新潮社第2回女による女のためのR-18文学賞
一次予選通過作品

マリコ・ア・ラ・モード

青野 岬



 繊細でなめらかな指の動きに、私は思わず鼻にかかった言葉にならない吐息を漏らす。その体の重みを全身で受け止めながら、動きに合わせて呼吸を合わせようとする……が上手くいかない。もうすでに私も快感の海に溺れ始めているのだ。熱くたぎったものを打ち込まれるたびに、私はそれを逃がすまい、と太ももの内側あたりに精一杯の力を込める。やがて、小さな悲鳴と共に体は硬直し、私達は溶け合ったまましばし短い夢を見る。

「ねぇ、今日の……どうだった?」
 また始まった。ヨシオお得意の反省会だ。ヨシオはセックスの後、必ずその日のエッチについて反省会をする。本当は全力疾走した後の心地よい疲れにゆっくりと浸っていたいのだけれど、何事にも研究熱心なヨシオはそれを許してくれない。バカバカしいとは思いつつその真摯な態度につられて、私もつい答えてしまう。
「んー、今日のはまぁまぁなんじゃないかな……」
「何点くらい?」
「九十点くらいかな」
「そのマイナス十点分はなに?」
「ほんのちょっと早かった」
「えーそうだったの。ごめんね……だってマリコの締め付け……すごいんだもん」
 ヨシオは少し拗ねたような口調で私に言うと、再びそっと唇を重ねて来た。それは情熱が放たれた後の、まるで子供がじゃれ合うような可愛いキスだった。
 私はこうやって、ヨシオに抱きしめられながら過ごす甘ったるい時間がとても好きだ。食べ物を扱う職人らしく、短くキチンと切りそろえられた髪の生え際を優しく撫でながら、かすかにバニラの匂いの残るうなじを舐め回す。ヨシオは少しくすぐったそうに身をよじって私を抱き寄せ、あたたかく濡れた唇でその動きを封じる。
 さっきの軽いキスとは違い、今度はぬめって意志を持った舌が私の口の中で怪しくうごめく。その舌は一旦私の口から這い出てそのまま唇の輪郭をなぞり、しばらく頬や首筋を散歩した後、再び私の口の中に戻り待ちわびていた私の舌と絡み合った。
 その頃にはまた硬度を甦らせたヨシオの分身が、私のおへそのあたりをツンツンとノックをするように突つき、その可愛らしさに私の胸は一杯になる。

 ヨシオと出会ったのは、友人の引っ越しパーティで訪れた楓ヶ丘駅の最寄りのケーキ屋さんだった。店の軒には『パティシェ・ヴェール(緑のパティシェ)』とシックなグリーンに黒の筆記体で書かれた看板が掲げてある。レンガ造りの外壁に絡まるアイビーや日よけの鮮やかなグリーンが、落ち着いて上品な雰囲気を醸し出している。店先にはよく手入れされた花が品良く並び、雑然とした駅前の景色の中でひときわ洗練されて見えた。
「いらっしゃいませ」
 店に一歩足を踏み入れると、日よけとお揃いの鮮やかなグリーンのエプロンに身を包んだ店員が出迎えてくれた。パイが焼ける香ばしい匂いが鼻孔をくすぐり、思わずうっとりと目を閉じる。ガラスケースの中には、フルーツやクリームやチョコレートで飾られた宝石のように美しいケーキ達が、キチンと行儀よく陳列されていた。
「えーと、本日のタルトは……」
 私は店頭の黒板に書かれていた『本日のタルト:タルト・オ・フランボワーズ(木苺のタルト)』がケースの中に並んでいなかった事が気になって、店員に訊ねた。
「申し訳ありません、もう少しで出来上がると思うのですが……。少々お待ちいただけますか」
 私は「はい」と小さな声で答えると、そのままブラブラと店内を見て回った。掃除の行き届いた明るい店内の棚には、おみやげ用のクッキーやマドレーヌが、可愛い化粧箱や色とりどりのリボンでラッピングされ並んでいる。あらためてガラスケースの中に視線を移すと、一番手前の『オペラ』がチョコレートの表面を鏡のように輝かせて、圧倒的な存在感を誇示していた。
 店員の立っている後ろは大きなガラス張りになっていて、中で働く職人の姿を見る事が出来た。職人達は皆こちら側には目もくれず、生地をこねたりクリームを絞ってケーキを飾り付けたりと、甘い宝石を磨き上げる作業に集中している。
 一番手前で木苺のタルトを作っていたのは、長身の若い男の人だった。菓子職人らしからぬ私好みのガッシリした体型に、思わず見入ってしまう。その職人は真剣な表情で、タルト生地になめらかなクリームを丁寧に絞り出している。まるで小さな宝物を慈しむように動く手の動きは、流れるように繊細で美しく、そしてセクシーだった。
 木苺をひとつずつタルト生地に絞り出されたクリームの上に並べて行く。その美しい指先でつままれた赤い木苺が、私の中に甘くせつない疼きを呼び起こした。その時、ふいに顔を上げた職人と目が合って、私は見とれていた事がバレたんじゃないかと思い耳たぶまで熱くなった。  ジャムを丁寧に表面に塗り、砕いたピスタチオを上に散らして『タルト・オ・フランボワーズ』が完成した。私は店頭に出されるのを待って、できたてのタルトと『バナナ・ボム』と『無花果とプルーンのタルト』の三種類のケーキを買って友人宅に向かった。
 タルト・オ・フランボワーズの美味しさは格別だった。甘酸っぱい木苺とまろやかなカスタードクリームのハーモニーは絶妙で、私はこのタルトを作っていた男性に強い興味を覚えた。バナナ・ボムは、裏ごししたバナナとクリームをほろ苦いチョコレートで丸く包み込んであり、バナナの青臭さを僅かなレモンで消してある。無花果とプルーンのタルトは、無花果が黒いプルーンとシェリー風味のジュレで固めてあって、ねっとりとした食感が私の中で眠っている淫らなもうひとりの私を呼び覚ますような気がした。
(こんなお菓子を作り出す人って、一体どんな人なんだろう)
 私は湧き上がる好奇心を押さえ切れずに、週に三度はケーキを買いに店を訪れるようになった。
 店の常連になり店員とも話をするようになって、あの職人の名前が「ヨシオ」だという事を知った。私は自分なりにケーキの事を勉強して、少しでも近付きたいと必死だった。でも真面目で仕事以外の事にはイマイチ鈍感なヨシオは、なかなか私の気持ちに気付いてくれない。
 その日、私は職場での株の売買に関するトラブルでムシャクシャしていた。いつものように飲んで憂さ晴らしする気にもなれず、残業を終えると憂鬱な気持ちのまま電車に乗り込んだ。窓ガラスに映る景色をぼんやりと眺めながら、ヨシオの事ばかり考えていた私は、気が付くと、パティシェ・ヴェールの前にひとり佇んでいた。既に店の灯りは消され、シャッターが半分降ろされている。
 シャッターの開いている部分から店の中をそっと覗き込んでみると、店じまいの作業をしているヨシオと目が合った。
「すみません、今日はもう閉店なんですよ」
「ケーキ……あなたの作ったケーキが食べたいの」
 どうしてそんな事を口走ってしまったのか自分でもよくわからない。でも私はその時、自分がどれだけヨシオの存在を求めているのかハッキリとわかった。
 私は必死だった。ヨシオは少し驚いた顔で私を見つめていたけれど、やがてニッコリと微笑んで閉まりかかっているシャッターを上げて、私を店の中に招き入れてくれた。
「さぁ、どうぞ」

 背中に回されたヨシオの腕の動きが、また艶かしさを増してゆく。私の体を軽く持ち上げて胡座をかいた自分の足の上に乗せると、そのまま私の胸に顔をうずめる。その瞬間、ヨシオをたまらなく愛おしい、と思う。
 ヨシオの手のひらが、まるで生地をこねるように力強く、そして丁寧に私の乳房を揉みしだく。そうしながらも指先は私の固く尖ったふたつの木苺を指ではさんで小刻みに震わせている。
「あぁ……ん」
 あまりの気持ちよさに、思わず声が漏れる。ヨシオの舌は丁寧にクリームを塗りたくるようにチロチロと全身を這う。ああ、気が遠くなるなるほどの快感!私は腕の中でパイ生地になってこねまわされたり、ふわふわのクリームになって舐められたり、湯せんにかけられたチョコレートのようにとろとろにとろけたりする。
 しばらくヨシオのお菓子になった後、今度は私がヨシオをお菓子にする番だ。私は女だから『パティシェール』かな。そんな時のヨシオは、私の言いなりだ。
「自分の体の後ろで両腕を組んで」と言うと、ヨシオは黙って私の言う通りにした。体の自由を奪った上で、私はヨシオに最大限の快感を与えようとやっきになる。
 バナーナ。ちょっと青臭くて固いバナナ。ヨシオのモノだけど、今は私だけのモノ。バナナとバニラは相性がいい。私は右手で彼のバナナを優しく握りながら全身を舐め回す。そうしながら、たまに苦しそうに呻くヨシオの顔を覗き見するのが、私の一番の楽しみだ。
 甘いバニラビーンズ匂いのするヨシオの体は、本当に美味しい。ヨシオは早く私に全てをゆだねたくてじれてるみたいだけど、そう簡単には終わらせない。だって、私にお菓子の美味しさを教えたのはヨシオなんだから。
 さんざん口の中で味わって楽しんだ後、一旦体を離して今度はバナナの上にしゃがみ込む。甘い果汁がたっぷりと溢れ出している私の無花果は芳醇な香りを放ちながら、ヨシオのバナナをゆっくりと飲み込んで行く。
「ああっ……マリコ……マリコ」
 堪え切れずに、ヨシオがうわ言のように私の名を呼ぶ。私は返事を返す代わりに体の内側の筋肉を収縮させてそれに応える。
「ヨシオ……いい、すごくいい!お願い……もっと」
「……もう出そうだよ」
「ん……私も、もう駄目……ヨシオ」
 そう言い終えた次の瞬間、私は大きな波に飲み込まれ深い深い海の底に引きずり込まれた。ミキサーで撹拌されたように頭の中がぐるぐる回る。その波にもまれながらも体を前に倒し、私はヨシオの首筋に思いっきり、むしゃぶりついた。そして潮が引くのを待って呼吸を整え、ヨシオの頬に自分の頬をそっと合わせて「好き」と小さな声で呟いた。

 仕事に対しても研究熱心なヨシオは、自宅にいる時もお菓子作りを欠かさない。お菓子に関する本もいっぱい持っている。貯金をはたいて買った、お菓子作り専用の大きなオーブンも。
 証券会社に勤めている私とは休日もなかなか合わないので、デートはヨシオの部屋でまったりしている事が多い。そりゃあ、付き合い始めた頃は不満だった。普通の恋人同志みたいに街に出て、映画を観たりショッピングを楽しんだりしたかった。あのバカでかいオーブンなんて、ヨシオに隠れて蹴っ飛ばした事だって何度もある。
 でも、仕事の疲れをものともせずに美味しいお菓子と作ろうとするヨシオの情熱に私は圧倒された。不満があるとすれば、甘い物に目覚めてしまった私が、ヨシオと付き合うようになってから三キロ程太ってしまった事だろうか。
 今もヨシオは私の目の前で溶かしたチョコレートと格闘している。まるで私の存在なんて忘れてしまったかのように、悔しいくらい真剣な表情で。
「芳雄、ヨシオ、よしおっちゃ〜ん」
 フザケて名前を呼んでみる。いちおうこっちを振り向いたけど、またすぐに自分の手元に視線を移してしまった。私は今、チョコレートに完全に負けている。
「ちょっとぉ。せっかく定休日に合わせて有休とったのにどこにも出かけないの?こんなんだったら予定通り仕事に行けば良かったな」
 九月の決算期は残業ばかりで本当に忙しかった。目を付けていた会社の株が暴落してしまい、その対応に大わらわで休日も当然のように仕事に駆り出された。今日はその分の埋め合わせに取った貴重な休日だったのだ。
「あ、ごめん、ごめん。今ちょっと最後の追い込みで大変なんだよ。今度は店のメンツに賭けても絶対に優勝したいんだ」
 ヨシオは早口で私にそう言うと、オーブンの中を覗き込んだ。
 頭ではわかっていた。ヨシオは二週間後に開催される大手製粉メーカー主催のお菓子コンクールに出品する為の準備に夢中なのだ。毎年、店から代表が選ばれて参加する事になっていて、去年は惜しくも入賞を逃してしまったらしい。  そして今年、店の誰よりもお菓子作りに燃えるヨシオに白羽の矢が立った。去年の雪辱戦とばかりに店の従業員も一丸となってヨシオを盛りたてて、夢は大きく優勝を狙っているそうだ。お陰でますますデートは遠のき、ここんとこエッチまですっかり御無沙汰になっている。
「わかってるけどさー。あんまり放っておくと浮気しちゃうからね」
 聞こえているのかいないのか。ヨシオは私には目もくれず、オーブンの扉を開けて中から焼き立てのパイ生地を取り出した。
「ミルフィーユはパイの焼き加減が肝心なんだよ。一番上に乗るパイ生地を細かいメッシュにして、高温で中の砂糖を焦がしてカラメルの味わいを出したいんだ」
 ヨシオは手の動きを休めないまま、私に説明した。クリームと直接接触する層のはいくぶん厚めに焼いてサクサク感を残すべく、試行錯誤しているらしい。
「あれ、ミルフィーユなのにチョコクリームにするの?」
「うん、本来ならクレーム・パティシェールを使うのが一般的なんだけど、今回はコニャックとガナッシュクリームを使ってみようと思うんだ。で、上には苺を乗せて、形もあえて丸くしようと思ってる」
 食べるのは大好きだけど、普段ほとんど作る事の無い私にとって、それはまさに気の遠くなるような作業だ。ヨシオは今度のコンクールに、一番得意とする苺のミルフィーユで挑戦するつもりなのだ。
「名前はミルフィーユ・ルージュ・エ・ノワール(赤と黒のミルフィーユ)だよ。どう?」
「……いいんじゃない」
 私は焦げて失敗したパイ生地を、これ見よがしに口に放り込みながら答えた。
「ごめんね。コンクールが終わったら、この埋め合わせは必ずするから。休みをとってマリコの行きたい所に行こう」
 すっかりふて腐れた私の顔を見て、ヨシオが申し訳無さそうに言った。少し困ったようなその表情が捨てられた子犬の目を彷佛とさせて、なんだか私の方が悪い事をしているような気持ちになる。こんな時、ヨシオは本当にずるいと思う。恋愛は、先に好きになった方が負け。我慢してヨシオを応援するしかない。
「……わかった。じゃ、ショッピングにも付き合ってよ。冬物のコートで欲しいのがあるんだ。久しぶりに、ふたりで飲みにも行きたいし」
 服なんて、本当はひとりで選べる。飲みに行くのだって、友人達とワイワイ飲むのももちろん楽しい。純粋にお酒が飲みたい時に、ブラッとひとりで入れる行き着けのお店だってちゃんとある。でも私はヨシオと行きたいんだ。ヨシオとふたりで、楽しい時間を共有したいんだ。
「うん。一緒に行こう。約束する」
 ヨシオは私の目をまっすぐに見つめてそう言うと、再びお菓子作りに没頭した。焼き上がったパイ生地を型の大きさに合わせてカットし、これを底の抜ける抜き型に入れ、ガナッシュクリームを絞る。そして上から粉砂糖を振り、瑞々しく輝く真っ赤ないちごを、ひとつずつ丁寧に並べた。
 その作業を見て、初めてヨシオが作ったケーキを食べた時の下半身が痺れるような甘酸っぱい気持ちが甦った。「お菓子を作る」と言うのは、なんて狂おしい程に官能的な作業なんだろう。私の体はヨシオのその姿を見るたびに、恥ずかしいくらいに翻弄される。ヨシオが行う作業のひとつひとつが、私の中の官能を呼び起こす為の儀式のようにさえ思える。
「何か、飲み物とか買って来ようか?お腹すいてない?」
 このままではまたひとりで悶々としてしまいそうだったので、気分転換に近所のコンビニに買い物に行く事にした。
「そう言えばちょっと腹減ったな。何でもいいから適当に買って来て。でもニンニクのは駄目だよ、味がわからなくなる」
「オッケー。じゃ、行って来るね」
 私はすれ違いざまに、ヨシオの首筋にそっとキスをした。ヨシオはビックリして「ひゃあ!」と間抜けな声を上げたので、私は笑いながら広い背中をそっと抱きしめた。
「帰って来たら、出来上がったミルフィーユ一緒に食べるからね。取っておいてよ」
「はいはい。気合い入れて味見していただきますよ。いってらっしゃい」
 ヨシオはチラリと私の方を見ると、指先を軽くピラピラさせて私を見送った。
 コンビニに向かう途中、何気なく髪をかきあげた瞬間にふわりと甘いチョコレートの香りが私の手から薫った。ふいに目眩のようなせつなさに襲われてたまらなくなり、私は自分の中指を口に入れヨシオを愛する時のように音をたててしゃぶった。

 お菓子コンクールで、ヨシオの「ミルフィーユ・ルージュ・エ・ノワール」は三位に入賞した。輝かしい成績に、私も店のスタッフも大喜びでヨシオを出迎えた。でも小さなトロフィーと賞状を持って帰って来たヨシオの表情は、優勝できなかった悔しさと無念さがにじみ出ていて、私の心をつんとせつなくさせた。
「おめでとう、ヨシオ!三位入賞なんてすごいよ。頑張った甲斐があったよね」
「ありがとう。でも優勝出来なかった。あんなに応援してくれた店の皆にも申し訳無いよ」
「そんな……」
 ヨシオが優勝を目指して精一杯の努力を惜しまなかった事は、私が一番よく知ってる。だからヨシオが優勝を逃して落胆する気持ちが、痛い程によくわかる。
「でも、お店のみんなもすごく喜んでくれてたじゃない。気にする事ないって!ヨシオはもっと堂々と喜びを噛み締めていいんだよ」
「うん……ありがとう、マリコ」
 ヨシオはそう言って、唇の端を少し上げて笑った。でも目はちっとも笑ってなんかいなかった。無理して笑顔を作ろうとするヨシオの優しさが痛々しくて、私は涙がこぼれそうになるのを、必死で我慢した。
「また来年があるよ。ね。また頑張ろう」
 私は両手でヨシオの手を取ってぎゅっと握った。ヨシオは黙って握りしめられた自分の手をじっと見つめたまま、動かなかった。
 それからしばらく経っても、ヨシオはなかなか元気にならなかった。お菓子作りに賭ける情熱は相変わらずだったけれど、どこか「心、ここにあらず」と言った感じで気持ちがふわふわと浮いてしまっているようだった。
「ヨシオ、最近なんか変じゃない?どうしたの。何かあったの」
 私は気になって、何度もヨシオに訊いた。
「え?なんでもないよ。大丈夫。マリコの考え過ぎだよ」
 でもヨシオからは私の質問を適当にはぐらかすような答えが返って来るばかりで、何とも心許ない。一緒にいても、ヨシオの瞳は私を通り越して何か遠くのものを見つめているようで、ひとりでいる時よりももっともっと私を心細くさせた。
 エッチの時もお互いの肌の微妙な温度差がせつなくて、前のように自分がわからなくなるくらい燃える事が出来ない。いつもと変わらないヨシオのキスの優しさだけが私にひとときの安心を与え、そして同時に不安にさせた。

「フランスに留学したいんだ。本場で修行を積んで、自分の力がどのくらい通用するのか試してみたいんだよ」
 定休日、久しぶりのデートで来ていたイタリア料理の店で、いきなりヨシオにそう告げられた。私は、赤いワインの入ったグラスを右手に持ったまま固まってしまった。あまりにも驚き過ぎて言葉もない。呆然とする私に追い討ちをかけるように、ヨシオはさらに言葉を続ける。
「この間のコンクールで優勝できなかっただろ?あれで自分なりに、いろいろ考えてみたんだよ。何がいけなかったんだろう?足りないものは何なんだろう?って」
 店員がふたりの間を割って、パスタを運んで来た。ペンネのゴルゴンゾーラソースは、ヨシオの大好物だ。店員が静かに去ると私はハッと我に返って、ヨシオの顔をまじまじと見た。いつも真面目なヨシオだけど、今日はいつもにも増して真剣な目をしている。
「そんな、いきなりフランスだなんて。修行って何年くらいなの」
「そうだな、二年か三年くらいかな」
「もう決めたの」
「うん……向こうに店の先輩の知り合いがいて、住む家の事とか面倒を見てもらえる事になったんだ」
 ショックだった。
 ヨシオがそこまで考えていたなんて。私を置いて、遠いフランスに旅立つ事まで心に決めていたなんて。「お菓子と私とどっちが大切なの」なんて陳腐な台詞を堂々と吐ける程、私は世間知らずでも可愛い女でもない。
 私の仕事も、あの株の暴落の件以来うまく行かず、上司とも小さな衝突を繰り返していた。「何とかしなくては」という気持ちが、私のあせる気持ちにさらに拍車をかけていた。
 隣のテーブルに座っているカップルの楽しそうな笑い声が、ささくれだった私の神経をぞわぞわと逆撫でする。ヨシオは黙ったまま、ワイングラスの中のせつなくなるような赤い色を見つめていた。
「……じゃない」
「え」
「行けばいいじゃない?やっぱり本場で勉強するのって魅力的よね」
 私はやっとの思いでそれだけ口にすると運ばれて来たペンネとパンをほおばり、グラスに残ったワインで一気に胃に流し込んだ。
「おい、マリコ。そんな飲み方して大丈夫か?」
 ヨシオが心配そうに私の顔を覗き込む。何故かエッフェル塔とフランス国旗が頭の中でグルグル回っている。
「俺、マリコに応援して欲しいんだ。でも、自分勝手な事情でフランスに行くのに、待っててくれなんて言っていいのかどうかわからない……」
 素直に「待ってて欲しい」と言われない事に、腹が立った。「待ってて欲しい」と言われたら、それ以上に腹が立つだろうとも思った。会えなくなるのは何よりも辛い。待っていたい。でもいつ戻るのかわからないヨシオを黙って待ち続ける確固たる自信も無い。そんな従順な女じゃない。
 私の気持ちは酔いと重なって、遊園地にあるパイレーツのように大きくぐらんぐらん揺れた。ヨシオが私の事を嫌いになった訳では無い事はよくわかっている。「待ってて」とハッキリ口に出来ないところが、ヨシオの優しさである事も。
「ごめん、ちょっと気分悪い。今日はもう帰る」
 私はぶっきらぼうにそう言うと、バッグを手に持ち席を立った。
「……怒った?」
 ヨシオが少し哀しそうな瞳で私を見上げる。ああ、ずるい。そんな憂いを含んだ瞳で見つめるなんてずるい。本当は怒ってる。すごく怒ってるのに、そんな目でみつめられたら何も言えなくなってしまう。
 私は黙ってヨシオの前に千円札を一枚置くと、そのままきびすを返して店の出口に向かった。紳士的な店員の声に見送られ、ひとり歩き出す。店の外は思いのほか風が強く吹いていて、少し肌寒かった。
 私は肩をすくめながら駅までの道をとぼとぼと歩いた。すれ違うカップルが皆、とても幸せそうに見えて涙が滲みそうになる。ヨシオと付き合うようになって、あまり外でデートする機会も無かったけど、私だって幸せだったんだ。ヨシオがそばにいてくれれば、それだけで良かったんだ。それなのにヨシオはフランスに行ってしまう……私は一体、どうしたらいい?
 少し期待して何度か後ろを振り向いてみたけれど、夜の街にヨシオの姿はどこにも無かった。

 出発は来月の五日に決まった、とゆうべヨシオから久しぶりに連絡があった。五日と言う事は、あと十日余りしかない。あのイタリア料理店での一件以来、私達はお互いによそよそしくなってしまい、まともな会話を一切していなかった。
 私も、あんなにしょっちゅう通っていた『パティシェ・ヴェール』にはほとんど顔を出さなくなり、お陰で一キロ痩せた。ヨシオはどうしているだろう。気にはなっていたけれど、どんな顔をしてヨシオに会えばいいのかわからない。ヨシオの姿を見たら、必死に押し殺している愚痴と涙が一気に溢れ出してしまいそうで怖かった。
 実を言うと、私は仕事の帰りにこっそり店の前まで来てしまう事が何度かあった。でもヨシオに会う勇気が湧かないまま、植え込みの蔭からこっそり店の中の様子を覗き見してそのまま帰る、という情けない有り様だったのだ。  そして私は今日もまた『パティシェ・ヴェール』に来てしまった。
 再び植え込みの蔭に隠れて、店の中の様子をそっと伺う。我ながらものすごく怪しい。ケーキが並んでいるガラスケースの後ろに、コックコートに白いコック帽をかぶったヨシオの姿がチラリと見えた。私はそれだけで胸が一杯になってしまい、自然に目が潤んで来るのを止められなかった。
「あれぇ、真理子ちゃんじゃない。こんな所で何やってんの」
 背後からいきなり声を掛けられて、驚きの余り全身が粟立った。あわてて振り向くとそこには、店でのヨシオの先輩の堀川さんが、不思議そうな顔をして立っていた。
「あの……いえ……その……」
 しどろもどろになっている私を見て堀川さんは、何かを悟ったような表情を浮かべて心配そうに訊ねてきた。
「もしかして芳雄に会い来たのかな?実はフランス行きの事で真理子ちゃんにもちゃんと話さなくっちゃ、って僕もすごく気になってたんだよ」
 堀川さんは、ヨシオにフランス行きを強く勧めた張本人だ。
「芳雄の奴、本当はすごく迷ってたんだよ。今だってまだ迷ってる。真理子ちゃんの事が気になるんだろうな。傍目で見てもハッキリわかるよ」
 私は何と答えていいのかわからなくて、ただ黙ってうつむいて少し剥がれかかったパンプスの先を見つめていた。
「実はね、昨日いきなり“やっぱりフランス行きはあきらめようかな”って。お互いに納得しないまま、離ればなれになるのは怖いって」
「ヨシオがそう言ったんですか?」
 驚いた私の問いかけに、堀川さんは黙って頷いた。
「まだ真理子ちゃん達が付き合い始める前、芳雄が閉店の準備をしていたら泣き顔の真理子ちゃんがケーキを買いに来てくれた事があったんだって?」
「あの時は……仕事のトラブル続きで気持ちが参ってて、つい」
「あれね、すごく嬉しかったって。芳雄の作ったケーキをひとくち食べて満足そうに笑った真理子ちゃんを見て、パティシェになって本当に良かったって、あの時初めて思ったらしいよ」
 ヨシオがそんな風に思ってくれていたなんて、全然知らなかった。私は喉の奥が苦しくなって、ただ黙って店のガラス戸を見つめていた。焦点を結ばない視界の片隅で、ヨシオがかいがいしく動き回る姿が見えたような気がした。
「俺がこんな事言うのも何だけど……行かせてやって欲しいんだ、芳雄の事」
 堀川さんは申し訳無さそうに切り出すと、私の目を見据えてそう言った。  その時、店から可愛らしい女の子を連れた親子が出て来た。その少女の手には大きなリボンをかけられたケーキの箱が、大事そうに抱えられている。親子連れの様子から、それが少女のバースディ・ケーキである事がわかった。会話の途中、少女は少しふくれて唇を尖らせたり、またすぐにこぼれるような笑顔に戻って愛おしそうにケーキの箱を優しくなでたり、軽く振ってみたりしている。その微笑ましい様子に、私もつられて思わず笑顔になった。
 私は子供の頃に買ってもらったケーキの事を思い出した。誕生日に買ってもらったケーキにはいつも「まりこちゃん、おめでとう」とクリームで書かれたチョコレートが乗っていた。真っ白いふわふわの生クリームと真っ赤ないちご達。まあるいケーキを前にして私はいつも少しだけ照れ臭く、そして晴れやかな気持ちになった。
 クリスマスケーキ。ある年はバタークリームだったり、またある年は生クリームの上に可愛いサンタがちょこんと乗っていたり、チョコクリームがたっぷりのほろ苦いブッシュ・ド・ノエルだったり。
 忘れかけていたやさしい気持ちをゆっくりと思い出しながら、私はケーキを抱えた親子連れを黙って見送った。
「堀川さん……。私、ヨシオに連絡とってみます。ちゃんと頑張って、って送り出せるように」
 穏やかな沈黙を破り私がそう告げると、その瞬間、安堵の空気が堀川さんと私の上に舞い降りた。そして、せき止められて淀んだ水が一気に流れ出したように私の胸の中に爽やかな風が吹いた。
「そうか……そうしてやってくれるか。ありがとう、真理子ちゃん」
 私は黙って頷くと、もう一度店を覗いてきびすを返した。帰ったら、ヨシオに電話をしよう。そしてもう一度私の気持ちをハッキリと明確にヨシオに伝えるんだ。そしたらきっとまた、お互いの道を自信を持って歩き出せるはずだから。
 何気なく後ろを振り向くと、堀川さんが店の前に立って小さく手を振って私を見送ってくれていた。すぐに私も振り返す。少し冷たい夜の風に乗って、甘い香りがふんわりと私の背中を優しく押した。

 ヨシオがフランスに旅立つ日まであと三日と迫った今日、私とヨシオは二人だけで壮行会を開く事になっていた。ふたりの仲がギクシャクしたまま離ればなれになってしまうのは絶対に避けたいと思い、私からヨシオに電話をして決めた事だった。
 実は今日は、ヨシオには内緒である計画があった。渡仏の為の準備と称して休みをとっているヨシオは、今頃「私のために」とお願いしたデザート作りにせっせと励んでいる事だろう。考えただけで、私の胸は高鳴った。
 仕事を定時の五時に早々と終わらせた私は、途中、デパ地下でたくさんの料理を買ってヨシオの部屋へ向かう。荷物は重たいけど、その足取りは軽く、思わず鼻歌まで飛び出してしまう程だった。
 ヨシオの部屋のドアの前に立ち、軽くノックをする。こうしていても少し開いた窓の隙間から甘い匂いが溢れて来て、私の食欲を刺激する。やがてドアが開いてヨシオが出迎えてくれた。私は我慢できずに、ドアを閉めるのも忘れてヨシオに抱き着いた。懐かしいヨシオの匂い。私はそのまま首筋に腕を回し、ヨシオの顔にキスの雨を降らせた。
「デザート、頼んでおいたの作っておいてくれた?」
 今すぐ、ヨシオと倒れ込みたい気持ちは山々だったけれど、私はグッと堪えてヨシオから離れた。荷造りも殆ど終わってがらんとした部屋の中で、キッチンだけはまだそのままの雑然とした様子を留めている。
「作ったよ。ほら。洋なしの赤ワイン煮、クレームダンジェ、バナナのムース。マリコの一番好きなタルト・オ・フランボワーズも作ったよ」
 ヨシオは少し得意げな顔をして、テーブルの上を指差した。そこには色よりどりのデザート達が行儀良く並んでいて、私は宝を探し当てた冒険者のようにワクワクした。
「うわ、すごい!ありがとうヨシオ」
「満足してくれた?マリコの為に頑張ったんだよ。さ、それじゃさっそくパーティーを始めようか」
「んー。でも、ちょっと待って」
 私はヨシオの唇を人さし指で軽く制すると、その顔を両手で包み込むようにして言った。
「今日は私を飾って欲しいの。ヨシオの作ったデザートやクリームで、綺麗に飾られて見送りたいのよ」
「え?」
 ヨシオはキョトンとして表情で私を見ている。意味がわかってないんだろうか。
「つまり私を飾って、ケーキにして欲しいの」
「え……そ、それって」
 私の言葉を聞いたヨシオが、目を大きく見開いてぽっと頬を赤らめた。どうやら意味が理解できたみたいだ。
「一流のパティシェを目指してフランスに旅立つヨシオを見送るのに、最高のセレモニーだと思わない?」
 私はそう言うと、ヨシオの顔を見ながら悪戯っぽく笑った。突拍子も無いその提案に、始めは驚いた顔をしていたヨシオもやがて共犯者の笑顔になった。
「いいね、最高。じゃ“マリコ・ア・ラ・モード”ってのはどう?」
「マリコ・ア・ラ・モード……いいそれ!さすが天才パティシェの卵」
 そして私達は抱き合ってひとしきり笑い転げた後、お互いに吸い寄せられるように唇を重ねた。すれ違っていた時間を埋める為に、私達は柔らかな舌を存分に味わい尽くした。

 シャワーを浴びてキッチンに戻って来ると、そこにはすでに儀式の為の準備がされていた。床には白いシーツが敷かれ、その隣には主役を飾り立てる為の素敵な小道具が出番をじっと待っている。
「お待たせ。始めようか」
 コックコートに着替えたヨシオがお揃いのコック帽をかぶって一礼した。その姿は、パティシェとしての誇りに溢れ、輝いて見えた。
「ここに横になって」
 ヨシオに促されて、私は素直にシーツの上に横たわった。ひんやりと固い床の感触が、シーツ越しに背中に伝わって来る。でも私はそんな冷たさも気にならない程、これから行われる未知の行為にすっかり興奮していた。
 ヨシオはハケを手に持つと、シロップとキルシュを混ぜたものを私の全身にペタペタと塗り始めた。こそばゆいハケの感触と冷たいシロップの感触が、私の体をぞわりと粟立たせる。乳首のまわりにハケを丁寧に這わされると、思わず堪えていたため息が漏れてしまう。すぐに私の体は反応し、足の間に隠された秘密の無花果からも温かなシロップが溢れ始めた。
「どうしたの。もう感じちゃった?」
 嬉しそうにヨシオが訊く。私の体の感じるとこ、全部知り尽くしてるくせに。全身にシロップを塗りたくった後、ヨシオが作っておいたデザートを体の上にバランス良く配置していく。仰向けに寝ているので、おっぱいは横に流れてしまい代わりに中央に平地が生まれた。
 身体の中心には、メインのタルト・オ・フランボワーズを置いてもらう。そしてそれを囲むように洋なしのワイン煮、その外側にはクレームダンジェを。余った場所には全体のバランスを考えながら、バナナのムースを置いた。きっと今、私の身体の上には鮮やかなケーキ達が、大輪の花を咲かせているのだろう。
 これでもう、すっかり身動きがとれなくなってしまった。そう思うと何故か背徳的な悦びが、体の奥底からゆっくりと這い上がって来る。私は何度となく腹筋を使って頭を持ち上げて自分の体をまじまじと確認した。
 さらにヨシオは、カットしたフルーツをケーキを大輪の花を囲む小花のように並べて行き、生クリームを絞った。
「おっぱいは、どうやって飾ろうか」
 乳首は全身性感帯の私の体の中でも特に、感じやすいところだ。そこを、ヨシオはどんな風に飾って愛おしんでくれるんだろう。期待と興奮で胸の鼓動が高鳴って行くのがわかる。
「あ、そうだ。このままちょっと待ってて」
 そう言うとヨシオはキッチンに戻り、何か作業を始めた。首の自由があまり効かないので、一体何をしているのか、とても気になる。
「お待たせ」
 少しして、ヨシオが金属のボウルを手に持って戻って来た。中を覗き込んでみると、どうやら湯せんにかけて溶かしたチョコレートのようだ。
「これ、チョコレート?」
「そうだよ。製菓用のスウィートチョコレート。お味見してみる?」
 不自由な体勢のままコクリと頷くと、ヨシオはティースプーンで軽くチョコレートをすくって私の口元まで運んでくれた。カカオの芳醇な香ばしさが口の中一杯に広がる。その背中がぞくぞくするような甘さは、私をさらに恍惚の世界へと導いてくれる媚薬のように思えた。
 ヨシオは溶けてなめらかになったチョコレートをくるくるとかき回しスプーンですくうと、おもむろに私の乳首ににとろりとかけた。
 温かな感触が、湖面に投げられた石のように円を描きながらゆっくりと全身に広がっていく。ヨシオは何度かその動作を繰り返しながら、そのたびにチョコレートが流れてしまわないようにフーフーと唇をすぼめて風を送った。チョコレートが冷えて固まると、ほどよい強さで私の乳首を拘束した。
 やがて、チョコレートで出来た可愛らしいふたつのドームが完成するとヨシオは「さ、仕上げだよ」と言って私の全身に溶けたチョコレートを糸のように走らせたり、時折雨粒のようにポタポタとたらしたりした。それはまるで料理と言うより絵画を描いているようだった。
 そして仕上げにまんべんなく粉砂糖をふり、ミントの葉をお洒落に飾って『マリコ・ア・ラ・モード』は完成した。
 ヨシオは飾り立てられて甘い香りを放つ私の体をじっと見つめている。私はその視線を受け止めながら、ただ黙って眠り姫のように横たわっていた。
「乾杯しようか」
 美しく飾られた私の姿を満足そうに眺めた後、ヨシオがキッチンの冷蔵庫からよく冷えたワインを持って私の元に戻って来た。
「これ、堀川さんに餞別にいただいたんだ。フランスのソーテルヌ産の白でシャトー・ディケムってワインだよ。フルーツタルトなんかによく合うんだって」
「美味しそうね。私にもちょうだい」
 ワインに詳しい堀川さんからの受け売りを口にしながら、よく冷えたワイングラスに中身を注ぐ。ワインは柔らかな薄いイエローで、蜂蜜と杏の甘い匂いがした。
「綺麗な色だね。なんか、すごい高いワインらしいんだけど」
 ヨシオはワイングラスを手に持ち「乾杯」とグラスを高く掲げた後、ひとくちだけ自分の口に含んでそのまま唇を私の唇に重ねた。その瞬間、口の中に冷たくて華やかな甘さが広がった。私は舌を駆使してゆっくりとそれを味わい、堪能した。甘いけれど、後味はとてもスッキリしている。極上の味わいだった。  私がワインを飲み込んだのを確認すると、今度は温かなヨシオの舌が私の中に入って来た。しばらく舌を絡め合った後、ヨシオは私から唇を離し、再びワインを自分の口に含んで私に口移しで飲ませた。
 口移しのワインリレーを繰り返すうちに、私も少し酔って来たみたいだ。頭がとろけそうになっているのに、全身の感覚が研ぎすまされてより敏感になっているような気がした。
「マリコ。両足をピッタリ閉じて、少しの間じっとしていて」
「な、何をするの?」
 ヨシオの言葉に、私はまた少し緊張した。
「大丈夫。いいから俺の言う通りにして……」
 私は黙って、ヨシオの言う通りにした。ヨシオはワインのボトルを手に持つと、よく冷やされた中身を私の体の中心にある三角州の部分に注ぎ入れた。
「冷たい……!」
 蜂蜜と杏の甘く爽やかな香りが、横になっている私の鼻先にまで届いた。冷たいワインが私の一番敏感な部分にまで入り込みそうで、私は両足をふんばって器としての体勢を保とうとした。
 その時、ヨシオがいきなり私の器になっている部分に顔を埋め「美味しい」と何度も囁きながら、音をたててワインを飲み干した。そしてそのまま器だった部分にも残ったワインを舐め取るように丁寧に舌を這わせて行き、私の体の上に美しく飾られたスイーツを口にした。
「私も食べたい」
「じゃ、口に入れてあげるから、アーンして」
 言われた通り口を開けると、ヨシオは生クリームを指ですくい取って私の口まで運んでくれた。
「美味しい!もっとちょうだい」
 私はエサを待つツバメの子のように、大きな口を開けて次から次へと催促した。ヨシオはそれらを手掴かみのまま食べ、私にも食べさせる。二人で、体や床が汚れる事などお構いなしに飽きるまで食べ続けた。たまらない快感だった。それは叱られるとわかっていても、子供の頃からずっと密かに心の奥底で憧れていた行為だったからなのかもしれない。
 ヨシオがふざけて私の顔にクリームをひげのように塗りたくって笑う。仕返しに、と私もヨシオの顔に体温で溶けてドロドロになったチョコレートを擦り付ける。いつの間にか着ていた服を脱ぎ捨てて全裸になったヨシオが、私の体の上に覆いかぶさり全身で、自分で作り上げたデザートを味わっていた。
「喉が乾いちゃった。ワインまだある?」
 私が催促すると、ヨシオは再びワインを口に含み私に口移しで飲ませた。そして残ったワインを私の体の上に雨のように降らせ、それを全て舌で舐め取っていった。
 ワインの香りとアルコールで、すでに私はかなり酔っていた。ヨシオの顔も少し赤い。ヨシオはチョコレートのドームから出現した私の乳首をしばらく舌でいたぶった後、甘い蜜でぐっしょりと濡れた無花果に顔を埋めた。ヨシオの熱い舌が、一番敏感な突起を捕らえて執拗に責めまくる。頭の中が真っ白になって私は悲鳴に近い声をあげた。今までのどんなセックスよりも強烈な快感に、私は泣いていた。
 体勢を変えて、ヨシオが私の中に入って来た。体の内側の粘膜を擦られるたびに声にならない嗚咽が漏れる。アルコールを含んだふたりの吐息と、体じゅうに塗りたくられたクリームやチョコの甘い香りが部屋中に充満して気が変になりそうだった。
 口に出せないたくさんの想いが、頭の中をものすごいスピードで駆け巡る。ヨシオが暴れ昂っていく官能の中で、私達は何度も何度もお互いの名前を呼び合った。知らず知らずのうちに、内ももに力が入る。ヨシオの動きが速くなり、もうすぐ絶頂を迎える事を物語っている。やがて私の中で、ヨシオがひときわ大きく膨らんだ。
(あ、もうすぐ……飛ぶ……飛んじゃう)
 そう思うと同時に私の意識は一気に高所に駆け上がり、そして大きくはばたいた。私はその時、私を取り巻く全ての事から解放されて大空を翔んでいた。それはこれまで感じた事の無い、満ち足りた幸福感を私にもたらした。
 やがて潮が引くように意識が現実の体の中に戻って来ると、私の体の上にはやはり自分を解き放って静かな満足感の中に身をゆだねるヨシオの姿があった。
「ヨシオ……すごく良かった……」
「俺もだよ……ありがとう、マリコ。じゃ、さっそく今日の分の反省会を始めようか」
「えー!」
 私達はクリームで出来た迷彩模様を肌に貼り付けたまま、抱き合って笑った。

 降り続いた雨が止んだ穏やかな朝、当初の予定通りヨシオはひとりフランスへと旅立って行った。
 私の仕事もとりあえず一段落着き、それなりに責任のある仕事を任されるようにもなった。ヨシオからはたまにメールが届く。フランスでの生活にやっと慣れ、それなりに頑張っているようで安心した。
 たまに『パティシェ・ヴェール』に寄って、買い物がてら皆にヨシオの近況を報告をする事もある。今日も仕事の帰りに店に立ち寄って、大好きなタルト・オ・フランボワーズを買って来た。家に帰ると、さっそく熱いダージリンをいれてケーキの箱を開ける。これが私の至福の時間。赤く煌めく木苺の実を見たらヨシオの匂いを思い出して、心の中にさざ波が立った。
 私はタルトの上に飾られた鮮やかな木苺をひとつ摘むと、そっとキスをしてそのまま口の中に放り込んだ。その瞬間、甘酸っぱい木苺の香りがぱあっと広がって、感情のひだを甘噛みされたような感覚にそっと目を閉じた。



この作品は作者の許諾を得て掲載されています。


QBOOKS
◆QBOOKSに掲載の記事・写真・作品・画像等の無断転載を禁止します。
◆作品の著作権は各作者に帰属します。掲載記事に関する編集編纂はQBOOKSのQ書房が優先します。
◆リンク類は編集上予告なくはずす場合がありますのでご了承ください。