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夜中に降りはじめた雨がいまだにしつこく降りつづいていたから、早朝散歩は中止にした。散歩に意味がなくなったからだ。忌ま忌ましい雨めと呪詛怨思。これで雨が止んでも今日一日は断念するしか手立がないと、諦念半分未練満盈で朝のワイドショーを見ている私は、よくよく情けない。 御天道様よ狂ったがごとくに光彩陸離と念じても、窓から眺める庭からは駄目押しの降りしきる雨音が聞こえ、半分ほど死にかかった大松と、季節の終焉に無用な葉を隣家に撒き散らしては苦情の種となる桜の午日仙人が、強い風に打たれて酷く震えているのが見えた。 やる仕事がないから仕方ない。おまけに電話は辛うじて繋がっているものの、寡黙のままで音沙汰がない。ほとんど死に体で、苛々な心を誑かしつつ騙しこんで宥める算段になっていたら、妻が吐くごとくに言った。 「あと三日なんてとんでもないわ。犬と猫のご飯だってどうするの」 それもそうだが、俺たち自体はどうするんだと二人して考えあぐねたが、私は三日喰わねど皮肉れたりせぬが、妻は心が壊れるに違いないと厄介だ。それに二頭の犬だって三日も餌抜きで放っておかれる筋合いはないとばかり、近所近隣の迷惑も顧みずに当てつけがましい吼え立てで、私の苛々な神経を逆撫でするに決まっている。世間を顧みないのは一向に構わないが、犬猫にしても妻にしても、権利の主張ばかり喚かれるのは、私自身の健康にも差し障るし、家庭の平衡感覚も著しく失う。 我が家は私と妻と犬猫ばかりだったから、平衡は弥次郎兵衛みたいに、私と妻とで右と左にその立場の強度と重みをてんこしゃんこしている。しかし、餌を与える妻に犬猫が荷担するから、その分だけ私は軽くていつも頻繁に頭打ちだ。つくづく情けない。 けれども、あと三日で金が入るのだ。高々それまでの辛抱に過ぎず、大袈裟な騒ぎ立てをするような辛苦ではない。ところが私にしてみれば、そのたった三日が想像を絶する遥かな永い時間であり、狂気紹来は必定。おまけに昨夜から降り頻る雨が追い撃ちして、無情にも私の焦燥を累増紹募して止まない。 爪先の程にも満たない吸殻は、ちんけなパイプで徹底的に吸い尽くしていた。それでも、私は執拗に灰皿を万遍なく掻き廻している。爪の中が真黒だ。微かに残存していた安価な両切り煙草の巻紙が崩れて、ことごとく白い灰になっていく。それでも懲りず、何度も灰皿の中に指を入れては、十分、二十分、灰とわたりあう。 私の眼球は眉間に寄っている。それはほとんど宗教的な儀式のようで、阿呆で、痴呆で、泣く前に笑える。まさしく無になった私を、苦楽へと運び入れる。けれども、転んでも無償では起きぬぞとの意地汚ない精魂が、私を何故か崇高な遥か高所へと誘うのであるから、不見識な私の宗教儀式も捨てた物ではない。ましてこの儀式には、近頃流行の詐欺師紛いの高額な御布施も不必要であった。もっとも、そんな金があるのなら、しこたま煙草を買いこんでいるのだろう。大声で念仏でも唱えてやろうか……金がない。情けがない。愛がない……最たる欠如は煙草がないことだった。 苛々に尖っていた。ないもなはないのだから考えても致し方ないのであるが、考えてしまう。何をやっていても、頭の裡は煙草のことだった。こんな状況になることは先々にわかりきっていたのだから、手持ちを大切に喫っていればいいものを、それができないから私は意思薄弱なのだと、煙草欠乏が果てしない自己究明へと誘う。しかし、究明してみたところで、結局帰結する場所は、ああ煙草が欲しい、となるだけなのだ。私は、煙草。私の自己は、煙草。まさに、この貧弱な想像力が私の困窮の起因で、米のことより煙草なのが、すべての欠乏の素因なのであった。 翌日、雨戸を開けると翹望の陽が居間にこぼれた。今朝こそはと、ジャージに着替え、不貞腐れている二頭の犬を曳き連れて早朝散歩に出た。 案の定、道は乾いていた。公園の脇を抜け、右手に遠く山の峰々を見つつ、されど視線は常に舗道の脇や隅に注ぎ、私は二頭の犬と歩いた。朝の空気が冷たい。唇が寂しい。ポケットにつっこんだ手が百円ライターをしかと握っている。ガス切れしていなかったことが唯一の幸いであり、救いでもあった。 神社の境内を歩いた。幾つかの石段を上がっては下りた。裏道を幾本か抜けた。しかし、目指す物は一つとして手に入らず、ようやくにして発見した物は、ものの見事に真平らに潰れ、おまけに巻紙がぼろぼろに破れている。いっかな用意したパイプでも、これでは喫煙不能。厭々ついてくる犬が物憂げに私を見上げるが、恨めしいのは俺のほうだと、何やら見つめ合う眼と眼が同感して、ほとほと切ない。 三十分程歩いてはみたが、つまるところ我が家を芯としてその周囲近辺を巡っているだけのことだった。この町は清潔なんだなと感心するものの、げんねげんねと無念残懐の想で、小便などしつつある二頭の犬を急き立てる。 先方より、せっせせっせと、両腕を大仰几帳面に振りながら婆さんがやってきた。肩凝りにはいいのだろうと思いつつ、私は正当な早朝犬連れ散歩の振りして、如才なく朝の挨拶をかわす。せっせせっせと婆アが遠のいていく。その後振りを送別しつつ、俺の健康って何だろうかと似合わないことを自問し、答えは簡単なんだよと自答する。 「一本の煙草さえあれば、俺は健康なのさ」 ──と、何か気配を感じた。何だろう。付近に人は居ないし猫すら居ない。けれど、何かを感じる。とうとう禁断症状が現れたかと消沈したものの、やはり気になって再度周囲を見廻したら、視線が通りの向こうの一軒家で止まった。 それはどう見ても廃屋であった。二階建の小さな和風家屋で、横道を隔てた少し高台になった林の翳にすっぽりと覆われていた。閉じられた格子戸の奥に、人間の背丈ほど伸び切った雑草に埋尽くされた小さな庭が見え、既に枯れきって頭を垂れる茶褐色の雑草も多くあった。お粗末な塀と建物のわずかな隙間にも長い草が生い繁り、枯れた頭を道路にまで突き出している。小さな曇硝子の窓は台所にあたるのか、細々と打ち捨てられた勝手用品のシルエットが灰色に映っている。板張りの外装は酷くめくりあがり、塗装がまだらになっていた。表に特別の貼紙がなかったから売りにも出ていないのか。人が住まなくなって十年は過ぎているのではないかと推察できるほど、家は落ちぶれてくすんでいた。 二階へ視線を向けると、もう何年も不動とおぼしき雨戸が見えて、それは無人を如実に表わし、朝にもかかわらず陽の入らない薄暗い室内を想わせた。多分、そこは十畳ばかりのもぬけの空で、唯一つ読みかけの乾いた雑誌が見開いたままで捨てられているのではないか。物憂げな空気が行き場を探しあぐねて閉じた空間に滞っているのではないか。幾年にも亘る埃が畳に落ちては落つ積み重なっているのではなかろうか。 視線が屋根に移ってようやく納得した。鳥が一羽、瓦にとまっていたのだ。逆光を受けたその姿が黒いシルエットになって瓦と同化していた。ずんぐりと少し丸目の外見は野鳩だろうか。犬が曳いたので二、三歩移動すると、鳥も動いたように感じた。見つめながら歩いたら鳥も徐々に向きをこちらに変える。羽を休めているに過ぎないのだろうと、私は当初の目的のために、また人通りが増えては厄介と、二頭の犬を促して再び歩き始めた。鳥にかまけている余裕はないのである。本物の禁断症状が出る前に、然るべき物を私は見つけなければならない。 暫く歩いたら一頭の犬が道の脇で土の臭いを嗅ぎはじめ、その場でくるくる廻った後、腰を落として糞をたれた。大した物も食べていないのに立派な糞だと感心した。 犬が落ち着いたところで、かねてより持参していたトイレットペーパーを用いて糞を始末しよようと手を延ばしたら、その下に丸々一本の煙草が下敷きになっているのを発見した。 私は泣いた。恨めしくて犬の尻を蹴飛ばしそうになったが、これではまったく、踏んだり蹴ったりそのままではないかと、ようやくの思いで止めた。自制心は健気に無事であった。犬に罪はないのである。満足な食餌が得られないならば、せめて糞ぐらい堂々としてくれ。ビニール袋に入れた糞が仄かに温かった。 鳥はどうしたろう。休み終えた羽を広げて飛び去っていったのだろうか。 時々電線にとまっている鳩を見かけるが、いつも数羽でつるんでいる。離れていても一羽のことはない。くうくうと含んだ声で啼いている。ところが、あの鳥は独りだった。鳥独特の忙しない小刻みな動きもなく、虚空の一点をじっと凝視しているように見えた。元来が独りなのだと言わんばかりに、眩しい旭日のなかに胸を張っていた。必要な物は日々精々小さな昆虫や土虫程度。時もなく、義務もなく、仏もなく、蒼い天空さえあれば用が済み、無理に捻出する目的すら持たないでいる。来もしない仕事を待つこともない。鳴らない電話に期待することもない。 だからと言って、私は鳥になりたいなどと万が一にも思わない。年甲斐もなく情けない感傷に過ぎない。仕事にあぶれた中年男の繰り言なのだ。 ようよう見つけた吸殻はまさしく、しけもくだった。三分の一にも満たない、フィルターだけが立派に残存する甲斐性なしの代物だった。おかげで、パイプには都合がよい。しかし、百円ライターで火を点けて二息吸った途端、フィルターが焦げて化学臭いガスに喉をやられた。こんな不味い物のために、朝寝坊の私は、陽の昇るかどうかの時間に二頭の犬を出しに早朝散歩をしている。つくづくと体たらく。疎放ぞろっぺえなのだ。 鳥になりたくても、私にはその衿持に欠けている。とても土中の虫では我慢堪忍が不可能。虫より煙、米より草なのだった。 仕事の機会と受注量は除々に減退し、或日気づいてみたら、まったくと言っていいほどに失機亡失していた。間抜けを絵に描いたがごとくに、失念と窮乏の沼に嵌った。半分は構造不況で余りは自身の腑甲斐なさだった。 嵩む借財に家を捨てた。仕事場を喪失した。今では、時たまお情けで頂戴つかまつる半端仕事を、築三十年の借家住まいで、座卓に載せたちんけなパソコンに向かってこなしている。 それでも、三か月前に終えた一仕事の纏まった報酬が明後日には入金する。それまでの辛抱ではないか。その後のことは後のこと。そうやってここまで来たのだからと自分に言い聞かせ、妻をも口説く。犬猫にも詫びる。日々是、懺悔と悔やみの三復蒸し返し。それでも生きている。はたまた、執念深く煙草を欲しがっている自分が居る。ずぼらの上に暢気窮まりない。 結果、早朝散歩はようやくにして五個のしけもく収穫をもって終了した。それとて、パソコンの前に正座し、パイプにて喫煙した途端、瞬く間に消滅してしまった。虚々、欲求不満を益々募らせたに過ぎなかった。 妻は空になった冷蔵庫を前にして悲嘆に暮れていたが、ようやくにして見つけた食材のかすを用いて器用に料理した。愚痴っていても犬猫は腹が萎えてばかりなのだからと独りごつ、それでも台所に温かな湯気が昇り、いい匂が立ちこめた。 朝食とも昼食ともつかぬ我が家の食事は、犬猫と分かち合う大量の野菜スープであった。私と妻はスープだけ。犬と猫には辛うじて残っていた食パンをスープに混ぜる。犬は私の担当。猫は妻で、ごめんねごめんねと何度も繰り返しつつ、夢中になってスープを漁る猫たちをじっと見つめていた。 翌日も似たり寄ったりで、遅々とした時間が過ぎた。夫婦間の会話は零となり、時々か細い声で猫たちが啼いた。犬たちも間欠的にけたたましく吼えたが、今夜一晩で解決するのだからと怒る気もなくうっちゃっておいた。犬の啼き声くらいにとやかく言う近所の人間も居まい。もし居たとしても、自分のことで手一杯な私にとって、世間なんて些細なことなのだ。元々興味もないのだからして、これもうっちゃっておくことにするだろう。が、金が手に入ったとしても、御座なりな私のやり方は、やはり同じなのだろうけれど。 夜になって、明朝一番で銀行に行くと言って妻は早々に寝床に就いた。妻にとっても一心地つく夜で、寝てしまえば三日つづいた辛苦はあっさりと消滅するのだったから、寝るのが一番の得策なのだ。私とて同様のはずだ。さっさと寝てしまえば忌まわしい煙草の妄想から逃避できるし、満たされないあらゆる欲求も胡散無霧する。睡眠だけが我が家の救済手段なのだった。 ところがすこぶる意に反し、悶々として寝つけない。寝床のなかで腑せてみたり仰向けになってみたり、閉じても閉じてもいつか見開いている双眸。寝つかなければ、逃げたくとも逃れられない。苛々な思いが一段と増すばかりだ。寝床で一服という極上の妄想が異常に醒めた脳に去来を繰り返す。妻は軽い鼾を立ててとうに眠っている。明日に買いこむ食材の夢でもみているのだろうか。 いよいよ堪らなくなって寝床から起き上がってしまった。枕元の眼覚時計の針は暗闇のなかに蛍光を発して一時を指している。 布団の上で胡座をかき暫く居たら、ふとあの廃屋が漫然とした頭に蘇った。屋根の鳥が気になった。いつまで居るはずもなかろうが、一点凝視のたたずまいが何やら深い瞑想にあるかのようで、浮ついた私にはたかが鳥一羽とは片づけられない一種の憧憬を抱かされた。 妻に覚られるのは厄介と、ジャージを廊下に持ち出して着替えた。暦は後わずかで三月になろうとしていたが、一向に温くならない空気が私の心細さを助長する。本格的な春になれば困窮が解決するなどと思いはしないが、せめて体温だけは温んでいたい。移り行く季節を思い巡らせるようでは、俺も歳なのだなと、何だか侘しくなる。どちらの犬が啼いたのか、弱々しい啼き声が小さく聞こえた。犬もまた夢をみているのだろうか。 戸外は月夜だった。星の数がやけに多い。この時間、郊外の小さな街の通りに人影はなく、森閑として車一台の走る音もない。ズボンのポケットに両手をつっこんではみたものの、夜の冷気が首筋に忍びこんで寒い。 歩きながらなおも暗闇の道にしけもくを探す自分が居た。月光に輝くそれらしき白い物体を見つける都度、一瞬の糠喜びを繰り返していた。もういい加減にしてくれ。萎え萎えの自分だった。 考えてみれば、寸借する友も周囲に居なくなった。いつか窮乏と伴につきあう仲間も消えていた。身内との接触もなくなった。不便窮まりない反面、この気楽さは捨てれないと思えたが、強がりは一層の孤独感を募る。 私は本当に煙草を欲しているのだろうか。喫えば虚しく消え去る煙に、どれほどのことを求めているのだろう。一時の逃げ場に過ぎないのではないか。それも一瞬だ。何から逃げているのか、それすら模糊なのが今の私だ。煙草は口実に過ぎない。 鳥は居た。蒼い光に覆われた廃屋の屋根の上で、その姿を深碧に染めていた。瓦の表面に不動の影を落とし、一点を凝視する姿勢は最初に見たときと変わらず、飛び立つ気配はどこにもない。啼かず、動かず、羽搏くことをしなかった。 装飾の贋鳥だった。双翼を蒼の胴に癒着した造り物であった。動いたかに見えたのは、廻りこんで私の視点が移動したからだった。廃屋の鳥は飛ばない。
格子戸は開いた。庭に踏み入ると、密集した枯草が体に触れ、蜘蛛の巣が顔に付着した。根元を踏まれて左右に傾く枯草のなかを五歩ばかり進んで玄関の前に出た。曇硝子の引戸は他と些かも変わりなく古びて痛んでいる。軽く引いてみたが、施錠しているのか開かない。少し力んで引いたら、かたっと小さな音がして半身が貫けられるほどの隙間が開いた。 小さな三和土の暗闇に立った。開けた玄関の所為で籠った空気が流れたのだろうか、埃の匂が微かに落ちてくるのを感じた。 眼が馴れると上がって左に狭苦しい階段が現れた。躊躇したが土足のまま上がり、脆弱な手摺を頼りに階段を二歩まで昇った。そこで息を呑んだ。膝が震え出した。踊場の闇を見上げたまま動けなくなった。煙草の匂を嗅いだのだ。埃に混じって漂うこの微かな薫は、私が三日間希求してやまなかった煙草の匂だった。 匂は無人のはずの二階から流れてくる。こんな時間に誰が居るというのだ。馬鹿らしい。恐怖と自嘲で顔面が不自然に歪んだ。しかし、朽ちた板壁から漏れた月光が階段の段差を一直線に照らして私を導く。 板が軋んだ。手摺がたわむ。匂は益々濃度を上げて私の鼻孔をくすぐる。やっとの思いで踊場に辿り着いた。そこから上を見上げたら、突き当たった左に真暗な闇がぽっかりと口を開けていた。そこが雨戸で閉じられた二階の部屋なのだろう。足元を確認して面を上げたら、突き当たりの壁に白くぼやけた人影が浮いていた。思わず階段を踏み外しそうになって側壁に身を預けた。あてがった掌に板のざらつきが刺々しく当たった。 「誰……」 声がした。恐る恐る見上げ直した。闇に溶けるごとく輪郭をぼかした白い痩身が天に浮いていた。女だった。口元に小さな火が動いて灰色の煙が女の顔を覆った。 「誰だ……」 こちらが訊くのも何だか可笑しいが、怪しいのはお互い様に思えて、私は言った。震える声が我ながら情けない。 「あなたこそ、誰……」 再び煙が吐き出されていい匂が流れ落ちてくる。女に怖じ気た様子が微塵もない。 「いや、決して怪しいものじゃない。寝つけないもので……」 意味のない言い訳が阿呆臭い。 「そちらに上がってもいいかね」 「構わないわ。どうせ他人の家だもの」 そう言って女は部屋のなかに消えた。一人ではないのかもしれない。太々しい女の態度があまりにも不気味だ。 けれども、女は一人だった。闇に覚束無かったが、女は毛布のような物に座っているようだった。手にした煙草が紫色の煙を燻らせている。破れ雨戸から漏れた月光が無数の矢のように女の全身を射ていた。 女から少し離れたところに腰を落とすと、 「煙草もらえるかね……」 堪らなくなって言った。 女は大儀そうに、それでも体を延ばして、煙草とライターを私の座した膝元に静かに置く。ついでに自分の火を消して灰皿をも寄せる。 丸々一本。抜き出したさらな煙草が、私の掌で幻のごとく白々と光っていた。深々と喫みこんだ煙が肺いっぱいに広がる。恍惚が廻転した。渦を巻いて昇った。蛇のように蛇行して眩んだ。たてつづけに三本喫ると、たちまち部屋は煙で充満した。煙は月の蒼光を受けて空の雲のように漂った。 「ここで何をしてるの?」 「あなたこそ……」 「……退屈凌ぎさ」 「そう」 「それにしても若い女性が独りでこんなところに……」 「こんな時間に」 そう繋いで女は微かに笑った。恐らく二十代だろう。否、この落ち着きは三十に入っているのかもしれない。時々、月光に晒される横顔に深い陰が現れる。すこぶる美形であることが、ここからでもわかった。 「この家って捨てられたのかねえ」 部屋はもぬけの空だった。想像していた乾いた読みかけの雑誌はなかった。暗闇ではそれほど痛んでは見えない襖と、電球が取り去られた天井の電気が寒ざむしくぶら下がっているばかりだった。 「口さがない小母さんたちの噂を聞いたことがある」 女は、さもつまらなそうに言った。 「どんな話?」 自分で言った割には寸亳ほども興味はなかったが、一応の手前で訊き返す。 「両親が亡くなって娘さんが引き継いだらしいの。でも、結婚して出ていかなければならなかった」 「だったら売ればいいのに」 もう一本、煙を吐きながら私は言った。 「あなたって寂しい人……」 「そうかなあ」 捨てた我が家を思い出していた。あの家は今どうしているのだろう。きっと私と妻が生きたように、永年見慣れた部屋を、知らない他人が生きているのだろう。リビングのテーブルに洒落た白い花を飾り、庭の薔薇や植木に水をやり、朝にはポストから新聞を抜き出して、珈琲のふくよかな薫を嗅いでいるに違いない。 「懐かしい思い出を手放せなかったのね。結局このままになってしまった」 「そんなものかね……女は」 話のなかの女と妻が重複した。 再び二人して煙草を喫った。漂う煙。甘い匂。射る蒼い光。肌に感じる埃。永い沈黙。 同じなのだと思った。女も私と同属なのだと思えた。事情は違っているだろう。けれども、女と私は何かが同じなのだ。訳などないに違いない。酔狂なだけだ。女も女の無為に手を焼いている。飽きている。限界点に達している。 「ねえ……行こうよ」 女が言った。 「どこへ?」 「あっち」 「……それもいいかもしれない」 「あなたも簡単な人なんだわ」 「そうかもな」 複雑になりようがない。混み入った事情など今の私には何もない。 「どうやって行くんだい?」 「眠るのが一番いい。夢は夢のなかだけだから」 そう言って、女は小瓶を摘んでみせた。私は煙草を一本抜いて掌で揉んだ。暫くつづけた。そして、潰した。草がぽろぽろと畳に落ちた。 「煙草ありがとう。旨かったよ」 女が小瓶の蓋を開けて一口飲んだ。私も飲んだ。ラム酒の味がした。交互に飲んで干した。 「これで果たして行けるのかねえ」 「さあ……」 笑んだ女が可愛かった。そういえばこの女の名前も知らなかった。女も訊こうとしないのだから礼儀には外れないだろう。それに、女の名前など私にとってどんな意味もない。言葉にしたってどれだけの意味があるというのだ。黙って行けばいい。埃と、甘い匂と、蒼い月の光のなかで、ひたすら眠ればいい。見知らぬ二人が、見知らぬ他人の家で、ちょいと一休みするだけのことなのだ。 すくっと女が立ち上がった。白いワンピースが月光に染まり、やがて毛布の上に落ちた。裸身が闇に浮いた。女は静かにゆっくりと廻転する。長い髪がたなびいた。ふくよかな臀部のふくらみが陰影をつくった。締まった乳房が蒼く輝いた。豊かな丘の繁みが、デルボーの女たちのように、陰微な謎を投げかけた。女はいつまでも廻った。瞳が天を向いていた。長い睫毛が震えた。が、女を芯にして私が廻っているのかもしれない。心地よい廻転。湾曲し歪曲する廻転。錯綜がくねくねと縺れて渦を巻く。 アラベスク。 ダイダロス。 アリアードネ。 頂の麻痺。 そして痙攣。 ──女は毛布にへたって何時までもくすくすと笑った。捻れた白い腹が小刻みに震動振幅し、漣を立てている。そこを鋭利な刃物で一突きすると、真赤な鮮血が流れた。その血を小瓶に掬って飲む──真似をしたら、遙々とした眼で見つめていた女がまた笑った。存外朗らかな女だと心足り、声は出さなかったが、私の腹の筋肉も微妙に顫動した。 「子供っぽいのね」 女は吸った煙を私の顔に向かって一吹きすると、そう言った。 「子供いないから」 言いながら、私は女の剥き出した乳頭を指で摘んで酷く力を加えた。 「ジェスチーヌ。サディストだわ」 指はすれっからしな女の豊かな胸に押し返される。女は存外物知りだ。 「ただの欲求不満だよ」 照れて言った。 「何の?」 「さあなあ……」 朦朧とした意識と振りが心地よい。刺す振り。下卑た振り。眠る振り。死ぬ振り。それらの素振り。女の卑猥に座った眼つきも振りなのか。いやらしく私を唆す。 疎くなった頭蓋骨の壺中に、女の裸身が白い蛇のようにとぐろを巻く。麻痺した皮膚が女の冷たい肌に触れて癒着する。虚ろに蕩ける脳で私は言う。 「まったく同じだね」 「何が?」 融けた眼で女が訊いた。 「僕たちの不幸……かな」 女は少女のようにころころと笑った。 「可笑しい?」 「私は不幸なのね」 女は更に笑う。不幸っていい響だわ。私の人生は不なのね。けれど無のほうが正しいと思うの。無幸よ、幸なし。つまり私の人生は無効ね。もう時効だけど。おじゃん。 女の言葉遊びを聞く私の脳は幽遠に眠る。煙草の幻想もなく、犬猫もなく、妻もなく、無人のシーソーがゆっくりと左右に揺れつづける。 閉じた空間に篭った煙で眼がしみた。涙がこぼれて止まらない。 「泣き笑いね」と女は座った眼で言った。 「泣き虫なんだよ。いっつも泣いている。ほら、見てごらん」 そう言って私は無理やり女に顔を近づけた。 「大きな泣きぼくろがあるだろう」 「きっと自慢なのね」 女はまじまじと私の顔を覗きこむ。 「これに女が騙されるのさ」 「嘘つきでもあるわけだ」 女は私の両眼に二本の華奢な指を押し当てて言った。私は潰れた眼のままで、 「たしかだ。自分に嘘をついている」 と鳥のように瞑想してみる。 「精々悪振るのね……」 振りは、朧な意識のなかで、いつまでもつづく。芝居振った仕種がわざとらしい。 益々歪曲する風景のなかで、くねくねと白い肌が泳いでいる。全身に巻きついて私の呼吸を狭める。宙に藤で出来た揺篭が現れたので、なかを覗いたら、独りで眠る赤ん坊が居た。私は赤ん坊の未完成な唇に手を覆ってみる。思ったより反応が薄くて、私らしいと納得する。 女が背後から私を握り締めて官能したが、それは女に貰った煙草の煙のように正体が希薄で抵抗を少しも感じない。揺篭も女も私も揺篭のなかの私すら虚空に浮き、あらゆるものが懐かしい想像で輪ゴムのように伸び縮みしている。完璧な不定型を取り戻した気になって、私は愉快爽快、けたけたと笑った。 「何がそんなに可笑しいの?」 今度は女が怪訝な表情で訊いた。それで益々私は笑った。女も一緒になって笑った。赤ん坊の小さな掌が、ちびたしけもくを握っていた──。
朝陽が眩しい。もう昼光に近いのかもしれない。萎えた視力で屋根を見上げたら、鳥は居なかった。黒い瓦一面に白い陽が煌々と当たっているだけだった。贋鳥は翔んでいた。胴から翼を剥がし、左右に大きく広げ、朝の輝く陽光に羽搏いていた。 温い風が吹いて林の梢が鳴いた。 私がどうあれ、春は構わずやってくる。三春、九春、芳春、春の天。蒼い帝は春の残酷を道ずれにやってくる。それはお構いなしの、生きる鼓動を伴い、蘇生することを強いて止まない。営々と繰り返される復活。祭の鐘の音が、蒼天の海に轟き渡る。 道の先に眼を向けたら、両手に大きな買物袋を幾つもぶら下げて、満面の笑みでやってくる、はぐれた妻が居た。
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