「死んじゃいな」 四這いで近寄ってきた葉子が、私の耳元に口を寄せてぽつりと言った。ゆったりとした薄地のスカートが畳に垂れて豊かな腰の丸みが露だ。裾から覗いた白い素足が柔らかな陽に優しく包まれている。間もなく五十だというのにきめ細かな葉子の肌はいまだに若い女のようで、時々その違和感を私は不気味に思うことがあった。 午下がりの中途半端な陽が部屋に溜まっている気だるい時間、私は座卓の上にいい加減に置いたパソコンのキーボードを打っていた。 俺が本当に死んだらさぞかし愉快なんだろう。あっさり死ねたらそれに越したことはないと自分でも納得できて可笑しくなった。葉子も私も飽き飽きしていたし、今更なにかの生き甲斐みたようなものを確認しあうほどの情熱は遠に二人から失せていた。三十年近くも一緒に生きていれば、深まるどころか益々薄らいでいく夫婦の情と、引き算ばかりで足し算の兆候が一向に見つけられない生活。互いの負が鼻につくと、もうお手あげで取り返しようがない。その気も起きない。 「ほっときゃ黙っててもいつか死ぬさ」 キーボードをぽちぽち叩きながら私は独り言のように言った。 「いつかじゃ厭なのよね」 葉子は畳の上にごろんと仰向けになって天井を見つめている。 「そう言われてもね。別に死ななくてもいいだろう。別れりゃいいことじゃないか」 「お金がほしいの」 「それでつまり保険金かい。しかし、解約しちまったじゃないか」 「また入ってよ」 それもそうだ。解約したばかりなのに入り直せと保険会社からしつこく電話が入っている。もっとも、ほとんど留守番電話の伝言だったから、そのままに捨て置いてある。けれども払える慰謝料など有る訳ないのだから、葉子の注文は正しいのだろう。来週にでも電話を入れておこうか。 「今夜の飯は?」 「あら、食べるの?」 思った通りの答えが帰ってきたので、 「そりゃ、食うさ」 いつものように応えておいた。 パソコンを打ち続けていたら硝子障子の窓がいつの間にか茜色に染まっていた。隣の部屋からテレビの音は聞えてくるが、葉子の動く気配がなかったので、多分居眠りでもしているのだろう。煩くなくて都合がいいとまたぽちぽちを続けた。 そのうち腹が空いてきたので襖を開けて隣を覗いたら、葉子が婆ァみたいに正座して独りで飯を食っていた。そこまでするかと怒る気も食欲も同時に失せた。まあいいさ。いつもと変わらないのだ。好きでもない男の飯の用意などできるものか。いつだって葉子は正論なのだ。今晩は飯抜きだなと腹を決め、傍らにあった瓶の頭を摘んで見たら、半分ほどのバーボンが残っていた。今夜はこれで済まそうと、葉子が茶碗の茶をすする微かな音を聞きながら、またぽちぽちを続けた。 辛気臭い生活が数十年もつづけばどんな女でも厭気をさすのは道理で、まして子供が居なければそんな生活を死ぬまで維持する意味などどこに求めていいのか解らなくなる。夫婦に飽きがくるのは誰でもそうで、遠に五十も過ぎてしまえば、無理やり生き甲斐なるものを探ってみても、結局わざとらしいことに終わってしまう。皮膚がたるむように、情と熱もが冷えて萎んでいく。それは私の職業の所為かと、ここ何年か思ったこともある。一向にうだつのあがらない、めりはりの無い仕事振りで、葉子と生きて随分と永い年月を過ごしているのだ。その間、葉子は何を夢見ていたろう。私はいったい何を目指していたのだろう。 葉子はすでに床に就いていた。半分ほどあったバーボンがもうすぐ底を着く。眠る葉子に遠慮してか、キーボードを叩く音が間延びして蚊細い。夜中に堂々とキーを叩けぬのが今の私で、数行打ち込む度に、その仕草に気が遠のいているのが己で解っている。気が抜けている。やる気の無さは鬱病の兆しだ。それに患う人間は春に最も多いらしく、この時分は自殺者の季節であるともいう。また春は別れの季節だ。新しいことがはじまるけじめの時節だ。周囲の新事に取り残されていく己に虚脱し、益々無気力となって、行き着く先が「死」という一語になる。まさしく病気に違いない。自分もそのような病気なのかと思ってはみるが、気侭なもので、たまには躁の気分にもなるから、鬱病ではなく躁鬱病なのではなかろうかと、どこまでも呑気だ。
桜が満開だというのに雪が降った。数十年ぶりの出来事だとラジオが言っている。すでに止んではいたが、いくらか積もった雪のなかをバス停まで歩くのは面倒と、仕事に出るのを渋って一時間ばかり愚図ぐずしていたら昼を過ぎてしまった。なあに、原稿の締めきりは明日なのだから今日のところは出かけるのを中止しようと、腹半分に決めているのだ。家に居るのが気まずく息苦しいから戸外に出たかっただけのことで、二束三文の文章仕事など、真剣に考えてはいなかった。メールでもファクスでも済んでしまう程度のおざなりな雑文に、打ち合わせも何もありゃあしない。妻と同じ空気に染まっているのが気重だったに過ぎない。 かと言って昼間から遊興できる身分ではなかったから駅に出て本屋で時間潰しでもするしかない。けれど、欲しくなった本を見つけても買うことは叶わないから、そこが辛い。好きな本が自由に買えないのが、何にもまして寂しいことだった。ならば図書館にでも足を運べばいいのだが、そうはしない己はどこか抛っていて杜撰だ。すべてに萎えているのだろう。 余計なことを言うと葉子の繰り言で家を出られなくなりそうだったので、何気なく着替えると黙って家を出てしまった。 薄く残った雪を踏みしめてバス停まで五分ほどの道を歩いた。沿道の桜は雪にも負けず満開のままだった。淡い桜色と残雪の白さが不摂生な私の眼に眩しい。世間は長閑だと感じる私の僻み根性までが桜色に染まってしまいそうだ。艶やかな桜とみっともない私の僻み根性を一緒くたにしては世間に申し訳ないが、桜の花見とて日頃の憂さ晴らしなのだ。桜に恨みは付き物なんだろう。 融け雪が小さな泥となって道のところどころ黒く染めている。そこを避けるようにして私は未踏の白い薄雪を見つけては歩いた。立ち止まって背後を振り返ると、私の歩いた足跡がたしかに残っているのが見える。けれどその無造作な足跡もいずれ灰色の泥となって消えていくのだ。さも私の人生と同様ではないか。葉子と暮らした三十年とまるで同じではないか。 さあっと音を立てて強い風が一陣舞った。瞬間、眼の前を桜色の幕が覆った。
バスが来た。ここが終点で始発のバス停であった。昼間の客は少なく、たまに早朝の原稿届けなどある日には混み合った勤め人や学生と一緒になるが、昼間は駅まで買い物に出る主婦や私のような時間制約のない人間くらいなもので、ほとんど貸切状態だ。今日もそうだ。客は私と若い女が一人だった。 他愛のないことだが、私はいつも最後部の窓際の座席を取ることに決めている。大抵そう出来た。ほとんどの客が出来るだけ前方の座席を取るからだ。目的の駅に着いた時、降りるのに都合がいいのだろう。それと、私が一番奥に座るのにはもう一つの理由があった。人が厭だからだ。端なら隣に一人で済む。だから電車のシートも端を取る。よく居る端好きで凡庸な性格の人間なのだ。けれど、端はつまり視点の起点でもあるから、人間観察において絶好の位置でもある。ひょっとしたら自身が思っているよりも私は人間嫌いではなく、ただ事物に面倒になっているだけなのかも知れない。 なのに、若い女は私の眼前の席に座った。お陰で、女の真黒で豊かな髪の一本いっぽんまで見分けられ、ショートカットのせいで襟足の小さなほくろまで見つけることができた。細い項からはじまる、背、腰、腿、ふくらはぎ、爪先へと続くだろう若い肌が、ぞっとするほど白い。 バスは時間になって走り出した。ゆるやかな坂道を軽快に走り下りて行く。時々、百日紅の梢の先が車体に当たり、ぱらぱらと鳴った。女の座った車窓が少し開いていてうららな風が二人の顔を撫でる。結局、バスは私と女の二人を乗せただけだった。駅まで約三十分。その間、バスは途中駅でどれだけの客を拾いあげるのだろうか。このまま二人きりの客で走りつづけたらいいのにと、子供染みた思いに駆られる。 新緑に染まった沿道の雑木林が車窓に現れては消えていく。河川を渡るときには橋上から土手の桜並木が見えて、桃色の塊がすでにやや薫んでいたが、それでも春爛漫に変わりなく、大きな眺望が清々しい。河川敷に残った雪の上で紐を解かれた犬がはしゃいでいた。水上に行儀よく並んだ水鳥が置物のように静かに浮かんでいた。 変哲なく反復する季節のなかで、変わりゆくのは人間様だけだ。力を失った老いた眼に疲弊の涙が滲み、麗しい光景もいささか霞んで見える。眼前に視線を戻せば今度は女の白い首筋が眼を射って眩しい。僅かながら女の後ろ姿がぼやけた。連れて輪郭が崩れていった──。
葉子の細い襟首に指の背を滑らせた。葉子がくすぐったいと首をすぼめると、長い髪の束が落ちて葉子の項と私の手を覆った。それを再び掻き揚げて、その項をそっと嘗めた。真白な肌にたちまち紅がさしてすべてが熱くなった。触れるあらゆる素肌がアメーバーのように私の皮膚に吸いついてくる。背後に畑とも雑木林ともつかぬ暗闇が広がり、カーテンのない窓から貧弱な弓張りの月が見える殺風景な六畳一間のアパートで、その日、私たちは煎餅布団の中で裸のまま一日を過ごした。枕元に置いた安価なウィスキーボトルが唯一の贅沢で、踏切の遮断機の音が風邪に運ばれてくる様は、若くて貧しかった私たちには相応の哀愁を提供していたかに思う。それでも、肌が縺れ合えばすべての現状を忘れて二人は楽しめた。 「腹へったな。近所に食べに出ようか」 二浪の末に大学生となった私が言う。 「外で呑みたいのでしょ」 からかうように葉子が言った。 金がないのを見透かされていた。けれど金のないのは自分だけではない。アパート生活になってすぐ、大学の仲間が三人いきなりやってきたことがあって、たまたま居た葉子がつくった飯をきれいに片づけていった。三人三様に三日食っていないと、釜の飯を一粒も残してはくれなかった。三人が帰った後、葉子と私は可笑しくていつまでも笑ったものだ。あいつらはいったい誰だったのだろう。いまでは顔も名前もすっかり忘れていた。 踏切を通り越しても道の両脇にそれらしい店が現れなかった。ここに住んでまだひと月と経っていなかったから、知っているのは近所のラーメン屋くらいなもので、まして酒など呑める身分ではなかったから、呑み屋のあてなどなかった。途中、民家の並びに歯が抜けたような空地があって、積み木の一つを填め忘れたような空間がぼっかりとあいていた。侘しい闇だった。 暫く歩くとやっとのことで市役所の近所に小さな赤堤灯を見つけることができた。引戸の曇硝子に薄い灯りが映っている。少しばかり心細く感じたが、それでも私は薄汚れたのれんを掻き分けて引き戸を開けた。 店のなかに入るとすぐに十脚ほどの丸椅子が並んだカウンタ席が見えた。といっても、カウンタだけの、背を凭れれば背後の壁に寄り掛かれてしまいそうな狭い店だった。その窮屈な通路の突き当たりにはベニヤ張りの戸がついた便所があった。埋っている席は奥の二脚だけで、四十がらみの客二人が胡散臭そうにこちらを見たがすぐに何事もなかったようにコップ酒を口にあてていた。私たちはその客と距離を置いて入り口近くの席をとった。カウンタの向こう側で客に相伴していた店主が低い声で何事か言ったようだったが、うまく聞き取れなかった。多分注文だろうと、ビールを頼んでみた。葉子は酒が呑めなかったから、せめてもとウーロンハイを頼んだ。壁に雑然と貼られた品書きを見て、おでんが食べたいと葉子が小声で言うので、この時季にやっているのだろうかと思いながら頼んでみたら、大根とハンペンならあると店主が言う。それでいいと葉子が嬉しそうに応えた。 赤提灯でこうやって二人で呑むのははじめてのことだ。いつだって、精々、安食堂の定食か立ち食い蕎麦が二人の馳走だったのだから。それもいつも葉子がもっていた。私は文無しなのだから今夜もそうなる。借りは貯まるばかりで、返す目処など何処にもない。けれど、そんなことは今だからこそ気がつくのであって、当時は微塵だに気に病むこともなく、考えることもしなかった。あるものが出す。ただそれだけのことだった。成りゆきとしていつでも葉子がもっていた。私はいつだって都合よく生きていたのだ。 おでんが出てきた。飴色に煮詰まった大根と三角のハンペンが一切れ、申し訳程度の汁に浸かっていた。安皿の縁に大サービスだとばかり大量に盛られた洋辛子が黄色く固まっている。葉子がそれぞれ半分に分けてくれたので辛子をつけて食べた。辛くて涙が出た。葉子も泣きながら嬉しそうに笑っていた。自分の家で食べればもっとしっかりしたおでんが食べられるだろうに、葉子は最高の馳走のように食べていた。 おでんを食べ終えて十分もしただろうか。突然、葉子は帰ろうと言い出した。見ると、真っ赤だ。店主も客も訝し気にこちらを窺っていたが、それでも葉子は必死で勘定を済ませた。 店を出た途端、葉子はいきなり走り出した。取り残された私は慌てて葉子を呼び止めたが、葉子は瞬く間に遠ざかり、道の傍らへと消えてしまった。 私は戸惑いながらも見当をつけた辺りまで全速で走った。来る時にあった空地の闇奥に微かな物音を聞いた。目を凝らすと、衣擦れの小さな音をさせてしゃがみこんだ一つの人陰を探ることができた。 「葉子?」 「だめ!」 「酔ったの?」 「だめなの」 「どうしたんだよ」 「向こうにいってて」 私は空地の前でただ立ち尽くすだけだった。すると、闇のなかに音がした。やっと覚った。可笑しくなった。なんでまた。トイレなら店にあったではないか。葉子の行動が不思議で、そして、訳もなく、俺は葉子が大好きなんだと思えた。天を見上げたら、星が一つ流れていくのが見えた。 「あはは」 顔いっぱい赤くした葉子が目の前で笑っていた。目が虚ろだ。ウーロンハイを嘗めた程度で葉子は酔っていたのだ。この子は酔うと走るのだなと、また可笑しくなった。けれど、いつかまたこの子が走った時、今夜のように私は追いつくことができるだろうか。しなだれた葉子を抱えながら、いつまでも、積み木を填め忘れた闇を見つめていた。
駅前のデパートに入った。 ゆったりと移動するエスカレーターに乗っていると、どうしてか今日が日曜日のような気がして、訳もなく気恥ずかしくなった。平日の昼間、咎める者など誰もなく、行き交うただ一人の人間の眼中に留まるはずもない自分なのに、自意識だけはいまだに残っていて、寧ろそれは歳ごとに過多になっていく。それはきっと、常に自身を言い訳の鎧で覆っていなければならない、ひよわさの所為なのかも知れない。 十階にある本屋で過ごした。単行本の装丁も近頃では随分垢抜けてきたなと思いつつ、もしも自分の書いたものがこんな風に本になるならばと、一介の雑文書きが儚い夢を描いて、手にとることもなく、平積みの本たちを眺めて歩く。立花隆がその人の著書のなかで、社会の情勢を感知するよすがに書店の効用を説くが、喰いはぐれた私にしてみれば、書店に恭しく陳列された書籍はどれもが晴れがましい憧れであって、そこに社会などという大袈裟なものはひとかけらも見つけられず、ただただ新刊本の表紙を眩しく感じるのだった。 つまり、いまの自分は、意地汚く萎んでいることで、妻の愛想つかしに対抗しているのだ。拗ねているのだ。未練と期待と願望の裡に執拗な過去を曵きずっているのだ。妻の身振りを理解できない私は愚鈍でしかない。察しの悪い私に書店に並ぶ本など書ける道理があるものか。 こんな歳になる前はもっと鋭かったはずだ。学生時代、恋愛をしていた友人から、どうやら振られそうな気配なので女を説得したいが独りでは自信がないと、ひどく泣きつかれたことがあった。他人の痴話にのこのことはまる気など毛頭なかったが、あまりの情けなさに仕方なくつきあった。結局、私は何も口出しすることなく、成り行きを傍観しているだけで終いになったのだったが、必至に喰い下がる友人にくらべ、女はたまたま寝ていたのかシミーズ姿を隠すでもなく、蒲団の上に起きたり寝そべったりして友人をあしらっていた。その横柄な態度を見ているだけで、すでに決着はついているのだと、自分の居る状況に阿呆らしい虚しさを覚えながら感じとったものだった。当然の結論として、友人は女に捨てられた。 妻と瓜二つではないか。面倒、煩わしい、ものぐさ、手抜き等々。けれど、それらは妻の怠慢ではない。友人の女と同様に、一つの身振りであり、通告なのだ。私が昔々に習得していたはずの女の仕種なのだった。 本屋を出て、さも何かを買い求める客のようにフロアーをぶらついた。そんな姑息な必要などないのだが、いくらかでもそれらしい意識をこじつけなければいたたまれない、まさしく居場所を失った者の時間潰しなのだった。 香の店があった。入り口の陳列台に、凝った瀬戸の香炉や、錦糸銀糸で織った可愛い匂袋がいくつも置いてある。香とは線香ばかりだと思っていたくらいで、普段はまったく縁のない物だった。その線香とは違う香の見本があった。小指の先ほどの三角錐である。箱の説明によると、コーンタイプというらしい。一箱に牡丹と茶と緑の三色が入っていて、それぞれ匂が異なっているようだ。どんな匂なのかは知る由もない。けれど、私はそれを欲しいと感じた。ほどよい大きさの三角錐という形そのものを、私は何故だか気に入ったのだ。 外は薄暮に靄いでいた。陽が伸びたかなと感じる。駅前のロータリーは夥しい数のバスが入り混み、停車場の長い列を呑みこんでは四方に走り去っていく。人々の外出からの帰宅という眩しい光景があった。人間とは帰るものなのだと、あたりまえのことをぼんやり思う。 満員のバスのなかで私は揺れていた。吊り革を握った掌が微かに汗ばんでいる。車窓に夕暮れの街並が流れていた。自転車屋、洋品店、雑貨屋、一杯呑み屋、文房具屋。それぞれに見合った灯りが薄闇に灯っている。うんざりするほど退屈な風景。このあまりにも陳腐な光景に何を見い出せというのか。憤りさえ感じる。……強がり。 橋上のバス停で降りてしまった。そこから土手に回って桜並木の下にきた。近くに寄ると意外と量感のある桜だった。根元に立って見下ろすと、川の水はそれほど多くはなかったが、絶えず水音を立てて流れている川面が薄闇に見えた。昼間に見た鳥はねぐらに戻ったのだろう、一羽も見つけることができなかった。水音だけが時折吹く春風の流れに乗っていた。 暫くして、私は河原に下りた。少し大きめの石を見つけ、わずかに残っていた雪を掌で拭うと、そっと腰掛けた。ズボンの尻が少し濡れたようだ。水音が大きく聞こえ、川面の流れも見てとれた。しかし、昼間には橋上からでも透けて見えた川底が、さすがにこの時間では鉛のような水の塊でしかなく、時々持ち上がっては流れていく川の表面が、少々不気味で怖かった。間断なく連続する水の流れがヒステリックで、狂気じみてさえ思えた。振り返ると、土手の桜が橋上を行交う車のライトに微かに照らされて、薄暮れのなかにその桜色を妖しく浮き上げているのが見える。橋の上にはバス停で待つ人や、橋をそぞろ歩く人の姿があった。 別段、深く思うこともない。思い巡らす一片の思い出も浮かんでこない。空疎な脳にひたすら水の音が流れているだけだ。その行き着く先はどこなのか、想像すらしようとしないで居た。私は自身に、河原の砂利とも、眼前を途絶えることなく去来する川の水とも、紛らわしい同化に似た自分を、それでいいではないか、この歳になっていきがることもないだろうに、そう言い聞かせていた。 ふと、買い求めた香に気づいた。小袋から取り出し、箱のなかの牡丹色の香を摘んだ。まるで菓子のようだ。三角錐の先端にライターで火を点すと、薄闇に螢のような小さな明かりがぽっと灯った。火を吹き消したら一筋の白い煙りが細く揺らいだ。それを傍らの小石の上に立てた。松の匂が微かに周囲に漂った。水は相変わらず無限の音を立てている。 橋上を見上げたら、知らぬ人と楽し気に歩いている妻を見つけた。ゆったりと、大らかに、橋の向こうに遠く、影絵となった山の峰が、私の萎えた視界にパノラマのように広がっていた。
読者からいただいた感想(勝手に掲示板からの引用)
「恋が窪」拝受拝読読了報告/有馬次郎さん この作品をマックのディスクトップ上で読んで、パームにシンクロして読んで、通勤途中でも読み返しました。う〜ん、やはりQ様のにおいがあります。全般的に流れる物憂げな空気、生かされているがゆえに生き抜きたいと願う残りの人生に、桜の花のもつ寂しさ、哀れ、孤独感、ある意味で の死生観のイメージ等が 強烈にリンクしています。 桜風景の中で主人公が三角錐を焚き、その香の行方を追う視線に映る河の流れそのものに無常を感じてしまうのは、 私も同じです。作者の言われる様に、悟りに近いもの、達観と諦観を醸し出す主人公の生きざまとセリフがしんみりと泌みてきます。男の物ぐさで、けだるい呼吸まで伝わってくるようです。しかし、諦めていない強かな男の情熱も見えかくれします。くすぶりながらの志し未だ死なず。 「廃屋の鳥」「バルブスの梯子」と読み比べて、この作品が特に好きです。ぼんやりとしっかりと悠々として急ぎながら日々、死に向かって生きている私には心打つ描写が随所に見られました。ラストシーンは今でも印象に残っています。 初老の男の残光が生き生きと、チロチロと輝き続ける。それは消えゆく寸前まで不変である。 本当に有難うございました。残暑の折、ご自愛ください。
車で約20分、「恋が窪」へのコメント/伊勢湊さん 恋が窪からそんなに遠くないラブホテルがない地域に住んでいる伊勢です。僭越ながら「恋が窪」へのコメントでも書いてみたりします。 個人的には前作より好きです。なんかリズムがあってるから読みやすい。それにしても年輪が為せる業なのか痛いなあ、痛い。だいたいここに来てる人の多くは一度は物書きで食っていけたらな−、みたいなこと(どこまで思うかは年齢にもよるだろうけど)思ったことがあると思うんだけど、前回も含め、こういう浮き草生活の描写が上手くて、痛みが伝わってくる。 いま僕が求めてるものです。自分にはないので。 なんとなく話が収束していない気もするけど、ストーリー重視の話でもなさそうなので僕的には好きです、前作より。
さすがです。/佐々木悦子さん それにしてもQさんて…うーん、何と言うか…また新しいスタイル(新境地?)を!と思える「恋が窪」を読ませていただき、何て器用な!というか…一体どれが本当のQさんなのか?とついつい考え込んでしまいました。。それと、「恋が窪」はリアルすぎます(笑)。思わず「うん、やっぱりある程度の年齢にならないと書けないことってあるのよね〜」などと口走ってしまいました。
数日前に読んでました、恋が窪。/三月さん でも感想かけなかったんですよ……読んじゃいけないときに読んでしまった、という感じで。 あーあ。恋愛ものは自分が健康なときに読むべきですよね。 なんだか読んでて悔しくなってしまって。 まあ、そんなこんなでほんとにただの「感想」でした。 どこかに誤字があったんですけど忘れてしまった……。 もうそれどころじゃなくって、自分の中を引っかき回されてしまいました。 ああそうそう、文体というか漢字の使い方というか、どことなく漱石っぽいなとか思ったり。 これも「感想」の域を出てませんけど……。
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