。無遠慮な不安だけが、二人の上に積み重なってきたのだった。
リビングで遅い夕飯をとった。享子は食欲がないのか箸が進まない。康祐は旺盛に食べた。食べっぷりのいいところを見せた。康祐の精一杯の虚勢だった。萎えた自分を享子に見せたくはなかった。そして、酒の呑めない寂しさを享子に悟られたくはなかったのだ。 「この沢庵、うまいねえ」 康祐は小皿に盛られた沢庵をぱりぱりやりながら言った。 「イブリガッコっていうの。沢庵なんて食べないあなたが食べるん だから、余程おいしいのね」 享子は嬉しそうに微かに笑んだ。 「ぐちゃぐちゃしてるじゃない沢庵って。沢庵臭いって感じで。あ れが苦手なんだ。これって、ぱりぱりしてて、いいよなあ」 「でも、そうじゃないのに当たることもあるのよ」 こういう話になる享子は随分と嬉しそうだ。こんな風に二人が食べ物の話などするのは久し振りだった。享子は、好きな花にしても、料理にしても、いつだって夢中になって、時には向きになって楽しんでいたものだった。味のことで他愛のない喧嘩もあった。享子は康祐の身体を思って塩気を控えたのだが、濃い目の味が好きな康祐は駄々をこねた。それじゃ食べなくていいと、最後には享子に叱られた。そんな我が侭が言えているうちが、二人にとって安穏とした時期であったのかも知れない。 「栗田さん、いい話だといいね……」 亨子は箸を宙に浮かせたまま、ぽつりと言った。 「明日わかるさ。それよりおまえも食べろ」 しっかり食べてくれ。康祐は願った。今、亨子に身体を壊されたら二進も三進も行かなくなる。まさしく行き詰まりだ。元気でいろ。ただそれだけを願う康祐だった。がつがつと頬ばった飯が口に溢れた。苦虫を潰したようにまずかった。
13
宿した雨が朝になって少しずつみぞれまじりとなり、朽ちて落ちた幾枚かの葉を小さな庭の隅で打っていた。葉は雨粒が当たるたびに微かに揺れ、いつしか小さな水溜まりのなかに沈んでいた。 康祐は仕事場の電話の前で惚けていた。顔も洗わず乱れた髪のままだった。浅い眠りを繰り返したので、いまだ目が覚めず朦朧としていた。栗田に電話を入れなければならなかったが、この時間では栗田は出社していないだろう。壁の時計は十時を回っている。 逸早く暖を嗅ぎつけたクッキーが、ファンヒーターの前に嬉しそうにやってきて、大きな欠伸を一つすると康祐を見上げた。康祐はリビングから缶詰を持ってきてクッキーに開けてあげた。クッキーは、缶詰の周りを一回りすると、おもむろにしゃがみこみ、ゆっくりと食べ始めた。けれども、缶詰の口が小さいせいで、時々、前足で餌を取り出しては食べた。亨子が拾ってきたばかりの時は、掌に乗せても余裕があったほどだったのに、何時の間にか、この子も育 っていたのだなと、康祐はぼんやりと思った。 この子で何代目の猫になるのだろう。死に目に逢うのが嫌だという康祐を尻目に、亨子はどこでどう見つけてくるのか、家には必ず猫が住んでいた。たまに二人で散歩に出れば、亨子は猫の鳴き声に聞き耳を立てて捨て猫や野良の子猫を見つけ出した。まるで吸い寄せられるように、亨子と遭遇する悲しい猫が、何匹もいた。そんな時、亨子は慌てて近くのコンビニに駆けこみ、餌になるものを買い与えた。時には、獣医に見せるために近くの犬猫病院を探した。そ うやって、何匹もの猫たちが二人の生活のなかで生きては去っていった。もう、この子で最後だよと亨子に約束させた、クッキーがその子であった。 「しっかり食べろ」 康祐はクッキーの頭を強く撫でて言った。その手をクッキーがぺろりと嘗めた。 そろそろ栗田が出社してもいい時間になっていた。新しい仕事の件か、それともデザイン的な苦情か。あるいは──少しの不安を感じたが、とにかく電話をしない限りなにもわからない。康祐はしかたなくダイヤルを回した。 「ああ、康ちゃん。今日、会社に寄ってくれない。話があるんだ。夕方頃が都合いいなあ」 栗田は一方的に用件を伝えるとせっかちに電話を切った。結局、康祐は話の内容を掴えることができなかった。が、いい話でないことは直感した。前置きに口の悪い冗談が栗田から出なかったからだ。
「康ちゃん、覚悟して聞いてくれ」 栗田が珍しく康祐に正面向かって切り出した。二人は出版社近くの居酒屋にいた。夕方の早い時間であったので客もまばらだ。康祐は持ちかけたビールのグラスを置いて栗田を真直ぐに見た。 「今まで康ちゃんにやってもらってた雑誌の件なんだけど。上からお達しが出てね……」 栗田はそう言っていったん言葉を切ると康祐の顔色を窺った。康祐は、内心の動揺を悟られまいとして、平静を装った。ついに来たか。康祐は思った。多分、不定期ではあったが年に数冊発行されて、康祐と亨子の生活を何とか支えていた雑誌が廃刊、あるいは休刊になる。最近の売れ行き具合が芳ばしくないことを康祐も知っていた。この不況を乗り切るためには、もうどんな面子も経営は持ち合わせていない。人も切るが、駄目な仕事もばさばさと切り捨てていく。そして手っ取り早く下請けが捨てられていく。 デザイナーというカタカナ肩書きやフリーなどという気取った言葉は体のいいおだてに過ぎず、それは結局、自分の才能のなさと非力の、あるいは経営能力の欠損を露呈し、間抜けな自分を認識せざるを得ない。所詮、康祐も下請けなのである。いよいよ自分も切られるのだ。いい話だといいね……亨子の言葉が意識の遠くに浮かぶ。 「刷新することになった」 栗田が続けた。 「それでデザインも一新ということで、つまり……」 「デザイナー替えか」 康祐は言い淀む栗田を引き継いで言った。廃刊でも休刊でもなかった。単にデザイナーのすげ替えであった。若手のデザイナーで斬新なデザインをという理屈にも筋があったが、飽和するデザイナーの足元を見たコスト削減の意味も大いにあった。デザイン料金に文句をつけないデザイナーのほうが都合いいのは当然のことで、編集や企画のまずさなどすっかり棚上げになっている。売れれば編集の手柄。売れなければデザインのまずさだった。出版において、デザイナーは、旧体然とした割り付け屋であって、編集者の手に過ぎなかった。何故なら、装丁者に印税制がとれている人間がどれだけいるのか、はなはだ疑問なのである。いたとしても極々わずかであろう。著者様々なのは致し方なかった。 「一応、康ちゃんのメリット、上に説得したんだけど。どうせなら全取っ替えにしろということになっちゃって。済まんな」 栗田は言い訳がましく言った。いつもの栗田になって斜めから康祐の顔色を窺っている。栗田を恨むことではない。栗田はよく面倒をみてくれた。随分と仕事を作ってくれた。これからもその気には変わりがないだろう。しかし、不景気は無駄で可能性のない仕事を許さない。当てにはできなかった。 「いや、こちらこそ世話になった。これからも何かあったらよろしく頼みます」 食い下がる気力が失せていた。諦めのいいのが康祐のいいころであり、欠点でもあった。しかし、ここで食い下がって何が見えてくるのか。物事は康祐のためにだけ動くはずがなく、むしろ康祐の外れたところで動いている。取り残されていく康祐と亨子がいた。 とりあえずの報告を終えた栗田の世間話が虚しく通り過ぎて行く。だみ声が煩わしかった。面倒だった。ぷいと席を立ちたかった。かまけている暇などない。何か手を打たなければならない。動かなければならない。だらだらと続く栗田のおしゃべり。店の中が徐々に喧騒で埋っていく。康祐は席を立てない自分を見ているだけだった。 みぞれ混じりの雨が続いていた。もう二十分も過ぎただろうか。康祐は有楽町駅の入り口前にいた。コートの襟を立て、ただ漫然と降る雨を見つめていた。濡れた傘をすぼめながら、どれだけの人間が、康祐の脇を通り過ぎて構内へと入って行ったろう。栗田とは居酒屋を出て別れた。いったん酒の入った栗田は、誰かしら相手をみつくろっては、再び呑み続けるだろう。意味のない栗田のだみ声がいつまでも康祐の耳に残った。そして、思考の行方を曇らせた。 栗田との話を心配して、いまかいまかと、康祐の連絡を留守電の前で亨子が待っているはずだ。何と話せばいいのだろう。どう伝えればいいのだろうか。コートのポケットに突っ込んだ手に亨子の携帯電話があった。汗ばんだ手のひらを感じた。 電車に乗る気になれず、駅を離れて皇居方面に向かった。みぞれが傘に当たる。傘の柄を握る指が凍てついた。夜気はますます冷たくなって康祐を包んだ。人気のない堀端の道を当てもなく歩いた。くよくよ女々しい自分を情けない思いで歩いた。ポケットの中で携帯電話を握ったままの手が何ともいじましい。そんな自分が可笑しくて笑えた。間抜けな間抜けな康祐くん。どじでとんまな康祐親爺。女一人、犬二匹、さらに猫一匹、面倒もみれない康祐ちゃん。可笑しくて、可笑しくて、目尻から涙が流れた。時たますれちがう人間が怪訝そうに康祐を見て通り過ぎて行く。それすら可笑しくなって、皇居の森に向かって大声を出して笑ってやった。声は森の暗闇の中に吸い込まれて力なく消えた。一瞬、森がざわめいた。嘲るように森が揺れていた。 「クッキーは元気かな。今夜は鯛でも焼いてあげようか。いい子だからね。亨子は何がいい。亨子は肉が嫌いだからなあ。じゃあクッキーと同じに鯛を食べなさい。アッハハ。俺は酒さえ呑めれば文句ないよ」 便利なものだと思った。こうやって携帯電話に向かって話していれば、大声で独り言が言える。携帯電話も馬鹿にできないぞ。電車の座席で携帯電話をじっと見つめている子供たちの気持ちがよく解るような気がした。 「亨子、おまえは頑張っている。わがままな俺にしっかりついてきた。クッキーの次に好きだぞ。そう言えば、この辺り。昔、酔っ払った俺を亨子が迎えにきてくれたことがあった。あの頃は車も持っていて、俺は運転できなかったから、亨子の運転でいろいろな所に遊びに行ったな。また買ってやるからな。真っ赤なポルシェでも買うか。そうしたら、今度はワンちゃんも連れて遊びに行こうな。栗田にペットと泊まれる旅館なんて本をもらってさあ。アハハ」 頬に当たる雨が冷たい。ズボンの裾がびしょ濡れになっていた。康祐は大声で携帯電話に話しかけながら歩き続けた。もう三駅くらいは通過しただろうか。 「仕事なんてちょろいもんさ。心配なんかするな。俺がついてるだろう。俺が……、俺……」 情けない俺がいた。濡れ鼠の康祐がいた。寒さで凍えた男がさまよっていた。 携帯電話が着信した。慌てて受信ボタンを押す。 「あなた? 今どこにいるの? 留守電が入ったわ。急いで電話して」 亨子ががなっている。 「仕事よ。定期よ。やったわ、あなた。電話、電話よ」 亨子が絶叫している。 「駄目、クッキー駄目」 クッキーが亨子にまとわりついている光景が浮かんだ。 「キャー。こら。クッキー怒るわよ」 亨子が珍しくはしゃいでいた。 電話はイラストレーターの葬儀の時に出会った出版社の編集長からだった。月刊誌の担当デザイナーが都合により手をひくので、大至急、後釜がほしい。アートディレクションを含めて丸一冊こなせるだろうかという打診であった。可能であれば即、次号発行のものからやってくれという。 飢えた一匹狼が獲物に飛びかかる。獲物を手にして雄叫びをあげる。再び、深い森に康祐の可々大笑が轟いた。それはいつまでも衰えることなく響いていた。
「亨子。やろう。思いっきりやろう。時間はある」 「いいの?」 「いいさ。俺にはおまえがついている」 「クッキーでしょお」 「どちらもさ」 康祐はすぐに駅を見つけ、濡れた身体で電車に飛び乗った。濡れてぺしゃんこになった頭髪の顔が、車窓にぼやけて映った。随分老けたなと感じた。でも、その腫れた目はにやけていた。周囲の客がいぶかるほどに相好を崩していた。康祐は吊革に両手でぶら下がり窓に顔を近づけた。年甲斐もなく嬉しそうな表情に自分でも照れた。その顔に、はしゃいだ亨子の顔が、ダブって見えた。 みぞれはまだ降っていた。大塚駅に康祐が先に着いた。構内の改札の近くから外を見ていた。明日から定期の仕事が始まる。念願の月刊誌がやれる。何とか安定した生活ができる。康祐は目を閉じた。身体中が火照るのを感じた。単純な自分が可笑しい。いい歳をした親爺が、仕事一つでおたおたして、泣いたり喚いたり。生きるも死ぬも一捻り。しかし、無力な人間を誰が救うと言うのだ。せめて、不思議な縁で苦楽を伴にすることになった、たった二人が、夫婦と決めた二人が、もがいて、足掻いて、泣いて、笑って、傷ついて、嘗めあって……、とことん、しぶとく生きてやる。
「あっ、雪……」 いつの間にか、亨子が隣に立っていた。二人の目の前で、太陽から降り注ぐ光のように、神々しく、白く輝く粉雪が、大塚バリジャンに踊っていた。
〜お客様のお時間のゆるすまでえ、お店の時間のゆるすまでえ、ジャンジャンバリバリ、ジャンバリリー。いらっしやいませ、いらっしゃいませ〜、ぃ ラ っ シ ゃ ぃ マ セ ぇ〜
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