ENTRY 1
カラクリモンモン
マニエリストQ◆◆
銭湯の一番湯、躰を流す男の背の派手な紋々を、湯気を透かした少しばかりの遠目に眺めている。紋々の背には、瘤ひとつ。
こちらはと云えば、極彩色の富士山麓のペンキを背にし、濡れ手拭いを頭に載せて、大層長閑な気分で湯に浸かっている。ひとり、老いた躰を洗う気もなく、もう参拾分も湯舟の内でふやけている。酒精が多分抜けるのは好いとして、そろそろ煙草が恋しくもなってくる。くるが、湯を出る力がすでにない。眼が翳む。
銭湯の庭の木漏れ陽。
蝉の一番啼き。
湯に溶ける酒が滲む汗。
……どのようなカラクリか、彫り物だとばかりに見えた男の濡れた背がふいに、薄い古紙のごとくmerariと捲れ、内から小さな幻燈機らしき鉛色の鼻先が覗く。
ziy、ziyと、螺子の廻る無器用な音と伴に、白い明りが微細な湯気に散る。
男の背はこの幻燈機の瘤だったと得心、その光景をぼんやりと眺めていると、明りの先が富士山頂の白雪に照射し、反射し、いつのまにか眼前の翠色の湯面に落ちている。細い明りの先は湯に潜り、舟底に沈んで、何やら赤く滑るように動く。
舟底の萎びた尻をずらし、buku、bukuと、口端に水泡を溜めて湯に沈んでみると、それはブリキの紅い金魚だった。金魚は股間に這いいって、sui、suiと、気持ち好さげに泳ぐ。ついで、白くなった己の恥毛が数本、翠の湯に揺らぐ様を見る。紅白めでたいと、湯の内で祝う。祝いと云えば、葬式饅頭。そいつを村長さんが喰らって死んだそうな――餓鬼に過ごし戯れ唄を思い出す。いつでも、祝いは楽しい、大きな土饅頭。
sui、suiと、紅い金魚が巧みに泳ぐ。paku、pakuと、鰓呼吸。
moku、mokuと、モク呼吸六拾年。そろそろ飽きもくる。
ziy、ziyと鳴るは、鈍色の幻燈機にあらず、世間では走馬燈と云うが、それはどうでも好くて、躰の半分下が溶けて無くなっている。白髪の恥毛も失せている。そこを、紅い金魚が、相変わらず上機嫌に泳いでいる。躰半分、こいつめが喰らったか?
ますます深く、身は沈む。いよいよもって消えいる老いさらばえ。人生の罰が当たったのだと、これ地獄門。
ようやく俺にもお迎えが来たらしいよと、金魚を指先で突いてみる。すると、好い按配だみたいに、金魚の眼がぐるりと廻った。
湯当たりしただけのこっちゃ。
番台の婆が遠慮のヱの字も無く、倒れた俺のふやけたふぐりを凝視、吐き捨てた。
ENTRY 2
幻日(げんじつ)
荵◆◆
哲夫の絵が売れた。F0の小さな絵。
川の中州に立ち並んだ古びた画廊の一つを、週十万円で借りて、最終日。哲夫が、立体的に交差する高速道の下、地下鉄の入り口で、仕事情報の小冊子を三百円で売っている間にその絵は売れていた。
仕事を終え、無表情の哲夫が汚れたダウンジャケットで画廊に現れると、申し訳程度の受け付けから、咥え煙草の店主が声をかけた。
「やったな」
哲夫の口が、何が、と開きかけて止まる。店主のひからびて太った指の間に、しわくちゃの三千円が握られていた。口元が嘲るように笑っている。
気づいたように狭い板張りの画廊の中を見まわす哲夫。壁中に、混沌と、上下に、まったく規則性もなく、大小の油絵が感覚的に並んでいる。哲夫自身にも自分の描いた絵が、先日と同じように、壁に染みついているように見えた。
「煙草は止めてくれ」
哲夫は自分の絵があった場所から目を逸らさずに言った。昨日まであったはずの場所に、何も無い空間が一つ、確かにあった。
店主が鼻で笑い、床で煙草を踏み消した。
哲夫は売れた絵を思い浮かべようとした。
が、どうしても思い出せない。小さな絵だったからかもしれないが、自分の絵であるにも関わらず、印象にも残っていない。手に冷や汗が滲んでいた。
「五千円だったはずだが」
我に帰り、哲夫は店主に向き直った。
「送料と手数料だよ」
目を合わせず、あっけらかんと店主はカウンターに金を放りだした。今日中には撤去してくれよ、気が滅入るんだよ、お前の絵は、と付け加えながら。
哲夫は目を伏せて、消え入りそうな声で聞いた。
「誰か分かるのか」
「お前と同じ苗字の年寄りだったな」
哲夫の頭の中で、急にブチブチと音がした。視界が霞んで涙が止まらない。猛烈な吐き気に襲われ、体を支えていられない。耳の上あたりが激しく痛み、映像が勝手に浮かんでくる。小さな絵の中、暗い色調の中心に、影のようなフサフサした毛を持つ、一つ目の人面獣が頭から血を吹き出している。背景には大火に覆われた高い建築物があり、獣は逆間接の足で、無気力ながら逃げ出そうとしているかに見える。絵には元絵があった。構図も色調も全く同じだったが、獣は血を吹き出してはいなかった。親父の姿が思い浮かぶ。トイレに蹲る。酔っていたんじゃなかった。
激しい嘔吐を繰り返す哲夫を恐れるように、店主は画廊を飛び出した。哲夫は脂汗と涙と排泄物にまみれて、箱庭に転がった。
ENTRY 3
愛の証
青野 岬◆◆
山本さんが、抜いたばかりの親知らずを私にくれた。
「どうしても君に持っていて欲しくて、医者にもらったんだ」
親知らずは根の部分がとても長く、歯茎から見える三倍くらいの大きさがあった。ひどい虫歯になっていて、侵食された穴の深さが痛みの凄まじさを物語っていた。
「それじゃあ、私からはこれを」
私はバッグから小さく折りたたまれたティッシュを取り出して、山本さんに手渡した。
「……これは?」
「尿道結石。先日、やっと尿と一緒に出たの」
うつむきながら私は答えた。
「うーむ、とても立派な結石だ。さそがし痛かっただろうね」
石の大きさは五ミリくらいで、西瓜の種を思わせる真っ黒い色をしている。山本さんは激痛と共に産み出された宝石を、慈しむように見つめた。
それから私達は「愛の証」として、かつて自分の体の一部だったものを交換するようになった。
あるときは、両手両足十指分の爪をもらった。それはどれもが小さな三日月の形をしていて、足の爪は手の爪よりも厚みがあって硬かった。
私は爪のお返しに、剥がしたばかりのカサブタをあげた。自転車で転んだときに、左膝を擦りむいてできたものだ。カサブタは私の皮膚の上でこんもりと硬く盛り上がり、剥がすさきから血が滲んだ。
「これはいい。艶と厚みのある、最高級のカサブタだよ」
山本さんは頬を紅潮させて喜び、手に取って太陽に透かしてみたり、あらゆる角度から眺めてみたりした。そして少しちぎって、口に含んで味わってみたりもした。
「じゃあ僕からは、これを」
次の日、山本さんから渡された箱の中には縮れた体毛が入っていた。陰毛と思われるそれはやや茶色がかった色をして、山本さん自身の生々しい息遣いを感じさせた。
私は何をあげようか悩んだ末に、髪を三つ編みにして根元から鋏でざくりと切った。そしてそれを綺麗な紙に包んで、山本さんにあげた。
「こんな素晴らしいものをもらえるなんて、僕は世界一の幸せ者だ!」
山本さんは切り離された私の髪に、何度も頬擦りを繰り返した。少し泣いているみたいだった。その姿を目の当たりにして、私は密かに安堵した。
それから何日かして、私は山本さんから思いがけないものをもらってしまった。それはまさに、究極の「愛の証」だった。
この素晴らしい贈り物に見合うお返しは、もうあれしかない。後には引けない。
山本さんからもらった大切な を胸に抱いて、私も覚悟を決めた。
ENTRY 4
ROMANCE
アナトー・シキソ◆◆
ずっと借りたままになっていた本。
ページを開いて最初の一行目に僕は見た。
横書きの文字と文字の間から君が覗いてる。
その瞳の色を僕が忘れるはずがないだろう。
すぐに分かったよ。
こんな所に君は隠れていたのか。ずいぶん探したな。
それとも、僕がうかつで、君を待たせてしまっただけなのか?
文字を辿って、僕は君の視線を追いかける。
君は、読点でまばたきし、句点で微かに目を逸らす。
この本を読む度に、思い出すのはあなた。
最初のページの最初の一行から、私はあなたの気配を感じてる。
それは、手のひらの光を掴む赤ん坊。
地面に影の蝶を追う青い野良猫。
夜の海底から透かし見るランドサット衛星の軌跡。
長い、緑色のマフラー。
ページを繰れば、ほら、今、私の後ろを通り過ぎた。
スターバックスとドトールの間の路地にある自販機で買った缶珈琲。
ここだけ特価の80円。
コートのポケットの中で握りしめる。
この暖かさだけが本物だ。
歩き煙草で通行人を蹴散らし、途中、カーネル・サンダースの眼鏡を奪い取る。
自分で掛けたら目が回りそうになったけど、かまわずそのまま行く。
ひも付きのチワワに吠えられながら信号待ち。
缶珈琲を開け、一口飲んで、更に信号待ち。
「これは?」
「娘が、あなたにと……」
夜中にふいに目覚めると、あなたは眠ってる。
あなたが目覚めている時は、私の方が眠ってる。
眠ってるあなたを起こしたくはない。
だから、あなたが、私を起こして欲しい。
飯を食った。電車に乗った。セックスをした。歩いた。
笑った。考えた。野良猫を撫でた。意気投合した。
ギクシャクした。飽きた。違う角を曲がった。
そして、見失った。
何もかも忘れた。
「それ、いつも読んでるよな」
「高校の頃からずっと」
「飽きない?」
「飽きたら読むのをやめて、読みたくなったらまた読むのよ」
「今まで何回くらい読んだ?」
「十回以上」
「なんなの?」
「本よ」
「だから、何の?」
「読んでみる?」
「いや」
「読んでみれば。貸してあげるから」
「本は読まない」
今、夢を見た。
夢の中の私には夫がいた。
私の知っている誰とも似ていない、私の倍くらい年上の三十くらいの男。
もうすぐ死ぬ病気だった。
夢の中の夫はベッドの中から、私に1冊の本を差し出す。
「ここに君と僕は居る」
そう言って微笑む夢の中の夫。
私はなんだか胸がいっぱいになって、それで目を覚ました。
本の題名は覚えてる。
知らなかったけど、実在する本のような気がする。
たぶん。きっと。
ENTRY 5
白い猫が嗤う
棗樹◆◆
春。歓迎会のあと、送ってくれるという男と歩いていた。名前も知らない。送るといっても真っ昼間だ。アスファルトは濡れている。白いとげのような雨が降っている。傘はない。傘がないね、というようなことを言いながら歩いている。この男とどんな風にするのだろうね、と思って歩いている。
黄ばんだ笹の葉が誘うようにゆれている。アスファルトでいい加減に固めただけの山道なのだ。単調な雑木林の奥に退屈な雑木林が続く。道を外れて踏み入ってゆくだけで簡単に消えることができそうだ。
鳥さえ鳴かないいびつな夢の中をどこまでも歩いている。どこまでも歩いていく山の中に、わたしのアパートがある。二つの部屋に一つ、共用のトイレがついている。ドアは二つある。便器の両側、右と左に一つずつ。右の部屋の住人は右のドアから入って用を足す。左の部屋の住人は左のドアから入って用を足す。左右のドアにはそれぞれ鍵がある。入っているときは鍵をかける。それで十分じゃないか、と大家は言った。
部屋には冷蔵庫もついている。玄関の横の外壁、外から部屋にめり込む形の作りつけ。ドアを開けたいときは、いちいち表に出る。サンダルをひっかけて表にまわり、プラスチックのピンクのドアを開けるとキティが言う。
「いらっしゃい!」
プラスチックのキティの冷蔵庫。どこもかしこもピンク。プラスチックの肉と野菜が詰まっている。冷蔵庫をのぞきこみ、男に何を食べさせるか考える健気なわたし。プラスチックのピーマンと卵をつかみ、ドアを閉める。
「また来てね!」
とキティが笑う。男を振り返る。雑木林の切れ目から麓の村が見えた。水車が回っている。人の姿はない。煮炊きの煙が上がらないかと思った途端、茅葺き屋根からいっせいに立ち上る。
さすが夢だ。
虹色の霞がかかって男の顔はよく見えない。昔、象を冷蔵庫に入れる方法を教えてくれた男だ。象を冷蔵庫に入れるのはとても簡単。三ステップでできてしまう。
1.冷蔵庫のドアを開ける。
2.象を入れる。
3.ドアを閉める。(また来てね!)
冷蔵庫にキリンを入れたくなったらどうするか。今度は四ステップで。
1.ドアを開ける。
2.象を出す。
3.キリンを入れる。
4.ドアを閉める。(また来てね!)
入れたものは出すのがコツだ。
ピーマンと卵を出して男を入れ冷蔵庫のドアを閉めると、猫は嗤いながら言った。
「また来てね!」
ENTRY 6
彼岸
ぼんより◆◆
その赤信号で待つ間何気なく助手席の黒い巾着を眺めていると、信号が青に変わる。目と鼻の先で左に折れると、そこに祖父母たちが眠る墓苑の風景が広がった。緩やかな曲線を描く道筋に沿って車をゆっくり走らせると、まだ春を見ぬ桜の群れが視界に入っては流れ、流れ、流れていく。どうして墓苑というのはこうも静かなのだろう。ひゅうふぅ鳴く風。動かない石。祭りの後のような静けさ。
車を停めウィンドウを閉じドアを開ける。場所のせいか私の体はひんやりとした空気に包まれ、子供の頃に似た恐怖と安堵が内側に佇む。風は耳だけを通し、相変わらずひゅうふぅ鳴いている。
水道で桶いっぱいに水を張り柄杓をその中に放り込む。昔はこの木桶と柄杓が珍しく、ついつい柄杓で桶を叩いたりなど遊んでは、どやしつけられたものだった。今はもうどやしつけられることなどない。どやしつける人もいない。こんなものが珍しかった頃は私もまだあまりに幼く、五月蝿く、可愛がられていた。
細かい汚れが目立つ墓石の前に立ち、桶から柄杓で水を懸ける。薄い灰色の墓石が濃いグレイに染まって、墓の下に眠る祖父母たちは心地よいというよりは寒々しい気がしないだろうか。私は、ごめんなと言いながらそれでも水を懸け続け、無心に懸け続け、多分祖父母たちを納得させた。黒い巾着から線香とマッチを取り出して、消えないように桶の中で風を避けて線香に点火する。線香の弱い光は、それを持つ手を振るとあっさり消えてしまう。消えると煙が鼻を通って、初めて体が風を咀嚼した。風はやはりひゅうふぅ鳴いている。私は墓前にいる、と思った。
数十秒。目をつむって両手を合わせ眠るように祈る。
元気でやってます。今年は色々忙しくなりそうだけど、毎月会いに来るよ。ちゃんとね。
枯れた花も変えず墓石を磨きもせず、桶と柄杓を水道に置いて私は早々と車に戻る。ポケットからタバコを取り出して銜えると、バックミラーに人影が映った。親子だった。子供が柄杓で桶を叩きながらきゃっきゃっとはしゃいでいる。それを見た親御さんがどやしつける。子供は騒ぐ。親御さんがまたどやしつける。
もう、いい加減にしなさい。こら、まったくもう。
銜えたタバコに火を点ける。一服してエンジンをかけ、また桜の群れの中をゆっくりと走り出す。親子の姿がバックミラーの中ですっと小さくなっていき、やがて見えなくなる頃、私はタバコを消して墓苑を後にした。
ENTRY 7
お嬢さんの傘
鳥野 新◆◆
お鈴は江戸でも指折りの大店の元お嬢様。没落した今は長屋住まいの憂き目だが立ち居振る舞いは優雅だし、教養はあるし、長屋の住人は掃き溜めに鶴が舞い降りたとばかり特別扱い。
「そこいらのガキとは品が違うねえ」
面白くないのは、引き合いに出される長屋のガキども。
ガキ大将の兵太が子分を集めて一計を案じた。
「あの小娘を泣かしてやろう」
噂を聞きつけた下女のお糸は気が気ではない。が、間の悪いことに里の母が腰を痛め急遽暇を貰う事となった。
「これをお使いください」
お糸が差し出したのは古びた唐傘だった。
「亡くなられたお父様からお預かりしたものです。いざという時にだけ……」
お鈴は傘を握り締めて、こくりとうなずいた。
下女が居なくなったという噂を聞きつけたガキども。早速人気の無い路地でお鈴を取り囲んだ。
「お高く留まりやがって」
兵太が手に持った泥団子を弄ぶ。じり、と近づく少年達。
「お退きっ、このすっとこどっこいっ」
たどたどしく啖呵をきると、ここぞとばかりお鈴は傘を振り上げた。紅い唇を噛み締めてそのままガキどもの列を突破せんとばかり駆け出す。
「やっちまえ」
泥団子がお鈴めがけて飛んできた。
「きゃっ」
無意識のうちにお鈴は傘の取っ手の突起を握り締めた。
次の瞬間。
お鈴の身体は広がった傘とともにふわりと宙に舞い上がった。
「危ない、浮いちまう」
思わずお鈴に抱きつく兵太。
「大変だあ」
子分達は遥か彼方の空の上に漂う二人を追って駆け出した。
恐る恐る目を開けたお鈴が見たものは、青くうねる隅田川。延々と続く菜の花の黄色。眼下には小間物の様な江戸の町。
「おっかなくないのか」
震え声で兵太が呟く。
「なぜ? こんなに綺麗なのに」
お鈴の瞳がきらきら光る。
やがて傘は最初と同じようにゆっくりと高度を下げていった。
それから誰もお鈴にちょっかいをかける者はいなくなった。それどころか兵太はお鈴に恋をしちまったらしく、子分を引き連れお稽古事の送り迎えを買って出た。
後日お鈴が外国の画家に嫁いで行った時は、一日港に立って見送っていたというけど、まあそれは余談。
傘? 傘はここにある。子孫の僕から言わせると至極簡単な反重力場発生装置なんだけど、謎は謎のまま。無用な詮索は無粋なだけだ。
だってこの傘はあの時代にこそ似合う代物なんだからね。
これはまだ世間が不思議と共存していたころ。
はるか江戸のお嬢さんの話。
ENTRY 8
戦争が終わったら
深詰◆◆
ほんの二年前までは、戦後と言えば二十世紀後半を指す言葉だった。それが反政府ゲリラと国連軍によるたった三週間の戦闘で都市部はほぼ壊滅し、戦後とは現実、現在のことになった。経済規模も人口も著しく縮小し、特に若い男が極端に少なくなった。若い女たちは基地に群がるか、港のある町で、比較的景気の良い海の男たちを相手に、この戦後を生きていた。
この岬の神社には、左側が海を睨み、右側が山の向こうの空を見上げて座る対の狛犬があった。古くから岬に住む老婆は、いわくありげに二頭の狛犬の逸話を若い娘たちに語って聞かせ、貧乏と退屈をしのいでいる。
空を見る狛犬に漁夫の無事を祈れば海は凪ぎ、沖を向く狛犬に願掛けすれば、海は大時化だ、陸にいる男たちは漁に出られないから、もう一晩あたしら女のそばにいてくれる。
「綾乃、お前も好きな男がいたら祈るといい。まあ、その器量ならそんな必要ないかもしれんがな」
爆撃で家族を目の前でなくし、十四歳でこの老婆に拾われた少女は、物置のような粗末な長屋で何度もその話を聞いた。岬に来てから年頃の男を知らない綾乃は、土間で米を研ぐ娘の横で興味なさそうに大根を煮ている。
「好きな人なんていない」
「こんな時代だ、早くいい男を見つけてたくさん元気な子を産め、お前はまだ若いからな」
ここに連れて来られた当時から、丸みを帯びた身体と憂うことさえ厭きたような大人びた表情をしていたが、口を開けば、十代半ばの少女が顔を出す。
「お母さんになんてなりたくないってば」
ユキ婆お裾分けよと、飲み屋の女将が密造酒を詰めた瓶を下げて土間を覗き込んだ。明日、船が帰ってくるよ、天気も良いし布団でも干しとくといいよ。
「そうかい、いつもありがとさん」
やっと美味い魚が食えると、女将が綾乃の足元に酒瓶を置いて、ぽんと肩を叩いた。今度の船、統一コリアの若いのが何人も乗ってるらしいよ。綾乃は昏い目をして、背の高い女将の顔を見上げる。緊張してるのかい? 優しくしてくれるから大丈夫さ。軒先に清めの塩を盛り直したユキが綾乃を呼んだ。月のものは終わったのかい? 女同士とはいえ、デリカシーのないユキに、少し腹が立つ。
「なら狛犬さんに願掛けて来い」
明日はたぶん雨だ、女将が開け放して行った扉の向こうに、軍用機の残した長い飛行機雲が見える。自分の願いが届くなら、狛犬よりあの飛行機の方がましだ。綾乃は扉を閉じて、鍋の火を止めた。
ENTRY 9
Y−レポート
ごんぱち◆◆
かふんしょおのけんきゅう
四ねん三くみ 四谷京作◆◆◆◆
ことしも、かふんしょうのきせつがやってきました。
まいとし、春になるとかふんがとびます。
そのスピードは、マッハをこえ、ばりきにすると五〇〇ばりきをこえます。ばりきというのは、うまの力です。
かふんのもくてきは、めしべにくっついて、タネになることです。タネになったら、かふんがいっぱいとばせます。
でもかふんは小さいからおそいです。はやくタネにならないといけないので、マッハ五〇〇でとぶのです。
なにを使ってとぶかというと、エネルギーは、太ようでんちです。エンジンではありません。そのかわり、はれた日にはいっぱいとんで、雨や雲りの時にはとびません。
お父さんは、雨の日しか外に出ません。
かふんははやくとびますが、とくにはやいのが、杉かふんです。
杉のりゅうせんけいのボディがしめすとおり、かふんもとんがってて、マッハいちおくをこえます。
だから見えないです。ふつうのかふんも見えないけど、杉かふんはもっと見えません。
そして、かふんと人間がぶつかると、ものすごいことになります。
おなかをなぐられたときに、セキが出るみたく、かふんがぶつかるとくしゃみがでる。
ふつうのかふんは、あんまりはやくないですが、すぎはマッハ五〇〇なので、ものすごいくしゃみがでます。それになみだも出ます。
だからみんな、だからマスクをつけます。
マスクをつけると、かおがわからないので、かふんは人間かどうか、ちかくくるまでわかりません。
パンチはジャストミートしないと、なぐったほうがいたいです。それといっしょで、かふんもジャストミートできないので、マスクをした人間にはジャストミートできません。
だからみんな、マスクをします。
もっとすごいひとは、はなをしゅじゅつしてべつじんみたくになります。
ぼくは、かふんしょうではありません。くしゃみは風をひいた時しかでません。よかったです。マスクもしません。
先生より:
「かふんしょお」ではなく、「かふんしょう」です。
花粉が見えないのは、小さいからです。きちんと調べて書きましょう。
自分が花粉症でない事を喜ぶだけの人になってはいけません。お父さんのように、花粉症に苦しむ人たちや、マスクを買う事の出来ない、アフリカの子供たちへの思いやりの心を、つねに持たなければいけません。
もう一つ。課題は手書きにしなさい。(再提出)
ENTRY 10
来象
越冬こあら◆◆
インド象の花島君(芸名:ジャンボ)の来訪には、明確な前触れがある。優しい彼は、御近所迷惑にならないよう、アパートに入る前から、抜き足差し足でやって来るのだが、なにしろ図体がでかいので、たとえ足音が幾分か和らげられたとしても、その振動と傾きが全ての住民に来訪を知らしめる。
そこで私は、薬缶を火にかけ、ノックの前に素早くドアを開けてやる。寝巻き姿の私を見ると彼は、半分安心して、もう半分は申し訳なさそうに、ドアの外で体を堅くする。木造二階建て築四十五年の床が軋む。
「遠慮しないで入りなよ。どうせ起きちゃったんだし、紅茶でも入れるから。さあ」
慎み深い彼は、それでも何度か躊躇した後、サーカスの舞台でもそうする様に体を小さくして、室内に入り込む。柱と梁が花島君の形に歪み、天井が持ち上がる。
「また、失敗したんだね」
いつもそうなのだ。練習では出来ていたことが本番になると上手く行かず、叱られて、落ち込んで、頭に羽根飾りをつけたまま、うちに泣きに来るのだ。
「あまり、考え過ぎない方がいいよ。毎日一生懸命練習してるんだし、少し失敗するくらいは、仕方ないよ。ご愛嬌だよ。君は人気者なんだから」
大粒の涙を零し始めた彼が、果たして玉乗りで失敗したのか、逆立ちで倒れたのか、調教師さんを踏み潰してしてしまったのか、仔細は不明なので、遠まわしの慰めを言う。気にすることはない。書類を間違えようと、男性社員から差別されようと、要領の良い後輩に抜かされようと、自己嫌悪に陥る必要は、全く無いのだ。
一番大きなカップにティーバックをたくさん入れて、沸きたてのお湯を注ぐ。砂糖もいっぱい入れて、鼻の前に置いてやると、器用に鼻で吹き冷ました後、ズズッと吸いこみ、その鼻を口に持っていき、ゴクゴク飲む。
「こっちも飲むかい」
今度は、二リットル入りの焼酎を取り出し、ボウルに注ぐ。自分用にお湯割も作って、乾杯だ。ズズズッ、ゴクゴク。ペシペシと花島君の体を叩く。剛毛が手に刺さる。ズズズッ、ゴクゴク。
涙が乾いた花島君の瞳の奥に、突然サバンナの草原が広がる。水辺に遊ぶ原色のインコ、インパラの群れ、眠るライオン、草食むキリン、バオバブの巨木。吹き抜ける風、ジェンベの鼓動……。
「アフリカを思い出してるんだね……インド象のくせに」
明け方、迎えに来た調教師さんに連れられて、花島君は帰っていった。私は少しまどろんで、三十分遅刻した。
ENTRY 11
残響
とむOK◆◆
山すそから延々と続く腰丈の雑草に埋もれて歩く汚れたスニーカーが、ようやく畦らしき道を踏んだ。乾いた空に顔を向けて街の痕跡を探すと、育ちすぎた防風林に隠れてぽつりと家があった。傾いだ玄関の脇で、青と赤の縞を描いた柱が蔦を巻きつけて静止していた。
「いらっしゃい」
くすんだガラス張りの扉をくぐると、床をみしみしと軋ませながら旧型の理容ロボットがやってきて僕を迎えた。金属の体に似あわない穏やかなテノールが、風の音ばかり聞いていた耳に心地よい。
「カットはどうです」
そういえば何年も切っていなかった。僕は頼むことにした。
彼は重い体を揺らしてせっせと道具を用意する。手作業型の理容ロボットがまだ残っていたとは驚きだった。僕の好みを聞き、彼は手際よく鋏を動かし始めた。
いい天気ですね…最近めっきり人が来なくて…この星を脱出した連中もどうしてるやら…おや、お客さん、ネジ巻き時計なんて今時珍しい。お祖父さんの形見、ははあ…そうそう。古くなったからって、簡単に捨てられてもね…
実際、かなりの腕前だった。彼にカットのプログラムを仕込んだのは、よほどの職人だったのだろう。自己メンテナンスも十分機能していて、五十年は稼動している筈なのに錆一つない。指先は滑らかに僕の髪を撫で、鋏が淀みなく毛先を走る。
「髭も随分伸びてますな」
もみあげを整えながら彼は呟いた。やって貰えるのかい、と聞くと、水道が止まってシャボンが作れない、と言う。
「親方一番の仕込みで、そこらの新型にゃ絶対負けないんですが」
そう言って固い背中が床に散った髪を掃きはじめる。
窓の外で雨が匂いだした。すっかり軽くなった頭を振り向けると、数ヶ月ぶりの慈雨が埃っぽい空気を洗い、表の蔦に色を甦らせていた。
僕はうずくまる銀色の肩を叩いた。
雨のあがった庭に僕は椅子を担ぎ出して座る。彼は新しい前掛けをぱん、と音高く広げてしゅるりと僕の首に回した。むっくりと立ち上がった純白のシャボンをたっぷり僕の頬に塗り、彼は親方の形見だという剃刀を颯爽と取り出して僕の頬を撫でる。痛みどころか触れた感じさえない。実にいい腕だ。
ひさしから落ちる名残りの雨粒が、並んだバケツやタライの、どれも一杯に満ちた水面をかわるがわる打っている。これならしばらく髭を剃るのに困らないだろう。頬を風に晒して仰向いた僕の頭上で、青空に雲がすっと刷けて、やがて地平線に消えていった。
ENTRY 12
始まりの時
日向さち◆◆
弾むような気持ちは、春のせいだけではない。
病院を出たところで、財布をバッグへ入れようとしていた。そのとき、青い何かが目の前を通り過ぎる。私の右手は、財布を掴んだまま飛んでいった。
「まったく、右手ときたら」
左腕がむくれる。まあまあ、と臍が宥めたが、納得してくれないようでむくみが取れない。
「すっかり春よね」
いつの間にか、右手がオオイヌノフグリを掴んで帰ってきていた。さっき通り過ぎた青いものは、オオイヌノフグリだったのだ。一緒に持っていた財布には、土が付いていた。
「大丈夫大丈夫、払えば落ちるよ。それにしてもオオイヌノフグリが舞い上がるなんて、驚きだね」
右目と左目が、寄り目になりながら微笑み合う。
「春ってステキよね」
「そうだね。風がいっぱい吹くもんね」
右手が、地面を跳ねたり、踊ったりしている。バック宙まで披露して、喝采を浴びた。回ることなど難なくできるだろうけれど、右手は誇らしげに笑顔を見せている。
正解だったな、と思った。
いつも思ったとおりに行動したがっていた右手を、自由に動けるようにしてやろうと言い出したのは、右腕だ。
右手が右腕にぶら下がる。以前は、こんなことすら出来なかったのだ。右腕の上で跳ね上がって叱られるが、右手はあっけらかんとしている。右手にとって、右腕は親のような存在なのだろう。叱った右腕も、すぐに笑顔を取り戻した。
財布を収め、ようやく左腕のむくみも消えた。利き腕が右なので、左腕は幾度となく妬いてみせるが、こればかりはどうしようもない。
病院に通い始めたのは、一昨年のことだ。元々は盲腸炎のためだったが、左腕のほくろを消したり、両脚の長さを矯正したり、目の色を薄くしたりしているうちに、2年もかかってしまった。それもこれも、体の各部の要望を受け流せないからだ。私の要望には違いないから、どうしようもない。
でも、右手に関しては手術してもらって正解だった。右手にかかった治療費が一番高かったものの、右手だけでなく、右腕や、他のパーツたちにもプラスに働いているようだ。左腕だって、そのうち分かってくれるだろう。
そして、たった今、通院を終えた。もう検査を受けなくていいのだ。両脚はスキップを始めた。右腕の振り方も、いつもの1.2倍だ。
「頭も大変だったでしょう。お疲れ様でした」
額が、他には聞こえないよう、こっそり声をかけてくれた。
これからが私のスタートだ。
ENTRY 13
夜渡り観音
カピバラ◆◆
夜中近くの駅前で、観音様を見かけることがある。ベンチに所在無げに座っている、長い髪を後ろでくくった水商売風の女がそうだ。
「かんのんさーん!」
と声をかけると、ぎょっとしてこちらを向き、
「しぃーっ」
と人差し指を口の前に立てる。
「夜に出歩いてるの、御住職に内緒なんだから!バレたらどうすんのよ!」
本尊のくせに住職よりも立場が弱いらしい。お寺は駅舎のすぐ裏だ。
観音様と会えたときには、たこ焼きをおごることにしている。観音様は駅前のたこ焼き屋が大好きなのだ。
たこ焼きを二折買って、川まで少し歩き。橋の欄干に並んで腰掛けて、まだ熱々のたこ焼きを食べる。
観音様はニコニコして、長めの楊枝を器用に使って、たこ焼きを食べている。今日も駅前のたこ焼きは、ほどよい焼き加減でとろりと旨い。川沿いの桜はそこここでほころんでいる。風も暖かい。いい夜だ。
桜祭りもそろそろねえ、きっと賑やかなんでしょうねと観音様が言うので。そりゃ賑やかだ、見物客で道はいっぱいだし、テキヤがずらりと並んで何を食べるか目移りするほどだ。私はイカ玉プレス焼きが好きだな。という話をすると、珍しそうに聞いている。
観音様は平安時代の生まれだが、長いこと寺の外に出たことが無かったらしい。長寿のわりに意外に物を知らない。
「いか玉プレス?それ何?」
「うーん、プレス機使って作るお好み焼きみたいな物だけど、味はかなり違うな。そうだ、このたこ焼きに似てる。中が熱々で半熟な感じで」
「へえ、たこ焼きに。美味しそうねえ」
こんど一緒に食べに、と言いかけて、しまったと思う。テキヤは昼間しかやってないし、観音様は夜中にしか出歩けない。気まずく思う間も無く、観音様の話は先週見かけた酔っ払いのことに変わっている。
別れ際、観音様に、今大変なんでしょ?たまにはお参りに来てよ、と言われる。観音様に会って以来、気恥ずかしくてお寺にお参りしなくなった。その前は、事ある毎にお参りしていたのだが。
「ご利益あるわよ。お賽銭はいいから。いつもおごってくれるし」
妙に熱心に勧めるので、つい、じゃあ今度必ず、などと答えてしまう。こうして時々夜中に一緒にたこ焼きを食べてくれるだけで、私には十分なご利益なのだ。今さら願い事など、と考えたところで、一つ願うべきことに気づいた。
お参りに行かねばなるまい、桜祭りの前に。
「観音様と、いか玉プレス焼きを食べれますように」
そして、願いが叶いますように。
ENTRY 14
どたら場のサル
MAO◆◆
どこからどこへどう逃げたのか、どたら場のサルが天空の裏庭にたどり着く。
腰はガクガク足はボロボロ、撲たれた背、射たれた脛は肉がはみ出して骨がのぞいている気がするが、察る間もなく逃げ続けた。庭を囲う塀をのりこえると、娑羅の木があってその根元に倒れこんだ。
けだものとはいえど人間さまの大切はわかるらしい。おんなの産まれにくい村じゃて、大事にされる若い娘のうち、十二になる神主の娘と、サギバの六歳の娘に手をつけおった。村はずれ、ごみための傍。めめっこに白子を一杯に溜めてうつ伏しぬ。十二の娘のときに村の若衆でも毛深いのが先ずは猜われたが、うしろから組み付かれたのと、まらのいやに細いのでサルとわかった。
サギバの娘のときは天井のわら葺きを破って飛び降りてきた。春時雨で雫のしたたる中、だすぅと降りてぐいと攫った。荒天に逃げたので人外の裸足がぬかるみにどこまでも、途中行方をくらませたがそこは猿智恵というやつで、泥の撥ねで行方が知れたが、新道の能楽堂の隅でサルを見つけたときには、すでにぐったりとした娘に覆いかぶさったまま、頭の毛を一本一本引いては、蚤取りのしぐさをしているところだった。衆の松明にまたぐらの血がうるしのように黒々として、サルの手長足長に濡れた毛の色に似た。引き離そうにもいかんともしがたく、けだものが埒を開けたところでようやっと松明を投げつけた。サルが去って、娘の息だけが雨音の中でたしかだった。
木に寄りかかって座っている。娑羅の花びらは娘のたてすじに似ている。花ごとばたりと落ちる花を抓みあげ、香いをかぐと精の香がする。ああ、これだ、とサルがヒトであったならば思ったろうが、サルにとってあるのは一種の親和性だけで、花びらを口にくわえ、ひとしきりしゃぶったあとに飲み込んだ。自分の饐えた体臭よりも活きた精の香りで、サルは次の花を探りに手を伸ばす。指先に頼るほか無く、依る幹と一つになったような。視点の先は虚空、枝先に娑羅の花、あんなに沢山ある。じくじくと痛む脛、焼かれた右肩口、日が昇るまで逃げ切って、ようやく着いた、ここ。
乾いた土ばかりの指先に柔らかなものが当たる、抓んで持ち上げると腕が痺れるように痛む。拾ったものは薄緑の芋虫で、仕方なしに口に放り込む、また花を指で探す。芋虫は抹香のような土の味とともに、あまり咀まずに飲みくだす。
そんな様子を、地蔵菩薩が、じっと、見ている。
ENTRY 15
くるくる、くだんちゃん
蛮人S◆◆
私です。留奈です。覚えてますよね。
でも今は頭が牛で、角が生えてるから、くだんちゃんって呼ばれてるんです。
漢字だと、にんべんに牛、だそうです。でもって、件(くだん)、くだんちゃんは不吉の前兆だそうです。大きな災いが起きる時に生まれるそうです。お友達がそう書いてました。
くだんちゃんは頭が牛なので、外に出してもらえません。牛なら外が普通な気がするけど、私はずっと部屋です。ご飯とか親が持ってくるんですけど、時々自分でピザ頼んだりもします。部屋まで持ってくるのは親ですけど。あっ、手は人間のです。パソコンするから。
ネットは良いです。お友達は前より増えました。くだんちゃんの話が聞きたいんです。でも先生は何でも知ってますよね。私の事は。
ごめんなさい。くだんちゃんは本当は角はないんです。でも聞いて下さい。子どもには角があるんですよ。手足だってちゃんとヒヅメです。お腹を蹴るとき分かります。でもって伝わりますから。くだんの啼き声。ヘソで繋がってるんです。で、そのたび私は頭が黒い水に浸かって潰れて、わあって叫ぶんです。それは真っ黒な露で、どうしようもなく、苦い。でも気持ちは分かる。先生は知ってますよね。
くだんちゃんの部屋――真っ暗で臭くてどろどろな、外に繋がるのは線一本の。でも皆様、CMは嘘ですよ。本当はひかりなんて来ないんですよ。届くのは暗いネタばかりだから、くだんちゃんも黒い水を送りますね。げぼ。また、くだんがお腹を蹴ってます。黒い水が溢れます。けぼ。くだんも溺れてるんでしょう。きっとお腹のくだんも、お腹の中で、もっと小さな牛が黒い水を吐いて、ぼおえと啼くんです。だからこの子も線をくわえて啼くんです。
もう嫌ですよお、出してよお、と。
そこでくだんちゃんも、もうすぐですよって分かる。
じきに私も外へ出れるんです。きっと出れるかなって思いませんか。部屋をばくっと割って、黒い血の水を吐きながら。痛くない。マブシクもない。だってその時は空もぱっくり割れて、黒いのがずるずる降り注いで、流れ出して、うん、大丈夫、先生はね、きっと最初に救われる。先生は何でも知ったひとだから。何もかもが、くるくる、ぐるぐるって。
黒い空の割れ目の向こう、大きな、大きな扉が開く。
でもそれはたぶん、なんか夕暮れみたいな匂い、って気がするんです。
だから大丈夫、気にしないで、いいんです。
先生。もうすぐ。
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