キトラの冒険
作:ごんぱち
その1『お風呂のない日』

「キトラ、お風呂のお湯を入れてー」
 台所のほうから、お母さんアスタさんの声がしました。
 自分の部屋にいたキトラは、ふと手を止めます。
(今いいところなのに……)
 キトラの目の前には、ぬいぐるみの塔が出来上がっています。後から後からぬいぐるみをつみかさね、高くなっています。
 窓の外に見えるあのひょろっと高い煙突とそっくりです。
 もう二つ乗せれば、記録更新なのです。弟のタウラが眠っている今でなければ、こういう慎重な仕事は出来ません。
「キトラ、聞こえてる?」
「……はぁい」
 キトラは渋々手を止め、お風呂場に行きました。

 お風呂を沸かす前のお風呂場は、ひんやりして石鹸とシャンプーの混ざった匂いがします。
 それだけで、キトラは何だか目が痛くなって来ました。
(今日もシャンプーしなきゃならないのかなぁ)
 キトラは溜息をつきます。
(シャンプーは目に入るから嫌い。お風呂場には鏡があるから嫌い、お湯は熱いのに二十まで数えないと出られないから嫌い。石鹸は滑って掴みにくいから嫌い。ごしごしは痛いから嫌い。ぬれた身体だとパジャマが着にくいから嫌い)
 そう、キトラはあんまりお風呂が好きではないのです。
「キトラ、お父さんが帰って来るんだから、早くして!」
「今やってるよ!」
 ピ、ピ。
 お湯をわかす機械のスイッチを入れます。
 キュ、キュ、キュ。
 そして蛇口のコックをひねりました。
「……あれ?」
 いつもとコックの回りかたが、ちがいます。とても軽いのです。
「どうしたのかな?」
 キトラは首をかしげました。
「あれあれ?」
 それだけではありません。
 コックをひねった筈なのに、お湯が出て来ません。
「キトラ、まだ!?」
「お湯が出ないよ!」

「まあまあまあ、本当! 一体どうしたのかしら!」
 お母さんは蛇口のコックをひねったり、逆にひねったり、叩いたりしましたが、お湯はひとしずくも出ません。
「大変だわ、大変だわ、大変だわ! お父さんはお風呂を一番楽しみにしてるのに!」
 すっかり慌ててしまったお母さんは何度も何度もコックをひねっています。
「大変だわ、大変だわ!」
 そんなお母さんを見ながら、キトラはふと思い出しました。こんな事が、前にも一度あったのです。
「お母さん、別の蛇口はどうなの?」
「あああ、大変だわ!」
 キトラは、お風呂場から出て、いつも顔を洗う洗面台の蛇口のコックをひねりました。
 洗面台の蛇口からも、水は全然出て来ません。
「大変……あら、そこも出ないの? ――そうか、今日はお水の出ない日なんだわ」
 やっとお母さんは落ち着いたようです。
「でも、そんなお知らせなかった気もするわ」
「じゃあ、今日はお風呂なしだね」
「……仕方ないわね、お父さんには分かってもらいましょう」
(やった!)
「ご飯のしたくがすんでたのは、不幸中の幸いかしら」
「ただいまー」
 ちょうどその時、お父さんのナラキさんが帰って来ました。

「ええー、お風呂ないのかい?」
 お父さんはネクタイを弛めながらがっかりした顔をします。
「ごめんなさい、お水が止まる事、すっかり忘れちゃってたみたいなの」
 お母さんも残念そうです。
(なんでお父さんって、あんなにお風呂がいいんだろう。僕なんか嬉しくてしょうがないのに)
 キトラはそう思いながら黙っています。
「ささっ、ないものねだりしてもしょうがないわ、ご飯にしましょ。ナラキさんはタウラちゃんを連れて来て、キトラはお箸の用意して」
 明るく言って、お母さんは晩ご飯の用意をし始めました。

 今日のご飯はハンバーグ入りのクリームシチュー。
 熱々のシチューの中に入れば、ジャガイモも玉葱もハンバーグもそして人参もみんな仲良しです。
 弟のタウラはまだ何も喋れませんが、お父さんのナラキさんが差し出すシチューをどんどん食べています。
 キトラもふぅふぅ食べているうちに、お皿はすっかり空っぽ。
「ごちそうさま、おいしかった!」
「そう、良かったわ。ナラキさん、お代わりはどう?」
 お母さんのアスタさんが尋ねます。
「いや……いらないよ」
 お父さんはそう言って、タウラにご飯を食べさせます。
「……あんまりおいしくなかった?」
 お母さんは少し心配そうな顔をしました。
「いや、とってもおいしいよ、アスタさん。もうお腹がいっぱいなだけさ」
 笑おうとするお父さんの顔は、何だか元気がありません。
(お父さん、やっぱりお風呂に入りたいのかなぁ?)
 キトラはその気持ちはやっぱり分かりません。
「ごちそうさま。それじゃ、食器を片付けようか」
 お父さんは椅子から立つと、流し台へお皿を持って行きました。
 キュ、キュ、キュ。
「……そうか。お水は出ないんだったね」
 食器を流し台へ置いただけで、お父さんは戻って来ました。それから、新聞を広げて読み始めました。
 でも、がっくりと肩を落としたお父さんは、やっぱり元気がありません。
 何だかキトラまで元気がなくなって来ました。
「お母さん、お水は出ないの?」
「ええキトラ。水道局に電話してみたんだけど、つながらないのよ」
 お母さんも元気がありません。タウラは、何だか元気のないキトラたちを不思議そうに見ています。
 と、その時、お父さんが新聞を置きました。
「……そうだ、お風呂屋さんに行こう!」

 タオル、石鹸、シャンプーに、リンス、アカスリ、バスタオル。
 ちょっとした荷物をバッグに入れて、キトラたちはお風呂屋さんへ歩きます。
「お風呂屋さんってどんなとこ?」
 歩きながらキトラが尋ねます。
「キトラもタウラも行った事がなかったかしら」
 弟のタウラが乗ったベビーカーを押しながら、お母さんのアスタさんは、少し驚いたような顔をします。
「うん」
「そうだったね。僕が学生の頃は、お家にお風呂がなくてね。近くのお風呂屋さんにいつも行ってたんだよ」
 お父さんのナラキさんは、さっきまでとは打って変わって嬉しそう。
「お風呂屋さんの湯船はとっても大きいんだ」
「……じゃあ、プールみたいなものかなぁ?」
 キトラは首をかしげます。
「いや、そこまでじゃないけど」
「泳いだら怒られちゃうわね」
「実は怒られた事があってね」
「まあ、本当に?」
 お父さんとお母さんは笑いました。
(泳げもしない所にわざわざ行くなんて、分からないなぁ)
 キトラはそう思いながらも、歩き続けました。

「まだなの?」
 キトラは尋ねます。
「おかしいな、もっと近かった気がするんだけど」
 お父さんのナラキさんは困った顔をします。
「どのへんにあるの?」
 弟のタウラの乗ったベビーカーを押しながら、お母さんのアスタさんは尋ねます。
「ええと、ここの道を真っ直ぐ行って、ここを曲がって、そうして……」
 言いながら、お父さんは座り込んでしまいました。
「ナラキさん、大丈夫?」
 お母さんが心配そうに覗き込みます。
「うん、大丈夫、大丈夫、はは」
(お仕事でとっても疲れてるんだ)
 いつもはお風呂に入って、ご飯を食べて、そのまま寝てしまうお父さんに、お風呂屋さんまで歩く元気は残っていなかったのです。
「帰りましょうか? もうキトラも疲れちゃったみたいだし」
「……ああ、うん、そうしようか」
 お父さんは大きな溜息をつきました。
「おかしいなぁ、そろそろあの煙突が見えてくる頃なのに」
「煙突?」
 キトラは思い出しました。
 キトラの部屋の窓から見えた、あの煙突。
「ひょろっと高い煙突?」
「うん、そうだよ。キトラ、知ってるのかい?」
 キトラはお風呂には入りたくありません。お風呂屋さんにだって別に行きたくありません。でも。がっかりするお父さんを見るのは、もっとイヤでした。
「……知ってるよ。こっちのほう!」
 キトラは走り出しました。

 キトラを先頭に、みんなは道を曲がり、路地を抜け、橋を渡って歩きます。
「ち、ちょっと待ってよ、キトラ」
 疲れたお父さんのナラキさんが立ち止まりました。
(もう、遅いなぁ)
 そう思いながらも、キトラは歩く速さを遅くします。そしてゆっくりゆっくり歩くお父さんを、何度か振り返りながら歩きます。
 考えていたよりもずっと長い時間をかけてようやく、キトラはせまい道に差しかかりました。
 明かりも少なく、家と家に挟まれた道の向こうに――。
「あれだ!」
 キトラは声を上げました。
 家の間から真っ直ぐ、ひょろっと高い煙突が、暗い夜空に向かって立っていました。
「久し振りに見ると高いなぁ。ありがとう、キトラ。君のお陰だよ」
 疲れた顔で、お父さんは笑いました。
「えへへ。行こっ」
 キトラたちが煙突のほうへ歩こうとした時。
 ぴちゃ。
「え?」
 キトラは水たまりを踏んでいました。
「こんな所に――ええっ!?」
 道路には水が流れていました。
 あとからあとから水が流れて来て、道路がまるで川みたいです。
「まぁまあまあまあ、大変だわ、大変だわ!」
 お母さんのアスタさんはすっかり慌ててしまいました。弟のタウラもびっくりしたのかぐずぐず泣き始めます。
 キトラも何が起こっているのか、どうすればいいのか全く分かりません。
(せっかく目の前に来てるのに。どうして!)
 なんだかキトラまで泣きたくなって来ました。
 そんな時です。

「アスタさん、タウラを連れて水から離れるんだ」
 お父さんが言いました。
「大変――え? は、はい」
 お母さんはタウラのベビーカーを下がらせました。
「キトラは、電話を用意しといてね」
 お父さんに言われる通りに、キトラはバッグの中を探ります。
 その間に、お父さんは靴と靴下を脱ぎました。そして、自分の足が濡れるのもかまわず、水を踏み越え、道を進んで行きます。
「お父さん、大丈夫?」
「――ああ、やっぱり」
 お父さんは立ち止まりました。
「何があったの?」
「ほら、ここだよ」
 お父さんが振り返って、足元を指さしています。
 よくみると、そこにはマンホールの蓋があり、水が溢れ出していました。
「なにあれ?」
 戻って来たお父さんに電話を渡しながら、キトラは尋ねました。
「水道管から水が漏れているのさ。うちのお風呂の蛇口から出るはずだった水は、ここから漏れてたんだと思うよ」
 お父さんはにっこり笑って、電話をかけました。
「――あ、もしもし、水道局さん? 水が漏れてるんだ、すぐに直しに来て下さい」

 広い広い湯船にたっぷりのお湯があります。
 お母さんのアスタさんは壁の向こうの女の人用のお風呂。
 キトラとタウラとお父さんのナラキさんは、男の人用のお風呂で両手両足を広げます。
「あー、気持ちいいねぇ……」
 お父さんはとても幸せそうな顔をしています。
「ねえ、お父さん?」
 キトラが尋ねます。
「なんだい?」
「水道は直ったのかなぁ?」
「大丈夫だよ」
 お父さんはにっこりと笑いました。
「明日はお家のお風呂が使えるよ。お母さんも一緒に、みんなで入ろう」
「……でも、せまいよ」
「ははは、
『ナラキさん、キトラ、タウラ、そろそろ出るわよ』
 隣のお風呂から声がしました。
 キトラとお父さんと――多分タウラも――声をあわせて言いました。
「もう少し待ってー!」

【おしまい】