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茅蜩の骸が土のなかに紛れていくころ、私は、洞穴のようなアパートの一室で、ほどけて溶けていた。すでに九月も終わるというのに、しつこい夏の残り滓が身体中にまとわりつき、いつまでたっても季節の境を見つけることができないでいた。 たまには煙草が切れて外へと出てみるが、道すがら、裏返って落ちている蜩の腹を、ビニールサンダルの堅い爪でつついてみるくらいで、惚けきった気分は少しも変わらない。むしろ、蜩のそんな姿を見てしまうと、まさか自分と比較するほどうぶではないが、みんみんみんみんと啼きまくって、さっさとくたばってしまう蜩のほうが、自分なんかよりよっぽど未練がなくて潔いと思えてくる。 梯子がほしい。たいした梯子じゃなくていい。二階の小さな窓に届き、それでいて部屋に納めることのできる、ほんの小さな梯子でいい。せめて、私とあいつが、ともに昇れてさえいればと。
1 まとわる蟲
バスは産院前で停る。そして、もときた道を辿り、JRの駅へと帰っていく。 産院の斜め向かいにある人気のない洋館を左手に、急な坂を下ると、すぐ右に小さな路地が現われる。路地の突き当たって左側に、木造の一軒家はあった。突き当たりには五段ほどの階段があって、上がれば車が行き交う大通りに出れる。そのせいか、家はまるで薮に覆われているかのように薄暗く、いっそう古めかしさを漂わせていた。ところが、門から玄関までの細い敷地の脇に、少々の雑草が生えているのと、塀の内側の小さな庭を覆いつくす杏の木が一本あるだけで、薮などはなかった。とうていそれらしくは見えなかったが、その家が先生の住居を兼ねたデザイン事務所であった。勤めはじめてすでに二年の歳月が流れていた。 就職試験などという改まったことを、なぜしなければならぬ。絵だけ描いていればイラストレーターで食っていけるだろうに。そう私は高を括っていた。二年前の、美大生最後の年の瀬のことだった。 ところが仲間の一人が、私のアパートに居候していた奴なのだが、ある日の朝、ネクタイを首に巻きつけて出かけようとしている。おまえ、恰好つけてどこに行くんだ、と布団の中から寝ぼけた眼をこすりながら訊いてみると、男は面接に行くのだと言う。芸術家がいったい誰と顔を食っつけあうんだ、阿呆臭い。私はニコチンの溜った口中を苦々しく感じながら、再び布団に潜りこんで寝てしまった。 街にはジングルベルがひっきりなしに流れていたが、まだクリスマスには二週間も前のことであった。 そうこうするうちに、居候が就職が決まったと言って女を連れてやってきた。頭髪を黄色に染めた両耳にピアスだらけの女は、その風体に似合わず、掌分くらいの大きさのケーキを丁寧に三等分して、私にも分けてくれる。そんな女の姿を、炬燵の中に半分身を潜ませ、くわえ煙草でにやけながら見ている居候が、私には随分と大人っぽく見えて、就職が決まるとこういうこともあるのかと、何だかそのピアス女までがいい女に見えてきた。 考えを少しばかり軌道修正したのは、今夜は女のところに泊まるよと二人が縺れあうように私のアパートを出ていった、そのクリスマスイブの夜だったような気がする。それからちょっとした就職活動の後に、渋谷にあるこのデザイン事務所にやってきた。満開の桜の花びらが風に舞う温い季節のことだった。それからすでに二年が過ぎていた。
窓の外は夜の闇だった。 頭髪の弧が数本、スタンドの明りに照らされ、白い版下用紙の上に細い影を落していた。じっと見つめていると、エッシャーの騙絵のように、弧影は小さな蜥蜴となって、白い紙の上に這い出てくる。昼間、先生の奥さんが、音もなく廊下をすり抜けていった。蜥蝪を見ていたら、そのことを思い出した。滅多に作業場に顔を見せない奥さんは、いつも地味な和服姿であった。 暫くしたら蜥蝪に飽きたので顔をあげると、焦点の定まらない眼に、壁にぶら下がっている三角定規や、雲形定規や、羽箒やらの、デザイン用具の曖昧な輪郭が映った。先生の掌に包まれたマドロスパイプの甘い香りを嗅いだのは、夕方のことだった。 「明日の朝一番で納品してくれますか」 夕方の五時を過ぎたころ、先生は私にそう言い残してどこかへ出かけていった。そんなとき、先生の帰宅はいつも翌日の昼ごろになる。そしてそのまま赤ら顔でそそくさと寝てしまう。迎えに出た奥さんの言葉もいつも同じだった。 「会議はうまくいきましたか」 明日もきっと同じだろう。 壁に掛った時計を見ると、すでに十二時を過ぎていた。 カーテンを開け放したままだったので、矩形の窓硝子に部屋の内部がぼんやりと映り、眼を窪ませた私の顔が闇のなかに浮いている。大通りを走る車のエンジン音が、クーラーのモーター音に紛れて、微かな響きで部屋に伝わってきた。もう随分と無為な時間が過ぎていた。机の上の版下用紙はいつになっても白いままで、ぼんやりと見つめている窓硝子の裏側に、杏の木の黒い影が、まるで切絵のように張りついていた。 いつだったか、二階の仕事場の窓から見える庭の杏の木に毛虫がたかり、先生に言われて駆除したことがあった。いつごろの季節のことだったか今は定かでないが、眼の前の夥しい毛虫に、竹帚を持ったまま茫然と立ちつくしていたことを覚えている。 ほとんどの葉に毛虫が取り憑いて蝕んでいた。暫くすると、無数の毛虫が枝や幹を伝わって、私の頭の高さ辺りに下りてくることに気がついた。毛虫はじわじわと進んでいる。ほんのわずかだが速度をあげたような気もする。数を増やしながら毛虫が毛虫の上を這い、杏の木は〈毛虫の木〉になっていた。ついには、大きな球体の塊となった毛虫は、木の幹の一箇所に、しがみつくように取り憑いていた。私は思わずそいつを竹箒で叩きつけた。すると、球体は音もなく地面に落ちて歪にひしゃげた。潰れた毛虫は夥しい緑色の体液を地面に吐き出していた。 雨の日は、杏の熟した実が小さな庭に落ちた。ぼたっぼたっと鈍い音をたてて落ちた。それは幾日にもわたり、不規則な合間でつづいた。先生が学生時代に彫ったという女の彫像の台座にも落ちた。誰もひろおうとしないので、落ちた実は庭を埋め、濡れた土に腐り、風や陽に晒されて、いつの間にか溶けてなくなっていた。いつの季節のことだったろう。 喉が渇いたので床板を軋ませて流し場に出た。勢いよく出た蛇口の水が、喉の奥にぶつかり口から溢れた。水は頬を伝わって耳の穴に流れていく。ついでに、蛇口の下に頭を突っ込んで温い水を浴びる。眼に水が滲みた。涙が出て、鼻水が口の中まで流れていく。 流しの片隅に張りついているゴキブリに、溶けはじめた石鹸を圧しつけた。死にかけたいたのかゴキブリは簡単に石鹸のなかにめり込み、肚の部分を少し見せて、焦げ茶色の肢をもがいている。 水滴が頭から頸筋を伝わって背中や胸に流れていった。耳鳴りがした。機械音が耳の中で地鳴りのように響き、米噛がひどく痛んだ。そして、いつもそうなのだが、夏になると必ず思い出す八年前のことが、耳鳴りの遠くに蘇える。
あの化学工場はいったい何を製造していたのだろう。工業高校を卒業したあと、朝霞にできたばかりの小さな印刷会社に就職したが、ひと月も勤まらず辞めた。それから暫くして、タクシーの運転手をやっていた近所の男の口利きで就職したのが、あの化学工場だった。その程度だったから、記憶もいい加減だ。 いくつもの大きな撹拌機が、窯のなかの希薄な空気を、ぐるぐるとかきまぜていた。巨大なモーターが回転する大袈裟な轟音が、ますます工場の内部を薄暗くしているように感じた。撹拌機の前に置かれた鋳物製のベンチが、私と相棒の定位置だった。ベンチは滑稽なくらい、そこには不似合いな、ロココ調の白いベンチだった。頬にごま塩の無精髭を生やした歳寄りの吐き出す煙草の煙が、ベンチの周囲にまとわりついて、白く澱んでいた。大きな機械の音の中では、まともな会話ができなかったから、二人はほとんど無口だった。 私は、ベンチに腰を掛け、眼の前の作業机に置かれた眼覚時計を、ひたすら見つめている。眼覚時計の細く小さな針の音は、機械の爆発音のなかでもしっかりと聴きとれた。暫くすると、闇の奥から、ごとごとと重い音が聞こえてくる。背丈ほどの高さと、広さが二畳分ほどある大きな木箱が、レールを伝わってやってくるのが見えた。 箱は、白い粉体をなみなみと詰めこみ、正確に私の眼の前で止まった。私はその白い粉体をスコップでせっせと給水口に掻き出す。箱の中から粉がすっかり消え去るころ、私の身体は汗と白い粉に紛れていた。眼覚時計の針の位置を記録する。つづいて、ベンチの後ろにある撹拌機によじ登り、窯のなかの様子を窺う。ペースト状になった粉が、窯の内部で螺旋状にうねり、窯の底から少しずつ落ちて、別の行程へと流れていた。 夜空の暗青色が数度、微妙な変化を繰り返すと、朝だ。化学工場の夜勤明け。怠い身体をもてあましながら、二日前に溺死体のあがったどぶ河の腐った臭いを呼吸しながら帰る。吐いた白い唾液の塊が、ゆっくりと弧を描いて、瓦斯を含んだ河面に落ちていく。河面に辿りついた唾液は、瓦斯の小さな丸い泡の破裂のなかに呑みこまれ、消えた。 その日、眠りから覚めたのは午後の一時ごろだったと思う。朧な夢の途中で唸るような自分の寝言に起こされた。ここのところ睡眠時間が少ない。寝つきもよくない。朦朧としても眠りにつくことができなかった。暫くほうけていたが、それでも重い身体を騙して久しぶりに街に出た。街は夏の陽に溺れ、濃い影のなかに猫も犬も人も隠れていた。物はみな陽炎に揺れていた。気怠い身体は歩くたびに熱したアスファルトのなかに重く沈む。行き交う人間や物が歪んで見えた。それでも、暗く希薄な空気の工場のなかにくらべれば、街には少しの解放感があった。なまものの匂いがあった。 初めての小さなアーケードを潜った。歳寄り相手の洋品店、子供をあてこんだ文具屋、煤で煙った焼き台だけの焼鳥屋。いじましく軒を並べている小さなアーケードだった。その先は行き止まりの袋小路なのか、アーケードの奥に夏の陽はなかった。暑さから救われたまばらな客がいたが、アーケードのなかは通りの騒音も流れこまず、ひっそりと静まりかえっていた。 強い陽ざしのなかから突然もぐりこんだせいか、突き当たりのように思えた暗闇が徐々に姿を現しはじめる。古本屋。こんなに暗くて用を足せるのだろうかと訝しく思う。それでも、少々時間が経つと眼が慣れたのだろう、平台に無造作に積まれた雑誌や、黄ばんだ書籍の背が天井高く棚に差しこまれているのが見えた。 店内に客はいない。店主も見えない。商っているのだろうか。ひょっとしたらここは、本の倉庫ではないのだろうか。まるで空巣に入ったような心地になる。微かに黴臭い。奥からぼそぼそと途切れた人の声が聞こえてくるが、しかし、店主らしき者は一向に店には出てこない。足下に気をとられながら店内をゆっくりと巡る。本の量にくらべ、店は恐ろしく狭い。十歩も歩けば一巡してしまいそうだった。 平積みにされた映画雑誌などをぱらぱらめくったりしているうちに、棚の中段に差しこまれた一冊の背表紙が、暗さに慣れた眼に入った。その本に興味を感じたのではない。偶然に眼に入り、手にしただけのことだった。気紛れに過ぎなかった。店の雰囲気が無造作な動作を誘引したのだろうか。この時のことを今、これ以上なんの記憶にも留めてはいない。しかし、その本は、その日のことが確かな事実として、今でも私の手元にあった。買い求め、一度だけおざなりにページをめくり、一枚の小さなモノクロームの絵に眼を止めたに過ぎなかった。そして、本はその頁に二度と光を射てられることなく、部屋の隅に置き去られた。
強い陽ざしが衰え、街の樹木が色づくころ、溺死体のあがった河は、あらゆる死屍を隠すかのように、風に落ちた葉と屑で覆われた。瓦斯の泡は、相変わらず、落葉の透間からどぶの臭いを街に流していた。そして多くの同僚たちが、役所に駆けこみ、化学工場を逃げるかのように故郷へと帰っていった。その冬、私も彼らと同じように工場を辞めた。疲労の後遺症が快復しないまま、無為な日をだらだらとつづけた。惰眠を喰らった。得体の知れない焦燥感に囚われはじめたのは、そのころからだった。間欠泉のように現われては消えていく焦燥感。毎日は皮肉なほど穏やかで静かではあったが、時間だけが砂流のごとく遠のいていった。
「死んだかな」 石鹸に埋もれたゴキブリの肢が、濡れた掌の上で堅く固まっている。身体に流れた水で下着が肌にべたつき、まるで自分が溶けた石鹸をまとっているかのようだ。蛇口から落ちる水が溶けた石鹸とゴキブリを一気に闇へと送る。 結局、徹夜で仕上げた版下を届け終えたのは朝の十時ごろだった。三十分の遅刻にスポンサーの広報課長がもっともらしい苦情を言うが、徹夜明けの脳が少し煩ったに過ぎなかった。いったん自分のアパートに帰ろう。どうせ、先生は昼を過ぎなければ事務所にもどらない。もどったとしても、すぐに寝てしまうだろう。二時ごろに電話で納品の報告を入れるとしても、二時間近くは惚けていられる。うまくすれば、今日はそのまま仕事場に行かずにすむかもしれない。朝の陽が眼に痛かった。
2 凸面鏡
カーテンの遮断をかろうじて抜けた昼の陽が、部屋をどんよりとした光で満たしていた。一晩あけただけだというのに、敷き放した布団のシーツには知らない匂があった。微かな濡れたような青い匂。ぽっかり空いた洞の存在をひけらかすように、匂は、穴の奥深く、疲弊した身体を呑みこんでいく。 残り少ない紙パックの牛乳を布団の上に正座して飲む。横になると身体が地中深く沈んでいくようだ。朦朧とするが眠りにつけない。 何故、眠らないのだ。眠ればいいではないか。仕事もそれなりに仕上げた。今の生活にも、これといった問題はない。このまま先生についてデザインを覚えていけばいい。どうってことないじゃないか。なのに、どうして不機嫌なのだ。これ以上、何を望んでいるのだ。虚ろな脳が繰り返す。言い知れぬ悔しさがこみあげてくる。この曖昧な感情は、どこから出て、どこに向かうのだろう。漠として掴めぬ感情だった。
翌日、私は国分寺駅から単線で十分ほどの小さな駅のホームにいた。駅前の風景がホームから筒抜けに見える小さな駅だった。まばらな客が本数の少ない電車の到着を気長に待っている。 結局、昨日は、先生との電話連絡で用が足り、うつらうつらとしたまま終えてしまった。さすがに、夜の三時には睡魔が取り憑いて着のままで眠っていた。 朝、眠りから覚め、苦いコーヒーをカップ半分ほど口にして、ホームにいた。霧雨が鈍色の線路を濡らし、屋根のないホームの上にも落ちて、一面が濃い灰色に染まっている。摩擦音を軋ませて電車が滑りこんできた。 慌てることはない。先生が事務所に顔を出すのは、どうせ午後からだ。留守番電話になっているはずだし、それに今、それほど急ぐ仕事は入っていない。人気のない電車の座席でそう思った。車窓の外に灰がかった低く殺風景な景色が流れていく。このまま池袋に出てみよう。新宿駅で埼京線に乗り換えて五分とかからない。格別な目的などなかった。このまま仕事場へ向かう気にはなれなかっただけだ。街を少し周ってから手ごろなところで昼飯でも食べて。そう思った。 街は霞んでいた。高い建物も、看板も、コンクリートを固めただけの焼却所の細長く聳える煙突も、それは唐突に街の透間に現れるのだが、一様に濡れていた。透明のビニール傘をさしてサンシャイン方面に向かってみる。 サンシャイン通りに入ると、人の波に呑まれた。女たちはふらつくほど底の高いサンダル履きで群れていた。男は誰もが染めた長い髪をかきあげていた。さばさばした顔ではしゃいでいた。小人を覗きこむような一方的な視線は、あらゆる飽和を直感で悟り、諦めさえも切り捨てたかのように、否、諦める必要など元々存在していなくて、誰もが「さっさと割りきれよ」と声をかけてくるように思えた。鳥眼の風景を漂っている自分が見える。宙に浮き、濡れたアスファルトに影を落とし、自分の尻尾をくわえてぐるぐる独楽のように廻りながら漂っている自分が見える。ひょっとして、私はもはやガリバーたちの視界からも消滅しているのかもしれない。しかし、これもまた一方的な思いであることを別の思考袋で思考する。誰もがガリバーで誰もが小人という自分の尻尾をくわえて、ぐるぐる廻っているのではないか。 「割りきれよ。すべてできあがってるんだ」 ガリバーたちが囁く。模糊とした焦燥感が疎ましかった。 サンシャインの東急ハンズまで辿りついて引き返した。また同じコースを人波をわけて歩く。雨の滴がビニール傘の上を流れ落ちる。輪郭を溶かした街の色が傘の向こうに見えた。 サンシャイン通りの入口までもどると、角の喫茶店でトーストとコーヒーの軽いモーニングをとった。したたかにバターの香るトーストをコーヒーと一緒に飲みこむ。効き過ぎる冷房が気持ちいい。 向かい側のテーブルで若い女がノートパソコンを見つめていた。どこの国の女だろう。ベージュ色のミニのタイトスカートから剥き出た細い足をすくっと投げ出し、足首を重ねている。太腿の白い肌のその奥に無駄なくまとまった小さな腰がありそうだった。 両腕を組んでへの字に曲げた唇は何かにふてくされているようだ。それでいて、赤ん坊のようなあどけなさを、きつい眼でも隠し切れずにいる。刺のない仏頂面だ。髪は落ちついた亜麻色のショート。時々微かに聴きとれる独り言はフランス語のようだった。もちろん意味などわからない。パソコンの画面を追う眼は、大きくでんぐり返ったり、時には片方の眉がつりあがったり、忙しく変化した。そのたびに何か小声で言っている。 闊達にも見えたが、どこか憂鬱な気性も感じられた。鋭かったが、おおらかでもあった。大切に飼われた仔猫のようなしなやかさと、動物特有のエゴイスティックな姿態が、周囲とは違う匂を放って、次元の異なった空間を醸していた。 ただじっと見ているだけで堪能し、充足できる見物だった。 執拗な見物が女の神経に微妙なざらつきを与えたのだろうか。女はいきなり投げ出した足を引き、すくっと立ちあがった。立ちつくしたままこちらを真っ直ぐ見ている。「まずい」と後悔したときには手遅れだった。 女は一直線にこちらに向かってやってきた。どんと勢いよく両手をテーブルについて、私の顔をまじまじと覗きこむ。ほんのりと朱が浮く眼の前の顔に、小さいがほどほどの肉をつけた唇があった。ますます女の顔が近づく。私は情けなく竦むしかなかった。 「ひま?」 突然の日本語だった。 「あなたひまですか?」 訛りのない言葉がつづく。 「ここにきていい?」 そう言うと返事も聞こうとせずに、女はさっさと自分のテーブルにもどり、煙草やら手帳やらを大きなショルダーバックに投げ込むと、パソコンを抱えて再びやってきた。椅子を私の真横に引き寄せて、どかっと座る。顔だけ向けて、にやっと笑む。 「ひとりで食事つまらなそうね」 女はさも同情するかのように少し悲しそうな顔をつくった。ビジネス? 一瞬、不安が過る。しかしそんなふうにも見えない。繁華街の薄暗い裏道で見かける女たちのような、わざとらしい挑発的な雰囲気は、この女にはなかった。むしろその挑発は、猫の身勝手な甘えのように自然だった。 女は黙ってこちらを見つめている。深く透明な茶褐色の瞳に焦点を合わせられない。 「見る?」 女はパソコンを指差して言った。 「なにを?」 おずおずと訊き返す。 「馬鹿らしいの!」 怒ったように小さな唇を突き出して女が言う。つづいて、キーボードが素早い音をたてると、ディスプレイにフランス語の羅列が現れた。 「メールよ」 女は日本語に訳しはじめた。表情はおとなしく柔らかい。外国人特有の大袈裟な身振りもなかった。ところどころフランス語をまじえた翻訳は、意味不明な言葉もあったが、大意は理解できた。つまり、女は自分の国の男に捨てられたのだ。別れの電子メールだった。私はそう理解した。 不意に女は黙った。長い沈黙だった。ようやく、女は思い出したようにメールの最後の行をかぼそく呟いた。多分、男の名前だろう。背筋をきちんと立ててディスプレイをじっと見つめている女に、唐突に言い知れぬ不憫さを感じた。 途端、 「ふざけるな!」 女は突然、座ったまま店の天井を目がけて叫ぶと、いきなり横にいる私に抱きついてきた。小さな唇が強引に私の唇に重ねられる。柔らかくしっとりと濡れた、ウィスキーボンボンのようにほろ苦い味だった。女の瞳から透き通った雫が頬を伝わっていく。周囲の客があっけにとられていたが、誰よりも途惑っていたのは私であった。 落ちつきをとりもどしたのか、女は微かに笑み、抑えた声で言った。 「ごめんなさい。もういいの」 パソコンのスイッチが切れてディスプレイの画面が暗くなる。 多分、これは女の気紛れ。唐突な関係もこれで終る。男に捨てられた憂さを危険のなさそうな男ではらしたに過ぎない。案の定、女はパソコンを大きなショルダーバックにしまい、勘定をすませに大股で歩いていく。そのたびにミニスカートの裾が割れて、眼をひく太腿が露になった。
そろそろ仕事場に向かわねばならない時間だった。束の間の出来事が嘘のように、女も、淡い思慕も、瞬く間に過ぎ去っていた。けれども、煙草の煙を肺の奥深く飲みこむと、ウィスキーボンボンの香りが鼻腔に蘇って、未練を残したのは自分かと苦笑した。冷めたコーヒーの残りを飲み干し席を立つ。 雨のやんだ昼の街は更に人を集めて、ティッシュ配りの手があらゆる方向から伸びてくる。気怠い午後がはじまる。そして眠れない夜に向かう。 今日の版下作業のことを思い巡らす。先生のディレクションはどこまで進んでいるのだろうか。遅れていれば、また昨日のように徹夜になる。それもしかたがない。今はしっかり先生のディレクションを学ぶしかないのだ。でないと、いつまでたっても、私は版下作業から先には進めない。 重い足には都合よく明治通りの信号が赤になる。通りの向こう側には池袋駅があった。 背後からすくっと腕を掬われる。思わず振り返ると、そこに、瞳に焦点を合わせられない女がいた。
寝不足はますます酷くなり、小さな風にも眼が霞んだ。あれから一週間が過ぎていた。 あの日、二人はそれぞれの仕事場にいったんもどり、再び池袋で逢ったのは、夜が熟れはじめるころだった。女に導かれるままについていった地下の酒場では、立ち飲みのテーブルも満杯で、雑多なガリバーたちが大人びた姿態を装い、思い思いの酒を呑んでいた。ようやく確保した窮屈なカウンターの席は、店のもっとも奥深いところだった。よく冷えたホップが二人の喉に落ちていく。女は干したグラスをカウンターの上にたんと短い音を発して置く。 「おかわり」 歯切れのよい声が飛ぶ。カウンターの若いバーテンダーが丁寧に頷く。 「あのあとね、会社にもどってメールを送ったわ」 「どんな?」 「ファイルが溢れるくらいの落書と呪文」 女のやることは決まっているなと思った。メールをもらったほうはやりきれない。うんざりするような量のメールの呼び込みに閉口させられたうえに、内容は陰険な呪の言葉の羅列だ。ところが、満足そうにビールを呑む女の横顔を見ていると、呪文は、陰険とは裏腹に、むしろ人間のもっとも素直な原初の表現のように思えた。呪の言葉こそ、虚飾を剥いで、もっとも人間の素肌を露にした、真っ直ぐな言葉なのかもしれないと。 「落書って、どんな?」 私はウィスキーのロックに変えてちびり嘗めながら訊いた。 「たいしたことない。画面のバックに滅茶苦茶いっぱい色を使って、スキャナーで取りこんだパルミジァニーノの凸面鏡をたくさん貼りつけて、そのファイルをいっぱいコピーして送ってやった」 本当にたいしたことがないのだろうか。パソコンにそれほど強くなくても、何か大変そうに思えた。むしろ女の執念めいた努力のほうが凄いと感じた。 女はグラスを持ったまま両肘をカウンターに預け、顎をあげてアハハと笑った。 「ねえ、知ってる?」 女は真正面に私を見つめて言った。薄暗い店の照明にますます女の瞳に焦点を合わせられない。 「なんのこと?」 疑問符のつづく会話だった。そう言えば、女の素姓も名前も、歳さえもまだ知らなかった。女もこちらの素姓には立ちいらない。 「凸面鏡の自画像」 「なんなの?」 「パルミジァニーノという画家の絵よ」 照れ臭かった。まがりなりにもデザインを勉強したのだから、覚えのない画家の名前に途惑った自分が恥かしかった。それを察したのか、それとも無駄な話をやめたのか、女は少し間を置いてから言った。 「いいのよそんなこと。あなたには関係ない」 所詮、女にとって退屈しのぎの時間潰しに過ぎない。その気で肩を並べ、いい気に呑んでいたが、いきなり突き放された。酒がごつごつと喉にぶつかる。にわかに周囲の喧噪が煩わしくなる。勝手なものだった。今日はじめて出会った素姓も知らない女に、私は何を求めていたのか。知らない画家の名前に、何を私は憤ったのか。心の奥底に現れるこの皮肉れた意識といじけた感情が無性に疎ましく思えた。 「どうしたの?」 女は背を縮め、少し泣き顔で言う。 「君ってなに?」 私は不機嫌に投げ捨てた。 「やっぱりおこってる」 「どうしてそんなに日本語が話せるんだ。どんな外国人だってそうは話せないよ」 「やっと私のことに興味もってくれたのね」 何をとぼけたこと言うか。出会った瞬間におまえは俺を捉えただろうに。まるで催眠術をかけるように俺の気持ちを吸いとったじゃないか。どんな記号も必要とせず、ただおまえの素振りと身振りとその肉体で、完璧に私を拉致しただろうが。唇に残されたおまえの感触はどこへ捨てろと言うんだ。 呑み慣れない酒に酔ったのかもしれない。激しく昂ぶる自分の感情がまるで芝居じみているようで、さらに酔う。 「ブクロ」 「えっ?」 「ブクロ生まれなの」 「ブクロって池袋?」 「そうイケブクロ。この街で育ったの」 幼い日々の出来事が女の脳裏に蘇ったのだろうか、女は懐かしそうに遠くを見やる。小さな横顔がいつかデッサンをした覚えのある、映画雑誌の女のように端正だった。 「父はフリーのライターだった。日本の工芸に興味をもっていて、無理やり母を連れて日本にきたの。そのまま池袋に住みついて二年後に私が生まれた」 女は、手にしたグラスを見つめながら、遠い記憶を手繰り寄せるように話す。 「私が十五歳になったとき、父はいきなり国へ帰ると言いだしたの。結局、母も私も馴染んだ池袋の街とお別れ。どういうわけか今では私も編集者。雑誌の日本語版担当なの。父の影響かしら。日本にもどって一年になるわ」 後悔。その一年で女は男に自分の生まれ故郷に投げ捨てられ、表情も仕種も伝わらないたった一通の電子メールで別れの宣告をつきつけられた。けれども、噛みしめた唇は後悔などしていないわよと言いたげだった。 「住むなら懐かしい生まれ故郷の街にしようと思った。会社の指定した社宅をことわって池袋にマンションを借りたわ」 女も酔ったのだろう。肩から力が抜け、身体全体がはじめて出逢ったときのように、柔らかくしなやかで敏捷な仔猫のようになっていた。その亜麻色の短い髪をそっと撫でたくなるような衝動を女に気どられまいと、私はグラスの酒を一息に飲み干す。 夜中の二時を過ぎて二人は別れた。女は、今日は原稿の締め切りに追われそうと呟き、自分のマンションへと帰っていった。女の身体はもちろん、髪にも触れることなくその夜は終えた。酔いと疲労のなかに謎解きのように残されたのは、〈凸面鏡〉という暗号のような言葉だった。 今夜も寝つけなかった。一週間前の女とのことがぼんやりと浮かんでは消えていく。画面いっぱいに貼りつけられた夥しい凸面鏡に、いったい何があるのだろうか。女は凸面鏡にどんなメッセージを秘めたのだろうか。自分の生活の記憶を辿ってみるが、凸面鏡らしいものは一つも現れてはこなかった。 かたかたという軽いキーボードの音が響く。手際よくキーボードを打つ女のしなやかな指。掌から流れる抑揚のある指は、中間の関節と指先にかけて美しく膨らんでいる。爪の下の肉は、軽く摘まれたように、きゅっと台形になっている。指はゆっくりとスローモーションのようにしなりながら交差する。そして、女の指は濃い緋色に染まりながら徐々に肥大していく。朧な眠りのなかで、どこまでも指は肥大していった。
3 隠れ家
「どうだい。こんなものだろう」 マドロスパイプから甘い匂が漂っていた。テーブルには先生がディレクションをした数枚のラフスケッチが広げられている。海運会社の来年のカレンダーのためのスケッチだ。六枚綴りの大判カレンダーで、それは大型のポスターに匹敵する大きさだった。海外の風景をバックに、外国の女をそれぞれ画面いっぱいに配した、ほとんど女たちの魅力と写真の出来具合で決定してしまうカレンダーのデザインだった。 「撮影は先生ひとりで行かれるのですか」 「予算の都合もあるしな。スタイリストやメイクは現地調達になるだろう。カメラマンも向こうで手配するようになるかもしれない」 「スタッフぜんぶ変わるんですね」 「その可能性はあるな」 「プレゼンテーションはいつの予定です」 「今月いっぱいというところだろう」 ひと月弱。その間、この作業がつづくことになる。 「玉組はどうしましょう」 カレンダーの数字について訊ねた。 「モンセンから選べばいい。今回は少し細身の書体がいいだろう。二、三選んでみてくれ」 その日は一日、玉組の書体選びになった。書体カタログのモンセンの頁を何回もくりかえしめくる。プレゼンテーションの写真は去年のカレンダーを潰して使うので、決め手はこの玉組の書体とデザインにあった。玉組次第でカレンダーの雰囲気ががらっと変わる。力強くも柔らかくもなる。私は一日かけて書体の候補を三点に絞った。どれも細く繊細なものだった。これ以上は先生に決めてもらうしかない。 午後五時、先生を呼びに階下に下りる。黒塗りのドアーを叩く。扉が開いて和服姿の奥さんが現れた。その姿は透けてしまいそうに薄い。 「先生、寝てしまったみたい」 奥さんはくすくすと小さく笑う。 「それじゃあ、これをお願いします」 選んだ書体見本のコピーを奥さんに手渡す。引いた手にほんのわずか何かを掠めた。奥さんの指輪の爪だろうか。偶然とも意識的ともとれない瞬間のことだった。細い線状の掠り傷が指に残った。 その日、そのまま先生とは逢わずじまいに、黒い薮のなかを後にして池袋に向かった。 女はデパートの美術館のフロアーにある喫茶店にいた。相変わらずパソコンを打っている。相変わらず原稿の締め切りに追われている。やけに姿勢が正しかった。脚の長い椅子にきちっと背筋を伸ばして座り、爪先立ってそろえた足が美しかった。背後に立たれても気配に気づかないほど夢中でパソコンを打っている。唸り声まで出している。 「うまくいかないの?」 「おお! びっくりさせないで」 大袈裟な身振りが返ってきた。そういえば、女は日本人ではなかったのだ、と認識させられた。 「ごめん。驚かせたみたいだね」 二人分のホットコーヒーを載せたトレーを窓に沿ったカウンターに置き、女の隣りに座る。 「もうすぐ終わるの。ちょっと待ってて」 カウンターの大きな硝子窓の下に、ガリバーたちの雑多な姿が見えた。コーヒーを啜りながらキーボードの音を聴く。その音は、時に思い立ったように荒々しく、時に思考が停止したかのように静かに間があいた。 「女性雑誌の美術が担当なの。今度のテーマはデルボーの女たち」 キーボードを打ちながら女は言う。 「気をつかわなくていいよ。待ってるから」 「優しいのね」 優しくなどない。こんな時、どう対処してよいか知らなかっただけだ。女とのつきあいは今までに一度だけあったが、半年間つきあって気づいてみれば冷めた仲になっていた。互いのアパートを交互に泊まりあい、しまいには女の部屋で同棲していたが、飯を食い、惰眠し、若い身体を絡めて荒淫し、怠惰に、半年が過ぎた。多少の情もうつるかと思ってはみたが、女は生活費や遊び代や何やかや、面白くないと激しい不満をぶつけ、たまには狂ったように掴みかかってきたこともあった。不満が狭い部屋に満杯になると、一週間でも二週間でも、ぐだぐだと愚痴を言いながら、朝に夜なに歳老いた猫のように寝入っていた。怠慢な絆だけが細い糸だったが、火をつけた途端、めらめらと燃えて消えてなくなるような華奢な糸だった。簡単に燃えつきた。以来、私は女との特定のつきあいを持たなかった。持てずにいたのかもしれない。 透明な青い闇のなかで白い服をまとい、横たわっている女たちの姿が眼に浮かぶ。ポール・デルボーの女たちは、まるで誘うようにいかがわしく、魅惑的だ。ほとんど病的とも言える女たちの姿が、若い女たちにどのようなメッセージを伝えるのだろうか。ぼんやりと思う。 聞こえなくなったキーボードの音に、はっと我にもどる。女が向きなおって私の顔を見つめていた。 「なにを考えてたの? ぼんやりして」 そう言ってから、女は悪戯っぽく唇をとがらした。鼻の頭にウィスキーボンボンの香りが蘇る。女の魔術に陥る自分が見える。 「いこう」 女が言った。 「どこに?」 「いいところ」 また悪戯っぽく微笑む。女はさっさとパソコンをかたずけて、強引に私の手を引く。私たちは、エスカレーターで一階に下りると、夜のガリバーたちに紛れた。手を引いて大股で歩く女の白いミニスカートが、夜目に際どく浮く。 通りに停めてある一台のスクーターの前で止まると、乗ってと言って女はヘルメットを私の胸に押しつけた。女もかぶる。スクーターの後ろに跨がり、女のくびれた胴にしがみつく。急発進に思わず腕に力が入る。女のよく絞まった腹の肉が跳ね返ってきた。どこまで行くのかわからなかったが、後ろから抱きつくようにして女の身体にしがみついている自分の姿が滑稽だった。 二人は熱く熟した空気を切り裂いてガリバーの街を駆け抜けた。
どのくらい走っただろうか。大きな橋に出た。川は暗闇に染まっていた。水を見ることはできなかったが、橋の上を走っている間はその匂を感じた。それからまた暫く走りつづけた。 建物の間隔が少しあきはじめたころ、スクーターは大通りを左折して闇のなかに入りこんだ。スクーターのライトに照らされ、細く荒れた道の両脇に短い雑草が密生しているのがわかった。 「ほら、あの明り」女が突然大声を出した。 前方を見ると、暗闇の先に確かにほのかな明りがあった。風が当たって、しょぼつく眼では何なのかわからない。ただオレンジ色の明りを確認できただけだった。 「ここはどこだ?」大声で女に訊く。 「さっきの橋が戸田橋よ」 とすると、あの川は荒川だったのか。何でこんなところにと思う間もなく、スクーターは急カーブして明りの前に止まった。モーテルでもラブホテルでもない、ビジネスホテルでもなさそうな、しかし、一軒の古びたホテルだった。こんな場所でホテルの経営が成りたつのだろうかという素朴な疑問が湧く。 女は、まるで我が家に帰ったかのように、当り前な顔をしてロビーに入っていく。申し訳程度に設けたロビーのカウンターの前に立つと、無造作に置いてある呼び鈴を高々と振った。静まり返ったロビーに乾いた音が響いた。すると、眼の前のカウンターの下から、老婆のうさんくさそうな顔がぬっと現れた。つい今の今までうたた寝をしていた顔だった。老婆は口も開かず部屋の鍵を女に手渡した。女は老婆に意味ありげな目配せをすると、さっさとロビーを通過して奥へと入っていく。私は慌てて後を追った。 女はエレベーターの降りてくるのを待ち切れずに、遅い遅いと口をとがらせている。やがて、ちんという音とともに扉が開き、ぐずぐずしている私の背を強引に押しこむと、再びちんと鳴って扉は七階で開いた。薄暗く狭い廊下を女に手を引かれてついていく。手首が痛い。 七〇七号のドアナンバーの前で私たちは止まった。すると女はいきなり私に抱きついて唇を吸った。吸ったまま後ろ手にもどかしそうにドアの鍵を開けている。やがて、かちゃっという音とともにドアが開いた。女は抱きついたままくるりと向きを変えるや、なかに向かって私を倒しこんだ。背中にしたたか床を打ち、女が腹の上に跨がっていた。 仰向けに寝転んだまま部屋を見回した。壁という壁に本が嵌り込んで、頭上高く聳えている。 「ようこそ。私の隠れ家へ」 そう言って、女は私の腹の上でけたけたと楽しそうに笑った。 何となくテンションがあがっていた女の意味がやっとわかった。こういう悪戯だったのかと女の子供っぽい行為に呆れた。が、満更でもなかった。 こみあげてくる可笑しさがますます二人を昂めた。床の上で長い抱擁がつづいた。女の身体は軽かったが、絞まった肉の感触が服を通して伝わってきた。 「池袋に住んでるんじゃなかった?」 組み伏したまま、女の短い髪を指先で摘みながら言った。 「うそ」 「じゃあ、家族の話は」 「あれもうそ。でも池袋で育ったことや仕事だけは本当」 「なぜそんなうそをついたの」と言おうとしてやめた。ウィスキーボンボンの匂が、さっきから何度も、吸いつき絡まっているではないか。それ以上に本当のことなんてない。今は、詮索などどこにも必要がなかったのだ。 部屋は三つに別れていた。二人が倒れこんだのはリビングだった。作りは一般的なマンションのようだったが、ドアを開けていきなりリビングであるのは、事務所や仕事場にも使えるようになっていたのかもしれない。それに、このリビングはやたらと広かった。まるまるワンフロアーなのではないかと思えた。リビングの壁は天井まで届く括りつけの書棚で覆われている。上部の本をとるための華奢な脚立もあった。もの凄い蔵書だ。それもほとんどが美術書だった。豪華本が無差別に並んでいる。煌めくような本の棲み家だった。 女は、両手で乱れた髪を掬いながら立ちあがり、棚に手をかける。はだけた淡い緋色のブラウスのなかから、つんと胸の先が突き出る。 「不思議でしょう。こんなにたくさんの本。あなたに見せたかった」 「どうして?」 「あなたはあの時、長い間じっと私をみつめていた。あんなふうに私を見てくれる人は今までいなかった」 私はそんなにも執拗に女を見ていたのか。初めて女と出会った日を思いだす。しかし、そのことと、ここにある本とは何の関係もないと思われた。 「セクハラよ。いやらしかったわ、あなたの眼つき」 言いながら、女はジャケットを脱ぎ捨て、ブラウスのボタンを全てはずすと、再び抱きついてきた。痛い思いは散々だったので、倒れないように女を受けとめる。反りあがった女の乳房が不思議な生き物のように私の胸に重なった。
「あなたに見せたかったのはこの本」 女は大判の一冊の画集をベッドの上に置くと良質の紙をめくった。皮膚に触れると切れそうに思えるくらい、それは鋭い高級な紙だった。閉じこめられ重ねられたインクの匂いがベッドの上に漂う。重く暗い頁が真新しい白いシーツのなかに沈んでいくようだ。 パルミジァニーノの『凸面鏡の自画像』。 少女のようにふっくらとした頬の少年が、凸面鏡のなかで不思議な微笑みを浮かべている。手前に置いた掌が異常に大きい。凸面鏡の左上に微かな明りが描かれているが、全体はどんよりと暗く、それがいっそうこの絵を謎めかせる。女がメールに貼りつけたと言った凸面鏡の自画像だった。 「パルミジァニーノは、十六世紀後半のヨーロッパのマニエリスムの画家。若くして死んじゃったんだけど。マニエリスムは最近まで美術史では埋もれてたの。というよりあえて無視されてきたのかな。ルネサンスが目立ちすぎたのね。亜流として蔑視されていたところがある。でも最近になって少しずつ見なおされて、サンボリスムやシュルレアリスムにまでつながり、現代美術の源にまで遡るものだ、という見方が出てきたの。だから日本の美術の教科書にもほんの少しだけど、やっと取りあげられるようになった」 だからあなたが知らなくてもしかたがないことなのよ、と言われているようだった。だが今夜はこの間のような憤った感情は湧かなかった。素直に女の言葉を受けとめられた。 女は諭すような眼つきで私の顔を覗きこむ。私は眼を宙に浮かしてとぼける。 「この絵と君はどんな関係があるの?」 ベッドの上で私たちは裸だった。あぐらをかき、頭を寄せあってパルミジァニーノを覗きこんでいる。それは、まるで砂場で砂山を作って遊ぶ幼児のように、幼く滑稽な光景だった。激しい抱擁の残跡はすっかり消えて、明るすぎる天井の照明が壁紙の花模様を色鮮やかに照らしていた。 「さあてね」女もとぼけ返す。 「ラファエロもミケランジェロも結局みんなマニエリスム。表現のテクニックに惑わされていたのね。乱暴な言いかたをすれば、絵具や筆の技術なんてどうでもいい。人間の肉体なんてうまい人の絵からコラージュすればいい。よじくれようが伸びようが、宙に浮こうが、それは些細なことなの。でも、それは私の勝手な解釈。専門家に言わせれば違うでしょうけれど。もっと難しい。問題は……」 混乱だけが渦巻く。 「マニエリスムは美術だけでなく、詩や文学、建築にもあって、つまり、これは単なる表現の技術だけのことではないのね。シュルレアリスムがそうだものね。それを描く人間そのものに問題があるということに注目するわ。当然、時代の背景が重大な要素としてあるのだけれど、つまりマニエリストは、ちゃかして言えば、問題児のこと、素振りに問題を抱えた人間なの」 疑問が幾つも残った。素振りとは、問題を抱えるとは、そしてもっとも知りたいことは、だから凸面鏡と君はどんな関係にあるのだ、というはじめからの疑問。 「パルミジァニーノに関するものは非常に少ないの。ヴァザリーの評伝があるくらいで、ほとんど彼のことは謎。そうよ。私にとって、今のあなたが私のパルミジァニーノ。あなたのことは何も知らない謎」 女はじっと瞳を凝らす。背筋を伸ばし、最小限度の大きさにまとめた乳房を反って、その尖端に鎮座した乳頭を美しい緋色に染め、つんと斜め上に向けている。 真夜中。女は静かに寝入っていた。テンションの高い一日が、螺子の切れた人形のように、女を疲労と困憊の眠りに沈めていた。締め切りの迫っていた原稿の完成も手伝っていたのかもしれない。本誌が自分の国にあるとはいえ、だからこそ手の抜けない緊張感が常につきまとい、勝ち気な女を疲労のとことんまで落としこんでいたのだろう。快活ではあったが、他人には見せない辛さと寂しさが女にあった。 女の尻が私の腰に触れた。蝋のように冷たい。柔らかい肉感だけが生きていて、他の全ては死んでいるのだろうと思えた。窓の外には茫漠とした黒い叢が広がっている。 曖昧な記憶が現われては消えていた。それは、掴めたかなと思うと、すっと霞んで消える繰り返しだった。夥しい美術書に圧倒されたことが関係しているような、近いところまできている気はしたが、その先が見つからない。 ベッドからそっと抜け出してリビングにいく。明りが点いたままだった。括りつけの書棚は美術書の背でびっしりと埋まっている。端から丹念に見はじめる。ほとんどが大型の画集だった。イタリア、フランス、スペインとあるが、アメリカのものは意外と少ない。北欧、イギリス、ドイツ、それにアフリカもある。 画集のほかにも論文、評論、美術史、技術書、建築、詩、文学、宝石、装飾、工芸、写真と、その内容は多岐にわたり絢爛だ。一番上の棚には何があるのかすら判然としない。 書棚の周りをどのくらいの時間を歩いていただろう。本の背をなぞってゆっくりと部屋を周っていた。肌に冷気を感じて思わず身体が震えた。裸であったことに気づいた。 ふと〈迷宮〉という文字が眼に入る。 ……迷宮。どこかに覚えがある言葉だった。書棚から抜き出す。カバーのパラフィンに少し皺がいっている。上製本の表紙をめくる。
「ああ」……思わず声が漏れた。
頁のなかに、女と見た小さなパルミジァニーノがいた。 微かに現われては消える記憶の正体は、この本にあったのか。これが無意識のうちに膨らんだ、掴み切れぬ焦燥の幻だったのか。一度きりしか開くことのなかった本が、ここにもあった。
グスタフ・ルネ・ホッケ著 『迷宮としての世界』マニエリスム美術 種村季弘・矢川澄子訳/美術出版社。
古本屋、豪華本、そして、今ここに現われたパルミジァニーノ。偶然とも言える幻のパルミジァニーノとの再会だった。かつてどぶ河の街で見つけた古本屋の記憶が、はっきりと蘇る。悶々とした焦燥と苛立ちの切ない時間を懐かしく思い出す。不覚にも、腹の奥底から息の詰まるようなこみあげがきて、涙が頬を伝わっていく。
テラスから差しこむ輝く朝の陽が、書棚や床の絨緞を隈なく照らしていた。私たちはテラスに運び出した円いテーブルで、パンにバターとオレンジマーマレードをたっぷりと塗りつけて食べた。熱いコーヒーを飲んだ。冷たいポテトサラダが口に気持ちいい。昨夜はことの成り行きに、ここの状況など知る余裕もなかったが、コーヒーカップに角砂糖を一つ入れて、ゆっくりとスプーンを回しながら眺めてみると、窓の下の地上は、雑草が生い茂って遠くまでつづく、かなり広い野原だった。だいぶ先のほうに点景の民家が見える。 女は白いデニムのパンツで、白く柔らかいブラウスは、余り気味のように思えるくらいゆったりと、腹のところで窄められていた。陽光に包まれて眩しかったが、昨夜とは別人のように清々しく清楚に見えた。女はスライスハムを二、三枚まとめて口に入れる。マーマレードを大きなスプーンでしゃぶる。コーヒーにたっぷりミルクを混ぜて飲む。そして、こってりとバターを塗装したパンを食べた。 「初校が明後日から出るの。だから、明日いっぱいゆっくり休める」 編集者に土、日はなかった。当り前のように取材や打ち合わせに駆けずり回る。だから、土、日は出版社の公休日であったにも関わらず、編集長からあえて公認の下りた休日は心が軽かった。 「あなたもお休みね」 「それほど忙しくないから」 経済が崩れていた。政治など、あってなかった。どの政治家も庶民にとってはただの嘘つきだった。眼まぐるしい政党の台頭と融合が繰り返され、自らの政治的威厳を見失っていた。無能のサークルだった。あらゆる公共の人間たちが金と色の汚濁にまみれ、報道は連日連夜、汚職と情けない猥褻に拘束されていた。司法も、役人も、教育者も、株屋も、銀行屋も、全てが汚穢のなかだった。 更に、広告業界は冷え切っていた。多くのデザイン会社や事務所が戸を閉じていった。企業との契約制もめっきり減って、まさしくフリーランスとなった多くのデザイナーやコピーライターが、過去の活気と有頂天な生活からさよならを突きつけられていた。人々はあらゆる概念が嘘であったことを知らされ、企業のベテランたちが職を失い、家をなくしていった。女子学生たちは、裕福な成功者と自分をくらべ、就職すらできない己の運命を嘆いた。 街のガリバーたちだけが、そんなこと関係ないさと、逞しく無視して悟る。 「よく眠れた?」 女は食べることに飽きて言った。冷えた水をごくごくと飲む。 「この本はどうしたの?」 陽を背にして私は訊いた。書棚が聳えている。 「不思議でしょ。私には身分不相応よね」 「これだけのものそろえるには相当に金がかかるよ」 「抵当品」 女が小声で言う。 「銀行の抵当に充てられたものなの。地方で個人美術館を持っていた金持ちが株で沈没しちゃった。本だけじゃないの。別の部屋には高価な絵画や美術品もごっそりあるらしい。私には詳しいことはわからない」 「そんな大掛かりなことに何で君が絡んでるんだ」 「ここは倉庫なのね。カムフラージュでホテルなんかになってるけど。なまじ倉庫ですって言うと盗難なんかに危ないと思ってこんな形にしたんじゃない。客のこないホテルなんか泥棒も眼をつけないだろうし。でも、本当のことは別にあるのかも。この部屋以外はかなりしっかりセキュリティされてるみたいよ。ひょっとしたらここも監視カメラで覗かれてるかもしれないけど」 女は肩を窄めてにっこり笑う。 「偉い人のやることなんて馬鹿ばかしくて理解できないわ。この建物の管理人がたまたま編集長の知りあいで、定期的な本の手入れをする約束ということで貸してくれたの。本の管理人というわけ」 「美しき女管理人」口を挟む。 聖母マリアと幼いキリストをモチーフにしたラファエロの美しき女庭師。パルミジァニーノの長い首の聖母。二つの絵は、その極端な表現の違いで、マニエリスム様式を知るうえで便利な絵と言えた││昨夜、女が教えてくれた。それに引っかけて女をからかったのだった。 「私はマリアじゃない。あなたを好きになった、ひとりで生きてるただの女よ」 軽い冗談のつもりだった。男に捨てられた傷が心の底に粘液のように執拗に付着しているのかもしれない。軽薄な口の軽さを悔やんだ。 「Eメール、あなたもやりな。インターネットもやって、そしてふたりチャットやろう」 「ふたりチャット?」 何だかよくわからなかったが、そんな私を無視して女は別の部屋にいこうと席を立った。私は慌てて煙草を灰皿にこすりつけ後を追う。 寝室の隣りにある狭い部屋だった。四畳半ほどの書斎といったところか。部屋のなかには飾りらしいものは一切なく、真ん中に黒く四角いテーブルがあり、背凭れの高い椅子が二脚あるだけだった。テーブルの上にはパソコンが一台置いてあり、スキャナと小さなプリンターがセットされている。 私たちはパソコンに向かって並んで座る。 「あなたデザイナーだから覚えるのはやいよ。きっと」 デザイナーと言われてくすぐったかった。まだ版下マンだよとは言えなかった。それに、今時、パソコンの使えないデザイナーなど皆無に近い。昔気質の先生はパソコンには無頓着だったし、新たな設備投資をするような余裕もなかったのかもしれない。 女はパソコンのスイッチを入れるとこちらに顔を向けた。機嫌は治ったろうか。少し心配だったが、いつもの悪戯っぽい瞳を見て、何だか懐かしく思えた。 「インターネット覗いてみよう。エッチなの好きでしょ」 「馬鹿いえ」 「すけべだったよ、あなた」 女は真顔で言っている。昨夜の激しい抱擁を思いだす。 「これ、これよ」と言って女がマウスをとんと押す。画面が変わって画像が上のほうから少しずつ鮮明に現われはじめた。 「あはは」 突然、女は大きな声で笑う。こちらもつられて笑う。笑うが視線は画面から離れない。後ろ向きに四つん這いになって突き出した女のあらぬところに、男が巨大なものを差しこんでいる。二人は画面に鼻をつけて凝視。 「あはははは」そろって笑う。 「笑うことないでしょ」言った本人が涙をこぼして笑っている。 「すごいね、これ」画面を凝視したまま言う。 「やっぱりあなたすけべ」 つぎからつぎと似たような画面が現われる。そのたびに、二人は大笑いになった。 「先生にこれを見せたらパソコンを買うかもしれない」 「先生もすけべ?」 「そう。いつも会議さ」 「だれと?」 「女に決まってるよ」 「どこの? なんの会議?」 いつの間にか質問するのは女のほうになっていた。質問されるのが嬉しかった。寂しかったのは女だけではなかった。漠然とした焦燥感はいつも孤独のなかで飼われている。孤独そのものが焦燥感だったのかもしれない。単純過ぎるくらいに、今その焦燥感は感じられなかった。 「さあてねえ。わからないな」 女は、とぼけている私のズボンの膨らみに細い指を伸ばし、そっと撫でる。頬が淡く紅潮している。 「おなじことして」 女は言う。 途惑い、昴揚し、淫らに、時は過ぎていった。
4 砂漠のバルブス
透けたアパートのレースのカーテンから茜空が見えた。街のスカイラインに覆いかぶさった夕焼けは、今にも別の濃い灰色の空に呑みこまれそうになって、そのわずかな色の消失をしかたなく待っている。アパートの脇の木で蜩が啼いている。時には囁くように啼き、時には瞑想するかのように啼き声は途絶えた。空に茜色が消えてしまっても、蜩は己の居場所をいつまでも告げるように啼いている。 「だれか迎えにきて。僕はここにいる。木に一所懸命しがみついているよ」 待ってさえいれば何かがくると蜩は頑なに思う。生まれ出た土に落ち、ほどけた死屍が蟻の巣に運ばれても、なお思いはつづくのだろうか。惨たらしい断頭台のように、夏の残滓は蜩の思いを断っていく。 カレンダーの玉組は、おおよその塊を見せはじめていた。ひと月ごとの玉組をイラストボードに仕上げ、更に写真をレイアウトした原寸大の見本を一点つくる。先生は何の用か外出が多かったから、事務所はいつも私ひとりで、気楽さに変わりはなかった。 モンセンから選んだ書体を何枚もトレスコープで紙焼きし、来年の一月から十二月までのカレンダーを組む。実際には今年の十二月分も入れるので、合計十三か月分の玉を組むことになる。六枚綴りであったから、一枚に二か月分の玉組を入れる。海運会社のプレゼンテーションのための版下作業がつづいていた。 先生はほとんど階下に引き篭っていた。独りの作業は孤独ではあったが、気楽でもあった。先生はそれほど神経質な人でなかったが、傍につかれてとやかく言われながらの作業よりも、困ったことがあれば訊きにいける階下にいてくれたほうが、作業としてはやりやすかった。けれど、呼びに行くたびに先生の奥さんと二言みこと喋らなければならないことが煩わしかった。ドアのところで霞んだように立っている姿が何となく痛々しく思えたからだ。しかし、それはこちらの勝手な思いこみであったかもしれぬ。先生の会議もいわゆる仲間内の呑み会であったかもしれない。あの時、昂揚し浮ついた気分が下賎な憶測となって、つい先生の冗談を口にしてしまった。今では恥かしい失態であったと後悔の念がはびこる。 先生も奥さんも優しかった。子供のいない二人は、美術学校からやってきたばかりの若いデザイナーの卵を、心から歓迎し、面倒をみてくれた。先生は、いつまでも同じシャツを着ている私を見かねて、青いシャツを買ってくれた。先生の眼の前で着て見せると、本当に嬉しそうに、似合う似合うと言って手を叩いて喜んだものだった。奥さんは、いつもすきっぺらしの私の腹を満腹にしてくれた。辛いカレーライスがうまかった。何杯もおかわりをしたものだった。 あれから二年、今、少しずつ先生も事務所も、本流のなかから弾き出されていきつつあった。否、デザインはすでに本流そのものが消えかかっているのかもしれない。デザインは虚の時代における虚体そのものであったのだろうか。 杏の庭に葉を透かして落ちる昼光が揺れている。暮夏の陽が溜り、時々そよと流れる風には、すでに寂寞の秋気の予感があった。その小さな庭の中ほどで、さきほどから和服姿の奥さんが矯めつ眇めつ掌を陽に翳している。掌を表にしたり裏にしたり、くるりくるりと返している。もう三十分もたっただろうか。 この光景をはじめて見たのはいつのことだったか。二階の窓から何気なしに眼をやると、いつの間にか奥さんが庭に立っていて、掌を無心に返していた。はじめは二週間くらいの間隔だった。だんだん窄められて、今ではほとんど毎日、三十分から一時間、くるくる、くるくるやっている。作業の合間に思い出して覗いてみると、家のなかにもどったのか、いつの間にか奥さんはいなくなっている。 毎日、毎日。
女は。 女は雑誌の校了に追われている様子だった。毎月のこととはいえ、神経のすり減る校了時は、どの編集部員も疲れていた。特に最終校了日ともなると、疲労の度合いはもっとも昇りつめる。真夜中に作業が終えて、女は仲間と食事を兼ねて出版社の近所の居酒屋で一杯やる。その日は一日中寝ていられることが、誰をもくだけさせた。他愛のない無駄話と安い酒が、張りつめた疲労を緩慢に解いていく。しかし、さすがに朝の五時ごろ近くになると、濾しきれない酔いの澱が身体中に満ちて、すべての毛穴から疲弊した体液が出てくるような思いになる。そして、それぞれが、明けかかる朝霞みのなかに散っていく。タクシーのソファーの背に凭れると、当てどなく人ごみを彷徨い歩く幼い迷子が、いつまでたっても辿りつくことができず、不安と孤独の泥沼で泳ぐような、遠の昔に置き忘れてしまった湿った胸苦しさを脳に映す。誰もがそうだった。 女は深く眠る。タクシーはホテルの前で寝ぼけた女を降ろすと、叢のなかを逃げるように通りへと引き返していく。白みかかっていた空は、すでにしっかりとした朝になって、更に疲労を倍加する。前髪が縺れていた。シャツの裾がはだけていた。エレベータのなかでは立っていられず壁に背を凭れた。いつもは宝物の書棚の本が、古くさい時代がかった黴の匂を部屋中に撒いているようで、嫌な気持ちになった。無理矢理シャワーを浴びる。水が勢いよく身体を打つ。少しずつ眼覚める。少しずつしなやかな動物にもどる。大きめのタオルを頭から被り、リビングに行く。濡れた肌を本の微薫が薄いオブラートのようにくくむ。絨緞に座りこむと安堵の念が疲労を呼びもどし、崩れるような横臥に睡魔が襲う。再び、女は幽邃に眠る。 私は。 アパートの部屋の壁にプッシュピンでとめた凸面鏡の自画像があった。女から借りた豪華本をコピーしたものだ。下のほうが少し捲れあがっている正体の知れないパルミジァニーノがいた。女の秘密がこいつのなかにあった。得体の知れない焦燥の正体もこいつのなかにいた。閉じこめられた闇のような部屋。指を圧すとどこまでも呑まれていきそうな肥大した肉塊状の手。傲慢な、薄ら笑いともとれる眼。見つめるが、こいつの眼は曖昧な焦点で私の身体を通り抜けていく。透明な自分がいるばかりだった。 携帯電話が鳴った。眼覚時計の針は午後九時を過ぎている。電話の奥からくぐもった笑い声や嬌声が、雑然と聞きとれた。 「いま池袋。あそこで呑んでる。ひとりよ」女からだった。 「仕事は?」 「まあね」 何がまあねだかわからなかったが、なげやりな言葉の裏に酔った女の倦怠を感じた。仕事仲間とのトラブル、過密なスケジュール、諸々の、そして尾を曵く別れた男との縺れた感情。素直に休息できない人間がここにもいた。 さほどの仕度も必要ないので、すぐに部屋を出た。 車代が気になったが、通りに出るとタクシーはすぐにつかまった。池袋の東口に向かうように運転手に頼む。冷房の効いた車内は気持ちよかった。微かな残り香が鼻腔を掠める。前の女客の残した香水だろうか。それとも焼香帰りの客だろうか。少し末香臭い。そういえば、実家の小さな仏壇は二階の上がり口の押入の中に置かれていた。普段は襖で閉じられていたが、母が、空がないから可哀想だと雲という字を墨で書き、仏壇の収まった押入の天井に貼っていた。たまにあげる線香の煙が、細い曲線を描いて、天井の雲に向かって昇っていたのを覚えている。今でもあの雲は浮いているのだろうか。実家にはもうだいぶ帰っていない。ぼんやりと思い巡らす。匂はいつの間にか蜉蝣のあえない命のように消えていた。 女は店の止り木にいた。それほど酔っている様子はない。周りで騒ぐガリバーなど眼中にないわと言わんばかりに、真っ直ぐ背を伸ばしてグラスを傾けている。電話の様子とは違っているようで、不要に先走った自分の気持ちがいまいましかった。 「バルブスって知ってる?」 止り木に着くなり、いきなり女が言った。 「またかい」 私は呆れて苦笑する。 「サハラ砂漠に魚がいるのよ」 女は素っ頓狂に言う。焦点の合わない瞳が嘘っぽい。 「砂漠っていうとぜんぶ砂だと思うでしょ。ところが岩や砂利のほうが多いのね。そこに水があるの。とても奇麗な水。濁ってなんかいない」 女は自分に言い聞かせるように喋りつづける。 「砂漠に封じこめられた水よ。乾いた砂と砂利のなかで頑張ってる水。そこに鯉に似た口髯をもった魚がいるの。それがバルブスという魚なの。どこから来たんだろうね」 「君みたいな魚だな。バルブスは君そのものだ」 きっとそうだと理由もなく思った。 「私はバルブス。でも、どこから来たか忘れちゃった」 女は心なしか寂しそうに微笑んで私を見つめた。 砂漠の魚の真意はわからない。しかし、これは女の例え話であることは察した。勝ち気な女は自分の気持ちを挺直に語らない。そうやって自分を何かに準え、鼓舞し、励まして生きてきたのだろう。しなやかなように見えた首筋は、張りつめて凝縮した堅さを宿している。女は少しずつ酔いに落ちはじめているようだった。 「パルミジァニーノはどうしてあんな自画像を描いたんだろう」 私は独り言のように呟いた。 ガリバーたちの喧噪の実も熟して、一つ、また一つと店のカウンターから落ちていく。声高だった話し声も囁くようにひっそりと落ちつきはじめていた。 「単にナルシストだとしたら、ファンタジックというか、もっとロマンチックに描いてもよかったんじゃないかな。それにパルミジァニーノはあの絵のように本当に美しかったんだろうか」 「どうしてそう思うの?」 「だってあれって鏡だろう。ぜんぶ反対だよね。大きな右手も実は左手だし。容貌も、そして心も、描かれた絵とは裏返しだったんじゃないかなあ。それに君の砂漠の話で感じたんだけど、凸面鏡は水で、その外は砂漠。砂漠の水で生息するパルミジァニーノ。そんな気がしたんだ」 「パルミジァニーノは砂漠のオアシスに隠れたかった。そういうこと?」 「こうも考えられる。あれは自画像なんかじゃなかった。モナリザだって実はダ・ヴィンチ自身の顔がモデルだったという説がある。つまり凸面鏡は自画像ではなく女の肖像画だった。だれかを凸面鏡のなかに閉じこめた。それにあの大きな手の指は、どう見ても女の指だ。ホルバインの絵に捉えどころのない妙な形が描きこまれている二人の大使というのがある。正面から見ていると何だかわからない。ところが画面の左下から斜めに見るとそれは髑髏なんだ。凸面鏡の自画像ではあの大きな手が真実を伝える暗号なんじゃないか。それともう一つ。あの手はペニスを握っている」 「でもあれは男の子よね」 そう言って、女は黙った。心なしか白い肌から血の気が退いたように見えた。何かを隠している。 「だから、その逆」 そう言って、パラドックスに陥る。なぜならあれは鏡なのだから。そのまた逆も真ではないか。女は黙ったままだった。暫くして、 「私、女の子よね。男の子じゃない」 ぽつりと言う。 「どういう意味?」 「私は男の子にはなれない……抱いてほしい……」 女として抱いて。そう言っているかのようにとれた。何故。 酔客の列に並んでタクシーを待った。終電が終ったのだろう。池袋駅前はすでに眠りの準備に入っているようで、よそよそしかった。誰もがべとつく空気に疲弊し、不機嫌な苛つきを身体全身で露にしている。時々さあっといった風が吹き、細かい雨粒が顔に当たった。 女は肩を寄せてはいるが腕を組もうとはしない。ショルダーバックをきっちり肩にかけ、そろえた足できちっと立っている。無表情に待っている。可愛げがなかった。が、これが女の精一杯の勝ち気なのだろうと思えた。外国で働くことがどれだけの神経と体力を必要とするのか、私にはわからない。本人だけが味わう緊張と疲労感を絶え間なく蓄積していくのだろう。今ここですがれば、すべてが崩れてしまう。過去も未来もなし崩しに意味を失い、張っていた心は萎え、二度と立ちあがれなくなる。自分の足で立っているしか方法はないのだ。 タクシーは隠れ家へと向かう。雨が車のフロントガラスを強く打ちはじめた。私は座席に深く埋もれる。女はきちんと距離を置いて姿勢よく隣に座っている。斜めに見上げるようになった顎から眼にかけた女の横顔が、時々行き交う対向車のヘッドライトの明りを受け、フロントガラスを流れ落ちる雨模様を映して青く輝く。私たちは無口だった。
「抱いて」 女は、不確かな酔いを払い捨てるかのように、荒々しく抱きついてきた。ベッドが激しく軋む。女の腰が何度も何度も私を打ちつけた。乳房が揺れる。陰毛が夥しく濡れて、シーツを液が染める。女の狂ったような欲情に呼応するごとく、ますます激しい雨と風が寝室の窓を打ちはじめる。 遠くで稲妻の閃光が細く流れた。
5 梯子
「おはようございます」 珍しく、先生が、朝から仕事場にいる。椅子に足を組んで座り、途中まで仕上がったカレンダーのスケッチを見ている。いつものマドロスパイプはどうしたのだろう。先生の掌はからっぽだった。 「よお、ご苦労さん」 「今朝はお早いですね」 先生はスケッチを見つめたまま何も答えない。 「煙草あるかい?」 胸のポケットから取り出した煙草とライターを手渡す。 「朝の一服は旨いね」 それきり、先生は、一口ひとくち、ゆっくりと煙草をふかすばかりだった。蜩の濁声が室のなかに重い念仏のように沈殿している。 「先生。どうかされましたか?」 「家内がね、入院したよ……」言って、庭に眼をやる。
くるくる、くるくる。
杏の庭に着物姿の奥さんが朝の陽に透けていた。
くるくる、くるくる。
弱い者から落ちていく。壊れていく。 「疲れちゃったんだろうね。いろいろ面倒かけたから」 独り言のように先生は言う。 「デザインはね、楽しくなくちゃいけない。作るほうも見るほうも楽しくなくちゃいけない。疲れたら駄目だよ。色がなくなるもの」 ああ、これが先生の最後の講義だと直感した。二年間の個人授業が終ろうとしている。 後々知ったことではあったが、先生の外出は、つまり会議は、諸々の経費捻出の交渉だった。親族や親しい友人に頭を下げて周っていた。そのなかには私の月々の給料のこともあっただろう。いつの間にか、先生の事務所もよそのデザイン会社と同じように、経営不振に見舞われていたのだった。独りで気兼ねなく作業ができると安穏としていた自分のお気楽さに、今更ながら気恥ずかしさと悔しさを覚えずにはいられなかった。だからといって、私に何ができたというのだろうか。私は手足の見えない卵に過ぎないのだった。多分、この家は人手に渡るだろう。事務所も閉じるだろう。先生に残されるものは、屈辱と、悔やみ切れない後悔と、そして癒されない奥さんの心だった。 一匹の蜩が、窓から突然飛びこみ、壁にあたって落ちた。床の上をいつまでも羽を震わせて回転している。
くるくる、くるくる、くるくるくるくる。
中途半端なパルミジァニーノ。たっぷりと謎ぶったパルミジァニーノ。自ら取り入れた迷宮の選択肢。どこまでいっても欲求不満のパルミジァニーノ。 言葉の曖昧さだけが大理石の表面を転がっていく。
「退職金とはおこがましくて言えないけど」そう言って、先生は封筒を差し出した。カレンダーのプレゼンテーションが終えたその日の午後のことだった。 「カレンダーの仕上げは大丈夫ですか」 「外注にだすよ。あそこまで君がやってくれたんだ。少しの指示でできるだろう。それより君のほうはどうかね」 「はい」何とかなるでしょう、とつづけようとしたが、言葉にならなかった。 「先生。二年間ありがとうございました」それだけが精一杯だった。 これが二人の送別会だった。先生の好きな酒もなく、優しかった奥さんもいない。はじめて出逢った時、先生も奥さんもくったくなく笑っていた。そうかそうかよく来たね、と言って二人は嬉しそうにはしゃいでいた。影を落としはじめたのはついこの間のことだ。崩れるということは、こんなにも速いものなのか。 作業場の床を掃く。作業机を拭く。流しのゴミをかたづける。少ない私物を整理する。それだけだった。再びこの薮の家を訪れることはないだろう。二度と蕩けた石鹸でゴキブリを潰すことはないだろう。いつか、杏の木に毛虫がいたことも、朧な思い出となってしまうのだろう。 ウォホールのグッズがあった。ポップアートのグッズがあった。ファンシーグッズの店みたいに沢山あった。理屈がないようで理屈だらけ、ポップアートにそんな気がした。狭い店内を途中まで見て出た。美術館には入らなかった。荒んでいるのかなと自分で思った。こんなところにいる自分も嫌だった。わざとらしさが鼻についてたまらなかった。見てどうなる。ああ面白いねと自分に言い聞かせるのか。おっ、デザインされてるねって仕事ぶるのか。経済に切られた身分では白ける。版下マンでもデザイナーでもない自分がいるだけだった。 池袋に来ていた。いつもの窓沿いのカウンターでセルフサービスのコーヒーを飲む。窓の下には、夏の残り滓をとことん食い散らす逞しいガリバーたちが、元気に生きていた。駅前の街頭演説のスピーカーも力尽きて退散し、そろそろ街は夜の眼覚めを仕度する。明るい闇。煌々と輝く闇。瀕死をとぼけ切る街。池袋はそんな街のように思えた。 後ろから首を締められた。細くてしなやかな蛇のような指が十本、汗ばんだ首筋に絡んでいる。噛むように薄い爪が立つ。甘美ではかない匂が伴う。 「おひま?」女が耳元で囁いた。 「ずうっとひまです」 女が背後から私を抱きしめた。背負ってもあまりの軽さに感覚を失うようなひ弱さだった。跳ねてくるような肉の強さはどこに行ってしまったのだろう。 「中華料理たべにいこう」 女に言った。 「おっ、お大尽」 女はおどけて言う。 「たらふく呑もう」 「めっちゃ、飲んでいい?」 女は私を覗きこむような素振りで言った。 デパートのエレベーターを使って十階のレストラン街に昇れば、一軒や二軒、中華料理の食える店がある。先生にもらったいくばくかの退職金もあったし、考えてみれば、いつも女が呑み代を払っていた。こんな時にしか奢ることなどできないだろうと、それに女の消耗が気になった。中華料理だったらスタミナがつくだろうという、食い物に無頓着な単純な思いつきだった。こんな時は食べねばならない。そう思った。 餃子、焼売、海老チリソース、八宝菜、そして老酒の小瓶が五本あいたころ、閉店時間だからと私たちは店から追い出された。それから慌てて下りのエレベーターに乗りこんで地下へと降りる。そこからデパートを出て、やっと地上へと現われた。女はスキップを踏むように軽快に歩く。組まれた腕がその都度大きく引っぱられ、私の身体は右に左に泳ぐ。蛇行する。 「バルブスよ。君たち」 女は行き交う見知らぬガリバーたちを指差して大声で叫んだ。 「元気、元気。私も口髯もってるぞお」 「ひゃっほー」 茶髪のガリバーたちがひやかす。 「俺たち元気あまってんぜー」 「しっかり働けー、ガキども」 女は親指を立てて言う。 「オーケー、オーケー」 背後からいつまでたってもガリバーたちの陽気な声が聞こえた。
婆さんはロビーのカウンターの下でいつでもうたた寝だった。無視する。 身体の隅々にシャワーの冷たい水が染みていく。背後から女を抱きしめ乳房を包みほぐすと、女は弾力のある肉を少しづつ取りもどしていくように思えた。女は爪先立って顔に水を打つ。大量の水が、全身を嘗め、跳ね返され、白いタイルの上に落ちた。抱きしめたまま女の濡れた首筋を舌で這う。仄に淡い洋梨の味がした。 眠りつづけた。二人は、繋留し、離れ、また繋留し、ひと塊の凍てた肉塊となって眠りつづけた。二人は、全ての神経を殺し、錨となって、砂漠に閉じこめられた海の底に身を沈めた。問うことを暫の先送りにし、長い休息の櫨を漕いだ。 キーボードを叩く音で眼が覚めた。まだ眠りは足りていなかったが、消耗した身体をシーツにくるみ、ゆっくりと地上に降りた。女は、リビングの絨緞に裸であぐらをかき、パソコンを打っている。戸外の陽が分厚いカーテンを抜け切れず、リビングのなかは濃い桃色の空気で霞んでいた。朝夕が紛らわしく見当がつかない陽の明りだった。 そっと女の柔らかいシルエットに近づく。背後に座りこんで女の背中にゆっくりと舌を這わせる。 「なにしてるの?」 「メール」 「だれに?」 「おとこ」 「おとこなんかいたんだ」 「いっぱいいるよ」 「だれ?」 「編集長」 「それから?」 「作家」 「それから?」 「呑み屋の亭主」 「いつもいくところの?」 「そっ」 「ずいぶん手近で済ませてるね」 後ろ髪を歯でくわえて軽く引く。女は微かに呷く。 「まだ忘れられないんだ」 「なにが?」 「おとこ」 「どいつ?」 「あいつさ」 「あいつって?」 「凸面鏡のおとこ」 「どっちの?」 「どっち?」 女の細い胴がぐいと捩れて、小さな顔が向く。白い腕が首に絡みつく。 「あなたも同じ。自分のことはなにも言おうとしない」 女の舌が私の瞼を這う。 「自分勝手な眼ね。見ているようで見ていない。見ていないようで見ている」 女は耳元で囁くようにつづける。 「わざとらしい……」 冷えきった女の身体を抱きしめて唇を吸う。女の言葉の尻が喉の曲線に沿ってするすると私の腹のなかに滑り落ちて行く。細い蛇を呑みこんだ気分でぞっとする。 女が何を言いたかったのかわからなかったが、凸面鏡の男と同じという言葉は薄々理解できた。それは単なる勘に過ぎなかったが、表と裏に例えれば、はたしてどちらを表と呼び、どちらをあえて裏と称するのか。表裏一体では括れない、見えない側面がいくつもあって、見えるようで見えない。または、見えないようで見えるから、全てが曖昧で確固としたものが掴めない。ひょっとしたら、サルバドール・ダリがひょいと摘んでみせた海面は、そんな不確かさに苛々した腹いせではなかっただろうか。女もあっちとこっちの不自然に苛ついていたのではなかろうか。そう思えたのだ。 「はっきりさせたいの」 「帰るのか」 「疲れたわ」 俯いた女の顔が影で潰れる。黒い仮面のようだ。 「あのね、ポントルモって画家知ってる?」 女は、切り返すように、いきなり笑んで訊く。 「ああ、知ってるよ」 「勉強したの?」 「少しね。パルミジァニーノのこと知りたかったから」 「私も梯子がほしくなったの」 「一人になりたいの?」 「わからない……」 女は俯いたまま亜麻色の髪を左右に振る。私はその頭を身体ごとシーツで包み、首のところを両手で軽く絞めた。まるで大きな照々坊主のようだ。布を顔に馴染ませると、息苦しいのか、口もとの部分が息を吸うたびに浅い洞窟になったり、小さな風船のように膨らむ。そのうち、女は、含み笑いだろうか、俯いてくくっといったくぐもった声を漏らし、小刻みに身体を揺らしはじめた。自分の滑稽な姿を想像して面白がっているのか、それは暫く続いた。 どのくらい過ぎただろうか。身体の揺れがなくなった。私は、女の顔を覆った白い布の眼と鼻筋の左右にあたる辺りが、ほんの少し滲んで、変色していることに気づいた。泣いていたのだ。見ているようで見ていない自分がいた。 女には都合を忘れた情があった。割り切り方に言い知れぬ可愛さがあった。眼の色が人前で変わらなかった。それゆえ持続には限界があった。他との接触に疲れはじめ、自己の内部へと沈潜していく女がいた。 ポントルモは、その逃げ方を知っていた。 窓がない部屋……フランチェスコ・メディチ 重く暗いカーテンを下ろした部屋……エル・グレコ ボマルツォの聖なる森……ヴィチーノ・オルシーニ そして、昇り梯子の隠し部屋……ヤコポ・ダ・ポントルモがいた。 ポントルモは外部との接触を恐れ、梯子を使って自己の内へと巧みに逃げおおせたマニエリスト。パルミジァニーノには錬金術があった。が、はたしてそうだったのだろうか。パルミジァニーノは本当に錬金術に逃げたのだろうか。
「パルミジァニーノの奴め、おかしいぜ。いかれてる」 「ついこの間も見かけたぜ。ラファエロの絵を模写していやがった」 「何だか最近では黄金を作るって夢中になってるみたいだな」 「へん。俺だって黄金は腐るほど欲しいぜ」 「おまえに黄金ができるくらいだったら、街の連中みんなが金持ちだ。だがよ、パルミジァニーノの奴、教会に取っ捕まって殺されなきゃいいけどよ」 それよりも何も、フィレンツェのすべての人間たちが疫病の恐怖に慄いていた。いつでも誰でも、金持ちも貧民も、誰かまわなくあっけなく死んだ。ローマ教会は堕落の底を晒し、宗教改革が吹き荒んでいた。信仰は人を殺す大義となって不安と混乱の時代を導き、あらゆる階層にわたって思いあがりの宗教だけが蔓延した。子供たちまでが、街の広場で数々の芸術品を火に葬っていた。ボッチィチェリの絵を焼いた。フィレンツェは貧困と伝染病と懐疑と秩序の曖昧に喘ぎ、金切り声をあげて狂っていた。まさに、ルネサンスの無力と虚しさが露呈した、画家イル・パルミジァニーノの生きた時だった。 「君の立っているここ、そお、その足下。知ってるかい? じつはまあるくて、ぐるぐる廻ってるんだ。そして、廻りながら、あの太陽の周りをものすごい速さでやっぱり廻ってるんだよ。知ってるかい?」 あらゆる中心を奪ったのは、コペルニクスだった。たった一人の既成概念の潰決が世界の全てを改替し、ルネサンスの輝ける思いこみが虚しい泡沫のごとく飛び散った。パルミジァニーノが投獄のうちに三十七歳で死んでから後、一五四三年のことである。
しかし、パルミジァニーノにとって、本当に錬金術が彼の梯子だったのだろうか。
「君だけの梯子なのか」と女に問いたかった。ポントルモの梯子はポントルモ一人のものでしかない。君は君だけの梯子でどこへ隠れようとしているのか。どこへ行こうとしているのか。 冷え切った女の身体を仔猫を慈しむように抱きすくめる。小さくなった女が私のあぐらのなかにすっぽりと埋まっていた。
6 崩壊位置
デザイン会社をいくつか訪ねた。どこも瀕死の状態で新手を雇う余裕などあろうはずもない。新宿で石を投げればデザイナーに当たると言われた時期もあったと聞く。デザインは終わったのだろうか。デザインという仕事はなくなっていくのだろうか。デザインという仕事は結局、広告の道具でしかなかったのだろうか。経済が腐っただけで簡単に行き詰まるデザイ事務所とデザイナー。自分は今その落胤として未熟児のまま終えようとしているのではないだろうか。 乾いた喉の奥に缶コーヒーのしつこい甘さが落ちていく。街は黄昏て沈む。待っていたはずの蜩は啼くのをやめて、落ちて溶ける。そして、いつものようにあそこには、他人の匂が忍びこんでいるに違いない。いつまでたっても消すことのできない停滞の迷路。洞穴の苔た湿気が敷き放した布団に燻り、気怠く、晴れない他人の欝陶しさを匿っている。私は自分の部屋に帰る気にはなれなかった。 女はどうしているだろう。自分の梯子を見つけたろうか。それとも相変わらず原稿の締め切りに追われいるのだろうか。他人と諍い、梯子どころか、自分の居場所さえ失いかけているのではなかろうか。 女は傾斜していた。崩壊の途中にあった。そして美しかった。 橋の下に黒い水が流れている。不透明な水面の奥には、あのどぶ河のように様々な死屍が沈んでいるのだろうか。橋の欄干から見下ろす川は、漣の表面だけを繰り返し、長く連なる中身の見えない棺のようだった。脇を車が何台も猛スピードで走り去っていく。風圧が足を掬う。身体が軽い。橋の上でどのくらいの時間が過ぎていっただろう。茜色の陽が落ちて川面が白く輝くと、間もなく橋は黒い塊となった。車のヘッドライトが橋の路面を白く照して走り抜けていく。この橋を渡り切り、暫く歩けば女のホテルに行ける。けれど、このまま橋の上にいれば、女がスクーターでやってくるのではないか。女に電話を入れて確認すれば済むことであったが、待ってみたかった。馬鹿げた賭が今の自分には相応しいと理由もなく思う。 後生大事な作品。二年の間に先生の下で作ったパンフレットやカタログを詰めこんだショルダーバッグを路面に置き、欄干を背に座りこむ。煙草の白く濁った煙が、眼の前で渦を巻き、四方に散っていく。吸殻を川に落すと、一瞬、真っ赤に光って闇に消えた。どす黒い闇だけが残った。通り過ぎる車のライトに照らされて、私の身体は白い影法師のように橋の上に浮く。冷気が肌を嘗める。 携帯電話が鳴った。時計は七時を回っている。女からだった。雑音が入って聞きとりにくい。女はスクーターを飛ばしながら携帯電話を掛けているようだった。橋の上にいると言ったら、馬鹿ねと返ってきた。橋まで五分もかからないと言っている。こうなることは、私にはわかっていた。わざとらしいつまらない賭だった。女は必ず携帯に電話をくれたし、仕事のおおよその予定も聞いていた。不快な嫌悪感。 やがて、ヘルメットに素顔を埋めた女のスクーターが、私の眼の前に滑りこんできた。女はスクーターに跨がったままゆっくりとヘルメットを脱ぐ。女の顔が闇に浮いた。驚くほど白い。 「馬鹿な人」 対向車線の車のライトが女の顔を照らして通り過ぎて行った。 「私も馬鹿なの」 突然、白いヘルメットが宙に舞い、橋の下へと落ちていく。まるで、吐いた唾が弧を描いてどぶ河に落ちていくように、ゆっくりと。 「おしまいにする」 エレベーターのなかで、女は私に背を向けたまま唐突に言った。いきなり女の冷えた血が自分の身体に流れこんだような気がして、身体中が凍てた。いったい何を終わりにするというのか。姿勢のいい背筋から女の幽念が伝わってくる。やがて扉が開いて、女が先に部屋へと向かった。 「なぜ?」 女の細い背中を追いながら私は訊いた。ショルダーバックが肩に食いこみ痛い。ドアの鍵を開ける金属音が静まり返った廊下に響いた。部屋のなかに入ると、紙の湿った匂が私たちを緩慢に包んだ。書棚が迷路の壁のように聳えている。 「あなたの推理」 女はコーヒーの豆を挽きながら言った。がりがりと豆が砕ける音が本の谷間に響きわたった。こんなときでも女は豆を挽く。よく冷えた缶ビールの栓を乱暴に引き千切り、吹きこぼれる液体を思い切り喉の奥にぶつけでもするほうが、よっぽどいいのではと思えたが、女は力まかせに豆を挽き、そしてコーヒーメーカーをセットする。 「あなたの推理は間違っている」 「なんのこと?」 「パルミジァニーノの手のこと」 「女の手だということ?」 「あれはパルミジァニーノの手だわ。女の手なんかじゃない」 絨緞に直に置いたコーヒーメーカーが湯の音をたてはじめた。煎った豆の薫りがゆっくりとリビングに広がる。女は、黄褐色のマグカップに七分ほどコーヒーを注ぎ、少し微笑んで、どうぞと私に目配せした。 おしまいにするのと言った女の言葉の意味をつかめずにいたが、私の頭のなかは、昼間に飲んだ自動販売機の缶コーヒーとは随分違うなあとぼんやり思いながら、マグカップの熱いコーヒーを啜っていた。せめて砂糖を少し入れてくれればいいのにとも思った。分厚い絨緞が座りこんだ尻に優しい。 「ペニスを握った手とあなたは言ったわ。それはあなたが正しい。あの仕種、いつだって彼らには裏があるんだわ」 部屋に入る前の女の思い詰めたような後ろ姿は、私の見間違いだったのだろうか。女は意外と軽やかだ。焦点の合わせられない瞳が、初めて出逢ったときのように、悪戯な仔猫の眼になっていた。けれども、その眼は自然ではなかった。不安定な情緒を隠し切れない。 女は何故パルミジァニーノにこだわっているのか。パルミジァニーノと女を捨てた男の関係はいったい何なのか。 私は女の謎を知りたくてパルミジァニーノについて少しずつ漁った。知れたことではあったが、ひと通りは頭に入れた。女に出逢ったときに味わった屈辱もあったが、それ以上に、あいつは私を不可解な焦燥に駆りたてた張本人なのだ。そして、たった一枚の小さなモノクロの絵で、未だにその意味を理解できない私の不満と焦りを無意識下に植えつけた。
「ローマに行きたい。このままではいずれ、自分は何者にもなれずこの街で燻り、朽ちていくだけだ」 ある日、若い男は床屋の凸面鏡に映る奇妙に歪んだ自分の姿を見る。それは、逆さまに見る風景のように、初めて見る自分という風景だった。美しい顔を中心に、魚眼的に拡大する周囲。微かに明りが差しこむ窓は上方で湾曲し、手前に置いた左手が不気味に肥大している。見覚えのない自分の手。男はその風景を絵に写した。
「絵の内容なんかじゃないの。あの絵はパルミジァニーノがローマに行きたくて、ローマ教皇クレメンス七世に献上するために描いた三枚の絵の一つよね」 からかうように、女は私の頭をくしゃくしゃとかき回す。性悪な女めと思う。私は冷めかけたコーヒーを飲みこむ。 「つまり、パトロン獲得のための絵なの。二十歳のパルミジァニーノの自画像は、自己アピールのための奇抜な絵だったというわけ。とにかく目立たなければ、厚遇な宮仕えにはなれなかったのね」 そして、あなたも同じ。宮仕えのために、色褪せたデザインの束を抱えて街を歩き回っている。橋の上でぼやいている。 女は、幼い子供をあやすように、また私の髪を撫でつけた。 「それで?」私は生意気な女に切り返す。 「そのことと君とはどんな関係があるんだ」 「J'ai oublie, Monsieur」 「ごまかすな」 「モウイイノ」 「いったい何があったんだ。男とただ別れただけじゃないだろう」 私は曖昧な女に苛立ち執拗になりじめていた。ここで答を出さない限り、もうこの謎はわからずじまいになる。女は陰湿な謎を抱えている。蛇のような曲線を描く痙攣した秘密。私は女の内の蛇を自分の体内に呑みこもうとしていた。それはきっと、女の〈絶対〉に違いないのだ。女の秘密=蛇を、私は呑む。 女の短い髪を乱暴につかんで引き寄せた。女の瞳がすでに濡れて、ますます焦点が定められない。間もなく、大きな雫が女の頬を伝わった。しがみつき、がむしゃらに唇をおしつけてくる女の身体が、がちがちと震えている。壊れたマリオネットが軋むように、女の華奢な骨が音をたてている。すべての関節が捩れ、ほどけていくようだった。女の全てが解体すれば……。わからない。女の持ちつづける〈絶対〉の時間。わからない。 憔悴した女が私の懐にいた。結局、私は女の蛇を呑みこむことができなかった。蛇は再び女の内へと身を伏す。ポントルモも、パルミジァニーノも、独りで隠れていたのだろうか。パルミジァニーノは、自画像のなかの美貌を失ってまで、錬金術という梯子を使って隠れたかったのか。女は、自分の何を引き替えに、自分だけの梯子を見つけようとしているのか。いったい何をおしまいにするというのだろうか。女の謎は暗い淵に潜みつづける。 隣で寝ていたはずの女がいない。 私はベッドを降りてリビングに出た。置き去りにされたコーヒーメーカーから冷めたコーヒーをマグカップに注ぎ、飲み干す。廊下からパソコンのキーボードを叩く微かな音が聞こえてくる。多分、女は男に送るメールを打っているのだろう。モニターの青白い光が、半開きのドアから漏れて、廊下の暗闇に散っている。 私はベッドにもどった。横たわり、微かに聴きとれるキーボードの音に耳を澄ました。音は、不定型な細い輪ゴムの淵を彷徨うように、よたよたと危うかった。もしもこれが女の喋る声だとしたらと思う。切れ切れの音は嗚咽で息を呑む言葉かもしれない。短く鋭い音は諦めのヒステリーであるかもしれない。また、長い間隔は、死を覚悟した……それは誰の死であるのか私にはわからなかったが……そんなふうに、キーボードの音は、私の薄らいでいく意識のなかをいつまでも徘徊した。 どのくらいの時間が過ぎたのか。女の肌が触れて私は薄い意識に眼覚めた。女の唇が素肌の肩におしあてられ、生温かい舌が這う。耳元で掠れた声が囁く……J'ai oublie, Monsieur.…… 私は再び薄れていく意識のなかで女の髪を撫でた。 女は私の腕のなかで仔猫のように香を囲って眠った。
7 懐中の蛇
翌日、眼を覚ましたのは午後の二時ごろだった。女は取材があると、たいした睡眠もとらず、早朝にホテルを出ていた。取り残された私は、何をするでもなくベッドのなかにいて、女の残香を毛布のなかに囲って怠惰に時を潰した。 女は仕事を辞めたらここを引きあげるのだろうか。それとも、引きつづき本の管理をすることで、ここに居つづけるのだろうか。女には決着をつけなければならない何かがある。昨夜はそれをつきとめられずに終えた。女の口から蛇を引き出すことは叶わないと感じた。いずれにしても、このままでは、女は仕事を辞めてしまうだろう。ここに残るのか、あるいはフランスにもどるのか、私にはわからない。私のほうといえば、就職のあてはなく、多少の面倒を感じたが思い詰めるほどの気分でもなかった。なるようになるさ。近いうち、コピーライターをやっている友人の事務所に顔を出して、小さな仕事でも世話してもらおう。それで暫く凌いでみよう。それも駄目ならいよいよプー太郎にでもなるさ……中途半端な自分がいた。中断した目論見が私を無気力にする。 窓の外はすでに暗かった。サイドテーブルの眼覚時計は五時を示している。吐いた煙草の煙が、明りを灯したスタンドの周囲に漂い、じき寝室の四方に消えていった。 シーツに灰を落として、慌ててベッドの上に起きあがる。灰を掌で何度も払ったが、真っ白なシーツに灰色の汚れを残した。 ふと、コピーライターの友人のことを思い出す。そう言えば、奴はフランス語も使えたっけ。奴に頼めば何とかなる。何故こんなことに気づかなかったのだろう。迂遠な自分が情けない。 ベッドを抜けてパソコンのある部屋に行った。 装飾の皆無。誂えの機能室。知らない誰かが腰掛けているかのような背凭れの高い椅子。誰もいるはずがない。ただし、パソコンの置かれたこの部屋には、秘密の蛇が必ず潜んでいるはずだ。背筋に冷気を感じる。 パソコンのスイッチを入れた。画面が現われ、暗い部屋に強い光が散った。女は自分を捨てた男にメールを送っている。その送信済みのメールが控えとして残っているはずだ。遊び半分で女に教えてもらった知識を思い出しながら、恐る恐るマウスを動かす。Netscapeからメールボックスを開く。INBOX、そして送信済みフォルダーがあった。送信済みのメールが百件近くある。試しに中程の一件にマウスを当ててみる。下部のフレームに本文が現われた。すこぶる順調だ。 フランス語の短文。宛先を探ってみると、どうやら雑誌の本誌を発行している出版社のようである。そのすぐ下を開いてみる。英語の長文。覚束ない英語力によると、インタビューの申込みのようだ。日付から判断すると、下にいくほど新しいメールであることが理解できた。一番下にいって、順々に宛先を確認してみた。跳び跳びではあるが、メールアドレスが同じで冒頭の宛名が同一のフランス文を五件見つけられた。果たして、これが目当てのメールなのだろうか。私は腹を括って全てのメールを開いてみることにした。 女は、取材の後いったん出版社にもどって原稿の整理をすると、出掛けに言っていた。ここにもどってくるのは多分、八時から九時くらいの間だろう。その間に目星いメールを見つけてプリントしなければならない。パソコンの時間表示を見ると六時半を過ぎたところだった。プリント操作が不安だったが、やるしかない。 それからが苦痛だった。チェック済みのメールの記録方法がわからないのだ。三分の一ぐらい辿ってやっと気づいたのが、フレームにある赤い旗印だった。これにマウスを当てると確認済みのメールに旗がつけられる。何と疎いのだろう。 そうやって送信済みメールの全てを確認し終えたときには、すでに七時半を過ぎていた。目星をつけたメールを数えてみると、先の五件を含めて合計十六件もある。プリントにどれだけの時間を喰われるか、躊躇している余裕はなかった。 ディスプレイのファイルからプリントの項目を開くと、プリントの指示が現われた。意外とわかりやすい。試しに目星をつけた一番下のメールをプリントしてみる。 A四サイズの紙がプリンターの口から出はじめた。いい調子だ。うまくいく。しかし、どうにも時間が気になった。メール一件のプリント時間から推すと、どうしても三十分はかかるように思えた。プリントが終えたら旗印も外しておかなければならない。メールを開いた痕跡を残してはならなかった。 私は先回りしようと寝室にもどって女の携帯に電話を入れた。 「はい」女が応えた。疲れた声だ。 「会社?」 「そうよ。どうしたの?」 「いや、何となくね。仕事のほうはうまくいってるかなって」 「それなりにね……」 女は訝しげだ。それでも、 「寂しいんでしょ」と言ってけらけら笑って、 「そうね、あと三十分もすればかたづくわ。食事はどうしたの?」と訊いた。 「まだだよ」 「ね、こっちに出てきて。いつものところ」 「そうだね、先に着いたほうが呑みはじめてよう」 「じゃあね」 女が電話を切る。私はパソコンの部屋に取って返す。プリント再開。紙がこすれる微かな音がする。プリンターの口から秘密をまとった蛇が吐き出されてくる。 合計十六枚。私は十六匹の蛇を懐に忍ばせる。まるで女の肉体が私の肉体の一部に無理やり付着したような気分になる。私は眼の焦点を失ってバランスを崩した。 「呪文でもかけてあるのか……」 立ち眩みに耐えて、パソコンのスイッチを落とす。部屋は再び黒くなる。 女はすでに呑んでいた。いつもはバーで待っているくせに、今夜の女は、ボックスのソファーに深く埋って、大儀そうにグラスを口に充てていた。女の疲労と私の隠し事が不自然に絡まり、二人とも無口だった。時々、女は、私を抱き寄せると、焦点の合わない眼でじっと私を見つめ、そして柔らかい唇を幾度もおしつけた。焦点の喪失と眩暈。秘事と失語。若きバーテンはナルシスとなって美酒を振るう。懐に棲まわせた互いの蛇が、腑の抜けた二人に絡みつき、赤く細い舌をちろちろと弄ぶ。 その夜、二人がホテルにもどったのは、結局夜中の二時を過ぎていた。相変わらずカウンターの下で居眠りの婆さんも気づかなかったほどに、私たちの帰還は静かなものだった。そして、後ろめたい私の一日が終えた。 「今夜、会えるか?」 「ああ、いいよ。どうせ暇だしな」 翌日の午後、私はコピーライターの友人に電話を入れた。女はたいした睡眠をとらずに出社していた。こんなことなら、昨夜あんなに慌てることもなかったと阿呆らしく思う。 「おまえが電話してくるなんて珍しいなあ」 小馬鹿にしたように奴が言った。 「ちょっと頼みたいことがあるんだよ」 「貸す金はないぜ」 そう言って奴は電話の向こうで馬鹿笑いをした。こいつもなげてるなと感じた。仕事など回ってこないだろう。まあ、いいさ。互いに恩義などないのだし、奴に私を面倒みなければならない義務はない。無報酬で十六匹の蛇を料理してくれさえすればそれでいい。 「今夜七時ごろ、会社の近くからもう一度電話を入れるよ」 電話を切ってリビングに出た。 書棚からパルミジァニーノの画集を引っぱり出し、絨緞の上で頁をめくる。ヴァザーリの画人伝を頭のなかで辿る。 ヴァザーリは嘆いた。〈優美〉を掌中にしたパルマの画人が何故に水銀を固める奇矯に向かったのかを。天才を打ち捨ててまでどうして富にうつつを抜かしたのかを。けして見つけることのできないことに時と技を犠牲にし、人生も名声も無にしたのかを。素直に己の才を磨いてさえいれば、芸術において並ぶ者とてないものをと。 更に、私は『凸面鏡の自画像』の変遷を思う。 レオナルド・ダ・ヴィンチの工房で描かれたかもしれぬ凸面鏡の自画像は、天使城クレメンス七世からピエトロ・アレティーノ、ヴェニスの彫刻家、そしてリルケとカフカの生まれたプラーハの画家である帝国伯爵アルチンボルドの活躍したルドルフ二世を経由し、今、ウィーンにある。この優美な変遷。それ自体こそ、凸面鏡の自画像の迷宮を象徴し、アリアドネの糸となって、パルミジァニーノは魔術のなかで迷子となった。そして、放棄と狂気と死。放擲のパルミジァニーノ。聖母と聖人たちが、長い首の聖母が、バラを持てる聖母が、羊飼いが、そして、諧謔と分裂の荒野の洗礼者ヨハネが、画集のなかにいた。 唐突な思いが私を襲う。マニエリストの両義性。つまり、男と女について。凸面鏡のパルミジァニーノを見ろ。あれはつまり、男であり女だ。 〈オトコオンナ〉 女の蛇がここにあるに違いない。私は理屈もなく断定する。 「女として抱いて……」 いつか女の言った意味不明の言葉を思い出す。
市ヶ谷の駅に降りていた。構内の時計は六時を過ぎたばかりだった。私は逸る気持ちを抑えられずに早めにホテルを出たのだった。友人の勤める広告会社は、村とまで言われるほどの最大手の印刷会社のすぐ傍にあった。駅から歩いて五分とかからないだろう。 蒸した空気が夕方の街に停滞し、急勾配な坂に通りの明りが映えていた。滑り止めのためだろうか、直径五センチほどの円形の窪みが、アスファルトの坂道に幾つもあって、まるで魚の眼球を敷き詰めたようだ。足を踏み出すたびに身体の重さを感じた。 坂を登り切って角を右折すれば、そこはもう巨大な印刷村である。その角に友人の会社が詰めるビルがあった。約束の時間にはほど遠い。どこかで時間を潰さなければならなかった。 漫然と見上げたビルの屋上から一羽の烏が飛び去った。空には灰色の雲に姿を隠した月があった。
8 聖なる森
「これを訳してほしいんだ」 茶封筒をテーブルの上に置いて、私は言った。 「相変わらずせっかちな野郎だなあ」 奴は、微かな苦笑いを片方の頬に浮かべて言った。 私たちは坂下の居酒屋にいた。店はすでに仕事帰りのビジネスマンで満たされている。大きな封筒をテーブルの脇に置いて飲んでいるのは、印刷村の人間に違いない。封筒のなかには、以前私がつくっていたような版下や色校がきっと入っている。仕事を辞めてから随分と長い時間が過ぎてしまったような気がした。先生は今ごろどうしているだろう。奥さんの具合は良くなったのだろうか。 奴は、ビールの泡を嘗めるようにジョッキーに口をあてて、テーブルの茶封筒をひっくり返している。 「フランス語なんだ。すまんが訳してくれないか」 「いいけど。ざっとでいいのか?」 「ああ、だいたいの意味がわかればいいんだ」 あっさり引き受けてくれた奴に、私は安堵した。皮肉屋の奴にしては意外だった。たまたま一度ばかり仕事をともにし、それ以来、こいつとは月に一、二回飲むつきあいになった。つきあいはじめて一年近くになっただろうか。二人にとって何のメリットもなかったが、却ってそれが気楽だったのかもしれない。人を小馬鹿にしたような多少皮肉ぽいこいつの性格が、私にとってはむしろ気を遣わないですんだし、向きにならずにもいられた。 奴は十六枚のコピー用紙を順に読みはじめていた。雑然とした喧騒が店のなかに充満している。必要以上に厚手のジョッキーは、口あたりが悪く、ビールはまずかった。女といつも呑む店を思い出す。昨夜の疲れた女を思い出す。女は今夜も仕事に追われているのだろうか。女の疲労は単に仕事のせいなのだろうか。その疑問が、今、解けるはずだった。 「おまえの知りたいのは……」 「ああ、ごめん。どうだい?」 私は、慌てて応える。 「この六枚だよ」 断定するように奴は言った。 「他は関係ないだろう。ぜんぶ仕事絡みだ」 呑み干したジョッキーを店の者に示しながら、 「おまえ、何かあったのか?」 と探るように言った。いかにも心配そうな顔つきが可笑しかった。こいつらしくもない。 「つきあっている女がいるんだ」 多少の事情説明は止むを得ない。そうしなければ、メールの意図する内容を理解するにも充分とは言えなくなる。 「フランス人の女か」 「そうだ。メールの内容を説明してくれないか」 奴は新しいジョッキーを、今度は勢いよく半分ほどあけた。 「相手のメールがわからないから、これは推理だ。この女のメールから推察するしかない」 とにかく、私は奴の説明を一通り聞く。 「宛先は六通とも女の両親だ。女は多分この二人に脅迫されている。あるいは父親からかもしれない」 私は不思議に思った。女と出逢ったころ、嫌がらせの呪文のようなものを男に送ったと、女は言っていた。男とは父親のことだったのだろうか。それとも、それも嘘だったのだろうか。そういえば、そのような送信済みのメールは見当たらなかった。すでに消去していたのだろうか。 「早くもどってくるように脅されている。女は拒否しているようだ。母親のことで何か懇願しているようだが、何のことかわからない」 更に、 「パルミジァニーノって何だ。凸面鏡って? おまえわかるか?」 と訊いた。 私はパルミジァニーノの自画像についてかいつまんで説明し、先を促した。 「それについてなんて書いてあるんだ?」 「私はパルミジァニーノじゃない、と言っている」 つづけて、 「これは多分おまえのことだろう。恋人ができたと言っている」 そう言って奴は文面の一箇所を差し示した。 「これは、だいぶ狂ってるぜ。女がもどらなければ、向こうでやってきそうな気配を感じる。女はいつごろからこっちにいるんだ?」 「一年ほど経つらしい」 「きっと耐えられなくなって逃げてきたんだな。おまえも気をつけたほうがいい」 そう言って奴はまじまじと私を見つめた。いつになく、奴は真面目だった。ジョッキーの柄を握る拳に力が入っている。そして、低く、吐き出すように言った。 「近親相姦だ……」 ねっとりとした重い空気が二人を覆った。苦味だけのビールが胃に落ちていく。 それにしても……疑問が残る。パルミジァニーノの謎はいったいどうなるのだ。女と父親の関係が、もしも奴の言う通りだとしても、何故そこにパルミジァニーノが存在するのか。何を意味し、象徴しているのか。 その後、私はデザイン事務所を辞めたことや、仕事があったら回してほしい由を簡単に伝え、それから三十分ばかり呑んで二人は店を出た。別れ際に、今度はファクスで送ってくれればいいぞ、どうせほかにフランス語ができる人間はいないからな、と怒鳴りながら後ろ手を振って、奴は駅の構内に消えていった。
女の蛇が姿を見せた。想像もつかない女の秘密だった。私に呑みこめる道理がない。しかし、曖昧な点が幾つもある。父親の脅迫とは。母親についての懇願とは。更に、父親との関係はいつのころからなのか。憔悴し、怯えなれけばならないほど、執拗な状況なのか。そして再び……パルミジァニーノは何を意味しているのか。 地下鉄有楽町線は池袋に向かっていた。 薄いグラスでビールを呑みなおしたかった。女と初めて呑んだ店で独りで飲みたかった。女は、メールのなかで、恋人ができたと言っていた。父親から逃げる方便かもしれない。けれども、私は女の恋人なのだと改めて思った。異国での唯一の肉親なのだとも思えた。女は今、滑った沼の淵で立ち往生している。沼の底は、井守や蛙の死骸が沈む、諦めの涯だ。どんなに強がってみても、身についてしまった生理は容易に修正できない忌まわしい業火だ。果たして、私はその火を払うことができるのか。 不敵な笑みを浮かべた巨大なパルミジァニーノの顔が、車窓の向こう側で、幾つも幾つも後方へと飛び去っていった。
私は、頭を抱え、絨緞にくの字になって寝そべっていた。激しい頭痛がいつまでたっても消えない。ひどい寒気もあった。独り酒がいけなかったのだろう。ホテルに辿りついた途端、激しい吐気に襲われ、したたか吐いた。酔いよりも頭痛のほうが勝ってしまったようだった。寝室の収納庫からようやく見つけた頭痛薬を飲んだが、効き目はいまだにない。 女はもどっていなかった。留守電には何も残されていない。雑誌の校了の時期でもなかったから、女も仕事仲間と呑んでいるのだろうか。携帯に電話が入ってもよさそうだが、それもなかった。女の秘密を知ったせいか、こちらから電話を入れるのは何となく気後れがした。すでに一時を回っている。 寒気がつづいていたが、それでも熱い湯に浸かった。気分がほぐれていく。暫し全てを忘れる。薬が効いてきたのか、頭痛も穏やかになり、微かな睡魔が現われた。重たくなった首が浴槽の縁に凭れかかっていく。いつか、覚醒とうたた寝の狭間で、私は胸苦しい夢を紡いだ。 ――そこは生い繁る潅木と雑草に包みこまれた森の廃園だった。苔むした無数の巨大な凝灰石が茨のなかに散在している。石は、龍舌蘭の鉢を頭上に戴いた巨大なニンフであった。優に八メートルを越すヘラクレスであった。腰を地中深く埋めた海神であった。そして、彼等は心々に異様なおらびをあげていた。にもかかわらず、森は一塊のシルエットとなって月光のなかに幽寂と浮いていた。 私の〈眼〉は宙に浮いて森の樹木の透間を徘徊していた。やがて〈眼〉は純白のドレスをまとった一人の少女を捉える。ドレスの裾が森の土と樹液に汚れていた。袖は鋭い茨で裂けていた。白い腕が剥き出して幾条もの細い深紅の筋を描いていた。少女は、まるで火照る身体を宥めるかのように、大きな呼吸を繰り返した。眼は、恍惚として方向を失い虚空を彷徨う。はだけた胸元には青く固い乳房があった。〈眼〉は歩きはじめた少女を追う。見計らったかのように、石の怪物たちがおし殺した呻きを森に轟かせる。月光が降りそそぐシャワーのように少女を包む。 突然、少女の前を男の青白い影が立ち塞がる。少女は思わず男に背を向ける。 「ああ……」 少女は絶望と歓喜の呻きを発して膝を落とした。見上げた少女の瞳のなかに、正体不明の女が、シルエットとなって、月光を背にして聳えていた。〈眼〉は、森の遥か上空に浮き、三人を見つめている。〈眼〉は、眼でしかなく、ただ見ているに過ぎなかった。それは干渉なき物体だった││。 額から流れ落ちる湯で眼が覚めた。 眼の前に、屈んで私を覗きこむ女がいた。 「気持ちよさそうね」 そう言って、女は湯を掌で掬って私の頭にそっと流した。静かで優しい仕種だった。どうして女はこんなにも穏やかでいられるのだろう。あれだけの秘密を隠し持ちながら、こんなにも密やかでいられる女が、美しかった。 女の小さな唇に濡れた人差指をあてる。ふくらみが柔らかだ。吸いつくように滑らかだ。すっと指の先が唇のなかに吸いこまれる。舌が指先に絡む。思わず、私は指を引いていた。 「呑んでたのか」 「いいえ」 「ずいぶん遅かったね」 「心配した?」 今度は私が女の頭に湯を掬って流してやった。女は抵抗もせず、浴槽のなかの私を見つめている。もう一度湯をかける。透明な湯が女の顔面を流れ落ちていく。顔に朱が刺す。今度は両手で掬った湯をかける。髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。マスカラが眼の縁に溶けた。更に、私は女の顔をぐしゃぐしゃと撫で回す。滅茶苦茶。 突然、女は立ち上がり、浴槽を股いだ。勢いよく湯に浸かる。 「こいつ、調子に乗るなよお」 女は叫んだ。そして力いっぱい、私を抱きしめた。湯が跳ねた。 「スーツが一本、オシャカだね」 「いい。あなたに買ってもらう」 「そんな金ないよ」 「いい。あなたがいれば」 「恋人だから?」 「えっ?」 「なんでもないさ」 私は湯に沈み、はだけたシャツから覗く林檎のような女の乳房を噛った。
9 歪曲の天使
熱が出た。やはり風邪をひいた。呆れるくらい当り前過ぎる自分の身体。かなりの消耗だ。仕事もしないでいるのに、無闇に疲れる。随分と勝手なものだ。拘束される時間がないのならば、やりたいことができるはずなのに、そうでもない。時間の経過だけが几帳面に役目を務め、自分は今日の曜日さえ思い出せないでいる。不必要なことはことごとく日常の内に置き忘れている。 日曜日の午後。そうだ、今日は確かに日曜日だ。 池袋。私はいつもの喫茶店で、いつもの席で、いつものように窓の下を覗いている。コーヒーカップの底に温いコーヒーを残し、灰皿には六本の吸い殻が溜まっている。眼下には、夏の疲れを感じたか、気怠い身体をもてあまし、路上に座りこむガリバーたちがいる。幼い少女を片手に抱き、汗た顔してサンシャインシティに向かう若い父親がいる。夏が終わる。全ての蜩が土にほどけていく。それでも、蜩は儚い再生の機会を窺っている。 なのに、女は今日も仕事に出ていった。 恵比寿の写真スタジオで一日がかりのモード写真の撮影があるという。女のほうが余程、私よりデザイナーらしい。まさか、雑誌の仕事を周してくれと、女に仕事の無心もできまいて。今の私は、ひっくり返って、中身のない腹を見せている蜩の死骸だ。土に溶けることもままならないアスファルトの上に落ちた蜩。それでも、私は幸せだ。子供の石蹴りの代用品となって、道々、蹴られ蹴られ、勢い余って車道に飛び出し、疾走する車の下敷きになって潰れる。ぺちゃんこ。解体。勿諸。そして消滅。微熱が欝々とした愚痴を績む。 私の〈梯子〉は荒空に浮いていた。何物も見つからないでいた。相変わらず貘とした焦燥のままだった。パルミジァニーノは、もはや女の謎として拡大し、底意地の悪い曖昧さだけを私に押しつけてくる。右なのか、左なのか。表なのか、裏なのか。否、右と言えば左、表と言えば裏と答える天の邪鬼という天使になって、渦巻く迷宮の天井に遊び、混沌とした焦燥を私に強いる。私は、サルバドール・ダリの戦う巨人のごとく、胴体を失い、頭でっかちの意識をぽっかり抜けた虚空に突き上げる。怠惰と微熱の日曜日。無力な巨人が宙を飛んでいく。開いた文庫本には、エルンストの百頭女がいた。 女だ。 眼下に、通りの向こう側を急ぎ足で池袋駅方面に向かっている女を、私は見つけた。恵比寿のスタジオに篭っているはずの女が、何故こんなところを歩いているのだ。考える間もなく、私は店を飛び出し、デパートの階段を駆け降りていた。 駅の構内に入る寸前、女の背後を捉える。息が切れていた。気づかれないように距離を置いて尾ける。 東口に西武デパート、西口に東武デパートを抱えた池袋駅の構内は、どこからこんなにも湧いたのか、ぞろぞろと蠢く人間で沸騰していた。改札口からは、家族連れやら、茶髪の男や女やら、際限なく吐き出されてくる。東口にサンシャイシティ、西口には東京芸術劇場があった。女は慣れた足取りで雑踏を縫っていく。うつけていると見失いそうだ。右に左に人の肩がぶつかる。熱のせいでくらくらした。 西口に出て、エスカレーターが女を地上に運ぶ。五、六人の間隔を置いて私もエスカレーターに乗る。女は私に気づいていない。 地上に出ると、女は途惑うこともなく真直ぐに芸術劇場に向かって歩いていく。芸術劇場の広場は、噴水を軸に、円形の低いフェンスで囲まれていた。フェンスには鳩の白い糞がこびりついていたが、人々は糞のない比較的清潔な部分を見つけては腰を掛けている。ここは、昼間はホームレスの憩の場であったが、夜には異性を求めて徘徊するガリバーたちの格好の遊び場になった。 女は大股で広場を通過していく。周囲の視線を集めるほどに、女は颯爽として、際立った肢体を午後の喧騒に晒している。私には、そんな女が、何かの目標に向かって一直線に進もうと、意を決した姿に思われた。 芸術劇場のホールに踏みこむと、天をつくエスカレータが上方に伸びていた。それは三階まで直行していた。頂上に至っては、下りてくる人間の顔も曖昧で、表情すらわからない。眼が眩む。距離を置けば女を見失う恐れを感じ、私は思い切り女のすぐ傍に近づいた。女との開きは三人でしかなかった。エスカレータは天を目指して昇っていく。手摺につかまっていないと奈落の底に落ちていくようだ。女が振り返らないことを願う。 ようやくのことで頂上に辿りついた。女は立ち止まることもなくフロアーにある喫茶店に入っていった。外から様子を窺うとウインドーの硝子を通して店内の隅まで見渡せた。劇場のラウンジも兼ねているのか、中はかなり広い。女は店の奥の一段高いフロアーのテーブルに着いた。誰かと待ち合わせているのだろうか。先客はいなかった。 途惑いつつ、私も店に入った。幸い、女はこちらに背を向けて座っている。待ち人を気にして、いつ女がこちらを振りむくか気が気でなかったが、何とか女に覚られずに席に着けた。女の真後ろだ。自分の大胆さが意外だった。席の間に大きな観葉植物が邪魔していたので、女は私の姿を易々と見ることはできない。私のほうからは、観葉植物のわずかな透間から、女の仕種を確認できる。耳を澄ませば話し声も聴きとれるはずだ。 「コーヒー……」ウェイターに小声で注文する。 日曜だというのに店内の客はまばらで空席が多かった。店にはゆったりとした静寂が漂い、人の動きも緩慢に見える。時計は三時七分。多分、女は三時に待ち合わせをしたのだろう。しきりに入口を気にしはじめた。 女が立ちあがった。店の入口に、男がいた。男も女を確認したのだろう。ゆったりとした足取りでこちらに向かってくる。父親だ。遠目にも私はそう確信した。少し灰色を混ぜた亜麻色の頭髪。長身をゆったりとしたグレーのダブルで覆っている。その姿勢の良さが女と似ていた。五十歳を越したばかりだろうか。精悍さが漂っている。 「おまえも気をつけろ」友人の忠告を思い出す。 胸の鼓動が早まる。もしも二人の話し合いがこじれ、男が法外な行動に打って出たら……。 習慣なのだろうか。あれだけの事情がありながら、二人は、軽く抱きあうと互いの頬に軽い接吻をし、向かい合って席に着いた。笑みまで浮かべている。緊張に慄いているのは私だけのようだった。 私は勘違いをしているのかもしれない。女の仕事は、急遽、予定変更になったのかもしれない。これが仕事の打ち合わせの可能性だってある。外国人とみて即、父親だと思ったのは私の早とちりかもしれない。女の勤める本誌の人間がこちらに来ていることだってある。まして、出向の人間は女だけとは限らないだろう。そう思うと、少し気が楽になった。張りつめた感情がほぐれた。 それでも、私は文庫本を読むふりをして、後ろの様子を窺った。もとより、フランス語など理解できるわけもないのだから、二人の仕種を探るしかないのだった。女の声の調子を、女の素振りを、そして男の様子に注意した。 低いがしっかりとした男の声が聴きとれた。男はソファーに深く腰掛けて大様だ。そのゆったりとした態度は、かなりの余裕と裕福を示していた。とても一介のフリーライターには見えない。確か、女は私と出逢ったばかりの時、父親はフリーのライターだと言っていたはずだ。ここでも、女は私に嘘をついていたのだろうか。 男は何かを説くように話しつづけている。その間、女は男を見つめているだけだ。時々、ティーカップが皿に当たり、かちかちと神経質な音をたてる。 「papa……s'il vous plait……」 ようやく女が口を開いた。 papa。いくら何でもこれは理解できた。やはり、男は女の父親だ。再び鼓動が速まる。 「――」 「――」 その後の会話をまったく理解できないままに三十分近くが過ぎた。女の口調が少しずつ早くなっている。男はどこまでもゆったりと喋る。そして、 「……maman」 男が口にした瞬間、女が鋭く叫んだ。 「Que non!」 そして、長い沈黙。 男はゆったりと席を立ち、促すように顎をしゃくった。女は身動きしない。が、諦めたのか、再び男が顎をしゃくると、女は男の後に従った。ほんの少し間を置いて、私は二人を追った。 二人は駅前のタクシー乗り場に並んでいた。私は行き交う群衆に紛れて様子を窺う。男は女の髪を撫でながら何やら語りかけている。傍から見れば、やさしい父親が可愛い娘をかまっているように見える。しかし、女は硬直し、何の反応も示さない。 やがて車が止まり二人を乗せると、ゆっくりとタウンし、私の眼の前を通り過ぎていく。車の座席には女の虚ろな横顔があった。静止画像のように薄い光景だった。 その日、女はホテルにもどらなかった。不愉快な想像が一晩中、私を苛めた。またしても私は手足のない卵だった。見るだけの〈眼〉であった。たとえその日、女がホテルにもどったとしても、私に何ができただろうか。女を問い詰めることさえままならないだろう。女の蛇に途惑う自分がいた。
朝から雨が降っていた。テラスの窓に打ちつける雨が、硝子の表面を幾筋も流れて落ちていく。 maman。 二人の会話のなかに現われた母親。それを拒絶する女。何を? ルネ・ホッケの〈両義性〉を思いだす。 それは私が理解するように単純なものではないだろう。けれども、男と女は表裏と対の源であり基本だと思う。鉱物も、植物も、そして人間も、この結合と融合により、はじまる。同性愛の番、自己性欲者ナルシス、性的倒錯者ヘルマフロディトゥス。汎性愛的結合。そして、シェイクスピアの逆転。レオナルド・ダ・ヴィンチの禁錮刑。全てが裏返る両性具有へのイマジネーション。一致する不一致。 〈アモール〉。パルミジァアニーノの天使がいた。それはまさしくオトコオンナだ。天使こそが、倒錯の先に垣間見る願望の結論なのだろうか。 窓の向こうに午後の雨が灰色に煙っていた。
10 焦燥の種
久しぶりに自分のアパートに帰った。部屋は、欝陶しい残暑が溜まり、生温く膨張していた。窓を開け放すと、いくらかましな空気が部屋に入りこんできた。作品を詰めたショルダーバッグを敷きっぱなしの布団の上に投げ出し、帰りがけに買った缶ビールを飲む。 ドアの内側に落ちていた大量のダイレクトメールやチラシに、一通の封書が混ざっていた。コピーライターの友人からだった。女のメールを友人に預けたままだったことを思い出す。封を切ると案の定、預けたメールと、メールを訳したワープロ打ちの数枚の用紙が出てきた。奴は律儀に仕事の合間をみてメールを訳してくれたのか。それとも、奴なりの興味を抱いたのか。それは私にとってどちらでもよいことだった。こちらから何らかの連絡をとらない限り、奴は干渉してこないだろう。そんな男だ。 「訳だけ書く」 そう前置きし、箇条書がつづいた。しかし、奴には申し訳ないが、今更ながらに思えた。すでに事実なのだ。現に女の父親が現われた。女は逃げおおせないでいる。父親は地の底までも女を追うに違いない。女の薄く虚ろな顔が浮かぶ。 訳はあの日の奴の判断とおおよそ変わるところがなかった。箇条書の全てに苦渋に満ちた女の訴えがあった。 「私たちは間違っている――」 「おしまい――」 「もう駄目――」 「やめて――」 「帰らない――」 「お願い――」 繰り返される拒絶と否定。そして、懇願。 壁に貼られたパルミジァニーノのコピーが私を見つめている。どこまでも自己完結を追い求めるオトコオンナ。半陰陽者パルミジァニーノ。おまえを待っているのは三十七歳の破滅でしかない。逃げ惑い、水銀を身体中に喰らって死んでいくだけだ。憂鬱だけが伴侶で、ダ・ヴィンチにもミケランジェロにもなれなかった、世間知らずで早熟な想像者。まるで子供が手屏風をして弁当を喰らうように、おまえは謎という優美を板に描き、壁に色をつけた。 テレビが迷宮入りの事件を告げていた。アメリカで起きた幼い美少女の殺人事件だった。着飾り大人びた少女の姿が、繰り返し画面に流れている。着せ替え人形のように様々な衣装に身を包み、幼女が妖しく媚びを売る。画面に現われる幼女の両親。富豪の父親と美しい母親。猟奇の渦が巻く。ここにも倒錯するラビリンスがあった。 二本目の缶ビールを開けた。座した布団が饐えている。すでに、この部屋に生活はなかった。誰も生きてはいなかった。再び、焦燥の種を追わねばならない自分を自覚する。何を探し求めなければならないのか……そんな大袈裟なことではない。もっと単純だ。何がしたいのか、何をやりたいのか、ただそれだけのことなのだ。ビールが空になる。 いつの間に眠っていたのだろう。携帯電話の音で眼が覚めた。二時間近く眠ったのか、時計は五時を示している。開け放した矩形の窓が真っ赤な夕陽で埋っていた。 「どこにいるの?」 半ば責めているような擦すれた声が耳に届いた。女からだった。 「きみこそ、どこにいるの?」 「仕事よ」 「撮影、うまくいった?」 「何とかね」 嘘つけ。 「ね、どこにいるの?」女が焦れたように訊く。 「アパートさ。たまに部屋も掃除しないとね。俺の隠れ家だし」 「意地悪なのね……」 「そうでもないさ」 少し間が空いた。 「ホテルのほうに来てくれるでしょ……」 「今日はここにいるよ。掃除もまだだし」 「了解」 女は元気に言うが電話を切ろうとはしない。 「逢いたい……」 電話のブレか、女自身の震えなのか、それとも、両方で共鳴しているのだろうか。私には判断できない震えた声だった。心を病んだ人間が往々にしてみせるあの独特の震えた喋り。 「逢いたいの」 再び女が言って電話が切れた。つー、つーつーつーつーつー。 シーツをまるめて洗濯機に投げこむ。ビールの空き缶を真っ黒なごみ袋にほおりこむ。散らかっている雑誌を束ねる。投げ捨ててあるシャツや下着を押入にねじこむ。 じっ、じっ、じーい、じーい、じっ。 突然、窓から蜩の啼き声が部屋に飛びこんで、そしてすぐに止んだ。まさしく消え入るようにそれは啼き止んだ。 まだ生きていたんだ。結構しぶといな。けれど、あれは断末魔の呻き声に違いない。蜩たちの死はひと夏の谺のようだと私は思う。何万何億の蜩の断末魔が恒例の呻きとなって闇に轟き、ドミノ倒しのように夥しい蜩が地上に墜落して転がっていく。ただ一つ、ドミノ倒しと異なることは、蜩には完璧な失墜が保証されていることだ。それは、蜩さえ自覚し得ない、ひと夏の盛大な祭だ。風に乗る祭の笛の音が蜩を送る。 私は、蜩の死骸が木の下に転がっているのではないかと、窓から覗いてみたが、木も死骸もすでに陽の落ちた黒い闇に溶けて、踏切を遮断する警報機の音を遠くに聞くだけだった。
パルミジァニーノが凸面鏡の自画像を描いたのは二十歳の時だったはずだ。しかし、澁沢龍彦が指摘するように、その顔はあまりにも幼すぎる。本当にパルミジァニーノ本人の自画像なのだろうか。畳の上に寝転がり、私は壁に張りついた凸面鏡の自画像を見ていた。 パルミジアニーノの画風からいって、ダ・ヴィンチの工房で描かれたとも言われている。では、ダ・ヴィンチはどうだったか。当時のマニエリストの多くがそうであったように、ダ・ヴィンチも美しい少年を愛した。そもそも、ダ・ヴィンチの禁固刑は、青年ヤコプ・サルタレルリを少年イエス像のモデルに仕立てたことにあった。それは単なる少年愛ではない。不一致の一致による、両性具有の願望、つまりコンプレックスだ。男と女という〈絶対的な自然〉を破壊しようとする衝動のうちに、ダ・ヴィンチもミケランジェロもシェイクスピアも、倒錯した想像力をもって〈知〉を充足しようと試みた。パルミジァニーノがそれに習わないはずがない。 ヴァザーリがルネサンス画人伝で言うように、確かにパルミジァニーノは美しかったのかもしれない。しかし、美は美を求め、想像力が知の欲求を満たす。コンプレックスはイマジネーションでしか解決できないという絶対。その意識こそが〈問題のある人間〉なのではないか。パルミジァニーノは、凸面鏡の自画像で、女との一体化を求めたのではなかったろうか。鏡のうちに女を凍結し、自画像と題したのではなかったか。 もう一つ。両性具有コンプレックスが不老長生秘儀であるということ。それであれば、パルミジァニーノが錬金術に溺れていった理由が理解できる。錬金術の真の目的は不老長生なのだから。つまり、芸術では不老長生が叶わなかった。そして、錬金術はまた再生と異端結合の象徴でもあった。錯綜する宇宙を束ねる造物主の顔が現われ、歪んだ凸面鏡の風景が脳裏に拡大していく。 焦燥の種はここにあった。そう思えた。初めて出逢った瞬間、モノクロームのパルミジァニーノは、私に〈知〉の欲望を植えつけた。知のコンプレックスが私を唆す。私の梯子がここにある。 女は。 女の梯子は、と考える。父親から逃れる術。ただそれだけなのだろうか。もっと皮肉れて、捻れた曲線が女を絡めているのではないか。見えた蛇は頭の部分に過ぎない。どこかに尾があるに違いない。私はキルヒャーの盗聴機械を扱うように聴き耳を立てる。
九時を回っていた。そういえば、今日はビールを呑んだだけだった。何か食べなければと外へ出た。微かな風が気持ちいい。部屋にいた欝陶しい時間が夜風のなかに溶けていくようだ。私は国分寺の駅に向かった。 久しぶりの街中は、初めて訪れた田舎街のように、薄ぼけた貧しい明りに包まれて、よそよそしかった。駅前から少し離れた脇道にある手ごろな居酒屋を選び、店の隅に席をとった。いざ注文となると面倒になって、結局ビールと簡単なつまみを頼むだけだった。店内には大学生らしい七、八人のグループがいるだけで、そこだけが妙に華やいだ遠い空間で賑わい、私はますます孤立して、席ごと宙に浮いているように感じた。独りで呑む酒がこんなにもぎこちないことに、私は困惑した。女と出逢う前は、いつだって独りだったはずなのに。 「逢いたいの」 不意に女の言葉が蘇る。勝ち気な女が吐いた震えた言葉。病んだ打顫が鼓膜に谺して、いつまでも消えない。女はホテルにいるのだろうか。携帯電話を忘れてきたことに気づき、ひょっとすると再び女から電話が入ったのではないかと気掛かりになった。それほどに女の声は憔悴しているように思えた。でもあれはちゃちな携帯電話のせいだと、私はビールをあおる。 邪険だったかと少し後悔していた。父親への嫉妬だろうかと卑しい自分に嫌悪を感じるが、女の繁みや円い乳房と尻が眼の奥に露骨に現われ、こんな時でもそれを払うどころか、女の憔悴よりも自己の欲望が勝ることに途惑う。が、激しく絡みあい捩れあった記憶は、まるで架空の出来事であったかのように、それはひとつの想像でしかないように思えた。女の実在さえ定かでない。あまりにも突拍子な女との出逢いと経過が、私の記憶を曖昧にする。 三杯目のビールがすきっ腹の私を酔わせた。 「逢いたいの」 幾度も幾度も、女の言葉が脳裡に繰り返す。 いつか、私は駅のホームに立っていた。
11 青い球体
池袋駅前の明治通りは客待ちのタクシーで長い列ができていた。終電間近になれば、厭々並ばなければならなかったが、今ならいつでも乗れた。雑多なイルミネーションのせいだろうか、ビールの酔いはほとんど消え失せているはずなのに、駅前の人ごみがまるで舞台の出来事のようで、自意識過多な酔いを曳きずっている。 妙な途惑いを感じていた。このまま女のホテルに直行していいものか。女が留守でも、部屋の鍵は管理人の婆さんに借りられたから、部屋の前で閉口する心配はなかったし、冷蔵庫の中身をみつくろいバーボンでもやって、女の帰りを待てばいいはずだ。つい昨日まではそんな風に過ごしていたのではなかったか。なのに、今夜は何故か無造作には踏みいれない、曖昧な途惑いが胸の片隅に発酵している。厭な臭いだ。まさかつくった試しはなかったが、出来損ないの豆腐が掌からぽろぼろと崩れ落ちるような徒労感。または、うかつにも折角通した針の細い糸がするりと抜けてしまう瞬間の虚しさ。女との距離を感じていた。 けれども、私は女のホテルに行かなければならなかった。女の見せた弱気を直に感じたかったからだ。それに、ひょっとすると、女の蛇がその全ての姿を崖の淵から現わすかもしれないのだ。今夜を逃せば、女はその蛇を深く呑みこんだまま、永遠に私の前から姿を隠してしまうのではないか。そんな気がしてならなかった。 そんな私の途惑いを無視して、タクシーは国道十六号を疾走していた。私は、結局の結果に、車の白い座席のなかで自嘲する。いつだってそうなのだ。斜めに構えてやり過ごすだけで、愚痴とつかめない不満だけが土嚢を積むように私の何かを堰止めている。漠然とした鬱積だけが几帳面に積みあげられ、曖昧などっちつかずに漬かり切っている。騙絵の嘘のごとく、平たい飢を蒐集しているだけなのだ。 女に触れたい。どこでもいい。どこかに触れて眠りたい。たとえば、軽い寝息を漏らす薄開きの柔らかい桜色の唇。たとえば、猫のように丸めて眠る小さな白い背。たとえば、寝返りをうつ女の冷たい尻の感触。少し硬めの短い髪……「忘れてしまえ」と女に言いたかった。絶対的な不確かと曖昧で存在するパルミジァニーノ。しまいに、おまえまでもが架空の庭に消えていくような気がする。もしも、おまえが帰還できない美しき女庭師になったなら、平たい想像だけがコレクションとなって私のなかに残るだろう。触れることのできないおまえの皮膚の感触だけが置土産になるに違いない。 百日紅の赤い花がいつまでも咲いていると誤解している透きに、金木犀の艶やかな匂が辺り一面に漂いはじめ、いつしかおまえのウィスキーボンボンの香りを秋の大気に見失う。多分、絵空事。全てがおまえの得意な嘘なのだ。パルミジァニーノも、父親も、あの本の棲み家さえも、おまえのでっちあげた想像だ。おまえは梯子の上の宙に浮く架空の庭で遊んでいる。 赤い光が現われた。タクシーは一直線に突き進み、やがてホテルの前で私を置き去ると、再び黒い叢を左右に薙いで通りへと消えていった。最上階の壁面にHOTELの赤い文字が煌々と輝いてはいたが、その割には玄関付近が寂しく薄闇に覆われ、正面入口の閉じた硝子扉は客など招いてもいず、むしろ拒んでいるかのようだった。だから、泊り客は今夜も一組だってないはずだ。 いつもならロビーのカウンターから、眠い顔した婆さんが不機嫌な顔を見せるのだが、今夜に限ってカウンターは空だった。さすがに柔らかい布団が恋しくなったのか、それとも歳寄りにはもう冷える季節になったのだろうか。長い用足しにでも行っているのかもしれない。部屋の鍵が気になったが、閉まっていればまた降りればいい。とにかく、私はエレベーターに乗って女の部屋に向かった。 廊下はひっそりと物音ひとつなく、薄明りに霞んでいる。ドアに貼りついた小さなナンバープレートには、鈍色の浅い陰影を彫って707の数字が浮いていた。 女はいるだろうか。 チャイムを押そうとしたが、一瞬ためらう。それでも、ノブに手をかけてそっと回す。忍び入る必要などなかった。いつも、何も言わずにリビングをすたすた歩き、無愛想な顔を女に向けるだけだった。女だって、春の季節の柔らかな風のように、ちょっと寂しげに、少し悲しげに、それでも丁度いい暖かさで、物言わず私を迎えてくれた。今夜は違っていた。 ドアは私の気持ちを察してか静かに開いた。 瞬間、青い光が眼を射った。朝の太陽の光のように強く、真っ青な光が私の眼球を犯した。それはカーテンを開け放したリビングの広い窓から流れこむ月光だった。絨緞も、壁一面の本にも、隈なく光が射り、リビングは冴え冴えと輝く青い部屋になっていた。ドアの入口からでは見えない高さの宙に、きっと百パーセントの輪郭で月の塊が浮いている。 除々に月から眼を取りもどす。一段と青く染まるリビングの広い窓が見えた。二つのシルエットが窓硝子の前に立っている。浮いている。シルエットは、焼かれたボッチィチェリの炎のように、青い炎に包まれている。女が二人、春の宴のように、水瓶を肩に背負う女のように、腰をよじって寄り添っていた。神々しく恍惚に、二人のヴィーナスがいた。私は、迷宮の大理石の段なき階段を滑り落ちる。悦楽の滑り台を滑降する。 蛇を見た。女の蛇を見た。逃れたくても逃れられない、逃がしてくれないエデンの蛇を、私は見た。一口含んだ林檎のかけらはどこに捨てられるのか。捨てても意味はない。噛った事実は消えはしないのだから。林檎を噛んだのは女なのか。それとも私なのだろうか。噛ることを唆したのは蛇だったはずだ。〈美〉が私を襲う。私の曖昧な梯子が驚く速度で組み立てられていく。 眼の前に美しい風景があった。女たちの身体がこんなにも美しいものなのか。縺れて絡みあう肉体が、こんなにも暖かく、切ないものなのか。 毛並みをそろえるように嘗めあう二匹の猫がいた。絹のような二つの肌が青白い閃光を放ち、夜空の月がその岩肌を見せてテラスの窓全面に巨大な姿で浮いている。青い球体。 抱きあいながら、のけ反り、捩りあう肉体を、月光が鮮やかに縁どる。 舞踏のような素振り。譜面に記された音符のように規則正しく展開する肉体の仕種。つくりあげた不自然な愛撫がつづく。これを〈想像〉と言わずして、何と言うのか。眼の前の光景は、絵だ。現実ではない。 刹那、パルミジァニーノの謎が、私のなかで解けていく。パルミジァニーノはオンナになりたかったのだ。〈美〉は、永遠は、女たちのものでしかないのだ。肉体すらも想像だ。決定的なことは、パルミジァニーノの奇を衒った発想に逆行する負のイマジネーション。そもそも、パルミジァニーノが平面に凸面鏡の自画像を描かなかった事実だ。あの絵は、球体を半分にした木のキャンバスだ。自画像を描いてはいるが、凸面鏡は描いていない。残ったもうひとつの球体には、きっとおまえの真実の姿が描かれているに違いない。そして、ふたつ合わせた透間には、平たいおまえの憂鬱が、サンドイッチのように、萎えたレタスとともに潰れている。 パルミジァニーノがオンナになりたかったように、女は〈女〉になりたかった。しかし、肉体は覚えた悦楽を捨てられない。父親の願望は虚しく空回りして、女は身につけた肉体の快楽を知的官能の愉悦に昇華する。〈知〉の呪縛が、〈知〉の毒薬が、女の肉体を逃がしはしない。肉体は、脳なのだ。脳は、肉体なのだ。
maman……。
女が囁いた。月光が二人を蒼く包んだ。
私は、女たちに気づかれないままに部屋を出た。エレベーターが地へと落ちていく。ハッシシのやり過ぎのように、嘔吐を含んだ眩暈が地の裏側へと運ばれる。先程の光景が、様々なマニエリスム絵画の画面となって、走馬灯のように現われては消えていく。 ティツィアーノの聖愛と俗愛。ミケランジェロの原罪。ブロンズィーノの春。ダ・ヴィンチのレダ。デル・サルト、ティントレット、ポントルモ、そしてフランチェスコ・マッツォーラことイル・パルミジァニーノ。脈絡もなく、マニエリストの顔が、絵が、暗黒の闇から飛び出し、再び深い闇のなかへと消えていく。 私は思った。絵を描こう。畳三畳も四畳もある大きなキャンバスを用意して、パルミジァニーノがローマに憧れたように、私もまた、まだ見ぬフィレンツェの柔らかい粘土のような緋色の空を描いてみよう。マニエリストたちが己のなかの想像を描いたように、私も私の絵という梯子を用意して、想像の練金術を追ってみよう。しかし、私は決して放擲のパルミジァニーノにはなるまいと構える。何故なら、私は梯子に足をかけたばかりなのだから。これから全てが始まるのだから。 女は、自分の梯子を探すこができるだろうか。バルブスとして、いつまでも砂漠の水に生きていくのだろうか。ポントルモの梯子がポントルモの梯子でしかなかったように、砂漠の水に出口を見つけることは、女が独りで想像する作業なのだ。そして、その梯子でどこに昇るかを決めることも、女の孤独な想像だ。またもや、手出しのできない私がいる。干渉を望まない女がいる。 「ねえ、お婆ちゃん。知ってるかい? 地球は円いんだってさ」 ロビーを抜けながら、寝ぼけた婆さんに愛想をかける。 「青臭い……」 婆さんが、カウンターから眼だけ出して返してくれた。
12 微笑む風景
夏が終わった。今年の蜩は全て溶けて亡骸さえ消え失せた。もう道端に転がる蜩を見つけることはできない。もう道すがらビニールサンダルで蜩の死骸をつつくこともできない。イベントは綺麗さっぱり終わりを告げた。そして、私が溶ける順番になる。次は、私が溶ける番なのだ。全てを灰と塵に帰してから、私の梯子を組み立てて、さて一歩、そして二歩と足を掛け、錬金術のごとく溶かした装置を再生し、念入りに磨いた鏡で私を映す。 洞穴のようなアパートの一室に、無精な生活の残骸が散らばっていた。壁に張りついたパルミジァニーノのコピーが、煙草に焼けて黄ばんでいる。かつてのあの謎めいた視線はどこへ行ったのか。今、パルミジァニーノは、無垢で幼い女の子のように、乙に澄まして気取っている。 月光の差しこむ女のホテルを後にして幾日が過ぎただろう。いつ知れず部屋のなかから夏の暑さが消えて、薄着一枚では肌寒い。冬でもないのに、春が恋しいと思った。満開の桜が霞のように散って、青い空を緋色に染める。甘酸っぱい香りが地を隈なく這って、むせるような春の空気を、私は恋しいと思った。 再生の始まりは、まず洞穴からの撤退だ。 連れていくものなぞ何もない。溶けた身体をそのままそっくり移動すればいい。大きなキャンバスが立てかけられる場所さえあればいい。仔猫が自由に出入りできる小さな窓が一つあればいい。仔猫は街のどこかで一匹ひろおう。亜麻色の髪と茶褐色の眼をした少し性格のきつい雌猫にしよう。悪戯だって、とぼけた顔して嘘つく猫だって、かまいはしない。いつか狎れてしまえば、キャンバスで鋭い爪を研ぐかもしれないが、それは私のサインの代わりだ。まして、絵の具で覆ってしまえば、一味違ったテクスチュアになるだろう。 全てを置き去りにして撤退する。資金は体のいいことを言ってそこら中から借りまくる。銀行、サラ金、裏金融。おまけに独立するなんていっぱし嘯いて、商工会や金融公庫なんぞからも掻き集めよう。少々手間はかかるが、この際しかたがない。再生には金が要る。フィレンツェはやっぱり遠いのだから。 それから。 私の毎日は、独立のための屋号を決めたり、決めた屋号のロゴタイプやマークをデザインしたり、おまけにそれらしい名刺も作ったり、印鑑証明の手続きをしたり、銀行や金融業者を誑かすことに費やされた。担保など何もない。あるのはこの溶けた身体だけだった。それでも、貸し渋りの銀行以外は嘘のようにうまく事が運んだ。銀屋の金など借りずともいいと思った。どうせ金屋で借りた金は銀屋の金なのだから、どっちにしても同じことだ。しかし、踏み倒したとしても、銀行が痛くも痒くもないのが、少々気にいらなかった。が、どうでもいい。フィレンツェへ行くまでのことでしかない。行ってしまえば、新しい生活に没頭し、そんなこともあったかと記憶の端に引っかかっているか、いないかだ。 私が気にするのは、女のことだ。あれから女から電話はなかった。私も掛けてはいない。電話を掛ければ逢うようになっただろう。逢えば、隠し切れない事情を聞かなければならなかったし、語らねばならなくなる。言葉ではつかめない女の秘密が、話すほうも聞くほうも何だか嘘っぽく、空々しくなるのが厭だった。漁夫の利を得たように、私は自分の梯子を決定できた。女の梯子まで及ばないのはしょうがない。梯子は二人で昇れば確実に折れて崩れる。私は私で、女は女で昇るしか方法はないのだ。砂漠のバルブスでいるかは、女自身が決めねばならない、女だけができる想像なのだ。 けれども……。 フィレンツェはすでに手元にあった。抜かりなく、金は口座に入った。月が変われば返済が始まる。こうなれば一銭だって減らしたくはない。一日も早く撤退だ。私はフィレンツェへのルートを確認しなければならなかった。 戸外は霧雨の午後だった。少し面倒な気分ではあったが、もたつけば一日延ばしに過ぎていく。私は着古したブルゾンを押入の隅から引っぱり出した。皺が気になったが、雨に濡れれば伸びるだろうと、委細構わず外へ出た。傘は相変わらず透明のビニール傘だ。 銀座に向かった。あそこなら旅行代理店が幾つもあるだろう。池袋でもよかったが、その気になれなかった。まさか女と出逢うこともないのだろうが、気分になれなかった。 東京駅で山の手線に乗り換え有楽町に出たら、銀座は晴れていた。灰色の薄曇りではあったが、朝からつづいた霧雨は止んでいた。ここまでくれば慌てることもなかったから、私はマリオンを抜けてソニービルに向かって歩いた。途中、ごみ箱に傘を捨てた。道端に柳があった。ああこれが銀座の柳か、なんて思って、初めて銀座に来たようなふりをして歩いた。柳には幽霊がよく似合う。が、せっかく死んでしまったのだから、蜩に見習って、まったく零に溶けてしまえばいいのにと思ってはみたが、人間だからそうもいかないのだろうと、他愛ないことを思って歩いていたら、いきなり背後から声を掛けられた。一瞬、身が縮んで私は飛び上がったような気がする。 「おまえ、こんなとこでなにしてるんだ」 コピーライターの友人だった。 おまえこそこんな時間に何してるんだと言いたかったが、詮索するのも億劫だった。 「幽霊みたいな顔して歩いてやがる。みっともないぞ。仕事まだ見つからないのか」 余計な世話は焼くな。あれはあれで感謝はするが、どこをどう歩くかは俺の勝手だ。おまえにとやかく言われることはない。けれども、腹の底から湧いてくるこの安堵感は素直に嬉しかった。さすがに急務の資金繰りは疲れたし、やはり後ろめたい。女の秘密の一端を知るこいつの皮肉っぽい物言いが、何故か共犯者に出逢えたようで、ほっとした。 「おまえこそ、何やってるんだ」 「仕事だよ」奴は自慢気に言う。 「航空会社のPR誌で取材だ。佐々木壮六という画家のインタビューがある。おまえどうせ暇なんだろう。つきあうか?」 暇なものかと思ったが、確かに暇ではあった。それに、画家のインタビューということには興味がもてた。 「邪魔にならないのか?」 「少しは勉強になるだろう。俺の仕事振りでもよく観ておけよ」 奴の解説によると、画家は今、日本橋の高島屋で個展を開いているという。イタリアの風景をモチーフにした美しい絵を描く洋画家で、特にフィレンツェに造詣が深い画家だという。今回の取材はフィレンツェの旅を特集に組んだものの一部らしい。 フィレンツェと聞いて、私はその画家の絵を観たいと思った。見えない線が偶然ではあるが私のなかで繋がっていく。 高島屋は歩いてすぐに着いた。エレベーターに乗って六階へと向かう。奴は片方の手をズボンのポケットに突っこみ、二階、三階と変わっていくフロアー表示を見つめながら、唇をとがらせて小さな口笛を吹いている。奴の趣味なのか、そのメロディーは山口百恵の歌だった。これから行われるインタビューに何の不安もないのだろうか。慣れたものだった。私の共犯者は、屈託のない頼もしさで、またひとつ、私の罪の片棒を担ぐのではないか。そんな気がしてならなかった。 会場の受付けで、奴は画家の夫人だというマネージャーの女性に来訪を告げ、暫くここで待つことを私に伝えると、小声で囁いた。 「美人だろう」 「真面目にやれよ」 そういう私も、晴れやかな展覧会の会場に一際艶やかな画家夫人に見とれていた。画家を妬ましく感じた。フィレンツェを手にいれ、こんなにも美しい女性と連れだってフィレンツェの街を描いている。フィレンツェの丘を歩いている。そこには、ボッチィチェリも、ダ・ヴィンチも、ミケランジェロも、そしてパルミジァニーノも、美しい軌跡を描いて生きていたに違いない。 「俺はやっぱり遠慮するよ。インタビューはおまえ一人でやってくれ。絵を観たい」 「そうだな。そうしろ」 妙にやさしい奴の言葉が照れ臭かった。青臭い自分にくらべたら、こいつも随分大人なんだと感じた。遠の昔に水銀などという厄介なものは捨て去って、固まってしまった今を飄々と生きている。それはそれで、羨ましいと私は素直に思った。いつか、こいつとも別れがやってくるというのに。 夫人に案内されて、奴は下の階へと下りて行った。 展覧会はコの字型の会場で、突き当たりの15号の作品を軸に左右に小品を展示していた。粘土のような柔らかいイタリアの土色が、空の緋色が、花が、街が、丘が、やさしく美しく、眼の前にあった。余分な音はない。楽の調べだけが、遠い、遥かな雲の透間から抜けて、観る者だけに聞こえてくる。チェンバリンが切なく綴る音色が、まだ見ぬフィレンツェへと私を運ぶ。 フーガのように繰り返し、繰り返し、昂揚して、更に昂揚して。 突き当たりに展示された眼の前のメローサの丘と題した15号の作品は、架空の風景であるという。丘の上の街。画家は、実在する自然ではなく、自身の想像の風景を描いた。私もまた自分の風景を描いてみたいと思う。否、描かねばならない。私の梯子はすでに立て掛けられたのだから……。
すくっと手を掬われた。 振り返ると、そこに女がいた。緋色のスーツで身を包み、すくっと立った姿勢のいい女がいた。焦点の合わない美しい瞳のなかに、フィレンツェの風景が淡く微笑んでいた。
作者あとがき 1999年9月7日に連載を開始し、はや11月13日、やっとの思いで初の長編『バルブスの梯子』を書き終えることができました。一重に、この拙い小説を辛抱強く読んでくださった読者の皆様のお陰と、心より感謝申しあげます。特に、掲示板『長編の具』にて多大な励ましをもって叱咤鞭打ち千回を食らわしてくれた邯鄲虫さん、互いに力づけながら長編創作に頑張った pavane さん、小生の駄作で泣いてくれた泣き虫ヒロトさん、『長編の具』パンクで往生したQにすかさず愛の手を差しのべてくれた夜啼き鳥さん、ご無沙汰のしょーじさん、そして『バルブスの梯子』の難点を鋭く突きまくる三月さん。有難うございました。お陰様で『バルブスの梯子』終了です。 最後に、この拙い小説を我が妻と十二匹の猫、五匹の愛犬に捧ぐ。
マニエリストQ
いただいた貴重な感想
夜啼き鳥さん(長篇の具掲示板より) バルブスの梯子読みました。私は基本的に丸山健二氏の次の言葉を座右の銘にして日々暮らしております。「小説は読むもの、もしくは書くものであり、批評するものではない」ですから私はこの作品を読み手として読み、その中ですんなりとは入ってこなかった部分を二三述べたいと思います。 日本生まれのフランス人女性というプロでも手をださないような人物を登場させるだけの必然性が感じられない。もしどうしても、という思い入れがあるのであれば、小説の分量の1/3は下書きとして人物スケッチが必要でしょう。好きな時に電話一本で到着するデリバリーのピザのように感じました。 私、女、自画像(バルブス、梯子、両性具有、少年愛、レスビアン、近親相姦)はそれほど密接に関連しているであろうか。つまり、互いに必要であろうか、と思ってしまう。この書き方だと、私はパルミジアニーノに自分の現在を重ね、もがきながら出口を見つける流れと思うが、そこがすんなりと伝わらない。自画像の謎(?)を知って、メールした女にしても、本人にとって、眼からうろこの発見だったからこそ、回りくどくメールしたのでしょうけれど、自画像がそれほど重要には感じられなかった。 梯子は最初、更なる自己への沈潜として出てきたように思うが、最後は、現状からの脱出、希望への到達へと変貌したように思う。作者としてこれでよいのか。 色々言いました。Qさんの中ではもちろん整合性があるのでしょうが、たいがいの読者は読み返さないし、登場人物の気持ちになって再構成もしません。やはり道具の整理が必要でしょう。しかし、私は愉しく読みました。本当です。書いた事は私にも当てはまりますし、思考経路の一部が自分に似ているとも感じました。 賞の応募ですが、私と一緒に「オール読物」にどうです? Qさんは純文のつもりだと言っていましたが(笑)。
「読んでしまいました、Qさんの。」三月さん(長篇の具掲示板より) 三から最後まで、あっという間に読めてしまいました。夜啼き鳥さんとはちょっととらえ方が違って、僕はあの女性はあれでいいと思います。とにかく出てくるキャラクターの生き生きしていること! あれは見習わなきゃなぁ。女性として魅力がしっかり出ているし、あの話は日本人の女性だったら成り立たないですよね。単純なので、楽しめれば誰でもいいかな、なんて。 ただぼくは終わり方がなぁ。最後の一つまるまるなくてもいいのではないかと・・・(邯鄲虫さん、ごめんなさい、ただ単に客観的に見られなくなってしまったという理由だけかもしれません)。 僕は初めから「梯子」は脱却、あるいは逃避のためのものかと思っていたのですが。それにしてもタイトルにある割には薄れてしまったのでは? いいわるいは全然別ですけれども。あれも思惑のうちかな、Qさんの。
夜啼き鳥さん(長篇の具掲示板より) 「バルブスの梯子」で言い忘れたこと。 ちょっと前の書き込みで、現実と夢を言っていたので、この小説もそこに言及していると先入観を持っていました。迷路というキーワードもちらっと出てましたよね。 そこで、こんな書き方もあるというお勧め本の紹介です。 奥泉光「ノヴァーリスの引用」です。ドイツのロマン派(だっけかな?)ノヴァーリスからの引用を踏まえて、大學時代の友人の死を再考する物語です。 私はめったに小説を再読しませんが、この小説はノートを取りながら三度読みました。「火の手はどこからあがった」はこの小説にインスパイアされて書いたものです。 もちろんQさんは独自のものを書けばいいのですが、この小説は参考になると思います。 ちなみに私は奥泉氏のファンです。「滝」「三つ目の鯰」「暴力の舟」どれもいいです。ミステリーに移行せず、もっと骨太の作品を書いてほしいと思います。
pavaneさん(長篇の具掲示板より) Qさん、読みましたよ。今晩、何の気なしにこの掲示板を覗いて、“バルブスの梯子”完結の報を聞き、嘘だ〜! と叫びたくなりました。だって、まだまだ続くと思ってたから(勝手な思い込み)。しばらくはQさんと追いつ追われつ、執筆レースを繰り広げられると思っていたのに。勝ち抜けなんてずるいずるい。 というわけで、以下感想。上の通り、ちょっとした興奮状態で読み上げてしまったんで(しかも飲んで帰ってきていたので)、失礼が多々あるかもしれません。ご勘弁。 漢字の多用については、私自身はここのところ大変嫌っていて、なるべく使わない方がいい、と考えるようになっていました。読者の読みやすさ、リズム感、そしてなにより暖かい雰囲気を、というのが私の目的。けれど、Qさんの場合、この小説の冷たさ、陰湿さ、孤独感、虚無感、そういった雰囲気を醸し出すのに、漢字過多の文章が非常に大きな役割を担っていたと思います。ただ。この小説にあって、その手法が生きている部分と死んでいる部分が明確に現れてしまったように思うのです。私が思う、生きていた部分とは、‘その2’〜‘その10’。Qさん独特の文体として、一つの完成型に近いものが生まれていたと感じます。それが‘その1’および‘その11’‘その12’では崩れていたと私は思ってしまうのです。簡単に書いてしまえば、‘その1’と‘その11’は漢字過多。‘その12’は過少。意図的だと言われてしまえばそれまでですが、私なりに、この部分がどうして死んでしまったんだろう、と考えると、それは漢字の海に人間が泳いでいなかったから、というぼんやりとした答えが出てきました。私は‘女’の魅力が、この小説を生き生きと躍らせた、そう思っています。‘女’が主人公を引っ張り上げ、漢字の海を恐ろしく深く、また訳の分からない片仮名(失礼っ!)にも命を吹き込んだように思うのです。だからこそ、‘女’を漢字の海の中に隠し去ってしまった‘その11’、そして‘女’をおいて勝手に梯子の先に広がる空を見つけて登っていってしまった‘その12’の結末は、私には不満の残るものでした。 ああっ、もう、我ながら回りくどいことを言っている。全てぶちまけちゃえば、もったいないっ!!! そう思うのです。繰り返しますが、途中、この小説、いや、この文体は非常に自然で、しかもその中には確かに物語が息づいていた。先を待たせる吸引力があった。私はこの後の展開を、そして結末を期待していた。それに応えてくれるものでは、残念ながらなかったと思うのです。フィレンツェまで飛んでいっても大長編にする価値のある序章(あえて言わせてもらいます)だと思うのです。 めちゃくちゃ言ってますね。私もラストとあとがきに胸を突かれた口なのです。それが悔しいから、というわけで。 長くなっちゃいました。とりあえず、今回一読しての感想です。また変わったら書きますね。 私の方はようやく折り返し。地道に独りで書きますよ(寂しい〜)。失礼。
「Qさんへ、追い討ち。」夜啼き鳥さん(長篇の具掲示板より) 小説を書く動機とはなんでしょう。この何万字、何十万字という文字の羅列をつらねるのは何故でしょう。その一つは情動。人はたぶん日常のよしなしごとに耐えられない何かを蓄積しているのです。耐えて耐えて、噴出した何かを形にしているのでしょう。 Qさんは、すべてを踏まえ、抽斗は万全です。後は技術的な構成力、読者へのサービス、自己の客観化(自己の戯画化)……。これらが一番難しいことではあるのですが、これらができれば、注文に答えられるプロ作家の一員です。次作への期待は大です。 おお!なんだかうれしい。みんな相互に掛け上がりましょう。知のスリップストリームです。みんなで長編をあげる度に、強風を浴びて立ち向かうのです。そしてそれを次の人が追いぬくのです。Qさん、矢面に立ってご苦労様です。私も頑張りますよ。
裕子さん(長篇の具掲示板より) 「読者専用書き込み部屋」に入れないので、こちらに来ました。 「バルブスの梯子」を読ませて頂きました。快楽を追求し怠惰なまどろみに身を任せながらも、問いかける事を諦めず自らの梯子を探そうとする人間臭い主人公像が、開き直った寒々しい魂を持つガリバー達とは好対照に強く印象づけられていると感じました。「女」の描写は中性的で儚く(同じラテン系でもここでイタリアの「女」が出てきたとしたら、この小説はぶち壊しになるかもしれない…。)、小説全体の印象を透明感のあるものに導いている気がします。パルミジャニーノの謎解きは、アカデミックな部分で読者を満足させるでしょう。16世紀の当時宮廷において、変人・奇人とまで言われたマニエリスムの画家たちの、優美な技巧と難解な暗喩が知的エリートを感動させた様に…。(因みに、私個人的には明晰なラファエロが好きです。)ディテールに拘らせていただくと、ゴキブリの描写が現実のものとはちょっと違って、あれっと思わせられました。つまり、こんなにのんびしりたヤツもいるのかなあと…。(^^) 最後に佐々木先生ご夫妻が登場していてびっくり! だからと言っては何ですが、イタリア贔屓も重なって、とても親しみを感じる作品となりました。
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