マニエリストQのストゥディオーロ其の八

僕の復活祭
マニエリストQ ●400字詰約495枚程の物語です。感想などいただければ幸いです。



第一部 龍潤

 古き王が殺され新しい王が現れる残酷な季節、つまり四月。僕は男子校の工業高等学校機械科に入学した。途端、男子校とはものすごく退屈なところであったことに気づく。休み時間に教室の日溜まりで繰り返し語りあう車と女と裸の話。自慰と現実の違いを知ったかぶりで考察検討する童貞仲間達……入学式の記念写真のなかで、坊主頭に混じって、なぜか僕だけ長髪で写っている。これからは工業の時代だなんてなにを根拠にしているのか、父のいうことを真にうけた僕は大間抜けだった。しまったと思ったのも束の間、退屈で憂鬱な高校生活がはじまっていたのだった。
 学校帰りの市場通りに街燈がちらほらと灯りはじめ、忙しない買物客が幻燈機の映しだす粗雑な映像のようにぼやけて、カタカタと仕掛けの廻る音さえ聞こえてくるようだ。通りすがりの花屋からは甘い匂が漂い、曖昧な風景と魅惑的な匂が僕の気持ちを昂らせる。匂は不思議だ。ふと鼻孔に蘇る懐かしい匂が自分自身の存在をことさらに意識させてくれる。だからというわけではないが、僕は刻み煙草の桃山の平缶をいつだって胸ポケットの奥に忍ばせている。学校仲間は巻煙草専門だったけれど、僕はもっぱら桃山の葉の匂を嗅ぐ。円形の平缶から摘んだ刻みの匂が柔らかいチョコレートを口いっぱいに含んだようで蕩けた気分にしてくれる。甘い匂が僕のすべてを誰よりも親切に感じさせてくれるのだ。奇妙な奴だと学校仲間は笑うが、少しも気にしない。胸に手を当てるたび、密やかに忍んでいる適度な大きさの缶の塊を、僕はひとり楽しむ。
「寄っていくのか?」背後で擦れた声がした。
 振り向いた薄暮れのなかに大きな唐草模様の風呂敷を背負った嘉夫がいた。
「仕入れの帰り?」のっぽの嘉夫を見上げるようにして訊いた。
「おまえの好きそうなのが手に入ったぞ」
「それ、高いの?」
「まあな」嘉夫の流し目が陰険に笑っている。
 僕はからかわれていた。たとえ一時でも自分が選んで仕入れた本が手元に置ける嘉夫を、僕は妬んでいたのだ。僕は本に囲まれた生活に憧れてもいた。嘉夫はそのことを知っていて、不親切ではなかったが、青白い頬をした少し奥目の瞳で僕をからかっていた。いつものことなのだが。
「おまえ、絵が好きだもんな。なんていったっけ、ほら、マニ……なんとかっていうやつさ」
「マニエリスム」
「そうそう、その本だ。すごいぞ」
 嘉夫は僕の顔を覗きこむようにして肩に手を廻してきた。ずっしりとのしかかった腕は痩身のどこにそんな重力があるのか不思議に思えるほど重い。僕はそれきり黙ってしまった。
「絵の本はかさばってしょうがねえや」
 嘉夫は窮屈そうに背の風呂敷に首を廻し、再び僕の顔を覗きこむ。そして、廻した手でとんと僕の肩を叩いた。
 切なくなった。嘉夫は特上の餌を僕の鼻面にぶらさげて鬼ごっこをしているのだ。嘉夫は余裕のある逃亡者で、僕は悔しいけれども飢えた餓鬼だ。嘉夫の大人びた不精髭がさらに僕をいじけさせる。このまま家に帰ってしまおうかと思ったが、それではあまりにも子供っぽい。僕はもう高校生なのだ。それに、風呂敷の中身が気になってしかたがない。心の裡で自分にいい聞かせる。
 ――嘉夫さんはまた売れない本を仕入れたんだ。どうせマニエリスムの本なんてこの町で売れっこない。本を手に入れるのは僕だけだ――
 その嘉夫は涼しい顔でくわえ煙草を吹かしている。白い煙が嘉夫の長い髪にたなびき夕闇のなかへと融けていく。

「修一、見てみろ」
 風呂敷をレジの小さなスペースにほどいて嘉夫がいった。レジのなかで丸椅子に腰掛けた嘉夫の母が楽しそうに僕達を見つめている。狭い店内にひとりの客もいない。僕は喉に溜まった生唾をごくりと呑みこむと、広げた風呂敷に緊張気味に手を伸ばした。すると、その手を嘉夫が素早く抑えていった。
「拝め。おまえの宝物になるんだからな」
 真顔の嘉夫に僕は途惑った。拝めといわれてもその方法がわからないし、なぜ本を拝まなければならないのか嘉夫の強要する意味が理解できなかった。もったいぶった意地悪なのだろうか。小母さんはにこにこ笑っているだけだ。
 業を煮やしたのか、嘉夫は「こうやるんだ」と僕の両手をとり、掌を合わせて僕の胸の前に立たせた。
「それでな、こういうんだぞ。ぼくのたいせつなマニエリスム様ありがとう、感謝いたします、てな」
 僕はたまらなくなって小母さんの顔を見たが、小母さんはこくりと小さく頷くだけなのだった。
「ぼ、ぼくのマニエリスム様、あ、ありがとう……」
 全身が火照った。
「まっ、ちょっとちがうが、いいとするか」
 嘉夫は僕の頭をかきまぜながら大声で笑った。小母さんは口元を押さえて小さく笑っている。
「修ちゃん。その本はね、嘉夫からのプレゼントですってよ」
 百メートルを全力疾走した。手提鞄が邪魔くさかったが、胸に抱いた画集の重みが心地よかった。あっという間に家に着いていた。靴を脱ぎ散らして二階の自分の部屋に駆けこんだときには、ベッドの上で画集の分厚い表紙を撫でていた。黒地に空押しの唐草模様があしらわれた表紙。小さくもなく、大きくもなく、Manierismuのスペルが金箔文字で輝いている。僕は大判の画集に顔を寄せて黒インキと金箔と紙の匂をいつまでも楽しんだ。
 十六世紀のイタリア。マニエリスムの画家達がそれぞれの問題を抱いて勇躍していた。様々な仕草で綺想を競っていた。アントーニオ・ポルライウオーロの貴婦人の瞳と、首に細い蛇を巻きつけたピエーロ・ディ・コージモのクレオパトラの横顔が、僕を魅惑した。キリストの十字架降下に戦慄くヤコポ・ダ・ポントルモの描く女達の淡い水色の衣装に、僕は酔った。ブロンズィーノのメディチの王女に、近所の少女の面影を照らし合わせた。そして、僕はアンドレーア・サルトの若き洗礼者ヨハネに恋心を抱きもしたのだった。 
 幸せな時間が過ぎていく。ページをめくるたびにインキの匂が微かに漂い、部屋の空気が黄金色に染まる。部屋中がマニエリスムの絵で満ちる。インキの匂が油絵具の匂となって僕のからだを包む。僕は地に沈み、あるいはイル・パルミジアニーノの長い首の聖母のように浮遊した。嘉夫が予言した通り、この本は僕の宝物となったのだった。
 翌日、昨夜の興奮をひきずったまま僕は授業のすべてを放棄して学校の図書室で過ごした。謎めいた十六世紀に少しでも触れたかったからだ。隣に職員室があったけれど、幸いに教師はたったひとりとして現われなかった。僕は深閑とした図書室の一番奥の床に座りこみ、書架に凭れていつまでも本を読んだ。図書室には美術書もあったし、歴史の資料もあった。けれど、それはルネサンスばかりでマニエリスムに言及するものはひとつもなかった。それでも全授業の終えるまで十六世紀にとっぷりと浸った時間を過ごした。そして、放課後の倶楽部活動がちらほらとはじまるころ、僕は学校を後にしたのだった。
 いつもならバス通学なのに、気まぐれに乗ってきた自転車で産業道路を走っていた。ものすごい勢いで砂利トラックが追い越していく。小刻みに振動するハンドルの感触が刺激的だ。汗で濡れたからだを風が切って後方に飛んでいく。
 急ブレーキをかけた。後輪が地を擦りながら横滑りして自転車は止まった。二十メートルほど先、産業道路から脇道にそれる入口に女をつれだった嘉夫を見つけ、僕は思わずブレーキをかけていたのだ。辺りは夕暮れの薄闇で靄いでいたが、まばらな民家の隙間にここからでも二人の姿を目で追うことができた。
 くわえ煙草の嘉夫の前を歩く女が時々振り返ってはなにかをいっている。女が何度目かに振り返ったとき嘉夫の左手が女の頬を軽く叩いたが、女はなにもなかったかのように嘉夫に抱きつき、嘉夫は相変わらずくわえ煙草のまま、二人は民家の陰へと消えていった。僕は脇道の入口で二人の姿を探したが、薄暮れの先に裸電球の灯りに照らされた古びた旅館の看板があるだけで、どこにも二人の姿を見つけることができなかった。轍の痕が残る暗灰色の道がどこまでもつづいているだけなのだった。
 脇道に少し入り、自転車を倒して車輪に腰を下ろした。しばらくぼんやりしてから桃山を取り出して嗅いだ。葉が膝の上にぱらぱらと落ちた。……僕はいったいなにをしているのだ。辺りはすでに暗闇だ。さっさと帰って画集を楽しめばいいものを、こんなところでわけのわからない時間を潰している。
 どのくらいの時間が過ぎただろう。女のかすれた声が微かに聞こえて間もなく、目の前を嘉夫と女が絡み合って通り過ぎようとしていた。僕は自転車の車輪に腰を下ろしたまま二人を見上げていた。人の気配に驚いたのか、女はぎょっとしたように嘉夫にしがみついてぼそぼそとなにかいっているようだった。二人は産業道路に出てタクシーを拾うと、それきり姿を消してしまった。僕に残されたものは、車のヘッドライトに照らされた二人の縺れた残像と、桃山の強くてくどい匂。いきなり激しい吐き気がして胸を強く叩いたが、酸っぱい胃液が乾いた地面に少しこぼれるばかりだった。
 気まぐれな自転車登校はそろそろ終えようとしていた。産業道路を抜けて生活道路の狭い路地に入る。燈火のせいでペダルが重く、張ったふくらはぎが痛い。児童公園の前で自転車を停めて水飲み場に行く。蛇口から噴き出た水が喉の奥まで突き上げ、口に溢れて詰め襟の隙間から胸のなかへと流れていく。
 消毒の臭いが鼻をつくトイレで不思議なくらい長くつづく小便。飲んだ水がそのまま出ているみたいに、いつまでたっても勢いよく便器を打ちつづけている。と、誰かに背後から抱きしめられ、生温い息を吹きつけられて耳朶を軽く噛まれた。ぎょっとした途端に小便が止まった。微かに香水の匂がする。
「まじめにやってるか?」嘉夫だった。
 僕はちんぽこを摘んだままもがいたが、さらにきつく抱きしめられ、また耳朶を噛まれた。摘んでいるちんぽこがみるみる膨張していく。
「おまえ、元気だねえ」
 嘉夫はようやく腕をほどくと僕の頭を平手でぽんと叩いた。すると、天を向いてしまったちんぽこから、二つに別れた小便が勢いよく噴き上げた。再びいつまでも終わらない小便に僕は呻いた。

「嘉夫さん、知ってたの?」
 あのとき嘉夫は僕に気づいていたに違いない。嘉夫は公園のベンチでだるそうに煙草を喫んでいる。
 四月の小さな風が時々吹いて二人の髪を撫でた。灯っては消える街燈の傘に黒い塊となった蛾が一匹しがみついていたが、身動きしないのはすでに死んでいたのかもしれない。嘉夫に煙草をすすめられたけれど、僕は胸ポケットから桃山の缶を取り出して嗅いだ。産業道路の脇でだいぶこぼしたのだろう、缶はすかすかと音を立てて軽かった。
「修一は本が好きだなあ」
「嘉夫さんだって好きでしょ」
「そう見えるか?」
「だって……」
 嘉夫の射るような視線が眩しい。僕は缶のなかの少ない刻みを無造作に指でかき混ぜている。
「好きだが、売るのは興味ない」
「お店のほう大丈夫?」
「おふくろがやってるからいいさ」
「誰? さっきの女の人」
 煙草の煙をゆったりと吐き出している嘉夫を横目で窺った。
「修ちゃんはいい子だねって、おふくろがいってたぜ。おふくろもおまえが好きだってさ」
「関係ないよ」
 どきりとした。そして、はぐらかす嘉夫に少し不貞腐れた。嘉夫の吐き出す紫色に濁った煙が小さな渦になって街燈の明かりのなかへと消えていく。
「そうさ、おまえには関係ない」
 投げ捨てた吸い殻が小さな火の粉を散らして砂場に落ちた。僕は、砂の上に細く薫む紫色の煙をぼんやりと見つめながら、嘉夫を詮索しそれを問うたことを後悔した。嘉夫は本を売り、僕はそれを買うひとりの高校生にすぎない。それも常客ではなかったので時々の関係だ。僕達の関係を形容するならば〈希薄〉そのものなのだ。この桃山の缶の中身のように、すかすかな関係なのだ。濃密であろうと望む僕は嘉夫との関係において思い違いを知った。二人の腰掛けたベンチが歪みながら長く伸びていくような気がする。そのずっと先に、だらしなく上半身を横たえて煙草の煙を燻らせている嘉夫がいた。
 それから何度も、女といっしょの嘉夫を見た。泥酔した嘉夫を抱きかかえている女。シャッターの降りた嘉夫の店の前で抱きあう二人。袋小路の行き止まりで口論をする女と嘉夫。くわえ煙草の嘉夫と目を合わせることもあったが、その都度、僕は無視された。女の正体は不明だったが、路地の隅で財布から札を取り出して嘉夫に手渡す女を目撃したとき、女は嘉夫より歳上なんだと思えた。親指と中指に挟んで札の枚数を確認する嘉夫の抜け目のなさを、僕は嫌った。女が誰であれ、女に金をせびる嘉夫を見たくはなかった。小遣いなら小母さんに貰えばいいのにと。
 日曜日の昼下がり。不満だらけの退屈な日。ぬるい体温と曖昧な陽気が僕の目醒めを遅らせる。父と母は放縦に、そして気侭に、ひとりっ子の僕を置き去りにして昨夜からその姿を晦ましている。けれど、ひもじくない程度の栄養物と幾らかの小遣さえ提供してくれれば、僕の不満は別のところに置いておける。なんとほがらかな家族なんだ、なんて楽しい不満と退屈なんだ、と僕はベッドの上でほくそ笑む。人間も猫と同じ母系家族なんだと父は嘯き、子供なんか偶然の産物だなどと、母は腹を痛めたことさえ遠の昔に忘れている。そんな両親の素敵な哲学に、僕は目眩がするほど幸せだ。僕にとってフロイトは無用の人物だったし、ニーチェが泣くことなんかもさっぱり無関係だ。偶然からのスリップは、いかに、どういうふうに、自分をイメージするかであって、僕の不満は僕自身をイメージしきれない現状にある。環境不満は何もない。
 淡い水色のシャツに黒の薄手のジャケットで外に出た。買ったばかりのスニーカーが軽やかだ。気分は上々。不満はあったが、精神のわだかまりはなにひとつない。問題なんてなにもない。僕はいたって健全なんだと、しっかり思う。
「びっくりだろうね。朝おきたら姿が変わってたなんて」
 今日もいつものように小母さんは僕の買う本にコメントをつけてくれた。小母さんは文庫本の『変身』に丁寧にカバーをかけながら笑っている。倉橋由美子の小説を買ったときも「面白いわよ」と一言くれた。勿論、僕には『パルタイ』はわからなかった。なんとなく理解できるようになったのは、ずいぶん時間が経ってからのことだった。うれしいのは、古本だとわずかだが必ずおまけをしてくれることだった。小母さんのコメントとおまけが大好きで僕はここに通うのだと思っている。そしてなぜか、僕はレジに座っている小母さんの前に立つと、心が浮いて上気した。
 去年の夏、僕がまだ中学生で嘉夫とも近しくなる前のことだった。蒸した夜、僕は嘉夫の店に行こうと夜道を歩いていたのだが、小さな路地を抜けて左折した途端、町内会のテントを張った通夜の家に遭遇した。葬儀は嘉夫の店だった。その辺りだけが浮いたように明りが灯り、喪服姿のシルエットが忙しなく動いていた。突然の光景に気が動転して進退を躊躇したが足は止まることなく勝手に進んだ。道いっぱいに張ったテントのせいで通行人は厭でもその下をくぐらなければならない。顔中が火照り、歩調がぎくしゃくしていた。通り抜ける瞬間、目に微かに這入ったのは棺の傍らに座っている小母さんの喪服姿と祭壇に飾られた嘉夫の父親の遺影だった。不思議なことに、遺影はまるで瞑想でもしているかのように両目を瞑っていた。その見えない目が僕を追ってくるような気がして気味が悪かった。僕は急ぎ足でテントを抜けた。前方に焼香帰りなのだろう喪服姿の女が二人歩いていて、早足の僕は二人を追い越した。そのとき、女のひとりがいった言葉が耳に入った。
「まだ高校生の子供を抱えて奥さんもたいへんだねえ。何でも十七のときの子なんだって」
 その夜、目のない顔がうつらうつらしては現れて僕はなかなか寝つくことができなかった。浅い眠りを繰り返し、翌日は一日中、頭痛に悩まされた。高校の三学年で中退した嘉夫が店に出るようになったのは、それからすぐのことだった。
「嘉夫さんは?」
 僕は文庫本を受け取りながら小母さんに訊いた。
「昨夜から戻ってないの」
 レジの台に重ねて置いた小母さんの掌が少し寂しげに見える。指を飾る物はひとつもついていない。ふっくらとした指先に桜貝のような小さな爪があるだけだった。
「修ちゃん、すまないけど、少しの間レジを見ててくれる?」
 僕をレジの椅子に座らせると、小母さんは奥に上がってしまった。取り残された僕はなんだか風呂屋の番台に無理やり座らされたような気恥ずかしい気分になった。行儀よく座った椅子の上の尻がこそばゆくて落ち着かない。幸い客はいなかったので、僕は頬を赤くしてじっとしているだけでよかったのだが。
 狭い店内に午後の白い陽が溜まっていた。店の入口近くに置かれた雑誌の表紙が陽に当たって白く反射している。店は以前より雑然としているように感じた。床の上には未整理の本が積まれたままだったし、台の上の平積みはだらしなくずれていた。
 新刊本さえ腐蝕してしまいそうな小さな本屋。閉じた頁のなかでぶつぶつ呟いている本達。嘉夫は店をほったらかしてどこに行っているのだろう。小母さんは奥に上がったままどうしてしまったのか。気持ちよい眠気のなかでぼんやり。そういえば、僕はここのところ居眠りばかりしている。学校の授業中でも席が後ろなのをいいことに、ほとんど机にうつぶして眠っているし、通学のバスのなかでは片道三十分、往復一時間、完璧に眠りこけている。昼間はいつもこんなだ。夜と昼がまるで逆転していて、僕の目は夜になって、獲物を探して首がくるりと廻転する森の梟のように、ようやく生気を取り戻す。獲物は十六世紀のマニエリスム。不思議で魅力的な人間達と、謎々のような魅惑的な絵の世界。嘉夫にもらった画集がさらに夜の密度を濃くしてくれた。寝床のなかで毎晩、毎晩、画集と過ごして朝を迎えている。だから、寝るのはいつも通学のバスと学校の教室のなかなのだった。
 小母さんも嘉夫も消えたダルな日曜日。僕は猫の額くらい狭い本屋のレジで夢を見る。
 ――ベッドの下の薄い隙間にもぐりこみ、仰向けに寝そべって、じっと息を殺す僕がいる。ベッドがぎしぎしと軋み、錆びて突き出たボルトナットが僕の胸に当たる。それでも身動きひとつせず、透けて見えるベッドの上の光景を見つめている。裸の男と女が激しく絡み合い、大量の体液がベッドを通り抜けて滴り落ちてくる。男は時々僕の顔になった。けれど、ほとんどは嘉夫の顔だった。女は、例の女だ。しばらくすると、首から下のない嘉夫の女の顔が漆黒の闇に浮かび、薄皮をむくようにその顔面がつぎつぎと剥がれいく。様々な女の顔が現れては消え、するとそれは、いつものように小さく笑っている小母さんの顔になり、小母さんの顔が剥がれると再び嘉夫の女の顔になった。終いに、皮肉な薄笑いを唇に漂わせた嘉夫が闇のなかに立っていた。
 ベッドの周囲にチョコレートの焼ける甘い匂が漂い、焦げ茶色に深く染まった蕩けたチョコレートの大海原に、いつの間にか僕は首まで浸かって浮いていた――。
「修ちゃん……、ごめんね」
 小母さんの声が白日夢を浮遊していた僕をすいと掬った。はっとして目を醒ましたら、目の前に熱いココアの入ったマグカップがあった。
「眠っちゃったの? 退屈したんでしょ」
 小母さんは小さく微笑んでココアをすすめる仕草をした。
けれど、膝の上にそろえて置いた僕の掌は強力な接着剤で張りついたかのようで、まるで動かない。硬直したからだの一部を小母さんは覚ったろうか。不安と恥ずかしさが頭いっぱいに広がる。
「ごめんね。陽気のせいかしらね。少しだけ休むつもりだったのに……」
「小母さん、病気?」
 僕はやっと動いた両手で温かいマグカップを包んだが、小母さんの顔をまともに見ることができなかった。それに、病気などという露骨な言葉を気遣いもなく無神経に吐いてしまう自分に戸惑った。僕はなんて不躾な人間なんだろう。
「ううん、ちょっと疲れただけよ。ごめんね」
 ココアの甘い匂は小母さんのからだから匂っている錯覚。口にあてたマグカップの適度な厚みが僕の唇の在りかを知らしめて、痺れて固まった体内の奥深く、小母さんの匂を呑みこむ。
「ごめんね」
 幾度も謝る小母さんの言葉が僕のからだのなかで呪文のように谺する。
「僕、帰ります……」
「嘉夫に逢わなくていいの?」
「嘉夫さん、女の人といっしょです」
「そおなの……」
 どうしてこうも僕は意地悪なんだ。陰険なんだ。具合の悪い小母さんを苛める理由などなにもないはずだ。
「いらっしゃいませ」
 来客に小母さんが声をかけた。つられて店の入口を見たら外は夕闇になっていた。小さな本屋で夢を見て過ごした日曜日の午後。僕は痺れたからだを騙してレジを立つ。
「小母さん、ココアごちそうさまでした」
 丁寧に頭を下げて店を出た。背後を小母さんの呪文が追った。
 ごめんね……ごめんね……ごめんね……ごめんね……。

 情操教育と称し、僕の学年から音楽の授業がはじまった。学校には音楽室がなかったので、急遽、図書室の隅にピアノを設置し、そこが音楽室になった。学校の都合でいい加減にはじまった授業だったから、生徒もならず者だ。授業を真面目に聴く者などひとりもなく、てんでばらばらの方向に向いて私語に耽っている。僕にしても同じだった。女教師の細くて小さな声は耳に届かなかったし、それにオタマジャクシは苦手だ。僕と不真面目な連中との違いは、僕がこの新任の音楽教師を誰であるか知っていることだった。それは、嘉夫の女だった。
 僕は喧騒のなかで空廻りする女を遠く離れた席で見ていた。時々女の華奢な指がピアノの鍵盤を打ってクラシックのメロディーが流れるが、息が絶えるようにぷつんと切れる。はじめての音楽授業は気侭な自由時間へと変貌し、諦めた音楽教師は漆黒のピアノに向かって口を閉ざす。女の沈黙と、旋律を放棄した仮設の音楽室。拭い忘れて干からびた精液の臭いが緩慢に漂う青い図書室。誰もが女を意識し、無視していた。
 空々しいチャイムの音が図書室にもぐりこむと、椅子が床を打つ荒々しい騒音とともに悪餓鬼共が一斉に席を立つ。僕はその隙間から、ピアノの前に座ったままでいる女の頬に、微かに伝わる細い筋を遠目に見ることができた。午後のグレーな陽が女のからだをいつまでも包んでいるのだった。
 砂埃の舞う産業道路で、なかなかやって来ないバスを待つ。つまらない学校にはとっととおさらばして、大好きな僕のマニエリスト達と心ゆくまで遊びたい。若きヨハネの無垢な肉体を眺めていたい。三島由紀夫が愛した聖セバスチャンの殉教ほどの激しさはないけれど、いずれ訪れるだろうヨハネの死の予感が僕のなかでざわめく。
 バス停に立つ僕ともうひとり。嘉夫の女、あの音楽教師がバスを待っていた。……目が合った。女はにこやかに声をかけてきた。いつも遠目で見ていた女だったが、目の前で微笑む女は艶やかだった。僕はいくらかどぎまぎした。女の頬に流れていた涙の筋はすでに消えている。女は僕のことを知らないのだろう。つまり、嘉夫は僕のことを女にはなにも話してはいない。
「クラブ活動はしてないの?」
「……はい」
 女教師の突然の問いかけに僕は嘘をついた。実は休眠中の演劇部に一応の席を置いている。
 嘉夫は僕のことを女には話していないはずなのだから、僕の存在はこの女に無関係だ。無意味な反発と幼い僻み根性、あるいは嫉妬。素っ気ない返答に、それでも女は話しの糸口を見つけようと話しかけてくる。
「ビートルズ、好き?」
 女はバスのなかでも執拗に話しかけてきた。
「ええ、まあ……」曖昧な応答。
「何の曲?」
「はあ……」どこまでもつれない僕は嫌な奴だ。
 並んで座った座席で同じテンポで腰が揺れている。なぜ嘉夫の女が僕の傍に、それも間隔ゼロの距離にいるのだろう。変だ。母は僕を産んだのは偶然だというが、嘉夫の女がここにいるのも、この便利な言葉〈偶然〉なんだろうか。出だしが偶然なんだから、すべては事の成り行きだ。人間なんて、すべてが偶然に流れている。全校生徒の何百分の一の僕に話しかけた女教師の偶然。話しかけられた僕の偶然。意味など最初からなにもない。変じゃない。
「先生はね……」
 あなたはいつ僕の先生になったのだ。あなたは、僕があなたを先生だと知っていると、どうして思うのか。それとも、はじめての授業で僕の顔を覚えたとでもいうのか。
「先生はね、ノールウェイの森が好き。これってジョンとポールがつくった歌なの。女の人に逃げられちゃう男の人の歌で、とっても皮肉っぽいのよ」
 女は膝に乗せた大きなバックをごそごそさせると、なかから一冊の単行本を取り出した。
「これの受け入りなんだけど」にこにこしている。
「高山宏之さんという方の書かれたビートルズの詩の世界というの。あらこんな歌だったんだって思えて、とっても面白いのよ」
 女は、僕の膝の上に乗った手提げ鞄の上に開いた本をわざわざ置いて、頁ごとに一曲ずつ解説する。これはねと差す指の薄い爪が肉に透き通って淡い桃色に滲んでいる。しなった細くて長い指はどこかで見た覚えがある。ああそうだ、ダ・ヴィンチのデッサンだった。
 JRの駅前まで三十分。音楽の授業が走っている。睡眠不足がたたってか、むづ痒い個人授業と心地よく震動するバスの座席が、いつものように僕を夢へとつれていく。
「先生、さようなら」
「あら、まだお話はつづくのよ。先生の家にお寄りなさい。ビートルズを聴かせてあげるから」
「僕、喉が渇きました」
「おいしいコーヒーをいれてあげるわ」
「……ほら、これがゲットバック。これがレディマドンナ。これがエリナリグビー。まだまだあるわ」
「先生。ほっぺが濡れてますよ」
「なんでもないの。気にしないでね。ピアノを弾いてあげるわ」
「その曲はフールオンザヒルですね」
「そうよ。丘の頂上に私がひとりで立っているでしょ」
「嘉夫さんもいますよ。先生には見えないの?」
「あら、あなた嘉夫さんを知ってるの?」
「いいえ……」
「私は知ってる。意地悪な奴なの。あなたのほうが可愛いわ……」
「先生の唇も可愛いです」
「触っていいのよ。ほらね、柔らかいでしょ」
 バスが停車した。駅前だった。
夢ばかり見ている僕は栄養が片寄っているのかしら。たまには母さんの手料理も食べなきゃいけない。それでなくとも即席やコンビニもので近頃の僕のからだは化学変化をおこしているみたい。孤食など少しも気にしないが、化学変化は勘弁してほしい。学校仲間のひとりが、僕の機械実習を肩代りしてくれる気のいい奴なのだが、「きれる、きれる」といって、しょっちゅう誰かと喧嘩してる。まともに家で食事してないといっていたから、多分、あいつの堪忍袋の緒は化学変化で溶けはじめているんだ。情緒不安定なのは僕も同じだが、最近のあいつはやることが極端になっていて、時々思い詰めたような据わった目をしている。比較的に仲のいい僕でさえ不気味に感じてしまうほどだ。「ちゃんと飯食ってるのか」っていってやったら、あいつはますます目を窪ませて僕をじっと見つめたから、僕は一段と不安になってそのまま黙ってしまったっけ。
 先に席を立った女が僕を見つめて笑んでいた。
「つまらなかった? 先生の話」
「いえ……」
 おいしいコーヒーも、ビートルズの曲も、女の柔らかい唇もなく、女はJRの構内に消え、僕は家へと向かってかったるく歩く。きっと女はこれから嘉夫に逢うのだ。嘉夫は今日も店には出ていないだろう。具合の悪い小母さんが朝から店の小さなレジに座り、あまりやっては来ない客を待っている。はじまりかけた初夏の陽光が本の背をゆっくりと焼き、真新しいインキの輝きも少しずつ色褪せていく。触れれば切れるようだった書籍の紙もその力を失って老いていく。本は人間をあてにしている。人は、人間をあてにして生きている。寄りあって生きている。今の僕は自分勝手に独りをつくろっているけれど、いつか誰かに寄りかかり寄りかかられる人間に僕もなるのだろうか。そして小母さんは今、誰に寄りかかって生きているのだろう。
 民家の壁際に、地面すれすれに、真赤な蛇苺の実がひとつなっていた。摘んで口に放りこみ、舌の上で転がしながら、たらたらと歩く。夕陽に晒された大きな雲がアルミ箔のような銀色に輝いていた。嘘っぽい、つくりもののような、雲だった。
 と、母と父が珍しくいっしょに家にいた。二人でうまそうにビールをやっている。袋のままの柿ピーが口からはみ出て卓袱台の上に散らかっている。六人掛けの立派なテーブルがあるというのに、なぜか二人は胡座をかいて卓袱台でやっている。そんなところが僕の父と母だ。卓袱台はどうせ近所の古道具屋で買ってきたのだろう。自慢気に僕を見る父は、おいお前もやれ、と空になったビール瓶を摘んでみせた。
「二人ともどうしたの? こんな時間に」
「べつに」
 母が素っ気ない。もうすでにでき上がっているのだ。それはあんまりだと、父が代わりに喋りはじめた。
「なあ、修一。学校楽しいか? 苛められてないか? お前、女の子みたいだものなあ、なあ母さん。俺の若いころはもっと体格よかったよなあ」
 なあなあと、煩い父親だ。とりあえずいっておくぞ、じゃないか。なににも心配なんかしてないくせに。
「ところでなあ、父さんたち離婚する。今、話ついた」
「修ちゃん、頑張ってね」
「なにを頑張らなきゃいけないの?」
「だからさあ、ほら、ご飯とか、お掃除とかね」うまそうにビールを呑む母。
「そんなこと、いつもしてるじゃん」今さらいわれても。
「母さん見てごらん。修一の奴、ほっぺが膨らんでるぜ。まるで箱河豚だ」
 キャッハキャッハと母の馬鹿笑い。涙を流しながら悶えている。母は僕を抱き寄せると僕の頭をぐりぐりかき混ぜ、そして何度も何度もやたらめったら顔中にキスをした。
 こんなだから、僕にはトラウマなんて関係なかったし、この不良両親に不満を覚えることもなかった。いつものように、お返しのキスを母の頬にひとつする。父のやんややんやの拍手喝采が〆で儀式が終了。ずるい親だ。
「乾杯!」
 冷蔵庫から抜いてきたビールを注いで、三人は卓袱台を囲んでまあるくなって呑んだ。これで裸電球だったらいうことないなあと父がいう。傘はずそうかと母がいう。そこまでするなと僕はいう。
 父は三人の若い設計技師を抱える設計事務所のオーナーで、父自身も幾つかある発明特許が自慢の設計技師だ。母は旅行ばかりしているそれなりに売れっこのエッセイスト。気まぐれに時々僕をアシストに仕立てて祭のある地方につれていく。僕の担当はカメラで、母の書いたものが載った本にcamera/Syuなんてキャプションがついてたりして笑える。アシスト代が貰えたので僕はそれで普段は買えない高価な本を買った。だから、母からアシストの要請が出ると、しめたと思ってついていく。年に一度か二度のことなのだが。
「しばらくいるの?」
 瞼が半分フェードアウトしている母に訊いた。
「そうね、たまにはあなたの面倒もみなくちゃいけないし、父さんはあてにならないしだし」
「僕はべつにかまわないけど」
「そうもいかないわ。きれられたら困るもの」
 そういって母は僕の頬にそっと手を当てた。いつまで経っても、母にとって僕は幼い子供のままなのか。仕事とはいえ、ほとんど放ったらかしでいることを母なりに気にしているのだろう。僕にとって、両親の放任主義は捨て難いことなのだけれど。
 父は二人の会話をつまみに静かに呑んでいる。寂しいのは父さんのほうじゃないのか。離婚話は父の本当の気持ちではないのか……思ったが口にしなかった。生意気なようで、いえなかった。父も母も勝ち気な人だけれど、どちらも甘えん坊だ。子供の僕が見てたって、可笑しいくらい二人は仲良く甘えあっている。二人は、ひとりでは生きていけないことを知っているのだ。だからこそ、擦れ違いの生活はこたえるのではないか。甘えは、そんな二人の処世術なのかもしれない。寄り添いあえるのは確かな肉体で、疲れたからだを凭れられるのは、あつらえた椅子なんかではない。僕は子供らしくもなく、自分でも歳寄り臭いと感じながら、久し振りに揃った家族のなかで家族を思った。
「お前、変な趣味があるなあ」
 半ば感心したように父がいった。そして、煙草をやるよりましだがなとつけくわえた。
 僕は桃山を嗅いでいたのだ。なんだか悪い薬をやっているみたいな気分だ。先生はなにもいわないのかと母が訊いた。刻み用のパイプまで持っているようなことはしないから、せいぜい没収されるのが関の山。咎められればそれまでで、また買えばいい。僕は銀色のアルミ缶の蓋をハンカチで丁寧に磨いた。それを見ていた父は、どれどれと刻みを摘んで鼻を嗅いだ。
「こんなにいい匂がするのに、なんで火をつけて喫むと変わっちゃうんだろうな。お前のやり方が正解かもしれんなあ」と感心する。母は馬鹿にしたような顔で二人を見ていたが、目はほとんど眠っていた。日頃の旅の疲れがこんなときに出てしまうのだろう。母も僕と同じで、夢を見るのだろうか。
 父が、押入からとってきた毛布を、ほれっ、といって僕に投げてよこした。母に羽織ってあげたら、母はそのままスローモーションのように横に倒れて眠ってしまった。目を合わせた父が声も立てずに笑っている。
「父さん、ラーメンつくってあげようか」
「そりゃいい」
 僕の即席ラーメンは即席じゃない。具もたっぷりだし、ダシも工夫してつけたす。台所用品はほとんど僕が見つくろって揃えたものだったし、冷蔵庫の中身も近くの市場で僕が買ってきたものだ。父は仕事の都合で外食オンリーだから、僕はコンビニが飽きるので自分のために一応の用意をしている。悲しいかな、基本は手を加えるに過ぎない即席ものばかりなのだが、それでも化学変化へのささやかな抵抗にはなる。けれども、母の揚げる天ぷらや、自家製の春巻には到底太刀打ちできるはずがない。本当は、父も母の手料理を食べたいのだろうに。
「なかなかだな」
「でしょ」
 僕は相槌を打って父と即席ラーメンを食べる。ひとりで食べるより、父さんと食べるがうまい。
 妙な胸騒ぎがしてテレビをつけた。
 溶けた。堪忍袋の緒が、ついに溶けてしまった。
「修一、どうした?」
「父さん、あれ僕の学校だよ。ほら、見覚えあるでしょ。入学式のとき、たった一度だけど僕の学校に来てくれたじゃない」
「なんだい、お前の学校か」
「そうだよ。あいつだよ、絶対にあいつだ」
 高校生、用務員を人質に、用務室に篭城――。
 顔にぼかしがかかっていたが、包丁を鷲掴みにした姿があいつだとすぐにわかった。僕は箸を投げ捨て、電話にしがみついた。
「あいつだ。間違いない」
 電話の向こうから興奮した声が返ってきた。
「あいつ、なにかいってなかったのか」
 僕は声をひそめていった。
「放課後いっしょだったんだ。こんなことするなんてなにもいってなかった。用務員の爺さん切られてるぜ。馬鹿じゃねえのか」
 具沢山ラーメンを食べさせておけばよかった。母に頼んで春巻を山ほど食べさせておくべきだった。カップ麺ばかり食べてるからいけない。バランスを考えて、僕みたいに具いっぱいのラーメンを食べていればよかったのに。
 用務員の爺さんはどうしているだろう。爺さんは物置の奥で見つけたといって、生まれたばかりの三匹の鼠の仔を僕達に見せてくれたことがあった。産毛の仔鼠はまあるくなって身を寄せあい、爺さんの皺くちゃの掌の上で眠っていた。はじめて見る生まれたばかりの鼠の赤ん坊は湯気が立っているみたいに温かかった。入学したての幼い僕達は思わず仔鼠の白いからだに指を当てていた。マシュマロみたいに柔らかで、けれども確かな命の証として肉の重みを感じることができた。可愛いねと、目を見開いてあいつがいったっけ。あの三匹の仔鼠はどこへ行ってしまったのだろう。
「父さん、ラーメンうまいね」
 汁を吸って団子になった麺が口のなかでぐにゅっと潰れた。

 カップ麺十個、その内カレー味三個。幕の内弁当三個。カツ弁当三個。ミネラルウォーター五本と缶ジュース一ケース。消毒液と包帯一本││あいつが説得にあたる警察官に要求した内容だ。どこまでいってもコンビニから離れない。あいつにとってはコンビニが人間の食糧庫なんだ。店の裏側に二十四時間やっている畑も牧場もあって、人参も、じゃがいもも、豚も牛も魚も、鶏だって地鶏でコケコッコーって啼きながら跳び廻っている。おまけに鯵だって開きで泳いでいるんだ。海も山もみんなコンビニにあって、もちろん友達もいて、うまくすれば好きな女の子にも出逢えると思って日がな一日うんこ座りでコンビニの前にいる。笑うな。コンビニがあいつの家なんだ。だってそうだろう。いつ行ったって明りが灯っているし、お新香まで温めてしまうチンもある。コンビニが悪いというんじゃない。コンビニそのままじゃ苛々するんだ。落ち着かなくなるんだ。そこのとこに気づかなければ、コンビニは僕達を溶かす化学工場になってしまう。お前は化学変化して分解しちまったんだ。溶けたんだ。けどお前、爺さんを苛める権利はないぞ。
 テレビのニュースは夜中までつづいた。後でわかったのだが、爺さんは、あいつに占拠された際にびっくりして、手にしていた寿司屋で使うような大きな瀬戸物の湯呑み茶碗を落としてしまったのだ。そのままにしておけばよかったものを、爺さんは慌てて割れた破片を素手でかき集めてしまった。それで、小さな仔鼠をそっと包んだ皺くちゃの掌を切ってしまったのだ。あいつが切ったんじゃない。
 正確には朝の三時。庭の小鳥達が少しずつさえずりはじめた時間。一斉に飛びこんだ警官達にあいつはあっさりと捕まった。当然だよ。篭城がうまくいった試しがないのだから。いつか眠りがやってくることを知らないのか。あいつは時を失っている。コンビニの明りが永遠に灯っているという錯覚――あいつの本当の、その事情を、僕は知らない。けれど、いつかいっしょに、春巻をたらふく食べような。

「店番したんだって? おふくろがいってたぜ」
 土曜日、そろそろ夕方になろうとしているときだった。珍しく嘉夫が店にいて棚の整理をしている。気の早いアロハシャツだったが、棚に伸びる長い腕が青白くて不健康に見える。
「嘉夫さんがサボってるからさ」
 目いっぱいの厭味をいったつもりだった。
「なまいきいうな。おとなしくレジに座ってろ」
「くわえ煙草じゃ本が汚れるよ」
「おふくろみたいなこというなよ」
 嘉夫は口の端を少し上げて苦笑した。
 平台から新刊本の一冊を取り上げ、僕はもっともらしい顔をしてレジの小さな丸椅子に座る。丸椅子は小母さんの指定席だ。満更でもない。レジに座ると普段よりも低い位置から店の本を眺められる。まさに本に囲まれる。照れ臭いが、本屋さんになったような気分でうれしい。先日の体験で味を占めていたのだ。もっとも、あのときは居眠りをしてしまったのだけれど。
 本を読もうとしたが、客が来そうで落ち着けない。それを見て嘉夫がけたけたと笑った。客なんか来ないから心配するな、と僕をからかった。
 小母さんは外出しているのだろうか。嘉夫はなにもいってくれない。店で小母さんに逢えないのは珍しい。どんなときでも、小母さんは狭いレジで文庫本を読んでいたりハタキで棚や平台を叩いている。いつも少し丈の長いスカートと地味なブラウス姿だった。嘉夫の背の高さは小母さん似なのかもしれない。痩せてはいないけれど、小母さんもすらりと背が高く、並ぶと僕より高かった。
 錯覚だろうか……店の前をすっと過った嘉夫の女、音楽教師の姿を見たような気がした。桃色のワンピースの裾がビーナスの衣のようにふわりと初夏の空気に泳いでいた。嘉夫は気づいたろうか。それとも僕の幻覚か。
「修一、ちょっと店番しててくれ。煙草買ってくる」
 またもや取り残されてしまった。レジの椅子に固まる僕。お客が来ませんようにと胸のなかで祈る。腕時計を見るとちょうど四時だった。煙草の自動販売機はすぐ近くにあるのだから、嘉夫はあっという間に戻るはずだ。そのはずだ。
 それから一時間が過ぎても嘉夫は戻らなかった。その間に客が二人も来た。緊張のあまり僕はどんな顔をしていただろう。今どき、こんなにさばけていないのは僕だけだ。これでよく演劇部に入ったものだと自分でも感心する。もっとも、いまだに舞台には上ったことがない。お客はきっと無愛想な店員だと思ったに違いない。いらっしゃいの一言もいえず、眉間に皺を寄せて正面を向いたままで、まるで客が万引きするのを警戒しているみたいに思われただろう。案の定、二人の客は早々に何も買わずに店を出ていってしまった。買わせなかったのは僕で、店から追い出したのも僕だ。小母さんごめんなさい。僕は本屋さんにはむいてません。本が好きなだけなんです。それでなくても少ないお客なのに……。嘉夫はどこまで煙草を買いに行ってるんだ。 腹が立った。けれどレジを立つわけにはいかなかった。
 再び客が来た。起立した途端、椅子が後ろに吹っ飛んだ。
「いらっしゃいませっ!」
 僕は狭い店内に轟くほどの大声で叫び、深々と頭を下げて最敬礼した。見事なUタウンで客は消えた。嘉夫はまだ戻らない。
 すると突然、背後のガラス戸が開いた。
「あら、修ちゃん」
 ぎょっとして振り向くと、一段高い和室に薄手のカーデガンを羽織った小母さんが立っていた。
「小母さん、いたの?」
「嘉夫はどうしたのかしら?」
「煙草を買いに行くって……」
 時計はすでに六時を過ぎている。
「こまった子ね。修ちゃん、ごめんね」
 また小母さんに謝られた。そして、修ちゃんもう少し我慢しててねと、小母さんはガラス戸を閉めて再び奥に退いてしまった。僕はなすこともなく、暮れた店の外を見つめていた。勤め帰りの人間がときおり店の前を行き来したが、その後お客はひとりもない。心細さと空腹が同時に襲ってきた。あのとき見たのは、やはり先生だったのだろうか。嘉夫はそれに気づいたのだ。いや、もともと示し合わせていたのだろう。見つめた外の薄闇のなかに、翻る桃色のワンピースの裾と、淡い香水の匂が蘇る。
「これがね、イマジン……」
 女がバスのなかでビートルズの本を覗きこみながらそういったとき、香水が淡く匂ったのを覚えている。母にない匂。もちろん小母さんとも異なった匂。それは嘉夫の女の匂だった。細いうなじが眩しく、きめ細かい皮膚が不思議な生き物のように、女は匂い、揺れていたっけ。
「修ちゃん、どうぞ」
 開いたガラス戸の奥からいい匂が漂ってきた。腹がきゅうと鳴いた。
「お腹すいたでしょ。小母さんといっしょに食べよう」
 嘉夫の父の葬儀に垣間見た狭い六畳間。茶箪笥、テレビ、黒塗りの電話、返本の小さな山、文机の上の伝票、壁に掛けられた針金ハンガーの白いブラウス。台所は玉暖簾の下がった奥にあるのだろうか。どこにでもあるような和室だった。片方の入り口には、二階につづく廊下の床が薄明りにひっそりと照らされているのが見えた。
 部屋の真中に置かれたテーブルに向かい合わせで座った僕と小母さんは、熱々のハヤシライスを食べる。見ると、僕の皿は小母さんの二倍の山盛りだ。らっきょうの刻みと福神漬けがハヤシライスの脇についていた。温まってはいない漬物。それは楽しい付録なのだった。
「残り物だけど我慢してね」
「ハヤシライスはいつも即席なんだ。けど僕、必ずプチトマトを2個と玉葱をスライスして少し煮こむんだ。しゃきしゃきした玉葱がおいしいんだよ。小母さんのにはかなわないけど」
 牛肉、トマト、セロリ、人参、にんにく、トマトピューレ。バターで炒めた狐色の小麦粉。小母さんが時間をかけて煮こんだ手のこんだブラウンソース。
「修ちゃん、いつも自分で食事の用意してるの?」
「はい。適当だけど。父さんは男が台所に立つもんじゃないっていうけど、立たなきゃ飢え死にしちゃう」
「そうなの。偉いのね」
 小母さんは小さく笑みながら日本茶を入れている。
「あっ、これ柿の葉だ」
 僕は沢庵をぽりぽりと食べた。小母さんは声を立てて笑った。
「修ちゃんて面白いのね」
「変ですか?」
「そんなことないけど」
 いっておきながら、笑いが止まらない小母さん。僕はまた一切れ口にしてぽりぽりやった。小母さんもぱりぱりやった。うれしそうだ。楽しくなって、二人でぽりぽりぱりぱりやった。小母さんは喉をつかえて慌ててお茶を飲みこみ、むせながら笑った。
「おやおや、仲のいいこと」
 ガラス戸が荒々しく開いて、虚ろな目をした嘉夫が立っていた。嘉夫はやっとの思いで畳に上がったが、よろめいて僕の背に抱きついた。はずみに湯呑みがはじかれてテーブルから落ちた。呑みかけの茶が畳に広がる。
「嘉夫さん、大丈夫? 苦しいっ……」
 僕は重い嘉夫のからだに押し潰されたまま、テーブルの上っ面に向かって呻いた。それでも、なんとか嘉夫を椅子に腰掛けさせることができた。
「おお、どうってこたねえや」呂律が廻っていない。
 小母さんは膝をついて畳にこぼれた茶を拭いている。
「いいかげんにしなさい」
 低い声がテーブルの下でした。どきりとした。一瞬、息が止まった。さっきまでの小母さんではない。
「お店ほったらかして、修ちゃんに迷惑かけて」
「はいはい、済まないねえ。修一、サンキューね」
「今までなにをやってたの」
 テーブルに座りなおした小母さんが嘉夫を問いつめる。
「どうだっていいだろうに」
「そうね。お前の自由よ。でもね、修ちゃんにまで甘えないで」
 そんな、僕はこまってなんかいません。小母さんと食事ができたんだし、嘉夫さんには感謝してます……口にはできなかった。
「謝ってるだろうが。修一、悪い悪い、ごめんな」
 嘉夫さん、お願いだから小母さんを苛めないで。そう思うのが精一杯で、僕は相変わらず俯いているだけだ。
 小母さんにも、嘉夫にも、僕は謝られてばかりいる。嘉夫はなぜ小母さんに素直でないのだろう。どうして荒むのだろう。その嘉夫はテーブルにうつぶしてすでに寝入っていた。僕のなかで、香水の匂をたっぷり染みこませた桃色のワンピースが惣闇にはばたく。皐月闇。
 ごめんね、修ちゃん。
 ごめんな、修一。
 ごめんなさい、小母さん……。

 僕はどうしてマニエリスム美術に魅かれるのだろう。はっきりした理由は理解していない。けれど、マニエリスムの絵を見ていると、なんだか自分の気持ちを覗いているみたいで、不思議で楽しくなる。キルヒャーの仕掛けは、洞窟に見立てた布団のなかにもぐりこんで独り遊びしていた幼い時分を思い出す。アルチンボルドの果物や野菜でできた顔の絵は、僕がまだ小学生だったころの、彫刻家だった叔父の家に飾られていた幾体かの胸像に感じた不気味な感覚を蘇らせる。マニエリストの絵は印象派のような美しくさとは違っている。むしろグロテスクだ。それを僕はとっても愛しいと感じる。不気味なところが美しい。一番好きなのはパルミジァニーノの凸面鏡の自画像だ。描かれている人物が僕と同世代に見えるからだろうか。でも実際はパルミジァニーノが二十歳のときに描いたらしいから、全然歳上だ。それにしてはずいぶんと子供っぽい顔なのだ。それに、歪んだ暗い部屋のなかにいて、変だ。ひきこもり? 自信がなかったのかなあ。
 母は夏向きのエッセイを書くのだと、愛知県の弥富に金魚の取材に行っていた。父は食肉機械の設計のためにと、三重の松坂市に出張中で、僕はひとりの食事を遅くに済ませていた。即席カレーと野菜たっぷりの焼そば。父は今ごろ松坂牛で酒をやっているに違いない。仕事が終わったら二人は合流するのだろうか。それとも、もう二人して酒を呑んでいるのかもしれない。リビングの柱時計は九時を廻っていた。
 ベッドにもぐりこむには早過ぎたし、テレビもつまらない。昨日買ったばかりの桃山の缶を開け、たっぷり詰まった葉に指を入れる。焦げ茶色の葉がかさかさと指の先で動き、甘い匂が漂う。窓の外では夕方から降りはじめた小雨がまだつづいていた。ぱらぱらと屋根を打つ音がしたので、きっと雹でも混じっているのだろう。時々窓の外に小さな光が走り、遠雷が聞こえてくる。カーテンを開けて外の様子を見ようとしたら、向かい側の民家の壁寄りに二人の人間が立っていた。ひとつ傘に覆われていたので二階からでは顔を確認できなかったが、すぐに嘉夫と女だとわかった。小母さんのハヤシライスをご馳走になった日から三日が過ぎている。女のはじめての音楽授業からは一週間になろうとしていた。明日はその二回目の授業。窓ガラスを抜けて雨のかびた匂が伝わってきた。
 二人は抱きあっているようにも、揉みあっているようにも見えた。時々傘が傾き、二人の顔に稲妻の明かりが鋭く当たった。雨に濡れたのか、それとも泣いているのか、女の頬が濡れているようにも見えたが、一瞬の光だったので定かでない。青白い嘉夫の顔はますます色を失い、窪んだ眼が洞穴の闇のようにどす黒く沈んでいた。嘉夫はまた酔っているのだろうか。女はまた嘉夫の店の前を風のように通り過ぎたのだろうか。嘉夫と小母さんは仲直りしただろうか。
 激しい雨になり、二人の肩を容赦なく濡らしていた。時々傘から覗く女の濡れた髪が黒く光って肩に落ちていた。再び稲妻が走って地を舐めるような雷鳴が轟いたとき、二人の姿は消えていた。
「今日の音楽、なしだってよ」
 休み時間、机に両足を乗せてそっくり返った恰好でクラスのひとりが誰にいうのでもなくいった。なんでだよ、とたいして興味もないのに、周囲の奴らが不満気に問う。
「結婚すんだってよ。担任の先公がいってた」
「阿呆じゃねえか。そんなら最初から先公になるんじゃねえよ」
 それは違う。結婚なんかじゃない。雨に濡れた女の顔が浮かんだ。結婚なんかするものか。きっと嘉夫とのことだ。あんな状態では学校の先生など勤まるはずがない。女は体裁のいい口実で学校を辞めたのだ。嘉夫のために先生の仕事を捨てたのだ。僕は校舎の二階の窓から薄曇りの空を見ながら思った。二人はどうしてあんなふうなのだろう。あんなふうにならなければならないどんな理由があるというのだ。好きあっているのなら、もっと楽しくすればいいのに。今どき古いよ、あんな恋愛。校庭の隅に植えられた桜が昨夜の雨に濡れたまま葉を濃い緑に染めている。退屈な時間が過ぎていく。
 もう学校に来るのはやめようかと学校帰りのバスのなかで本気で思った。応用力学や機械数学など少しも面白くない。今日のテストも白紙で出したら、修一零点、なんて先生が発表するものだから、クラス中の拍手喝采だった。僕は席を立ち上がり周囲に恭しく最敬礼してやった。それでまた大拍手。今東光だって数学は答えはあるが文学は答えがないから面白いのだとのたまってる。僕もそう思う。いつだったか、その今東光の悪太郎という小説をクラスのひとりに貸したら、学校中の人気になって廻し読みのあげく、僕の手元に帰還したときには表紙もなくなって無残な姿になっていた。地理や歴史の教科書はそれなりに面白いけれど、応用力学の教科書なんてただ重いだけだ。それにこの間なんか、歯車の計算できるようになったかって、父にまでからかわれた。僕はきっと父の仕事は継げない。継ぐ気もない。
 母の金魚の取材はうまくいっているだろうか。今度はいつ僕を取材のアシストにつけてくれるのだろう。父には悪いけれども、僕は母のような仕事をしてみたい。工業高校に入学したのは決定的な間違いだった。どうして母は僕の好みを見つけてくれなかったのだろう。これは僕にとってやや不満なことだった。
 目が醒めたらバスは駅前に着いていた。僕はバスを降り、たらたらと歩きはじめた。雲行きが悪い。
 駅前を通り過ぎようとしたとき、構内の隅に嘉夫の女を見つけた。二人の男に取り囲まれるように立っている今日の女は、白いワンピース姿で、量の多い長い髪は後ろに束ねてあった。
 一瞬、小さな光が輝いた。男のひとりがカメラのフラッシュを焚いたのだ。女は片方の手で顔を覆い、改札を通り抜けて逃げていく。その後から男達がすがったが、切符を用意していなかったのか慌てて自動販売機に駆け寄り、それから改札の向こうへと駆けこんでいったのだが、同時にホームにいた電車が出てしまった。男達は悔しそうに地団太を踏んだ。僕はそっと辺りを見廻したけれど、予感した嘉夫の姿を見つけることはできなかった。
 店のシャッターが降りていた。休業日ではないし、この時間に閉店のはずもない。腕時計は五時を過ぎたばかりだった。
 僕はひっそりと静まりかえった店の周囲を窺った。二階の雨戸は閉じたままだ。玄関に廻ってドアのチャイムを押そうとしたが、そこまでしていいものかと思いあぐねてやめた。そうこうするうちに、雨がぽつりぽつりと額を濡らしはじめた。振り返り振り返りして、僕は自分の家に帰った。
 雨は家に辿り着く前に土砂降りになって濡れ鼠にされてしまった。誰もいない家でシャワーを浴びたり風呂に浸かるのは、こっそり悪事を働いているような、どこか後ろめたい気持ちがあって不思議だ……いつだってひとりのはずなのに。冷蔵庫から牛乳パックを取り出して二階の自分の部屋に上がった。ベッドに寝転び、天井を何気なく眺めていたら、駅前での出来事を思い出した。女はどうして写真など撮られていたのだろう。店はどうして閉まっていたのだろう。小母さんは? 嘉夫は? わからないことばかりだ。
 まるで、ミケランジェロの描く植物のように錯綜する思考……僕は物事がわからなくなると、そんなふうに思い、マニエリストを気取る。迷宮なんていう言葉も大好きだ。それに、綺想とか、螺旋とか渦巻き。崩壊、憂鬱、巨人、秘密、そして謎……。 嘉夫と女の謎。女……先生は新任だったはずだ。はじめての授業で実習を終えてからの赴任だと簡単な挨拶をいっていたのを思い出す。どこかの学校で数週間か一ヵ月くらいの実習を終え、僕の学校に配属されたのだろう。実習後すぐかもしれないし、ある程度の期間を措いてからなのかもしれない。そうか、わかった。そのときに先生と嘉夫は出逢ったのだ。そうに違いない。僕は勝手に決めこむ。しかし、それにしては間が開き過ぎる。嘉夫が退学したのは去年の夏のことだから、嘉夫が在学中のことでなければならない。でなければ実習期間から赴任まで間があり過ぎだ。出逢ってから二人になにかがあったのに違いない。なんだろう。二人のあの雰囲気はなんだろう。嘉夫のあの荒みはどうしたのだろう……考えてもしかたがない。恋人もいない僕に他人の恋なんてわかりようがない。こんな詮索はやめよう。僕とは無関係なことだ。先生と嘉夫の出逢いにどれほどの意味があるというのだ。二人の恋愛に僕がどんな役があるというのだ。僕が気にするのは小母さんのことだけだ。休業日でもないのに閉じていた店と閉じたままの雨戸が気になる。夕陽の降る日には真赤に染まる蔦かずらが這うモルタルの壁。焦げ茶色の塗料がところどころはぜた木製の雨戸。降りはじめた雨粒が当たって、ぱたぱたと寂しい音を立てていた。あの奥に小母さんはいたのだろうか。店も開けずに雨戸まで閉め切って小母さんはどうしていたのだろう。店を放って嘉夫はどうしているのだろう。雨は降りつづけていた。

 僕がはじめて化粧をしたのは小学生のときだった。それは化粧などというほど大袈裟なことではないのだが、それでも化粧には変わりなかった。母はそのころからすでに留守がちで、今に思えば、その時分から僕はいつも独りだった。さすがに気になるのか、父は時々仕事場から帰ってきては僕の様子を窺い、また戻っていった。
 ある日、独りの僕は、父の兄つまり僕の叔父に父がもらったという、十九世紀末にドイツで出版されたコロンブスの卵の復刻版を見て遊んでいた。図解の木版画が美しい科学遊びの本だった。そのなかで僕はとくに定規の錯視が好きだった。一本の定規があればいつまでも独り遊びできる実験だったから。竹製定規を眉間の前に立て、電球の明りにかざすと定規に明りが廻りこむ。すると定規が凹んで見えるという一種の錯視実験なのだ。父にもらった製図用定規で午後の独り遊び。カーテンを閉めて暗くなった部屋にゼットライトの明りが放射している。窪んで見える定規を飽きもせず、いつまでも見つめて遊んでいた。そこへ珍しく近所の女の子が遊びにきたのだ。自分の誕生日会をやるから修ちゃんもおいでというお誘いだった。ところが女の子はそのまま居座り帰ろうとしない。クラスの誰々がどうだかだと女の子ははしゃいでいたが、僕には退屈な時間だった。
 そのうち、女の子も自分のお喋りに飽きたのだろう、家のなかを
勝手に歩きはじめた。しまいに母の部屋に入って、ねえねえと僕を呼ぶ。しかたがないので僕も母の部屋に入った。女の子は興味深げに鏡台の上をいじくりまわしている。僕は少し嫌な気持ちになった。ところが僕は女の子を咎めようとしなかった。僕自身にも母の鏡台に興味があったのかもしれない。
 にゅるっと口紅の先が飛び出した。真紅に鈍く輝いている。じっと見つめている女の子は放心しているようで少し不気味に感じる。お母さんの色はもっと赤いのよと彼女はいった。それから塗る真似をして両唇の上を舌で嘗め回す。修ちゃん塗ってあげる。彼女は僕を鏡台の椅子に座らせると自分も膝まつき僕の唇に紅を当てた。薬に似た匂。生まれたときから知っている匂。それはキスが好きな母の匂だった。
 鏡のなかに真赤な紅が唇いっぱいにひかれた僕の顔があった。修一は女の子みたいだね、いつも父は僕にそういっている。僕は女なんだ……。
「キャハハハハ」
 突然、甲高い馬鹿笑いが響く。
「修ちゃん、おかしい。変なの」
 そういい残して、女の子は帰っていった。
 それ以来、口紅は僕にとって秘密と同意語になった。そして匂や香には往々にして謎的なものがともない、とくに香水や化粧品の残り香は底知れぬ不思議な魅力を覚えさせ、僕を限りない想像世界へと誘惑する。
 十三歳の男の子が部屋に隠された覗き穴を見つけ、そこから母親の部屋を覗き見る。諸々の小道具によって演出されるむせ返るような女の匂。鏡台のオーデコロンの瓶、香水吹き、アストリンゼントの瓶、パフ入れ……古本で読んだ三島由紀夫の小説、午後の曳航。嘉夫の店で買った三島由紀夫の古本。市ヶ谷の自衛隊で首を斬り落とした作家三島由紀夫。僕の記憶は、いつか見た古新聞の一面記事を思い出す。由紀夫の首が斜めに傾いてちょこんと床の上に置かれていた。あれは僕が父の事務所に遊びにいっていたときだった。何故か父の製図台にピンナップされたセピア色に変色した新聞の切り抜き。市ヶ谷の自衛隊で檄を飛ばす三島由紀夫と、床に並べられた二つの首の後ろ姿が載っていたのだ。聖セバスチャンの殉教を愛でた三島由紀夫と、由紀夫の首を斬った盾の会学生長森田必勝の首。由紀夫の首は顎から首にかけて斜めに斬り落ちていた。森田の首を斬った人はどうしているのだろうか――一瞬、妖しい光を放って目にも止まらぬ速さで旋回する日本刀。青い匂が鼻孔を突き刺す。それはただ単に銀色に鈍く光る鋼のどろりとした匂にすぎなかった。血の匂はどこにもなかった。
 ぬるい牛乳は一口飲んでやめた。不思議な日だ。思い出ばかり蘇る。僕はベッドの上でそう思った。小母さんはどうしているだろう。学校帰りに見た閉じたままの二階の雨戸。雨はまだ止まない。
 夕飯どうしよう。なんだか面倒だ。ビールでも呑むか。ラジオで音楽でも聴くか。退屈が極まる――いつの間にか僕はベッドの上で眠っていた。
 朧な夢の内側で自分の名を呼ぶ声を何度も聞いて目が醒めたら、窓の外で修一、修一と擦れた呼び声が雨音に混じって何度もする。慌てて窓からガラス越しに外を見下ろすと、女にからだを支えられた嘉夫がいた。二人は傘も差さずにずぶ濡れだ。僕は急いで階下に下りると傘を持って外に出た。差しかけた傘のなかで、えへらえへらと嘉夫が笑っている。女は何かを誤魔化すかのように目をしばたき、歪めた下唇を噛んだ。
 二人を家に入れ、女にバスタオルを二枚手渡した。相変わらずへらへらしている嘉夫の頭を女は優しく拭った。僕は父の大きめのパジャマを二組用意すると台所に入った。それから三人分のスパゲッティをつくってリビングに戻ったら、パジャマ姿の二人が照れ臭そうに立っていた。嘉夫は酔いが少し冷めたのだろうか、くわえ煙草でぼさぼさになった頭をぐしゃぐしゃかき廻している。女の化粧もすっかりとれていた。それでも女の瞳は藍みがかって白く、ほつれた長い黒髪が頬にかかり僕を困惑した。
「嘉夫さん、ビール呑もうか」
 急いで台所に立って缶ビールを三本かかえて戻る。
 済まんなあ。嘉夫がぼそっといった。
 ごめんなさいね。女が頬を朱色に染めていった。
 僕まだ夕飯食べてなかったんだ。いっしょに食べようよ。ビールもやろうよ。
「乾杯」
 三人はお互いの顔を見廻しながら、くすくすと小さく笑った。
僕は一所懸命スパゲッティを食べた。ビールをごくごくと音を立てて呑んだ。テーブルの向かいに隣りあって座っている二人がなんだか不思議で、それなのに昔からずっといたのではと思えるのだった。小さいときに見た父と母の姿のようにも見えた。今ごろ父も母といっしょに仲良く食事しているのだろうか。
「先生、学校やめちゃったんですね」
 僕は急いで呑んだビールに少し酔った。駅の構内で偶然に目撃した女の姿を思い出し、遠廻しに探ってみたのだが、愚劣な野次馬根性ではないかと内心やや恥じた。女の蝋のように白い頬が桃色に滲む。いけないことを訊いてしまったと、悔いが涌いた。意地悪な質問に答えるためには学校を辞めた嘘の口実から話さなければならない。そうなると嘉夫とのことも説明しなければならなくなる。僕は慌てて、
「嘉夫さん、もっと呑もうよ。先生、僕もビートルズ持ってます」
「あら」と女はいってうれしそうに微笑んだ。多分それは、僕がビートルズのレコードを持っていたからではなく、たった一度の個人授業、バスのなかでの出来事を思い出したからなのだろう。

 きのう、すべての悩みが遠くへ去ったはずなのに
 いま、それはここにある 永遠に
 ああ、僕はきのうのことを信じたい……

 リビングにイエスタディが流れる。僕は空になった皿を見つめ、ビートルズを聴くふりして、口にする言葉を探せず黙っていた。だんだん増す缶ビールの苦味。外では相変わらず雨の音がつづいていた。
「迷惑かけてごめんな」
 嘉夫がしおらしくいった。
「ご両親がお留守なのに、本当にごめんなさい……」
 先生がうつむいたままいう。
「僕、退屈してたから。嘉夫さんつきあってよ。ビールもまだあるし、ウィスキーだってあるよ。父さんも母さんも呑兵衛だからさ。それに二人は出張中だし」
「先生も辞めちまったことだし、そうするか」
 嘉夫の言葉に先生は目で咎めたようだったが、外でひとりで立てないほど酔う嘉夫に駄々をこねられるよりも、今夜はここで甘えたほうが無難だと咄嗟に判断したのだろう。それに、降りつづける雨が二人を極度に疲れさせていたのかもしれない。先生は僕を真直ぐ見つめていった。
「修一さん、わがままを許してね。こんなつもりじゃなかったの」
「よし、修一。今夜はやるか」
「僕、つまみ作るよ。鷹の爪を使ったもの凄く辛いやつさ。先生はレコードかけなおしてください」
 二人の事情はどうでもよいことだった。それよりも、孤食など気にしてないと強がっていた自分が可笑しい。濡れ鼠だった二人が同じ空間にいるだけで、僕の気持ちは地に溜まる濁った泥水と真青な晴天に浮く雲のごとく極端な落差を生じて変化していた。もちろん、それは真青な空のような気持ちに決まっている。
「修一、辛いよ、これ。辛すぎる」
「本当。でもおいしい」
「でしょ。僕の十八番、にんにく炒めライスと茄子のバター焼き。どっちも鷹の爪満載。こっちのソーセージには超辛の粒マスタードをたっぷりお使いください」
 額から大量の汗を流して三人は食べて呑んだ。辛さで涙が出た。目尻を手の甲で拭いながら三人は笑った。先生は幾度も幾度もこぼれ落ちる涙を拭いた。嘉夫がどうしたと訝しがるくらいに、先生は笑いながらいつまでも涙を拭いた。洒落た会話も、筋の通った言葉の交換も、長くつづくテーマもなかったけれど、三人の食卓はブリューゲルの絵にある婚礼の宴みたいに、とっても単純で賑やかで、なのにひっそりと静かな大宴会だった。そして先生の選んだビートルズはHey Jude don't make it bad, と歌っていた。
 無理をしないで、こわがらないで、自分を斜めに見ないで……。ねえあなた、私を抱きしめてくれればいいの。ただそれだけなのに……先生の透き通った藍い瞳が、そう歌っているように思えてならなかった。
 旨そうにビールを呑む嘉夫。それを静かな笑みで見つめる先生。僕の今の気持ちを嫉妬というのだろうか。芳しい匂と蕩けて流れるムンクの絵のような色をした妬み。心地よいジェラシー。いつか、僕の視線は嫉妬の表皮を剥いで、快感の裡に溶けて霞み、藍い瞳に釘づけになっていた。
 嘉夫は時々微かに焦燥の思いを眉間に寄せるが、酒を呑む姿はくったくない。根も葉もない冗談をいっては笑わせる。それはいつもの皮肉屋な嘉夫だった。店はどうしたの? 小母さんは? 訊いてみたかったがやめた。目の前の二人にとって、ここで必要なことは、濡れた羽の休息と、なにかからの逃避のような気がしてならない。逃避の原因がいったいなんであるのか僕には推し量れなかったが、土足で無神経に踏みこむ他人の干渉を忌み嫌うように、二人に問うことはやめよう。ゆったりとしたこの蕩けるような時間と空間を、僕は味わう。
「修一、宝物はどうした。大切にしてるか」
「毎日抱いて寝てるよ」
「俺があげた画集なんだよ。市場でようやく見つけたんだ。マニなんとかっていうやつさ」
 嘉夫は自慢気にいい、そして先生の肩を抱いた。眩しくて、悔しくて、僕は精いっぱいの背伸びをする。
「僕、バロック音楽が好きなんです。マニエリスムに音楽主義というのが出てくるんですよ。音楽をちゃんと勉強すればよかった。ボードレールだってランボーだって詩に音楽があるんだ。音楽がわからないと、詩の本当のところが理解できない」
「難しいこと考えてるなあ。修一は」嘉夫が茶化す。
「そうかなあ。だって面白いじゃない」ちょっとむきになる。
 先生が笑っている。
「修一、おまえまだ好きな子できないのか」
「そんなこと関係ないじゃない。嘉夫さんは黙って呑んでればいいんだよ」
「こいつ、なにを顔赤くしてんだよ」
 見透かした皮肉な目をする嘉夫はいつもみたいに僕を苛める。
「バロック音楽の授業やりたかったわね。私も好きよ……」
 少し翳った視線が嘉夫に向くと、嘉夫は再び眉間を寄せて口を閉じた。先生の最後の言葉が僕のなかで繰り返す。好きよ……。
「先生、ラーメン食べませんか。僕、ラーメン得意なんです。即席だけど具いっぱいなんです」
「やっぱり、いけない。これ以上はいけない……」
 嘉夫を見つめた先生の横顔に、ほつれた髪が揺れる。髪はまだ濡れていた。
「そうだな……修一、俺達、帰る。すまなかったなあ」
 柱時計は十二時を廻っていた。
「まだ雨降ってるよ。嘉夫さん」
 今夜は泊まっていけば、といおうとしたが、先生はすでに半乾きの服に手をかけている。僕は慌てて自分の部屋に上がり、頃合をみてリビングに下りたが、そこに二人の姿を見つけることはできなかった。食卓の上に残されたメモ。多分先生の手帳を引き千切ったものだろう。薄いベージュの地に「ありがとう」と書いてあった。細く、軽く、指でなぞればたちまち消えてしまいそうな文字だった。
 窓から外を眺めてみても、ひたすら降る夜雨の糸を街燈の灯りが銀色に照らしているだけで、なにがあるわけでもなかった。この雨はいずれ本格的な梅雨に繋がり、鋭く旋回する親燕がかまびすしい仔達に餌を与え、千々の色を彩る紫陽花の咲く季節となっていくのだろう。レコードが擦れた音で空転りしていた。僕はビートルズをそっと消した。
 夢を見ていたのだろうか。二階に上がり、ベッドに仰向けに寝そべって天井を見つめていたら、嘉夫も先生も、そして辛い炒めライスも、すべてが夢のなかの出来事のように思えてならなかった。
 リビングの電話が鳴っている。だらだらと階下に下りて、ゆっくりと受話器を取った。電話は母からだった。
 修一、元気してる?
 うん……。
 明日、父さんといっしょに帰るからね。おいしいお土産あるよ。
 うん……。
 あんた、なんだか元気ないよ。なにかあったの?
 べつに。
 そう。それならいいんだけど。
 母さん……あのね……。
 ……なによ。おまえ、なんか変ねえ。父さんとかわろうか。
 いいよ、なんでもない。気をつけて帰ってね。
 わかったわ……じゃあね。
 電話が切れた。母さん、父さんと仲良くするんだよ――あまりにも臭くていえなかった。それに、父と母は喧嘩をしているわけではない。子供の僕が余計な世話をやく立場ではなかった。ただ、理由はわからなかったが、嘉夫と先生の姿に父と母がダブって見えたのだ。僕はいつも独りだけれど、父と母が仲良ければ僕はいつだって平気だ。荒まない。
 優しく嘉夫の頭を拭う先生の姿が蘇る。両膝をついて、まるで風呂上がりの幼児を扱うように、先生は大きめのタオルで嘉夫の髪を拭いていた。それも夢だったのだろうか。

 糊の効いた真白なYシャツ。一番上のボタンをはずして少しのぞかせる下ろしたてのやはり白いTシャツ。一晩中降りつづいた雨が止んで一転、今朝はピーカンだ。しかたがないから学校に行く。
「ここをおっぺすとだなあ、歯車がだなあ……」
 朝の一番から退屈な応用力学の授業だった。右半分が寝癖でおっ立った髪の毛を気にもせず、先生が黒板に向かってぶつぶつやっている。登校途中のバスのなかで十分睡眠をとっていたので気分はやや爽快。もっとも、昼食をとれば机にうつぶして午睡に突入するのは確実だ。午後からはもっと退屈な実習がある。今日の実習は鋳物でスパナだかモンキーだかをつくるのだというからたまらない。クラスの誰かにつくらせて、僕は実習室の裏手にある運動場でサッカーでもやって時間を潰そうと思う。よくしたもので、同じような気持ちの奴が必ず何人かいてサッカー相手には困らない。それに僕のつくるものはみんなどこか歪で変だ。できたものをじっと見ていると自分でも厭気がさす。その点、クラスの奴らはこともなく上物をつくる。ほい、修一、つくっておいたぞ、って僕に当り前みたいに課題作を手渡してくれる。それを持って僕は授業の終わりに先生のところに行く。よくできたって先生にいわれて一件落着。実習の先生はどこかの工場長みたいにでっぷりおっとり。僕は好きだ。
「修一、歯車の計算できるようにしておけよ」
 力学先生は黒板消しを二、三度、一番前の席の奴に向かってぽんぽんやると、わざわざ僕の名をいい捨てて教室を出ていった。
 戸外は強い陽差しだったが、木造校舎の開け放たれた窓から気持ちのよい風が吹きこんでくる。力学だとか機械だとかの授業さえなければ、ここはとっても居心地がいいはずなのだが、教室の前方で机がひっくり返り、椅子が跳ね、誰かが豪快にすっ飛んで黒板に叩きつけられ、教壇の床に沈む。ああ、だから男子校は厭なんだ。共学だっていろいろ面倒なんだろとは思うのだけども。
「歯車の計算が苦手な修一くん。先輩がお呼びです」
 その声で教室の入り口を見ると、演劇部の一年先輩の春海が立っていた。おいでおいでと小馬鹿にしたような手招きをしている。休部中の先輩がいったいなんの用なのだろうと訝しく思ったが、無視するわけにもいかないので、しかたなく腰を上げる。
「たまには部室に顔だせよ」
「だって休部中じゃないですか」
「まっ、そうだがな」
 なにがだ。
「ところでな、我が演劇部もいよいよ始動する。ついては君も来なさい」
 どこへだ。
「うちの兄妹校知ってるだろう。あの女子校ですよ。そこで来週の水曜日に親睦会が行なわれる。君も参加すること」
 はあ、女子校ですか。なんだか面倒。演劇なんかなにもやっていない演劇部がなにを親睦するんだろう。適当に生返事をしておいた。春海は一応の用は済ましたからなとばかり僕の肩を叩くと、蛇みたいにくにゃくにゃ、廊下を右へ寄ったり左に行ったり、蛇行しながら階段へと消えていった。演劇部なんかに入る人はみなどこか変だ。僕も変だと自分でも思う。歯車の計算ができない工業高校生。計算尺を使えない機械科B組一年生。到底、父の後は継げない。
 今日、父と母が帰ってくる。お土産は多分、松坂牛だ。

 僕はいつもなにかを待ちながら時間を過ごしているような気がする。目醒めているのか眠っているのか自分でもよくわからない生半な有様があって、そのこと自体は認識しているから、苛つかないでいられるし、待つこともできる。けれども、今の僕はいったいなにを待っているのか見つけられない。正体不明のそれを、運よく、まさしく偶然に見つけることが叶ったとき、僕はきっと目醒めることができるのかもしれない。それが今の僕。覚醒を模索する朦朧とした脳。あるいは肉体。
 あれだけ晴れていた空が真黒だ。辺りがどんよりと黒ずみ、行き交う車のヘッドライトが産業道路の路面を照らしている。やがて雨粒が横殴りにバスの窓を打ちはじめると、雨は不整備で凹凸の多い路面を水浸しにした。バスは激しい水飛沫をあげて疾走している。対向車が跳ねる大量の泥水が何度も車窓に当たり、僕の横顔の間近で、ばしゃっと音を立てて砕け散る。衣替え。梅雨。湿気。欝。目蕩み。
 ……厭だなあ。このトラックやだなあ。
 雨の日の自転車はやっぱり駄目だ。おまけに左手に傘を差しての自転車なんて失敗したなあ。こんな状態で一時間近くもペダルを漕ぐなんてふざけてる。
 ……厭だなあ。このトラックやだなあ。
 とっとと追い越して行っちまえ。トラックがとろとろ走らないでほしい。やばいなあ。ブレーキ甘いし、ビニール傘は大量の雨で曇ってるし、前が見えないじゃないか。うわっ、ほんとまずい。こっちに寄ってくる。止めなくちゃ。ブレーキ駄目じゃない。なんでこんなところに電柱が……挟まれる!
 どん、と衝撃があって、いったん後方に反るとつづいて前方につんのめって前座席の背凭れに胸を強く打つ。目が醒めた。バスが砂利トラックに追突されていたのだ。バスの運転手は降車口から血相を変えて飛び降り、トラックの運ちゃんに食ってかかっている。バスには十人くらいの客が乗っていたが、みな怪我もなく、バスのなかから二人のやりとりを眺めている。降りつづける雨の音で声が聞き取れず、パントマイムを見ているようだ。
 ずぶ濡れの二人の口論はいつまで経っても終わらない。そのうちサイレンの音がしてパトカーがやってきた。誰が通報したのだろう。ああ、あいつらか。通りの向かい側にある建物の三階の窓に、けたけた笑っている五人ほどの野次馬が見えた。それほど面白いとは思わないけど。
 見ると、降車口が開いたままだ。駅までの距離はもうたいしたことはないのだし、それにとても退屈だ。
「みなさん、お先にさようなら」
 バスから降りた途端、ばしばしばしっと痛い音を立てて、大粒の雨が頭とからだを打った。瞬く間にYシャツもTシャツもズボンも萎んで肌にべったりとひっついた。シャワーを浴びつづけるかのように際限なく頭の天辺から水が流れ落ちる。ピーカンの朝に傘など思いもつかなかったので、頭の洪水は是と認め、僕は産業道路の脇を清々しく歩く。ついでに横っ飛びの泥水を大らかな気持ちで許し、駅に辿り着くまでに計五回も、許す、許す、許す、と逃げ去る車を指差し呼称。その泥水を大量の雨が洗い落とす。爽快。
 すると、水浸しの産業道路前方になにやら黒い点が無数に跳ねているのが見えた。跳ねる点は、車が通過する度に消えてなくなる。
 点、ぺしゃ。点、ぺしゃ。点、点、点、点、ぺしゃ……ぺしゃ、ぺしゃ、ぺしゃ、点。
 それは夥しい数の蛙だった。道路の向こう側に田圃だか沼だか曖昧な繁みがあって、どうやらそこから涌いているようだった。こちら側にも少し小さめの沼っぽいのがあって、きっとあいつらはそこを目指しているのだろう。車に轢かれた蛙はたちまち雨に流されて零になった。もともとなかったかのように。
 洪水頭を堪能しながら蛙の産業道路横断決行を見つめていたら、見るまえに跳べ、とかいう題の小説を思い出す。なにを見るべきかわからないので僕は跳べない。跳ばない。あいつらは――団体蛙のことなんだけれど、何でつるむのだろう。なぜ〈線〉になりたがるのだろう。跳びたい奴は勝手に跳んでいればいいのに、どうして他人を巻きこむのだろう。さらに、なぜいっしょに跳ぶ奴がいるのだろう。同じことをしないとこまる事情でもあるのだろうか。跳び方だってみんな違うはずだし、目指す方向も異なるだろうに。まして他人に洗脳された跳び方なんて気持ち悪い。他人に干渉するのも厭だ。と、こんなことを思うのもすでに干渉の入口に立っているみたいで気色悪い。教条爺みたいだ。独りでいいのに。
 足元に流れてきたちょん切れたちんまい肢に仮借ない雨粒の糾弾が襲う。引き千切れて離散した〈点〉。線、点、そして零。跳ぶんじゃないよ……。
 駅に着いたら、あれだけあった雨雲が嘘みたいに消えて、いきなり今朝のようなピーカンに戻った。駅の構内入口付近で阿呆みたいに立ち尽くす僕はいったいなんなのだ。ひとりずぶ濡れで、いまだに頭から滴り落ちている水。通りかかった女子校生が笑ってる。可愛くもないくせに勝手に笑ってろ。世間の目など、さっきの蛙じゃないが、けろけろぱあだ。おまえらみんな線になって潰れちまえ、などと腹のなかで悪態をついてみたものの、滑稽な濡れ衣装が家に着くまでに乾くはずもなく、鼻筋を通って唇まで流れてくる雨水が馬鹿みたい。自分でも笑っちゃう。
「あら、修ちゃん。どうしたの、そんなに濡れて」
 背後で声がした。呆れ顔した小母さんがいた。いきなり、さっきの悪態はどこへ行ったのか、濡れ鼠の自分が恥ずかしくてたまらなくなる。小母さんは手提げから花柄のハンカチを取り出して僕のおでこや頬や目の周りや鼻の頭を慌ただしく拭く。そのとき、香水かオーデコロンに混じった薬のようなまたは病院に万遍なく漂う特有の匂を微かに感じた。僕は直立不動でなされるままだった。なぜか目が先ほどの女子校生を追ったが、すでに構内の奥に消えてしまったのか、見つけることができなかった。
 歩く度に、底に水を溜めた短靴がぎっぎっと鳴った。薄いベージュをかけた陽傘のなかに白い顔を隠した小母さんが僕の横を歩いている。大通りの鋪道を歩く二人の同じ歩幅と歩むリズム。歩む先に伸びる二つの長い影。すさまじい勢いで上昇するからだの熱が濡れた衣服をじわしじわと乾燥していく。このほとばしる熱は、いきなり返り咲いた午後の唐突な太陽のせいではない。限られた環境からなんら告知なく異空間へと導かれた人間の晴れがましさと、その周囲一帯の空気を独占したかに思える勝ち誇った快感がもたらす自己満足が、僕のすべてを熱くするのだ。まるで丁重にあてがえられたひとりの女を護衛しているかのような錯覚が僕の濡れたからだを昂らせる。
 どうしてだろう。なぜ、僕は小母さんを護衛するなどという妄想に囚われたのだろう。
 爪先から先に伸びる小母さんの漆黒の影がゆらゆらと揺れ、酷く薄く剥がされた皮膚のように、ふわふわと、すでに乾いてしまった地面に浮いている。それは負。零以上に小。小母さんの影がマイナスしている。だからなのか。
 塗料のはぜた雨戸を思い出す。
「お店、休みだったね……」
 陽傘に隠れている小母さんの表情を探れない。返答がない。と、小母さんの歩みが一、二歩遅れる。振り返ると、道にうずくまった小母さんが陽傘のなかに小さく埋もれていた。
「小母さん……」
 いっぺんに、高揚した舞台が暗転し、いい知れぬ不安が僕の浮かれた気分を壊滅した。
「めまいがしただけ……大丈夫よ。ごめんね」
 青白い額にうっすらと汗が滲んでいる。目はとろんとして虚ろだったが、その瞳は僕を力の限り見つめようと努めているかのようだ。しゃがみこんだ僕の首に小母さんの腕が廻って、支えを求めているのがわかった。こういう場合どうすればいいのか。僕は小母さんを衛らなければならない護衛のはずだ。僕は通りに立って急いでタクシーをつかまえ、小母さんのからだを支えて乗せた。
「少し横になればいいの。小母さんの家へつれてって」
 車は五分もかからずに着いた。店の前で車を捨て、小母さんを抱きかかえるようにして裏手の玄関に廻った。手渡された鍵を開ける間ももどかしい。ひっそりと静まった家のなかに冷え冷えとした空気が漂っていた。
 一息ついたのか、玄関の敷居に腰を降ろした小母さんの頬に薄い紅が戻り、目には小さな笑みが浮いていた。
「修ちゃんに助けてもらっちゃったね……」
「大丈夫?」
「修ちゃん、恥ずかしかったでしょ」
「そんなことない。ちょっと驚いただけ」
 小母さんの横に腰掛けていた僕は照れて笑った。そして急に恥ずかしくなった。それは街なかで起きた突然の出来事にではなく、抱きかかえた小母さんのからだの感触がにわかに蘇ったからだ。予想もしていなかった出来事を理解しきれないまま、僕は小母さんの重みと直な匂を手にすることができた。ひょっとすると、それは、小母さんの具合を心配する以上に、僕の望んでいたことではなかったのか。
「修ちゃんは優しいのね……」
 そういって、小母さんは僕の濡れた髪を撫でた。そして、その掌はそのまま頬に下がって止まった。だから僕は自分の熱とともに小母さんの熱をも感じることができた。が、小母さんの熱は驚くほど些細だ。僕との熱の差がそう感じさせるのか、それは冷めた微熱だった。瞬間、極めて容易に僕の手は伸びた。掌が小母さんの頬に静かに重なる。小さな頬。小造りな鼻と少女のような淡い桃色の唇。黒い瞳。小母さんはこんなにも小さかったろうか。僕の知っている小母さんは、颯爽として、いつも付録をくれる快活な人であったはずだ。なのに、ここにいる人は違う。ひ弱く細い。いとも簡単に僕の掌のなかに吸いこまれていく。
 小さな廊下の入口にどこからか西陽が射し、輪郭を茜色に溶かした僕と小母さんがいた。ずいぶん長い時間が過ぎたような気がしたが、それはほんの一瞬であったのかもしれない。

「呑め。ほれ、たらふく呑め。修一」
「食べな、修一。牛よ、牛、食べな」
「母さん、やめてよ。そのいい方」
 いわれなくともしっかり呑んでます。食べてます。
 三人は卓袱台のすき焼きを囲んでビールを呑んだ。もうすぐ夏だというのに、ご丁寧に鍋の用意までして、汗だくで食べた。父も母も出張先で肉はたっぷり食べてきただろうに、僕につきあってる。無理したってしょうがないのに。可愛い振りして。
「母さん、金魚どうだった」
「まあね。金魚の糞とはよくいったものだわ。いやというほど見てきた」
 まったく。止めてほしい。食事をしているときに。こんなんで母はエッセイなんか書けるのかしら。読む人の気が知れない。それでもそれなりに売れっ子なんだから不思議だ。どうせ暇潰しに読まれているだけなのだろう。僕も母さんのエッセイを何度か読んだことがあるが、母さんはあざといと思う。時々源氏物語の夕顔とか登場させて女性読者の気を引いたりしている。この間なんか、上田秋成を引っぱり出して、待つ女、なんて書いちゃったりして、父さんを待たせているのは母さんのほうじゃないか。白々しい。
「どうでもいいけど、おまえ、ずいぶん缶ビール空けてくれたわねえ。冷蔵庫すかすかじゃない」
「あっ、そう? どうせ僕が調達するんだから母さんが気にすることないのじゃない」
「そりゃそうだ」父がいった。
 父の仕事は順調に運んだのだろうか。不景気風が吹き荒れて世間一般は元気がない。国は経済の立て直しに全力投球のはずなのに、悪辣な役人ばかりで遠廻りしているし、相変わらず酷い事件も頻繁におきている。世界は不安定で無意味なテロや戦争も相変わらずつづいている。
「父さん、仕事うまくいったの?」
「牛のよだれ」
 それなのに、父はわけのわからないことをいう。
「そうそう、牛、牛よ」
 母は楽しそうに鍋の肉をつついている。我が家はいたって平和だ。大した事件もユニークな出来事もない。傍目から見れば、でき過ぎている優等生家族だ。ところが、父は不景気のなかで喘ぎながら小さな設計事務所を営んでいる中小企業のおっさんで、ひとり息子と酒を呑んでるし、母はエッセイストなどと聞こえはいいが、所詮原稿用紙何枚で幾らの物書き商売だ。いずれ小説を出すなんてほざいているが、こう年がら年中旅ばかりしていたのではいつのことになるやら。それに加えて入学して間もない僕はしょっちゅう学校をサボってる。優等生家族というより不良家族といったほうが的確だ。僕が好きなのは、父も母も他人に干渉しないことだ。だから親戚つきあいも皆無で、墓参りなんかも父と母のペースで適当な季節に僕をつれて行く。つきあいがないから親戚の悪口も愚痴も届いてこない。したがって揉め事もない。遠の昔に先祖代々の家系図は僕の家から消えているのだ。
 その夜、両親は旅の疲れか、食事の後、早々に寝てしまった。卓袱台の上にはビールの空き缶や食い散らした鍋が雑然と取り残されていた。それは、先ほどまでの宴の名残りを漂わせ、僕に家族の確かな存在を知らしめ、食べることの意味を教えてくれる。家族の食事。団欒。親しい者達が車座に円く集う。団も欒も丸の意味だ。卓袱台は父の企てた巧妙な仕掛けなのかもしれない。僕はその団欒の名残りをかたづける。鍋に水を当て、食器を洗い、空き缶をゴミ袋に捨て、かたづいた父の企みを台拭きで何度も拭く。そして丁寧に折り畳み、リビングの隅に立てかける。卓袱台の円い顔は自慢げに輝いているのだった。
 本を読む気にもなれず、十時を少し廻った頃、ズボンのポケットに桃山を忍ばせてTシャツ一枚で外に出た。あてもなく街燈の少ない夜道をぶらりと歩く。淡色に咲く紫陽花の塊が路地の所々暗闇に浮いて夜の滑走路を思わせる。紫陽花の花言葉は〈冷淡〉だというけれど、ぴんとこない。むしろ、控え目で淑やかな女の人を感じる。それは母とは違う。母はどうみても真黄色な向日葵だ。向日葵の花言葉は〈高慢〉。ちょっと辛辣かな。……小母さん。紫陽花は小母さんだ。でも、紫陽花はどこか病的なものを感じる。季節のせいだろうか。それとも今日の小母さんを見たから?
 突然、閃光が一本、右手の路地奥に走った。一瞬、手を取り合った二つの影が暗闇に浮いて消えた。つづいて、なにかが鈍い音で落ち、二つの黒い影が激しくもつれると、短い呻き声が漏れて影のひとつが地面に沈んだ。倒れた影を長い影が執拗に蹴っている。
「もうやめて!」振り絞るような絶叫が闇に響いた。
 僕の足は竦んで動かない。影は確かに嘉夫と先生だった。
「いい加減にしとけよ」吐き捨てるような怒気を含んだ低い声。あれが十代の人間の声だろうか。嘉夫とは別人のように思えて、僕の恐怖は増幅する。
「訴えるぞ……」絞り出すような声が地面から這い上がった。
「やってみろよ。とことん追ってやる。腹を括れよ」
「畜生……」地に伏した影が再び悔しそうに呻いた。
 ライターの火が点き煙草の先が赤く灯る。くわえ煙草の嘉夫と先生が近づいて来た。先生は寒さに震えるかのように怯えている。唇が真青だ。嘉夫は僕を見つけるとなに食わぬ顔でいった。
「修一、こんなとこでなにやってるんだ」
 僕の足は竦んだままだった。

 駅前は少しの賑で寂しい明りを灯していた。不景気のせいで活気がない。客待ちのタクシーが長い列をつくり、飽いた運転手達が車から出て立ち話をしている。最終電車の時間ともなれば掃けていくのだろうが、近頃ではバスのある時間に間に合わせて帰宅する人間が多かったので、あてにはならない。
 駅の構内はがらんとしていた。隣接するコンビニの前に数人の高校生が屯していたが、嘉夫を見ると慌ててうんこ座りの腰を上げて店の奥に隠れていった。三人は、駅から二十メートルばかり離れた商店街のアーケードにもぐりこみ、中程にある居酒屋の小さな暖簾を掻き分けた。店は閑散としていた。二、三の卓が埋っているだけで、客の声も囁くように聞こえる。三人は店の入り口から一番遠く離れた卓に着き、嘉夫は馴染みなのか、まだなにも注文をしていないのに店員の若い女が瓶ビールを二本とグラスを三つ卓の上に置くと厨房の奥に戻っていった。
 先生の唇の色がまだ回復していない。目は怯えたままだ。僕の膝小僧も小刻みに笑っている。嘉夫だけが何事もなかったかのようにニヤけ、乱暴に注いだビールを一息に空けると吐き出すようにいった。
「しつこい野郎だ。しかたがなかった……」
 それは自分の行なった暴力へのいい訳のようにも取れた。平静を装いながらも、相手の腹を幾度も蹴り上げた鈍い感触がいつまでも払拭しきれずにいるのだろうか。嘉夫はたてつづけにビールを煽った。僕の目の前に並んで座っている二人は、雨の夜に舞いこんできた二人とは既に違っていた。もっともっと、僕には見えない何者かの影に追い詰められているように思えた。けれど、何事かと嘉夫に問うても、お前には関係ないと返ってくるに決まっている。いくつも歳の差なんてないのに、同じ十代なのに、嘉夫と僕は絶対の差で存在している。先生の存在がそうするのだと思う。先生の出現が僕の位置を知らしめるのだ。二人の間には、幼い僕には到底踏みこめぬ、目には見えない境界線がある。
 ビールの泡が消えてしまった気の抜けた手つかずのグラスが、先生と僕の前にあった。
「修一、お前あんなところでなにやってたんだ」
 僕はグラスを一気に呑み干した。手が震えている。きっと僕の顔は先生に負けないくらい蒼冷めているのだろう。
 嘉夫は慰めるようにいう。
「ひどいとこ見せちまったな。修一は喧嘩なんかしたことないものな」
 僕のことなどどうでもいい。先生を慰めたらいいのに。僕は先生を衛れない。衛る権利を貰えないのだ。先生の目はそういっている。悔しいけれど、僕はただおろおろするだけの、臆病で、少しの責任も義務も負えない幼い子供に過ぎないのだ。
「どうして……」
 やっと出た言葉はどんな意味もなく、途惑いを露にしただけだった。それでも、つづけていわずにはいられなかった。それは先生を意識した背伸びであったかもしれない。
「嘉夫さん、なんだかいけない。先生がかわいそうだ。それに小母さんのことだって……」
 僕はそれきりうつむき落ちはじめた涙を二人の視線から隠すしかなかった。昂った感情が涙腺のコントロールを失い、具合の悪い小母さんを放っている嘉夫に対し小さな正義感が涌いたのだろうか。客の囁き声が、聞き取れない言葉のノイズとなって、熱した鼓膜に入りこんでくる。
「たいしたことじゃない。少し煩わされているだけだ」
「じゃあ、どうして写真なんか撮られてるの? 前にも先生は駅で撮られていたじゃない」
 はっと見開いた先生の目があった。
「知ってたのか」先生の横顔を見つめて嘉夫がいった。
「修一さん、隠していたわけではないの。これは私達二人だけのことなの。だから内緒にしていたことをどうか許して」
「先生が謝ることない。ただ、二人がなんだかとても辛そうなのがわかるんだ。わけなんか聞かなくてもいい……」
 先生、貰い泣きなんかしないで。
「修一、呑め。今夜のことは過ぎたことだ。この間みたいに楽しくやろう。今夜は俺のお返しだ。店は馴染みだし心配ない」
「そうね。修一さん呑もうか。私も先生、失格しちゃってるし」
「余計なこというんじゃねえよ」咎めた嘉夫の目が細く笑っていた。
「修一さん、当ててみようか」
 なにをだろう。先生の藍い瞳が謎めいた優しい笑みを浮かべて僕を見つめている。嘉夫の燻らせた煙草が煙い。
「嘉夫さんのこと、大好きでしょ」
「うっひゃー」嘉夫が大袈裟な声を発した。
「勘弁してよ。修一、俺のこと愛してんのかよ。それじゃ彼女できねえや」
 火が出る思いだった。
「先生って見掛けによらず意地悪なんですね。僕の好きなのは……」
「おっ、誰だ。いってみろ」
「教えて」
 それは、僕にもわからない。僕の世界のなかで、女の人を意識できるのは、母と、先生あなたと、そして……。
「教えません」そういって僕は桃山をズボンのポケットから取り出した。銀色の蓋を開けると刻みの仄かな甘い匂が漂った。先生が興味深げに見ている。すると、
「俺は刻み煙草じゃない」
 嘉夫がぽつりといった。
「匂なんかなにも持っていない。あざとく、こうだと決めない限り、なにもないと同じだ。あれもこれも、価値だ有意義だと強引に決めこまない限り、全部ないと同じ。だけど俺には決める筋合いが見つけられない」
 ぱちっと音を立て、嘉夫の指に挟んだ煙草の火がはぜた。先生は嘉夫を見つめていた目をそっと伏せる。僕は嘉夫の投げ遺りに反論できない。僕だって跳べない点なのだから。
「理由なんかないのさ。すかすかしてて、食欲がわかないだけだ」
 そういって、嘉夫はビールの泡に煙草と酒で白く荒れた舌を入れた。僕は嘉夫の翳った顔に表われた微かな苛立ちを感じ取った。嘉夫の荒んだ放擲の理由は見つけられなかったが、いい知れぬ憂鬱は伝わってきた。嘉夫もまた正体不明ななにかとのギャップを抱えていることを察した。心の飽食と拒食は虚無を産む。精神の飽和がいずれなにかの破壊へと向かう。とすれば、嘉夫はなにを破壊するのだろう。そこには最も短絡的な自己破壊が待っているのではないのか。
 僕は思う。
 復活とは、古き王を殺して後、新しき王が誕生することだという。となれば、生きようとすることは、自分を支配する古き王を殺すことではないか。嘉夫が漠として探し求めているものは、自分自身の古き王であるかもしれない。では自分を支配する古き王とはいったい何者なのだ。それは、僕自身にも当てはまる、共通した懸案事項ではないだろうか。摂取できない肉体、または脳があった。
 僕は三人で聴いた雨の日のビートルズを思い出す。

 Hey Jude don't make it bad,――悪くは考えるなよ、なあジュード。
 そして先生は「……ねえあなた、私を抱きしめてくれればいいの。ただそれだけなのに」と歌っていた。

 水曜日の午後。朝からつづく糠雨。二階の教室の窓から望む空豁とした風景が薄墨色に霞んでいる。酷い轍の後を残す糠るんだ校庭に二、三の傘が浮いて、深海の水母のごとくふわふわと校門の方へと去っていく。もうすぐ、ひとつひとつの雨ごとに、本格的な夏がやってくる。単に季節の移ろいに過ぎないはずなのに、意図的に、好都合な自己の物語を過剰に期待する夏。一方、眠れない欝とした退屈を青い汗とともに涵養する蒸した永い夜。朱の夏がやってくる。
 全授業が終えて教室を出たら、春海先輩が僕の行く手を遮った。くにゃくにゃ腰をしならせ、真赤な舌をちょろりと見せて、「はい、お待ちどうさま」と春海はいった。なんでしたっけと僕は惚けたが、春海はおかまいなしに腕を取って半ば引きずるように僕を連行する。
「はい、はい。そうでした。親睦会でしたね。わかりましたから手を放してください」
 それから……。
 僕は最後の龍潤を疾走していた。
 深夜、糠雨は豪雨となって寛仮なくすべてを叩きつけていた。恐ろしい雷鳴が轟き、あちこちでこれ以上ない最大の輝きで蒼白の稲妻が閃いている。走り抜ける車もわずかな産業道路の路面を大量の水が流れて僕を追う。傘など強風にさらわれてとっくに失くしていた。狂風が自転車のバランスをひっきりなしに弄ぶ。
 濡れた足がペダルを踏み外した。ハンドルをとられ、前輪が進行方向に逆らう。右肩から落ちて自転車もろとも水の流れる路面を数メートル滑走する。左足大腿部の上に車輪ががつんと乗り上がり、ようやく停止。口元に生温いものを感じたので手を当てると、ぬるっとした感触。赤く染まった掌が稲妻の閃光に照らされて、あ、鼻血だわ、と少し侘しくなった。不幸中の幸、車が走っていなかったから僕は点蛙にならずに済んだものの、親睦会なんてなんなのさ、と春海を恨めしく思う。結局、先輩達の都合のいいネルトンじゃないか。こんな時間までつきあわされて、演劇部なんて絶対に辞めてやる。
 もうバスがないからと、先輩達が女子校生から調達した自転車の一台を借りて、僕は豪雨の真只中を走っていたのだった。その自転車は見事にお釈迦になって、今や厄介なお荷物だ。捨て去るわけにもいかず、騙し騙し押しながら歩く。止まらない鼻血が喉に溜まって、たまらず呑みこむ。流れ落ちる鼻血を吹きつける雨水がさらに勢いづけているようで気持ち悪くなった。濡れ鼠のせいで寒気もした。悲惨さはこの上ないなと自分を慰める。
 女子校は僕の学校から一キロ先の産業道路の並びに在った。だから、このまま進めば僕の学校に出る。そこでいったん休憩しよう。毀れた自転車も学校に置いておけば済むし、いい訳は癪にさわるから春海先輩に押しつける。ついでに、こんな倶楽部辞めてやる、なんていったら、先輩達どんな顔をするだろう。たった五人しかいない部は壊滅状態だ。もっとも、先輩達は公演なんかやる気ないから、僕以上にけろけろぱっぱなんだろうな。そこが演劇部のいいところでもあるのだけれど。
 正門に出るのが面倒で裏手の運動場に入った。校庭と同様に糠っていた。暗闇の遠くに小さな灯りが見える。あれは実習室の外燈だ。裸電球に申し訳程度の傘を差して、時々役目をサボっている。そうなると、僕の行く手は真暗闇になり、ただ激しい雨音だけが集中した。思い出したかのようにまた稲妻が光る。雷鳴が轟く。判然としない糠るみのなかから突然得体の知れない鬼怪が飛び出してきそうで心細くなる。が、僕は今のところ女の人に恨まれるようなことはしていないので鬼怪は現われぬだろうなどと、戯けたことを考えながら自転車を押す。廻転しない前輪のせいで思うように進まない。途中で、置き去りにしてしまおうかとも思ったが、我慢して運んだ。
 やっとの思いで実習室に辿り着いて短い軒下へと雨から逃げた。ところが、外燈が灯ったり消えたりで落ち着かない。実習室の棟の向こう側に廻れば我が演劇部の部室がある。一刻も早くからだを休めたかったので、すぐに部室に向かった。
 部室は立派に独立した木造の一軒家だった。周囲におおらかな空間を保ちつつ、まるでお伽話に出てくる小人の住むハウスみたいな三角頭の屋根を戴くスペース三畳ほどの建物だった。降りしきる雨のなかに小さな黒い塊でぽつねんと在った。建物には戸がなかったので、入り口は打ち捨てられた洞窟のようにぽかんと口を空けている。自転車を部室の壁に立てかけ、二段ほどのステップを昇ってなかに入った。裸電球のスイッチをひねると三十ワットの灯りが内部を曖昧に照らした。部室とは名ばかりで、それらしいものはなにもない。電気椅子のごとく厳しくも不気味な椅子がひとつあるだけだ。それは部室の真中にでんと据えられて動かしようがない代物、旧式の理髪用椅子なのだった。僕が入学する寸前の学年まで、生徒は全員坊主頭を強要されていた。だから僕の入学記念写真はみな坊主頭で写っている。僕だけが長髪だ。入学してから長髪可を知らされた先走った奴らは、愕然とし、慌てて髪を伸ばしはじめた。だから奴らの髪は妙に中途半端な長さで、まだ形が決まっていない。つまりここは、不用になってしまった、校則に違反した者や散髪代を惜しむ生徒のための理髪室であったわけだ。罰則覚悟で伸ばした髪が、泣く泣く安物のバリカンで刈り落とされてしまった、生徒達の怨念が汗臭く漂う部屋なのだった。
 電気椅子に腰掛けて、からだの様子を調べた。胸から腹にかけて夥しい血がYシャツを染めている。その色は雨に濡れたせいか薄くなって淡い桃色に変色していた。左腿部分のズボンが裂けていて、そこからもどす黒い血が流れている。ズボンの裂け目を開いてみると、腿に直径一センチ幅程の穴が開いていた。多分、自転車の鋭利な部分が刺さったのだろう。鼻血は倒れたときに路面に打ったのかもしれない。今になって鼻から頬にかけて痛みはじめた。幸い、鼻血は治まりかけているようだ。
 電気椅子の背凭れを四十五度の角度に倒し、天井の裸電球をぼんやりと見つめた。戸のない入口から風と雨が吹きこんでいたが、雨は足下の寸前に落ちて痛んだ床板を濡らしている。もうこれが最後だとばかりに降りしきる雨の音を聞いていたら、ここのところ雨に濡れてばかりいるなと何気なく思った。と、ひとつの言葉が妙な感じで頭に浮いた。泣き雨。こんな言葉が実際にあるのかは知らないが、人が死んだときに降る悔やみの雨だと、昔、誰かに教えられた。母だったろうか。誰かが死んだのだろうか。それとも、これから死ぬのか……そんなはずはないなと朦朧としてきた頭で思う。一秒一秒、毎秒ごとに誰かが死に誰かが生れているのだ。そうなれば、雨は毎日降っていなければならない。母の話はやっぱり当てにならないなと漠然と思う。
 瞼が重い。薄目を開けたら入口の外に視線が移った。三十ワットの明りに照らされた雨の銀糸が暗闇に垂れ下がるレースのカーテンのように見えた。おや。その向こう側を誰かがふわっと駆け抜けたような。白いブラウスに丈の長目のスカート。女のように見えた。気のせいだろう。こんな時間に、こんな所に、人などいるはずがない。瞼が完全に閉じる。微睡と束の間の夢寐。
 ……なにかが足を掠めて目が醒めた。重い首をおこして足下を見たら、鼠色の守宮が床にへばりついていた。こんな見捨てられた家を守ってもしかたがないのに。野良猫に喰われるんじゃないよ、と思ってみても通じるわけがなく、守宮はへばりついたままだった。
 それからも何度かうとうとしては寒気で目が醒めた。雨音が止んでいる。腕時計は一時を過ぎていた。僕は痛いからだを電気椅子からおこして糠るみに足をとられながら運動場の水場へ出た。痛めた鼻と頬の血を水で流し、ついでに破れたズボンの上にも水を流して腿の傷穴を洗った。痛みがしみる。散々だ。
 産業道路に出て五分程歩いてから公衆電話に入った。
「学校の近くにいるんだけどタクシーで帰るから玄関にお金置いといてくれる……うん。すぐつかまると思う……うん。わかった」
 電話に出たのは父だった。ちょっと心配していたが、母と呑んでるから早く帰ってこいといっていた。父の自慢の仕掛けがずいぶんと活躍してる。片づけるのは僕だけど、うれしいと感じる。毎日活躍してくれればいい。そうすれば、僕は毎日、父の自慢を台拭きで磨くだろう。四本の脚を丁寧に折り畳むだろう。真夏になれば、ジョッキーからこぼれ落ちたビールの泡を、僕は何度も拭き取ることだろう。母だって、父の自慢をとっくに見抜いているはずだ。旅の途中の列車のなかで、旅先の寛ぐ宿で、旅をする度に、母は父の自慢を思い出し、父の元に早く帰ろうとするだろう。円い宴。まあるい家族。もう夏なのだった。

 林の梢がわずかに騒めき、小さな風を知る。蝉吟が絶え間なく時雨れ、蒼穹を隠す濃緑の葉が真夏の陽を遮る。全身に濃い翳が落ちていた。緩慢に過ぎていく時間と退屈な夏休み。近所の公園のベンチで、虚ろに、無思考に、僕はかなりの体たらくで惚けていた。母は祭の取材で宮崎へ行くのだと、その下調べに取りかかっていたが、まだ一週間あるからとのんびりかまえている。今度はえびの市の牛越祭だというから呆れる。罰当たりな母だ。その足で高崎町に周って星を見てくるのだと柄にもないことをいっていた。エッセイストとは無邪気で貪欲で、逞しい気力と体力を要するのだと、その名称の響きに反し、あじろし大変なんだと徒然に思う。せっかく夏休みになったのだから、アシストに僕をつれて行けばいいのにと思うが、そう都合よくもいかない。一方、父はここのところ忙しい。大きな養鶏場の新設に関係してその鶏舎と諸設備の設計に追われている。久し振りの大仕事に若い設計技師達も喜々とし、父といっしょに毎晩遅くまで事務所に詰めている模様だ。何よりだと思う。
 惚けた僕にこれといった行事はない。演劇部の再度の親睦会が予定されていたが無視した。湘南海岸で親睦会だなんていったいどういうつもりなのだろう。春海にねちっこく迫られたが、休みに入ってしまえばこっちのものだった。さすがの先輩もわざわざ家にまでは押しかけて来ない。所詮、頭数を揃えるための方策に過ぎないのだし、それにグループ交際なんか今どきなんだか恥ずかしい。ましてや、最初から浮いてしまう僕なんかいてもいなくても同じ事だ。退屈が二乗にも三乗にもなるのが関の山なのだ。そんな自分が偏屈だと思うが、そうなのだからしかたない。
 ベンチの上に投げ出された雑誌ユリイカが風に頁をめくられている。マニエリスム特集だったので先日デパートの書店で買った。湘南海岸で薄い胸を晒しているよりも、マニエリスムの傾斜した世界に浸る快感のほうがどれだけ僕の心を満たしてくれるか、曖昧で未熟な理解ではあったが、それは他と比較しようのないほど僕のなかで次元が異なっていた。絵を美術館で観るよりも印刷された画集を孤独の内に味わう快感を選びたいのだ。それは、造園しない庭園の設計図を描くようなもの。正当な目的にではなく、キルヒャーの盗聴機のように、ひょっとしたら有り得て、あるいは有り得ない、ひたすら仕掛けのみ享楽する行為。夢想、コンチェット、そして、寄せては返す碧海の白砂の上を移ろう永遠の潮水のように、繰り返す間歇的憂鬱と退屈が、僕の生来の気性なのかもしれない。換言すれば、自分でいうのは可笑しいが、つまりは気分屋であるということなのだ。
 頭上の梢が騒いで幾重もの葉が揺れると、木漏日のなかを一羽の尾長が飛び去っていった。

 お客様へ。都合により暫く休業致します。店主。
 
 それはいたって無造作に貼られた小さな貼紙だった。痛みかけた鈍色のシャッターに貼り出されて一週間が過ぎていた。サインペンで書かれたであろう黒い文字が、瞬く間に夏の陽に焼け、すでに灰色に褪せている。貼紙を縁取った幅広のガムテープが、乾いて半ば浮き上がり、殺伐とした気分をさらに増す。
 僕は毎日、一日も欠かさずこの貼紙を見にきた。日に二度三度のこともあった。素っ気ない短文を理解しようと、炎天下を永い時間立ち尽くしていたこともあった。しかし、誰が書いたのかも理解できぬまま、その小さな貼紙はいつまでも貼り出されていた。ユリイカを片手に今日もまたシャッターの前に立っている。白いTシャツの背が濡れていて、額の汗が目に流れた。夏草が店と道路のアスファルトの段差に小さく伸びている。背後を駆け抜けたバイクのエンジン音が蒸した空気を撹拌して暑苦しい。
 僕は怯えていた。怖かった。幾度も玄関のチャイムを押すことができなかった。裏手の玄関に廻る度、小さな玄関のドアの前に立つ度、極度の不安が僕を襲った。そして、僕は、不安の内容を知らぬ振りして、実は明確に知っていた。脳裡に、陽傘のなかに屈んだ小さな小母さんの姿が執拗に現われ、その度に一瞬息を呑み、あたかも心臓の鼓動が停止したかのように、僕は仮死を繰り返すのだ。たとえチャイムを押せたとしても、誰も現われないでくれたほうが、どれだけ僕を安心させてくれただろう。閉じ切った家に健康が存在しないことなど、わかりきった事実なのだから。
 それでも、結局僕は白くて小さなチャイムのボタンを押す。
 その透明な音の葉は、漂白された真晒な木綿のシャツのように夏極限の空気に翻える。このまま走り去りたい。チャイムは頑是無い子供の悪戯だったと逃げてしまいたい。急き立てるようにあちこちで蝉が啼きはじめる。そのとき、まったくの瞬間、僕は重力を失った。そして、はっきりと自覚した。この浮遊して止まない気持ちの名称を。
 ドアの向こう側で微かな物音がした。つづいて細い声。
「どなた?」
「僕……修一」
「あら」
 少し間があってドアが開いた。僕はおずおず覗く。大儀そうに上がり框に腰掛けた小母さんがいた。
「ごめんね。こんな恰好で。外、暑いでしょ」
 緩慢な動作でおいでと手招きする。
 家のなかに入ると、ひんやりとした空気が汗たからだに触れた。廊下に上がり、小母さんの後について和室に入る。以前に二人でハヤシライスを食べた部屋だ。ずいぶん昔の出来事のように思えて懐かしい。硝子戸の向こうに店のなかが見えた。冷房がそこまで届いていないのだろう、篭った熱気を感じる。
「修ちゃん、久し振りね。あのときは有難う」
「小母さん、大丈夫?」
「だらしないわね。夏バテしちゃった」
 お道化た振りが不自然だ。頬の肉が心持ち落ちて、目にも力がない。見る目がどこか遠くを見ているようで、僕はなんだか落ち着かない。食事はしっかり摂っているのだろうか。医者に看てもらっているのだろうか。……嘉夫は。嘉夫は小母さんの具合の悪い事を知っているのだろうか。こんな小母さんをひとりにして、嘉夫はいったいどこへ行っているのだろう。
 僕はもう嘉夫を当てにすることを止めようと思う。それは多分小母さんも同じだろうと、半ば強引に半ば自分勝手に僕はそう決めこむ。むしろ、今の嘉夫は小母さんの神経とからだを苛む存在であり、小母さんを捨てた張本人なのだ。状況はどうあれ、嘉夫は二者択一のなかで先生を選んだ。それは非難されることではなかったし、誰も阻止できることではない。けれど、僕が思うに、嘉夫がなぜあえて二者択一の方向に進んだのか、そこの部分が理解できない不可解な事だった。僕の父のように、嘉夫も嘉夫自身の卓袱台をひとつ用意すれば済むことではなかったのか。僕が小母さんを衛ろうと思う。僕が小母さんの卓袱台を用意しようと思う。誰も咎めはしないだろう。そしてなによりも僕は小母さんの本屋が好きなのだ。この小さな店にマニエリスムの本を一冊でもいいから置いてみたいと願うのだ。嘉夫のように唐草模様の風呂敷を担いでみたいと夢想するのだ。
「お店はずっと休むの?」
 小母さんが作ってくれたアイスコーヒーを一口、さも思い出したかのように訊ねた。
「そうね。からだの調子が戻ったら……」
 嘉夫は当てにならないし――その言葉がつづいてほしかった。しかし小母さんは僕の意に反して静かに微笑むだけだった。壮大な企みがたちまち頓挫する。
「修ちゃん、夏休みでしょ。どこか行かないの?」
 閃いた。この機会を逃してはならない。小母さんの一言が僕の企みの方向を見い出す。
「ねえ、小母さん。僕、アルバイトしたいのだけど……」
「あら、なんの?」楽しげに小母さんが小首を傾げる。
「ここで……」
 理解しきれずに傾げた首が戻らない小母さん。
「僕、お店を手伝いたいんだ」
 からだ中が燃えるようだった。部屋のすべての形が消えて小母さんの姿だけが目に入っていた。けれども、僕が一番いいたかったこと。小母さんを衛りたい、とはどうしてもいえなかった。
「修ちゃん、ありがとう」
 頬に桜色さした小母さんが眩しい。見つめる瞳をたええられない。小母さんの目は僕の気持ちを見抜いている。僕にはわかる。その目は先生と同じだ。幼い子供を見る目。僕は僕自身を見る。いつも背伸びしている自分。頭でっかちな退屈を気取る小生意気。怠慢な高校生。甘やかされたひとりっ子。世間知らずのそして偏屈なちび餓鬼。どこをどう見ても、僕は小便臭い餓鬼なのだ。ユリイカが白々しい。
「修ちゃんにできるかなあ」
「やります。途中で抜け出したりしません」
 小母さんが笑っている。元気な声を出して笑っている。僕もうれしくなって笑った。溶けかけたグラスの氷をからから廻して笑った。思っていたより元気そうな小母さんを確認できたことに、僕は安堵した。けれども、ときおりふと伏せる小母さんの目には、いい知れぬ深い翳が宿っていたように思う。
 外は執拗な夏の陽に溢れ、午後のアスファルトに陽炎がゆらゆらと揺れていた。

「いらっしゃいませエ」
「1200円ちょうだいいたします」
「カバーおつけしますかア」
 その夜、僕は二階の自室でシュミレーションに耽った。何度も大小の本でカバーのつけ方を練習した。レジを打つ振りをした。本にハタキをかける真似もした。
「ありがとうございましたア」
 幾度も幾度も腰を曲げて頭を下げた。
「おまえ、なにやってんの?」
 頭を上げたらそこに母がいた。ノックぐらいしろ。しかたがないから説明した。そうしたら珍しく早めに帰ってきた父も二階に上がってきて、母といっしょにシュミレーションにつきあいはじめた。
「最近出た損しないで儲かる本ってのある?」父がいう。
 あるわけないでしょ。
「旅はお情け世は深情けってエッセイ集ある?」母がいう。
 自分が書いたエッセイだろうが。
「はい。消費税を入れて1000円です」
 おっそうかいといって、父はズボンのポケットから抜き出した皺くちゃの千円札を僕に手渡す。それを僕は丁寧に両手で受け取る。
「ありがとうございましたア」
 皺くちゃの千円札は僕のポケットにしっかり収納。見事なシュミレーションだと自分でも感心する。父も母もやんやと拍手喝采。僕ら家族には卓袱台なんて必要ないのかもしれないとつくづく思う。
 後はお決まりの卓袱台宴会になって、途中で思い出したのか、千円戻せと父が喚いたが、けちなこというんじゃないのと母が窘めて丸く収まる。本当は小遣いのつもりだろうに、シャイな父さん。
「母さん、知ってる?」
 僕は調子よく呑んでいた母にいった。
「何があ」母はとんがらせた唇を僕の目の前に近づける。
「母さん、グーテンベルグの聖書って知ってる?」
「そのくらい知ってるわよ。あれでしょ、ほらあれ。ねっ父さん」
 なんにもわかってない。父も、だからどうしたといった顔をしている。
「グーテンベルグが印刷した聖書に、紙の物と仔牛の皮で作った物があるんだ。でね、仔牛皮紙はヴェラムっていうんだけど、三十五部作ったんだって。その三十五部のために仔牛が六千頭も必要だったんだって」
 ……さっ呑もう父さん。そうだね母さん。
 僕は母さんの今度の取材に少しでも役立てばと思ったのだ。思った僕が馬鹿だった。この手の話題は二人に通じない。
「それじゃ聞くけどさあ」勝ち気な母がいきなり逆襲してきた。
「マグダラのマリアって、おまえ知ってる?」
 母は僕を横目で見くだすようにいった。ふん、あんたにわかるものかといった顔だ。僕をいったい何者だと思っているのだ。聖母マリアはマニエリスムにとっても大いなるテーマのひとつではないか。母は聖書と聞いて単純に聖母をイメージしたのだろう。僕が工業高校に入れられてしまった原因がよくわかったような気がする。
「もうひとりのマリアといって、イエスの復活に立ち合った唯ひとりの女性じゃないか。マグダラはガリラヤ湖西岸の都で、そこでイエスが女のからだに宿った七つの悪鬼を追い出したんだ。それ以来、女はイエスに従い、イエスが復活したときに、この女をマリアと呼んで、それでマグダラのマリアになったんだ。ルカ福音書さ」
 母の視線が軽蔑に満ちている。父は我関せずと酒を呑んでいる。
「右脳がゼロね。それって教科書の知識じゃない。そんなことは百科事典をひっくり返せば、すぐにわかることなのよ。資料は五万とあるんだから。あんたは、その知識に基づいた、あんた自身の言葉をいうべきなの。なんにも想像してないじゃない。近ごろの政治家とおんなじで想像力ゼロだわ。あたしは、マグダラのマリアにあんたがなにを思うかを聞きたかったのよ」
 僕はビールのグラスを握り締めたままうつむくだけだった。
「母さんは父さんのマグダラのマリア。この命題、今のあんたに理解できないわね」
「俺にもわからん」
 父がいうと、母が大笑いした。それから母は僕の頭をぺんぺんぺんと三度叩いた。母とのディベートは苦手だ。必ず〈女〉が出てきて僕を煙に巻く。きっと父はその事を知っていて母には口応えしないのだろう。さっさとわからんと答えてしまうほうが最善の策なのだ。僕もいつかそうなるのだろうか。

 野鳩のくぐもる啼き声が朝霧の白く靄う道に聞こえて、僕は目醒めた。まだ陽の出はじめたばかり、ひと夜の空気が窓から入りこみ僕の素肌を冷やす。まるで小学生のときに体験した林間学校のように、ひんやりとした夏の冷気が満ちる朝。窓の下を新聞配達のバイクが走り抜けて行く。遠くでは犬が吠えている。僕は今日から本屋の店員だ。
 店の時間まで間があったので、昨夜そのままにしておいた卓袱台を片づけるために階下に降りた。汚れたままの卓袱台を見たら昨夜の母の辛辣な言葉を思い出した。悔しかったけれど、その通りだと感じた。FMをかけた。リビングにチェンヴァリンの音が流れる。僕の新しい朝にふさわしいバロック音楽。水道の水が勢いよく落ちる。卓袱台がぴかぴかに輝く。掃除機が心地よく唸る。いつの間にか混じる鼻歌。僕はご機嫌だ。
「水」
 いつの間にか母がリビングの入口に立っていた。神出鬼没の母が眠そうに目を霞めている。
「はいはい」
 僕は冷蔵庫のミネラルウォーターをグラスに注いで母に手渡した。母は腰に片手を添えて一気に呑み干し、水が一番だわといって僕を抱き寄せた。そして、
「あんたねえ、好きな子でもできたの?」といった。
 息が詰まった。母の大きな胸も息苦しかったけれど、それ以上に母の唐突な質問に僕は驚いた。どうして女の人はこうも勘が鋭いのだろう。先生も小母さんもそして母も、いとも簡単に僕の気持ちを見抜いてしまう。僕はまるで裸で歩いているみたいだ。
「別に……」
「そんないい方、答になってないじゃない」
「ほっといてよ」
「強気ね。じゃあ、母さんとどっちが美人?」
 抱き締めた腕に力が加わる。苦しい。
「母さんに決まってるよ……」
「ほおらね。やっぱり彼女できたんじゃない」
 父さんにも教えてあげよっと。いいながら母はリビングを楽しそうに出ていった。自分の子供を遊びのだしにしてどこが楽しいのだ。折角の気分いい朝が台なしになった。おおい、修一、頑張れよ。廊下の奥から父の大声が響いてきた。
 それでも、昨夜、母は酔いながら僕のYシャツとハンカチにアイロンをかけてくれた。新品の白いソックスも下ろしてくれた。ネクタイを着けるべきかと迷ったら、そこまでの必要はないでしょと教えてくれた。旅慣れた母なのに、ほんの近所のアルバイトなのに、遅刻しちゃ駄目よ、自分でおきれるのと何度もいっていた。だからして、母が多少辛辣で意地悪なのはしかたないと僕は思うのだ。そんな母に、僕の好きな人はあなたと同い歳ですよとは、どんな度胸でいえようか。イエスのミンネのプシケのごとき、露骨な行為はできっこない。どこまでも、秘密、秘事、隠し事、そして沈黙。僕の思いを僕自身の暗闇に閉じこめろと僕はいう。となれば、告白自体が永遠のダイダロス。皮肉にも、僕の思いは僕の大好きな言葉〈迷宮〉の内に封印されることになるのではないか。しょうがない。僕は小母さんを衛らねばならないのだから。
 しかし、僕は気づいている。衛るとは、その先に行き当たって存在する、予感するものがまた在るという両義性を意味していることを。或る予感。或る想像。直感ともいえる終焉の予感と想像。僕の思いの裏づけは、僕の意に反し、その予感あるいは想像と表裏一体で成立しているということなのだ。結局、僕の思いは、当初から成就しきれない成形不能の憧れなのか。母の命題を理解できないように、〈女〉を知らないように、単に無垢であるという幼いままの高校生。それが僕の実態なのだ。
「修ちゃん、頼みますね」
 勢いよく持ち上げたシャッターの騒音が企みの合図とばかり店内に轟く。一気に侵入した無数の光線が僕の目を射る。同時に、停滞していた古びた空気が新しい朝の匂と入れ代わる。工業高校一年生、初めての夏。僕のアルバイトがはじまったのだった。


第二部 星月夜

 昨夜、母は寸前まで父と酒を呑み、牛だ牛だとおだをあげながら出かけて行った。牛越祭の取材に宮崎に向かったのだ。取材期間は二週間。それなりに慌ただしい取材だ。いったい、母は仕事が好きなのかあるいは祭が好きなのか。それとも放浪それ自体が母の性癖なのか判然としないが、母の旅に際する雰囲気には底抜けな陽気さがある。出立も帰還も常に賑やかで、疲労感というものが皆無なのだ。まるで母のからだにサンバのリズムが憑いているような賑やかさ、それとも情熱的なフラメンコか。そのパワーは常に父の存在を凌駕している。僕は絶対的な父親似なのだ。そういうと、必ず父は目を細めてニンマリとうれしそうな顔をするが、母は、お前なんか橋の下で林檎箱に入ってたんじゃない、と憎まれ口を叩く。すると父は、いや蜜柑箱だったよと、どちらの味方なんだ。僕がグレないでいることが奇蹟だ。ここまでくれば親の人徳としかいいようがない。
 今日もかたくなにハタキを膝の上に寝かせてレジの椅子に腰掛けている。というと、気楽なように思われてしまうが、実は手に汗を握ってハタキの柄を握り締めているのだ。アルバイトがはじまって一週間近くが経とうとしているのに、僕はきっかけをつかめないでいる。本屋の象徴であるハタキがけ。立ち読みを無礼にも撃退する嫌がらせ。ひらひらと翻る安っぽい切れ端の赤い穂と、ぱたぱたと本に当たる快音。逆光を浴びて舞う微細な銀色の埃。恍惚たる快感を必ずや生み出すであろうリズム的動作を、どう見計らって開始すべきなのか、僕は苦悩していたのだ。小母さんから手渡された水色の胸掛けをつけていたので、スタイルだけは本屋の店員になっていた。ところが、仕草とその振りが、今一歩踏み切れずにいるのだ。自意識過多な恥ずかしがり屋。
 客でいるときは暇な店に見えたが、意外にそうでもない。日に二、三十人の客がある。もっとも、実際に本を買っていくのはそのうちの何人かでしかない。だから旧式のレジを開く回数もわずかだ。だいたいが会社を退けた帰宅途中の客で、夕方から夜の閉店にかけて集中する。午前中はほとんどなく、たまに近所の主婦などが女性雑誌を買っていくが、それとてひとりか二人のことだ。駅前の大きな本屋やデパートの本屋にかなうはずがなく、品揃えの少ない町の本屋などは間に合わせ程度の存在なのだろう。僕にしてもユリイカはデパートの本屋で買ったのだから。
 客の応対には少し慣れた。両親相手のシュミレーションが役に立ったのかどうか疑問だが、要領だけは呑みこめた。つまり「いらっしゃいませ」は必要なかったということだ。店内に入りしな声をかけられた客は萎縮して落ち着かなくなる。早々に店を出ていってしまうのだ。レジで雑誌でも見ている振りをしていればいい。客が品物を持ってレジの前に立って初めて「いらっしやいませ」といえばいいのだ。だから僕は店員といってもひたすら読書三昧でいられた。それにしても、ハタキをかけられない腑甲斐なさ。小母さんは二階で横になってからだを休めているが、気になるのか時々下にきては僕に声をかけ、また大儀そうに二階へと上がっていく。小母さんを煩わせているのは僕自身ではないのかと思え、アルバイト志願は無理強いだったのかと気が滅入った。しかし、今のところ大きな失敗はおこしていない。もっと慣れたならいちいち小母さんに確認することもなくなる。小母さん、もう少し我慢してくださいね。
 昼食のため一時半に店のシャッターを降ろした。小母さんが僕の分も用意するといってくれたが、それでは手伝う意味がない。家は近いのだし適当な用意があるからと、一時間半の昼休みをもらって家に帰った。そして、即席の冷やし中華をこしらえてリビングのテーブルで食べた。刻んで添えた胡瓜が苦い。今夜塩漬けにしてしまおう。結局、残す。……なんだか変だ。ふわっとしている。からだのどこかに穴が空いて空気が抜けているような気分だ。ぽつん。そんな感じ。テレビが遠くにある。卓袱台が遥か向こうに見える。がらんとしたリビング。こんな気持ち、はじめてだ。椅子の背に凭れて惚けた。冷やし中華の残骸が干からびていく。所在なく部屋のなかをうろつく。庭の木立が短くて濃い影を落としているのが見える。飛石に伏せた銀蜥蜴が素早く走ると、その背を虹色に輝かせて叢の蔭に消えた。昼下がり、寂しげな僕と物憂げな時間。錯綜する樹海の迷路をさまようような曖昧な不可解。
 中途半端な音が朽ち葉の海底からぷくぷくと浮かびあがってきた。気泡に包まれたやけに遠くから聞こえてくる音。それは五度鳴って、くねくねとよじれた爬虫類の声に変った。
「修一くんにお伝えします。いよいよ湘南海岸親睦会が迫ってきました。アルバイトもいいですが倶楽部も大切です。諸先輩方の期待を裏切らないように気をつけましょう。僕も楽しみなのです。必ず連絡を入れるように。春海でした」
 くすくす……、終わりに複数の含んだ笑い声が聞こえた。
 これは脅しじゃないか。それにしてもなぜアルバイトのことを知っているのだろう。近所まで様子を見にきたのだろうか。春海だったらやりかねないなと思う。憂さい人達だ。僕は演劇部に入ったのであって、ネルトンなんかに入ったんじゃない。先輩達が本当に演劇をやるならば……それはどうかな。僕は留守番電話をセットしなおして春海の声を消した。消しても意味はなかったが、電話機のなかにとぐろを巻いたなにかがひそんでいるようで、気味が悪かったのだ。
 その日は夕方から閉店の九時までに八人の客がきて、六人が雑誌を買っていった。単行本は新刊、古本どちらも売れなかった。しかたないのかな。少し寂しいと和室のテーブルの前で思う。ところが、そう感じて僕は楽しくなる。これってまさしく本物の本屋さんの気分ではないか。
「お腹すいたでしょ」
 小母さんが簡単だけどと特大のオムライスをくれた。ケチャップがたっぷりかかっている。プチトマトも三つ添えてあった。小母さんはと訊いたら、もう食べちゃったといって微笑んだ。本当だろうか。本当に食べたのならいいのだけれど。
「雑誌しか売れない。単行本も買えばいいのにね」
 僕はオムライスを頬張った口を尖らせた。がつがつ食べる姿が面白いのか、それとも一人前のことをいったのが可笑しいのか、小母さんは大きな瞳を見開いて僕を見つめている。今夜は柿の葉沢庵がついていないのがちょっと不満、などと心のなかで気恥ずかしさを誤魔化す。
「単行本は大きな書店で買うから。品揃えが違うもの」
 ――いいのよ、この店は間に合わせの雑誌屋さんなの。店構えも昔の駄菓子屋さんみたい。今は本屋もブティックみたいにお洒落になったわ。ほら、店の横に貼りついている看板をご覧なさい。大正時代みたいな蚊とり線香の広告。もう、ずっと昔からあのままなの。この店も同じ。昔のまま。いつかなくなるわ――勝手に覗く小母さんの思いを僕のイメージに重ねる。それは寂しくて、僕にとっては心地よい、このうえなく傾く風景と時間を描いてくれる。途次た瞬間。崩れる途中。きっと僕は白秋の廃れる園に憧れているだけなのかもしれない。退屈をもってこいの設定でいじくりまわす脚色と粉飾とでっちあげ。でも、小母さんはこんな僕を許してくれるだろう。だって、想像は僕だけのもの。僕の想像は僕にしかできないこと。そして、この〈恋〉は僕のもの、僕の初恋なのだから。ごめんね、小母さん。よじれた僕を許してください。
 玄関のチャイムが鳴ったので出ようとしたら、小母さんが目で僕を制して大儀そうに椅子から立って玄関に出た。一、二分、ぼそぼそとした聴きとりにくいやりとりの後に戸が閉まる音がした。知り合いの人。訊きもしないのに小母さんはいった。僕はオムライスの礼をいって仕事を切り上げることにした。あしたもよろしくお願いしますね。はい。外はひどい熱帯夜だった。月も星も闇に隠れていた。空は黒々と静まり、重くかさなった雲が微妙に動いている。不透明な暗闇が僕を包む黒い夏。

「どうして連絡くれないのですか。少々苛ついているわたしです」
店の定休日。久し振りの朝寝坊をして昼ごろリビングに下りたら春海先輩の留守電が入っていた。今度はくすくす笑いがない。面倒だな。これ以上とぼけるのはまずいかな。
「今日の夕方六時。部室にくること。きなさい。来い…」
蛇に巻きつかれたような不快を感じた。おとなしい先輩達だったので嘗めてしまったのかもしれない。暴力とは違う陰湿なものを肌に感じた。春海先輩にも立場があるだろうし、店にまで押しかけられたら面倒だ。行くしかない。適当ないい訳でなんとか誤魔化すことにしよう。親睦会など二度と参加したくない。わざわざ湘南海岸にまで〈線〉になりにいく必要がどこにあるというのだ。はっきり断わろう。
 五時に家を出た。駅前に出てバスに乗る。いつもならすぐにうとうとするのに、どうしてか目が冴える。僕は怯えているのだろうか。先輩達はグレているわけではない。おタクなところは多少あるが暴力的なものは感じない。きっと、しつこくつきあえとせがむだけで、他意はないはずだ。
 産業道路は渋滞していた。先で事故でもあったのだろうか。この時間ではこちらの車線は混まないはずだ。反対車線はすでに渋滞している。昼間の陽気が残した熱気と車の熱が路面を蒸して、沿道の雑草も、だらしなく弓なりに垂れ下がる電線も、すべてが苛々と湯気を立てている。遅々として進まぬバス。ああ、面倒臭い。母のアシストでさっさと雲隠れしていたならば、こんな思いをしないでもよかったのに。ついてない。
「修一くん。いやいや来たの?」
 狭い部室に部員五人が揃った。三人の先輩達は壁にもたれたり床に座りこんだりして勝手な方向を向いている。春海先輩は電気椅子に足を投げ出して座っている。部長でもないのに偉そうにと僕は思った。
「二十分の遅刻ですね」
 春海先輩がつづけていった。他の三人はくすくす笑っている。こんな人達だったろうかと訝しく思う。今日の先輩達は妙に陰湿で刺がある。春海先輩にもいつもの馴れ馴れしさがない。僕は春海先輩の投げ出した足元に立って遅刻のいい訳がましいことをいったが、なんだこれは、まるで尋問ではないか、なぜこんな形になるのだ。お前も行けよといえばいいだけなのに。暑い……。
「親睦会ね、湘南海岸、修一くんも行きたいでしょ。僕達みんなも行きたいのよね。僕なんか来年もあるからいいけど、三年生はね、最後の夏ですから」
 春海先輩の靴先が二度、こっこっと僕の脛を蹴った。誰かがちっと舌を打つ音。蝉が遠くで啼いている。運動場のもっと先、夕闇が落ちはじめた雑木林のなかだなと思う。諦めよう。今日のこの人達は変だ。逆らってはいけないと直感する。
「僕も行きます。いつですか」声が擦れていた。
 誰もなにもいわない。再びふらふらした蝉の啼き声が聞こえてきた。風に流されているのだろうか。途切れ途切れで毀れたスピーカーのようだ。蝉はどのくらいの距離を飛ぶのだろうかと唐突に思う。不自然な沈黙がつづいた。
「そうか。行くか。偉いぞ、修一」
 三年生のひとりが僕の肩に手をかけていった。だけどな修一。肩甲骨に指が食いこむ。僕は一瞬呻いた。
「お前、なにか忘れてないか?」
 なんだろう。見当がつかない。さらに指が食いこむ。
「自転車どうした?」
 しまった。すっかり忘れていた。毀して学校に放置したままだった。うかつ。春海先輩にもあの日の事は伝えていない。今さらどういい訳をすればいいのだ。すみません、明日にでも返してきます。僕は少し照れた振りをしていった。
「そうだな。借りた物は返すべきだ。けど修一……親睦会は中止。残念。湘南海岸はなしになった」
 そのときすでに僕は四人にとり囲まれていた。
「断わられました。無責任な人達と親睦会なんかできませんて」
 真赤な舌をちろちろさせながら春海先輩がいった。

 鱗のように乾上がった黄土が砕けると、熱した闇に粉塵が舞い上がった。広漠とした闇はそれ故に密室たりえる。僕は運動場の真中で檻のような四つの影に囲まれて乾いた土にまみれていた。もがいたせいで汗たからだや顔に土が付着した。土臭い。払われたふくらはぎが痛む。交互に脇腹を足蹴りが襲う。隙をみて突破を試みるが思うように足が動かない。四人に追いまくられて運動場をぐるぐる廻った。シャツのボタンが引き千切られてすっ飛んだ。なんてしんどい倶楽部なんだと駆けながら思う。奴らは声ひとつ発しない。闇のせいで表情もつかめない。多分、鬼のような女々しい憎悪を能面のごとき無表情の裏に隠し、陰気な笑みを胸の裡に浮かべているのだろう。再び倒されて執拗につづく嬲り。
 こんな人達だったろうか。学年の差など感じさせずに接してくれていたはずだ。一年生は僕だけと大切にしてくれたのに。親睦会がお釈迦になった事がこんなにもこの人達を変えるのか。湘南海岸がどれほどのものだというのだ。相手がどこまでもだんまりならば、僕はこうしよう。逃げ廻るのを止めた。そして仁王立ちで万歳。目いっぱい息を吸いこむ。そして、こうした。
「うおー、うおー、うおー」
 何度も何度も叫んだ。夜空に向かって叫びつづけた。呆気にとられた先輩達が退く。少しずつ遠離る。そしていつしか四方の闇に消えていった。
 黒い雲がゆっくりと動きはじめた。月が現われて星が光る。月光が射して茫洋とした土を照らす。星月夜。僕は蒼く輝く星の上に立っていた。
 よそよそしい白色の明りを満たした最終バスが停まると、疲労困憊の僕を拾って再び走り出した。数人の客が僕の姿を見てぎょっとしたがすぐに目を逸らす。最後部のシートに座りYシャツの胸を確認したらボタンが全部ない。襟もとれかかっていた。汗た手で顔を撫でると灰色の土がざらつき、唇がひりひりと痛んだ。
 あのままつづいていたなら僕は殺されていたかもしれない。よくあるニュースのように、苛めの見出しで新聞に載り、テレビのワイドショーで連日放送されて、近所の無責任な人間達が知りもしないのに父や母の陰口をたたく違いない。学校も度重なる不祥事にてんてこ舞いになる。学校だって先生だって、生徒の事などなにも知ってはいないのだ。僕の事だってどれだけ知っているのかとっても疑問だ。だからといって誤解しないでほしい。僕は学校にも先生達にも不満はない。公務員に求めて得られるのは、あらゆる秘匿のための厚顔と破廉恥と図太さの三拍子でしかないのだ。通りすがりを決めこんだ人間に何を期待しろというのだ。精々、隠しカメラでも抱えて女子校生の下着でも追っかけているがいい。いつまでも惚けた顔をして白を切っていろ。そんな奴らに、僕はまともに向かう気なんかありゃしない。かまってなんかいられない。時間の無駄というものさ。
 駅でバスを降りたら気持ち悪くなった。駅構内の隅にしゃがみこんで休んだ。スニーカーが土まみれだ。ほどけた紐を結び直す指が小刻みに震えている。いきなり吐いた。酸っぱい。大丈夫か? 駅員が覗きこんでいった。ごめんなさい。僕は重いからだをようやく立て直して構内を出た。足払いをかけられたふくらはぎが痛くて曳きずった。人が避けた。
 これで片がついたのだろう。もう二度としつこくされることはないはずだ。もしも再びあるならば、辺りかまわず僕は同じことをしよう。狂ったように、獣のように。

 うおー、うおー、うおー、うおー

 歩道の真中で手負いの獅子が……まさか。潰れた蛙がけろけろだ。突然、跳んでみたくなって、ホップ、ステップ、ジャンプ。膝から崩れた。両膝を歩道につけてうなだれる首。ぱさついた髪が額に落ちて町の灯りを鎖す。乾いた歩道が一粒二粒濡れた。僕は跳べない蛙なのだ。道しるべさえ見つけられない幼い迷子なのだ。苛めなどという幼稚な世界に住んでいる頑是ない子供。勘弁してよと思うのだ。
 定休日札が下がったシャッターの前にいた。小母さんの顔が見たかった。無性に逢いたかった。逢いたくて逢いたくてたまらなかった。二階の雨戸から微かな明りが漏れている。あの部屋に小母さんがいる。きっと布団に横になってもう寝てしまったかもしれない。それとも寝つけずにいるのだろうか。気分はすぐれているだろうか。
 両手でつかんでいた定休日札がいきなりはずれてずり落ちた。同時に僕は頭と肩をしたたかシャッターに打って膝から崩れた。全身がどこか深いところに吸いこまれていくようだ。気が失せていく。
 ハタキの赤い穂がぱたぱたと翻って光りの塵が舞った。堂々としたハタキかけの僕がいた。仕入れた古本をにこにこ顔の小母さんに自慢する僕がいた。唐草模様の風呂敷をマントにおどけている。馬鹿だなあ。僕って呆れるくらい子供だ。どうしてああなんだろう……。
 
 肋骨一本ひび。左端唇裂傷。奥歯一本欠損。その他、打撲数ヵ所。僕は左腕に点滴をつけてベッドに寝かされていた。病室の壁にかけられた時計の針が午後三時を指している。絆創膏のせいで瞼がつっぱっていた。今になってそこら中が痛む。点滴交換にきた看護婦の話によると、昨夜、気絶した僕を救急病院に運んだのは嘉夫だったらしい。僕はずいぶん永い時間シャッターの前に倒れていたようで、嘉夫の背中に背負われて運びこまれたのはほとんど朝に近かったという。まったく覚えていない。
 自転車のひとつや二つでこんなこと考えもしなかった。修理代はかかるし、学校がはじまったら女子校まで運ばなければならない。冴えないなと思う。うかつな自分が間抜けだったのだ。ぶつぶつと愚痴っていたら点滴のせいか、いつの間にか眠っていた。
「なあに、二日も寝てれば退院できます。脳波も異常ないですし」
「そうですか。先生、よろしくお願いいたします」
 話し声で目が醒めた。病室から出ていく白衣の後ろ姿が見えた。目が醒めた僕を見て、父がにやっと笑った。
「やられたな。たいしたことないってさ。安心しろ」
 こんなときにおたおたしないところが父なのだろう。話はゆっくり聞こうじゃないかといった顔だ。けれど、母はパニック状態で、父が大丈夫だからといっても聞かなかったそうだ。明日一番で戻るらしい。仕事の途中で戻ってくるほどのことではないと、僕も父の考えと同じに思う。ちょっと息が切れただけだ。今度あんな目にあったら僕は逃げたりしない。死に物狂いで闘ってやる。僕は知っているんだ。あいつらはとことんまでやりあう元気なんかない。無抵抗であればあるほどエスカレートしていく。執念深いのは僕のほうが上だ。だって僕はあの母さんの子なのだから。それに、僕にはやらなければならないことがある。いつまでもこんなところで寝てはいられないのだ。噛んだ唇が痛んだ。
 父は仕事に戻らなければならなかった。病室の時計を見る父に僕はいった。
「父さん、パンチの出し方教えてくれる?」
「母さん似でよかったなあ。きっと、母さん大喜びだ」
 嘉夫が後で顔を出すだろうとつけ加えて父は病室を出ていった。
 それは偶然だったのか。嘉夫はなにかの用事か気まぐれでたまたま家に戻った。そして店の前で倒れている僕を見つけたのだ。僕のからだは軽かったろうか。情けないちびだなんて舌打ちしながら嘉夫は僕を担いだのだろうか。まるで寝入った赤ん坊のように片頬を嘉夫の背にぴったりと寄せていたに違いない。背を傷の血や土で汚しただろう。そんな時間なら、いつものように嘉夫はきっと酔っていただろうに。くわえ煙草の煙を燻らせて、長い足を大きな歩幅で飄々と、難なく、牛模様のような樹皮を剥がした白樺の脇を僕を背負って過ぎたのだ。多分、遠退いた意識のなかで、朝の引き締まった空気のなかで、僕は嘉夫の微かな汗の匂を嗅いだ。その匂は僕の持たないもので、鋭利に研ぎすまされた危険なものだ。僕はつまりそれが大人の匂と思うのだ。嘉夫は家にいるのだろうか。店を開いているだろうか。小母さんと諍っていなければいいのだけれど。
 夕食の時間なのか、廊下の喧騒がドアを閉めたこの病室にまで聞こえてくる。窓から入りこむ夕方の陽は明るく、茜も差していないのに壁の時計はもう六時を告げている。夏の永い日は儲けたようでくたびれ儲けの疲れる暑い一日。太陽も月も星もさっさと溶けてしまえばマニエリスム画集もお似合いなのにと、ベッドでひとりこぼす。今夜の僕の食事は正体不明が嫌がうえにも体内を疾駆する黄色い点滴液だ。からだから色々なものが失せていくのは一向にかまわないけれど、たとえば鼻血など、けれど新たな正体不明がからだを満たしていくのはやっぱりなんだか不愉快だ。僕もあなたも日々アンドロイドを目指して生きている。退屈まぎれに陳腐なことを考えていたら、いきなりドアが開いて嘉夫がのっそりと入ってきた。
「誰にやられた」
 奥目気味の眼球が鋭く光っている。答えないわけにはいかない。倶楽部の先輩。僕は擦れた声でいった。嘉夫は納得したのか、腹が減っただろうと、いつもの皮肉な笑みを浮かべて僕をからかった。それからなにやら病室を物色しはじめた。
「お店どうしたかなあ……」
 嘉夫は備えつけの棚のなかから紙コップを見つけると、部屋の隅にある洗顔用の水道で水を少し入れた。それをベッドの脇にあるサイドテーブルの上に置いて灰皿代わりに煙草を吸いはじめた。
「さあな。お前、うちでバイトやってるんだって? おふくろもようやるわ」
 軽い気持ちでいったのだろう。けれど僕はそんな嘉夫が癪だった。嘉夫のことはとっくに諦めたはずなのに。
「嘉夫さんがいけないんでしょ」
 嘉夫はにやけた顔して煙草を吹かしている。僕のいうことに取り合わない算段だ。天井に向かって吐いた煙が輪になって浮いている。
 ドアをノックする音がして二人の見知らぬ男が入ってきた。五十歳前後と、もうひとりは二十代といった感じだ。
「病院から通報があってね。君どうした?」
 年配のほうが妙に馴れ馴れしく訊いた。目が笑っている。僕は一瞬、嘉夫を目で追ったが、部屋の後方に退いてしまったせいで二人の陰になった嘉夫の顔を見ることができなかった。
「友達と喧嘩になっちゃって……たいしたことないです」
「相手はひとりかい?」
「ええ、まあ……」
「苛めだろ」
 若いほうが決めつけるようにいった。
「そんなことないです。口喧嘩になって……友達だから」
 僕はどうして嘘をつくのだろう。なぜあいつらを庇うのだろう。面倒だから? それとも、同情? 何を同情しているのだろう。
「訴えるかい?」
 こんなことを笑顔でいう年配の男が不思議だった。厭な人だ。
「いいえ」
 はっきりと否定した。これは僕の闘いなのであって、僕のものなのだ。見知らぬ人間がはまってほしくない。
 その後、根掘り葉掘り両親の事や学校の事をまるで僕が犯罪者でもあるかのように訊かれたが、どこまでも曖昧なままで通した。嘉夫も関係を問われたが、近所の者だと体よくあしらった。一時間後、まあいいだろうといい残して、未練がましく二人は引き上げていった。嘉夫は何事もなかったように再び煙草を吹かしている。僕はさすがに少し疲れて、天井を見つめて放心していた。
「おふくろも後で顔を出すってよ」
「来ないでいい」
 僕は思わずきつい声を出していた。厭だった。あんなに逢いたかった小母さんなのに。
「あなた、ここは禁煙よ。しょうがないわねえ」
 点滴の様子を見にきた若い看護婦が嘉夫を睨みつけて荒々しく窓を開けた。嘉夫は吸いかけの煙草を紙コップに無造作にねじこみ、また来るなといって逃げるように病室を出ていった。サイドテーブルに百円ライターを忘れている。慌ただしい病室だ。

 夕食の時間も遠に過ぎて病院全体が落ち着きを取り戻していた。静まりかえった廊下にスリッパの音がときおりぱたぱたと鳴っている。気長に落ちる点滴の液を僕はひとつ二つと無意味に数えていた。
 どうしてだろう。僕は小母さんを拒んでいる。逢いたい、小母さんの笑顔を見たい、そう思っているのに素直になれないでいる。小母さんはぼろぼろになって倒れていた僕を見ただろうか。僕はきっと間抜けな顔をして気絶していたのだ。頼りなさを全身で表現していたのだ。母さん似でよかったなと父はいうが、僕は母ほどパワーもエネルギーもない。結局、喧嘩に負けたのだから。僕には小母さんを衛る力などないのだ。店だってこんな形で中途半端にしている。むしろ足手まといなのだ。かえって面倒を引きおこしているだけなのだ。アルバイトなどと改まらずに、ただ何気なく顔を出し、たまには手伝うような振りをして、遊んでいればよかったのだ。それが子供の僕に似つかわしい選択なのだ。
 点滴が肉体を拘束する鎖となって機能不全の思考を抽出している。退行しながらめげていく。小母さんを衛ろうなどという驕りの気恥ずかしさ、衛れないという非力な思いと悔しさが、破裂寸前の風船のように膨張する。肋骨が痛い。
 いつの間にか寝入っていたのか。額に冷たいものを感じて重い瞼を薄く開ける。小母さんの掌が静かにたおやかに幾度も僕の髪を撫でていた。瞬く間に瓦解する僕の退嬰。小母さんの指が傷ついた僕の唇をなぞる。甘く蜻蛉のように儚い仄かな匂。指は瞼をつたい、耳朶に滑り、掌全体が熱した僕の頬を包む。吸いこまれていく。僕のすべてが小母さんの手のなかに溶けていく。ときおり、寝ていた蝉が短い命を惜しむのか、かなかなかなと啼いた。
 僕は、口づけを知った。十六歳の僕と、この人は夏の季節にたえきれず陽傘に力なく埋もれてしまう人。青い噴き上げの一筋が揺れる萎れた園に、そっと佇む人。
 夕べとなればこの思い、曇り硝子を抜け出でて……よこしまな僕の心は邪宗門。風景を装填せずにはいられない、それが僕の恋。微かな、触れているのかいないのか、唇の厚みさえ感じることのない、それはあまりにも薄い口づけ。棺に眠る死びとへの口づけのように、まるで永遠の別れを告げるかのような口づけ。死しているのは僕なのか、あるいは優しく匂うこの人なのか。淡い桜色の唇だけが生きている燈影のように思える紙一重の透き間を空けた口づけは、うれしいけれど気懸りな、脆くて希薄な口づけなのだった。
「ひどいこと」
「ごめんなさい。お店……」
「いいの。どうせしばらく休むつもりだったもの」
 僕のほんの気まぐれと、小母さんは端から当てなどしていない。しかたない。僕は見物人から抜け出せないのだ。あつらえた特等席であらゆる振りをして見ているだけなのだ。それは〈子供〉に許された特権かもしれないが、僕はそんな椅子ちっともいらないと思っている。けれど、気づいてみるといつの間にか特等席に座っていて、ご丁寧にポテトチップの袋なんかまで持ってたりする。桃山をやめることにする。明日から巻煙草にしよう。嘉夫のように煙の輪を浮かべ、吸殻を紙コップにねじ捨てよう。煙草の銘柄は安い両切りのゴールデンバットだ。ぺっぺっと唾を吐きながら吸ってやる。
 その夜はもう誰も顔を見せなかった。これでも一応病人というか怪我人なのだから疲れた。お腹もすいた。明日からは食べれると嘉夫を嗜めた看護婦はいっていたが、どうせ病院食、旨かろうはずがない。三日我慢すれば退院できるのだからそれまでのことだ。それに点滴はすでにはずされていたし、肋骨が少し痛むが比較的楽にからだを動かせる。僕はゆっくりとベッドを抜け出て、壁にハンガーで吊されたズボンのポケットを探った。桃山はなかったが百円玉が三つ入っていた。そういえば、僕の着ているパジャマは誰のだろう。新品みたいだから嘉夫のではない。父が買ってくれたのだろうかと思いつつ、置き忘れていた嘉夫の百円ライターと百円玉を握りしめて廊下に出た。トイレのみたいなビニール製のスリッパが素足にひっついて気分が悪い。蹴られた足が痛む。しばらくは筋肉痛と肋骨の痛みがつづくのだろう。
 受け付けのホールは照明が落とされてがらんと薄暗かった。玄関近くに自動販売機が幾つか並んでいたが、煙草の販売機はなかった。病院で煙草を売っているわけがない。硝子張りの玄関の向こう側を車が行き交っているのが見える。この病院は嘉夫が僕を担いでこれたほどの近所に在る救急指定病院だった。家にいて時々聞こえてくる救急車のサイレンはみなここに廻ってくるのだ。その病院に胸にギブスバンドを巻いた僕がいた。人気のない静まりかえった病院のホールに突っ立って、百円玉を三つ握りしめて、僕は自分の行方を探しあぐねている。
 玄関の硝子戸に触れてみた。すっと開いて、町の喧騒が流れこんできた。熱帯夜。多分、外からは開かない。
 薄いスリッパの素足に舗石がごつごつ。町の食堂のクーラーからもーっと吹く臭気が顔に当たってむんむん。長過ぎるパジャマの裾を踵が踏んでぎくしゃく。僕はいつだってこんなん。胚子のままどこにも届かない中途半端な殻々生活。干渉を人一倍拒否していながら、それを最も求めているのは僕のほうなんじゃないか。気取った振りをして誰よりもダサイのは僕じゃないか。腫れた頬が熱い。風ひとつない蒸れた空気が星の点滅を覆い隠し、夜目でもどんよりとした雲が見える。月なんかどこにもない暑苦しい暗闇だった。
 自動販売機で紺色のパッケージのピースを買う。封を開けて一本くわえると、ほんのりと甘い匂がする。嘉夫の百円ライターで火を点けて深く呑みこんだ。そしてよくあるようにむせた。煙草一本まともに吸えない。今どき小学生の悪餓鬼だって上手に吸っている。桃山時代が永過ぎたのだ――いつの間にか〈線〉に向かっている自分に気づく。ぺしゃりと潰れる蛙を目指している。ひとりで潰れるならまだしもだ。体力の消耗が気力を蝕んでいるのに違いない。脆弱が〈点〉を誑かして〈線〉になれと唆す。
 時間すらわからない。もう真夜中? が、時間に意味を見い出そうとするほど僕は忙しくも謙虚でもないはずだ。昨日と今日ではなにが異なるかといえば、余分なものを付加したか紛失したかで、それとて日々同様に繰り返しているだけだ。それは白色の無垢を灰色に染めていく帰属意識やらなんたらかんたらな、一律な〈線〉を目指せと誰かが自分の都合によって操作する概念取得のおおよそにして教条的な日々なので、そんなことをいうと甘えた子供だといわれるけれど知識不足の未熟がどうのといわれるけれど、無抵抗の人間の首が無造作に鉈で一閃切り落とされ、それが飴玉みたいにころりと転がるのを目撃したならば、おしっこちびってへたるぞ。テレビのドキュメンタリー番組で、さすがにテレビ局も遠慮したのか、そのシーンしか撮れなかったのか、遠目でほとんどシルエットになっていたけれど、僕は確かに見た。ごろごろ転がっている死体のなかに座りこんだ男だか女だかが、さもこの枝ちょっと伸びたわねってな感じで、横殴りの鉈で簡単に首を切られた。切られた首はころりんと落ちて、ころころ他の死体の上を転がってた。それだけならまだしも、鉈男は首がなくなって倒れた死体の背をさらにぶっ叩いて、それでも足りず倒れている他の死体までざっくざっくと跳びまたいでヒステリックに叩いてた。たったひとりの男がだ。あいつ、いったいなんだったんだ。今思うと不可解だ。要は、いまだに、大量殺人をしても咎められない国または場所があるということなんだ。もっとも、政治にかこつければ営利目的の誘拐だって犯罪にはならないし、人質を単純に取り返すことすらできない。犯人から人質を奪還したら普通、それを犯人に戻すか? 戻さなければならない条件に納得するか? やっぱり役人は松茸を山分けするか女子高生のパンツでも追っかけてるのが相応しい。つまり、技なんていらないのだ。三島由紀夫のように日本刀なんか使わなくたって、鉈一本で胡瓜を切るみたいに切れちゃうんだ。民族戦争だか帰属戦争だか知らないけれど、じゃあお前のいう知識っていったいなんなんだよと訊き返したくなる。歴史、前例、判例を鑑みて、か? そんな知識はお前だけにしておくれ、お前が国家元首になるわけないじゃない。三国志にでも憧れてるのか。古代ローマ国家の興亡がどうだっていうの。大昔のかび臭い都合をバックボーンにするなよ。何年経ってると思ってるんだ。猫だって生活変化してるんだ。僕はごめんです。だって、鉈を思い出すだけでちびりそうな僕なのだから。それにしても暑いし痛いし。
 僕はなんだかむくれてる。怪我人が病院を抜け出して散歩なんかしている。無様なトイレのスリッパでさまよっている。きっと紙一重の接吻が不満なのさ。からだ中に行き渡った点滴液が僕をハイにしてるんだ。だから正体不明は厭なんだ。想像力の欠如は行動の行方も推して知るべしだ。紙一重の接吻不満のせいで(そんなわけはないのだけれど)、結局、僕は店の前に来ている。シャッターには閉店札がちゃん吊されている。僕はピースに火を点けてしゃがみこむ。学習能力のおかげで今度はむせない。もっとも吹かしているだけなのだからむせる道理がない。足の裏がべたべたしている。スリッパがぬめって底が破れている。街燈の薄明りのなかに煙草の煙が鉛のように滞っている……。
 靴音がして、やがて僕の前を通り過ぎた影が店の横手に廻って見えなくなった。影は下から見上げていたためか大男に見えた。微かにチャイムの音が聞こえると、間もなく家のなかから細い声が漏れた。「遅かったのね」小母さんの声だ。「来たよ。暑いな」男の野太い声だ。ほんの少し間が空いて戸が閉まる音がした。
 それきり静寂の闇が辺りを透き間なく埋め、時が流れていった。
 段ボールに捨てられた仔犬ってこんな気持ちなんだろうか。自分がどこにいるのかわかっているのだが、どうなっているのかはわからない状況。仔犬はくんくんと泣けるが、僕は泣けない。もう特等席はいらない。僕はこれ以上、退行してはいけない。僕は僕の闘いをしようと思う。肋骨が少し痛んだが、姿勢正しく立つことができた。ピースは途中にあったごみ箱に捨てた。似合わないことは素直にやめればいいのだから。
 僕って結構、運がいい。病院に戻ったら救急車がちょうど来ていて病院の玄関が開いていた。何気ない顔して入ってしまったらそのまま呆気なく病室に収まった。発明家の父さんがいつもいっている「案ずるより生むが易し」ってこういうことなのだと感心する。父親とは時々さり気なくこういう意味深いことをいわなければいけない。子供は意味がわからないからこそ心のどこかに引っかかりを残す。その引っかかりこそ親子の絆なのだ、とその点で父さんは合格だな。そういえば、牛のよだれってなんだ。父さんの言葉は中途半端でいけない。説教臭いことが一切なくて、その代わり謎かけみたいな仕掛けがほとんど趣味みたいに多い。あっそうか、それをおとぼけっていうのか。なんてことはない。父はおとぼけ親爺ということなのか。どっと疲れて僕は一気に眠りについた。
 
 誰かがベッドにもぐりこんできて僕を抱きしめた。母だった。廊下を往来する人々の気配に混じって、看護婦の話し声や入院患者が取り交わす朝の挨拶が聞こえてくる。
「お帰りなさい」僕はいった。
 梢の雀が忙しなく啼いている。ベッドの傍らには父が立っていた。
「畜生……」目を潤ませながら母は呟くようにいった。
「仕事の途中でしょ」
「そんなものいいのよ」
「プロがそんなこといっていいの?」
「あんたと生きるための仕事なの」
 父さんの目が笑ってる。おいおい俺はどうなるんだっていってるみたいだ。
「たいしたことないよ。母さん大袈裟なんだよ」
 僕は落ちそうになっている母の涙を親指の腹で拭った。目を閉じてそれきり、母は小さな寝息で眠ってしまった。すーすーすーすー。子供みたいな寝顔だ。可愛い母さん。
「父さん……」
「しょうがない母さんだ。着いたばかりで寝てないんだよ」
 僕は母の肩を抱いた。大きな胸が肋骨に当たった。気持ちよく痛かった。
「あらあら、まあ、どうしちゃいました」
 検診に廻って来た医師の横で看護婦が笑いながらいった。いつの間にか僕も母といっしょに寝ていたのだった。僕が目醒めると母も目を醒まし、慌ててベッドから降りて照れ臭そうにいい訳をしている。父は仕事に行ったのだろう。すでに部屋にはいなかった。
「からだの異常はないから、あとは時間をかけて治すしかないな。いつでも退院していいよ」
 一通りの検診と問診を終えて医師がいった。母が丁寧に礼を述べてから看護婦に退院の手続きについて二、三訊ねた。僕は昼を待たずに退院することになった。消毒臭い病院よ、さようなら。
 その日の夜は久々の卓袱台宴会になった。母がこれまた久し振りに手料理に腕を奮った。それで豪勢な退院祝になった。僕がいい出さないので、父も母も喧嘩についてはなにもいわない。もっぱら母さんの旅の話で盛りあがった。牛と星のことを母は熱弁した。そうやってエッセイに高めていくのだろう。牛は偉いのだから食べちゃいけないと繰り返し、散々食べたすき焼きのことはすっかり棚上げだ。強い母さんがいた。サンバのように賑やかな母がいた。酔い過ぎではあったが。

 熱い陽が真白に輝きだした昼近く、はたきの赤い穂がぱたぱたと店内に快音を響かせていた。瞬く間に一巡してしまうので、二度三度とはたきをかけ直した。棚の高いほうも丁寧にはたいた。ずれている平積みの雑誌をきちんと整理した。基本的に書店はみな北向きだったから、この店も直射日光を辛うじて避けている。けれども、店の入り口の角にある棚の書籍は掠める陽を逃げることができずに背表紙が焼けて色褪せていた。背文字が溶けて解読不能になるのは時間の問題なのだった。そうやって本は一度もその頁を開かれることなく二束三文の古本になっていくのだろう。それでも、はたきをかければ他の本と同じようにぱたぱたと気持ちのいい音がする。僕は焼けた本の背を何度も何度もぱたぱたやった。それから陽除けのために、宣伝用のポスターを何枚か繋いで店の前に吊した。店構えが賑やかになって一石二鳥の効果に自己満足。
 筋肉痛はすっかり和らいでいた。肋骨も無理な姿勢をとらない限りさほど痛みを感じなかった。だから僕は退院した翌日から店に復帰していたのだ。小母さんが気を揉んだけれど、僕は委細かまわず店に出た。当り前のように堂々と店に立てた。なぜか、はたきも無理なくかけられた。僕のなかでなにを得たのか失ったのか今はわからない。ただひとつ気づいていることは、なにかを決めた僕がいることだった。
 取次の小型トラックが店の前に停車して新刊の雑誌が数種類運びこまれた。伝票の受け渡しを済ませるとトラックは熱い空気を掻き分けて走り去っていった。定期雑誌だったので決まった場所に置く。週刊誌や漫画雑誌に混ざって写真雑誌も三種類ある。僕はそのうちの一冊をレジの椅子で見た。政治家、芸能人、スポーツ選手達のスキャンダルめいた記事が見開きの頁に大きな写真とともに載っている。ヘアヌード写真も満載だ。事件の現場写真もあって、ビニールシートから死体の腕が生々しく覗いているのもあった。殺伐とした不快感だけが涌いてきて不愉快になる。もう見るのはやめようと残りの頁をぱらつかせたとき、おやと思って目を留めた。カメラのフラッシュを焚かれた男と女が路地の暗闇に浮いている。二人の目元は黒い帯で覆ってあった。けれど僕はわかった。否、この二人を知る者ならば、誰でもこのスキャンダル写真の人物の正体はわかったはずだ。それは嘉夫と先生だった。
 女教師、夜の課外授業。
 陳腐なうえに、書いた人間そのものの生活と人生感が拗強として滲む題が見開き写真の上に破廉恥な大きさで載っている。記事はさも今現在の進行形で書かれていた。先生は現役教師で、嘉夫は高校三年生になっている。それになぜだか先生は保健体育の教師になっていた。見事に官能小説の設定で、それも三文だ。
 夜の保健体育授業で女教師妊娠堕胎。
 小見出しが品なくどろりとした書体で浮いている。僕は頁を閉じた。十冊ばかりあった平積みの写真雑誌をすべてレジの下にしまいこんだ。嘘への抵抗。僕にできることはこの程度でしかない。せめてこの十冊を買い占めて誰にも売らない。
ぎんぎん照り返す炎の夏。陽炎が眼前の風景を蜃気楼に変えて、通行人も家並みも幻のように海の水平線にゆらゆら揺れている。店の間口いっぱいに広がる紺碧の夏海。遥か遠くに浮いている入道雲の大きさが海原の広大さを強調して、僕の意識を遠方へと運び去る。二羽の海猫が絡みながら舞っていた。時にもつれたまま海面に向かって滑降し、時に天空高く垂直に上昇していく。交錯し螺旋の渦を巻いてあらゆる方向に狂ったように飛ぶ。無限の碧海が打ち寄せては引き、潮は飽くことなく畝っては永遠の距離へと流れを繰り返す。気がつけば、二羽の海猫は海に没したか、あるいは遥か入道雲の彼方に去ったのか、もぬけのからの碧い風景が残っているだけだった。嘉夫は、そして先生は、どうしているだろう。
「これください」
 不意に声をかけられて、僕は少し慌てた。
「あ、いらっしやいませ。カバーおつけしますか」
 珍しく、文庫本が売れた。
「お願いします」
 弾むような声が返ってきた。僕と同世代の女の子だった。
「アルバイトですか?」
「ええ、まあ……」
 僕はカバーをつけた文庫本を手渡しながら答えた。胸が遠慮勝ちに膨らんでいる真白なTシャツに目がいく。涼しげだ。
「また来ますね」
 そういって、女の子は文庫本を胸に抱きしめ、くるりと背を向けると駆けるようにして店を出ていった。変な子だ。近所の子だろうか。普通、本屋の店員にまた来ると予告する客がいるだろうか。女の子は妙な引っかかりを僕に残した。
「修ちゃん、お昼休みの時間よ。冷たいものでも飲みましょ」
 和室から声をかけられた。僕はシャッターを降ろして和室に上がった。冷房が効いてひんやり心地いい。大きな氷の入ったアイスコーヒー。テーブルの向かい合わせに腰掛けた小母さんは、僕の傷の治り具合や、今日のお昼ご飯はなにかなと訊いたり、最近のテレビはつまらないわねなどと世間話をした。僕は取次が来たことを小母さんには話さないでおいた。いずれわかることではあったが、今は嘉夫のことを隠しておきたかったのだ。
 昼食は家で母といっしょに食べた。母の顔色で牛越祭の原稿が順調に進んでいるのがわかる。仕事が思うように進まないとやたら煙草とコーヒーを飲んでぎゃあぎゃあ喚くが、順調なときはうっとりと夢見る少女みたいに穏やかな顔をしているからだ。複雑な事を書いているわりには単純な母だ。文章の内容とそれを書いた人間はおよそ一致しないのだろう。母は自分の書く文章になにを託しているのか。あんたと生きるための仕事なのよ。病院でいった母の言葉がどれだけの意味を含んでいるのか僕には計れないが、なにを書いていても母の脳裡には僕と父がいて、そこが出発点であり辿り着こうとしている所なのではないか。本当のところはわからない。ただそんな気がするのだ。僕がそう思いたいだけなのかもしれない。
「父さんが今夜おまえと話があるっていってたわよ」
「なんだろう」
「さあねえ。男同士の話なんだってさ。失礼しちゃうわね」
 母は不満そうにいってはみたが、そのわりには旨そうにコーヒーを啜る。母はやっぱりプロの物書きなのだ。順調に進んでいる仕事のせいで今は幸せなのだろう。
「母さん、仕事うまくいってるみたいだね」
「わかる? どうしてだろう」
「だって幸せそうな顔してるもの。なんでも美味しそうに食べるし。喚かないし」
「喚くってなによ。そんなことないでしょ」
「あれはヒステリーだよ。うまくいってないときわさ」
「おまえにそんなこといわれる筋合いはないわ。ほらもう時間よ。とっとと行っちまえ」
 母は煙草の煙を僕の顔に吹きつけた。
「父さん今夜帰り遅いのかなあ」
「さあね。男同士の話なんてあたしゃ知りませんよ」
「はいはい。じゃ行くね」
「返事は一回でいいのよ」
 母の憎まれ口を後に僕は外に出た。焼けるような暑さだ。たちまち額と首筋に汗が流れ落ちる。路地を抜け、ちょっとした坂を下りて、僕は店の通りに出た。すると、シャッターの降りた店の前に屯している数人の人影が目に入った。陽を背に受けてみな真黒に見えたが、すぐに先輩達だとわかった。僕は一瞬緊張したものの、店に向かって真直ぐに進んだ。踵を返して逃げ去る度胸も勇気もなかったし、背後からどかどかと音を立てて大勢に追われるほうがよほど怖かったからだ。演劇部の全先輩が揃っていた。僕を痛めつけ肋骨にひびをいれた全員だった。治りかけた傷なのに。ああ、しんどい。またやられるのか。けど、今度はやられっぱなしではいない。たったひとりの奴でもいいから噛みついてやる。それで僕は死んでも歯をほどかない、狼みたいに。僕のからだはまるで道路工事の掘削機みたいに震えた。怖さを通過してそれはほとんど武者震だった。歯ががちがち音を立てている。やっぱり、みっともない。恰好悪い僕だった。
「修一、悪かったなあ……」
 春海先輩がいうと、横一列に並んだ先輩達が一斉に頭を下げた。僕は先輩達の意外な出方に途惑った。肩透かしを喰らって面喰らった。震えていた歯が噛み合わず顎がずれているみたいにぎこちない。
「はあ、ど、どうしたんですか、先輩……」
 先輩達はうつむいたままでなにもいおうとしない。どこか怯えているようだ。僕がいくら強がってみせても、これは少し変だ。と思ったら、店の脇から嘉夫がひょいと顔を現わした。すぐに納得がいった。先輩達は嘉夫に脅されたのだ。僕は複雑な気持ちになった。嘉夫が現われて、ますます先輩達は縮こまった。――こんなの面白くもなんともない。これではまたまた僕はあつらえた特等席ではないか。
 嘉夫は先輩達のうなだれた頭を平手でひとりずつ順番にぺたぺたと叩いた。もともと軟体な春海先輩はさらにからだをくねらせて小便でも漏れそうに震えている。嘉夫はどれほどの脅しをかけたのだろう。路地裏での嘉夫の喧嘩を思い出して僕は先輩達よりもよほど恐怖を感じた。怪我をしていない先輩達を見ると、逆にその脅しは並ではなかったことがわかる。涼しい顔をしている嘉夫に比べ、僕達は一様に大汗をかいて緊張していた。
「帰っていいぞ」
 嘉夫の一言で先輩達は至福の解放感を露にすると飛ぶように逃げていった。大いなる不満が僕を捉えた。特等席を大きなハンマーで叩き潰したい衝動にかられ、僕は足元に落ちていた石塊を思い切り蹴った。蹴られた石は高く上がって道の遥か端まで飛んでいったが、蕩けたアスファルトの上に落ちたのではその落下音も虚しく、ただ午後の夏の陽差しが僕と嘉夫の上に無遠慮に落ちているだけなのだった。
 僕は嘉夫を無視して玄関に廻って店に入るとシャッターを勢いよく持ち上げた。よほどけたたましい音があがったのだろう。どうかしたのと和室に下りてきた小母さんが訊ねたが、嘉夫はにやにやしているだけだった。おまけに缶ビールを呑み出していた。昼間から呑むな。僕は腹のなかで悪態をついた。レジに座ったら足元の雑誌に気づいて、そっと足で押しこんだ。嘉夫はすでに読んでいたかもしれない。この忌まわしい雑誌が店に置かれていないことに気づいていたかもしれない。さらに、レジの下になぜだか隠されていることを不思議に思ったかもしれない。つまり、僕が記事についてすでに知っていることを、嘉夫は勘づいていたかもしれない。
「余計なことしちまったか」
 陽が少しずつ翳りはじめていた。和室の敷居に座りこんだ嘉夫が僕の背後でいったが、僕は背を向けたまま黙っていた。きっと心配気な小母さんが二人の様子をじっと窺っているに違いない。
「嘉夫さん。有難う……」
 僕は相変わらず背を向けたままでいった。
「けど、僕が自分でやらなきゃいけないんだ」
 それきり、僕達は蝉の啼き声を聞くだけだった。店の前を夕刊配りのオートバイが通過していく。疲れた顔の中年男が扇子を忙しなく扇ぎながら店の前を過ぎっていく。誰も来ない本屋の午後の雀色。ぎゅっと缶が握り潰される音がして、嘉夫がいった。
「修一、今夜は俺んとこで飯食っていけ。な、おふくろいいよな」
「そうしましょ。小母さん久し振りに美味しいのつくるわね」
 小母さんの弾むような声に僕は抵抗できず、こくりと頷く。背後で嘉夫が笑っていた。

「お帰り。飯食うか?」
「嘉夫さんのところでご馳走になってきた。父さん、話ってなに?」
 母は部屋に篭って仕事をしているのだろう。父がひとりでリビングにいた。今夜は卓袱台が出ていず、父はテーブルで柿の種をぽりぽり水割りをやっている。なにかつまみでも用意しようかと気を利かせたが、まあ座れといわれて、僕は父の向かい側の席に着いた。父とこうした改まった恰好になることは滅多にない。ほとんどないといったほうが正しい。面と向かって話すことなどなかった。それでも必要なことは通じ合え、行き違うこともなかった。どちらも気を遣うようなことがなかったし、気を廻すこともなかったのだ。
「喧嘩のことだがなあ」
 やはりそれか。このままで済まされるわけがないと薄々感じてはいた。自分の息子があれだけの怪我を負わされたのだ。父親としてそれなりの決着をつけなければならない。僕としても一応のまとめをする必要がある。母が話しに混ざらないのは意識的なのだろう。感情的になるのが目に見えていて、だから父は母を除外したのだ。母の気性からして攻撃的になるのは絶対だ。金属バットでもなんでも持って仕返ししろというのに決まっている。放っとけば、母自身が学校に殴りこみをかけてしまう。金属バットを振り廻す母の姿を想像すると……笑えない。幸い、僕の家には金属バットがなかったから、衝動的な行動はまあないだろうと、なんだかこの心配は立場が逆ではないかと笑える。父も同様のことを感じたのか、目が笑っていた。
「修一はどうするつもりだ」
「僕はこのままでいいと思ってる。今日、先輩達も謝ってくれたし。もうなにもおきないと思うから……」
 僕は嘉夫が先輩達を脅したことについて話さないでおいた。僕の闘いをこれ以上複雑にしたくはなかったのだ。
「学校に知らせるべきじゃないのか。彼等だってこのままで済むとは思ってないだろう。別の事件をおこす可能性もある」
「でもそうすれば、単に処罰があるだけでしょ。停学とか、もっと悪くすれば退学。僕は今度のことを今はやりの苛めとは思ってないんだ」
「どういうことだ」
 父はグラスの氷を人差し指の先で掻き混ぜている。
「あれは先輩達が本気で怒ったので、決して僕を苛めたんじゃないと思う。あんなふうに変わってしまう先輩達は怖いけど、あれは虐めではなく僕と先輩達の喧嘩なんだと思う。それに、原因は僕のほうにあったんだし」
 僕は毀してしまった自転車の件を説明した。
「しかし、怒りがすぐ暴力になるのは考えもんだぞ。まして集団暴力だ。おまえは悔しくないのか」
「悔しいよ。頭にきてる。でも……」
 僕は、僕の闘いについて、否、闘い方について考えはじめていた。僕なりの仕返しの方法を、僕の復讐方法を、僕はいつの間にか無意識に模索していた。なにかを決めたという確信はこのことだったのか。では、どうやるのか。
「今はどうすればいいのかわからないけど、僕はこのことを自分なりに考えてみたい。どうするかはそれから決めたいと思う」
「そうか。私もお前に復讐などしてほしくはない……」
 父は水割りを呑み干すと、僕をじっと見つめた。それから、絶対に無理なことをするなよと念をおした。僕は頷いただけだったが、納得したのか父は、やっぱりつまみをつくってくれるかと、照れ臭そうにいった。
 母はまだ執筆に没頭しているのだろうか。二人だけのリビングはテレビの音もなく閑々として、夏の夜がゆっくりと更けていった。

「また来ちゃいました」
 気持ちよく舟を漕いでいたら元気な声に呼び戻された。もうすぐ昼休みの時間になろうとしている時分だった。襟足を少し刈り上げたショートカットで、天真爛漫に、屈託なく瞳を輝かせているあの子が、いつの間にかレジの前に立っていた。ボタンダウンの白い半袖シャツに、デニムのミニスカートからは細くて白い素足が伸びていた。女の子は一冊の文庫本をまた買ってくれた。ポーの『黄金虫』。この間はランボーの『地獄の季節』だった。ふうん、と僕はなぜか納得する。これで、ボードレールの『悪の華』でも買ってくれれば、僕はきっと……だからなんだというのだ。
「もうすぐお昼休みよね」彼女はいった。
「はあ……」僕は曖昧に応える。
「じゃさあ。お茶飲まない?」
 何だか馴れ馴れしい。これってナンパだ。逆じゃないのか女の子のほうからお茶を誘うなんて。今どき、そんなこともないか。
「なにか用?」僕はさらにぶっきらぼうに応える。
「別に……駄目?」
「いいけどさ……」
 強引だ。どういうわけか母を思い出す。
「じゃ、待ってる」
 いい残すと、女の子は店の外へと出ていってしまった。昼休みまで、まだ二十分もある。店のなかはまだしも、一歩外に出れば真昼の暑熱が湯気を立てている。時間まで待つ気なのだろうか。気が勝っているところも母にそっくりだと、女の子に捉えどころのない妙な近しさを感じる。でも彼女はいったい誰なのだろう。同じ中学校の生徒だったのだろうか。一向に見覚えがなかった。
 気になったので僕はレジを立ってそっと店の脇を覗いてみた。すくっと立った女の子の横顔があった。少し離れてはいたが、玉のような汗が額に滲んでいるのが見えた。そして手にはポーがあった。僕は急いで和室に上がると廊下から二階に向かって叫んだ。
「ちょっと時間早いけど、昼休みにしますね」
「わかりましたよ」
 少し掠れて、ちょっと不安になる、非力な小母さんの声が返ってきた。僕は再び店に下りてシャッターを降ろす。スニーカーを履くのももどかしく、玄関から飛び出して店の前に出たら、白い光のなかにきらきら輝く笑顔があった。
僕達は店から五分ほど行ったところの小さな喫茶店に入った。昼休みの食事時間には若いOLで混むが、今は近所の客らしい三、四人の主婦がいるだけで、気になるのか時々こちらを覗き見てはこそこそと話している。暇なんだな。
「残念だったわね」
 バニラのアイスクリームを平べったいスプーンで楽しそうに嘗めながら彼女がいった。唐突な言葉を僕はすぐに呑みこめないでいた。この子はいったい誰だろうと思う。女の子と喫茶店でお茶するなんてはじめての僕は手持ち無沙汰で居心地が悪い。かといって桃山を嗅ぐわけにもいかない。僕はコーラの氷をストローで掻き混ぜる。からからと音を立てて氷が廻った。
「なにが?」僕は訊き返した。
「湘南海岸」
 えっ。僕はグラスから目を離して女の子の顔をはじめてまともに見た。そして理解した。
「きみ、女子校の演劇部……」
「自転車、返してね」くすくす。
 すべての元凶が目の前にいた。まだ完全には癒えていないひびいり肋骨のおおもとが、無頓着な笑顔でバニラのアイスクリームを食べていた。
「ごめんね」
 アイスクリームをきれいに食べ終えた彼女がぽつりといった。僕は返す言葉も探せず黙る。
「怪我、大丈夫? あたし余計なことしちゃったね……」
「自転車は修理して返すよ」
 ようやく出た言葉は不貞腐れているようで、自分でも厭になった。
「そんなんじゃないの。貸した自転車のこと先輩に訊ねたらこんなことになっちゃって……ちょっと訊いただけなのに」
 厭々行った親睦会で僕はほとんど無愛想に誰の顔も見ようとも覚えようともしなかった。春海先輩の必要以上の駄弁で時間が過ぎていったことを覚えているだけだ。あのときの女子校生のなかに彼女もいたことなど知る由もない。この子はあのときから僕を見ていたのだろうか。それとも、自転車の件に自分でも多少の責任を感じて、いい訳をするために僕に逢いに来たのか。
「僕の怪我のこと、誰に聞いたの?」
「親戚の看護婦さんがいるの。この間あたしの家に遊びにきて世間話みたいなことしてたら、喧嘩で肋骨にひびいらせた高校生が入院したって……話を聞いているうちに 思い当たることがあったから、できるだけ詳しく訊いて……」
そうしたら、やはり僕だったということだ。お喋りな看護婦だ。きっと嘉夫を嗜めた看護婦に違いない。それにしても、最初に店に来たときに声をかければいいのに。女の子の気持ちがわからない。
「夏休み、ずっと本屋さんでアルバイト?」
「そのつもりだけど」
「あのね……」
「なに?」
 ちょっと間が空いて、
「……名前、訊いてくれないの?」彼女は悪戯っぽい目でいった。
「あ、ごめん。僕、修一。きみは?」
「瑠璃。瑠璃色のルリ。一年生です」
 一年生だと強調するのが妙に可笑しかった。
「難しい字だね」
「父が上海帰りのリルが好きでルリ」
「なに、それ」
「やっぱり変よね。ひどい父」
「いや、そんなことないけど。ごめん……けど、上海帰りのなんとかって、なに?」
「歌謡曲。酔うとすぐに歌いだすの、父。おかしいよね」
「そんなこともないよ。僕の父は釜山港へ帰ろうが好きだよ」
「あっ、偶然。どちらも帰るだわ」
「ほんとだ」
 他愛ない発見に彼女はうれしそうに笑った。僕も楽しくなっていっしょに笑った。そして、彼女、瑠璃はいった。
「つきあってくれますか?」
 どうしてこうも唐突なんだ。背筋を伸ばし、頬を紅潮させた瑠璃が、いきなり直球を投げてきた。僕は笑って開いたままの大口を閉じれない。きっと間抜けな阿呆面だ。グラスに残ったコーラを萎縮した喉の奥に一気に流しこむ。氷が喉仏を無理遣り通過して、むせた。からだ中が火照った。
「大丈夫?」訊いた瑠璃も頬を蕩けるような桃色に染めている。
 少し落ち着いてから、僕はこくりと頷いた。だが、その頷きはどちらの問いかけに対する答えなのか、果たして瑠璃はわかってくれたのだろうか。
 あっという間に休み時間が過ぎていた。
「ごめん。店に戻らなきゃ」僕は慌てて席を立った。
 二人は割り勘でお茶代を払うと慌ただしく店を出た。背後で主婦達のけたたましい笑い声があがった。
「電話していい?」
 急ぎ足の僕を追うようについてくる瑠璃がいった。なにをこんなに急いでいるのか僕は不可解だった。昼休み時間をたかが五分ばかり過ぎただけだろうに。
「電話番号教えてくれる?」
 僕の前に廻りこんだ瑠璃が再びいった。早口で家の電話番号をいうと、再び瑠璃を追い越して、それきり僕は一度も振り返らず大股で歩いた。
「絶対に電話する〜」
 背後に遠のいてしまった瑠璃が叫んだが、僕は振り向きもせず、うんうんと何度も頷きながら歩いた。角を曲がったところで、ステップを五歩踏んで、そして止めた。見覚えのある男が店の裏手に入っていくところを遠目から見たからだ。背の高い中年の男。来たよといって小母さんに逢いにきたあの夜の人だった。
 僕は少しためらって、わざわざゆっくりと歩いた。それでもすぐ店に着いた。木立が午後の強い陽を浴びて醇乎とした黒い翳を玄関のドアに焼きつけている。まるでその戸は僕を拒否するかのように、何者をもはばからない傲慢な衛兵のような、または堅牢に閉ざされた城壁の門のようにも見えるのだった。
 嘉夫がどうして店に寄りつかなくなったのか、僕はわかるような気がした。あの人がどのような人なのか知らないが、嘉夫にとって疎ましい存在であるのは、この僕だって易々とわかる。今さら新たな関係を生むにはわざとらしい嘘がつきまとうし、それはただ〈面倒〉という憂鬱を抱きこむだけだ。感情的なざらつきが生じるほど、嘉夫は幼くはないはずだ。放っておいてくれれば、それで済むことに過ぎない……などと思う僕はドアの前に立ち尽くして黒い翳に呑まれている。つまり、僕とは無関係だと思い切れないわだかまりを嘉夫に託つけているだけなのだった。
「ただいま!」
 僕は仰々しく聞こえよがしに大声で叫んだ。
「用事は済んだの?」
 和室から小母さんの返事が返ってきた。
「はい」
 僕はテーブルで煙草を吸っている男に小さく会釈した。男は、やあと野太い声をかけてきた。目が微笑んでいる。偉いね、小母さんずいぶん助かってますよ、頑張りなさいな。男のゆったりした声に小母さんが静かに頷いている。僕も小さく頷いて慌ただしく店に降りた。子供地味た身振りは人見知りで照れたのだと、きっと男に思われたに違いない。
 シャッターを開けた途端、かまびすしい音とともに薄暗い店のなかに強い光が侵入して、一瞬、外の暑熱と店の冷気の狭間に位置した僕のからだは均衡を失った。瑠璃との時間に思いのほか緊張していたことに気づく。瑠璃は電話番号を覚えられただろうか。今になって自分のぞんざいな対応を悔やんだのだった。
 夏の書店は暇だった。年の瀬の本屋も暇だというが、この店は季節に関わりなく暇だった。嘉夫が店を遠離って以来、仕入れの動きがなかったから棚の景色もあまり変わりばえしない。あれほど僕の心を踊らせたレジの席は再び僕の退屈を蒸し返しはじめているようで座りが悪い。店の本が、そして僕が、熟れ切った夏の季節にその身をもてあまし、なんだかつまらないんだよと、ぶつぶつ呟く。飽きっぽいのは僕の欠点だ。けれどそれよりも、僕の役割が所詮、僕が勝手に決めこんだ不相応で力不足な役であったと、にわかに感じたことが、聞き分けのないむつく頭をもちあげたのだ。小母さんは僕のものではないのだった。
 店の前を長身のあの人が通り過ぎる。誰に向かってなのかわからないくらいに曖昧に軽く頭を下げて、少し目配せして、その人は一瞬に視界から消えた。僕はきっと瀬戸物の招き猫みたいに愛敬を浮かべてじっと固まっていたに違いない。先生もそうだった。僕の視界にはいつも幻のように通り過ぎる人の姿がある。レジの椅子は僕の脳をファジーにしてしまい、あとからあれは現実だったんだろうかと不安になる。僕は夢のなかに生きていて、今は長い眠りのなかにいるのだと思えてしまう。いつか目が醒めて、そのとき僕は白髪と数え切れない深い皺を顔に刻み、水気のない皮膚の手足で歳老いている。本当の人生ってあるのだろうか。夢もまた現実なのだろうか。
 背後から頭をそっと撫でられてはっとする。それでも僕は固まったままだった。撫でる手は何度も僕の頭を行き来した。それは母の撫で方とは違う動きだった。小母さんがどんな意味で僕に優しく触れるのか、僕は振り返りもせずに考えた。まるで同情しているかのようだと勘繰る。僕は小母さんを愛している。小母さんはどうなのだろう。僕を好いてくれているだけなのだろうか。愛してくれてはいないのだろうか。小母さんの口から言葉が出ないのはなぜだろう。どうしてなにもいってくれないのか。一言あれば、忌まわしい瀬戸物から僕は解放されるのに。
 たまらなくなって僕は思いつきもしない言葉を探そうとした。すると小母さんの手が頬に落ちて僕の唇を塞いだ。小さな掌が僕の唇の上で柔らかく匂った。それは陽だまりに屈めた小母さんのからだを抱きかかえたときに知った、あのときと同じ匂だった。僕は目を閉じた。それ以外に僕はなにができただろう。僕にはそれしか、この狂おしい瞬間をこらえる方法を見つけられない。わからないことが、こんなにも甘美で、麗しく、これ以上の美しさは見つからないのだと僕は知る。長身のあの人が何者で、小母さんとはどんな関係で、そんなことは僕の小母さんに対する気持ちとは全然無関係で、僕は僕の感情がたったひとり、今僕の唇が掌に触れている小母さんに向けられていれば、それでいいと思うのだ。
 僕は小母さんの掌に自分の手を重ねた。それから息がたどりつくところまで深く深く小母さんの匂を吸い、ゆっくりと吐いた。小母さんは、くすくすと小さく笑って力なく僕の胸を抱きすくめ、僕の首筋に頬を寄せた。僕は紅潮する自分の顔を鏡に映すようにはっきりと意識できた。店の前を誰かが通り過ぎるのではないかとはらはらもした。こんなに大胆な小母さんの抱擁は、多分、幼子を愛でているに過ぎないのだろうと僕は思う。
「修ちゃは、いいこね」
 掠れた小さな囁きが耳奥に忍びこむ。
「小母さんのこと心配してくれてるのね……」
 それきり小母さんは黙って、いつまでも僕を抱きしめていた。きっと僕と同じように目を閉じているのだろう。ずいぶん永くもあり、瞬時の出来事でもあったように思う。僕のなかから時間がなくなっていた。時の消失は僕の願望であったかもしれない。なぜなら時はひたすら解体へと向けてすべてを溶かし、「古き王の調伏」を谷間のこだまのように繰り返す手に負えぬ厄介なものだと僕は思えたからだ。
 溶ける予感の時の裡で、小母さんと、古き王を見つけられない僕が、午後の暑熱の漂いに静かにまぎれる溶けた時間。抗拒不能と視界ゼロの杓子定規。平積みの本をかさかさとめくる小さな風が、その見えない曖昧な姿を店の隅に吹き溜めて消えていく。
 その夜。幾度も去っては寄せる紺碧の漣のような小母さんの匂に、僕は眠ることができなかった。匂はいきなり現れて、その都度僕をはっとさせた。心臓の鼓動が狂ったようにヒステリックで無遠慮に暴れた。真赤な炎となって燃えてしまうのではないかと不安を覚えるほど、僕のからだはぎらぎらと灼熱し、ベッドに横たえたからだをもてあました。寝返りを繰り返すが、僕のすべてはますます熱く鋼のように硬直した。脱臼したかのごとく全身の硬直が退いたのは、ようやく白みはじめた朝のことだった。遠くに新聞配達のバイクの軽い音を聞き、雀の細かいさえずりがちらほらと流れ、帰りそびれたか、帰る場所を忘れたか、数羽の烏が物憂げな啼き声を朝霞のなかに侘しくさまよわせている。それからようやく、朦朧とした僕の脳は、やっとの思いで眠りについたのだった。

 夏休みはもうすぐ終わる。再び退屈な学校生活がはじまる。それとともに僕のアルバイトも終えなければならない。嘉夫が寄りつかなくなった店はどうなるのだろう。考えるまでもなく、休店になるのはわかりきっていることなのだけれど。小母さんの体力は日増しに消耗しているようで、店を開ける気力はもうないはずだ。休店、休業、そして間もなく店は完全に閉じられ、灰色のシャッターが降りたままになる。マニエリスムの本が一冊も置かれたためしのない本屋。返本の処理もそのままに、取り残された本達が、薄暗くて狭い空間に息を止め、ぶつぶつと呟くこともなくなって、黄ばみ、衰え、萎えた匂を発酵し、老いていく。いつか、十字架をつきつけられた吸血鬼のように、ほどけて、溶けて、崩れて、突然吹く風にさらさらと砂のように流れて消えていく。または、指を触れた途端、ぼくぼくぼくと音を立て、両の掌のなかでその姿をあっけなく消滅する。まるで火葬場で焼かれる骸のように、あっけない滅。人と本はどこか似ているなと思う。
 嘉夫に逢いたい。藍い瞳の先生に逢いたい。嘉夫がいなければ淡い色した薄布のワンピースも店の前を幻のようには通りすぎることがない。ビートルズのメロディーも聞こえてこない。二人はいったいどこの海原の上でもつれあいながら飛んでいるのだろう。どこの大空を舞っているのだろう。小母さんと僕を忘れて姿を見せぬ嘉夫と先生が、僕は悔しくて、癪にさわって、もどかしくて、そして懐かしかった。
定休日の午後。僕は学校にいた。駐輪場に放置したままの毀れた自転車を修理に出すためだった。
 閑散とした運動場の地面を薄ら寒い渇いた空気が這っていた。もうすぐ夏が終わり学校がはじまる。それまでにすべての元凶を処理しておきたかった。先輩達に再びうかつさをつかれるのも厭だった。瑠璃だって自転車がなければ新学期からの通学にこまるだろう。
 学校は辺り一面ぽっかりと穴を開けたように静まりかえっていた。もぬけのからだった。木造校舎の廊下には誰か見知らぬ人が音もなく歩いているような、広漠としたグラウンドの地面のあちこちからは能面のような無表情な頭がぽこっぽこっと突き出るような、誰もいない学校は少し不気味で、まるでアルチンボルドの描く肖像画がそこらいっぱいに貼りついているような雰囲気だ。それは僕にとっては気持ち悪くて楽しくもある風景なのだった。遠く離れた林のなかからはもう蝉の啼き声は聞こえてこない。
 実習室の脇道を抜けて、すぐに駐輪場のある道に出た。数台の自転車に混じって瑠璃の自転車がぽつんと遠目に見えた。歪にひしゃげたハンドルがなんだか寂しくうなだれているみたいで痛々しい。そんな瑠璃の自転車を放置したまま忘れていた僕は、やっぱりいけない。先輩達との喧嘩は五分と五分、僕は僕で謝らなくてはいけないのだと感じた。決着はそれからあとでいい。僕のリベンジはそれからのことなのだ。重い自転車を駐輪場からひきずり出した。前輪がうまく動かないので、持ち上げるようにして運ぶ。
 右手に曲がると、相変わらず打ち捨てられたような三角帽子の古びた部室が、少し先に現れた。と、人影がひとつ部室から抜け出て、すっと校舎の谷間にもぐりこんだ。その影は急くこともなく走ってもいなかったのだが、建物の陽翳にまぎれて一瞬に消えた。先輩だろうか。それにしてはひとりというのもおかしい。部活などやっていないのだから、わざわざ部室に来る必要はないはずだ。それとも部室のなかには別の部員もいるのだろうか。僕は不安になった。ここで先輩達に出逢えば、また蒸し返しになって、今度は取り返しのつかないことになってしまうような気がした。僕は迷った。
 戸惑いながらも結局は好奇心が勝ち、迂回して部室の裏手に廻った。自転車を部室の裏にそっと立てかけ、忍び寄るようにして部室の横にいき、板張りの壁にへばりついた。途端、妙な恐怖感が胃を絞り、にわかに便意を催した。が、こんなときに校舎のトイレなんか入れない。胃が萎むどころか、心臓がゲロを吐くくらい余計に恐ろしい。
 恐る恐る壁に耳を当てて内部の様子を窺った。錆びた鉄が軋む小さな音が聞きとれた。あれは電気椅子だ。背凭れになにかの重みがかかっている。電気椅子に誰かが座っている。誰かが確かにいるのだ。胸の辺りに粘っこい脂汗が滲み出て痒くなったが、掻きむしる音を部室のなかにいる人間に聞きとられるのではないかと心配で掻くのを我慢した。恐怖。便意。痒い――僕は意を決して部室の入口に一気に廻りこんだ。

 それはサロメが狂喜したヨハネの首だった。

 見知らぬ中年の男が電気椅子に凭れて痴呆のような目で天井を仰いでいた。口の端にだらしなく意地汚ない涎を垂らしている。男はズボンと下着を膝まで下げて黒ずんだ粗い肌を剥き出している。だらりと投げ出した手足がぴくぴくと痙攣していた。部室いっぱいに漂う異臭がむかつく。酒と汚物となにか知らないものが混じった悪臭だ。男の足下には黄色く濁った濃い液体が溜まっていて、膝に溜めたズボンと下着も濡れている。男の目は恐怖に怯えているようだ。意識はあるのだろうが、からだが思うように動かせないといった感じだ。天井を見つめる充血して濁った瞳が時々かっと見開いては再び気が抜けたように阿呆な顔になった。空になったビールのアルミ缶が電気椅子の横にくの字にひしゃげている。部室の隅にはストロボを装着したかなり高価そうなカメラが無造作に転がっていた。
 呆気にとられた僕は部室の前で棒きれのように硬直していた。さっきまでの恐怖心はいつの間にか薄らいでいたが、いい知れぬ不安は胸の底に重く停滞したままだった。そして全身に細かい汗が噴いているのは、子供っぽい恐怖心を拭い切れないでいるからで、そして、男の首が切れていたからだった。といっても、もちろん首と胴が切り離されていたわけではない。仰向いた首筋に横一直線の紅色の細い線が走っていたので、一瞬、首が切断さているように見えたのだ。切り口から濁ったどす黒い血が簾のように滴り、それはすでに乾いて凝固しはじめているようだった。まるで華奢な首輪をしているようだ。傷は意外に浅く致命傷ではないだろうと、僕は勝手に、正気に戻れば自力でなんとかできるに違いないと推察した。
 いったい、この男はどうしたというのだろう。単純に酒に酔っているようには見えない。なにかからだを麻痺するような薬かあるいは毒を呑んでいるのではないか。首の傷は校舎の陰に消えていった人間がつけたのだろうか。自分自身でこんなことができるはずがない。浅い傷から推察するに、これはきっと脅しだ。
 今度は必ず切り落とす。
 細く鋭利な首の線がいきなりぱかっと真紅の切断面を見せる気配がして、やっぱり僕は怖くなるのだった。
 と、いきなり男の首が立った。睨んだ眼球が血走っている。僕はすっ飛んで部室の壁に立てかけてあった毀れた自転車をほとんど担ぐようにして逃げだした。背後から呻くような、唸るような、得体の知れぬ獣のような声が追ってきたが、無視するのは当然で、とりあえず僕は走ることに専念したのだった。

 自転車を抱えたまま呆然自失、荒い息を切って産業道路の脇にいた。ふと、いつまでも重い自転車を抱えている自分に気づいて、自転車ごと地面にへたりこんだ。目の前を車が猛スピードで走り過ぎていく。こんな状況でもしっかり当初の目的を遂行していることに半ば呆れ半ば驚いた。僕ってけっこう根性があると感心した。しかしいつまで経っても、ばくばく音を立てた心臓の鼓動が治まらない。ズボンのポケットから桃山の缶を取り出して刻みを嗅ぐ。甘い匂いが鼻孔から疲労困憊の脳に勢いよく染みていった。
 前輪を少し浮かせながら後輪を廻して自転車を運んだ。三百メートル離れた先に産業道路に面して小さな自転車屋があるので、そこまで運ばなければならなかった。瑠璃には済まないが、ああ面倒と、僕はいい加減うんざりした気分で融通のきかない自転車をひきずる。からだはくたくただったが、電気椅子の男が気になってあれこれ思い巡らせながら歩いた。校舎の蔭に消えたのは誰だったのだろう。よほど男に恨みのある人間だ。脅しの方法が陰湿で事件にならない程度にほどよくとどめている。あの程度の傷は治療しなくても簡単に治るだろう。多少の傷跡は残るだろうが、それとて襟の高いワイシャツで覆うことができる。外見上はそうだ。けれど男の内部に残す傷は大きいのでは。恐怖という傷がいつまでも癒えないで残るだろう。いつか首と胴が分離してしまう恐怖。僕は〈鉈〉を思い出して、ちびりそうになった。冷や汗がからだ中に細かな泡となって浮き出すのを感じた。無関係な僕でさえこうなのだから、男は多分、警察には訴えて出ないだろうと思った。
 自転車は三日もすれば直るといわれた。いっそのこと新しいのを買ったらと油だらけのつなぎを着た店の爺が余計なことをいう。そんな金があるなら本を買うと、僕は頭のなかで呟いた。デリカシーに欠ける爺だ。なけなしの小遣いで修理代を払うのだからぼるなよな。
 バス停でポールの横にしゃがみこみ再び桃山の刻みを嗅いでバスが来るのを待つ。よほど疲れたのか、嗅いだ刻みの匂いをくどく感じたので、すぐに蓋をしてズボンのポケットにねじこんでしまった。ぽかんと口を開けて空を見あげたら、いつの間にか真赤な夕焼け雲が空一面を覆っている。一羽の烏が間抜けな啼き声をかったるそうに吐きながら真黒なシルエットで飛んでいる。やがてとろいバスがやって来て、僕を拾って茜色に染まった産業道路を走り出した。
ヨハネの首はどうしただろう。
 見ず知らずの汚い男がヨハネのはずもなく、まして小便にまみれた下半身まる出しのみっともない姿はなにひとつ崇高な神秘もなくて、そこには単なる汚物があるだけだった。ではなぜヨハネの首なのだ。どうして僕はあの光景にヨハネを連想したのだろう。揺れるバスのなかで漫然と電気椅子の光景を思い出していた。首筋の傷がペン先で一直線にひきぬいた真赤な細い線のように思えた。ひとつの乱れもない定規をあてたようなレッドライン。どんな刃物を使ったらあのように切れるのだろうか、と思ったらすぐにわかった。剃刀だ。
 剃刀――女。男が持つとすればナイフか包丁だ。剃刀は持たない。いや、カッターナイフもあり得るか。けれど、一瞬目に飛びこんだ線のような華奢な傷に、僕は女を漠然とイメージしたのだ。踊るサロメ。爪先立ってうつむきかげんで舞う美しいサロメ。一枚一枚、薄布を父王の前で脱いでいく豊満な肢体のサロメ。僕の好きな部類に入る十九世紀の画家ギュスターヴ・モロオの描いた踊るサロメだ。悪と運命と死を現わすというモロオの女達。サロメはヨハネを愛した。ヨハネはその愛に報いずサロメの逆恨みにあってサロメの父王に首を斬り落とされた。そしてサロメはヨハネの首を手にして狂喜した。そんなサロメを僕は好きだ。本当の愛だと思う。純粋な愛は、あらゆる思惑を削ぎ落とした、ただひたすらに対象を所有したいという願望だと思うからだ。与えるものがなく、得るものもない。そこには、幸福も、不幸も、存在しない。なにもないのだ。きっと底無し沼のように深い碧眼のサロメ――危うい。そんな僕はだいぶ危ないと自分でも思う。そういえば、モロウはマザコンだったらしい。僕もひょっとしたらそうなのかもしれない。考えてみると、僕のなかで母の存在はやけに大きい。これは問題だぞ。それにもうひとつ気になることがある。ヘルマフロディズムってなんだ。モロオの描くオルフェウスもヘラクレスも聖セバスチャンも、みんな女みたいだって渋澤龍彦がいっている。
 修一は女の子みたいだ。
 父の言葉を思い出して、僕はめげる。
 バスは悪路に揺れながら、そんな僕をただのぼろきれみたいに運んでいた。バスは僕の揺り篭だ。パブロフの犬のように、僕は揺れるバスに条件反射して、すぐに眠たくなってしまう。まるで赤ん坊のように幼い。
 校舎の陰に隠れたのは……女。
 うたた寝からいきなり目が醒めた。と同時に「終点だよ」とバスの運転手にマイクで声をかけられ、僕は慌ててバスから降りた。駅前は煌々と明りが灯り、改札からは通勤帰りの客が吐き出されていた。朦朧としておまけに頭痛までしたので風邪でもひいたかなと思ったら、今になって便意が蘇った。駅前にある公衆便所で用を済ませるとすべてが軽くなり、走った疲れも頭痛も嘘みたいに掻き消えてしまった。我慢していた便意で熱でも持ったのだろ。幼稚なからだめと自嘲的になっていたら、次はお腹がすいた。幼稚なんてものではない。阿呆な連想ゲームみたいに僕の脳細胞とからだは単純すぎる。
 しかし空腹には勝てないから、僕はどこかでラーメンでも食べようと商店街に向かった。商店街には居酒屋や飲食店がいくつかあったので、勤め帰りの人間が渇いた喉を潤すためや、甘味をあてこんだ若い女達が何人か連れ立って、アーケードをくぐっていくのが見える。商店街が帰路にあたる人間が途中の店で必要な食品を買いこんだりもしている。それに、用もないのに悪びれた目つきでうろついている茶髪の男達や、一様に携帯電話に噛りついている女達もいた。商店街にあるゲームセンターで遊ぶ不良達だ。奴らはゲームもしないでくっちゃべっているだけだ。みんないきがっているが、嘉夫の顔を見た途端に蜘蛛の子を散らしたみたいに消えてしまう。嘉夫のなにがそんなに怖いのだろう。少し奥目の鋭い眼光がややおっかないと僕も感じるが、その態度はどちらかというともの静かで茫洋としている。皮肉っぽい冗談をいってからかうが、決して僕には乱暴なことをしない。でも、いつかの夜に偶然見た嘉夫の暴力は、やはり怖いと思うのだ。街の不良達が嘉夫になにをされたかわからなかったが、本能的な恐怖感を動物的な勘として捉えているのかもしれない。
鉛のような重力がいきなりからだ全体にのしかかってきた。膝が折れて舗石に沈没しそうになったが、ようやくこらえた。
「不良め」耳もとで懐かしい声がした。
「痛い」耳たぶを噛まれた。
 嘉夫だった。そして藍い瞳に小さな笑みを浮かべた先生がいた。
 どこを飛んでいたの。僕と小母さんを置き去りにして、二人っきりでどこの大空で遊んでいたの。夏が終わるから、懐かしい温もりが恋しくなったから、あなたたちは身勝手に、そして気侭に、舞い降りて……。僕達は黙して互いに見つめあうだけだった。
 やがて、僕の肩を掻き寄せた嘉夫は不貞腐れた僕を促して歩きはじめた。その二人の後を先生は黙って歩いている。ゲームセンターの前を通りかかったら不良達がさっときれいに消えた。女達が携帯電話をそっと尻の後ろに隠した。
「元気にやってたか?」ビールを一口あおって嘉夫が訊いた。
 三人は嘉夫が暴力事件を起こしたときに入った居酒屋にいた。
「僕はいつもと変わらない」
「怒ってるのか」窺うような目つきで僕を見る嘉夫が憎たらしい。
「知ってるでしょ」
「おふくろのことか」
「ほっといていいの? 小母さん元気ない」
「修一がついているだろう。それに……」嘉夫は後を濁した。
「嘉夫さんはそれでいいの?」
 嘉夫はそれには答えず、店の黒板に書かれた品書きを見ながら調子を少し高めていった。
「もう鍋が出てるぜ」
 それきり、嘉夫はビールを静かに呑むだけで、先生も無口だった。と、鳴った。僕のお腹は無遠慮な音でぐうと鳴った。ぐう、ちょき、パーな僕。先生が口を押さえて笑った。嘉夫がビールを吹き出した。僕もたまらず笑った。それからも僕のお腹は何度も何度も鳴った。
 僕達は熱い鍋で宴会をした。酔った勢いで瑠璃のことも告白した。これはちょっと失敗だった。嘉夫が瑠璃のことでしつこく僕をからかうからだ。先生が止めても嘉夫は瑠璃との関係がどこまでいっているのだと無礼な追及をやめない。あまりしつこいので、最後までさと僕はいきがった。先生がへーと妙に感心する。嘉夫は僕の嘘を見抜いてか馬鹿にした目をしている。それでも、やったぜ修一乾杯だあと、無理やり乾杯をつきあわせては新しいビールを注ぐ。その度に先生も乾杯に応じた。
「先生の目って藍いですね。まるでサロメみたいだ」
 今日一日の疲労に酒の酔いが廻って僕の制御機能が麻痺したのだろう。呂律の廻らない自分の吐いた言葉に一瞬うろたえた。それは先生にとって意味不明なことをいってしまったという後悔ではなく、どうして先生とサロメが結びついたのかという根拠のない疑問に、まさかという不安が僕の脳にとり憑いたからだ。それから僕はどんなに酔っても、部室で目撃した今日の出来事を一切口にしまいと酔った頭で思った。
「そうかしら」と先生も酔った頬に手をあてている。
「修一のおはこがはじまったな。サロメチールがなんだって?」
 いい按配に三人は酔っていたので救われた。僕はビール瓶を持つと、まあまあ再会を祝してぐぐぐいと、といって誤魔化した。
「嘉夫さん、いつもどこにいるの?」そして鋒先を強引に変えた。
「ま、いろいろさ」
 嘉夫は先生の横顔を虚ろな目でひょいと見る。先生も虚ろな目でうんうんと頷いている。桜色に染まった先生の頬が透きとおっていた。久し振りに見た先生は少し痩せたようだが、子供の僕にもわかるほど、ますます美しくなって、掴みどころのない物体のように艶やかに妖しく輝いている。ほろ酔いが美しさに拍車をかけてもいた。潤んだ藍い瞳が時々不思議な光を放って輝く。女の人はこうやって変貌していくのだなと酔った頭で思った。瑠璃もそうなるのだろうか。今は男の子みたいに短い頭髪を刈り上げているけれど、いつか、先生のように髪を伸ばして薄紅をひき、ジーンズのミニスカートを絹のブラウスが似合うタイトスカートにはきかえるとき、瑠璃も美しくなっていくのだろうか。今はちょっと想像もつかないのだけれど。
「るりちゃ〜ん」
 嘉夫が僕の顔を覗きこんでへらへらと笑った。先生が嘉夫の後頭部を平手で叩いて睨んだ。いてえなあと嘉夫は口を尖らせた。ざまあみろ。僕はいつまでもけたけたと笑った。先生も大声で笑った。いつか嘉夫は汚れた卓の上に顔をうつ伏せて酔い潰れていたのだった。

 昨夜遅くから降りはじめた雨が細い無数の銀糸となって音もなく早朝の戸外一面を鈍色に染めていた。僕は朝刊の届く音を聞くとパジャマのまま庭に出て、ブロック塀と一体化した新聞受けから湿って重くなった新聞を抜き出した。頭髪が細かい雨粒で濡れた。台所でココアを入れて二階に戻るとベッドの上に新聞を広げて頁をめくるが、それらしい記事は何も見つけられない。推察通り、男はあれからしばくして意識を回復すると、汚いからだと落ちそうな首の不安をひきずりながら、どこかへと消え去ったのだろう。半ば安心し、残り半分、意味知れぬ気懸りが掴みどころのないガスのように僕の頭のなかで靄いだ。
 昨夜調子に乗って呑みすぎたせいか、胃が重くて酸っぱい。嘉夫達と別れ、家に戻ったのは夜中の二時を廻っていたと思う。すぐに二階に駆け上がりベッドにもぐりこんで寝てしまったので、確かな時間も知らない。僕も僕だが、嘉夫も嘉夫だ。それに先生はもう先生ではなかった。僕は嘉夫達との久し振りの再会に浮かれただけだった。小母さんのことも、店のことも、二人になにがおきているのかさえ、すべてはぐらかされて僕は馬鹿騒ぎに酔ったのだった。頭の片隅にヨハネの首が巣喰い、目の前の妖しく輝く碧眼のサロメに惑わされ、僕ははめをはずしたのだ。結局、二人があれからどこに消えたのか、僕にはわからなかった。
 リビングに下りて窓のカーテンを開けると、ひ弱で朧な朝の陽が部屋に入りこんだ。掃除機をかける。たいして散らかってはいないが、習慣だから一応のことはする。ポットに水を入れなおして沸かす。FMをかけるとハープシコードの調べが流れた。朝の音が家の隅々に隈なく這っていく。
「水、おくれ」
 いつの間にか母がテーブルについていた。
「あれ、母さんいたんだ」
「ちょいと夜遊び過ぎない。あんた」
「父さんは?」
「まあ、おとぼけね。父さんに似てきたわ、まったく。父さんも酔っ払ってご帰還。まだ寝てる」
 母さんは冷えた水を旨そうに呑みみ干した。そういう母さんだって呑んだくせに。顔がむくんでるよ。というと倍になって返ってくるから小利口な僕は口にはしない。ポットの湯が沸いたのでコーヒーをいれて母に恭しく捧げる。インスタントのコーヒーで気取ってどうすんのと憎まれ口を叩く母を尻目に、僕は掃除機のコード巻取りボタンを押す。最後の三十センチが収まらずに残る。半端な尻尾だ。
「母さん、三千円もらえる」
「なによ、いきなり」
「自転車の修理代なんだ。あさって直るんだ」
「いいわよ。だけどアルバイト代が入ったら返すのよ」
「けちんぼ」
 聞えないふりしてコーヒーを啜る母の眼は眠そうだ。どうせまた寝てしまうのだろう。その前にもらうものをもらっておこうと僕は母の部屋に財布をとりにいった。
 久し振りに入った母の部屋は整然として余計なものがなかった。どちらかというと殺風景な部屋だった。多分、仕事で呑んだ帰宅後も仕事をしたのだろう。デスクの上の灰皿が山のような吸い殻で溢れていた。電源が落ちていないパソコンには書き差しのテキストがびっしりと埋っている。母は寝ていないのかもしれない。床に無造作に置かれていたハンドバックと汚れた灰皿を持って僕はリビングに戻った。母にハンドバックを渡し、灰皿の吸い殻を流しに捨てて洗った。
「今度は岐阜に行くの?」
 きれいに拭った灰皿を母の前に置いて訊いた。パソコンのテキストに岐阜という文字を見たからだった。
「そう。でも実際の取材は来年の四月。それまでの構想よ」
「僕も行きたいなあ。カメラで連れてってくれないかなあ。本代も稼ぎたいし」
「そのときになってみないとわからないわ」
 母は財布から五千円札を抜いて僕にくれた。そして、ちゃんと返すのよというと、灰皿を持ってリビングを出ていった。
 店に行くにはまだ早かったので二杯目のココアをつくって呑んだ。なにか食べなければいけないと思ったが、昨夜呑みすぎたせいで食欲がない。からだのエンジンもかからない。テーブルでココアを啜りながらぼんやりと昨夜のことを考えた。
 嘉夫も先生も元気だった。僕が気に病むにはおよばないと、少し期待はずれのする思いだったが、それはずいぶんひどい的外れだなと自分の卑しさを少々恥じた。先生が元気でなかったならば悲しい。きっと僕はやきもち焼きなのだ。僕を忘れている二人に嫉妬しているのだ。こまっていればいいのにと、ひねくれているのだ。僕って気が多いのかしら。小母さんが好きなんだけれど、先生も好きだ。でも、小母さんは嘉夫のお母さんで、先生は嘉夫の恋人だ。どちらも嘉夫のものであって、僕はただの僕だ。あんなにもいいかげんな嘉夫を先生はどうして好きなのだろう。時々酔った嘉夫に頬を叩かれているし、お金だってせびられている。本は売っているけれど、そんなに読んでもいない。それに不良だ。優しくないじゃない。僕のほうがずっとましだ。けれど僕と嘉夫を比較してみても、どうしたって先生は嘉夫のものだし、小母さんはきっとあの人のものだ。掌に包んだココアが冷たくなっていた。
 そろそろ着替えて店に行こうとテーブルを立ったとき、電話が鳴った。留守電にしたままの電話から澄んだ小さな声が流れはじめた。
「こんにちは。瑠璃と申します。修一さん、お電話をいただけますか」
 つづいて自分の電話番号を伝え短い伝言はあっさりと切れた。不親切にぞんざいに教えた電話番号を、瑠璃はしっかりと覚えていた。僕は瑠璃の短い伝言を再生して何度も聞いた。折返しすぐに電話をするのもなんなので店の途中で電話をかけることにした。ゆっくりと丁寧に区切りをつけて伝える瑠璃の電話番号をメモり、パジャマを着替えて店へと向かった。
 外は霧雨に煙り薄墨を撒いたように灰色に染まっていた。通りすがりの家の庭先に八重の花びらに水滴を溜めた芙蓉が白く浮いている。ふと小母さんを思った。梅雨時の紫陽花といい、今朝の濡れた芙蓉花といい、小母さんには雨のイメージがつきまとう。白い芙蓉花は夕方になれば朱色に染まり、まるで酒に酔ったかのように艶やかな赤い色に変わるという。美しい人のたとえによく小説にも出てくる。酔芙蓉は倉橋由美子の『シュンポシオン』や高橋治の『風の盆恋歌』にもつかわれていた。けれど、どちらも中学生だった僕にはついていけなかった。いま読んでも同じだろう。大人の複雑な関係なんて、たった二人のこと、嘉夫と先生のことだけど、それすら理解できない僕に、入り組んだ男女の関係は難しすぎる。単純に、僕は小母さんが好きだと思うだけなのだ。朝霧の雨が音もなく傘に落ちていた。
 煙草屋の公衆電話で瑠璃に電話をかけた。瑠璃が直接電話に出て、逢えるかと訊く。それで明日には自転車が直るので夕方に駅前で待ち合わせしようということになった。逢えることを確認できた瑠璃はそれ以上余計な話はしようとせず、どちらからともなく短い電話を切った。受話器を置いてから、どこか素っ気ない瑠璃に、僕は少し不満を感じた。なんだか事務的で先日のような弾んだ調子がない。むしろ少し固い緊張感があった。気のせいだと思いなおし、どこかに瑠璃に期待を抱いた自分が照れ臭かった。瑠璃にいったいなにを期待したというのだろう。デートの約束であればもっと甘い雰囲気があってもいいのではないか、そんな風に思ったのかもしれない。
 和室にはすでに小母さんが下りていてテーブルでお茶を呑んでいた。まだ開店には五分も早かったが、僕は前掛けを着けるとすぐに店に下りてシャッターを開けた。雨除けのために軒の陽除け用ブラインドを目いっぱい降ろし、はたきを一廻りかけ終えたら、小母さんがお茶を呑みましょうと和室から声をかけてくれた。
 心臓の鼓動が止まりそうになった。テーブルの上に見覚えのある雑誌が置いてあったからだ。またしても僕は大間抜けをしていた。レジの下にしまいこんだ例の写真雑誌をそのままにして忘れていたのだ。
「修ちゃん、許してね」
 小母さんの言葉に僕は戸惑った。謝るのは僕のほうなのに。
「しかたのない嘉夫……修ちゃん、小母さんに知らせたくなかったのね。ありがとう……」
 嘉夫のことを結局こんな形で知られてしまった自分のうかつさを悔やんだ。小母さんの心痛を思うとたまらない。嘉夫達と馬鹿騒ぎをしたことも後ろめたく、二人の近況も伝えないでいる僕は、いたたまれない気持ちになった。けれど、なぜか僕は二人に逢ったことをどうしても小母さんに話すことができなかった。もっと大きな、もっと悲しいことが、二人の身におきているようで、怖かったのだ。
「でもね、あの子はもう子供じゃない。自分のことは自分で解決するわ。修ちゃん、気にするのやめようね。小母さん大丈夫よ」
 まるで自分自身にいい聞かせているようだ。微笑んではいるが、その瞳は深く沈んで翳っていた。
 店はいつもと変わらなかった。梅雨に戻ったような天気のせいもあってか、店の前を色とりどりの傘が行き交うだけで、客はひとりもない。小母さんは午後から病院に定期検診に行くといって二階で休んでいる。ご多分にもれず、僕はレジでうたた寝だ。
 雨の湿気に誘われたのか、微かな本の匂が狭い店のなかを漂い、半睡の僕の鼻孔に優しく薫る。甘美なインキの匂だった。赤、青、黄、そして墨の四色がそれぞれに混じりあい、時には金色、銀色、ピンクや緑や黄色の特別な蛍光色が織りなって、それは色の匂でもあった。幼いころに垣間見た近所の小さな印刷工場の光景が朧に蘇る。
 ――小柄な中年の印刷工が両手のヘラで粘土状のインキを調合していた。はじめそれぞれが単色の塊だったインキが、ヘラで混ぜあわされ、こねられるうちに、想像もつかない不思議な色の柔らかい粘土に変わっていく。まるでチョコレートのようにとろりと蕩けていく。幼い僕は思わず指の先で嘗めてしまいそうな気分になった。
「これは食べれないのだよ」
 工員が薄笑いをしながら、目を寄せてじっとインキを見つめていた僕にいった。けれど幼い僕は工員の言葉をにわかには信じれず、いつまでも物欲しげにインキを見つめていた。
「そんなにほしいのかい」
 工員はそういうと、昼飯に使ったのだろう割箸の片割れの先にインキを少しつけて僕にくれた。そして、食べちゃ駄目だぞといって、笑いながら工場の奥に消えていった。
 工場から出た僕は脇に廻って、少し朽ちかけた木造の壁に背をもたれて、割箸の先をいつまでも眺めていた。不思議な色。不可解な蕩けた塊。甘美な匂。こんなにも芳しいものが食べれないはずはない。そう思い至ったとき、割箸の先は口のなかにすっぽりと入っていた――。
 今、その味を覚えてはいない。ただひたすら胸苦しくて、大量の胃液を吐いた記憶が残っているだけだ。そして、泣きながら口の周りいっぱいに広がったインキを拭きとる母の顔につられ、自分も泣き出してしまったことを懐かしく思い出す。
にもかかわらず、僕はいまだにインキの匂が気に入っている。食べてしまいたいほどに好きなのだった。
 ついでにいうと、ゴムの匂も好きだ。これも近所にあったゴム工場のおかげだ。通りすがりに仄かに匂ってくる少し焦げたようなゴムの柔らかな匂。長い時間では鼻につく、ほんの瞬間だからこそ芳しく感じる優しいゴムの匂。思い出という言葉に、必ず僕はこのゴムの匂をまず思い出す。
 小さな印刷工場も、秘密めいたゴム工場も、いつなくなってしまったのか、いまでは瀟酒な住居になって、匂は消えていた。
 昼の時間、昼休みの時間を利用した近所の会社勤めの人間が何人か店にきて、週刊誌やテレビ番組の雑誌を買っていった。その後、僕も昼休みをとりに帰宅し、仕事中の母と食事をすませると、再び店に戻ってレジにいた。霧雨はやむこともなく、店の入口は細かい蒸気が煙のように柱を立てて白く塞がっていた。
「修ちゃん、お願いしますね」
 振り返るとレインコート姿の小母さんが和室に立っていた。これから病院にいくという。まるで、いい子にしているのよといっているかのような優しく微笑む小母さんの瞳に、僕は置き去りにされるような寂しさと不安を感じた。このまま小母さんは戻らないのではないか、小母さんの優しい笑顔を再び見ることができなくなるのではないか。小母さんについていきたい。駄々子のような衝動が僕を激しく襲う。
「僕もいっしょに行きたいです……」
「大丈夫よ。いつもの定期検診なんだから」
 僕の気持を見抜いてか、小母さんは小さく笑った。それでもその短い言葉には執拗に駄々をこねようとする僕を制するに十分な威圧感があって、それ以上言葉も出せず僕は頷くしかなかった。糠雨の降りしきる鼠色した午後の朧の奥に、小母さんはその後ろ姿を隠して消えていった。
 気懸りだけが積み重なっていく。嘉夫と先生のこと。瑠璃の素っ気なさ。小母さんのこと。そして、ヨハネの首……。夏休みが終えれば先輩達と顔を合わせることになる。このままで済むわけがないのだ。なんだかしんどい夏休みに思えた。
 朝からの零雨がいつの間にか風雨になっていた。店の最前に置いてある平積みの雑誌が濡れそうになり、この雨のなか客など滅多に来ないだろうと、レジを立ってシャッターを半分ほど降ろしたら店のなかが薄暗くなってしまた。灯りをつけると、それまで仄かな明るさだった入口の外が、ぽっかりと穴を空けたように真黒な闇になった。夕方にはいささか早い時間ではあったが、厚い雲が重く垂れこめて、ひとかけらの太陽もないのであったから別段気にすることでもなかったが、気懸りだらけの僕にして、この暗さは滅入った。ひとりきりということもあってか妙な不安を感じた。誰もいないはずの二階や玉暖簾の向こうの板廊下に何者かが徘徊しているのではないかとたまらず振り返ると、和室は当然のようにひっそりと静まりかえっているばかりで、誰の姿も見つけられないのだった。馬鹿みたい。臆病な自分を嗜めつつ向き直ったら、そこに男の後ろ姿が立っていた。あまりのシチュエーションに、僕はレジの椅子に尻餅をついて腰が抜けたように硬直してしまった。
 横殴りの雨に傘も用をなさなかったのだろう、男はブルゾンの背から腰にかけてずぶ濡れになっていた。襟を立てているので首の後部がすっかり隠れている。肩にかけた革鞄にはきっとカメラが入っているのだろう。不恰好に突き出た鞄の一部分はきっとレンズの先だ。男は雑誌を物色しているようではあったが動きが不自然だ。しかたなく頁をめくっているようで、背後の僕の様子を窺っているようにも見えた。口で息を吸っているのか、ひゅう、ひゅうといった微かな音が規則的に聞えてくる。
 ふいに男が振り返った。
 咄嗟に立ち上がって身構えたが、僕の膝はがくがくと笑いはじめた。恐ろしい予感が的中したのだ。目の前に〈ヨハネの首〉がいた。
 男の首に白いものが見えた。間違いない。首の傷を隠すために包帯を巻いているのだ。男の呼吸音が恐ろしい山鳴りのように迫ってくるようだった。恐怖のあまり、僕はどす黒く沈んだ不健康そうな男の顔を瞬きもせず見つめるだけで、身動きがとれずに立ち尽くしていた。見覚えのある血走ったぎょろ目が射竦めるように僕をじっと睨んでいる。外は強い雨と風になって、篠突く夥しい雨脚が闇のなかに渦巻いた。

 拙い冒険談を自慢たらしくうちあける気など僕には芥子粒ほどもない。けれども、雲行きが段々にミステリーじみてくるのは僕のせいではなくて、現実の成り行きなのだからしかたがない。物事の成り行きを自分が希望する方向に勝手に操作できるなら、そんなことを思うこと自体が阿呆らしいが、きっと誰もが思春期的懊悩などで右往左往することは微塵もなく、すべてにおいて最短距離を馳走か飛走して目標に到達してしまうに違いない。あるいは目当てのものを取得してしまうだろう。とは思うのだけれど、往々にして、大半が裏目に出るのが人間の人間たる由縁で、それを人々は〈人生〉と呼ぶ。と、非常事態においてもなかなかな哲学をしている僕。ところがぎっちょん、いまの僕は、いつでもうたた寝の寝不足小僧であったり、定規を顔面に立てて寄目なんぞしている独り遊びのひきこもりだったりして、夢とうつつのあっちこっちを行ったり来たりの高校一年生なのだ。多分、僕の人生はドラマのような大袈裟なテーマや盛り上がりなんか皆無で、非常識な事件などさらさらなく、そんなものはやっぱりとってくっつけた小説や映画の世界のことなのだと、凄みもへったくれもない矛盾だらけの辻褄合わずの繰り返しなのだ。と、哲学な頭のなかがぐるぐる廻って立ち眩む。
 いつものように寝ぼけているに違いない。だって、これはあまりにもできすぎているではないか。偶然に生じた見知らぬ関係がこうも極めて簡単に再発するなんて、僕ってそんなにつきがいいわけない。きっとレジの椅子で夢でも見ているのだ。怖がり屋の僕は夢を見つつも都合よく、これは夢なんだと思っているのだ。ところがそう思いたいのは臆病のなせる虚しい願望で、これはやっぱり眼前の現実なのだった。つまり、僕の非常事態における哲学は、いわゆる死ぬ寸前の走馬灯を見ているようなもので、目が廻るほど怖かったのだ。
 店の外は真暗闇のどしゃ降り。おまけにずぶ濡れのヨハネの首が僕の目の前に突立ってひゅうひゅうと息を洩らしている。真赤なぎょろ目がいやらしく僕を射竦めている。
 すると、男は手にした雑誌をレジの上にぽんと無造作にうっちゃった。僕は目玉をぎこちなく右斜め下に移動して雑誌の上辺を見た。それは今週の写真週刊誌だった。
「これ……渡しといてくれ……」
 男の言葉は漏れた息で途切れている。僕は全身固まったままで握った拳に汗をかいている。
 ところが男はそれだけいうとくるりと背をむけてしまった。そして何事もなかったかのように雨の降りしきる闇のなかへと消えていった。
 拍子抜けしたか、肩透かしをくらったか、僕はレジの椅子にふにゃふにゃと萎えて腰砕けた。へらへらと情けなく口元を緩めた。稲妻の閃光が再び地に刺さって、やっとのことで正気を取り戻す始末だった。わが身の無事であったことに気づいた僕は、思わず肺の深奥から長い息を吐くと、石のように固まっていたからだが徐々にほぐれていくのを覚えた。夕刊配達のバイクが激しい水飛沫をあげて店の前を通り過ぎていった。
 ……誰に渡せというのだ。
 手つかずのレジの上に置かれた写真雑誌。ぼんやりと思い巡らす。男の正体はおおよそ掴めていた。鞄を無様に膨らませていたカメラのレンズとレジに投げ出された写真雑誌。いつかの夜、嘉夫にしたたか痛めつけられた男。嘉夫と先生をしつこく追い詰めていた写真週刊誌のカメラマンなのだ。ではこの雑誌は嘉夫に渡せばいいのだろうか。けれどこれは嘉夫達が載っている雑誌ではない。にもかかわらずそれで男の意図する用件が伝わるのだろうか。それとも単に男自身の動向を嘉夫達に匂わすための嫌がらせだろうか。しかしなぜだろう。男はどうしてこんなにも執拗なのだろう。嘉夫と先生のことはすでに記事になってしまった古いニュースなのだ。それでも二人の関係をいまだに追っていることを僕は理解できない。それまでして追う価値があるのだろうか。
 それとも、それはまったく見当違いの僕の思いこみであって、追われているのはヨハネのほうではないのか。あの夜の嘉夫の凄んだ言葉を僕は思い出した。
 ――とことん追ってやる。
 男は嘉夫の凶行にいよいよ恐れをなして事の収拾に当っているのではないか。僕の最も恐れていた事態は現実となって動きはじめ、ヨハネの首を目撃して以来、意識的に避けていた不穏な部分への想像は否応なしに確信へと接近していく。
 サロメ=先生。
 曖昧であった思惑が的を射る不安感。被害者が加害者に変身していくどす黒い不快感。どこまでも執拗な男。腐臭を放ちながらどろどろと溶けだす醜悪な正体不明が、僕のなかでとぐろを巻く。
「ただいま……」
 なんでもかんでも突然だ。目の前に小母さんが立っていた。
「あしたの夕方に自転車が直るんだけど」
 僕は和室のテーブルで日本茶を啜りながらいった。
 ひどい雨だからと店は早めに閉めていた。小母さんが病院の帰りにデパートで買ったという折詰を二人で仲良く食べ終えたばかりだった。瑠璃との待ち合わせのことはなぜかいえないでいる。
「店のほうは修ちゃんの都合のいい時間に閉じて、夕方から休みってことにしちゃいましょう」
 久し振りに出た柿の葉沢庵を二人でぽりぽりやった。雨はいっこうに衰えることなく降りつづけている。
 話はそれだけではないはずだ。男がいい残したことがある。
 これ……渡しといてくれ……。
 それは、ひょっとしたら小母さんへの伝言であったかもしれない。男が執拗な追跡をしているならば、嘉夫が店にいないのは百も承知のはずだ。だとすれば、渡してくれという相手は小母さんしかいない。行方を掴めなくなった嘉夫達に業を煮やして、小母さんを通じて自分の存在を伝えようとしているのだろうか。だとしたら男の思惑は大はずれだ。小母さんだって嘉夫と先生の行方はわかっていない。僕にしたって結局はっきりした二人の居所は掴めていないのだ。
「さっき変な男の人が店にきて、これを渡してくれって……」
 僕は例の写真週刊誌をテーブルの上に恐る恐る置いた。すでに隠し置いた嘉夫達の載った雑誌は小母さんに知れていたのだから、この際ある程度のことはいっておこうと判断したのだ。
 ところが、それが僕の大きな失敗だった。勿論、そのことに気づいたのはずいぶん後になってからのことだ。浅薄な判断は、漫然としていたそれぞれの現実を否応なしにひとつの軌跡へと曳きずり出す引金となって、噛み合わない互いの軌道に翻弄されるすべての切っ掛けをつくり出してしまったのではなかったか。そう思えたのだ。けれども愚かな行為の後悔はその字の如く、いま現在の僕は、独りのんきに空想という大人の世界にまとわりついてじゃれている。つまり、僕だけが蚊帳の外だった。
「そう……」
 ひとこと小さく呟いて、小母さんは雑誌をテーブルの下にしまった。それきり、小母さんはにこにことお茶を啜っているだけだった。
 夜雨は風に混じって店のシャッターを強く打っている。きっとこの雨は一晩中降りつづくだろう。暗闇はこのまま本物の闇夜になっていくだろう。
「もうすぐ終わっちゃうね」
 僕は両の掌に包んだ湯呑を見つめていった。
「なにが?」
 小首を傾げるいつもの仕草で小母さんは訊いた。
「夏」
「そうね。暦の上ではもう秋だものね」
「夏休みも……」
 さらに、僕の生まれてはじめてのアルバイトも終わる。
 口にはしなかったが、小母さんもきっとそう思ったに違いない。それはこの店自体が終えることなのだ。閉店を告知する半分剥がれた無愛想な貼紙が、秋の風に吹かれ、灰色のシャッターの上でかさかさと寂しい音で翻る。いつかその上書きも褪せて消えていくころ、ここはいったいなんの店だったろうかと、通りかかった人間達にも忘れ去られている。それはつまり、僕と小母さんの夢のように素敵な本屋さん時間の針が止まることなのだ。その日まで残された日数は数えるほどのゆび数もないのだった。
「僕、古本市にも行ってみたかったなあ。本の見立てや仕入れの方法なんかも教えてもらいたかった。嘉夫さんにつれていってほしかったんだ。今どき風呂敷なんて、嘉夫さん恰好つけてるよね」
 終わりのほうは少しおどけていった。目を細めて微笑む小母さんがいた。二人は同じような手つきで湯呑みを掌に包んでいる。雨音が風の吹き具合で強くなったり消えたりした。そのことが二人のいる和室を他から抽出して二人を特別な空間に浮かべているように僕には思えた。上田秋成は夢幻の入口に雨を使う。僕も真似して、ちょっと不気味でミステリアスな空想を膨らます。ついさっきサロメの首でへたったくせに、それさえも好条件と浮遊する快感を増幅しようとする僕は不埒な奴で、ただでは転ばないぞとしたたかな計算は誰に似たのだろうと、ふと思う。
 時計の針はこのまま止まればいいのであって、進むだけが能ではない。サルバドール・ダリの時計のように、溶けてしまいそうな時間があっても不思議じゃない。もともと時間なんか約束のために見つけたありもしない観念なんだ。そんな哀れな時間は僕の手中にとっつかまえて自由自在に好き勝手、僕と小母さんの、二人きりの、宙に浮く架空庭園の出来事のように、僕の空想は、僕は僕の思いを……、
「僕……小母さんが好きです」
 真白な宙。くるくる廻る僕。
「瑠璃ちゃんは?」どうするの?
 ……。
 どうして瑠璃の名を小母さんが知っているのだ。現実は僕の夢想する幼稚な不思議よりも謎で不可解。僕の宇宙は無智という殻に包まれて、その中身は愚かに蠢く幼虫なのだ。いつになったら蛹になれるのだろう。いつになったら卵からかえるのだろう。
「学校、やめてもいい。つまんないし」
「どうするの?」
「小母さんと本屋をつづけたい。本が好きだし」
 本が好きなのは本当だけれど、それは嘘だ。
 本当は、小母さんが好きだから。
 それが僕の本音だ。いつでも小母さんの傍にいたいから。離れたくないから。小母さんの匂に酔っていたいから。もう、僕は小母さんを衛ることなど、思ってはいない。それはすでに忘れ捨てた幼い義務感にすぎない。僕は小母さんを愛していると、いっぱし大人ぶって、対等一線に並びたかったのだ。背伸びであることは自分でもわかっている。が、背伸びした手足が殻を突き破るのだ。僕は孵化寸前の満身力を根限りに絞る。
「瑠璃なんて関係ない。僕は小母さんだけが好きなんだ」
 とはいうものの、僕は小母さんの顔も見れず、掌に包んだ湯呑みを見つめているのが精いっぱいで、小母さんが僕の不躾な言動になにを思っているかも探れず、僕の殻は一髪の微々たるひびすら現われずにいる。
 どろどろと鈍い尾を曳いて遠雷が鳴っている。雨は止むのだろうか。素っ気なかった瑠璃は今ごろどうしているだろう。嘉夫と先生はどこでなにをしているのか。ヨハネの首は繋がっているだろうか。僕の心は千々に乱れて切なかった。
「修ちゃん、ごめんね。そろそろお店のこと考えなければいけない時期になってるの」
 謝ってばかりの小母さんだ。
「こうもお客が少ないと……どうしたらいいか」
「僕、アルバイト代なんかいりません」
「そうね。柿の葉沢庵1年分でいい?」
 小母さんが悪戯小僧のように笑っている。僕はやっぱりどうしようもなく小母さんが好きだと思う。最後の一切れが僕の口のなかで軽快な音を立てて鳴った。

 秋成の雨にはならなかった。僕の夢想する色気づいたミステリーは見事に入口の手前でシャットアウトになって、何事もおきず、体よくあしらわれた恰好で終えてしまった。雨は翌朝、いとも簡単に止んでいたのだ。
 柿の葉沢庵の設定がいけないのだと、もう少し粋な小道具がないものか、嗜好環境のだささが悔やまれる。でも、一度決めこまれた僕の嗜好は、そう簡単に小母さんには変えられない。要検討。要努力。紅茶通にでもなってみようかしら。そうしたら、ケーキやクッキーや、もっとお洒落な雰囲気を演出できるやも。なんて、とろいことをぼんやり考えながら洗面代の鏡に向かって歯を磨いていたら、
「歯車の計算おぼえたか?」父さんが背後に立っていた。
「夏休みにそんなことやってられない」もがもが。
「それもそうだな」だったら端から無駄なこと訊かないでよ。
「母さんは?」僕に訊いてどうするの。自分の奥さんでしょうが。
「母さん、部屋でまだ仕事してると思うよ。徹夜だっていってた」
「じゃ、目玉焼きでもつくってくれる?」
 父さんの脈略はどうなっているのかわからなかったけれど、卵の黄身をちゅうと吸う父といっしょに食べる朝ご飯は、独りで食べるトーストなんかよりも、それなりに楽しいと思えるのだった。
 朝食を終えると父はすぐに仕事に向かった。父を送り出した僕は少しばかり母が気になったので、熱いコーヒーをいれて母の仕事場に行ってみた。そっとドアを開けると、キーボードを叩く音が耳に入った。母は貫徹のようだった。カーテンが閉じたままだったので、灯ったままの電灯が間が抜けたように室内を白々と照らしている。母は背後の僕に気づく様子もない。
 あんたと生きるための仕事なのよ。
 ベッドのなかで目に涙を浮かべていった母の言葉を思い出す。
「母さん……コーヒー」
「おっ、サンキュー」
「一睡もしてないの?」
「まあね」
 母は受け取ったコーヒーをキーボードの脇に置くと僕の手をとって引き寄せた。そして椅子に腰掛けたまま、突っ立っている僕のからだを抱きしめると腹の部分に気持よさそうに顔を埋めた。
「ああ、修一のおなか柔らかい」
 僕は母さんの乱れた髪をそっと撫でてあげた。そんなにしゃかりきになって仕事することないのに。父さんの仕事だって順調そうだし、母さんは経済のことなんて気にしないで自分の本当に書きたいことだけ書いていればいい。僕は心配だ。父さんと母さんは仲がいいけれど、理解しあっているとは思うけど、愛情があっても離れていく人っているでしょ。僕はなんだかそこのところが心配なんだ。子供な僕には理解できないことってあるし。面倒見の悪い両親だけど、そんな二人が僕は好きなんだ。子供のことをいい訳にしないで生きている、そんな母さんと父さんを僕は尊敬するし、いつまでもそうあってほしいと思ってる。母さん、あんまり無理しちゃいけないよ。
「修一……どうしたの?」
 母が眠そうな目で僕を見上げていた。
 午後三時。僕達は待ち合わせの駅にいた。夏休みが終わりに近づいているといっても午後の陽はまだ暑い。瑠璃は今日も真白なTシャツから小麦色の肌を見せていたし、僕の恰好もどういうわけか瑠璃とペアルックになっていた。気恥ずかしさがさらに僕を熱くして、シャツの背中は汗でびっしょりと濡れていた。姿勢のいい瑠璃は相変わらず涼しげだ。けれど、気にしていた素っ気なさは今日に曳きずり、なんだか固くて意味知れぬ緊張を感じた。僕は修理に出した自転車を受け取りに行くだけだったが、瑠璃には別の用件が僕にあるはずだ。ただのデートではない。
 歩くには少し距離があるのでバスに乗った。渋滞する夕方の産業道路。バスが揺れる度に瑠璃の肩と腰が触れる。瑠璃のからだから柔らかなシャンプーの匂がする。
「修理代、高いの?」
「ううん、たいしたことない」
「私も半分出す」
「いいよ。僕が毀したんだから。それに母さんがくれたし」
 納得したのか、瑠璃は小さく笑んで再び黙ってしまった。機嫌が悪いのとはどこか違う。この固さはなんなのだろう。はじめて逢ったときとは全然違っている。あの弾むような瑠璃ではなかった。
「どうかしたの?」
 問わずにはいられなくて、僕は瑠璃の固い横顔を見つめた。
「なんでもない……」心細い瞳。
いったいどうしたのだろう。僕まで不可解な不安に襲われる。怯えているのだろうか。なにに?
 目的の停留所に着いて、そこから少し離れた自転車屋まで二人は産業道路の沿道を再び歩く。やっぱり今日の瑠璃はおかしい。視線が落ち着かない。きょときょとと首が動いてはふと立ち止まる。誰かを探しているような、あるいは人の気配に怯えているような、そんな感じだ。
 僕は瑠璃の手を握って引き寄せると、ぴったりと寄り添うようにして歩いた。火が出るように恥ずかしかったが、そうしなくてはいられなかったのだ。それでか瑠璃はようやく落ち着いたように思えた。背丈はほとんど同じくらいだったから、瑠璃のきめ細かい肌の頬が異様に接近しているようで、僕はますます熱くなるのを感じた。
 自転車を受け取って店を出ると、外はいくらか陽が翳りはじめ、遠くの空が厚い灰色の雲に覆われているのが見えた。
「自転車どうしようか。瑠璃、乗って帰る?」
「いやだ……そんなの絶対にいや。修一くんと離れたくない」
 瑠璃はなぜか哀願するようにいう。そんなに大袈裟なことなのか。
「二人乗りしてく?」
 瑠璃は僕を見つめたままで応えがない。何かを切り出そうとしてなかなか踏み切れないでいるように思える。それでも、僕達はなんとなく歩きはじめた。自転車は僕が曳いて、瑠璃は僕の横にぴたりと寄り添って歩いた。産業道路の沿道は駅方向に向かっていた。
 五十メートルくらい歩いただろうか。ぱたと瑠璃が歩を止めた。
「ね、修一くんの学校に置いておこおよ」
「だって学校もうすぐはじまっちゃうよ。自転車必要でしょ」
「ううん、いいの。もう一台あるし。それに、学校がはじまっても逢えるでしょ。そのときでいいの」
 瑠璃の意見にはどこか無理がある。けれど強行に逆らう理由もない。それに、雲行きがかなり怪しくなっていた。遠くに見えていた厚い雲が、いつの間にか僕達の頭上を不気味な黒さで覆っていたのだ。学校まで引き返してもたいした時間はかからない。僕は自転車をくるりと後ろに向けた。
 途端、大粒の雨が僕達の白いシャツに落ちはじめたのだった。


第三部 春泥

 激しい雨脚が二人を追った。僕達の自転車は全速力で疾走していた。後輪部に仁王立ちの瑠璃の握力がペダルを漕ぐ僕の肩に強く食いこんでいる。産業道路は灰色の闇に覆われて一直線に伸び、路面にはすでに夥しい量の雨水が流れはじめていた。車が癇癪玉のようなクラクションをかき鳴らして恫喝するかのごとく猛スピードですれ違って行く。頬を打つ雨粒が痛い。
 急カーブして脇道を右に逃げこんだ。そのとき瑠璃の両腕が僕の首に絡みついて二人の濡れた頬が重なった。まるで青春映画のひとこまみたいだと、僕は得意な気分でさらにスピードを上げる。そんな二人の真上には巨大な未確認物体のような真黒な分厚い雲が覆い被さっていた。濡れたTシャツが肌にべったりと張りついている。僕は背に瑠璃の小さな胸の膨らみを感じながら渾身の力を絞り出してペダルを踏んだ。
 自転車は学校の運動場に向かって走っていた。運動場には囲いらしいものがないので自転車を止めることなく校内に進入できるからだった。地面はまだ糠ってはいないはずだ。このまま突っ切れる。
 雨脚が決定的な激しさとなり、僕達はさながら海のなかを潜行しているようだった。自転車はノアの箱舟のように大波のなかを右に左に傾きながら、運動場の真中を、つがいの子供を乗せて疾走していた。少しの油断でも、荒れた地面にハンドルをとられそうになった。その都度、瑠璃の腕に力がこもり僕の首を強く絞めた。互いの濡れた髪が縺れた。
 白色ペンキが鱗のように禿げ落ちた実習室を横切って、僕達はトタン屋根の覆った駐輪場に到着した。一息ついて瑠璃に目をやった僕は、慌てて瑠璃から目を逸らした。濡れたシャツの下に肌が薄く透けて見えたからだ。しかしその瑠璃は再び思い出したかのように周囲を気にしはじめていた。そして濡れた僕の腕にしがみつくように身を寄せてきた。一向に止む気配がない雨が、トタン屋根を狂ったように打っていた。
「まいったね」
 僕は少し剽軽にいった。瑠璃が小さな愛想笑いを見せた。そして、一方に顔を向けたまま動かなくなった。瑠璃の視線の先には電気椅子がある演劇部の部室があった。小さな三角屋根が雨を打って白く煙っている。
「あれは演劇部の部室だけど、どうかした?」
 瑠璃はどうして部室を気にするのだろう。あそこが僕達演劇部の部室だと知っているのだろうか。
「あそこにつれてって……」
 強く噛んだ瑠璃の小さな唇が紫色に変色している。思いつめた瞳が雨の雫に濡れていた。
「いいけど……」
 何気なく応えた瞬間、あの忌まわしい光景が鮮明に蘇った。電気椅子のヨハネの首。そして、落ちかけた首をぶらりと垂らしたヨハネが、いまにもひょいと部室の入口に不気味な姿を現わすのではないかという恐怖にとり憑かれた。さらに疑惑。校舎の陽翳のなかに紛れた――女――瑠璃……。サロメ=瑠璃?
「誰かと約束でもしたの?」
 僕は思いきって訊いた。がそのとき、しがみついていた瑠璃の腕の力がひときわ強まって僕の腕を絞めつけた。部室の入口に男の姿が浮き上がったからだ。遠目でも覚れた。それはヨハネの首だった。
「お願い……」
 目がすがっている。
「なに?」
 どうしてヨハネがここにいて、なんでそれに瑠璃が関わっているのだ。混乱した。怯えているのは瑠璃だけではなかった。絡みあった二人の腕が、がたがたと震えている。
「お願い。いっしょに行って」
 そのとき、僕は気づいたのだ。瑠璃が僕に近づいたのにはわけがあったのだと。どんなトラブルであるかはわからないが、僕は瑠璃のガード役として狩り出されたのではなかったか。このタイミングは当初から目論まれていたことなのではなかったか。それにしても、なぜ僕なのだ。頼られる強さなど僕にはどこにもありはしない。こんなことは僕の日常から逸脱している。ひとごとだ。
 男は部室の入口に立って動こうとしない。僕達が行くのを確信しているかのようだ。その理由は僕にではなく瑠璃にあるのだ。瑠璃は怖れながらも男と向かい合わなければならない事情を抱えている。
 僕達は抱きあうようにして土砂降りの雨のなかを進んだ。心もち瑠璃に誘導されてはいたのだが。
「ずいぶんなことをしてくれたね」
 缶ビールを一口あおって男はいった。腰掛けている電気椅子がぎしりと鈍い音を立てた。僕達二人は部室の入口浅くに立ったまま一言も発せないでいる。髪から流れ落ちる雨水が煩わしかったが、僕も瑠璃も拭うこともせず突っ立ったていた。
「きみまでついてくるとはねえ」
 血走ったぎょろ目が僕に向けられた。首に巻いた包帯が白茶かかっている。
「まあいいさ……」
 ひゅうと男の息が鳴った。きっとそれは男の癖になっていたのだろう。それは男がいまだに首の傷を気にしていることを意味している。傷はもうとっくに治っているはずなのに包帯をとらずにいる。傷跡はすでに白い線となって目立つほどのものではないはずだ。だとすれば、男は首の落ちる恐怖からいまだに抜け出せないでいる。僕が怖いように、男だって怖いのだ。そう思うと、まったく虚勢ではあったが腹が座ったような強気がして、僕はいった。
「瑠璃がなにをしたっていうんですか」
 声が震えて語尾が情けなく裏返った。
「しかし……あれほどのことをしてくれるとは思わなかったよ」
 男は再びアルミ缶をあおると、瑠璃をまじまじと見つめた。その散漫な目つきは獣めいて、目尻から下卑た生臭ささをだらしなく垂れ流している。こんな目で写真が撮れるものか。男のなかにすでに捨ててかかった人間の無気力を感じた。この人にはきっと〈再生〉という言葉はないのだ。〈復活〉を夢見る気持など遠の昔に消失してしまっているのだ。男にとってカメラはただひとつの最後のお守りになりさがり、腐ってしまったレンズは溶けてしまう寸前だ。
 瑠璃になにがおこり、男がなにをしたのかは僕にはわかっていない。けれど、眼前の男が無力であることだけは知れた。今は、僕にぴったりと身を寄せて怯えている瑠璃を、この場から救うことだ。瑠璃の事情を知るのはそれからのことだった。
「で、どうだい……瑠璃くん」
 男が馴れ馴れしい。この妙さ加減が腹だたしかった。
「どうだいって、なにがだよ」
 瑠璃に代わって、僕はつっけんどんにいい放った。
「なんだい。きみは彼女からなにも聞いていないのか」
 瑠璃が濡れた頬を左右に激しく振った。
「なにがあったか知らないけど、彼女を脅すのはやめろ。これ以上つきまとうなら警察に行くぞ」
 僕は精いっぱいのドスをきかせていった。けれど、嘉夫のようにはいかない。男は鼻の先で笑っている。
「さすがの私も、この間のことではまいったよ。もう少しで首がなくなるところだった……しかし……」
 男はいい澱んでなにかを思い出そうとするかのように虚ろな目を宙に向けた。
「あのとき、不覚にも瑠璃くんの提供してくれた缶ビールで酔ってしまったらしくてねえ……なんだか酷い酔いかたをしたような……」
 記憶の曖昧さに苛ついたのか、男は汚れた頭に手の爪をわしわしと立てた。そして、瑠璃を見つめていった。
「しかし……瑠璃くんがあんなことできるとは……」
 やはり、サロメは瑠璃?
 僕は電気椅子で痴呆のようになって呻いていたヨハネをつい今し方のように思い出していた。あのとき校舎の谷間に消えた姿は、男の首を剃刀で傷つけたのは、いま僕にぴったりと身を寄せて震えている、いかにも華奢な少女、瑠璃だったのだろうか。到底、信じられることではなかった。
「脅し返されてりゃ世話ない。見くびられたものさ……それにしても、いいのかい瑠璃くん。私のほうはどうなってもいいんだけどね。どうせ……」
 どうせ、どうでもいい身なのだから――そういっているように、僕には聞えた。
「こまります……」
 振り絞るような瑠璃の声だった。唇の色を失っている。
「それなら約束したことはやってくれ。当てにしてるんだよ……調度いい。隣の彼氏にも手伝ってもらうといい」
 僕はいったいなんなのだ。瑠璃をガードするどころか、わけのわからないトラブルのなかでおろおろしているだけではないか。こんなとき嘉夫だったらどうしたか。ただちに暴力をもって男を制しているのではないか。うむをいわせず男を叩きのめしているのではないか。ところがこの僕は男との歴然とした体力の差におののき竦んでいる。隣で怯えている瑠璃の安心を奪い返せずにいる。
 瑠璃の事情よりも僕は自分の意気地なさで頭がいっぱいになっていった。自分自身にはがゆさを覚えた。こんなことだったら父にパンチの出しかたを習っておけばよかった。いつも後悔だ。いつだってそうなんだ。そのとき――僕は飛んでいた。電気椅子にふんぞりかえっていた男の懐に向かって飛んでいた。瞬間、腹部に重い衝撃。くの字になったからだが一瞬宙に浮いて、僕はもといた場所に吹き飛ばされていた。したたか腰を打った。腰掛けたまま振り上げた男の足が僕の腹を突いていたのだ。つづけざまに金属質の激痛。男の投げた缶ビールが眉間に命中していた。液体を底に残した缶は強烈な武器だった。僕は額に流れる滑った生温いものを一筋感じた。
「やめて!」
 瑠璃の絶叫が狭い部室に轟いた。
 気がつくと、僕は男に胸ぐらを鷲掴みにされていた。一寸先に男のぎょろ目が鈍く光っている。ひゅうと息の漏れる音が異常に大きく聞えた。
「やられてばかりではたまらん。近ごろのガキはなにをするかわからんからな。痛い思いを覚えておくんだな」
 いきなり目から星が散った。鼻の奥に生臭い匂が充満し、大量の血が鼻の内側に流れて喉に溢れた。それをごくんと音を立てて呑みこんだ。後から後から喉に血が溢れた。僕ははじめて血の匂と味を実感した。今までに血を流すような怪我を何度かしたし、鼻血もあった。けれど、こんなふうに血そのものを意識したことはなかった。きな臭くて生臭くて厭な味だった。
 僕は薄れていく頭のなかで、ずいぶん幼いときのことを思い出していた。かけっこをしていて友達と正面衝突したことがあった。このまま止まらないのではないかと幼い僕は恐怖に戦くほどの鼻血が出た。鼻から夥しい血が蛇口の水のように流れ落ちた。けれど、そのときには血は喉に流れなかったように思う。
 不味い血の匂も悪くない。懐かしい記憶が僕を幸せな気分にしてくれる。殴られた悔しさなどなかった。ただ気持よかった。そして、不覚とはこういうことをいうのだろう。その後、僕の意識はものの見事に行方不明になった。
尾長の鋭い啼き声で気を取り戻した。部室の軒から名残りの雨粒がぽとりぽとりと落ちているのが目の端に見えた。外には薄い闇の帳が落ちかけて、時々吹く風が三角屋根に当って鳴いた。男はすでにいなかった。
 僕の上半身は瑠璃の膝の上に横たわっていた。泣き顔でくしゃくしゃになった瑠璃の顔。僕は瑠璃を見あげて声もなく笑った。瑠璃も小さく笑んだ。素足には床が痛かろうと気になったが、僕はこのままでもうしばくいたいと思った。生乾きの血が鼻に詰まっていて息苦しい。汚れた僕の口元を拭う瑠璃の白いハンカチが血でどす黒く染まっている。
「ごめんね……ハンカチだいなしだね」
 僕の声は掠れていた。大きな涙の粒がいくつも僕の頬に落ちて耳に流れた。その幾筋かは僕の涙と合流して首筋へ辿った。僕達は、雨に濡れ、涙に濡れた。そして、僕はこの心地よい気持ちはなぜだろうと回復しない脳で思った。
 人にはそれぞれ訳がある。人にはいえない事がある。僕だってそうだ。高校生にもなって友達みたいな立派な脇毛がなかったし、小学生の高学年まで夢を見ては白いシーツに粗相をしていた。いつまでも母の添い寝がなければ寝つけなかった。小学六年生のときに風呂で母に背中を流してもらっていたら、僕のあそこが不思議に大きくなって、母のほうに振り向くことができなくなったことがある。背中を流しながら母は可笑しそうに笑っていたような気がしたが、それは僕の想像で、いつまでも小さくならない僕に母は戸惑っていたのかもしれない。大人になったならば、こんなこと、からから笑いながら喋れてしまうことなんだろう。でも、今はいえない。子供にはこんなことがいっぱいあるのだけれど、いつかひとつひとつ何でもないことになってしまい、様々なしがらみを抱える大人になっていくのだろう。父も母も、嘉夫も先生も、そして小母さんも大人だ。僕もはやく大人になりたいと思う。でも、僕を見る小母さんの目は子供を見る目だった。瑠璃の大きな瞳を見たらよけいにそう感じた。
 そっと重ねられた唇が柔らかだ。母の乱暴なキスとは比べられないけれど、小母さんの紙一重のくちづけとは違うけど、これが僕の生まれてはじめての本当のキスだった。瑠璃の唇は軽くて小粒でおまけにとってもしょっぱいと思う。瑠璃の涙は秘密の雫だ。内緒の雫が二人のあわせた唇にずいぶんたくさん流れてきた。僕達は唇ではなく、互いの涙の雫を吸いあった。瑠璃の訳は聞くまいと僕は思う。それは人にいえない訳なのだから。
 僕達は来た道を辿って帰った。雨のあがった運動場は糠っていた。黒い雲が青い月の右下半分にかかって、月の姿は間もなく消えた。どこかでコオロギが啼いている。濡れたからだが冷えて二人は身をすくめあった。運動場の真中に来たとき、僕達はどちらからともなく抱きあって口を寄せあった。こんなにも違うのだと、僕は瑠璃の胸の大きさを母と比べて思った。僕のあれはズボンのなかで大きくなった。でも、僕は恥ずかしいとは思わない。だって、瑠璃は幼い僕の背中を流してくれる母ではなかったし、僕を子供扱いする小母さんでもなかった。理由はどうあれ、瑠璃は僕を頼った唯一の人なのだ。瑠璃の前では僕は立派な大人なのだと思える。男なのだと思えた。腫れた顔も男の勲章だ。きっと今の僕は〈女の子みたい〉じゃない。嘉夫ほどではないけれど、ちょっとは果敢だった僕を、瑠璃は認めてくれるだろう。少しは僕を好きになってくれたかもしれない――きっと、瑠璃には別に好きな男の子がいるのだ。僕はたまたま利用されただけなのだから。でも、今はそんなことはなしにして、僕は瑠璃の華奢なからだを抱きしめ、小鳥のようにちゅんちゅん唇を寄せあう。何度も何度も唇をあわせる。
 痛いなと思っていたら、僕の濡れていたズボンの下がまた濡れた。
 産業道路に出てタクシーを拾った。運転手が怪訝そうだったが、僕達は行儀よくシートに座って、でも、膝の辺りで握りあった手は覚られまいと、二人だけの秘密を楽しんだ。瑠璃の冷たい指が気持ちいい。この華奢な指がヨハネの首を傷つけたのかと思い巡らせると、ぞっとして、僕のあそこは再び膨れた。アンドレーア・サルトのヨハネの裸体が悩ましくちらつき、モロウのサロメが艶しく舞った。僕こそヨハネになりたいと願った。瑠璃サロメに殺したくなるほどの嫉妬心で恋してほしいと思った。僕がよこしまなのは、同じことを小母さんにも願ったことだった。僕の恋は一途でない。触れる肉体に今を恋して、思う憧れにいつかを恋している。そんな僕はふしだらだと、いつか二人のサロメに仇打ちされると、自惚れた想像が楽しかった。
 殺してくださいサロメさん。
 妬いてください業火のごとく。
 恋してください僕のこと。
本当に僕を恋してくれる人がいるのだろうか。僕は本当に恋することができるのだろうか。いつか、僕の首を真剣に斬り落としたいと望む人が現われるとき、僕はきっと、本物のヨハネになるのだろう。嘉夫にもらった画集が、なぜかとっても懐かしく思うのだった。

 僕はここのところ、知らず知らずに右脳のことで母に馬鹿にされた言葉について思い巡らせていたような気がする。――母さんは父さんのマグダラのマリアなのよ――どういう意味なのだろう。父さんにはこの言葉の意味がわかっていたのだろうか。夫婦にだけ通じる暗号なのだろうか。それとも大人だったら誰でもすぐに理解できることなのだろうか。僕には酔った母の戯言にしか思えなかった。母さんと父さんは普通の夫婦で特別な事情を抱えた夫婦ではないはずだ。母さんが自分をマグダラのマリアなどと称するよほどの理由なんて僕には思いつきもしない。
 けれど面白いと僕は思う。ちょっとした言葉が想像行為を引き出してくれるのだ。それは、聖母マリアとイエスの存在についての想像だ。受胎告知の不思議について想像を巡らす。僕はキリスト教とは無縁なので宗教的には考えられないのだけれど、受胎告知ってとっても不思議だと思う。まるで試験管ベビーや代理母みたいだ。もっといえば、クローン人間みたいだ。どれのこともよくわかっていないけれど、聖母マリアはなんだか女の人を蔑視した裏返しの現れのように思えてならない。谷崎潤一郎の源氏物語にもこれに似たようなところがあったような気がする。たしか〈木の股〉みたいな表現だったと思う。普通の妊娠はそんなにいけないことなのだろうか。
 聖母マリアって本当にいたのだろうか。女嫌いの人達による想像の産物ではなかったか。だって聖母マリアはあまりにもすべての設定が美しすぎるじゃない。人間的じゃない。でもイエスは実在した説が強いから、やっぱりお母さんはいたのだろうな。その点、マグダラのマリアにはとっても人間味を感じる。なぜだろう。マグダラのマリアはイエスの奥さんか、あるいは愛人だったという説がある。だとすると、母さんにとって父さんはイエスなのか。それとも、父さんにとって母さんがマグダラのマリアなのか。それでは僕のマグダラのマリアは誰なのだろう。僕は僕のマグダラのマリアに出逢うことができるのだろうか。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐は不思議な絵だ。
 以前、デパートの美術館で、レオナルドの直弟子ボルトラッフィオの作と伝えられる色鮮やかに模写された原寸大の最後の晩餐図を観たことがある。テーブルの下に覗くイエスや使徒達の足の甲が拡大鏡で覗いたように異様に大きく見え、永いこと見つめていたら目眩をおこしてしまった。あれは実際には壁面に施されたフレスコ画で、下から見上げるのだから実際より長体をかけて視覚的に調整していたのだろう。それにしても普通あんなふうに人はテーブルに着かない。この構図は14、5世紀のフィレンツェ派のものだが、横一直線の構図は演劇的で、それ自体すべてが暗号のような雰囲気で不思議だ。日本の映画であの構図を真似たシーンがあって笑っちゃう……いや、そんなことはどうでもいい。レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐の不思議だ。
 最も気になること。それは使徒ヨハネのことだ。ヨハネはイエスの最愛の人だ。ヨハネ福音書ではヨハネはイエスの胸に寄りかかっているはずなのに、ダ・ヴィンチの絵ではヨハネは上体をイエスから背けている。どうしてだろう。さらに、どう見ても僕にはヨハネが女に見えるのだ。ダ・ヴィンチは若者を女性的に描く傾向があり、僕は使徒ピリポの黒チョークによる習作をはじめのうち、女の顔だとばかり思っていた。けれど、このヨハネはすべてにおいて女としかいいようがない。そして一番の謎は、ヨハネはマグダラのマリアであるという説なのだ。
 僕はマグダラのマリアが気になった。それはつまり母と父を理解することにも繋がる――母さんは父さんのマグダラのマリアなのよ……。

 左目にあてた眼帯が煩わしかった。僕はパンダの目玉みたいにどす黒く腫れた瞼を眼帯で隠していた。今朝、小母さんにどうしたのと訊かれて、ものもらいだと誤魔化しておいた。さすがに、やられてばかりの情けない事情を小母さんにはいえない。もちろん、瑠璃とのことは秘密事項。たいしたことはないですと、僕はいつものようにさり気なくレジ番をする。
 昨夜、あれから僕達の乗ったタクシーは間もなく僕の家に着いた。幸いというべきか、父も母も留守だった。二人はリビングの床の上に座りこみ、僕が押入から引っぱり出してきた救急箱の消毒液で瑠璃は傷の手当をしてくれた。瑠璃は細い指で摘んだ脱脂綿で僕の鼻の周りを拭いた。消毒液が刺激して皮膚に小さな泡が噴き、それを見て瑠璃がまた泣いた。
「ごめんね」
 またひとり、僕に謝る人ができた。謝らないのは父と母だけだ。謝られているうち、僕はいつまでも子供だ。だとすると、謝らない父と母は僕を大人と認めているのだろうか。放任主義はその現われだろうか。しかし、あの二人に限って、そんな深い意味はないなと思う。単なる横着なのだ。僕にとって、子供の躾を意識する両親なんて気持ち悪いと思う。僕のことは僕自身のことであって、両親とは無関係だ。環境不満は何もない。僕の環境は僕自身でつくりたいと思うのだ。
 瑠璃の短い髪が濡れていた。ほつれた前髪が可愛いと思う。生乾きのTシャツが小さな乳房に張りついていて、僕はつんと小さくとんがっている先っちょを指先で突ついてみたいと思った。ほら、見たことあるでしょ。裸の女の人が二人いて、片方の人がもうひとりの女の人の乳房の先に細くて長い指をちょこんとあてている絵。あれってなんなのだろう。どんな意味があるんだろう。ひとつわかることは、人間って小さな突起物を見ると突ついてみたくなる。
 人さし指が伸びていた。きょとんとした瑠璃の目があった。見つめあって二人赤くなった。いやんといって瑠璃が僕の肩をぽんと叩いた。僕達の間には意味深長な〈焚火〉がなかったから、僕達は軽々と跳び越せた。素肌になって互いの冷えたからだを暖めあうように抱きあった。瑠璃のひんやりと冷たい胸を暖かいと感じた。暖かさは柔らかさになった。そのままで僕達はどれだけの時間を過ごしただろう。まるで二人のからだが胸の部分で癒着してひとつになるのではないかと感じるほど永かったかもしれない。けれど結局、僕達は抱きしめあっただけだった。互いの胸の鼓動を聴きあっただけだ。それはつまり、僕達は〈潮騒〉ほどの事情を持ちあわせていなかったからだろう。瑠璃を好きになっていたのはたしかだと自分でもわかっている。でも、まだ愛しているとはいえなかったのだ。
 瑠璃は僕の貸したTシャツに着替えていた。少し大きい。気分がさっぱりしたのだろうか、はじめて逢ったときのように瑠璃は快活な笑顔になった。多分、独りだけの秘密を僕と共有できたことに少しは安堵したのだろう。本当の事情はまだ自分の口からいい出せそうになかったが、僕も訊こうとはしなかった。訊けばまた瑠璃は泣くだろうし、僕だって貰い泣きしてしまうのだから。
 十一時を過ぎて僕は瑠璃を通りまで送った。瑠璃はそこで再びタクシーを拾って自宅へと帰っていった。タクシーの後部座席で振り向いた瑠璃の青冷めた顔がいつまでも目の奥に残った。雨はすっかりあがっていた。
 僕は近くの薬局で眼帯を買って左目にかけた。空を見上げたら、煌々と輝く真ん丸な月が、銀紙でつくった飾り物のようにインチキ臭く浮いていた。少し肌寒い。廻り道をして店の前に出たら、二階の雨戸から薄明りが漏れていた。僕は素通りして誰もいない家へと帰ったのだった。

 諸々の理解できない事柄を残したままに夏休みはあと三日で終わる。そして退屈な学校がはじまる。そうなれば先輩達と顔を合わせなければならない。なのにリベンジのことなどとっくに忘れている僕は持続しないのが欠点だ。欝陶しいなと思う。
 残り少ないアルバイトをしっかり勤めようと僕はレジで店番。顔の腫れが気になったが、小母さんの余計な詮索がなかったので助かった。それに小母さんは午前中に病院に出かけたので夕方まで顔を合わせずにすむ。突然ヨハネの首が店に現われるのではと少々怖かったが、レジに座ると気が緩んで、いつものような目蕩みで時間が過ぎていく。
 昨日は訊ねなかったけれど、瑠璃は僕のほうから事情を訊いてほしかったのではなかったか。はじめて逢ったときからそうだったのかもしれない。だとすれば、鈍感だと瑠璃は僕を責めているに違いない。僕の不干渉は単なる忌避なのか。不干渉主義は自分の殻を衛るためのわがままなのか。不干渉は別の言葉でいえば〈無関心〉になる。でも、不干渉と無関心はどこか違うはずだ。僕はきっとそこのところをいまひとつ掴めていないのだ。
 そういえば、と僕はヨハネの首が店に現われたときのことを思い出した。あのとき、男が渡せといった写真雑誌を小母さんに見せたら、小母さんは訳も訊かずに雑誌をテーブルの下にしまってしまった。そのことで小母さんはなにもいわなかった。僕も別に気にかからなかったのでそれきりだった。でもこれは少しおかしい。なぜ小母さんは男について僕になにも訊かなかったのだろう。
 小母さんは写真雑誌の意味を知っている。さらに、男の正体も知っている。単に嘉夫と先生の写真を撮った人間、という理解とは別の意味でだ。小母さんもヨハネの首と直接な関係がある。――瑠璃。小母さんは瑠璃のことも知っていた。ということは、瑠璃も小母さんと面識があるはずだ。これはなんなのだ。これでは本当に僕は蚊帳の外で、無知なのは僕だけだ。……ひょっとしたら、先生も……。僕は混乱した。なにがなんだかわからなくなった。僕には手に負えないなにかが小母さんや瑠璃や先生の間におきているのではないか。こんなとき僕は逆恨みする。嘉夫はいったいなにをしてるんだ、と。いや、違う。嘉夫もきっとかかわっている。僕の脳は紛糾した。ひっちゃこっちゃだった。
 閉店の時間になっても小母さんは戻ってこなかった。診察にしては永すぎる。きっとまたデパートにでも寄り道しているのだろう。
 店を閉めてから和室のテーブルでぼんやりしていたら、突然、黒塗りの電話が鳴った。壁にかかった時計はいつの間にか十時を過ぎている。滅多に鳴ることのない電話だったから、多分小母さんだろうと僕は受話器をとった。
 ……もしもし、あのお……瑠璃です……
 僕は意外な電話相手に息を呑んだ。瑠璃の声は昨夜にも増して憔悴しているように感じる。声が震えていた。僕の想像は当たっていたのか。
「僕……修一」
「あっ……」
 沈黙。微かな吐息の音だけが受話器の向こうから聞こえてくる。この時間になれば僕は店を退けているはずだ。瑠璃はそれを知っていて電話をかけてきた。相手は僕でなく小母さんであることはたしかだった。
「小母さん、出かけてるけど……どうしたの? なにか用?」
「……」
「瑠璃……教えて」
 僕は不干渉と無関心との違いを知ることにした。蚊帳のなかにどうしても入りたいと望んだからだ。それに小母さんが気になった。小母さんが遅くなっている理由を瑠璃はきっと知っている。
「僕、わかりたいんだ。瑠璃の悩んでいること。小母さんと瑠璃のこと。そして、僕のこと。教えてくれる」
 僕は決して干渉するのではない。具体的な行動をとりたかったのだ。事情やきっかけはどうあれ、瑠璃は僕を頼ってやってきたのだ。僕はそれに応えなければならない。それは、とりもなおさず、小母さんを衛ることでもあった。ここでも小母さんが優位に立っていることを、やや後ろめたい。でも、これは方法論に過ぎない。僕にとって瑠璃も小母さんも先生も、みないっしょなのだ。僕は段々にわかりはじめていた。
 三人は女神だ。僕を導く女祭司なのだ。
 僕にとって、三人は僕を導くイシス、つまり美しい女神なのだ。わかっていないことは、そのうちの誰が実際に僕を導く女神なのかということなのだった。
「瑠璃、教えて」
 復活とは、古い王を抹殺すること。思いこみの殻を突き破ること。古い王とは、既成概念のこと。言葉とは、知、言霊、女神のこと。
 イエスの復活劇を真にうけるな。
 イエスは魔術師だ。マギなのだ。
 そして、ここでも既成概念が働く。マギとは賢者。魔術師という古の呼び名を誤解するな。オカルトという言葉に惑わされるな。オカルトとは単に〈隠された〉という意味でしかないのだ。思いこみが、思考に霞をかけた、つまり既成概念ということなのだ。錬金術師も同じだ。その名称自体でいかがわしく感じるならば、すでにそれは既成概念の虜になっている。純粋に考える。錬金術師は単に化学者のはじまりの名称に過ぎない。うさん臭さは、当時の教会のご都合主義によるものと、後世のイメージなのだ。すべての物事のはじめは、凡庸な人々の嫉妬の対象となり、異端のレッテルを貼りつけられる。それはいまでも変わりなくある退屈で陳腐なことなのだ。
 ダ・ヴィンチの偉大さはその芸術のみにあるのではない。当時、異端とみなされれば死を意味したにもかかわらず、教会の依頼によるイエスの絵に福音書の謎を探った発想と、それを絵のなかに暗号として描いた勇気と機知に、まさしく僕の大好きなマニエリストとしてのダ・ヴィンチの貌が見えてくるのだ。
 そして、僕は僕なりの意識された企みと、仕組みと、あざとさを、イエスが企てた復活劇のごとく企む。
 いつか嘉夫のいっていた言葉を僕は思い出していた。
 ――あざとく、こうだと決めない限り、なにもないと同じだ。あれもこれも、価値だ有意義だと強引に決めこまない限り、全部ないと同じ。だけど俺には決める筋合いが見つけられない――。
 僕の憂鬱も、嘉夫の荒んだ放擲も、決めかねた途次の半端さ。どっちに転んでもたいしたことがないという切羽さが欠如したお気楽に過ぎない。僕も嘉夫も子供なのだった。
「小母さんが心配なの。助けて。わたしのせいで小母さんが……」
「瑠璃、店にきて。僕、待ってる。いっしょに小母さんを探そう」
 瑠璃を待つ間、僕は病院に電話をかけてみたりした。ナースセンターが出て、案の定、夕方には病院を出たはずだという。看護婦はそれ以上詳しいことを喋ろうとはしなかった。具合が悪くなって、ひょっとしたら近くで倒れてやしないかと何度か店の外に出ては辺りの様子を窺った。その都度、僕は虚しい思いで店に引き返した。不安だけが募る。なすすべを見つけられない。もしかしたら、あの小父さんと逢っているのではないかと、ふと思った。それだったら、いい訳はどうあれ、店の終わる前に連絡があってもいいはずだ。瑠璃を待つしかなかった。
 十一時。青冷めた顔で瑠璃がやってきた。空色の上着が瑠璃の顔をよけいに青くしている。上着の色はポントルモの十字架降下に登場する女達の衣装のように寂しい色に思えた。
 テーブルのいつもは小母さんの席に瑠璃がいた。僕を見つめる瑠璃の目はすべてをを語ろうと決意しているかのようだ。涙をこぼすまいと、必死にこらえているようでもあった。
「昨日はありがとう……。怪我、大丈夫?」
「このくらい平気だよ」
 眼帯をはずして笑ってみせた。腫れがあまりにこどかったのだろう。瑠璃の大きな目がますます大きくなって見開いたままだった。
「ごめんね……」
「僕のことより、瑠璃と小母さんのことだよ」
 僕は再び笑っていう。気をとりなおしたのか、瑠璃が喋りはじめた。僕は小母さんが心配で内心焦ってはいたが、いまは瑠璃の話を聴くしかなかった。
「わたしが馬鹿だったの。……軽率だった」
 瑠璃の話がはじまった。
 物事のおこりは日常の何気ない状況からはじまる。
 いつものように、瑠璃は学校の授業が終えて、演劇部も今日は休部だったから、真直ぐ家に帰ろうとしていた。
「ねえ、瑠璃。ちょっとつきあって」
 後ろの席から声がかかった。美恵だった。
「なに?」
「うん。ちょっとね。相談にのってほしいことがあるの」
 長い髪が清潔だ。間違えても制服のスカートをたくしあげてミニなどにはしない美恵だった。普段は口数も少なくおとなしかった。瑠璃との会話も文学や音楽などの話題が多く、歳頃にふさわしい話題は滅多になかった。学校の成績も上位で、瑠璃にとっては好ましく、また多少の憧れにも似た敬意を感じていた。入学して最初に友達になった相手でもあった。それが、罠だった。思いこみがすべての油断を導く。
 つれだって学校を出ると、美恵はタクシーを拾った。その時点で不審を抱かなかった瑠璃はすでに失敗だった。相談なら、学校でも、近くの喫茶店でもできたはずなのだ。タクシーに乗ってまでも場所を変えることに瑠璃は疑問を持つべきだった。車内での美恵の普段とは違う饒舌に一抹の不安を感じたが、それとて美恵のお喋りにさり気なくかわされた。日常、人間は自分の身におこることにそれほど神経質ではない。まして、相手は親友だった。
 つれていかれたのは路地の奥に隠れた小さなマンションの一室だった。友達の部屋なのと美恵はいった。部屋には女の子らしい飾りたてと、キャラクターグッズや縫いぐるみが無造作にあった。好奇心も手伝って瑠璃には警戒心が皆無だった。部屋に友達がいないことに疑問すらわかなかったのだ。
「ねえ美恵。相談ってなに?」
「この部屋、可愛いでしょ」
 美恵は巧妙にはぐらかす。いつの間にか絨毯に直に横座りした瑠璃の前にインスタントコーヒーが差し出されていた。手慣れた美恵の振るまいは、この部屋に馴染んでいることを示していた。
「友達は出かけたの?」
 さすがの瑠璃もいささかの不審を抱く。
「じき戻るよ。気にしないで」
 美恵の笑顔が爽やかだ。ラジカセから軽快なリズムが流れて、瑠璃の不審はいとも簡単に消え去る。見知らぬ部屋で美恵と二人、特別な関係ができたようで、それがまた瑠璃の好奇心を昂揚し、すっかり楽しくしていた。美恵の巧みな話術は瑠璃の好みそうな話題をとらえて飽かさない。
 三十分も経ったろうか。なんだかだるい。目の前の美恵が霞んで見える。間段なく喋りつづける美恵の唇が金魚みたいにぱくぱく動いている。美恵の声が遠退いていく。チャイムの音を微かに聞いたような気がした。複数の話し声があったと思う。ひとりは男のようだった。意識を失った。
 からだの一部に異常を感じて覚醒した。
 丸裸の男がのしかかってカメラのシャッターを切っていた。美恵も、その友達だという金髪に染めた女の子も、傍らで裸のままテレビにくったくなく笑っていた。男は、ヨハネの首だった――。
 そこまで話して、瑠璃は大粒の涙を落として泣いた。嗚咽はしばらくつづいた。僕も泣いた。いってあげる言葉がわからない。泣き崩れる瑠璃の悲しい姿を目を逸らさず見つめることが僕の役割でしかなかった。
 なにかに圧縮されるかのように、からだ全体が内側へと絞られる。頭蓋骨が破裂しそうに軋む。肺が爆発しそうに息苦しい。憎いとか、可愛そうだとか、そんな理屈からではなかった。ただ、肉体だけが痛んだ。
 もう話さないでいい。
 頭のなかで誰かの小説の題がくるくると廻っていた。復讐するは我にあり。復讐するは我にあり。復讐するは我にあり……。
 いかに鈍い頭でも、理解できた。美恵に入れ知恵されて、ヨハネの首は僕と瑠璃のことを知った。そのうえで、瑠璃を脅し、小母さんのなにかを探れと強要したのだ。多分、瑠璃はたえ切れなくなって小母さんに事情を打ち明けたのだろう。そして、小母さんはヨハネの首と交渉を持った。だから、小母さんはすでに瑠璃を知っていたし、ヨハネの首が店に来た理由も知っていた。だいたい、瑠璃みたいな可愛い子が僕とつきあいたいとういこと自体が、大いなる不思議なのだ。こんなにも可愛い子を、ほかの奴らが放っておくはずがないのだ。
「小母さん、きっとあいつのところだわ。だって、小母さんは修一くんの怪我の理由だって知ってるんだもの……」
 ものもらいが呆れる。寝小便を誤魔化した程度だ。僕の顔には世界地図が恭しく描かれていて、これこそ子供騙しだ。小母さんはすべてお見通しじゃないか。ついでに僕の復讐までやるつもりなのではないだろうか。
「部室のこと知ってたの?」
「親睦会のときに演劇部の人が話していたのを覚えてた。変にくにゃくにゃして喋る人」
 春海先輩だ。
「瑠璃。お金持ってる?」
「……5千円ある」
「借して」
 僕は瑠璃の手を強引にとって店の外に出た。瑠璃は黙ってついてきた。大通りに出ると、ヘッドライトを灯した車が行き交っていた。小母さんが男といっしょだとすれば、結局あそこしかない。よっぽど酔狂な人間でなければ、あんな不気味な場所にはこないし、用務員室は部室からかなり離れている。夏期のクラブ活動だって運動場の正反対にある体育館でほとんどやっている。運動場の脇の木立に沿って迂回しながら入りこめば、滅多に目撃されることもない。なにかをするには恰好の場所なのだ。男にだって都合がいいはずだ。
 空車のタクシーがなかなか来ない。
「どこに行くの?」瑠璃が訊いた。
「三角屋根」
 握り締めた瑠璃の手に力が入った。
「僕がいる」
 自覚の問題だ。嘉夫と僕は幾つも離れていない。たいして変わらないのだ。嘉夫に先生がいるように、僕にはいま瑠璃がいる。殴られることにもすっかり馴れた。男はこうやって喧嘩を覚えていくのだろう。そのうち父さんの武勇談を卓袱台しながら聞いてみよう。母さんのほうがいいかもしれないな。こんなときに両親を思い出すなんて笑っちゃう。
 空車が来た。瑠璃を先に乗せ、後から僕が乗った。急げ。心のなかの叫びは僕をますます焦らせた。
「小母さんなんだね」
「二度とひどいことさせないって……」
 車は産業道路に入る。
 僕をここまで欺いた小母さんは秘密主義だ。いつものように小首をちょっと傾げ、匂い立つような笑顔で瑠璃の秘密を隠した。自分の事情をとぼけていた。まるで、あなたなど相手にしていられないのよといわんばかりに。
 瑠璃にここまでかかわるのは、小母さん自身にも隠された事情があるからだ。それはよほどのことだ。瑠璃はそのことをどこまで知っているのだろう。
 僕達は学校のだいぶ手前でタクシーを捨てると急ぎ足で運動場に向かった。運動場に入ると、相変わらず点いたり消えたりの灯りが前方に小さく見えた。二人乗りの自転車で豪雨のなかを走り抜けたことを思い出す。握りあった手が汗ばんでいた。前方を見つめている瑠璃の顔は真青だ。きっと僕の顔だって血の気を退いていただろう。
 時々、糠るんだ地に足をとられた。まるで底なし沼にでもはまったような気分になる。僕は怖れていた。切断された男の首が、どろりと血を流して、電気椅子の座席を真紅に染めている。その傍らに血染めの刃物をだらりとさげた小母さんが立っている――〈サロメの首〉が本当におきてしまうのではないかと想像した。けれども、三角屋根には僕が想像するようなことはなにもおきていなくて、いつもと変わりなく錆びた電気椅子がひとつあって、殴られた痛みと床にこぼした鼻血の染みだけが瑠璃の膝の感触とともに残っている。部室に小母さんはいない。いないのだ……。
 僕達は灯りに向かって進んだ。僕も瑠璃も月光のせいで蒼くなった唇を血がにじむほど強く噛んでいた。唇は実際に蒼かったかもしれない。僕の腕にしがみついた瑠璃の腕から小刻みな震えが伝わってくる。
「こわい」瑠璃がいった。
「なにもない」掠れた声で応えた。
 僕の生活に非凡な事件などありえないと思いたかった。最近読む小説は特異な人間や突拍子もない設定の異常者ばかりの世界でつまらない、と歩きながら考える。お話の世界なのだからしかたないのかとも思うが、そればかりではうんざりだ。ところが、テレビが伝える近頃の事件は結構激しい。毀れた人間博物館だ。それと不満なのはもうひとつある。有名な作家の小説はどれも戦争体験がバックボーンになっていて、結局それが物語の大義になっている。何らかの戦争体験のなかに主人公をぽんと置けばいい。すべてがそれで出来上る。戦争はいやだ。いいわけない。そんなことは僕達にだってわかっているんだ。僕達は小説に違うものを求めているんだ。少なくとも僕はそうだ。悲惨な過去とか、恵まれない生い立ちとか、そんなものを引っぱり出してこなければ物語ができないなんて、過去がいい訳の物語なんて、想像力の欠如じゃないか。全部焼き直しにすぎない。時代を反映しているとかいったって、今の僕達をひと括りにしての説教はたまらない。ストーリーを少し変えれば同じものがいくらでもできるじゃないか。人間についての新発見なんてひとつもない。けれど、正直に告白するが、野坂昭如の蛍の墓は泣いた。悲しくて悲しくて泣いた。だから、それだけでもういいと僕は思うのだ。
 こんなときにこんなことを考えるなんて呆れる。戦争は、いつだって、あらゆる方法で否定しつづけていかなければいけないのに……瑠璃はますます顔色をなくし、気を失っているのではと思えるほど、その表情は蝋人形みたいに固まっていた。
 実習室の脇を通り抜けると、右手遠方に部室が現れた。月明りに包まれた三角屋根がお伽噺のような可愛らしさで闇に浮いている。強く握っているはずの瑠璃の手の感触がどこか曖昧で手応えがない。ひょっとしたら僕は正体不明ななに別のものを握っているのではないかと一瞬どきりとしたが、握った手の先にはちゃんと瑠璃がいて、蒼白の頬にまつげの長い影を落としているのだった。
 僕達はそこから先に一歩たりとも進むことができなかった。無人のはずの洞窟の口から墨色三十パーセントの貧弱な明りが漏れ、入り口のステップに淡く張りついた人影が微かに揺れていたからだ。
 握りあった手にどちらからともなく力が入った。僕達は三角屋根におきている事実をどうしても目撃しなければなかった。たとえそこに僕達が想像する最悪な状況があったとしても、もう避けることができない。僕達はすでに当事者になっていたのだから。
 けれども、二人の歩は遅々として進まない。瑠璃はほとんど腰が退けていた。僕は、思いついたように瑠璃の肩に両手を当てて深呼吸をした。瑠璃も真似た。思い切りと勢いだけが取り柄なのだと、もう僕達にはこれしか方法がない。瑠璃もきっと同じ気持ちになっていたのだろう。形のいい顎ををぐいとひいて、僕をきつい目で睨み返した。
 ダッシュ!
 二人が同時にあげた合図は夜の静寂に轟いて校舎の谷間にこだました。瞬間、二人は一斉に三角屋根に向かって走っていた。そして二十メートルの全力疾走は一瞬にして終わった。
 そこにヨハネの首がいた。
 太いロープを首に巻きつけて、三角屋根の梁から寂しくぶら下がっていた。電気椅子の背凭れから十センチも真上に浮いていた。ひゅうひゅうと息することもなく、真赤に充血した両目は瞳孔を失い、もうカメラを構えることすらできないでいた。〈影が薄い人〉というけれど、この人は死んでもやっぱり影が薄い。三十ワットの灯りを不精頭と背に背負って薄い影を床に揺らしている。
 僕達は手を握りあったままステップの下で立ち尽くしていた。瑠璃は目を伏せてしまったが、僕は眼前の光景を目に焼きつけようと、人間が宙に浮く不思議な光景を凝視していた。人間は事情の有無でこんなにも凄まじいことをしたりされたりするのか。この人が宙に浮く事情とはいったいなんだったのだろう。これはこの人の偶然の成り行きなのだろうかと、そう思う僕はまるで運命論者のようだ。
 足下に奇麗に畳まれた一枚のハンカチがあった。見覚えのある花柄が見えた。僕は瑠璃に覚られないようにそれを拾ってポケットにしまった。急に息苦しくなってむせた。喉がすっかり渇いていた。
「帰ろう」
 震えている瑠璃にいった。瑠璃は無言で頷いた。
 もうひとり、影の薄い人。日傘を差してアスファルトの上にマイナスの影を落としていた人。その人はいなかった。きっと小母さんは店に戻っているのだろう。用件はかたづいていたのだから。
 僕達はヨハネの首を置き去りにして部室を離れた。正門を乗り越えて夜道をとぼとぼと歩いた。夏の終わりの夜空に無数の星が瞬いている。小母さんを探しにきたはずなのに、どうしてか慌てる気持ちが失せていた。その代わり、握った手の先には瑠璃が確かにいた。肉の厚みと体温をしっかりと感じた。それは多分、〈死〉を間近に見たからだろう。僕が見たのは相対的な〈死〉であるかもしれない。人間は〈生〉と〈死〉しかないのだし、それは偶然などではなく、必然なのだ。だから〈生〉ではなく、〈生きる〉ということが人間の課題なのだと思う。僕は自分の〈生きる〉を、自分自身の手で見つけたいと願う。
 瑠璃が僕を見つめていた。瞳の奥に不安が覗いている。小母さんについて口にするのは勇気がいたから、僕は瑠璃のために最大級の笑顔をつくってあげた。
僕は瑠璃が好きだ。瑠璃と卓袱台したら、きっと楽しいだろう。卓袱台に大盛りの野菜サラダや手作りのハンバーグがあって、瑠璃は高校生の僕が当り前みたいにビールをがぶ呑みしているのに呆れ、それでも話題は僕の大好きなマニエリスムで弾み、瑠璃の好きな詩について盛り上がる。先生には及ばないけれど瑠璃の澄んだ瞳が可愛くて、僕の視線は釘づけになる。
 みんなも卓袱台を持てばいい。嘉夫と先生も持てばいい。小母さんも、持てばよかった。そうしたら、こんなことにはならなかったかもしれない。僕はあの人を恨む。あの背の高い人。来たよといって真夏の夜に小母さんを訪ねた人。僕の父さんのように、あの人も小母さんの卓袱台をひとつ用意すれば、小母さんはこんなことにはならなかったはずだ。円く納まったはずだ。それが男の力ではないのか。卓袱台に向かいあって座れば、どんなことでも笑ってやり過ごせたのではないか。けど、小母さんは誰にも卓袱台を貰えなかった……僕にも。

 僕達は産業道路に出て自転車屋まで歩いた。店はすでにシャッターを閉じていた。その横にあった電話ボックスに二人して入って店に電話をかけた。電話の呼び出し音が何度も鳴った。虚しく鳴りつづける音を聞きながら、僕はひどく窪んだ瑠璃の瞳を見た。気丈な瑠璃もさすがに限界なのだろう。僕は瑠璃をここまで強引につれてきたことを後悔した。見てはいけないものを見せてしまったようで悔やんだ。ヨハネの首は、僕と瑠璃では意味が違っている。僕は軽率だった。
「小母さん、出ない」
 すでに考える余地を失っていたのだろう、瑠璃は無言で頷くだけだ。目の焦点が虚ろになっている。ひとまず帰らねばならない。このままで済むはずがなく、いずれ諸々のことに煩わされるだろう。けれど、今、二人はそれぞれの家へと帰るしか方法がなかった。少なくとも瑠璃は帰すべきだと思えた。電話ボックスを出てタクシーを拾うことにした。駅方面の帰車は多く、すぐに空車がきた。僕が先に乗りこみ、瑠璃が後から乗った。瑠璃の家まで送り届けたかったからだ。車代が心細かったが、さっきのお釣と僕の分でなんとかなるだろう。もし足りなかったら僕も降りてしまい瑠璃の家で借りればいい。僕の家と違って瑠璃の家には誰かしらいるのだろうから。
「大丈夫?」
 そんなはずがないだろうに、隣でぐったりしている瑠璃に、そんな言葉しかかけられなかった。それでも瑠璃は目で、なんとかね、と応えていた。
 車代はなんとか足りた。瑠璃の家はそれほど遠くはなかったので、瑠璃を家の前で降ろすと、そのまま乗り継いで店の近くまで運んでもらった。
 霧が出ていた。タクシーを降りて人気のない夜道を歩いていたら、いきなりからだが震え出した。腕に鳥肌が立っている。今になって恐ろしくなったのか。首筋にぞわぞわと冷気まで感じた。梁にぶら下がったヨハネの首が脳裡に現れては消える。瑠璃と別れて、二人の秘密が僕ひとりの秘密になってしまったようで、心細くなったのか。いつまでもいっしょにいればよかった。瑠璃はもう寝たろうか。それとも僕と同じように不安と恐怖で怯えているのだろうか。
 店の前に来ていた。二階の雨戸が閉じられていない。カーテンで覆われた窓硝子に明りが見えない。玄関に廻ってみた。戸が開く。いくら慌てていても鍵は閉めた覚えがある。なかに入ると三和土に見覚えのある小母さんの小さな靴がぽつんとあった。靴は乱れていた。小母さんは戻っているのか。和室は明りが灯ったままひっそりと静まりかえっていた。僕は廊下から二階の真暗な部屋に向かって小さな声で呼んだ。
「小母さん……」
 返答がない。胸が騒ぐ。
「小母さん、いるの……」
 薄明りに黒ずんだ階段に足をかけた。軋む音。上を覗きこむように四つん這になってそろそろと登った。心臓の激しい鼓動が鼓膜に直接当たっているかのようだ。もしも。もしもだ。ヨハネの首が小母さんの仕業だとしたら、具合の悪い小母さんのからだは平常でいられるはずがない。小母さんはたいしたことないと僕に詳しく話してくれないが、僕は知っている。小母さんは心臓病だ。ここのところ、とみに元気がなかったように思う……それ以上に僕が怖れる予感。それは、小母さんの、考えたくはない、殺人を償う自らの死。
 部屋は階下の明りを仄かに吸いこんだ六畳ほどの部屋だった。薄暗がりに、白っぽい布団の上に横たわる人の姿が見えた。掛け布団に直に横たわっている。僕は四つん這のままで、再び小さく呼んだ。
「小母さん……小母さん」
「……はい」
 消え入るような小母さんの声だった。ああ、ああ、小母さん。僕はばたばたと這うようにして小母さんの枕元に近寄った。
「小母さん、しっかりして、どうしたの、大丈夫なの」
 小母さんの顔を覗きこむようにして僕は矢継早にいった。真白だった。小母さんの顔はまるで白蝋のような白さで薄闇に浮いていた。
「病院にいこう、救急車よぼお」
「修ちゃん……バッグ……」
 僕はすぐに気がついた。薬だ。バッグはすぐ傍にあった。慌てて台所に駆け降りた。蛇口の水が激しくコップに落ちる。一気に駆け上がってバッグを探ったら錠剤が出てきた。
「小母さん、これだね」
 そういって小母さんの顔に錠剤を近づけて見せた。小母さんは薄目を開けると弱々しく顎を小さく引いた。この体勢では薬を飲めない。かといって、小母さんの上体をおこすのもまどろっこしい。錠剤の包みを剥ぎとると、色を失っている小母さんの唇に錠剤を半分ほど含ませた。片手を小母さんの後頭部にあてがい、コップの水を含んで小母さんの唇に添えた。こくりと小母さんの喉が小さく鳴った。冷たく固まっていた小母さんの唇が、重ねられた僕の唇の下で徐々に熱を帯びて柔らいでいくように感じた。それにつれ、小母さんの甘い匂が微かに立ちはじめた。唇を離そうとしたら、頬を両手で挟まれて優しく吸われた。僕は小母さんに添い寝でもするように横たわった。それから、どちらからともなく抱きあった。小母さんは僕を見つめていった。
「また修ちゃんに助けてもらったのね」
「大丈夫?」
「無理をすると時々こうなるの。薬を呑み遅れたんだわ」
 そんなにも疲れるような、どんな無理をしたというの?
「心配で探したんだ」
「ごめんね……」
僕は三角屋根のことを話し出せないでいた。忌まわしい光景を忘れてしまいたかった。
「もう、大丈夫よ」小母さんは腫れた僕の目をそっと撫でていった。
 僕は小母さんに衛られたのだろうか。衛ってあげなければならない人に、僕は逆に衛られてしまったのか。
 幾度も繰り返す口づけが少しずつ間を狭めて激しくなっていく。小母さんの細い腕が僕の首に絡み、小さな掌が僕の長い髪を掻き廻す。シャツがはだけて背に小母さんの手が這った。素肌に触れる滑らかな感触。時々立つ薄い爪。時たま聞こえてくる遠吠えのような夜風に運ばれる車の音。ブラウスのなかのふくよかな胸を、僕は恐る恐るまさぐる。
 僕はうれしかった。もちろん、小母さんが僕を愛してくれるのはこのうえない喜びだ。しかし、僕が本当にうれしかったのは、小母さんは自殺など絶対にする人間ではないということだった。こんなにも僕を惹きつけてやまない人が〈生きるエネルギー〉を喪失するはずがないのだ。人間の魅力とは生きようとする力から出ずるのではないのか。だからこそ、僕は、生きようとする人の命を奪う人間と、生きようとする人の気持ちを破壊する人間を、どんな理由があろうとも憎悪する。では、小母さんは? ヨハネの首を本当に殺してしまったのだろうか。小母さんは、僕が最も憎む行為をしてしまったのだろうか。単なる僕の危惧であってほしいと願う。ヨハネの首は自殺したのだ。僕はあの人にエネルギーを感じなかった。あの人は、自ら陥った境遇から復活しようとする強烈なエネルギーをひとつも発してはいなかった。僕のような子供には理解できない事情が、あの人にあったのかもしれない。けれど、それはあの人の勝手だ。生きようとするエネルギーは個人のものであり、その人自身によるものだ。僕はそのことに干渉しないし、できることではない。惹かれないというだけのことなのだ。
 僕らは素肌になって抱きあった。重ねた唇のなかで互いの舌が行き来して縺れた。細い指が腰に流れて僕に絡んだ。僕も真似た。ぎこちなかったかもしれない。でも、小母さんは静かな笑顔で僕を見つめてくれた。
「ごめんね……」
小母さんは僕の耳元で囁いた。
 小母さんはなにを謝ったのだろう。それと、気になることがある。それは、ヨハネの首が電気椅子の背から十センチ離れて浮いていたことだ。自殺ではないのだ。僕は殺人者の温もりのなかに包まれているのか。
 小母さんは僕の黒く腫れあがった目を撫でていた。抱きあった肌が汗ばんでいる。複雑な気分だった。こんなふうになってしまって、小母さんのからだは大丈夫なのだろうか。無理をしたのではないか。
「大丈夫……?」僕は訊ねた。
 小母さんは僕の手をとって自分の胸に当てた。母ほどではなかったが、円みを帯びた胸は豊かだ。薄闇に真白な乳房が浮きあがっている。
「ほら、正常でしょ」そして、僕の顔を自分の胸に引き寄せ、
「聴いて」といった。
 寄せた鼓膜に小母さんの小さな鼓動が伝わってくる。それは小母さんの〈生きる音〉だった。鼻孔に甘い匂がひろがり、再び僕は敏感に感じないではいられなかった。
「僕達、部室に行ったんだ……」
「そお……でも、もう終わったの」
「小母さん」
「小母さんは修ちゃんが好きよ。でも、私は修ちゃんが思っているような人間じゃない」
 見つめる瞳が遥か無限をさまよい僕を通過している。僕の長髪を繰り返し撫でながら、独り言のように小母さんは話す。
「嘉夫はどうしているかしら」
 あのときから、あの子は変わったわ。俺は嘘っ子だといって、私を諌めはじめたの。変よね。子供に嘘も本当もないのに。でも、私はいい訳できなかった。主人の葬儀のときに、敏感なあの子は自分の本当の父親に気づいたのね。
 なにかいいたげに見えたのだろう、僕の唇に細い指をあてて小母さんはつづけた。
「嘉夫は私を許してくれない……でも、嘉夫は私の子。誰の子でもないわ」
 小母さんの顔にいいしれぬ苦渋の色が押し寄せた。
「けれど、私は嘉夫よりも、あの人を選んだんだわ」
 告懺のつもりなのだろうか。それは、何年にもわたって小母さんを腐食しつづけてきた秘密の毒を、全身から絞り出すような言葉のようだった。
 僕を不眠に陥れた、目を閉じた不思議な遺影が脳裡に蘇る。あれは僕の見間違いだったのかもしれない。葬儀にあのような写真を使うわけがない。僕はきっと、憔悴しきった小母さんに小母さんの重い秘密を覗いたのだ。目を閉じた遺影は苦渋の哀切が乗り移った小母さん自身だったのだ。喪服姿の小母さんが陽炎のように揺らぐ。あのとき、嘉夫はいったいどこにいたのだろう。焼香にやってきたあの背の高い小父さんを、棺の横でじっと睨んでいたのだろうか。血の直覚で、一瞬にしてすべてを覚り、手出しのできない裏切りを抱えこんだのか。僕は嘉夫の放擲の意味を少しわかったような気がした。いつか僕が母の涙を拭ったように、小母さんは僕の涙を指の腹で拭った。
 僕の女祭司は小母さんだったのだろうか。けれど、僕はいったいどこに導かれたのだろう。僕のイシスは、僕をどこにつれていこうとしているのだろう。夢想は頭でっかちの妄想に過ぎなかったのか。今の僕は、心地よい快感だけがすべてを占めて、いまだに殻のなかなのだった。
 早朝。僕は全裸のままで目醒めた。陽は微かに薄く窓から忍びこみ、添い寝のはずの母親が寝入った乳飲み子から離れるように、僕はいつの間にか置き去られていた。布団のなかに独りだった。冷え冷えとした空洞が、すべてが儚い夢の出来事であったかのような、不確かな距離を知らしめる。
「小母さん……」
「小母さん! 小母さん! 小母さん!」
 駄々っ子が喚くように、僕の叫び声はヒステリックに家中を駆け巡る。
 ……。
 家はひっそりと静まり、自分の声しかない。階下に駆け下りた。
 ――二、三日留守にします。修ちゃん、ごめんね。
 和室のテーブルに見つけた一枚の白い便箋に、ただそれだけが書かれていた。またもや、ごめんね、だった。わからない。僕のイシスは絶対のはずなのに、小母さんはなにに謝っているのだろう、なにを謝っているのだろう。犯した罪にか、それとも嘉夫よりもあの人を愛したことをか。人間はきっとなにかを自分のイシスと決めて生きる。人間は、自分がどう思おうと、独りでは生きていない。どんなに強がっても、結局、人ではなく人間として生きている。謝るとはそういうことを意味し、人間だからこそ謝るのだろう。だとすれば、僕も小母さんに謝らなければならない。小母さんの卓袱台を用意できなかったことを。
 封筒にお金が入っていた。はじめてのアルバイト代。晴れがましいことなのに素直に喜べるはずがない。母さんに返さなければ……。
 二階に戻り、服を着ようとしたら、ズボンのポケットから奇麗に畳まれた花柄のハンカチが出てきた。握り締めて匂を嗅ぎ、目を堅く閉じたら、いきなり見知らぬ洞窟の暗闇が瞼の裏に現れた。それから、手燭の薄灯りに蒼く照らされた独りたたずむ小母さんの真白な裸身が泡影のごとく浮かびあがった。絡む薄布の一枚もなく、漆黒の土の上に素足を浮かせ、その白い裸体は静謐な空気のなかに透通しているかのようだ。けれど、その清切な姿の存在は、幻燈機に映し出された危うい思い出のように、遥か彼方にあって曖昧だ。寂しい距離を感じた。
「マリア」
 僕は思わず呟いていた。
 退き潮のように、泡景は瞬く間に瞼の深遠へと消えた。小母さんはどこへ行ってしまったのだろう。

 学校は大騒ぎだった。事件を逸速く嗅ぎつけたマスコミが校門の周辺にたかり、狭い部室の内部には警察の人間が右往左往していた。生徒達が部室を遠巻きに眺めていたが、うるさい先生に追い散らされている。けれど、いったん退いたかにみえて、退屈を持て余している不良達は再び部室の周辺に寄ってきて、訳のわからない奇声をあげている。青いビニールにすっぽりと包まれたヨハネの首は、同じような青い覆いに隠された透き間を運ばれて、いかめしい警察の車でどこへとなく消えていった。
 二時限目が終わると、演劇部全員が職員室に呼び出された。春海先輩が意味ありげに僕を睨んでいたが、無視した。刑事が事件についてなにか心当たりがないかと僕らに訊いたが、誰もなにも知るわけがなく、僕もとぼけた。どうやら警察は自殺と殺人の両面で事に当たっているようだったが、僕らに詳しい説明はない。単に演劇部の部室でおきた事件としての、一応の対応なのだろうと思えた。ほとんど退いていたが、瞼の腫れがわずかに残っていて、刑事のひとりにどうしたのかと訊かれた。転んだのだと誤魔化した。演劇部顧問のもういいぞという一言で僕達は解放され、それぞれの教室に戻った。
 夏休みのだるさを抱えたまま、生徒達はいまだ夏の午睡から醒めやらず、気乗りのしない授業をうけていた。先生までも投げ遺りで、新学期の緊張感など少しもない。黒板に書きつける応用力学の図式も弱々しい白墨の線で、やる気がない。僕だって、どうせ机にうっぷして寝ているのだから、この素敵な環境に感謝しつつ、いつまでも目蕩む。
 淡い夢を繰り返し見ていた。瑠璃や嘉夫が出てきた。先生も、小母さんも出てきた。ヨハネの赤く飛び出した眼球がアップで現れたとき、僕はいきなり意味不明の大声をあげて席を立っていた。ぬるっとした汗が額に噴き出ている。
「修一、小便かあ。漏らすなよお」
 先生が面倒臭そうにいったので、飽いていた悪餓鬼どもが机を叩いて笑った。ちょうどいい。僕は照れ臭そうな振りをして教室を出ると、その足でバス停にいき、手ぶらのままバスに乗ってしまった。
 乗客は僕ひとりだった。バスに揺られながら久し振りに桃山を嗅いだ。匂は僕自身の存在を確認できるが、時には掴みどころのない不安もつれてくる。不安そのものが人間の存在感とも思えて、その意味知れぬ不安感を打ち消しつつ生きているのが人間のような気もした。人間はいつだって生きていることに不安なのだ。バスは産業道路を走っている。
 飽きたかなあ。窓を少し開けて窓外にそっと缶をかざしたら、風に吹かれて葉が散った。匂も存在も消滅して空になった缶を見つめた。まるで今の僕だ。殻だけが残っている。
 僕はあれからもひとりで店を開けた。小母さんが戻るのを待った。けれども、電話のひとつもなく、小母さんは戻ってこなかった。夏休みが終えて学校がはじまったが、それでも僕は、今日もこれから店に出ようとしている。
 駅に着いたら思いついた。アーケードの例の呑み屋でなら嘉夫のことを訊けるかもしれないと。店は食事もやっていたから昼間も開けているはずだ。
 店内は昼定食の客でほとんど満席だった。美味しそうなおかずの匂があちこちの卓に溢れ、食欲旺盛な客の口のなかに逞しく消えていく。こんがり焼けた鮭が定食の定番だなと、僕の食欲を刺激する。
「先週きたわ」
 いつもの女の人といっしょだった。そういえば、その人の故郷にいくんだみたいなこと話してたわ――忙しい時間にもかかわらず、店のおねえさんが親切に答えてくれた。僕のこともちゃんと覚えていてくれて、空いている卓に座らせると、オレンジジュースをご馳走してくれた。ビールってわけにはいかないわね、とおねえさんはウィンクまでしてみせた。
 先生の故郷はどこだろう。僕のことも、小母さんのことも忘れて、二人はそのまま先生の故郷に姿を隠してしまう気なのだろうか。
「嘉夫さんが来たら電話もらえますか。夜中でもかまいません。絶対にお願いします」
 かならず電話してあげる。また遊びにおいでね。おねえさんの屈託ない笑顔は、すべての忌まわしい出来事を幻に変えてしまうかのように明るい。僕は電話番号のメモをおねえさんに手渡して店を出た。
 道すがら、嘉夫達とはもう二度と逢えないのではと寂しくなった。さらに、手ぶらであることが忘失感を生じ、時々はっとした不相応感が僕を襲った。得たとばかり思っていたすべてが嘘で、僕が勝手に思いこんでいただけの、はじめからなかったという勘違い。嘉夫と先生。小母さんと小父さん。そして、瑠璃は別の目的のために僕に接近したという〈僕と瑠璃〉は成立していない疎外感――僕はかなりいじけてる。
 なにをするでもなくレジにぽつねんと腰掛けていた。店を開ける気になれない。嘉夫も小母さんもいないのにどうやって店をやればいいのだ。店にマニエリスムの本を一冊も置けないまま、僕の壮大な計画は呆気なく頓挫してしまった。夏休みの終わりとともに僕の本屋さんごっこは他愛なく終わってしまった。途方に暮れた。灯りも点けずいつまでもいた。
 辛うじて持ちこたえていた町の小さな書店。いったんはじまればその失速は加速するばかりで再起は覚束ない。僕のアルバイトは死に体を無理やり引き伸ばしたに過ぎなかった。上がらないシャッターは予測された必然で、誰のせいでもない。店のすべてが古物と化し、朽ちていく。僕の大好きな本屋さん。大好きな小母さんがいつもおまけしてくれた文庫本。楽しい付録をつけてくれたレジの小母さん。唐草模様の風呂敷が天空に舞いながら鰯雲の彼方に消えていく。
 八時を過ぎたころ僕は家に帰った。
 リビングは卓袱台宴会の真っ盛りだった。父と母が無造作に破った柿ピーの袋で缶ビールを何本も空にしていた。なぜかぴったりと寄り添って仲がいい。僕の顔を見るなり、よっ、と二人揃ってピースマークをつくってみせた。平和だ。我が家は長閑に平穏無事だ。
「つまみぐらいちゃんとつくったら?」
 僕は呆れて厭味をいうが、二人は一向に気にする様子がない。しかたないから、台所に入って簡単なつまみを即座につくる。大皿に盛りつけたピーマンと挽肉炒め、それにヘビースモーカーの母さんのために味噌汁もつくる。父さんは野菜不足だろうと、大根サラダ。胃の消化にもいいだろう。
「だからね、父さん」
 母が訳のわからないことをいって父に絡んでいる。父はえへらえへら笑っている。時々母さんのお尻を撫でてはその手を叩かれている。
「だからね、父さん。好きなことやんなきゃ駄目なのよ。厭々生きたってしょうがないじゃない。でしょ」
「だから好きなことしてんだけど」
 といいつつ、父さんはまた叩かれていた。子供の前でいちゃつかないでほしい。母さん、これ。僕は封筒を卓袱台に置いた。なによ。母さんは怪訝そうに封筒を手にしたが、すぐに気づいたのか、おおあんたは偉い頑張ったわね、それじゃ五千円および利子五千円、計一万円いただき。おいおいそれは暴利だと、父が横から口を挟む。それじゃ、たまにはお小遣い。母はそういって五千円を僕にくれた。これでいいんじゃない。自慢気に母は父にいった。ううむ、それもテクニックだなあと妙な感心をしている父。好きにしてください。
「で、アルバイトは終わったの?」母が訊いた。
「学校はじまったし……」
「学校、楽しいか?」父が訊いた。
「つまらない」
「そういえば、あんたの学校、事件が多いわねえ」母がいった。
 どきりとした。事件なんかじゃない。ただの自殺だよ。僕はさもつまらなそうにいった。母さんは勘がいい。余計なことを口にすると厄介だ。僕は缶ビールをとりにいく振りして台所の冷蔵庫に立った。すっからかんだった。
「ビール買ってくる」
「お金は?」母さんはさっきの五千円札をつまんでみせた。
「僕が奢る」
 母のなんとなく引っかかったような表情が気になった。僕は慌てて家を出ると大通りに向かった。つい最近コンビニになったばかりの酒屋がある。ついでに簡単なつまみも買える。父さんにはバーボンでもプレゼントしよう。母さんが僻むといけないので値段の手頃なワインを買おう。まったく世話がやける両親だ。
「遅い、遅い」
 母が駄々をこねていた。はいはい。僕は二人にプレゼントを見せた。父は感涙。母は品定め。性格が出てる。僕は缶ビールでそれぞれの酒と乾杯をした。修一のバーボンは格別に旨いと父が大袈裟に喜んでいる。僕の酒ってわけではなかったが、素直な父が可愛い。母は、やっぱり引っかかっている。ワインくらいじゃ誤魔化せないのは百も承知だが、まずいぞ。
「修一ィ〜」母の流し目が飛んできた。
 僕は素知らぬ振りでビールをぐいと呑む。
「彼女、元気ィ〜」
 僕は一瞬戸惑った。どちらについて、どう答えるべきか、咄嗟に思いつかなかったからだ。瑠璃? 小母さん? どちらにしても、どう答えたらいいのか。
「あんたなにをあせってんのよ」
「えっ、そんなことないけど……」
「母さん。バーボンてのはとうもろこしなんだよ。とうも、もろこしも、唐って意味なんだけどね」
 父は母の肩を抱き寄せるとバーボンの瓶を自慢気にかざしてみせた。
「父さん、うれしい?」
「ああ、最高さ。どこで呑む酒よりも旨い」
「よかったわね。やろう、やろう」
 はぐらかしてくれた父に感謝。こんなことなら、しょっちゅうバーボンをプレゼントしてあげよう。父さんって安上がりな人なんだと思った。こくんこくんと小気味よい音でバーボンがグラスに注がれる。母の赤ワインも奇麗な色に輝いている。
 電話が鳴った。十時を過ぎている。母が出ようとしないから仕事の電話ではないのだろう。父は携帯にかかることが多いのでこれも違う。となると、僕だ。瑠璃だろうか。それとも。
「修一、どこ行くのお」
 母の間延びした声を後にして、僕は全速力で夜の町中を走っていた。夏休みが終わっても季節はまだ夏だ。残暑の汗た風が長い髪に当たって後方に流れていく。学校帰りいつもはだらだらと歩く駅からの道を必死で走った。
「嘉夫さんきてるわよ」店のおねえさんが電話の向こうで秘密っぽくいった。酔ってるわよと、くすくすと笑った。お礼の言葉もそこそこに、僕は家を飛び出していたのだ。
 アスファルトの舗道がスニーカーの下で飛び去っていく。嘉夫に逢えたらなにから話そう。いっぱいありすぎる。あれも、これも。きっと僕は嘉夫に喰ってかかるだろう。こんなになるまで僕達を放っておいた嘉夫を責めるだろう。きっと先生もいっしょだ。僕は先生も責めるに違いない。泣き虫な僕は泣いてしまうだろう。でも僕は二人を責めずにはいられない。
 夜の町をがむしゃらに走った。頬を流れる涙が幾つも舗道に飛んでは砕けていった。

 二人の顔を見た途端、僕の予測はたちまちのうちにはずれて、自分でも驚く予想外の行動に出ていた。店の一番奥の卓で酔い潰れている嘉夫が目に入った瞬間、僕はものすごい勢いで二人に走り寄っていたのだ。他の客が何事かと目をひん剥いた。よほど血相を変えていたのだろう、先生が僕の名前を叫んだが、すでに僕の両腕は嘉夫の胸ぐらを鷲掴みにしていた。
「修一くん、どうしたの? なにがあったの?」
 先生は呆気にとられている。
「嘉夫さん! 嘉夫さん! 嘉夫さん!」
 僕は嘉夫の胸を激しく揺さぶって叫びつづけた。虚ろな目で見上げる嘉夫がいた。
 町の不良達が誰も臆している嘉夫に、僕は無謀にも喧嘩を売った。いま、その喧嘩の真最中だ。客はみな、店の隅に寄ってグラス片手に高見の見物をきめこんでいる。店主は警察に通報するでもなく、前掛けの下のポケットに手を突っこみ、くわえ煙草で平然としている。怖がっているのはおねえさんと先生だけで、夢中になっているのもきっと僕だけなのだ。嘉夫に体よくあしらわれている僕は、この喧嘩が大人の喧嘩になっていないことを、厭でも悟らずにはいられない。けれど、喧嘩の形など僕にとってなんの意味もない。嘉夫に足払いで容易く倒されているときも、首根っこを掴まれてぐるぐる振り廻されているときも、僕はこれが衛ることなんだって思った。かなわないのは百も承知で、それでも立ち向かうことに意味があるのだと考えた。それ以上にはこの喧嘩に意味を求めてはいなかった。小母さんを衛っている、小母さんのために闘っている、それがいま恰好悪くもがいている僕の理由なのだと決めたのだ。独りよがりであることはわかっている。お門違いかもしれない。でも、真顔で相手をしている嘉夫は、きっといつか僕の本心に気づくだろう。
 それにしても、僕のこの執拗な暴ぶれはどこから来ているのだろう。こんな僕ではなかったはずなのに、いつからこうなったのだろう。僕は乱暴な喧嘩に酔っている。没頭しきっている。
 グラスが割れた。皿が円盤さながらに廻転して隣の客の卓下まで飛んでいた。陽気なおねえさんが顔面蒼白で棒立ちになっている。喧嘩馴れした嘉夫は本能的に僕をさばいていた。僕は引っかけた椅子もろとも床にもんどりうっていた。先生が嘉夫を抱きしめるように制したが、実に簡単に横に押しやられた。あまりの軽々しさが可笑しかった。
 とにかくがむしゃらに立ち向かっていきたかった。打った腰が痛かったが、それでも椅子を荒々しく払い除け、再び嘉夫に挑んだ。嘉夫の長い腕が今度は僕の胸ぐらを絞めた。虚ろだった嘉夫の瞳が、いつの間にか獰猛で危険な目つきに変わっている。僕はもう泣いてはいなかった。どんなに強がっても嘉夫ほどの危険な凄味は出せなかったが、精いっぱいの闘争心を振り絞って嘉夫と揉みあった。嘉夫の腕力は凄まじく加減がない。一言も発しないのでますます不気味だ。これが喧嘩のやり方なんだろうと、吊し上げられながら思った。それなら僕もひたすら黙してぶつかろう。歯を食いしばって喧嘩してみよう。
 右の拳が嘉夫の頬を突いた。足がすねを蹴った。嘉夫の目が笑ったかに思えた瞬間、僕は卓の上に叩きつけられていた。背中に激痛が走り、鋭いものが無数に刺さるのを感じた。それでも、僕は上体を無理やりおこして嘉夫を睨みつけた。嘉夫に向かって飛びかかった。二人は抱きあうようにして後ろの卓まで飛んだ。酔っているはずの嘉夫なのに、なぜこうも敏捷なのだ。たった一度軟弱な僕のパンチを顔面に受けただけで、その後一切かすりもしない。逆に、目に見えない嘉夫の拳が何度も僕の華奢な顎を捕える。その都度、僕はよろめいたり倒れたり。もう、ふらふらだ。嘉夫のパンチを顎に受ける度、つんときな臭い匂が鼻をつく。喧嘩は体力なんだとふやけた頭で思う。マニエリスムばっかじゃ駄目だから、これからはからだも鍛えようと思う。さらに、父親は子供に喧嘩のやり方を教えるべきだと、朦朧とした頭で父さんを逆恨みなんかしてみても、僕の意識はすでに真白だ。
 気がついたら、僕は立ったまま嘉夫に抱えられていた。乱れた髪を嘉夫の大きな掌で撫でられていた。足が萎えてほとんど宙に浮いている。憎たらしいほど嘉夫の喧嘩は巧みだった。あれだけ殴られていたにもかかわらず、僕は鼻血一筋も流していない。そんな僕を先生は泣きながら背後から抱きしめていた。
 僕はへとへとになって椅子にへたりこんでいた。周囲は何事もなかったように、酔客で賑やいでいる。おねえさんと先生が割れたグラスや皿の破片をかたづけているのが、焦点のずれた視線に映った。卓を挟んだ向こう側で嘉夫が余裕を見せてビールを旨そうにやっている。掃除をおねえさんに任せた先生が、僕の背後に廻り、僕のシャツをそっとたくしあげた。それから、背中に刺さった破片物をひとつひとつ丁寧に摘みはじめた。華奢なからだが恥ずかしかったけれど、先生の優しさがうれしかった。そのうち照れ臭くなってきて、嘉夫を睨みつける目がたえられなくなった僕は笑いだしてしまった。嘉夫も大声で笑った。二人して馬鹿笑いした。店の客もみんな笑った。拍手まで出た。僕の壮絶なバトルは一応の決着を見た……。そしてやっと、僕は本題に入れると思えたのだ。冷えたビールを一気に呑みこむと、僕はいった。
「嘉夫さん。病気の小母さんが心配じゃないの?」
 先生の手が止まったのを感じた。嘉夫だけの問題でないことは先生だって感じているのだ。暗に二人に問いかけた形になってしまったが、僕は嘉夫の答えが聞きたかった。
「修一は知っているのか?」
 嘉夫の訊こうとしていることがなんであるのか、僕は嘉夫の臥せた目で自然にわかった。いつもおちゃらけてはいたが、ふと垣間見せる嘉夫の翳りには、自分の行き場をすでに悟っていながらそれでも誤魔化しきれない寂しさを隠しているように見える。事情を知ってからなおさらそう思えた。僕の家では絶対にありえない家族の形だった。
「小父さんのこと?」
「おふくろが話したんだな」
「……嘉夫さんらしくない。僕の好きな嘉夫さんはもっと恰好いい。うまくいえないけれど、なんだか嘉夫さんが小さく見える」
「大きいのは背だけさ……」嘉夫は小さく笑っていった。
「小母さんいなくなったんだ。もう何日も帰ってこない。学校がはじまってからも店に行ってるんだけど、小母さん帰ってきた気配がない。それに……」
 僕はサロメの首についていい淀んだ。どういっていいものなのか思い迷った。
「あいつといっしょにいるんだろう。そのうち戻ってくるさ」
「嘉夫さん、小母さんを捨てたみたいだ。そんなことする必要ないじゃない。仲良くしてればいいじゃない」
「なまじ俺がいないほうがいいんだ。そのほうがおふくろも自由にできる。気兼ねしないで済むだろう」
 先生は僕にシャツを着せると、いつの間にか店から消えていた。
「小父さん嫌いなの?」
 無神経な質問だった。嘉夫にとって好きや嫌いなどといったことではないのだ。僕には理解できない、もっと深い根の部分に触る、嘉夫の〈生〉そのもののことなのだ。小母さんは詳しくは話してくれなかったので嘉夫の出生の詳細はわからない。けれど、嘉夫がただならぬ子であることは事実なのだ。嘉夫は黙ったままだった。
「嘉夫さん、カメラマンのこと知ってる?」僕はいよいよ切り出してみた。
「あの写真雑誌の野郎か? ああ、俺もテレビで見た。死んだんだろう。ざまあねえ」
 嘉夫は吐き出すようにいった。
「それがどうかしたのか?」
「小母さんも関係してる……」声をひそめて僕はいった。
 そのとき、先生が片手に小さな紙袋を持って店に戻ってきた。先生は僕の背に廻ると再び僕のシャツをたくしあげ、傷の手当をはじめた。近くの薬局で薬を買ってきたのだった。
「ごめんなさい……先生」
「ひどい嘉夫ね。手加減を知らないんだから」
「なかなか見掛けによらない。あれなら修一も番を張れるぜ」
 そういって嘉夫はちゃかすような目つきで僕を睨みつけた。改めて、僕はぞっとした。喧嘩が夢のなかの出来事だったと思いたい。二度と嘉夫に喧嘩を挑むことはないだろう。
 傷の手当を終えて嘉夫の隣に座った先生は、化粧を直したのか、泣いた顔が消えていた。薄い白地のカーデガンの下にクリーム色のシャツが見え、胸元に透き通るような真白な肌が覗いている。いつもそうだが、先生は余計な色がない。最低限の色合で整えられていて、不良ぽい嘉夫といっしょだと妙にアンバランスな雰囲気を醸している。獣めいた鋭さと、まるで異質な相反する清楚さが、不思議な取り合わせとなって、それ自体が意識された二人のお洒落のような気もする。荒んだ二人のなかにそれでも一抹の希望を見つけられたようで、少し酔ったのか僕は淡い懐かしさで眼前の二人を眺めていた。
「近いうちに顔を出す。すまんが店の様子を見ててくれないか」
「嘉夫さん、なにか心当たりでもあるの?」
 嘉夫は、僕の質問を無視して店の奥に振り返ると、おねえさんに指を一本立てて見せた。無闇ににこにこしたおねえさんがビールを持ってやってくると、僕の耳元に囁いた。恰好よかったわよ。
「修一、もてるなあ」嘉夫がからかった。
「当然よねえ」先生が自慢気にいった。
「あたし、好きだなあ、この子」
 おねえさんが店中に聞える大声でいうと、もらっちゃえもらっちゃえと酔客が茶化した。
 僕自身が変わったのだろうか。それとも、僕の環境が変化したのだろうか。どうあれ、今の僕は外に出ている。どちらかといえば自分の殻に篭っていたはずの僕は、嘉夫達とかかわりはじめて、別の世界に入ったような気がする。方向はわからない。位置もわからない。なんとなくわかることは、大人の世界の端っこに、ほんの少しだけ踏み入ったのではないかということだ。これは多分、僕は僕のマグダラのマリアに導かれていることではなかろうか。というよりも、ひょいと背中を一押しされたといったほうが正しいのか。
 引き篭りは自信のなさだというが、そんなに深刻なことばかりではない。単に自分の宇宙が好きなのだということでもある。その宇宙を干渉されるのは厭だし、他人の宇宙を干渉するのも嫌いだ。引き篭りが問題になるのは、その人が自分の宇宙にのみこだわり、他人の宇宙を干渉するからだ。他人の宇宙を破壊するからだ。家庭や家族への迷惑もそのひとつだ。生きることの甘えは、それ自体が他人をあてにする、他人の宇宙に迷惑をかける、破壊行為になる。たとえその対象が家族であってもだ。自分の宇宙を生きるには、生きる手立ても自分で用意しなければならない。自分の環境は自分でつくるということなのだ。もっとも、それらは僕自身に向けた言葉であるのだけれど。
 その一押しが、僕のマグダラのマリアによるものなのか、結局いまは漠然としていてわからない。けれども、好きではあるが殻ともいえる褊狭な宇宙から、僕は這い出ようとしている最中なのではないか。マニエリスム美術にのみあった僕の好奇心は、なぜか色々な別の方面にも向きはじめている。それこそ兆しというものではなかろうか。すべてが、孵化からはじまる。
「僕、毎日店に行くよ。小母さんを待ってみる。嘉夫さんもかならず来てね」
「ああ……」
 本当に来てくれるのだろうか。どこかぞんざいな嘉夫の返答が気になった。先生が僕達のやりとりに入らずにいるのは、嘉夫と小父さんの確執を十分に知り尽くしているからだろう。結局、嘉夫に従うしかないのだから。嘉夫に憤りをぶつけてみたものの、なにひとつ進展していない、不安だけがそのまま残ってしまったような、僕は半端な気持ちでいた。そんな僕の気持ちを見抜いてか、時々先生の蒼い瞳が意味ありげに僕を捕える。それは僕にとって、男としての在り方の挑戦のように思われた。先生の瞳はこう語っている。
「誰でもない。あなたのことなのよ」
 鋭い直感で、先生は僕と小母さんの関係を覚ったに違いない。いつだって、僕は裸なのだ。
 僕は二人と別れ、家に向かって真夜中の舗道を歩いていた。
 しまった。半分くらい歩いて突然気がついた。先生の故郷がどこなのか訊き忘れていた。ああはいっていたものの、僕は嘉夫の言葉を信じられないでいた。ヨハネの首と小母さんの関係を、嘉夫がどこまで真にうけたのかは疑問なのだ。嘉夫は、小母さんの留守は小父さんとの気紛れだぐらいに感じているのではないか。他人の僕が思うほど大事に感じないのは、肉親という絆の油断なのだろうか。それとも、すでに嘉夫と小母さんの絆はなくなっていたのだろうか。ひょっとするとこのまま、二人は僕の知らない遠い町に隠れ、二度と姿を見せなくなるのではないか。
 喧嘩の勢いはとっくに失せていた。少しでも嘉夫を頼りにした自分が悔しくて切なくなった。二人に置き去りにされたような気持ちだった。僕はいまだに特等席を求めているのだろうか。これでは僕の殻は当分破れる気配がない。
 にわかに僕の鼓動は早鐘のごとく猛烈な勢いで鳴りはじめた。二十メートルは離れていたが、あの灯りは確かに店だ。店の二階に仄かな灯りを見つけたのだ。時間が時間だったので近所隣の灯りはほとんど消えていたから、店だけがぼんやりと柔らかい霞のような明りに包まれていた。小母さんが戻っている。帰ってきている。僕は走り出したい気持ちを抑え、わざとゆっくり歩いた。
 ひどい小母さんだ。僕をこんなにも心配させていったいどこに行っていたのだ。きっと僕は小母さんの顔を見た途端、きつくなじるだろう。僕がどんな思いで小母さんの行方を案じていたか、口が酸っぱくなるまで質すだろう。それでも、小母さんは言葉少なに、あるいは呆れたように、僕を強く抱きしめてくれる。溶けていきそうな抱擁を夢みる僕がいた。憤りが一層、勝手な願望を強くかき立てた。いつの間にか小走りになり、ついにはたまらなくなって疾走していた。
戸の鍵はかかっていなかった。灯りが点いていたが和室には誰もいない。恐る恐る階段の下から二階を覗きこむように見上げたら、人の動く影が見えた。
「小母さん?」そっと呼んだ。
 のそっと大きな姿が階上に現れた。
「修一くんかい?」小父さんだった。
「はい……」
 薄暗がりの階段を軋ませながらゆっくりと降りてくる長身の小父さんの姿が、どうしてか、残酷な判決を下す中世の裁判官のように見えた。小母さんのすべてを知っているだろう小父さん。嘉夫の本当のお父さん。
 階下に降りた小父さんは大きな手提げ袋をひとつ下げていた。和室のテーブルに着くと、その手提げ袋を椅子の脇に置いて小父さんはいった。
「ちょうどよかった。修一くんに知らせたかったのだ」
「小母さん、どこにいるんですか」
 僕は急き立てるように訊いた。
「入院してる。知らせができなくて済まなかったね。突然だったもので……」
 いい訳などいい。怖れていたことがおきていた。
「具合はどうなんですか!」
 怒気を抑えられない。
「だいぶ重い……」
「そんな……小母さんといっしょにいたんでしょ。どうして……どこの病院なんです」
 膝が震えている。
 小母さんに逢いたい。小母さんの柔らかな肌に触れたい。もう一度、唇を重ねたい。ふくよかな乳房を思いきり吸いたい。不安と欲望がない交ぜになって僕は混乱していた。嘉夫にも知らせなければならない――どうやって。
「病院は8時半からだ。これに場所を書いておいた。君はいったん家に帰りなさい。私は小母さんに必要な物をもう少し揃えてから帰るつもりだ」
 そういって、小父さんは一枚のメモをテーブルの上に置いた。僕は小父さんの少し強い口調に戸惑った。壁掛けの時計は三時を過ぎたばかりだ。朝の八時半までには気の遠くなるほどの永い時間がある。けれど、小父さんの目は僕を制して譲る気配がない。ただ心配しているだけの僕。手をこまねいて、なにひとつできないでいる僕。小母さんは眼前の小父さんの手のなかにあるのだ。僕は触れることさえままならない遠くにいる小母さんを感じた。
 眠れるはずがない。
 僕は服を着たままベッドの上で悶々としていた。気懸りが僕を圧し潰す。様々な思いが去来する。小母さんはどんな状況で倒れたのだろう。僕のことがわかるだろうか。僕の手を握れるのだろうか。話しかけてくれるだろうか。そして、小父さんは小母さんのしたことを知っているのだろうか。嘉夫とどうやって連絡をとればいいのだろう。当てのないおねえさんの電話を待たなければならないのか。ああ、僕はなんてドジなんだ。
 味気ない白くて小さな病床、ぽたぽたと音を立てているような点滴、鳴りつづける緑色の心電図、かすれた呼吸音を繰り返す吸入機。無数の機具に繋がれた小母さんの寝姿が脳裡に浮かんでは消える。薄目を開けた小母さんの顔が真白だ。桜色した指の爪も色を失っている。白いベッドに染まって同化してしまったような小母さんがいる。僕の望むふくよかな乳房はどこにも現れてはくれない。
 愛は危険な状況において昂揚される、といったのは誰だったろう。最悪の状態だというのに、不謹慎にも僕の思いは昂るばかりだ。僕は放逸している。
 そうだ、すっかり忘れていた。瑠璃にも知らせなければ……いや、駄目だ。ヨハネのことがある。警察がこのままで終わるはずがなく、きっと小母さんを突き止めるだろう。けれど、瑠璃を再び辛い思いにさせたくはない。小母さんはあの夜、写真はすべて始末したといっていたから、このまま無関係にしておいたほうがいいのかもしれない。しかし、それで済むのだろうか。美恵の存在が気になった。
 いつの間にか降り出した雨が、しとしとと陰気な雨音で僕を苛立たせた。降るなら思いきり降ればいいのに。まるで――泣き雨ではないか――母さんの言葉など信じない。戯言だ。
 けれど、僕のマグダラのマリアは僕を置き忘れてどこへ行こうとしているのだろう。僕はいま迷宮のなかで迷子になっている。
 眠れないままに僕は病院の玄関の前に立っていた。カーテンが下りた玄関が開くまであと三十分、遠い時間を僕は苛立ちとともに潰さなければならなかった。小父さんのメモに書かれていたこの病院まで電車を乗り継いで一時間を要した。小母さんは小父さんと逢うためにここいらまで来たのだろうか。そして、倒れたのか。運ばれた病院がここだった。壁の塗装がところどころ剥げた木造建ての、昔の小学校みたいなずいぶん古い病院。トイレには消毒液を充たした白塗りの洗面器がいまだに恭しく置いてありそうな、大きくはあったが、どこか黄昏た病院だった。
 こんなとき、桃山があればと悔やんだ。けれど遠の昔、桃山の葉はバスの窓から風に舞って散っていた。それ以来、僕は桃山の新しい缶を買っていない。もっと熾烈な匂を得たからだ。それは破壊と崩壊という二つの危険を包んだ匂。まるでマニエリスム絵画のように、意味ありげで、謎をほのめかす暗くて黒い匂――なんと僕の恋は趣味的なのか。不安と苛立ちは不吉な混乱で僕の胸中を掻き廻している。収拾のつかない焦燥と苛立ちが、からだを一箇所に留めておけない。玄関前を無意味にうろついた。小父さんは来るのだろうか。それとも、もうなかにいるのだろうか。たまらなくなって玄関の呼び鈴に手をかけたそのとき、カーテンが開いた。受付に病室を確認する間もなく、僕は階段を鳥のように駈け昇っていた。
「ながくは駄目ですよ」
 点滴のチェックをしながら年配の看護婦が小声でいった。緊急治療室だろうか。狭い個室に小母さんのベッドだけがあった。小母さんは思ったほどの機具には繋がれていなかった。酸素吸入機や心電図の機器はあったが、それはすでにはずされていた。点滴だけが規則的な滴下を繰り返している。小母さんは眠っているのだろうか、それとも昏睡しているのだろうか。僕は看護婦の顔を窺った。
「峠は越したわよ。よかったわね」
 察したのか、看護婦は始末したガーゼや空になった点滴の袋を手にして、笑顔でいった。けれど僕の顔は強ばっていたので思うような笑顔にならない。精いっぱいの愛想をつくってみたが、唇がぎこちなくひん曲がるだけだった。
 看護婦が病室を出ていって僕と小母さんの二人きりになった。僕はベッドの傍にあった腰掛けに座って小母さんの寝顔を見た。真白な頬。静かな寝息。じっと見つめていると、長く伸びる小母さんの四肢が布団のなかに見えてくる。まるで、水に半身を浸かり仰向けに浮いているような、重力を欠いた小母さんの肉体が横たわっている。それはミレイのオフィリアのようでもある。けれど、小母さんは生きている。点滴のために布団から出している細い腕の先に、きれいに揃えた指がある。夢見草の色をした爪。僕は、僕が入院したときに小母さんがしてくれたように、その小さな爪に紙一重の口づけをした。うつむいたせいで、爪に一滴の涙が落ちた。まるでダリのつくった宝石のように、小母さんの爪は不思議な輝きを放った。僕ってどうして、なんでもなにかと重ねてしまうのだろう。なぜ目の前のことに素直に没頭できないのだろう。だってほら、折角、美しき庭師が生還したのじゃないか。僕のマリアが……。ダリの宝石が少し動いて白いシーツに流れて消えた。
 僕は許される時間まで小母さんの傍にいた。小母さんは時々薄目を開けることがあっても、言葉を交すまでにはいかなかった。看護婦が何度か点滴の交換に来たが、針を当てた部分が黒く腫れて痛々しい。結局その日、小父さんは姿を現わさなかった。
 次の日も僕は病院に行った。朝一番に病院に入り、世話することがたいしてなかったので、ただじっと、小母さんの傍に腰掛けて時間を過ごした。それからぎりぎりの時間までいて帰宅した。三日目の正午を少し過ぎた頃だった。小母さんの掌をそっとさすっていたら、指をとられた。はっとして顔を上げたら、小母さんの白い顔が笑っていた。
「修ちゃん……」
 少しぎこちなかったけれど、小さく動いた薄桃色の唇が一瞬に僕のすべてを鷲掴にし、僕は小母さんのなかに蕩けた。生気には凄まじい力があるのだと思い知らされた。たったひとつの生命がこんなにも激しく人の心を揺さぶるエネルギーを持っている。それを思うと、生命を無造作に奪う殺戮にどんな大義も理由も意味や事情も認めない。
「お帰りなさい」僕の声もかすれていた。

 それはやがてやって来た。町の辻々にふたたび紫陽花が咲きはじめた季節、僕にも、瑠璃にも。そして小母さんにも――ヨハネの首は、忌まわしく、執念深く、いつまでも僕達を忘れてはいなかった。
 警察は、まず僕と瑠璃を呼び出した。前夜、瑠璃は泣きながら電話をかけてきた。すべては美恵から伝わっていたのだ。最悪の事態は、小母さんが処理したはずの例の写真が、陰険にも美恵が一枚所持していたことだった。瑠璃の両親が意気消沈し、担任教師が学校の体面を慮り憮然とした。瑠璃はそして、美恵とともに退学になった。この屈辱に、瑠璃はたえ得ただろうか。
 以来、瑠璃は家に籠るようになった。僕とは幾度か電話のやりとりがあったが、いつしかそれも間遠くなり、瑠璃は電話口にも出なくなった。
 僕達は、個別の事情聴取ではあったが、部室で見たままを警察に話した。それ以外に話しはしなかったはずだ。それでも、小母さんは自宅療養のさなか、ヨハネの首殺しの容疑をかけられ、雨のそぼ降るある日の早朝に数人の刑事によって警察へとつれていかれた。僕らが知り得たのは、自分の子供を醜聞によって傷つけられた復讐による犯行ということだった。しかし、それは嘘八百だった。ものの見事に騙されていたのだ。僕がそのことを知ったのは、夏が過ぎ、木々の葉が散りはじめた季節のころだった。僕は瑠璃の退学にあわせて学校を中退していた。僕の学校は僕を特別に咎めはしなかった。けれど、僕は学校をやめた。理由は簡単だ。僕にとって、厭々通う学校になんの意味も見つけられなかったからだ。瑠璃の退学に帳尻を合わせたのではない。そんなことすら必要のないほど、僕にとって学校がつまらなかっただけのことなのだ。学校をやめるといったら、父も母も僕の顔を真直ぐに見据えて同じような意味のことをいった。
「おまえの金で俺のバーボンを買ってくれるのか」
 これは父の言葉。
「安いワインはいやよ」
 これは母。
 僕はたった一言、うん、と答えた。
 いつの間にかきちっと座りなおしていた父と母は、いきなり二人そろって大粒の涙を流しはじめた。僕はそのとき、両親の涙の意味を理解できなかった。でも、今ならわかるような気がする。父と母は、少々強引な僕の巣立ちに立ち合っていたのだ。母はいつものようなからかい半分で僕を抱きしめてキスしたいのを、歯を食いしばって我慢していた。いつでもおとぼけの父は、一世一代の真顔で僕を見つめていた。そして二人は、僕が学校をやめる理由など一言も訊かず、寂しさを痺れた足とともにたえていたのだった。

 それから間もなく、枯れ葉が寒ざむしい闇のなかを舞う夜、瑠璃は自分の学校の屋上から飛び降りた。
 寂しい通夜になった。瑠璃の友達は誰も来ていない。親戚らしい人達も少なく、町内会の小母さんが二人ばかり白い割烹着で立ち廻っているだけだった。僕は弔問客の受付を手伝っていた。父に借りた喪服が少し大きい。ズボンのポケットには母がアイロンをかけてくれた白いハンカチが入っていた。
「どうしちゃったんだろうね」
 焼香客の間があいて隣で煙草をふかしていた老人がぽつりといった。薄くなった白髪が時々さやぐ冷たい秋風に乱れている。
「あと10年も生きりゃあいいことだってあるのに」
「そうですね……」
 なにがあっても、生きていれば楽しいですね。だって、僕達の時間はあっという間に過ぎていくのだから、どんなことでも瞬く間に過ぎたことになるのだから――そう思いたかった。瑠璃にも思ってほしかった。でも、男の強さと、女の強さは違う。僕はそこに気づいていなかったのだ。僕の気持ちは、小母さんにべったりで、瑠璃を忘れていた。瑠璃は僕の救いを求めていたではないか。けれど、僕の行動はいま思うと、すべて小母さんを中心にしていたように思う。敏感な瑠璃はわかっていたのだ。僕の心が小母さんだけに向いていることを。寂しかったよね……。
「ごめんね……瑠璃」
 父と母が揃って焼香に来た。父が丁重に悔やみを告げる。老人が返礼する。僕は起立してうつむいたままだった。焼香を済ませて帰っていく二人の後ろ姿が、どうしてか見知らぬ他人のように見えた。二人がとても小さくて、僕はずいぶん戸惑った。
 それからの日々、僕はひたすらアルバイトで時間を費やした。幾つかのアルバイトをかけもちしたこともあった。ビール工場で回収されたビール瓶の洗浄と整理。精肉用ナイフ研ぎの下働き。機械工場で旋盤による部品のバリ取りと錆防止の塗料塗り。ビルの窓拭きと清掃。夜間の道路工事での雑役。どのアルバイトも秋だというのにからだ中から汗が噴き出た。足が棒のようにだるくなった。爪のなかが真黒になった。ビール工場ではバベルの塔のように不安定に高く積み上げられたビール箱の上で働いた。ナイフ研ぎでは、挽肉機用の円盤状の大量の刃を、破れそうなズタ袋にくるんで得意先の肉屋まで、二時間近くも電車に揺られて届けにいった。もっと丁寧に磨けよと同い歳くらいの店員にどやされたけれど、帰路の電車のなかでシートに埋もれて寝てしまったら、店員の憎たらしい顔は面影すら忘れてしまった。汗はひっきりなしにからだのすべてに滞って肌の表を荒した。風呂すら面倒になった。
 騙されていた、と先に書いた。欺かれていたというべきか。それとも、僕が勝手に思いこんでいたのか。
 久し振りに店に行き、家中の窓を開けて籠った空気の入れ替えをしているときだった。突然、先生とつれだって小母さんが帰ってきた。あまりのことに、和室の桟をはたいていたはたきが止まらない。ぱた、ぱた、と間の抜けた音を立てつづけ、僕は呆然と二人を見つめていた。
「ただいま」先生がいった。
「修ちゃん、ごめんね」小母さんがいった。
「帰れたの、小母さん」間の抜けた僕の声。
 少しやつれていたが、紛れもなくその人は大盛りのハヤシライスをつくってくれるいつもの小母さんだった。病院も、警察も、ここ以外のすべての場所は小母さんには似合わない。小母さんにはここがもっとも相応しい場所だ。駄菓子屋のような小さな本屋こそ、小母さんの住処なのだ。小母さんの顔を見た途端、そう思えた。
 ひとまず小母さんは二階の部屋で床についた。部屋を掃除しておいてよかったと、僕はたまたまの幸運に他愛なくはしゃいだ。小母さんには日本茶をあげ、先生と僕は掃き清めた畳に座して熱いコーヒーを呑んだ。僕達はしばく無言で、時々互いの顔を見つつ、お茶を呑んだ。僕にとって小母さんが戻れた訳など大したことではなかった。そこに小母さんがいることだけがうれしかった。けれど時間が経つにつれ、小母さんの顔に暗い焦燥のようなものが出ているのを、僕は気づいていた。
「瑠璃さんのこと聞きました。失敗でした……」
 小母さんがいいたかったのは、美恵が持っていたという一枚の写真のことなのだろう。浮かれていた気持ちが途端に落ちこんだ。
「うまくできなかった。瑠璃さんのことも、あの人のことも」
 小母さんは両手に包んだ湯呑みを膝の上に置いていった。肩にかけた薄手のカーデガンに午後の柔らかな陽が当たり、窓にかかったレースのカーテンが風に揺れた。僕は慌てて窓を閉めた。先生はすでにすべての事情を知っていたのだろう。口を挟むことなく、小母さんの顔を真直ぐに見つめていた。
「あの人はたえられなくなって警察に行った。もう少し我慢すれば、もっと冷たい人でいれたなら……」
 小母さんはそこで言葉をつまらせた。先生は小母さんの肩から落ちかけたカーデガンをかけなおすと元の位置に座り直していった。
「わたしがいけなかったのです。嘉夫さんと出逢ってさえいなければ」
「わたし達がもっと毅然としていればよかったの。卑劣な脅しにのらなければよかったことなの」
 僕は二人のやりとりに口を挟めなかった。すべてが小父さんによるものだと思えてきたからだ。小父さんが姿を現わさないのが何よりの証拠だ。二人の会話の奥を探ればそれがわかった。よくよく考えてみれば、電気椅子から十センチも上にヨハネの重いからだを心臓の弱っていた小母さんがどうやって引き上げられたろう。落ちていたハンカチはたまたま小父さんが借りていたものか、それとも、小父さんの犯罪を誤魔化すために小母さんがあとから置いたのかもしれない。
 もう少し冷たくなれたなら――小父さんは嘉夫の出生を謎にしなければならないもうひとつの家庭を持っていて、社会的な立場もあっただろう。多分、ヨハネの首は、嘉夫と先生のスキャンダルから二人の関係に辿り着き、そして卑劣な恐喝に出た。瑠璃の相談はそのときと並行していたのかもしれない。つまり、小母さんはもともと自分達のことでヨハネの首と関係していたのだ。けれど、犯行は小父さんひとりのものだったと思う。小父さんの犯行を知らされた後、小父さんの身代わりとなるべく、小母さんはそれらしい言動を試みた。一番身近な僕達に警察が接近するだろうと、あたかも小母さんの犯行であるように匂わせたのだ。そして浅はかな僕は欺かれた。
 僕を欺いた小母さんを、僕は恨まない。けれど、小母さんが自身の命の時間を推察して、小父さんの身代わりになろうとしたのなら、僕の気持ちはどうだろう。考えようでは、結果論ではあるが、小母さんは瑠璃の死をも二人の事情に利用したのではないか。勿論、瑠璃の死は事のあとであり、原因はたえられない屈辱であったと思う。屈辱? はたして、そうだろうか。屈辱とは、精神的なものをいうのではなかろうか。もしもそうだとしたら、瑠璃は死なないはずだ。瑠璃は芯の強い子だ。その瑠璃がどうして死を選んだのか。
 ヨハネの首の行為がいかに理不尽であるか。男の暴行がいかに救いようのないことか。僕は自分自身の肉体で考える。例えば、見ず知らずの人間が僕の小指の先っぽ五ミリになんらかの汚辱をくわえたならば、僕は迷わず小指を切り落とす。あるいは、その相手を殺す――そんなことはないのかもしれない。潔癖症かもしれない。けれど、肉体への汚辱による屈辱は精神の圏外にあって、肉体と精神は互いに干渉できない別ものであるかもしれない。洗っても洗っても落ちない汚辱。つまり、肉体の事情は精神では賄きれない、追いつかない、生物としての習性本能としてあるものではないか。そこの領域を侵したヨハネの首は、人間をまたは生物を蔑ろにした卑劣漢そのものであり、人間ではない。たえ難い腐臭を放つ腐敗物でしかないのだ。
 僕は決して瑠璃の死を認めてはいない。嘘をついても、図太くても、いいかげんでも、とことんとぼけて生きてほしかった。あと十年も生きりゃあいいことだってあるのに……十年なんて必要ない。ほんの一年で、いや、たった一月でいいのだ。その気になれば、僕はヨハネを殺した……ごめんね瑠璃。僕は鈍かった。瑠璃の仇を打ったのは小父さんじゃないか。僕は結局、不干渉のままだ。
 
 恐ろしい轟音が、凄まじい勢いで、それはまるで大津波が押し寄せるように、はじめは小さく、しだいに巨大な音となり、しまいには尾を曵くように遠方へと消えていった。気がつくと、恐怖のあまり僕は蒲団の上に飛び起きていた。電車が頭上を走り去っていったのだ。八百屋に住みこんで数カ月が過ぎていたが、いっこうに慣れることなく、毎朝、高架線の電車の轟音に叩き起こされていたのだ。
 虚ろな目をこすりながら枕元の目覚時計を見たら五時を過ぎたばかりだった。敷きつめた蒲団でいっぱいになった三畳の部屋に、青臭い匂と甘く熟した香りがごっちゃになって籠っていた。温い蒲団に未練を感じたが、我慢して起きなければならなかった。
 僕は、アルバイトニュースで募集をしていた、電車のガード脇にある、この小さな八百屋に住み込みをしていた。どこまでつづくか、僕は八百屋の小僧として過ごすことにしたのだった。自立というようなものではない。家にいては、どんなアルバイトをやってもなにかが駄目だと感じたからだ。堂々巡りとか、空廻りとか、そんな気がしてならなかったからだ。「他人の飯を喰う」そんな言葉も頭にあって、いまの僕にはそういうことが必要なのではないかと思っていた。
 助手席で僕はまだ半分眠っていた。今どき珍しい三輪車の古トラックが市場に向かっていた。やっちゃ場の仕入れは店主の弟の役目で、小柄な三十を過ぎたばかりの男が朝から陽気に鼻歌まじりでハンドルを慣れた手つきで廻している。人は悪くなかったが、どこか姑息で陰険なところがあって、僕はこの男を好きになれそうになかった。募集の記事が載った新聞を手に、はじめて店にきたとき、こんなガキは駄目だよと男は露骨にいった。確かにそうかもしれないと僕も思った。まともなお客相手の仕事なんてはじめてだったし、僕自身不安だったのだ。それが顔に出ていたのだろう。男は正直にいっただけのことだった。それでも人手がほしかったのか、店主のおかみさんがオーケーしてくれた。三十四、五のおかみさんは、妙にしゃきしゃきしていて、店全体を仕切っているように見えた。対象的に不思議なくらいおどおどした店主の態度が滑稽だった。
 早朝の市場は賑やいで、すでに競りもはじまっていた。車を市場の奥まで入れられず、店主の弟が買いつけた野菜や果物を、背負ったり曵きずったりして市場の入り口付近に停めた三輪車まで運んだ。ふらふらしていたら、市場の若い衆にどやされた。ここでも玉のような汗が流れた。買いつけた品物をすべて車に積んで競り場にもどったら、数人の仲間とちんちろりんに興じる弟がいた。へぼ胡瓜しか落とせねえくせに博打なんか打ってんじゃねえよと、元気な男達がいきがりながら脇を通り過ぎていく。なんだか頼りない。
 大きさや狭さの感覚は空間の広がりだけから生じるものではないと感じた。市場の喧噪は僕をとても小さなものにする。それは市場という大きさからではなく、普段と違う人間の動きと雰囲気によるものなのだろうと思えた。肉体が確実に動いている。思考と行動が伴っている。それは、とても自然だった。その瞬間において、マニエリスムの絵などというものは、どこにもなかったのだ。
 愚痴ともつかない男の繰り言が途切れることなくつづいていた。兄である店主やそのおかみさんの悪口。キャバクラの品定め。結婚のこと。負けがこんだ賭のこと。いずれ独立して自分のやり方で店を開く夢。この人は喩えるものもなく目の前のいまを生きている。好きになれるかもしれない……車窓の風に髪をなびかせながら、僕はぼんやりと思った。
「寒いから窓閉めろよ、まったく」
 とことこと車は走った。
 僕は、八百屋の小僧として過ごした日々をいま細々と書く気はない。何ヶ月も働けば、まして一家族のなかで生活すれば、それなりのトラブルもあったし、しんどいことも味わった。だからとて、昔の丁稚奉公ではあるまいし、とても苦労なんていえるものではなかった。店主は気が小さいだけで厳しい人ではなかったし、おかみさんは口煩かったが、「他人の飯」はたらふく食べさせてくれた。カレーライスには持て余すほど大きな肉の塊を盛ってくれたし、腹がすいたら勝手に店のものを食べていいんだよと、毎度同じようにすっとんきょな目を見はらせていってくれた。下町の小母さんそのものだった。弟は、結局僕を最適な愚痴相手にしつらえ、なんだかだと可愛がってくれた。店がはねると呑み屋にもつれていってくれたし、風呂屋で背中を流してやったときには、大袈裟に感激していたっけ。月々の手当ては食事付きだから驚くほど少なくて、洗うとすぐにぼろぼろになってしまう下着ぐらいしか買えなかったけれど、「他人の飯」は少しばかり噛みしめることができたのだ。
 店を閉める時間近くになると、近所にあったバーの女の子が、急場凌ぎのつまみを買いにやってくるのが毎晩楽しみだった。いつも酔っていて、僕に抱きついては酒臭いキスをした。美人だったし、ふらつくからだを支えると、その重みが母を思い出させた。こんなキスもあるんだと、僕はそれだけで、「他人の飯」は旨かったと思えたのだ。そして、その都度、僕は嘉夫の小母さんや、瑠璃を思い出さずにはいられなかった。瑠璃の薄い胸の感触が蘇り、もっと、もっと、何度も何度も、僕は瑠璃と胸を重ねておけばよかったと、重ねなければいけなかったのだと、自分の半端さが忌々しくなるのだった。
 師走の寒風が髪を乱して煩わしい。店の脇にしゃがみこんで芋を洗った。筍の皮を剥いた。三角帽子みたいに剥き出しになった筍を齧ったら、がりっと音がして不味かった。白蒟蒻に混じった黒蒟蒻を大きな樽のなかから探すのが厭だった。冷たくて、気持ち悪くて、かじかんだ掌からぬるりと抜け落ちる蒟蒻が憎かった。白も黒も、蒟蒻に変わりはないだろうにと、客を恨んだ。
 僕の苦労はその程度のものだったから、辛い朝の早起きを除いて、女の人のうけがよくて弟にやきもちを焼かれたけれど、小僧生活は平々凡々、さしたる事件もおきなくて、月日は光陰矢のごとくに過ぎた。そうなんだ。だから、瑠璃。ちょっとの我慢だったよね。ほんの少しの、束の間の……。
 黒蒟蒻二枚。もちろん野菜もたっぷり。背中を丸めて人のよさそうな小母さんが帰っていく。今夜は鍋かな。卓袱台かな。
 そろそろ店を畳む時間になろうとしていた。店の奥に女客がひとりいたので、僕はレジに立ってぼんやりと待機していた。この時間になると客はそうそう来ないから、店の人間は奥に引っこみ、店番を僕に任せていた。
 女の後ろ姿がなんだか気になった。近所の人でないのは恰好でわかった。店には果物も置いてあったから土産でも物色しているのだろうか。けれど、女の後ろ姿はどこかで見たことがある。というより、知っている姿だった。思う間もなく、僕の心臓の鼓動は期待と驚きでみるみる高鳴りはじめた。
「修一くん」
 すっと振り向いて、女がいった。
 先生だった。どうして先生がここに来ているのか疑問だったが、それ以上に、僕はなぜか晴れがましく思えた。夏の日に陽傘を差した小母さんとはじめていっしょに歩いた光景を思い出していた。あの日と同じように、突然に出現したもうひとりの麗しい人との空間に心が浮いた。
「先生!」
「元気そうね」
 気をつけの姿勢でちょっと爪先立ち、つんのめりそうな恰好で先生はいった。射るような碧い瞳が野菜を背にして笑っていた。
 店を閉じる間、先生は店の前で寒そうにコートのポッケに両手を突っこみ、僕の働きぶりをじっと見つめていた。いっしょに店じまいを手伝っていた弟がなにか問いたげに、それでもなにもいえず、横目にちらちら先生を盗み見しながら陳列台を店のなかに仕舞いこんでいた。そりゃあ誰だって先生みたいな女の人は気になる。けれど先生を相手にできるのは嘉夫さんくらいなもので無理だよ、と弟にいってあげたかった。決して口にはしなかったけれど。
 おかみさんの渋々な許可をもらって店を出た。うれしそうに顔をほころばせる先生が薄明りの街燈の下で待っていた。走り寄ると先生はいきなり腕を組んできた。あったかいもの食べよう。僕の顔を覗きこむようにして先生はいった。その白い顔は僕の顔から十センチも離れていない。今夜の先生は歳上に思えなかった。僕の腕にしがみつくようにぶら下がっている先生は、まるで歳下の女の子みたいに小さい。腕を組まれたことが僕を少し大人の気分にしたのかもしれない。それとも「他人の飯」が僕の成長を少しばかり促進したのだろうか。電車が轟音とともに二人の頭上を追い抜いていった。
 それから五分ほどしてJRの駅に着き、駅前の小さなラーメン屋で二人してラーメンを食べた。熱い湯気が僕達のからだを暖めてくれた。途中まで食べて、僕は狭い和室の卓で小母さんと食べたハヤシライスを思い出した。ラーメンを啜りながら上目つかいで先生をそっと見た。先生もラーメンを啜りながら僕を見つめていた。目が笑っていた。慌てた僕は熱いラーメンをむきになって食べた。美味しかった。
「バイト先のこと、お家のほうに電話で聞いたの。お母さんがていねいに教えてくれたわ」
 先生は僕の疑問に先廻りして、いった。
「僕、小母さんにアルバイトのこと話してなかったから」
 小母さんの様子を聞きたかったが、小父さんのことを考えると言葉がつづかなかった。小父さんはどうしているだろう。警察の厳しい取り調べがつづいているのだろうか。それともすでに裁判がはじまってしまったのだろうか。
「……お別れにきたの」
 先生の言葉に、あのとき食堂のおねえさんがいっていた言葉を咄嗟に思い出した――故郷に帰るみたいよ――今夜こそ訊いておかなければならなかった。
「どこですか。先生の帰る故郷って。嘉夫さんもいっしょでしょ」
「修一くんてなんでも知ってるのね」
 先生は小さく笑った。碧い瞳が、深く沈んだ湖水の色のように静謐で、不思議なくらい落ち着いている。その落ち着きがどこからくるものなのか、僕には少しわかるような気がした。口にするのはためらわれるが、それは諦めという一種の抛擲ではなかったか。いつしか、先生も嘉夫の投げ遺りに同化してしまったのだろうか。
 僕は目を逸らすことなく、不躾に、ただただ先生の顔を見つめていた。碧い瞳をもう再び見ることができなくなるのではと直感し、できる限り先生のすべてを脳裡に焼きつけようとしたからだ。と同時に、嘉夫とも逢えなくなるのだと、切実に別れの寂しさを感じた。
「岐阜なの。嘉夫さんもいっしょに行くって。そのことを修一さんにどうしても伝えておきたかったの」
 嘉夫は先生の故郷に行ってしまうことを小母さんに伝えたのだろうか。小母さんを独りにして二人は本気でいなくなってしまう気なのだろうか。それまでしていなくなる理由はなんなのだろう。先生の故郷に、嘉夫にとってなにがあるというのか。
「先生はそれでいいの?」
 僕がなにをいいたかったのか先生は理解したはずだ。僕を直視する先生の瞳に微かな困惑があった。もしも、嘉夫と小母さんが僕の家族のようであったなら、僕はこんな質問はしなかっただろう。卓袱台さえあれば、家族は毀れないですむのだから。けれど、小母さんが自由であるように、嘉夫だって自由なのだ。
「修一くんのいいたいことわかってるわ。でもね、それ以上にいまは大切なの。嘉夫さんのことが……」
 それだけだろうか。だとしたら、小母さんから遠く離れていく必要はない。まして小父さんがこんな状態にあるとき、小母さんを独りにしてまでも二人して離れていこうとする理由は、いったいどれだけのことなのだろう。たんなるわがままだと、僕には到底思えなかった。
「嘉夫さんはどうしているんですか」
「アルバイトしてるわ。相変わらずお酒はのんでるけども」
 そういって先生は少し微笑んだ。それはダ・ヴィンチのモナリザのように、表情の奥になにかを隠した微笑みだった。
「いつごろですか」
「春には……」
 年を越して一、二ヶ月後。二人は僕達から離れていく。僕はのっぽの嘉夫が僕と同じように汗をかきながらアルバイトをしている姿を思い浮かべた。嘉夫が働くのは僕の場合と意味が違っている。どこがどう違うのか僕にはわからなかったが、嘉夫と僕は根本的に異なっていることを感じる。それは〈憂鬱〉と〈退屈〉という曖昧な気分の違いかも知れない。僕の場合はたんに持て余した退屈に過ぎない。枷がないからだ。嘉夫には枷がある。けれど、僕にはどうしても、それが嘉夫が自ら招いてしまう枷に見えてしかたがないのだ。それは出逢ってからしばらくして漠然と嘉夫に感じたことだった。事情があるから憂鬱なのではない。〈憂鬱〉そのものが嘉夫なのだ。もともと嘉夫が生まれ持った気質なのではないか、そう思えたのだ。
 ことごとく混乱の渦に曵きずりこまずにはいられない性質。僕はまさしく、嘉夫に〈問題のある人間〉を見るような気がした。例えば卓袱台は、その円形のなかに中心を喪失した渦巻きがあって、常に懐疑的な意識を隠匿しているのではないか。その性質が創造的環境にあれば、それはそれでひとつのよすがになり得る。けれど、その環境を見いだせなかった場合はどうなるのか。掴みきれない〈憂鬱〉の逆巻きのなかで、翻弄される精神が遊び車のマウスのごとく、かたかたと音を立てていつまでも堂々巡りをしているのではなかろうか。精神が肉体から解き放されることはあっても、肉体は精神によって操作される隷属としてあるのではないか。
「また逢えますよね。住まいが決まったら必ず住所おしえてくださいね」
「ええ、きっと……」

 僕達はラーメン屋を出て寒風が舞いこんでくる駅の構内に入った。終電間近らしく、慌ただしく改札に駆け入る人達がいた。寒々しい空気のせいか、切符を手にした先生の頬が白く透けている。いつもの香水の香りも寒気に凍てついたのか、先生のすべてが無色透明に思えた。脳裡に焼きつけたはずの先生のすべてが瞬く間に消えていくような気がしてならなかった。先生は僕を導く女神のひとりなはずだ。けれど、先生の導く先は脆く儚い夢のなかのように思えて、僕を戸惑わせる。それは、二人で踏みしめれば確実に崩壊する薄氷のように、不確実なものだ。
先生の凍えた手を握った。少しばかり僕の温もりが先生を温めるに違いない。せめてもと思ったのだった。


第四部 僕の復活祭

 我が家の卓袱台には、どっしりとした中心が居座っていた。虚ろな表情で顎を引いたり出したり、母が気持ちよさ気に酔っている。
 僕は年越しのために実家に帰ってきた。ところが、店は大晦日の夜十時まで開けたので店の掃除や戸締まりに時間がかかり、実家に着いたときにはもう年を越してしまっていた。テレビにはぞろぞろと境内を歩く初詣の人々が映っていた。
「あんたさ。大根とか胡瓜とかお芋とか売ってさあ、楽しかったあ」
「まあね。なんかまずいことでもある?」
「べつにい。だってさあ、父さん、ねえ……」
母は、卓袱台で肩を並べて呑んでいた父の背に顔を隠すと、けたけたと笑いだした。父は憮然として寡黙だ。しかし、いまにも吹き出しそうな顔を隠しきれず、からだ中が小刻みに震えている。
「お正月そうそう、いったいなんなんだよ」
 僕はお節料理の栗きんとんをひとかたまり頬張って、いった。
「だってさあ、ねえ父さん、あははは」
「カボチャ……」父がぽつりといって、ぷーっと吹き出した。母の馬鹿笑いが止まらない。
 話はどうしようもなく、くだらない。僕のいない間、父と母は僕のことをそれなりに話題にし、なんで八百屋なんだろうねと二人して不思議に思っていたらしい。そのうちカボチャが僕の綽名になった。ただそれだけのことなのだ。なにかにつけ、カボチャ、カボチャと僕のことを話し、とくに母がこのカボチャを気に入って、なんでもかんでもカボチャの一言で片付けてしまうらしく、朝の挨拶にも「カボチャ」、出かけるときにも「カボチャ」なのだと、父のぶっきらぼうな解説。まったく低脳な夫婦なんだから。
「明けましてカボチャ」と母がいう。
「閉めましてカボチャ」と父がいう。
 ま、僕のお正月はこんな程度のはじまりで、それはいつもと大差なく、正月をつつがなく家族揃って迎えられたことが〈不安の時代〉にあっては素直に喜ばしいことなのだろう。カボチャだろうがジャガイモだろうが、話題になるだけ僕の存在は家族にあって確かなのだし、こうやって卓袱台もいまだに健在なのだ。玄関のドアには締め飾りが付いて、門には門松がちゃんと立っている。几帳面でいられることは家族の精神状態が安定していることであり、つまり父も母も健康であるということなのだ。離れて生活するとそういうことが考えられるようになって、〈他人の飯〉はそれなりに意義があったと、酔っている二人を見つめながら僕は思った。そして、夜が明けたら小母さんの店に行ってみようと決めたのだった。
「母さん。修一に話があったんじゃないのかい?」
「そうそう」
 父の言葉に、馬鹿笑いを途端に真顔に戻した母が、思い出したようにいった。
「修一、八百屋さんはいつまでやるつもり?」
「いつって、決めてはいないけど。なぜ?」
「写真撮ってほしいのよ」
「えっ、アシストやれるの? どこ?」
 母の写真だからきっと旅の写真だろうと、僕はどこの地方なのかを訊いたのだ。
「岐阜の火祭」
 そういえば、いつか母のパソコンに岐阜の文字を見たことがあった。あのときのプランがいよいよなのか。それよりも、岐阜と聞いて、瞬間に思い出したのは先生のことだった。岐阜は先生の故郷ではないか。
「いつ?」
「そうね。四月の頭だから、三月の後半にここを出るようになるわ。今度のは仕事とは別に、自分のものにしたいものがあるから、少し長く取材したいの。祭が終わってからもしばらく滞在するようになるかもしれない」
 行きたい。そのころならば、先生や嘉夫にひょっとしたら出逢えるかもしれない。しかし、思い返してみれば、先生の故郷が岐阜であると確認しただけで、果して岐阜のどこかなのか、また、いつそっちに帰るのか、すべてが中途半端で、突っこんで確認しないのは僕の駄目なところだった。それよりも、先生や嘉夫自体がいつでも雲を掴むように曖昧で、その行動は謎に満ちているような気がしてならなかった。思わせぶりな雰囲気は決して二人が意識したものではなく、二人であることによって成り行きとして醸してしまう雰囲気なのだろう。僕の、二人に抱く不安感は、きっとそんなところから派生しているのではないか。わからないことは、やはり気懸りなのだ。まして、知りたいと望む相手の謎には、いい知れぬ不安感がつきまとう。僕は二人の謎を知らない。
「母さん、決めて。僕、行きたい。店に戻ったら話してみる。きっと大丈夫だよ」
 いま決めてしまわなければ、折角のチャンスを逃してしまいそうで、僕は慌てた。母にしてみれば、思うような写真を撮らせるには僕のほうが何かと都合がいいはずで、確かにプロのカメラマンならそれなりの写真が撮れるに違いないが、母の文がメインであって写真はサブなのだ。それに僕の腕前だって満更でもないから、母もその気なのだろう。それに、僕だったら雑用にも酷使できると踏んでいるはずだ。母のアシストは僕をおいて他にあり得ない。僕こそが適任なのだ。
「カボチャといっしょに行こうかね」
 ビールのグラスを傾けて母はいった。父はうんうんとうれしそうな目で頷いていた。そして、
「今年は晴れ着が少ないねえ」とテレビを観ながらぽつりといった。

 疲れが出たのか、僕は夕方まで寝てしまった。もっとも、父さん達と朝まで呑んで寝たのだから起きれるわけがない。二人は当然まだ寝ている。
 久し振りに迎えた寝起きのリビングには、食べ散らかした食器がそのままに、ビールの空き瓶がだらしなく転がった卓袱台があった。灰皿には、母が喫んだ煙草の吸い殻が、フィルターに薄い紅をつけて山になっていた。あれだけ楽しそうに父と酒を呑んではしゃいでいるのに、母はどうしてこんなにも煙草を喫むのだろう。吸い殻を流しに捨て、灰皿を洗いながら、僕は母の指が空になっているところを見たことがないと、いまやっと気がついた。そんな母を父は咎めなかったし、心配している様子もなかった。それは僕にしても同じで、いままで母の喫煙について小言をいった覚えがなく、こうやって、当然のように母の灰皿を洗っている。でも、灰皿から流れ落ちる黒い汚水を見つめていると、やめろとはいわないが、少しは減らしてくれと思うのだ。そういえば、酔った父がお土産だといって小袋を母にぽいと投げたことがあった。あれは確か飴玉の菓子袋ではなかったか。素直にいうことなど聞かない母に、父は酔った振りをして、せめて喉にいいだろうと飴玉を母に与えたのではなかったか。なのに母は、こんな駄菓子、太るからいらないと、菓子袋をリビングのテーブルに邪険にうっちゃっていた。あのとき、父はどんな気持ちだったのだろう。僕はそのときの父の様子を少しも覚えていないが、いまならわかる。きっと父は怒ることもなく、ただ静かに微笑んで、煙草をぷかぷかふかしている母を寂しく見つめていたのではなかったか。今夜、母さんに一言いってやる。
 七時ごろ、僕は家を出た。元旦の夜、閑散とした空気がいっそう寒々しく、僕は母が出しておいてくれた駱駝のマフラーを厳重に巻き直した。
 小母さんは元気でいるだろうか。嘉夫や先生は小母さんにちゃんと連絡を入れているだろうか。それとも、お正月だというのに、小母さんは寂しく独りでいるのだろうか。でも、小母さんといられるのなら、誰もいないほうがいい。二人だけでいられたほうが、僕は楽しいと思うのだ。
 二階の雨戸から微かに灯りが漏れていた。辺りは深閑として物音がない。僕はしばくの間その灯りを見上げて、小母さんに逢える喜びを胸に溢れさせた。テレパシーで小母さんが僕に気づいてくれないかと、念力を入れてもみた。からだ中が熱くなってきて、どこかで犬が吠えた。月にかかっていた雲が素早く移動し、満天の星が夜空に現れた。店の横にある庭の梢がざわつき、数羽の鳥が羽ばたいた。そして再び冷え冷えとした静寂が戻ったとき、
「……修ちゃん」
 小母さんが薄明りの梢の下に立っていた。
 その姿はまるで幽霊のように白く輝いていた。けれど、僕には見えた。小母さんの頬が少女のような恥じらいで淡い桃色に染まっているのを。走り寄りたかった。飛びつきたかった。ほら、小母さん見て。僕こんなに大人になったよ。ちょっとしたものだったらひょいと担げるよ。もう頭でっかちなんかじゃない。世間にも少し揉まれたし、働くことにも慣れた。野菜のことなら詳しくなったし。泣かないで小母さん。風邪ひいちゃうよ……。
「新年おめでとうございます」
 僕は和室のテーブルに着くと、差し向えの小母さんに向ってぺこりと頭を下げた。こんな当たり前の言葉が、なぜかいままでとは違う、僕をいくらか大人の気分にしてくれた。小父さんのことを思うと、めでたいなどといえた状況ではなかったが、久し振りに小母さんに逢えたはしゃいだ気分に、僕の心は浮ついていた。和室はひんやりと冷えていたが、点したばかりのガスストーブが小さな音を立てて徐々に部屋を暖めている。
「もう来てくれないと思ってた」
「どうして?」
「どうしても……」
 小母さんは僕を見つめたまま黙ってしまった。
 元気そうな小母さんに僕は少し安心した。一段と痩せたようではあったが、顔色は良かった。独りきりでどういう生活をしているのか僕には想像できなかったが、世間の下品な干渉も巧くいなしているように思えた。元々小母さんにはそういったセンスがあって、そんなところが僕が小母さんを好きになった理由なのかもしれない。世間の干渉なんて、結局無責任ないいがかりに過ぎないのだから。
 久し振りだというのに、小母さんの言葉数は少なかった。でも僕は満足だった。その分、小母さんは僕をうれしそうに見つめてくれたからだ。そして、楽しかったのは、ハヤシライスだ。つくってはみたものの独りでは食欲が湧かなかったらしく、そのままになっていたハヤシライスを、僕の顔を見た途端に食欲が出てきたらしくて、小母さんはいっしょに食べようと熱々に温めてくれた。そして当然のように僕には大盛りで、二人はハヤシライスで元旦の夜を過ごした。僕はきっとこのお正月のハヤシライスの味を一生忘れないだろう。大盛りのおかわりまでしたのだったから。
 コッコッ、と玄関のドアを叩く音が数度小さく聞こえた。
 壁の時計を見ると短針が十時を指していた。小母さんはちょっと怪訝そうな顔をしてテーブルを立とうとしたが、それを制して僕が玄関に出た。
「どなたですか……」
 そういってドアーを開けた途端、僕はどきりとした。そこに焦燥しきった長身の小父さんが立っていた。僕は慌てて小母さんを呼んだ。小母さんが何事かと玄関にきて、そして小父さんの顔を見るなり青冷めた。
「あなた、どうして……」
 ドアの向こうで、同じように青冷めた小父さんが、寂しさを隠しきれない悲しい顔で立ち尽くしていた。寂しさは幾重もの苦痛の皺となって痩せた顔に刻んでいた。伸びた顎鬚が荒んでいた。
 僕は慌てて、小父さんが手にしていた紙袋を半ば強引にひったくり、なかに入れようと小父さんの腕を取った。その腕はまるで枯れ枝のように空疎で肉感がなかった。紙袋には肌着の端が覗いていた。タオルのようなものも見えた。薄着が痛々しかった。
「どうして」小母さんは幾度も同じ言葉を繰り返すだけだった。
 小父さんが落ち着くのを見て戸外に飛び出た僕は、自動販売機でまず熱燗の酒を三本買った。つづけて煙草を二箱買った。店に戻るには五分とかからなかった。
 煙草を取り出すのがもどかしい。グラスに酒をあけるのに妙に時間がかかる。僕は少し動揺していた。でも、いま僕にできることはこのくらいのことなのだと、急いた気持ちを宥めて、小父さんが色の薄い唇にくわえた煙草に家庭用マッチで火を着けてあげた。深々と吸いこんだ煙が、やっと暖まってきた和室に、鈍い灰色の固まりとなって吐き出された。それからやっとのことで、小父さんの眼差しに寛ぎの兆しが現れた。
「小父さん、呑んで。温まるから」
 僕は酌をする手つきをした。
「すまんな……ありがとう」
 小父さんは一息でグラスを干した。その声ははじめて聞いたときに感じた重厚さを欠いていた。弱々しい歳寄りの声だった。
 黙ったままじっと小父さんを見つめる小母さんの目から涙が流れていた。それはついさっき久し振りに僕を見たときの涙とは別のものだった。まるで赤い血が流れているような、つらくて、激しい傷みを伴った、苦しい涙のように思えた。実際、僕には小母さんの涙が赤く見えた。白い頬に赤い筋が長く長く描かれていた。それはまさしくマグダラのマリアの涙だった。小父さんが警察から戻れた理由をまだわからなかったが、僕はたったひとつすでに理解することができたのだ。僕にとっては寂しくがっかりなことではあったけれど、〈他人の飯〉は否応無しに僕を世間に引き出して、いくらかの客観性を植えつけてくれたのだった。

 小母さんは小父さんのマグダラのマリアなのだ。と。

「僕、家に帰ります。明日また来ます。小父さん、ゆっくり休んでくださいね。小母さん、泣いちゃいけないよ。風邪ひくから」
 戸外は、煌々と輝いていた。燦ざめく星が忙しない幼子のごとく千々に躍っていた。しばらくして、それは僕の瞳のなかで水飴のように溶けて流れた。駱駝のマフラーに少しばかり樟脳が匂った。

 その夜、僕は父と母とで、初夢を見逃してまで呑んだり食べたりして正月を過ごした。こだわり屋の母は、お節料理もそうだが、正月に相応しく一応の料理を用意してくれた。お雑煮がおいしい。父も普段の欲求不満を一気に取り戻すみたいに、酒よりも食べるほうが忙しい。まるで、がつがつした子供みたいだ。僕も、他人の飯はどこかで遠慮していたのか、父に煽られてなのか、ちょっとは味わって食べなさいよと母が文句をいうくらいに、二人して食べた。卓袱台が満載で、つけっぱなしのテレビがうるさくて、食べてる僕らの面倒を珍しく素面でみている母が、横目で窺うと、幸せそうな父の食べっぷりと相まって、僕もうれしいと感じるのだった。
 けれども、僕の周囲には、おめでとうといえない家族がある。それをふと思うと、雑煮が少ししょっぱいかなと思えてくる。瑠璃の家はどうしているだろう。小母さんと小父さんはどうしたか。そして、嘉夫と先生。僕はといえば、卓袱台で親子三人円くなって、少し脳天気だけれども自分をきちっと持っている両親と、何のわだかまりもなく呑んで食べている。この違いはいったいなんなのだろう。誰のせいなのか。なにが原因なのか。僕は、できることならば、卓袱台を百個も千個もつくって世間に配って歩こうかと思ってしまう。だって、円く座れば、いっぺんに家族全員の顔が見えちゃうじゃない。みんな同じ高さにいられるじゃない。
「おまえ、少し顔が変わったわね」
 料理も落ち着いて卓袱台に着いた母が、ぽつりといった。
「男になったんだろ」
 春巻きを食べながら父がいった。
「そのわりに、あなたは変わんないわね」
「まあな。それほどの人生を生きていないからな。でも、母さんも修一のこといえないよ。俺には母さんのほうこそ変わっているように見える」
「どこがよ」
「さあ、どこかな……」
 どこだろう。僕も母の変わったところを見つけられない。父さんだけが母の変化をわかるのだろうか。
「まあ、お疲れ様。母さんもゆっくり呑みなさい」
 父は、母のグラスにビールを注ぐと、自分のグラスを一息に干して母に差し出した。母が慌てて注ぎ返す。なんだか、いつもと様子が違っている。父と母の雰囲気が逆みたいだ。
「父さん、何かあったの?」
 僕は蒲鉾にまんべんなく山葵を塗ったくりながら、父の顔も見ずに訊いた。
「どうして?」
 聞き返してきたのは母だった。父は何事もなかったかのように、母に注がれたビールを静かに呑んでいる。時々迷い箸で卓袱台のご馳走の上をさまよっているのが、父特有のおとぼけのようにも思えた。
「なんでもない……」僕もとぼけて山葵たっぷりの蒲鉾を頬張る。
 どことなく、今夜の卓袱台宴会はひっそりとしてきた。父も母もほとんど呑みつづけだったから、きっと疲れたのだろう。僕はそのくらいに思い、いつものようにしつこく問い詰めない母に内心安堵し、正月早々やりこめられたらたまらないと、父に右に習えでとぼけきる。
 さすがに朝までつきあうわけにもいかず、二時ごろ、僕は父と母を残して二階の自分の部屋に上がった。
 ベッドに腰をおろしてしばらくぼんやりしていたら、なんだか自分の部屋が懐かしく思える。久し振りにゆっくりと見廻す自分の部屋は、八百屋に住み込むために家を出たときと、なんの変わりもない。机に置かれたマニエリスムの画集が相変わらず重々しく黒い表紙を見せている。
 僕はそのままベッドに仰向けに転がると、少しばかり酔った目を瞑った――小父さんはどうして警察から帰れたのか――やつれた小父さんの姿が浮かんだ。ひょろっとして今にも折れそうに感じる長身は、いつか酔ってテーブルに俯せて寝てしまった嘉夫の背中を思い出させる。どちらも触れると重い石にでも当ったように痛そうな骨格。嘉夫がほとんど直感で自分の本当の父親を認識したのは、あの葬儀のときだったはずだ。それには小父さんの思わせ振りな身振りや振るまいや視線もあっただろう。それまでの家庭の不自然さもあっただろう。けれども、それ以上に嘉夫に鋭い直感をもたらしたのは、血、同じに流れる血そのものではなかったか。嘉夫の源である父としての血、子としての血が、理屈を通り抜けて確信へと導かれたのではないか。誤魔化せない遺伝。クローン嘉夫。
 嘉夫の古き王は……。
 そのとき、僕はからだ中に無数の鳥肌が立つのを感じた。毀れたバネのようにベッドから弾き起きて部屋中を歩き廻った。怖くなって独りではいられなくなった。階下に駆け降りていた。父と母がきょとんとした顔で僕を見ている。
「父さん。僕はほんとうに林檎箱だったの? 母さん。僕は蜜柑箱だったの?」
 立ち尽くす僕に父が駆け寄った。母は腰が抜けたように立てないでいる。父はいきなり僕の胸ぐらを掴んで低く小さくいった。
「馬鹿やろう」
「だって、変だよ。まるきしおかしいよ」
「修一、どうしたのよ、いったい」
 やっとの思いで立ち上がった母が素っ頓狂な声を張り上げ、
「父さんやめてよ、修一に乱暴しないで」
 と、父の腕にしがみついていた。
 とにかく座れといって父は僕を卓袱台の前に座らせた。激しい動悸が治るのを、父も母も、そして僕自身も待つかのように、全員が卓袱台の前で無言で見つめあっていた。
「父さん。家族っていったい、なに?」
 唐突だったのだろう。二人は目を合わせ、それからまた僕を見つめ直した。せっかくの正月酒がすっかり冷めてしまったのだろうか、二人は可笑しいくらいに真剣な顔をしている。
「いきなりそう聞かれてもなあ」
 さすがの父も戸惑い、鼻の頭を人指し指でぽりぽり掻いて後の言葉がつづかない。
「なにかあったのか。落ち着いて説明してみろ」
 グラスにビールを注ぎ直しながら父はいつもの父に戻って静かにいった。母は無言で空のグラスを父に突き出し、目はじっと僕を見つめている。父がはいはいといってビールを注いだ。なんだ。いつもと同じ二人じゃないか。僕はちょっとほっとする。そのビールを一気に呑み干してふーっと長い息を吐き出すと、母はつくづくいった。
「びっくりしたあ、もお。修一がきれたと思ったわよ」
「のんきな母さんだ……」
「母さん。僕は父さんに似ている? 父さんは僕に似ている?」
「なによ。ずいぶん哲学的じゃない」
「茶化さないで。僕、真剣なんだ」
「似てるわよ。そっくりよ」なんだか悔しそうだ。と、にやっとほくそ笑む父がいた。
「父さん、うれしい?」僕はちびちびグラスを傾けている父に訊いた。
「まあな」照れている。
「こまらせて苛めたいほどに?」
「なんだ。意味がわからん」
「僕にもそこがわからないんだ。自分の本当の父親を、たとえどんな訳があっても、すべてを失うような、こまらせることができるのだろうか」
「……嘉夫くんのことか」
 父は鋭いと感じた。昼行灯なお役者父さん。裏でなにをやっているか計り知れない。母さんもきっと騙されている。けれどそれは男同士の内密として、侠として、裏を合わせておくとする。
「小父さんが釈放されたんだ」
「小父さんて?」母が訊いた。
「嘉夫さんの本当のお父さん……」
「おまえ、例の事件のことでなにか知ってるのか?」
「父さん。僕は父さんが僕にどんな仕打ちをしたって僕は我慢できる。でもそれは父さんが僕の父親として僕のそばにいつもいてくれてるからだと思う。たとえ血が繋がっていなくても、僕が林檎箱で拾われた子だとしてもだよ。けど、父さんが僕の父さんだときちっと立場を示してくれなかったらどうだろう。僕もやっぱり父さんを恨むんだろうか。父さんをこまらせるんだろうか」
「なんでそんなこというのよ。あんたはわたしがお腹痛めて産んだのよ!」
 ほとんど絶叫だった。たちまち、母の頬に大粒の涙が流れ落ちた。
「違うんだよ、母さん。違うんだ」父が母の背をさすった。
「母さん、ごめん。僕そんなつもりじゃない……怖いんだ。嘉夫さんと先生のことが不安なんだ……嘉夫さんの家族が」
 僕は気づいていた。
 昨夜、店を出たとき、黒い影が幾つか店の周囲にひそんでいたことを。警察だとすぐにわかった。無線機特有のがーがーざらつく音を微かに聞いたからだ。いわゆる張り込みというやつだろう。釈放された小父さんに張り込みの必要などない。理由はただひとつだ。それは嘉夫に決まっている。嘉夫と先生。そう考えると、堅く結ばれた糸がふと緩むように、ありありとした光景が蘇ってくる。電気椅子で雨が収まるのを待った夜、幻のように過った女の姿。あれは下見だったのかもしれない。瑠璃の自転車を修理に出すため部室に行ったときに目撃した校舎の谷間に消えた女のような影も。
 サロメ=先生。
 すべては現実だったのだ。ヨハネの首は、嘉夫と先生に殺された。ではどうして、小母さんと小父さんは自分が犯人だと偽ったのだろう。嘉夫と先生はなぜヨハネの首を殺してしまったのだろう。確信するほどに、僕は戸惑った。
 この家族はいったいどうしたというのだ。まるで噛み合わない歯車がてんでに廻転して、その動力の行き着く先はまるで終点のない宇宙の暗黒のようだ。狂ったようにどこまでも際限なく火焔を噴いて闇のなかを驀進している。マーティンのソドムとゴモラの滅亡の、背後で爆発する真赤な炎のように激しく、それとはまったく対照的に、モンス・デジリオの偶像を破壊するユダの王国のアサ王のごとく、まさに崩壊の真只中で静止してしまったかのようではないか。人間なのに人間の手では操作できない、もっともっと深奥に在る身性といったようなままならぬ万象を感じて、僕の全身に悪寒が走った。震えた。
「今夜はもう寝たほうがいい。あまり無茶をするなよ。軽率な行動は慎め」
 父は僕の背に手を当てて二階に行くよう促した。目配せしたら、目を赤く潤ませた泣き顔の母が、唇を噛んで僕を見つめていた。ごめんね、母さん。僕は母さんの子だよ。母さんも泣き虫だものね。
 部屋に入ってからも僕はすんなりと眠りにつけず、煌々とした灯りのなかで悶々としていた。ふと気になって窓のカーテンの透き間から覗き見るように戸外を窺うが、漠然と予想する黒い影はひとつも見つけることができない。予想する影とは、嘉夫と先生のことなのか、あるいは険しい目つきをした刑事の姿なのか、それすら今の僕にはっきりとしない。いずれ、警察は僕のところにもやってくる。そのとき、僕はどう応えればいいのだろう。僕の思うことをそのまま喋れば、それは僕自身の確信を喋ることにはならないか。話の流れとして、瑠璃とのことも詮索されるに違いない。そして、小母さんとのことも――どこまでも、秘密、秘事、隠し事、そして沈黙。僕の思いを僕自身の暗闇に閉じこめろと僕はいう――僕だけの絶対の誓いを、僕自らが反故にしてしまうのではないか。衛るどころではない。これではまるで、僕自身にも小母さんに対しても、裏切りだ。
 けれども、よくよく考えてみれば、僕だけの誓いは、僕だけのものではなく、いまでは小母さんと共有する二人の誓い事になったのではなかろうか。つまり、秘め事とはなんらかの対象があってこその秘事であって、誓いであった時点では僕だけの事に過ぎなかったが、その子供じみた思いが小母さんという対象との実際の関係を得て、秘密へと昇格した。してみれば、僕の恋は立派な恋心として成就したのかもしれない。僕は仄かな充実を感じた。が、それはそれで、やはり小母さんは小父さんのものだと思う。どう見ても、それが現実なのだから。
 街燈の侘びしい燭光が窓から見下ろす板塀を照らしていた。一月の夜気が薄暗い歩道を凍てつけ、遅くなった冬の陽はいまだ昇る気配もなく、辺りはいつまでも目醒めることなく幽深に眠っている。父と母はまだ呑んでいるのだろうか。眠りにつけない僕がいた。愛しい人達を思う僕がいた。

 今ではすっかり樟脳臭さが消えたマフラーを固く首に巻きつけて、僕はガード脇を歩いていた。高架線を走り過ぎていく電車の窓明かりが轟音とともに夜の闇に無機質に流れていく。吐く息が白い靄のようになって夜気に紛れていた。もうすぐ八時を過ぎる。店は正月三日から開いていた。この時間、店番は誰がやっているのだろう。店主だろうか、それとも弟だろうか。
 一週間の正月休みは瞬く間に過ぎてしまった。何事もおきなかった。おきようはずがなかったのだ。何度も小母さんに逢いに行ったが、店は留守なのか、呼び鈴が虚しく鳴り響くだけで、逢いたくてたまらない小母さんは僕の前に一度も顔を現してはくれなかった。きっと小父さんとどこかへ出かけてしまったか、あるいは知らない町に行ってしまったのだろう。それに、耳障りな音を発する無線機を携帯した刑事の姿もなかった。それはやはり、店には誰もいないということなのだ。
 雨戸を閉じた店に閉じこめられた本だけが息を殺している。返本もままならず、お喋りの口を重く閉じて、知識や情報や生活の知恵やなんだかだ、頁のなかでひっそりとその身を隠している。もう、誰もその頁を開いてはくれないのだろう。暖房もない小さな店のなかで、冷えた塊を強張らせて重ねあっている。棚のなかで身を寄せあっている。嘉夫も、そして先生も、二人だけの隠れ家で寄り添いあって震えているのだろうか。僕の確信が見当違いであればいいと思う。結局あれはヨハネの首の自殺であったと、笑うに笑えない落ちであってほしいと願う。
 店に入ると弟は無闇にうれしそうな顔をして僕を迎えてくれた。僕は弟に丁寧な新年の挨拶を済ませると、店の奥で寛いでいた店主夫婦にも休みの礼を述べて、すぐに着替えて店に出た。
 僕は春になるまでに店を辞める。一時の休暇をとればいいことなのかもしれないが、けじめをつけようと思う。そのことを早々に店主に告げなければならない。優しく接してくれた常連客の小母さん達にも伝えよう。毎日自転車で野菜を運びに通った寮のお婆ちゃんにも別れの挨拶をしよう。酔ってキスをしてくれたバーの女の子にも……。
 夕方には忙しかったのだろうが、まだ正月気分が少し残っている夜の十時近くは暇だった。それでも、正月料理に飽きたのか、ときおり若い人がカップ麺などの即席ものを買いにくる。嘉夫達はなにを食べているのだろうかと、ふと思う。濡れ鼠で現れた二人と辛い料理を食べながら呑んだ夜を思い出す。二人は今どこにいるのだろう。警察に追われ点々としているのだろうか。店内を物色している若いカップル達のように、コンビニや乾物屋で手に入れた即席ものを食べて過ごしているのだろうか。
 春よ来い。ぬくい陽よ僕達をあたためておくれ。古き王の交代劇はもう終いにしておくれ。
 ――僕達は庭に一台の卓袱台を持ち出し、春爛漫の桜を前にしてシュンポシオンを楽しむ。卓袱台の盛り沢山の辛い料理の上に桜の花びらが舞い落ち、ヴェニチアグラスの琥珀色の酒にもそのひとひらが浮かぶ。あるいは洒落たぐい呑みの透明な酒に浸かった精霊蜻蛉の羽のように希薄で儚げなうすくれないの花びら。うたかた、夢幻、邯鄲の夢、あえかなる時間。穏やかな空気が僕達を優しく包み、時々流れる小さな光風が桜の梢にあたって無数の花びらを震わせる。小さな卓袱台は僕の愛する人達で囲まれ、みながみな、酒に酔ったのか、それとも満開の桜にからだの芯まで溺れてしまったのか、仙果の色に頬を染めている。いい酒ですねと父がいった。まったくですと小父さんがいった。小母さんと母は夢中になって楽しい話をしている。リードしているのは母だから、きっと旅の話に違いない。グラスを摘んだ小母さんの細い指先の爪は桜の花びらと見紛うくらいに薄く、さり気なく横に流した真白な足首にも落ちた桜を纏っている。庭のあちこちに三月菜や菫、黄水仙が咲き、夜啼きのはずの梢の鳥までが賑やかしにとばかり、昼間の陽光に啼いている。蕩けるようにたおやかな時間が過ぎていく。僕の夢見る水くれないの色した饗宴。僕の隣には輝く春の花のように、朗らかな瑠璃が座っている――。
「なんか、元気ねえなあ……」
 ふいに話しかけられて、僕は白日に戻った。休憩時間が終えて店に出てきたのだろう、弟がコーヒーの入ったマグカップを二つ持って立っていた。僕はレジのなかで、手渡されたカップの白い湯気を見つめながら、店を辞めることをまず弟にいうべきではないかと思った。出逢いはあまり気分のよいものではなかったが、いまではこうして僕の様子を心配してくれるまでになっていた。二度と逢う機会もなくなるかと思うと、歳上なのにどこか不憫さを感じてしまうこの人に、僕はいささかではあったが、いまでは友情のようなものを感じている。人とは、つきあってみなければならない。印象とは、曖昧で不確かな感傷に過ぎないのだと、僕は覚えたような気がした。
「ひとりぼっちのお正月だったんでしょ」
「馬鹿いえ。もてもての俺がそんなわけないだろ。疲れた、疲れた」
 僕達は互いの顔を見合って意味もなく笑った。正月からやっているのかは知らないが、どうせキャバクラかなんかで寂しい身を癒したに違いないのだ。馬鹿笑いのなかに、ひとり身の孤独感を隠しきれずにいる。けれど僕も所詮同類ではあるが、この人の孤独は屈託ない。いずれ瞬く間に解消してしまう孤独ではないだろうか。それはぬくい小川の水に融ける春の雪のような、きっと面倒な理屈を必要としない、ほのぼのとしたあたたかい幸福なのかもしれない。この人は自分の卓袱台をしっかり持とうとしている人なのだ。
「僕、春には店やめようと思う」
「どうして。店でいやなことでもあるのか」
「そんなことない。店の仕事は楽しいよ。朝がはやいのはちょっとしんどいけどね。母の仕事を手伝おうと思ってるんだ」
「おふくろさんの仕事って? なにやってんだい」
「売れない物書き。エッセイストなんだ」
「手伝うって、どんなことするんだ。書くのはおふくろさんだろ。手伝うことなんてあるのかい?」
「取材とかで、アシスタントみたいなことがいろいろあるんだ。写真を撮ったり、資料を集めたり……」
 弟はよくわからないといった顔だった。でも、ぽつりとこぼした一言が僕の心を少し痛めた。
「背中流してもらえなくなるなあ」
 翌日、僕は店主に店を辞めることを伝えた。大きな卓袱台を囲んで遅い昼食をみなでとっているときだった。時々客が来て話しは中断を余儀なくされたが、すでに事情を知っていた弟が対応してくれたので、ある程度詳しく説明することができた。
 店主夫婦はその間、黙って僕の話を聞いていたが、一応の話を聞き終えると、おかみさんがいきなり自分の食べ終えた食器を持ってお勝手に立ってしまった。流しの水を盛大に流して食器を洗っている。急な話に怒ってしまったのだろうかと不安になった。すると、店主が立っておかみさんの背にそっと手を当て小声でなにかいった。水の音で聴きとれなかったが、やがてきゅっと蛇口をひねる音がして水の音が止まり、おかみさんが振り返った。
「修ちゃん、あたし納得できない。ずっといてくれると思ってた。いてよ」
 普段口煩い、しゃきしゃきのおかみさんだった。店全体を仕切っている実質上の経営者だった。そのおかみさんの目が真赤に潤んでいた。僕のためにカレーライスに特大の肉をよそってくれたおかみさんが、いま特大の涙を流していた。僕は一言もなく、おかみさんを見つめるしかなかった。
「若いんだからしかたない。修ちゃんはこれからなんだ。いつまでもこんな小さな八百屋にいてもしかたないさ」
 卓袱台に戻った店主が煙草を忙しなく吹かしながら独り言のようにいった。
 しばらくして、気を取り直したのか、おかみさんはお茶の用意をはじめた。大きな急須に湯の音がぽこぽこと鳴る。三人はそれぞれの思いで熱い茶を啜った。いつもより、とっても渋いお茶だった。
「そうよね。修ちゃんならもっと立派な仕事につけるかもしれない。修ちゃん、お母さんの手伝いしっかりやるのよ。時々は元気な顔を見せなさいね。あたしたちはずっとこの店にいるんだから……」
 言葉尻は消え入るようだったが、いつもの笑顔が僕を救ってくれた。
 店から弟の声が聞こえた。客が立てこんできたに違いない。
「はい。ありがとうございます」
 僕は店主の促しを機に卓袱台を立って店に出た。弟がてんてこまいしていた。
「もたもたしてんじゃねえよ」
「ほいほい。いらっしゃーい」
 僕は八百屋の小僧だ。精いっぱい、大根やキャベツや人参を相手に、残りの奉公を勤める。春になるまで――。

 比較的忙しい昼時間を過ぎた午後、世間からは正月気分がすっか失せてしまった日。いつものように、僕は林檎や柿をひとつずつ丁寧に布切れで磨いて艶出しをしていた。そのままのほうがいいとは思うが、見てくれをよくしたほうが売れるからしかたない。と、珍しく昼間の時間にバーの女の子が店にやってきた。夜更かしか酒の呑み過ぎか、顔が少し浮腫んでいたが、普段着の彼女は派手な仕事着と違って、まるで別人に見えた。首に巻きつけた黒いマフラーが女子高生のようで、ちぐはぐな感じがやや不思議だ。酔っている姿しか見たことがなかったので、素面の様子がいつもより若くも見えた。化粧気がない顔が少し照れ臭そうにしている。
「あれえ、お店これから?」
 いつもならすぐに抱きついてキスしてくれるのに、今日はなんだか距離がある。
「風邪ひいちゃったの……お店は休む……」
 顔の浮腫みは風邪のせいか。元気がないから寂しそうでもある。
「配達してくれる?」
「もちろんです。僕がお届けします」
「鍋の用意がしたいの」
「寒いからいいですね。風邪にもいいし」
 僕はお愛想のつもりでいった。
「生意気ね、あなたって」
 その一言で言葉を返せなくなってしまった。まるで違っている彼女に気を呑まれてしまった。
「四人前用意してくれる」
「なに鍋にしますか?」僕は恐る恐る訊ねた。
「あなたはなにが好きなの?」
「はあ? 僕ですか? 僕は、ええと、なんでも好きですけど……」
「寄せ鍋でいいわ……あなた、休みはいつ?」
「僕ですか? 明後日休みですけど……」
「そお。それじゃ、明日の夜にでも配達してちょうだい」
「今日じゃないんですか」
「お願いね」
 背を丸めて横断歩道を渡っていく女の後ろ姿に、事情などなにもわからないのに、僕はなんだか切なくなった。人って夜と昼ではこんなにも違うことがあるのだろうかと、違わなければならないことにいい知れぬ悲しさを感じた。僕はまだまだ単純でいられる。いつだって同じ顔しか持てないでいる。
 その日の夜、僕はおかみさんに鍋の具の内容を確認すると、白菜などを適当な大きさにして四人前を見繕い、段ボールに詰めた。魚介類は明日の配達間際に近所の魚屋で調達することにした。場所は以前に一度配達をしていたからわかっている。自転車で店から二分も離れていないマンションの五階にひとりで住んでいるのだ。四人前だからきっとお店の仲間とでも食べるのだろうと思ってみたが、「余計なお世話よ」なんて、またきついことをいわれそうで、思わず苦笑してしまった。生意気ねといわれたことに僕はよほどこたえたのか、まるで母に怒られたような気もして、悔しい反面、うれしくもあった。単純な僕に複雑な面もあるなと、それなりの満足。でも、それってやっぱり単純ではないかと、再び落ちこむ。女の人は難しい、が結局の結論だった。
 翌日。
「配達してきます」
 夕餉の買物客で混み合った店も七時半ばを過ぎると一段落する。僕は弟に声をかけ、自転車の荷台に段ボールを括りつけて寒風のなかに勢いよく飛び出した。まず近くの魚屋に寄って帆立てや車海老、それに鮭の切り身とを買い、隣の肉屋で豚肉を仕入れた。そして再びペダルを力いっぱい踏んでマンションに向った。
 部屋のあちこちに明かりが灯った五階建てのマンションはすぐに現れた。女の部屋は最上階にある。段ボールを肩に背負って階段を駆け上った。中途半端な階のマンションでエレベータがなかったからだ。防寒着を着こんでいたせいで辿り着いたときには額に微かな汗をかいていた。気持ちがいいと感じた。走るのが厭でないのは僕がまだ子供なんだなと、部屋の呼び鈴を押しながらつまらないことを思いつつ、なかの返答を待った。 
「ちょっと待ってね。着替えるから。開けちゃ駄目よ。裸なの」
 ドア越しに女のかすれた声がした。僕はドキリとして思わずドアに背を向けてしまった。なんと意味のない行動だろう。けれど、わざわざそんなことをいう必要があるのか、裸だなんて。いきなり、背負っていた段ボールが、空っぽになったかと疑いたくなるくらいに軽くなってしまった。汗がからだ中に噴いている。
「台所に運んでちょうだい」
 女がドアを開けて風邪気味の少し赤らめた顔を見せた。僕は担いでいることをすっかり忘れていた段ボールに気を取り戻し、慌てて廊下に上がった。部屋のなかはキッチンを兼ねた八畳のリビングと、短い廊下の途中に開いていたドアは四畳半の一室で、通り過ぎるときにベッドの端が目に入った。部屋には女以外に誰もいる様子がなかった。
「ここでいいですね」
 僕は、キッチンのガス台の下に空いていたスペースを見つけて段ボールを置くと、精算のために伝票類を女に手渡した。僕はなんだか落ち着かなくて早く店に戻りたかった。目の前の女はいつもの夜の人になっているように見えたし、先ほどの女の不必要な言葉が脳裡に散らついてまともに女の顔を見ることができない。まして、咄嗟に身に着けたのだろうブラウスのボタンを留め忘れていて、豊かな乳房のふくらみが見え隠れしている。眩しいったらありゃしない。
「あなた、明日お休みよね。あたしとつきあってくれる?」
 ストレートな女の言葉にしばし呆気にとられてしまった。それなのに、
「はい……」と答えてしまう僕は意気地がない。
「それじゃ、お店が終わったら来て」
「えっ、今夜ですか?」
「そお。今夜」
 いうだけいって、女は追い立てるように、玄関まで強引に僕の手を引いた。気づいてみたら僕は閉まってしまったドアの前に立っていた。
 それからの時間がつらかった。店が終えるのは十時過ぎで、その時間から外出なんて、おかみさんが許してくれるはずがないのだ。大切な他所様の子供を預かっているのだから、とかいって絶対に許してくれない。僕は外出の理由を思いつくのに艱難辛苦していた。客の少ないのをいいことに、店のなかを行ったり来たりしていた。
 そうこうするうちに、あっという間に九時を過ぎてしまった。外出の許可を求めるならば、もう今しかない。閉店間際ではおかしなことになる。でも、どうして僕はこんなに悩む必要があるのだ。女との約束なんて無視してしまえばいいじゃないか。あんな強引な約束なんてひどい……なのに僕の気持ちはすでに決まっていた。強引に手を引く女の横顔に、並々ならぬ必死さを読み取れたからだ。僕は切なさに弱い。
「おかみさん、明日お休みなんで、僕、今夜から友達のところに行きたいのですけど……いいですか?」
「気をつけて行くのよ。明日の夜には必ず帰ってくること」
 おかみさんはそれ以上、これといった詮索をしなかった。案ずるより生むが易し。なんてことだ。おとぼけ父さんの言葉が今になって実感できた。あまりの簡単さにかえって疲れが出てしまった。
 それにしても、女の必死さはいったいなにを意味していたのだろう。僕にどんな用事があるというのだろうか。閉店まであと二十分もなかった。
 女の人は勘がいい。おかみさんは多分、僕の突然の外出理由を鵜呑みにはしていない。普段だったら、口喧しく僕の曖昧な説明を問い詰めたはずだ。ところが、今夜はなぜか煩くなかった。春になれば辞めてしまう僕に遠慮のようなものを感じているのだろうか。だとしたら、僕はずいぶんと卑怯な人間だ。デートだから出かけると堂々といえたはずだ。なのに、僕は嘘をついた。相手が水商売の人だからだろうか。歳上の人だからだろうか。けれど、それでは僕はあまりにも古臭い陳腐な人間だ。きっと違う。別の直感みたいな不可解ななにかを、僕はあの人に感じているのだ。隠しておきたいなにかを感知しているのだ。どうして僕の周囲には謎めいた女の人が多いのだろう。
 歩いて十分もかからない道のりを、僕はそんなことを思い巡らせながら歩いていた。深閑とした夜の裏道。薄闇の冷気に街燈の明りが弱々しく融けて靄のようになっている。所々、建物の脇の下水の溝から白い蒸気が立ち昇っているのが見える。
 そういえば、阿部保訳のポーの詩にこんなのがあった。

 六月の、真夜中のこと
 私は不思議な月の下に立つていた。
 麻痺させるような靄が、しつとりと朧に、
 その黄金の邊からたち、
 静かな山の頂きに
 しとしとと柔らかにしたたり落ちて
 ひろい谷間に
 ものうげにまた調べよく忍びいる。
 ――

『死美人』のはじめのところだ。詩の途中、括弧で閉じた言葉が僕を畏縮する。

 (み空に向い開きたる、女の窓の戸 あわれなるかな)

 ダッフルコートのポケットに突っこんだ僕の両手は心無しか震えていた。余計なことに、その節の最後のところまで思い出してしまった。

 その墓のひびいて鳴る戸から
 あわれ、罪の子よ、
 うちに呻いているのは死人であると思えばぞつとして
 彼女はもう、木霊を立たせることもせなかつた。

 見上げると、五階の女の窓が開いていた――そんな訳がない。この寒空になにかの理由がなければ窓など開け放すものか。臆病な僕だった。
 昼間には一気に駆け上がった階段を、今はゆっくりと上っている。階段のリノリュームが所々捲れ上がっていて足下が危なっかしい。たった五階の小さなマンションなのに、上るほどに冷気が増して、心臓の鼓動が速くなってくる。なんだかずいぶん時間がかかる。物の怪でも憑いたかしらと情けなさに自嘲気味になっていたら、女の部屋の前に立っていた。
 死美人のゾンビがドアを開けて僕を迎え入れるのではないかと、どこまでもポーの詩が頭から離れなくて、思いこむといつまでも尾を曵くのが僕の悪い癖だった。
「だれ?」恐る恐る押したチャイムに返ってきた声。
「ぼく……です」
 ちょっと待てという。また裸だったのだろうか。変な人だ。それにしても今夜はずいぶんと冷える。雪にでもなりそうな気配だ。
 一分ほど待たされたろうか。施錠が解かれる音がしてドアが三分ばかり開くと廊下の薄明かりが外に漏れた。つづいて、入ってと女の小さな声がなかから聞こえた。僕は狭いドアの透き間を擦り抜けるようにしてなかへと入り、女に背を向けたままドアを静かに閉めた。なんだかこそこそしているみたいで、どうしてこんなふうにしなけりゃいけないのだと訝しく思っていたら、背後から鍵を閉めてといわれたのでその通りにやっていると、今度はドアチェーンもしろという。少しやばい気持ちになったが、それでも閉め終えて、それからやっと女のほうに振り向いた。
 思わず後ずさりした。ドアに思い切り背中を打ちつけた。金属製のドアが大袈裟な音を立てて響いた。
 ポーめ、いい加減にしろ。僕は夢でも見ているのか。
 女は、あの女の子ではなかった。それだけなら、いくら気の小さい僕でも、こんなには驚かなかったろう。一瞬どころか、いまだに信じられない。
 それは、先生だった。薄暗い廊下にすっと姿勢よく立っていたのは、紛れもなく先生の姿だったのだ。
「どうして……なぜ……」言葉にならなかった。
「上がって」
 先生は呆気にとられている僕の冷えきった手を両手で包むと優しく引いた。スニーカーを踵で脱ぎ捨て、引かれるままに僕は廊下に上がり、そのままリビングへと入った。
「嘉夫さん!」
 そこに、テーブルの椅子に膝を立て、澄ました顔で煙草を喫んでいる嘉夫がいた。台所で鍋の用意をしていた女の子が、僕を見て笑んでいる。
「よっ、勤労少年。元気だったか」相変わらずとぼけた嘉夫だった。
 カーテンを一枚開け放したリビングの窓から、降りはじめた雪が見えた。白い塵のような雪が闇のなかにふらふらと舞っている。粉雪だから、朝になればきっとこの雪は真白に積もっているだろう。あるいは、夜中にはすっかり積もってしまうのかもしれない。そうしたら、僕達は雪合戦をするだろうか。それとも、もうそんな子供じみたことを僕達はしないのだろうか。なぜか自慢げに僕の腕をとっている先生の体温を感じながら、僕は訳のわからない状況に立ち尽くしていたのだった。
「修一、おまえ期待はずれしたんじゃない?」
 ぐつぐつと煮立った鍋をつつきながら、嘉夫がからかった。僕の隣で女の子がくすくす笑っている。先生が嗜めるような顔をして嘉夫を横目で睨んだが、その目は微笑んでいた。僕は嘉夫の皮肉を無視して、鍋の肉を大量に小皿にとり無言で食べた。
「寄せ鍋って普通、肉入れるか?」嘉夫が再び嫌味をいう。
「もう、よしなさいよ。この子可哀想じゃない。せっかく今夜のために具を揃えて配達してくれたのよ」
「あなた、誰ですか?」
 口のなかに今度はよく煮えた白菜を頬張りながら僕はいった。
「きみ、怒ってる?」
「そんなことありません。あなたがいったい誰なのか理解できないだけです」
 グラスのビールを一気に干し、それからゆっくりと視線を隣の女に向けた。
「妹なの」先生が手許に箸を置いていった。
「許してね。こんなふうにはしたくなかったのだけれど、事情があって……偶然だったの。修一さんのお店と妹のマンションがこんなに近くだったなんて」
 では、去年の暮に僕を訪ねてくれたのは、妹のところに立ち寄ったついでだったのか。そして、妹はすでに僕が誰であるかを知っていたのか。
「修一、そんなことで不貞腐れるな。たいしたことじゃない」
 僕の腹のなかを見透かしたかのように嘉夫が少し渋めた目でいった。
「わかってるよ。わかってるつもり。でも、ひどいよ。いつも僕だけ除け物じゃない。いっつも、後にならないとなにもわからない」
「翔子です。姉がお世話になってます。きみのことはいろいろ聞いてるわ」
 僕は先生の世話など焼いてない。いろいろなことってなんだ。それに、きみって呼ぶな。少しばかり小馬鹿にしたような妹の表情が憎たらしかった。この人は嘉夫や先生のことを僕なんかよりずっと多く知っているに違いない。僕は騙されたことよりも、そっちのほうが悔しくなった。それで、今度は熱々に赤くなった海老を鍋から乱暴に取り出して殻ごと食べた。おかみさんの鍋も美味しかったが、こうやって久し振りに嘉夫達と食べる鍋は、おかみさんには悪いけれど、もっと旨いと感じた。
 アーケードの呑み屋で三人で食べた鍋を思い出す。あれからずいぶんと月日が過ぎてしまった。そして、すべてがあのころからはじまっていたのだと、二本目の海老を食べながら僕は改めて感じたのだった。
「心配させちまったな。でもな修一。俺は感謝してる。おふくろもだいぶ世話になったみたいだしな」
 嘉夫はいつの間にか立てていた膝を椅子から降ろしていた。僕を見つめる目は穏やかだったが、いきなり十年も歳をとってしまったかのように老けて見えた。以前の獣のような鋭さは微塵も感じられなかった。老成したのではない。元々あった諦めのようなものが、終焉という完全な抛擲としての諦観に辿り着いてしまったのではなかろうか。それはいったいなにを意味するのだろう。嘉夫にとって。先生にとって。
 僕はいい知れぬ不安に、温まった胃とは正反対に、全身がぴしぴしと軋んでいくような、凍えるような痛さを感じた。
「先生。事情ってなんですか。僕、ちゃんと知りたいです。いえ、先生はぜんぶ話す義務があります。でなければひどすぎます。小母さんが可哀想です。それに、僕だって……」
 僕だって、小母さんの卓袱台をつくってあげられなかった。僕は小母さんを一方的に好きになっただけなのだ。僕の恋は挫折だ。愛に昇格できなかった。小母さんを衛ることができなかったのだから。
 食べ残された春菊が鍋のなかでぐったりと萎えていた。長葱が蕩けていた。椎茸が鍋の底にこびりついていた。慌てた妹が三人の小皿に取り分けてくれたので、それからしばらくの間、誰もが無口に食べて呑んだ。
 雪の音が聞こえた。少なくとも、僕は聞いた。けれど、その音をどんな言葉でいい表せばいいのか、ひとつとして思いつくことができなかった。雪は、雪の音、としか今の僕にはいえなかった。
「修一さんは、もう本当のことを知っている。私達のいけなかったことを。私にはわかる」
 箸を置いた先生が重い口を開けた。その口調はいつもの先生と違って、どこかきっぱりとしていた。これ以上の隠しだてに意味を喪失したと考えたからなのか。または僕と同様に、先生なりの小母さんへの自責の念を感じたからなのだろうか。
「なぜですか?」
「私達とは違っている修一さんの性格」
「わかりません」
「修一さんだったら、いなせたでしょうね。踏みとどまることを知っているんだわ。修一さんには思い遣りがあるもの。でも私達にはそれができなかった。わかっていても、とどまることができなかった」
 先生は僕を誤解している。思い遣りなどではない。僕のは、あの忌わしい不干渉なのだ。瑠璃を死なせてしまった半端さなのだ。
「どちらかが違っていればここまでにならなかったでしょう。けれど、私も嘉夫も同じだった。同類だったんだわ……そして、お母さんも、小父さん……嘉夫のお父さんもだわ。二人は互いを庇いあって自分が犯人だと自首してしまった。お互いに誤解してしまった」
 けれども、警察はそれほど甘くはなかった。二人の綻びだらけの供述は時間とともにその自白性と証拠能力を失っていった。結局、警察は二人を解放せざるを得なくなってしまった。
「でも、私の考えは間違っているかもしれない。二人が庇ったのは私達だったような気もする」
 俯いたままの妹が隣で泣いていた。陽気で、ちょっと妖しくて、母と似てキス好きな、いつも酔っている女の子。
「あの男を殺したのは私達です」
「殺さなければならないほどの理由があったのですか」
 先生のからだを投げ打ってまでも、あの男は殺されなければならなかったのですか。僕はなんだか、すべてが遠にわかっていたような錯角に陥って、先生の告白にそれほどの驚きを感じることができなかった。いつの間にか、僕も諦めていたのか。
「男はお母さん達を脅迫してたの。お父さんには別に家庭があったし、高校の校長としての社会的立場もあった。男はそこに目をつけたのね。でも、そのきっかけは私達のことだった……それに気づいた私達は、男を殺すことしか考えられなくなった。いなせなかったんだわ」
 嘉夫が小父さんの高校に通っていたのかどうかはわからない。けれど、先生はどこかで小父さんと交錯するところがあったのだろう。事は、嘉夫と先生が出逢ったときからはじまっていたのだ。けれど、これが事実のすべてだろうか。僕には先生の説明がどうしてか綺麗過ぎると感じてならない。なぜか黙したままでいる嘉夫。先生も知らない本当の事がある、と僕の直感は僕の脳裡に囁く。
 窓の闇は粉雪の幕で真白に覆われていた。この雪はきっと降りつづけるだろう。休みが明けたなら、早朝、僕は市場に行く前、店の前に雪達磨をつくるだろう。二メートルも三メートルもある巨大な雪達磨だ。それはひょっとしたら僕のバビロンの塔かもしれない。そして、いずれ崩れ落ちる。それでもいいと思う。それが僕の性格なのだから。
 僕達は鍋を終えると四畳半の翔子の寝室に移動した。華奢なベッドが置いてあって狭かったが、そこの部屋のほうが暖房が効いて暖かかったからだ。すでに夜中の三時を過ぎていて、冷えこみが厳しくなっていた。ガスストーブが温風の音を小さく立てている。
 嘉夫と先生がベッドを背に、僕と翔子は部屋の壁に凭れ、二人ずつ毛布にすっぽりくるまって床の絨毯に座りこんでいた。僕は少しばかり照れ臭かった。嘉夫がからかうような目で僕をさっきから見ていたからだ。酒が入ったせいか、翔子がキス好きに戻ったようで、僕の肩に頭を凭れたり、時々、僕のもみあげを細長い指でいじくり廻す。満更な気分ではなかったので、嘉夫に見透かされていたのだろう。
「嘉夫さん。どうしても聞いておきたいことがある」
 照れ臭さを押しやるように僕はいった。それは、どうしても触れなければならない〈林檎箱〉のことだった。僕のなかではわかっているつもりだが、嘉夫の口から聞きたかった。
 先生の話は大筋でその通りなのだろう。ではなぜ、小母さんや小父さんをあんなにも長く警察に留めておくようなことをしたのか。自分達の犯行であるならばなんらかの方法で、例えば警察に自分達の犯行であることを仄めかすような手立てが打てたのではないか。多分それは小父さんの釈放のときにやっと為されたのだと思う。小母さんのときに先生が付き添っていたことは、つまり、嘉夫達は計算のなかで動いていたということなのだから。
「僕の考えは間違っているかもしれない……」
 独り言のように僕はいった。いつか嘉夫の目からふざけた調子が消えていた。相変わらず口に煙草をくわえていたが、僕を正視する目は笑ってはいなかった。
「嘉夫さんにとって、カメラマンのことは先生がいうほど大したことじゃなかったはずだ。脅されたのなら脅し返すのが嘉夫さんのやり方だから。それなのに、嘉夫さんはカメラマンを殺してしまった。どうしてなの? 殺す必要なんてあったんだろうか?」
 翔子が僕の横顔をじっと見つめている。先生もまた、嘉夫の黙想するかのように目を瞑った横顔を凝視している。毛布のなかで先生は嘉夫の腕を強く握ったように見えた。つらくて長い沈黙がつづいた。
 ひどいことを聞いてしまったと僕は後悔した。こんなことを聞いても、結局なんにもならず、傷を深めるばかりで、僕の身勝手な自己満足を満たすだけのことなのだ。嘉夫の林檎箱は僕の林檎箱とは根本的に違っている。僕の箱はふくよかな林檎の実で満たされているが、嘉夫の林檎箱はどこまでも空っぽなのだ。いや、林檎箱そのものが嘉夫にはなかったのだ。
「俺が殺したかったのは、親父だったのかもしれない」
 先生は嘉夫の肩に顔を当てて声もなく泣いた。
「復讐などという高尚なものではない。俺は親父とおふくろにいやがらせをしたんだ。幼稚な子供みたいに、ただこまらせたかっただけなのだ。深い意味などなにもない……」
 ぎりぎりと歯軋りの音が聞こえてくるようだった。
 古き王は林檎箱という遺品を残していつか消えていく。それを、残された者が引き継いで新たな実と入れ替える。甘くて温かいふくよかな実。そして、ぴかぴかに磨かれた卓袱台がある家庭という箱。それは嘉夫にとって、残してはもらえぬ箱だった。僕は固くてごつごつと痛い悪寒を全身に感じた。いつまでも爬虫類のような冷えたからだでいたならば、僕もやっぱり嘉夫と同じになるのだろうか。
 そんなことはない。僕は思った。箱がないのならば、残してもらえないのならば、自分でつくればいい。卓袱台を探してくればいい。嘉夫には先生という美しい妃がいたのだから。嘉夫は若き王になれたはずなのだ――はたして、そうだろうか。そこまで考えて、僕は愕然とした。これこそ第三者の干渉ではないか。物事に理由や意味を求めるだけでなく、強引な綻びだらけの筋書きをでっち上げようとする、そうしなければ納得がいかないおぞましい感覚こそ、まさに下卑た干渉そのものではないのかと。
 嘉夫には意識した理由も、まして意味のある筋書きなどもなかったのだ。御しきれない性格だけがあって、それは自分自身でも嫌悪を感じるほどの傷みで闇雲に突き進んで行く、変えようのないものだった。自分自身の存在の根を、それをも意識することなく、無意識の裡に求めていたに過ぎないのだ。押さえこむことのできない性格。どこまでも走りつづけ、立ち止まることができない性格。先生という伴走者を伴い、嘉夫は、そして頑な二人は、確かな突き当たりへと向って真直ぐに、真直ぐに走ってしまったのではないだろうか。だから、先生は共犯者であり、先生自身も嘉夫と同じ主犯なのだ。僕は、怖いと感じた。人間にとって、こんなつらいことがあるだろうか。理由があればまだ救われる。けれど、持ち合わせた性格が自分の行為を制御できなくなったなら――僕の思考はそこで止まった。もう考える気力がなかった。
 嘉夫の腕に顔を埋めていた先生は、泣き顔で嘉夫の横顔を静かに見つめていった。
「あのとき、お父さんになっていれば……」
 先生が、ぽつりといった。
 僕はそのとき、嘉夫の頬に長く伝わる涙を見た。それは先生が堕胎した子への涙だったのか。または、小母さんや小父さんへの涙だったのか。あるいは、すべての悔恨であったのか。僕にはもうなにもわからなくなっていた。
翔子が毛布のなかで僕の手を探している。握ってあげたら強く握り返された。その手が微かに震えている。
「雪は積もっただろうか」
 先生の額に落ちた黒髪を掬い上げながら嘉夫がいった。先生の泣き顔を見つめる嘉夫の目はいつもの皮肉な笑顔に戻っていた。それは、僕がずっとずっと憧れていた嘉夫の笑顔だった。ずるくて、悪くて、マニエリスムのことなんか少しも知らない、人を喰った、不良の嘉夫だった。見つめ返す先生の微笑を見て、先生もそんな嘉夫を好きになったのだと思えた。僕が女でなくてよかったと思う。女だったら、きっと僕は先生を憎んでいただろう。けれど僕は先生が好きだ。嘉夫と同じくらいに好きだ。そしてそれ以上に、僕は翔子を好きになっていたのではないか。
「遊ぶ?」背筋をいきなり立てた翔子が、僕を見つめておどけるようにいった。
「うん!」

 白い闇は柔らかな曲線を描いていた。普段は鼠色の町が、綿飴のような白くふっくらとした隆起に覆われていた。
 マンションの前で翔子と僕は舞い落ちる雪を首筋が痛くなるまで見上げた。降り積もった雪は二人の数歩の窪みがあるだけで犬の足跡さえない。僕達はどちらともなく手を繋ぎあい、やたらめったら雪の上を無言で歩き廻った。ぎゅっぎゅっと音を立てて雪が毀れていく。翔子は歯を喰いしばりながら力いっぱい雪を踏みしめた。上気した額に汗を滲ませている。
 爽快だった。それで僕は調子に乗った。踏ん張る翔子に負けじと暴挙に出た。いきなりかじかんだ手でちんぽこを摘み出すと小便を辺りかまわず撒き散らしたのだ。白い雪が湯気を立ててお茶色の筋を引いていく。それを見た翔子が逃げ廻りながら声もあげずに大笑いしていた。調子づいて翔子を追い廻していたら、目の前に嘉夫と先生が寄り添って立っていた。
「餓鬼なんだよな……」
 顔に煙草の煙を吹きつけられた。僕は慌ててちんぽこを収納すると、わざとらしく再び翔子を追いかけた。翔子はきたないきたないと僕に雪を投げつけながら逃げ廻ったが、僕は思いきり翔子に飛びつき抱き押さえるようにして雪の上に倒れこんだ。白くて熱い翔子の息を直に感じた。おどけていた翔子の目が一瞬せつなくなくなったように見えた。雪が融けたのか、先生ほどではなかったが、少し碧い瞳が濡れていた。思わず僕は翔子に唇を重ねていた。
「修一、雪だるまつくるか」 
 嘉夫の声がした。僕は雪まみれになった翔子の手を引いて起こしてあげた。そういえば翔子は風邪気味だった。赤くなった翔子の鼻の頭を見て思い出した。
「風邪、大丈夫?」
「なんでもない」
 目の前にいる翔子はいつも酔ってキスをする大人びた翔子とは違っていた。僕は歳上で水商売の翔子に馴れ馴れしく近寄り難いものを感じていた。けれど、雪まみれで白い頬を赤く染めている翔子は、まるで幼い少女のようだ。ずっと、ずっと昔から、僕達はこうやって二人で遊んでいたのではないか。翔子は弱虫の僕をいつも庇って餓鬼大将どもを追い払っていたのではないか。好きになるということは、庇いあうことではないかと、僕は素直に思えた。
「嘉夫さん。先生。つくろう。僕、店の前にでっかい雪だるまつくる」
「わたしも手伝う」
 翔子は嬉々としてすでに雪を丸めはじめていた。
 おにぎりくらいの小さな塊だった翔子の雪が、転がすたびにに大きくなって、二人は屈んでいた姿勢を徐々に起こし、いまではほとんど中腰になってひとつの雪達磨を転がしていた。雪達磨は地面の雪を付着するごとに重くなり、後方に雪をえぐられた道が長く延びていた。
「先生。遅いよ。嘉夫さんもっと頑張りなよ」
 僕はだいぶ後ろのほうでのんびりと雪を転がしている二人に叫んだ。すると、降りしきる雪のなかに、いいんだ、これで、これでいいんだ――そんな嘉夫のおっとりした声を遠くに聞いたような気がした。そして、嘉夫の隣で優しく微笑んでいる先生の顔も見えたように感じた。けれども、降る雪はますます激しくなって、二人の姿はすでに見えなくなっていた。
「大通りよ」
 翔子が隣で息を弾ませていた。雪達磨はすでに僕達の胸くらいの大きさになっていた。大通りを渡りきって店の前に辿り着くころには、完全に僕達の背丈を超えてしまうだろう。一番の難関は眼前の大通りだった。深夜の大雪だというのに、時々車が危なっかしく走っていたからだ。
「行くよ」僕は気合いを入れた。
「うん」元気な声が返ってきた。
 通りの真中でけたたましいクラクションが鳴った。
「うるさいわね。見ればわかるでしょお。ちっとは我慢しなさいよ」
 仁王立ちの翔子が車に向って怒鳴った。ヘッドライトにまともに照らされた顔が真赤だ。そうだそうだと翔子に加担したが、内心はびびった。案の定、車から若い男達が三人飛び降りてきた。ひゃあ、まずい。と思ったら、三人はげらげら笑いながら僕達の雪達磨を一斉に押しはじめた。雪達磨はあっという間に大通りを渡りきって店の横に辿り着いてしまった。頑張れよ、そういい残して男達は再び車をスリップさせながら走り去っていった。
「ああ、怖かった」
 雪の上に座りこんでしまった僕達は顔を見合って同じことを呟いた。見上げたら、そこに巨大な雪の塊が聳えていた。
 それから僕達は頭をつくって巨大な胴体の上に力をあわせて載せた。翔子が雪のなかから毀れた傘の柄を探してきたので鼻にした。熟れ過ぎて捨ててしまった林檎を二つ、店の脇のゴミ箱から拾い出して目にした。口は都合のよいのが見つからなかったのでなしにした。それでもしの字の鼻がついていたので顔になった。
 長い睫に雪が被っていたが、雪達磨を見つめる翔子の目は慈しみに溢れていた。まるで膝にかき抱いた赤子を優しく見つめるような、穏やかで優しい表情だった。そんな翔子を僕はずいぶんと永い時間見つめていたような気がする。雪はいつまでも降りつづけていた。
 突然、嘉夫達を思い出した。と同時に汗が退いたからだが冷えきっているのに気づいた。翔子の風邪は完全に治ってはいない。帰らなければ。僕は翔子の手をとってマンションへと向った。嘉夫達はまだ雪達磨をつくっているのだろうか。それとも、あまりの寒さでマンションに引き返してしまったのだろうか。僕達は抱き合うようにして、滑る足下を気にしながら自分達がつくった雪道を急いだ。雪道は新たな雪に覆われ、その溝を浅くしていた。あと一時間もすれば跡形もなく均されてしまうだろう。
 もうすぐマンションというところで、僕達は足を止めた。浅くなった雪道から小さな丸い塊がのぞいていたからだ。それは小さな小さなのっぺらぼうの雪達磨だった。
「かわいい」うれしそうに翔子がいった。
 胸騒ぎが僕を襲った。翔子を促し、雪が舞いこんでいる階段を必死になって駆け上った。
 部屋には誰もいなかった。
 嘉夫と先生は、また僕の前から消えていた。二人のやり方はいつもこうだ。いつでも僕を不安に陥れて姿を晦ます。そのたびに、僕は迷子になる。頑是無い子供となって寂しさという町を当てもなくさまよい、僕は自分の住所さえ思い出すことができない。悔しかった。第三者であることが、苦痛だった。
 呆然と立ち尽くす僕を、翔子が背後から抱きしめた。背に寄せた胸が柔らかかった。

「あんた、よく食べるわねえ」
 向い合せの座席に腰掛けている母が、半ば呆れ顔で笑っていた。東京駅から約二時間弱、僕達は岐阜羽島に向う新幹線ひかりのなかだった。車窓に春爛漫の暖かい午後の風景が流れていく。
「お腹すいてしょうがないんだよ」
 僕は東京駅で慌ただしく買いこんだ二つめの駅弁を食べていた。
「アルバイト代から引いておくからいいけども」
「それはないでしょ。経費で落とせるじゃない」
「この取材は個人のだから出版社からは一銭も出てないのよ。自腹、自腹よ」
「出版のメドは立ってるんでしょ。印税が入るじゃない」
「まあそうだけど。でもねえ、最近は初版部数が少ないから経費の元はとれないの」
 何だか出だしからしょっぱい母と僕の取材旅行だった。
僕は三月に入って間もなく店を辞めていた。別れの前夜、店主がなにもしてやれなかったからと、おかみさんには内緒だよといって餞別をくれた。別れの朝には、ちょいとと台所の隅に呼ぶおかみさんが、うちの人には黙ってるんだよといって小遣いをくれた。弟はなにもくれなかった。僕の肩をぽんと一度叩いただけだった。でも、僕はうれしかった。弟はへぼ胡瓜を仕入れて売れ残しを出してしまうような人だったけれど、僕はこの人から自然体というものを学んだような気がするのだ。壮大ではなかったが、この人なりの夢をちゃんと持っていたし、なによりも日々の繰り返しを飄々と生きる術を心得ていた。一見、軽薄にもとれるが、どこかに包容力を感じることができた。肩を叩かれた感触に僕は弟の無言のエールを受け止めることができたのだったから。
 別れは呆気無かった。タクシーのトランクに少ない荷物を詰め、走り出したらお終いになった。きっと顔を見せるんだよ。走り去る車に投げかけてくれたおかみさんの言葉がいつまでも耳に残ったのだけれども。
「父さん、独りでちゃんと食事できるだろうか」
「二週間ぐらいすぐに過ぎちゃうわ。あの人のことだから近所の呑み屋でなんとかするでしょ」
「母さん、けっこう冷たいね」
「そお?」それきり、母は黙ってしまった。
 出発の寸前まで調べものをしていたせいか、車窓に向けた母の顔は疲れていた。目の下に薄い隈が浮いている。不規則な生活が祟っているのだ。なにもしようのない列車のなかで、睡魔に襲われたのか、母の目に車窓の風景は映っていない。こんな調子で大丈夫なのかと、母のからだが少し心配になった。
 母は相変わらずのヘビースモーカーだったし、僕の知る限り酒量も多かった。いつもは神経質なくらい綺麗好きなのが、仕事に没頭してしまうと、パソコンを置いた机の上は滅茶苦茶になった。資料が山積みになるだけならいいが、ひっきりなしに指に挟んでいる煙草の灰で机のあちこちが白くなった。大量のフロッピーディスクがケースにも入れられず散乱した。それはいつもと変わらない母の仕事振りなのだが、つい最近、一心にキーボードを叩く母の後ろ姿が妙に寂しく見えたことがあった。母は取材前に済まさなければならない仕事で連夜仕事場に籠っていたのだ。きっと孤独な創作に疲れきっていたのだろう。お茶を持っていくと、うれしそうに目を細めてお茶を啜ったが、片手には煙草があったし、その手で叩くキーボードの音は止むことがなかった。
 取材の目的は岐阜市長森蔵前にある手力雄神社の奇祭〈手力の火祭〉だった。神社の神事で、祭は毎年四月の第二土曜日に、境内で行なわれる。岐阜県重要無形民俗文化財三百年の歴史といわれ、御幣行灯、滝花火、立木棚の花火が咲き乱れ、火の粉が激しく舞い踊る豪壮な火祭だ。辺り一面に火薬が匂い、飛び散る火花のなかを花火神輿を担いだ裸身の男達が荒々しく練り歩く光と音の祭だった。祭の最中にはあちこちで、太い長持ちの中央に吊るされた黄金色の小鐘が、両端を担いださらし姿の男二人によって、狂ったように廻転しながら小槌で打ち鳴らされる。それが祭の華、長持神輿だった。これを母はテレビで見たのだという。その長持神輿をどうしても自分の小説のなかに書きたくなったらしい。この火祭が、エッセイストから小説家への脱皮のために、母の小説にどんな影響を与えるのか、自腹をきっている以上、頑張ってほしいと僕は願うのだった。
祭まで一週間、祭から一週間。祭を挟んだ都合二週間の取材旅行。うたた寝の母と食べ盛りの僕を乗せた列車が、瞬く間に熱海の駅を通り過ぎていった。

 僕達は手力雄神社のある町内の旅館に宿をとっていた。到着したときにはすでに日も暮れていた。母は仲居さんに促されるまま湯に浸かった。その間、僕はカメラやフィルムの点検を済せ、旅館でもらった神社周辺の案内地図を見入っていた。母からはまだ詳しい取材内容を聞いていなかったが、漠然とではあるが、僕なりに火祭を捉えてみたいと思っていた。将来カメラマンになろうとは考えていなかったが、こんな機会はそうあるものではないし、まして母の小説のためなら後々役に立つものであってほしい。それに、僕が捉えた視点が少しでも母の描く物語のなかに取り上げてもらえたら、それは楽しいことなのだと思えたのだ。
「あんた、お風呂は?」
 部屋に戻った浴衣姿の母が髪を手拭いで拭いながらいった。
「それよりも早く食べようよ」
 部屋にはすでに夕食の膳が支度されていた。先ほどから母の湯上がりのタイミングを見計らって仲居さんが準備をしていたのだ。後は鍋の火を点けるだけになっていた。
「まったく、よく食べるわねえ。仕事に来たんだか食べに来たんだかわかんないわ」
「両方に決まってるじゃない」
 母の皮肉は毎度のことだから気にしない。父さん流にいなしてみる。
「乾杯」僕はさっさと先に進める。
「まっ、よろしくね」母は旨そうにビールを空けた。
 ちょろいもんだと、近ごろの母に思う。きっと僕はすれっからしになったのだ。やや嘉夫に近づいたとにやけていたら、
「なにが可笑しいのよ」と母が口をとがらせた。
 別に、と答えて僕もビールを空けた。鍋が旨そうな音で煮立っていた。
「どんなところを撮ればいい?」鍋をつつきながら僕は訊いてみた。
「人にきまってんじゃない。風景なんかいらないわよ。そんなもんは頭に入れる。顔を撮って。できるだけたくさんよ」
「どうして人の顔なの?」
「知らん。わたしにもわからない。だから撮ってほしいの」
 禅問答みたいで戸惑った。けれどそれが母の小説に活きるなら、僕は祭に出逢わせた人々の顔を撮らなければならない。神社周辺の地図を見てそれなりのプランを立てていた僕の出鼻は、いとも簡単に挫かれてしまった。とともに、母の注文はやはりプロなのだと、改めて母の仕事を見直した。なぜなら、どう考えても人の顔は難しいのだ。写真に僕自身の程度が如実に現れてしまうからだ。肖像画と同じで、描き手の内容が鏡のように反映してしまうのだ。なんだか酔えないなと、僕はさらにビールのグラスを干した。
「母さんね、父さんと別れる。父さん可哀想だから」
 思わず、僕は手にしたグラスを落としそうになった。母がなにをいっているのか理解できない。母は酔ってしまったのか。
「この取材が終えたら、母さんイタリアに行くつもり。本当に書きたいものがあそこにあるような気がするの。自分でもはっきり理解できないのだけど、ルネサンスの絵を見ていると、理屈ではないなにか底のわからない魅力を感じてしまうの。行くしかない」
 僕の血は母からのものだったと、つくづく感じた。父は知っていたのだ。母系家族発言は伊達ではなかった。そのわりには、猫可愛がりしてくれない父さんではあったが。
「でも、別れることなんてないじゃない。父さんはいつだって母さんの好きにさせてるじゃない」
「あんたがもっと歳をとって大人になればわかる。そうもいかないのよ」
「父さんはそのこと知ってるの?」
「ここに来る前に話しをした。納得はしてくれたけど……」
 物事はいつだって僕の知らないところで進んでいる。父さんはきっと何も食べてはいない。ひたすら酒だけを呑んでいるに違いない。得意のおとぼけをいう相手もなく、近所の呑み屋のカウンターで独りやっているのだろう。
「母さん、わがままだね……」
「そうね……」
 その夜、僕達は旅館の近くにスナックを見つけ、ギターの伴奏で散々歌った。全曲、演歌だった。母のキスの荒らしがあった。僕のことなど無視した父と母が、僕はうれしいと思った。僕はもう二人の手枷足枷ではないのだと、感じることができたのだ。
 翌日から僕達は取材を開始した。母は町内の氏子や祭の主催である火祭奉賛会の人達に朝早くから逢いにでかけ、僕はまず神社の境内を念入りに調べ、母の注文である人の顔を撮影できるポイントをチェックした。それから一応、近辺の施設や街並も押さえて歩いた。母はああいうが、後で文句をいわれるのは僕だ。撮れるものは撮っておいてそれにこしたことはない。ただし、フィルムと現像代が気になることではあったが。
 そうやって、一週間はあっという間に過ぎていった。
 町はいよいよの祭に忙しなくざわめきはじめた。
 そして、炎の奇宴は目の前にあった。
 
 午後七時、氏子九町内の飾り神輿が境内に入場すると、御神灯に灯が点された。二十メートルの高さから降り注ぐ滝花火の火花と激しい爆竹の音。火薬の臭いが鼻をつく。つづいて、さらし姿の男達が担ぐ神輿が境内に勢いよく雪崩れこむ。舞い散る火の粉が神輿の花火に引火して炎を吹き出す。一斉にあがる観光客の歓声。
 僕は夢中でシャッターを切った。フィルム交換ももどかしく、まるでプロのカメラマンみたいに、火達磨の神輿や裸の荒ぶる男達に接近して写真を撮った。
 七百人近くの男達が手筒花火を手に境内を駆け廻る。火の粉が眼前で燃え散る。仕掛け花火立火棚の山焼き花火が乱れ舞う。
 境内は激しい炎の渦に呑まれていた。
 僕はシャッターを切りつづけた。フレームのなかに母もいた。お目当ての長持神輿の若者達に見入る母の頬は紅潮していた。だから必要以上に僕は母を撮った。母の顔を撮った。母のなかに、僕は母の書こうとする小説のテーマを見い出したような気がしたからだ。それは言葉にできない、説明のつかない、つまり、血だけが感じることであったと思う。父さん、ごめんね。僕はシャッターを押す快感のなかでいいつづけた。

 カメラを持つ手が震えた。
 振ったフレームのなかに、嘉夫がいた。
 僕の大好きな嘉夫が、さらし姿で、颯爽と長持神輿の片端を担いでいた。長い髪を宙に振り、嬉々として、黄金色の鐘に小槌を打っていた。ぐるぐるぐるぐる廻転して。ひときわ人目を引く汗た裸身に火の粉を浴びて。
 その片端で、小父さんが廻っていた。
 震える指がシャッターを切る。
 嘉夫。小父さん。母。火。神輿。顔。顔。顔――そして僕のマリア達――小母さんと、先生と、そして翔子が、寄り添いあって炎のなかで揺れていた。
 真紅の炎がフレームのなかで滾る。
 僕は凝視する。この炎は、振り向き、どうしても見ておかなければならない、僕の爆発なのだと。
 父さん、待っててね。僕がつまみつくってあげるよ。いっしょに呑もうね。

 私は今、ポール・バレリーの『レオナルド・ダ・ダヴィンチの方法』(山田久郎訳)を読んでいる。まだ途中で、まして、難解な文体は到底太刀打ちできるものではなく、たまたま私の知的見栄を満たしているに過ぎなくて、そして、アリストテレスの「人は知ることを欲する」に倣っているだけのことであったのだけれど、私は私の記録として、その一文を以下に留めておこうと思う。

 ――人間とはひとりひとりが《自然の戯れ》、愛と偶然の戯れであってみれば、このどこまでも即興の産物のいかに素晴らしい意図といえども、いかに高遠な思想といえども、そこにはそういう素性の臭気があるのは争われない。その為すところは常に相対的、その傑作というも僥倖なのである。その考えるは空蝉の身、その考えは一個人、その考えるは物のはずみ、わけしれずふとした折に、これは誰にもいわないけれど、頭に浮かんだ思いつきのこれというのを拾いあげるのである――。

 レジの上で唐草模様の風呂敷包みを解いた。今日、古書街のマーケットで仕入れた数冊の画集。それを一冊ずつ丁寧に棚に差しこむ。それからゆっくりとレジの丸椅子に腰掛け、時々棚に目をやっては差しこんだ画集を見遣る。背表紙の文字が鈍い金色で浮いている。Manierismus。
 外に目をやると、街燈に照らされた細い道を勤め帰りの人々が通り過ぎていく。初夏の微風が平積みの表紙を幾度も捲る夕べ。紙とインキの香りが微かに匂う微睡みの小さな書店。レジの片隅に置かれた桃山の平缶はもう何年使っているだろう。レジの丸椅子で昔したように、今日も私は奇妙な夢を見る。偶然という空蝉の夢。いずれ消え行く儚い匂の記憶。かたかたと廻転する毀れかけた幻燈機の灯し火。何処ともなく通り過ぎていく人の背。ゆっくりと、ゆっくりと。
「これください」
「ポーの詩集ですね」
 私は文庫本にカバーを巻きながらいう。
「ポーはね、江戸川乱歩が大好きだったアメリカの作家なんですよ……はい、どうぞ……」
 目の前に、瑠璃がいた。朗らかに、はちきれそうな笑顔で、あのときのそのままに。花の女神フローラのような明るくて楽し気な瑠璃がいた。毒薬のことなど知らなくてもよかったはずの、詩が大好きだった可愛い子……。

「そろそろ食事にしませんか」
 背後で妻の声がした。
 振り返ると、円い卓袱台の上に、二枚の皿に盛られたハヤシライスがあった。懐かしい匂が、店いっぱいに広がっていった。








作者あとがき
 どれだけ長いものが自分に書けるのか。ただそれだけのことで書き始めた。今のわたしにはここまでが能力なのだろう。出来不出来は読者の判断に委ねたい。けれど、この拙い作品がわたしの初めての長篇作品であることに間違いはない。ただそれだけの意味で、これはわたしの記念碑的作品となったのだ。
 インターネット小説は楽しい。とくに連載はたのしい。掲載ごとに反応をいただけるからだ。それは叱咤にも激励にもなって、ときにめげるわたしの創作意欲を回復させてくれる。もしも、このエールがなかったならば、たった一人でもいい、読み続けてくれる読者というものが存在しなかったならば、この作品は完成しなかっただろう。まさに、わたしは未だアマチュアなのだから。
 そのたったお一人、一年以上にわたり、根気よく、気長に、我が作品を読み続けてくれた最良の読者に、心より感謝し、この作品を謹んで捧げます。
 邯鄲虫夫人、有難うございました。

平成13年12月12日 マニエリストQ



参考資料
高山宏之著「ビートルズの詩の世界」実業之日本社刊
リン・ピクネット&クライブ・プリンス著(林和彦訳)「マグダラとヨハネのミステリー」三交社刊
種村季弘著「壷中天奇聞 種村季弘作家論」青土社刊
グスタフ・ルネ・ホッケ著(種村季弘訳)「文学におけるマニエリスム I・II」現代思潮社刊
ポール・ヴァレリー著(山田九朗訳)「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法」岩波書店刊

400字詰原稿用紙換算495枚