感想: |
10 いかにも平和な様子がいいです。
13 寒いけど爽やかな朝が心地よい。
24 可愛い人ですね。
22 同様に可愛い人だ。
11 泥棒なんてトラックで来たって大したことない。地の揺れは地震でしょうか、津波
にも気が取られます。
大自然の前には人間なんて木っ端微塵ですね。
まるまると太った雀の子の騒ぎ出した驚きがよく解ります。
季語のない句を選んだ者として無季認容論について私見を述べておきます。確かに「は
なひ草」より今日まで新題は充実し増加しています。が、現代人の生活はそれと逆に、野
菜、果物、草花など殆どを通年の産物として食し愛でています。新年のホテルで毛皮を脱
いだ女性がノースリーブで、はっとした経験があります。
素敵に見えたし違和感など微塵もありませんでした。
住とて機能重視となり、雪の新潟といえども街は四角いコンクリートのビル群であり、
白川郷の合掌造も木曽路の町並みも観光施設で、季題としての意味は勿論、季節の感情は
失われるばかりです。
日本の風土や年中行事に興味は大いにあります。しかし、その意味するところを教えら
れても「なるほど」と、知識を得ただけで終わりです。
歳時記にしてからが、季題選出の基準と、その例句の選出に各派の圧力が掛かり、編纂
者自身「疑問のあることは否めない」と言っています。
それも俳諧の人間のやることだ、余り拘らずそれはそれでいいのかとも思いますが、古
い誤りがそのまま無批判に受け継がれていたり、解説に適しない例句など、人に強制できないものになってきているのも事実です。
飯田蛇忽は歳時記を俳人として思うままに作ってみたいと、特殊な原稿用紙まで拵えた
と聞きます。
「雀海中に入り蛤と為る」の句があります。雀が孵化する数はおびただしいものなのに、
山にも里にも余り多くならないのは、きっと海にでも入って蛤になるのだろうと詠ったも
のです。
元来、この季題は二十四節気の寒露の二候にあたり、晩秋のものです。しかし、歳時記
は蛤を季題として、立春から立夏の前日までの部に載せていたりします。
無味乾燥な辞典ではなく、詩の味わいを持たせた歳時記は、人にそれを感じる根深い季節の感情があってこそのものです。
都会か、海か山奥か、見渡す限りの牧草に囲まれて暮らしているのか、環境により季語
に対する人の詩的感受性に当然違いは出るでしょう。
で、あるからして、無季認容の問題は「完全否定するのも大人げないなあ」程度の大らかなルールで、まあ、楽しく心の赴くままに実作したいと言う事で、如何でしょうか。
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